ホスピスナースは今日も行く 2017年02月
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ホスピスナースは今日も行く
アメリカ在住日本人ナースが、ホスピスで出会った普通の人々の素敵な人生をおすそわけします。
16日2時間10分の奇跡 (2)
 結局その晩、枕の隣でスタンバイしていた携帯電話は鳴ることなく、翌朝はキャロルとソーシャルワーカーのキンバリーと私の3人で、朝一番に訪問しました。一晩中エミリーを抱いていたジョッシュは、ソファーでぐったりしていましたが、交代で休んだアシュリーは元気で、エミリーも昨日と変わりない様子でした。砂糖水もよく飲み、心雑音もありませんでした。オムツも何度か取り替え、呼吸も落ち着いていました。そして、連日の訪問者に大興奮のライリーは、朝ごはんもそこそこに、私たちと一緒に遊ぶ気満々でした。そこで、私は小児の訪問には欠かせない、いつもの黄色いバッグから折り紙ケースを取り出すと、ライリーの目は釘付けになりました。キャロルがエミリーのアセスメントをし、キンバリーがアシュリーと話をしている間、私はライリーの選んだピンクと紫の折り紙で、定番の鶴とあやめを折りました。ライリーは小さな声で「うわあ」と言いながら、鶴をつまみ、アシュリーに抱かれているエミリーの所まで飛んでいきました。そして、アシュリーとエミリーのほっぺたにそれぞれくちばしでキスをしました。それから、そうっとあやめを持つと自分の鼻の前に持っていき、匂いをかぎました。そして、「あーいいにおい」と言ってから、「はい、マミー。アイラブユー!」とアシュリーに渡したのです。アシュリーは片方の手でライリーを抱きしめると、「本当にいい匂い。ありがとうハニー」と言ってキスをしました。ライリーはにっこり笑い、アシュリーとエミリーにキスしてから、私に「今度はベイビーエミリーのお花を作って」とリクエストしました。
 エミリーは翌日も、その翌日も、穏やかに呼吸していました。肌の色は灰色がかってはいましたが、砂糖水では物足りなく、少しですが注射器から母乳も飲むようになりました。アシュリーとジョッシュは、CHOPの医師たちから、エミリーの動脈管が閉鎖されると心雑音が聞かれ始め、そうなると間もなくチアノーゼや呼吸困難が出現するので、それらの症状をモルヒネとロラゼパムで緩和する、と説明されていました。そして、おそらくそれは生後24時間から48時間以内に起こるでしょうと言われ、アシュリー達はその覚悟で家に帰ってきたのです。5日目、ジョッシュは矢も盾もたまらなくなり、セカンドオピニオンを聞くため、隣のデラウェア州にある有名な小児病院に電話をしました。もしかしたら、と言う、一縷の望みに賭けたのです。しかし、彼が聞かされたのは、CHOPの診断はほぼ100%間違いなく、その分野では世界でもトップレベルであるCHOPが判断したのならば、残念ながらホスピスケアが最も良い選択だろう、と言うものでした。
 アシュリーは、ジョッシュが不安と疑念とかすかな期待に気持ちを乱されていても、驚くほどの落ち着きで彼を見守っていました。そして、彼女が信じていた通り、ジョッシュは、何度も聞かされた結論に再び覚悟を決めて向き合ったのです。私達が言うまでもなく、この二人は4人家族でいられる全ての瞬間に感謝し、愛しみ、思い出を育もうとしていました。
 キャロルは毎日訪問していましたが、私はキャロルが休みの日と、彼女に一緒に来てと頼まれた時に訪問しました。つまり、エミリーの状態は、それほど安定していたのです。一旦見られた栄養不良状態の時に出る便も、ミルクを飲むようになって普通に戻っていました。それでも、いつ動脈管が閉じるかは誰にも予測がつかず、毎日が薄氷を踏むような、緊張と祈りと喜びの入り混じった日々でした。7日目、アシュリー達はかわいいケーキでエミリーの一週間バースデーのお祝いをしました。そして、その翌日、今度はライリーの3歳のお誕生日を祝ったのです。当たり前のように子供の誕生日を祝える事の幸運と喜びを、アシュリーとジョッシュは痛いほどかみしめていました。ライリーの誕生日には、4人姉妹のアシュリーのすぐ上のお姉さんが子供達と一緒にお祝いに来ました。このお姉さんは、エミリーが生まれる2週間ほど前に第三子を産んだばかりで、アシュリーたちに気を遣い、なかなか会いに来れなかったのです。本当なら二重の喜びになるはずだったのに。そんな運命の悪戯に、アシュリー達の家族はこの2ヶ月間、苦しんできたのでした。それでも、アシュリーとジョッシュは、お姉さんたちにエミリーに会ってもらい、エミリーとの思い出を作ってもらいたいと思ったのです。エミリーがここにいたと言う事を、出来るだけ多くの人に憶えていて欲しかったし、エミリーにも、たくさんの人に愛された事を感じてほしかった。どんなに短い一生でも、親として与えられるものはできる限り与えたかったのです。
 両親の愛情に包まれ、エミリーもまた、少しでも長く、少しでも多く、彼女を抱く喜びを二人に捧げようとしていました。しかし、10日目を過ぎた頃から、ミルクを飲む量が少しずつ減っていきました。そして、14日目、キャロルから「一緒に来て」と言うメールが来たのです。
 エミリーはすやすやと眠っていましたが、灰色がかったその顔は少し小さくなったようでした。心雑音は聞こえませんでしたが、アシュリーはミルクを飲む量が目に見えて減ったこと、昨夜激しく泣いて、いつものようにあやしても泣き止まず、初めてモルヒネを使ったことなどを報告し、それから、これはどう意味なのかと訊ねました。キャロルと私は、アシュリー達がすでにわかっている事をあえて言葉にしました。2週間前に何度も話したことが、今度こそ起こり始めているのだと。アシュリーもジョッシュも静かに頷くと、こう言いました。「そうだと思ったよ。とにかく、エミリーが苦しみさえしなければ、それでいい。俺達の望みは、それだけだから。」
 翌日、エミリーはミルクを飲む事をやめました。ただ、すやすやと眠り、時々小さな口でハッハと呼吸するようになりました。キャロルも私も、ついに心雑音を認め、念のために近所の薬局に液体モルヒネが置いてある事を確認しました。おそらく充分な量は確保してあると思ったのですが、万が一に備えておきたかったのです。その日は2月だと言うのに上着が要らないほどの陽気で、まるで春のような暖かさでした。ジョッシュはエミリーを抱いてポーチに出ると、太陽の光をいっぱいに浴びさせてあげました。何も知らないライリーは、キャロルと私とかくれんぼやおままごとをしたり、赤ちゃんの世話をするゲームをやって見せてくれました。そこには笑顔があり、安らぎがあり、幸せがありました。そしてそんな暖かさは神様の気まぐれであるかのように、天気予報では、翌日来る吹雪に向けて注意するようまくし立てていたのです。 16日2時間10分の奇跡(3)に続く。
 
 
[2017/02/20 23:03] | 忘れられない人々 | トラックバック(0) | コメント(0)
16日2時間10分の奇跡 (1)
 私達がCHOP(フィラデルフィア小児病院)から依頼を受けた時、その子の名前の欄にはただ、Baby Girlと書いてありました。生後24時間も経っておらず、システムの中に彼女の名前はまだ登録されていなかったのです。それでも、生まれる前から彼女がホスピスケアを受ける事はほぼ決まっており、その子の両親の望みは、一日でもいいから彼女を自宅につれて帰ることでした。
 エミリー(仮)と名付けられたその子は、Hypoplastic Left Heart Syndrome :HLHS(左心低形成症候群)と言って、心臓の左半分の発育が極端に未発達な先天性疾患に加え、肺リンパ管拡張症やターナー症候群、その他いくつかの合併症もあり、お母さんのお腹にいる時から手術は不可能、あるいは危険が高すぎると診断されていました。20代半ばの両親にとって、エミリーは二人目の赤ちゃんで、長女のライリーはもうすぐ3歳になるところでした。妊娠7ヶ月(日本での8ヶ月)の時にエミリーがHLHSであり、根治治療は無理だと言われてから、お母さんのアシュリーとお父さんのジョッシュは何度もCHOPの専門医達や、パリアティブケアチームと話し合い、紆余曲折しながらも、エミリーが無事生まれたら、あとはただ、苦しまずに命を全うさせてあげたいと言う結論にたどり着いたのです。
 アシュリーは自然分娩を望み、ハイリスク分娩チームのサポートによって、午後6時1分、エミリーは無事に生まれました。1800gのエミリーは、手足や口の周りに若干のチアノーゼがありましたが、それ以外は健康な赤ちゃんと殆ど変わりませんでした。そして、エミリーは周りの予想を裏切って、その晩を乗り越えました。呼吸も安定し、心雑音もありませんでした。エミリーが思ったよりも状態が良い為、翌日、両親はもう一度循環器専門医と話をしました。もしかしたら、生まれる前の診断よりも軽度かもしれないと思ったのです。しかし、残念ながら答えは同じでした。そこで両親はパリアティブケアチームと相談し、ホスピスケアを受ける為、その日の午後、自宅に帰ることにしたのです。こうして、前日からスタンバイしていた私達は、CHOPのパリアティブケアチームから決定依頼の連絡を受けたのでした。
 患児が新生児と言うことで、小児ナースのキャロルがこのケースを受け持つことになりましたが、同時に余命が数時間かもしれない為、私がサブとして、一緒に初回訪問を行うことになりました。キャロルがアシュリーと連絡を取り、CHOPを出る時点で電話かメールが来る予定でした。私達は午後2-3時頃になりそうだと聞いていたのですが、4時を過ぎても連絡が入らず、二人で「もしかしたら...」とメールし合っていた矢先、5時を少し過ぎた頃に、アシュリーから“今CHOPを出た”と言う連絡が入りました。ラッシュアワーでもあり、CHOPからは少なくとも1時間半はかかってしまう町にアシュリー達は住んでいたため、私達は7時に訪問する事で合意しました。
 家に着くと、ライリーがおばさん(アシュリーの妹)に連れられてお隣に行くところでした。アシュリーたちはツイン(2軒がくっ付いている家)の片側、もう片側にはアシュリーのお母さんと妹さんが住んでいたのです。ライリーは私達が赤ちゃんに会いに来た事を知ると、私たちの手を引っ張って、お父さんに抱っこされているエミリーの所に連れて行きました。そしてとても嬉しそうに「これがベイビーエミリーよ」と言い、小さな小さなエミリーにキスをしました。それから若いおばさんに促されると、元気よく「バイバーイ」と言って出ていきました。それから、私達は改めてアシュリー、ジョッシュ、それからアシュリーのお母さんに挨拶し、小さなエミリーと対面したのです。
 エミリーはジョッシュの腕の中ですやすや眠っていました。白人の赤ちゃんには珍しく、帽子の下はふさふさとした金髪に包まれ、薄暗い部屋の明かりの中ではわかりにくいほどのレベルでしたが、肌の色はグレーがかったピンク色をしていました。アシュリーが、「はっきり言って、こうして家に帰ってこれるとも思っていなかったから、ベッドも何も用意してないの。とりあえずカーシートのキャリアーはあるんだけど」と言うと、ジョッシュが「ベッドなんていらないよ。俺がずっと抱いているから」と言い、エミリーにキスをしました。
 私達は小児ホスピスについて説明し、どんな状況であれ、両親の望みと決断をサポートすることをはっきりと伝えました。アシュリーもジョッシュも迷いなくホスピスにサインしました。二人はすでに、病院でPOLST:Pennsylvania (Physician/Practitioner) Orders for Life Sustaining Treatment(各州が認めるアドヴァンスディレクティブの正式な書類で、リビングウィルに相当する)のDNRにもサインしていました。二人の覚悟は、2か月間苦しみ悩みぬいた末のものであり、お互いの家族も二人の選択を尊重していました。それから、薬の使い方とホスピスホットラインの確認、キャロルと私の携帯番号、それから、おそらく何度も聞かされたであろうエミリーのこれからの変化とその意味、そしてそれに対する対処の仕方を説明しました。キャロルがエミリーのアセスメントをしている間、私は液体モルヒネと液体ロラぜパムを、針のない注射器に一回分ずつ詰めた物を5本ずつ用意しました。エミリーはミルクを吸うことができず、砂糖水を注射器で少しずつ口に流し、それをなめるようにして飲んでいました。それでも、アシュリーは乳腺炎にならないよう、定期的に搾乳し、念のために冷凍していました。エミリーはちゃんとうんちもおしっこもして、お腹がすけば泣きました。健康な新生児と同じように、その命を保つための自然の摂理にしたがって、その小さな存在を精一杯主張していたのです。
 キャロルと私は、この若い夫婦の落ち着きと勇気に圧倒されていました。15歳のときから知り合っている二人は、それぞれの両親の離婚、再婚、親戚や兄弟姉妹の様々な問題などを、お互いに支えあいながら乗り越えてきました。自然に一緒になり、ライリーが生まれ、共働きで頑張りながら必死で生活してきたのです。二人が友人の家の裏庭と納屋を借りて、手作りの結婚式を挙げたのは、エミリーがHLHSだとわかる数週間前のことでした。
 もう一度ホスピスホットラインと私達の携帯番号を確認し、もしもエミリーが亡くなったら直接私の携帯に連絡するように言って、私達は家を出ました。車に向かいながら、キャロルは私にこう言いました。「みんなね、私が小児ホスピスのケースを看てるって言うと、どうやったらできるの?って、まるで特別な人間みたいに言うじゃない。でも、私にしてみれば、私達がしている事なんて、あの人達が経験している事に比べたら、全然たいしたことじゃない。私達は、ただ、専門知識を使って、お手伝いしてるだけでしょ。本当にすごいのは、あの人たちよ。私があの人達の立場になったら、きっとあんな風に強くはいられない。」私は、思わず立ち止まってキャロルの腕を掴むと、こう言っていました。「そう、そうなの!私もいつもそう思ってた。あの人達には自分と自分達の分身の人生がかかっているけど、私達が向き合っているのは、その人達の人生の、通り道なのよね。そこでプロとして何ができるかって言うのが、私たち自身の課題であって永遠の命題なんだけど、その重さなんて、彼女達が向き合っている事の重さに比べたら、本当にたいしたことじゃないって、心の底から思うもの。でも、もしかしたら、そう思える私達だから、こうして小児ホスピスをやっていられるのかも知れない。」
 私達はうなずき合いながら、なんとなく、エミリーはそんなに簡単には逝かないのではないか、あの両親の間に生まれた小さな命は、もうしばらく輝こうとするのではないか、と、そんな気がしていました。 16日2時間10分の奇跡(2)に続く。
 
[2017/02/10 22:59] | 忘れられない人々 | トラックバック(0) | コメント(2)
小児ホスピス
 私が勤めているホスピスは、教育病院に所属しているため、学生や研修医が実習に来ます。看護学生、医学生、医療助手学生、ソーシャルワーカーやレジデント(前期研修医〉、フェロー(後期研修医)などで、それぞれのプログラムによって期間ややることは違うのですが、私がよく頼まれるのは小児病院からの学生や、研修医のシャドーイングです。主に私たちが小児ホスピスのケース依頼を受けている、フィラデルフィア小児病院(CHOP)と、セントクリストファー小児病院のパリアティブケアチームからで、ホスピスチームで唯一小児を受け持っている私に、直接連絡が来るのです。セントクリスは小児ケースに限定していますが、CHOPは小児に限らず、パリアティブケアとホスピスケア全般を見ることになっています。
 シャドーイングとは、要するに見学で、一日、あるいは必要なケース数や時間数を現場のスタッフについて、その仕事を観察します。実際に患者さんのアセスメントをしたりすることはありませんが、フェローが付いた時などは、ちゃっかり“お医者さんの”意見を聞いたりすることもあります。患者さんや家族も、学生や研修医が訪問に付いて来てもよいかと確認すると、ほとんどの人が歓迎してくれます。普段病院や診療所などの施設でしか患者さんに会ったことのない学生や研修医は、たいてい訪問を体験した後に「目から鱗が落ちたようだ」という感想を聞かせてくれます。そして、まさにそれこそが訪問看護の真骨頂と言うか、病院ではただ“患者”だった人達が、様々な環境の中で“生活する個人”であることを再認識し、それぞれがその生活の中でいろいろな立場を持ち、病院という特殊な環境からかけ離れたところで、病気や症状をコントロールしながら生きていることを目の当たりにするわけです。
 先日もセントクリスからレジデントのシャドーイングを頼まれ、タイミングよく同じ日に3人の小児を訪問することができました。脳腫瘍の12歳の女の子、SCA (Spino Cerebella Ataxia:脊椎小脳失調症)7型の16歳の女の子、そして、ユーイング肉腫の18歳の男の子の3人で、それぞれが全く違った環境で、疾患の進行度も異なり、3人目の訪問を終えた後、そのレジデントは私にこんな質問をしました。「一体、小児ホスピスのルーティンというか、訪問時の流れのようなものはないんですか?」私は笑いながら答えました。「ありません。」
 例えば、最初に訪問した12歳の脳腫瘍の女の子は、7ヶ月前に発症、まだADL(Activities of Daily Living:日常生活動作)は自立しており、時々頭痛や嘔気嘔吐はあるものの、ほぼ普通に生活できていました。男3人女3人の6人兄弟姉妹の3番目で、15歳から5歳まで、全員お母さんがホームスクールをしている家庭です。その日私がそこで行ったのは、子供たちと遊び、おしゃべりし、ニワトリ小屋を見せてもらい、お母さんと話をして、薬の確認をしただけでした。ナースらしいことといえば、その女の子の胸の音を聴いた30秒ほどでしょうか。はたから見れば一時間ほど遊びに来た、ただの日本人のおばさんでした。
 次に訪問した16歳のSCAの女の子は、中度から重度の障碍児介護施設におり、ADLは全介護、コミュニケーション方法はYES/NOを瞬き、あるいは指を握って答え、調子のよいときは首を縦か横に振ることができました。Jチューブ(空腸ろう)から経管栄養を入れ、経口摂取は一切できません。その子は5人姉妹の長女で、お母さん、母方のおばあちゃん、そして4人の妹たち全員がSCA(型は異なる)で、おばあちゃんは2年前、一番下の妹は1年ほど前にわずか2歳で亡くなっていました。彼女の訪問では、まず施設のナースと話をし、詳しい報告を受けます。そこで問題があれば薬の使い方を指導したり、ケアプランを一緒に見直したり、受け持ち医に電話をして新たな支持を受けたりし、その支持を施設にファックスしてもらいます。それから本人の部屋に行って、おしゃべりをしてから必要最小限のアセスメントを行います。彼女はユーモアがあり、ジョークとフットボールが大好きで、この時期、スーパーボウルの話題になると満面の笑みになるのでした。その日はスーパーボウルパーティーのスナックに何を作るか検討中で、レジデントもアイデアを出してあーでもないこーでもないと、盛り上がりました。それからお母さんに電話をして、その日の彼女の様子を報告します。自身も歩行器を必要とするお母さんにとって、自宅から40km以上離れた施設を訪問するのはとても難しいため、施設のナースやホスピスのスタッフが、できるだけこまめに電話で連絡を取るようにしているのです。
 そして、最後の18歳の男の子は、13歳の時に発症してから手術、化学療法、放射線療法などをやりつくし、ここ2週間ほどの急激な体力低下と痛みの増加からホスピスを選択したばかりでした。10歳違いのお兄さんは別の州に住んでいましたが、時々様子を見に来てくれ、お母さんは彼専属のナースでした。しかも、お母さんは自分の兄弟と従妹のうち二人が障害を持っており、長い間その二人のサポートも行ってきていたのです。初回訪問の時はお父さんも仕事を抜け、お兄さんも同席し、この家族にとっての彼の存在の大きさをずっしりと感じたものでした。そんな彼の目下のゴールは、痛みのコントロールおよび便秘の解消、そして、何よりも食欲の増進と体力の回復によって、少しでも身の回りの事を出来るようになりたい、と言うことでした。彼の訪問ではほぼ成人と同じく、全身のアセスメント、本人とお母さんと話をして問題点を解決するべく改善案を提案し、本人が合意したら医師に電話をしてオーダーをもらい、薬局や医療機器や物品のプロバイダーなど、必要な所に電話をする、というもので、さすがに一緒に遊ぶことはありませんが、その代わり雑談する時間は必ず作りました。
 このように、小児の場合、年齢や状態に応じてその訪問内容は全く異なります。患児が乳児の場合は親とのコミュニケーションが中心になりますが、兄弟姉妹がいる場合はその子供達と遊ぶことも訪問の大きな部分を占めますし、祖父母(親の両親)へのサポートも行います。患児が幼児、小学生の場合は遊びが中心ですが、実は一緒に遊んでいる間に、身体面、精神面のかなりの情報を得ることができるのです。そして何よりも、子供が「ホスピスナースが来ると楽しい」と思えるような、「又来て欲しい」と思ってもらえるような、そう言う存在になることが大事なのです。
 残された時間に限りのある子供達とその親にとって、何よりも大切なのは、その子が少しでも楽しい時間を過ごす事。それをサポートするはずのホスピスナースの訪問がストレスになってしまっては、本末転倒。子供は診察されるのが嫌いです。聴診器を当てられたり、あれこれ身体の事を訊かれるのも触られるのも大嫌いです。子供は、ただ、子供でいたい。楽しい事、面白い事をしたり聞いたりして、笑っていたいのです。そして、具合が悪くなった時は、病院に行く代わりに、ホスピスナースが来てくれる。お母さんがホスピスナースに電話をすれば、どうしたらいいのか教えてくれる。だから、お母さんも安心していられる。そしてお母さんが安心していれば、それだけでもう、何もかも大丈夫のような気がするのです。
 昨年末に、力試しにと思って受けた小児ホスピス緩和ケア認定看護師(Certified Hospice and Palliative Pediatric Nurse: CHPPN)に合格し、無事認定看護師にはなりましたが、それでも実際に小児のケースを訪問する前にいつも考える事は、「今日は折り紙で何を折ろうか?」「今日は何をして遊ぼうか?」と言うことで、実は、今の私にとって一番の課題は、「いかに英語のジョークをマスターするか」と言うことなのです。そして、私にとってこれが、認定看護師になるよりもはるかに難関である事は、火を見るよりも明らかなのです。 
 
[2017/02/02 19:15] | ホスピスナース | トラックバック(0) | コメント(0)
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ラプレツィオーサ伸子

Author:ラプレツィオーサ伸子
アメリカ東海岸で在宅ホスピスナースをしています。アメリカ人の夫、子供3人、犬一匹と日々奮闘中。

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2冊目の本がGakkenから出版されました。 「それでも私が、ホスピスナースを続ける理由」https://gakken-mall.jp/ec/plus/pro/disp/1/1020594700 「ホスピスナースが胸を熱くした いのちの物語」と言うタイトルで青春出版社から発売されました。 http://www.seishun.co.jp/book/20814/

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