ホスピスナースは今日も行く 2016年10月
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ホスピスナースは今日も行く
アメリカ在住日本人ナースが、ホスピスで出会った普通の人々の素敵な人生をおすそわけします。
アメイジング グレイス (2)
 予想した通り、ジャンとダフネーはセントクリスを出る時点では、余命いくばくもない、つまり英語で言う“actively dying”な赤ちゃんを連れて帰り、最後を自宅で迎えさせてあげる覚悟でいました。おそらく、二人とも“ホスピス=死”と信じ込んでいたのでしょう。グレイスはあのまま静かに死んでいくと思っていたのです。ところが現実はそうではなく、口から飲み込むことはできなくても、お腹はちゃんと減り、生きているグレイスは必死でそれを両親に伝えたのです。私は、通訳を介し、おそらくセントクリスでも説明されたであろうMLDと言う病気について、もう一度、できるだけシンプルに、そして、自分達の経験や事例を交えながら説明しました。更に、ホスピスケアを受けると言う事は、今日、明日の命である、と言うわけではなく、進行性で、しかも不治の病であるMLDと共に、グレイスの寿命が尽きるまで、できるだけ快適に生きられるようにサポートする為なのだと話しました。二人は納得すると同時に、新たな、それまでとはまた違った不安と向き合わなければなりませんでした。つまり、遠からず死んでいく運命の娘を、看取るのではなく、その時が来るまで育てていくという、言ってみれば目的地までのルートが大きく変更されたわけで、終わりだと思っていたのが実は始まりだったのです。
 ジャンはニュージャージー州にある大きな大学でメンテナンスの仕事をしており、火曜日と水曜日が定休でした。ダフネーはジャンがいるのなら通訳は必要ないと言い、キンバリーと私は、ジャンが家にいる日に通訳抜きで訪問する事にしました。グレイスには12歳のお姉ちゃんがいました。ちょうど訪問を始めて2週目くらいに学校が休みの日に当たり、お姉ちゃんにもグレイスの病気の事や、どんな風にグレイスに接してあげたらよいのかと言う話をすることができました。と言うのも、実はお姉ちゃんの方から、グレイスの病気のことについて、そしてホスピスについて、私たちから話を聞きたいというリクエストがあったのです。お姉ちゃんは英語には問題なく、かえって時々ダフネーに通訳するなど、とてもしっかりした子でした。おそらく話を聞いただけでは実感が湧かなかったとは思いましたが、それでも年の離れた妹が、普通の子のように育つことはなく、そして、子供のうちに死んでしまうのだ、という事はよく理解していました。そして、お姉ちゃんはそれまでと同じように妹をかわいがり、世話をし、特に態度が変わることはありませんでした。
 グレイスはNGチューブを嫌がることもなく、一回30ccの経管栄養を一日に6回、そして全ての薬をチューブから入れていました。一日180ccの経管栄養は、ぎりぎりグレイスが空腹感を感じないようにするための量でしたが、ジャンとダフネーはグレイスが満足している限り、不安や疑問は感じていないようでした。しかし最初のひと月は、風邪や便秘など、以前だったらあまり心配しなかったことでも、何かの予兆ではないのか、病気の進行のサインではないのか、と不安になり、ジャンから電話やメールが来る事もたびたびでした。特に言語の問題もあったせいか、ジャンはホスピスのオフィスに電話をするよりも私の携帯にメールする方が気安かったのかもしれません。私はその度に訪問し、グレイスがMLDであると同時に、健康な赤ちゃんと同じように対応する事で問題解決することもまた沢山あるのだという事を、二人に伝えるようにしました。そして、ジャンとダフネーも少しずつリラックスできるようになり、次第にメールや電話の回数も減っていきました。
 グレイスは寝返りを打つことはでき、また、椅子に座って姿勢を保つ事もできました。音楽が大好きで、子供向けの歌のDVDがかかっていれば、とにかくご機嫌でした。月に一度NGチューブを交換する時も、タブレットで大好きな歌の動画を流しながら出来るだけ気をそらし(といってもやはり嫌がりましたが)、泣き叫ぶ時間を最小限に食い止めるようにしていました。グレイスは180ccの経管栄養で満足しているようでしたが、ダフネーは栄養剤を入れる前に必ず、とろみをつけた水をスプーンで口からあげるようにしていました。私は誤嚥が心配でしたが、ダフネーは「ちょっとでも咳をしたり、嫌がるようだったらすぐにやめてる」と言い、どうしても経口摂取を諦めたくないようでした。私は、必ずグレイスを垂直か、若干前のめりの姿勢にすること、一度にほんの少しの量で、飲み込んだのを確認してから次の一口をあげることなどを指導し、ダフネーの挑戦をサポートする事にしました。小児ホスピスの鉄則は、まず第一に両親、特に母親の直感や主張を尊重する事です。医療者が気付けないことや、予想もしなかったことを、お母さんというものは、時に、不思議な力で感じとることができます。そして、その力を信じる事で、思いがけない結果に繋がっていくことさえあるのです。
 グレイスは、当初の予測を見事に裏切り、病気の進行を示唆するような退行症状は見せず、年齢相応のサイズや発達段階には達しませんでしたが、それでも現状を維持していました。ジャンもダフネーもすでにグレイスの可能性を信じ始めており、私に、「筋力をつける良い運動はないか?」と訊いてきました。私は、少しでも長く現状維持する為にも、PT(理学療法士)に来てもらうのはどうかと提案しました。二人は即答で賛成し、早速PTに訪問依頼を出しました。私はセラピー全般(理学療法士、作業療法士、言語療法士など)のスーパーバイザーにグレイスの情況を説明し、現状の維持、もしくは筋力の低下や関節の硬化を遅らせるための運動などを、両親に指導する事が主な目的であると話しました。ホスピスにおけるセラピーの役割はリハビリではなく、安全指導、疼痛の緩和、器具の調整、残存機能の保持などで、要するにQOL(Quality Of Life:クオリティーオブライフ=生活の質)をできるだけ高める事にあります。ところが、グレイスは現状維持どころか、PTが介入してから筋力が少しずつ強化されてきたのです。MLDは退行性で、発症後、運動能力は一般的に低下の一途をたどります。それが、ヨガボールなどを使った効果的な運動により筋肉そのものを刺激し、少なからず鍛える事ができたのでしょう。いずれは神経線維が破壊されることによって四肢麻痺、知能障害、視覚、聴覚障害などが起こるのですが、それでも、今、現在を少しでも良く生きるための努力は決して無駄ではないのです。
 こうして、ジャンとダフネーはMLDであるグレイスを、病気の子供としてではなく、独自の発達ペース(いずれはそれが退行に移行するとしても)で成長している娘として受け入れ、いつの間にか彼らにとっては、それが自然な子育て、そして当たり前の生活になって行きました。退行性の疾患の場合、成人の場合でもそうですが、医療者はとかく“いずれ出来なくなる事”を先回りし、それに備えようとしてしまいます。しかし、患者さんや家族にとっては、“今はできる事”を感じ、楽しむことの方が大事であり、それをできるだけ維持できるように何かをする事が重要なのです。グレイスは、穏やかな性格でしたが、好き嫌いははっきりしていました。しかし、どんなにご機嫌斜めの時でも歌の動画さえかかっていればすぐに夢中になり、にこにこしながら、時には身体を揺すったりもするのでした。隔週で行うセントクリスのパリアティブケアチームとの電話でのカンファレンスでも、グレイスの安定振りに、皆驚きを隠さず、Early Intervention(アーリーインターベンション:発達遅延のある3歳以下の子供が受けられる州によるプログラム)を導入することで同意しました。もちろんジャンとダフネーは大賛成でした。ただ、EIが入ると、ホスピスからのPTはサービスの重複になるため終了しなくてはならず、ダフネー達はとても残念がりました。それでも、EIのプログラムからPTとOT(作業療法士)がそれぞれ週に一度ずつ訪問し、週に一度はセントクリスの外来のPTに行くようになると、手や足につける特別なサポーターや、特別仕様のカーシートなど、グレイスが受けるサポートの範囲は拡大していきました。同時にキンバリーは、ジャン達が受けられる社会保障をできる限り活用できるよう、面倒な手続きがなるべくスムーズに行くように手伝っていました。しかし、言葉の壁もあるせいか、こうしたオフィスに出向くのにジャンはなかなか腰が上がらず、ダフネーをイライラさせる事もありました。私はグレイスのアセスメント、MLDについての継続的な教育、薬やオムツ、経管栄養剤などのオーダー、そして、雑談も含め、ダフネー達と様々な話をし、徐々にこの家族が自立していけるようにサポートしていきました。しかし、実を言うとキンバリーも私も、週に一度、ここに来て小さなグレイスを抱っこするのを、何よりも楽しみにしていたのです。
 夏に入っても、グレイスは相変わらず安定しており、一家はカナダにいるジャンの家族を尋ねることにしました。4泊5日の小旅行でしたが、グレイスにとっては生まれてはじめての大旅行でした。念のため、万が一の事を考え、ステイ先の近くにある病院を確認し、ホスピスの緊急時薬品箱とホスピスの電話番号を必ず持っていくように指導しましたが、ジャンとダフネーは私達が思ったよりもずっとリラックスしており、どことなく余裕さえありました。そして、一家は無事カナダへの家族旅行を楽しんできたのです。
 その頃になると、グレイスはとろみ付きの水だけではなく、ベビーフードも少しずつ食べられるようになっていました。ダフネーの信念と努力は、確実に実を結んでいたのです。身長も少し伸び、体重もほんの少しですが、増えていきました。そして、グレイスが充分な量を経口摂取できるようになった時、私達は一旦NGチューブを除去してみることにしました。薬も嫌がらずに飲む事を確認してから、いよいよNGチューブを抜く日、ダフネーは私にこう言いました。「あなたがキリスト教徒ではないことは知ってるわ。それでもいいの。グレイスがNGチューブ無しでも大丈夫なように、私と一緒に祈って欲しいの。」私は、わかった、と言い、グレイスをベッドの上に寝かせ、ほっぺたの固定用テープを剥がしながら、「大丈夫、大丈夫」と呟きました。私の横では、ダフネーがクレオール語でお祈りを唱えていました。それから私は、「何もかもが上手くいきますように。グレイスに生きる力が与えられますように」と呟いて、一気にNGチューブを抜きました。グレイスは一瞬の事に泣く暇もなく、私はすぐに彼女を抱き上げると、ダフネーに渡しました。ダフネーはすっきりしたグレイスの顔中にキスをし、神様に感謝の言葉を告げていました。そして、私は二度とグレイスの小さな鼻にチューブを入れずにすんだのです。
 私達は、現時点では、グレイスがホスピスよりも、積極的なセラピーの介入によって受ける恩恵の方が大きい事を、ほぼ確信していました。セントクリスのパリアティブケアの医師たちも、異論はなく、病気が進行して再びホスピスが必要となるその時まで、一旦ホスピスから卒業する方針に切り替えることにしたのです。キンバリーと私がこの事を告げると、ダフネーもジャンもあきらかに動揺し、「それは困るよ!」と泣きそうな顔になりました。私達は、「もちろん今すぐって訳じゃないですよ。グレイスの様子を見ながら、準備をしていきましょう。そして、これなら大丈夫、ってあなた方が安心できるまで、私達がサポートしますから」と言い、二人は少し落ち着きを取り戻しました。そうして、私達はグレイスのディスチャージ(サービスの終了)に向け、準備を始めたのです。それは主に、私達が請け負っていた部分、つまり、薬や物品のオーダー、いつどんな時に誰に連絡するのか、医師か、ソーシャルワーカーか、セラピストか、などを自分達で行うための引継ぎでしたが、ホスピスではなくなる為に保険のカバーも変わり、また、医師もセントクリスのパリアティブケアチームではなく、かかりつけの小児科医、及び神経内科医が主に関わってくる為、新たにアポイントメントを取るなどの手続きもありました。こうした一つ一つをクリアし、とうとう準備も整い、いよいよグレイスは私達の手を離れることになったのです。
 ホスピス最後の日、グレイスはいつものように機嫌よく、つぶらな黒い瞳をきらきらさせていました。8ヶ月前、ジャンとダフネーはこの子を看取る覚悟でこのアパートに戻ってきました。それが今、ダフネーの胸に抱かれ、ニコニコと笑っているのです。その日、キンバリーは車の故障のために最後の訪問ができず、私一人になってしまいましたが、ジャンは目を潤ませながら、「こんな日が来るとは思ってもいなかったよ。二人には本当にお世話になって、どんな言葉でも足りないくらい感謝しているよ」と言い、「キンバリーにも、近くに来る事があったら、ぜひ顔を見せてくれ、って伝えて欲しい」と言いました。私が「もちろん、彼女もあなた達やグレイスに会えなくて残念がっていたもの。ちょっと寂しいけど、でも、こんなに嬉しいお別れができるなんて、私達には滅多にないことだから」と言うと、ダフネーがこう言いました。「全ては神様の御心なんだと思うわ。私はずっと信じていたもの。グレイスは大丈夫よ。」私は頷いて、「そうね、いつかまた私達が来る事があるかもしれないけど、その日ができるだけ遠い未来である事を祈ってるわ。あなた達なら大丈夫。グレイスは幸せな人生を送れると思う」と言いました。それから、私はダフネーに、グレイスの為に折った天使を渡し、しっかりとハグしました。それから、ジャンともお別れのハグをして、最後にもう一度グレイスを抱っこさせてもらい、柔らかいほっぺたにキスをしました。グレイスはくすぐったそうに笑いました。私は心の中で、「この笑顔がいつまでも続きますように」と祈りながら、グレイスをダフネーに渡して、名残惜しい気持ちを残しながら、アパートを出ました。二人は私が階段を下りるまで、何度も「ありがとう」と言いながら、見送ってくれました。
 MLDは切ない病気です。それでも、子供にはそれぞれその子の命の強さがあります。グレイスは強い命に恵まれ、強い心を持った両親に恵まれました。この先、いつかホスピスが必要になる日が来ることは、ジャンもダフネーも知っています。それでも、その時までグレイスが楽しく、幸せな日々を過ごせるよう、あの二人なら育てていけると思うのです。
 
 
 
[2016/10/16 14:51] | 忘れられない人々 | トラックバック(0) | コメント(0)
アメイジング グレイス (1)
 フィラデルフィアの北部地区(ノースフィリー)に、セントクリストファー小児病院(以下、セントクリス)があります。市内では、センターシティーにあるフィラデルフィア小児病院(CHOP)に次ぐ小児専門病院で、私達が小児ホスピスの依頼を受ける、主な依頼元の一つです。セントクリスのあるノースフィリーは、ジョン・コルトレーンやリー・モーガンを生んだ場所ですが、現在はフィラデルフィアの中でも生活水準が低く、治安も悪い地域です。アフリカ系黒人とヒスパニック系が人口の8割を占め、空き家なども多く、ドラッグディーラーの格好の活動場になっています。自然と患者さんもアフリカ系やヒスパニック系が多く、貧困層にいる人たちや、未婚の未成年が母親である事も珍しくありません。
 そんなセントクリスから依頼を受けると、私たち小児ホスピスチームは、必ず病院に出向いて、向こうのパリアティブケアチームと患者さんの両親と一緒にミーティングを行います。これは、セントクリスのリクエストで、最初に三者(両親、病院のパリアティブケアチーム、ホスピスチーム)が顔を合わせる事によって、お互いに理解を深め、コミュニケーションをスムーズにする事ができるのです。また、ケースによっては患児が施設やデイケアなど自宅以外にいることもあり、そう言う場合、なかなか親と直接会う機会がなかったりもするので、確実に顔合わせが出来る良いチャンスでもあるのです。
 私達がグレイス(仮)の両親に初めて会ったのも、セントクリスの小さな会議室でした。二人はハイチ人でクレオール語が第一言語でした。父親のジャンは英語での日常会話には殆ど困りませんでしたが、母親のダフネーは本当に基本的な会話の理解程度だったため、通訳を入れました。私は知らなかったのですが、クレオール語の中でもハイチ語はハイチクレオールと言われ、フランス語系のクレオールなのだそうです。(公用語はハイチクレオールとフランス語。)
 グレイスは1歳になったばかりで、誕生日の少し前からミルクの飲み込みが悪くなっていました。そのため誤嚥性肺炎を起こし、セントクリスに入院したのです。ところが、本当の問題は両親にとって青天の霹靂、夢にも思わなかったMetachromatic Leukodystrophy (MLD) (異染性白質ジストロフィー)と言う診断でした。MLDは遺伝性の疾患で、中枢神経と末梢神経障害を起こす、予後不良の難病です。MLDは発症時期によって乳児型、若年型、成人型の三つのタイプに分けられます。グレイスは1-2歳の間に発症する乳児型で、予後は発症後2-3年、殆どの子が5歳までに亡くなるという、MLDの中では一番多いタイプでした。しかし、グレイスの場合すでに第3期に見られる嚥下障害が現れており、かなり進行の早いものと思われ、神経内科からパリアティブケアへ相談の依頼が行ったのです。そこで、ジャンとダフネーはグレイスの病気と予後を聞き、娘の命が限られたものであること、そしてそれが神の御心によるものならば、それを受け入れ、せめて残された日々を娘が苦しまずにすむように、と、ホスピスケアを選んだのです。グレイスはその時点でNG(経鼻胃)チューブを入れ、経管栄養のみで、経口では何も取っていませんでした。しかし、ジャンとダフネーはそのNGチューブも含め、グレイスの身体には何も異物を入れずに家に帰ると決めていたのです。私とソーシャルワーカーのキンバリーは、ちょっと驚いて、「薬を与える為にも、NGチューブは入れておいた方が良いのでは?」とパリアティブケアチームの医師達に聞きました。チーフのディクソン医師(女性)とサブのスペイシー医師(男性)も、その事については何度か話したらしく、私達ホスピスも同意見である事を強調しながら、ジャン達にもう一度考えてはどうかと尋ねました。ジャンは少し逡巡していましたが、ダフネーはきっぱりと「チューブ類は入れたくない」と主張したのです。私は、「薬もそうですが、グレイスはお腹がすくと思います。口からどれだけ飲めるのか分かりませんが、念のためにNGチューブはそのままにしておいた方がいいと思います。グレイスがチューブを嫌がったり抜いてしまうなら仕方ありませんが...」と言うと、ダフネーはジャンに向かって何か言い、それからジャンが英語で「OK。NGチューブはそのままでいいです」と言いました。私は内心ホッとして横を見ると、やはりキンバリーも同じ気持ちのようでした。今日までNGチューブから経管栄養を入れていた幼児が、突然食べられなくなったらどうなるか。もしかしたら、ジャンもダフネーもMLDと言う診断や、ホスピスと言うイメージから、グレイスの余命に対して誤った理解をしているのではないかと思ったのです。とにかく、NGチューブは入れたまま、グレイスはその日の午後、退院することになりました。そして私達は、翌日自宅に初回訪問をすることになったのです。
 翌朝、予定通りキンバリーと私は、頼んでいた通訳の方と、グレイス達の住むアパートの前で待ち合わせました。そして、私とキンバリーは顔を合わせると同時に「ねえ、依頼書見た?」とお互いに訊きあったのです。と言うのも、セントクリスからの依頼書に“退院前にNGチューブを抜去”と書いてあったからでした。それ以上の詳しいことは書いておらず、私達は一体どういう事なのか首をひねっていたのです。アパートのビルディングに入るドアは施錠されており、キンバリーがジャンの携帯に電話をかけると、すぐに階段を下りてくる足音がして、ジャンがドアを開けてくれました。ジャンは、私達を見ると待っていたとばかりに「グレイスは一晩中泣いて眠れなかった」と言ったのです。瞬時に私は、“ああ、お腹がすいていたんだ”と思いましたが、とりあえず3階の彼らのアパートまで階段を上っていくと、途中からグレイスの泣き声が聞こえてきたのです。こざっぱりとした2LDKの小さなアパートには、グレイスを抱いたダフネー、ニューヨークから来たダフネーのお母さんと妹さん、それからダフネーのおばさんがいて、私達が入るともういっぱいでした。挨拶もそこそこに、私は通訳を通して夕べからのグレイスの様子を聞きました。ダフネーは、「病院から戻ってきてしばらくは機嫌も良かったし、問題なかったの。でも、夜中に泣き出して、きっとお腹がすいたんだと思ったのよ。口からミルクをあげたんだけど、うまく飲めないから余計イライラしたみたいで。やっぱり、NGチューブを入れることはできるかしら?」と、懇願するように言いました。私は、「もちろんできますよ。セントクリスから予備のチューブはもらってきましたか?」と訊くと、ジャンが「ああ、それはあるよ」と言って、退院時に病院からもらった諸々の入った袋を持ってきました。
 私達はとりあえず必要な書類にサインをしてもらい、正式にホスピスケアを開始しました。そしてその第一歩が、グレイスのちいさな鼻からNGチューブを挿入することだったのです。アメイジング グレイス(2)に続く。

 
[2016/10/07 15:58] | 忘れられない人々 | トラックバック(0) | コメント(0)
クスリの闇
 数週間前、私の元同僚のジーナが、弟さんを亡くしました。ジーナは私と同年代で、私の息子達と同じ年齢の男の子二人のお母さんです。ジーナはとても明るくいつも元気で、よく笑い、くよくよせずに前進するのがモットーで、人生楽しまなくちゃもったいない、と言うオーラに包まれていました。10年近く一緒に働いたのですが、ここ2年程の変革に耐えられずに転職した仲間の一人でした。一緒に素晴しいチームを作り上げてきた仲間達が、一人、また一人と別のホスピスや病院に移っていくのを見送り、それでも希望を捨てずに励ましあい、何とか頑張ってきましたが、以前の上司が看護師長をしているホスピスの、ホームケアのマネージャーに空きができ、そこに採用されたのです。ちなみにそのホスピスが半年前に開設したホスピス病棟のマネージャーは、やはり元同僚で、ジーナや私と同年代の、私の次男と同い年の三つ子を持つお母さんです(更に言うと、そのホスピスのインテイク〔新しい患者さんの依頼を受け、情報をシステムにインプットする窓口〕は元主任です)。同僚だった頃、私達は同じ年頃の子供を持つ母親同士、よく話をしました。お互い、似たような悩みを持ち、ぶっちゃけて相談できる仲間だったのです。
 そんなジーナが、私たちには決して話さなかった事がありました。それは、弟さんのドラッグとの長い闘いでした。彼が10代の頃からのドラッグ依存症は、ジーナと彼女の家族にとって、言葉には言いつくせない痛みと哀しみ、そして怒りと向き合う日々だったに違いありません。そして、その弟さんが40代はじめの若さで、ドラッグのオーバードース(過剰摂取)で亡くなったのです。私はこの事を、やはり同僚のキャシーから聞きました。キャシーは60代半ばのベテランナースで、ジーナと親しく、彼女にとって私達同年代の仲間とは別の、いわば人生の先輩として相談のできる同僚だったのです。と言うのも、キャシーがそれこそ小説がひとつ書けてしまうほど、沢山の悲しみを乗り越えてきた人だと言う事もあったのだと思います。しかし、ジーナはキャシーに詳しい事は話さなかったそうです。キャシーはこう言いました。「きっとね、ジーナは話したいんだと思うわ。でもね、話せば泣いてしまうだろうし、そうすると私が悲しむってわかっているのよ。だからね、言わないのよ。ジーナは私を悲しませたくないんだわ。」
 キャシーは15年前に長男を交通事故で亡くしています。17歳でした。ある日突然息子がこの世界からいなくなる。キャシーはしばらくハンパー(洗濯する物を入れておくバスケットや蓋付きの箱)の中の息子さんの洗濯物に手がつけられなかったそうです。そして、その痛みは、15年経った今でも癒える事はないと言います。「だから、私は絶対に、小児はできないわ。」
 この18年間で、私が一緒に働いたホスピスナースが兄弟を亡くしたのは、ジーナが3人目でした。そして3人とも、40代の働き盛りで、しかもドラッグのオーバードースが原因でした。ドラッグ(違法薬物や麻薬などを含む)のオーバードースは、アメリカの事故死の原因のトップです。2014年の統計では、47,055人がドラッグオーバードースで亡くなっています。ちなみに同じ年に交通事故で亡くなった人は32,675人だそうです。ドラッグの乱用は小学校高学年からすでに子供達を侵し始め、中学、高校では当たり前のように流通システムが出来上がり、まるでガムでも買うように手に入れることができるのです。もちろん学校やコミュニティーでも、かなり小さい頃からドラッグについての教育は始めていますが、それがどれほど成果を挙げているのかは、統計を見る限りあまり期待できません。2014年には467,000人の青少年が非医療目的で鎮痛剤を使用しており、そのうち168,000人が処方箋鎮痛剤(麻薬など)の依存症になっているそうです。また、約28,000人の青少年がヘロインを使用した事があり、そのうち約16,000人が常用者だったそうです。
 ホスピスの患者さんでも、過去にマリワナを使った事があったり、現在進行形で使っていたり、本人や家族の誰かがドラッグ常用者だったりする事があり、そう言うケースの場合の薬物管理には、非常に気を遣います。また、最近は医療用のカナビスオイル(カナビス:大麻、マリワナ)を試したいと言う人も増えてきて、状況はますます複雑になってきています。ペンシルベニア州ではつい最近、特別な許可証を持った医師による、限定された条件に当てはまる患者さんへのマリワナの処方が、法的に認められましたが、その管理方法などまだはっきりした基準がありません。
 アメリカのドラッグ乱用の問題は根が深く、そして、驚くほど身近にあります。何年か前にアメリカでセンセーションを起こし、様々な賞を総なめにした『Breaking Bad (ブレイキングバッド)』と言うテレビドラマシリーズがありました。40代も終わりに近づいた、高校で化学の教師をしているごく平凡な男性が、進行性の肺癌と診断され、治療費や自分が死んだ後に家族(妊娠中の奥さんと、軽い脳性麻痺がある高校生の息子)が生活していけるだけのお金を作る為、化学者としての知識を最大限に使って上質なメタンフェタミン(覚せい剤)を作り、いつしかドラッグをめぐる暗黒の世界に入り込んで、家族や周りの人達を巻き込みながら、自滅へ追い込まれていく話で、非常に激しいバイオレンスの描写があるのですが、登場人物一人一人がかなり現実的で、人間の愚かさや哀しさ、強さと弱さ、そして、なによりドラッグをめぐる裏社会と、その紙一重にある表社会が、とてもリアルに描かれていました。このドラマは、聞いた事はありましたが、夫も私も観たことはありませんでした。それが、映画好きの長男がネットフリックス(インターネットでドラマや映画を配信するサービス)で見つけ、「お母さん達もぜひ観た方がいいよ」と薦められたのです。17歳の長男は、「このドラマを観たら、ドラッグの怖さがすっごくわかるよ。僕でも結構ビビッたからね」と、どうして“僕でも”なのかが若干気になりましたが、たしかに、彼の言う通りでした。キャシーによると、ジーナは息子から教えられた私とは逆に、わざわざこのドラマを二人の息子さんに見せたそうです。弟さんの事もあり、自分の息子達には絶対にドラッグに手を出させたくなかったのでしょう。
 私を含め、多くの母親は“自分の子供は大丈夫”と思っていると思います。もしくは、“多少試してみる事はあったとしても、依存症にはならないだろう”と、高を括っているかもしれません。しかし、プライバシーの侵害と言われようと、定期的に子供の部屋や引き出しの中をチェックするのは、親としての責任ではないでしょうか。そして、見たくない物を見てしまった時に、子供と正面から向き合う心の準備を常にしておく事が大事なのではないでしょうか。
 ジーナにはお悔やみのカードを送りました。お悔やみの言葉の後に“本当は、しっかりとハグしてあげたい”と書き、そのあとはなんと書いてよいかわかりませんでした。しかし、それが私の正直な気持ちでした。ドラッグの乱用は、言ってみれば自殺行為です。間接的であれ、直接的であれ、自分の人生や命を脅かす事になるのです。ジーナの弟さんも、こんな終わり方をしたかったとは思いません。しかし、ほぼ12分に一人の割合で、アメリカのどこかで誰かが、ドラッグのオーバードースで亡くなっているのです。そしてそれは、誰かの子供であり、兄弟であり、親であり、友人であり、隣人でありうるのです。そんな闇を抱えたアメリカで、闇から伸びてくる触手につかまらないように生きていくのは、なかなか大変な事なのかもしれません。
[2016/10/02 22:56] | つぶやき | トラックバック(0) | コメント(0)
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ラプレツィオーサ伸子

Author:ラプレツィオーサ伸子
アメリカ東海岸で在宅ホスピスナースをしています。アメリカ人の夫、子供3人、犬一匹と日々奮闘中。

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2冊目の本がGakkenから出版されました。 「それでも私が、ホスピスナースを続ける理由」https://gakken-mall.jp/ec/plus/pro/disp/1/1020594700 「ホスピスナースが胸を熱くした いのちの物語」と言うタイトルで青春出版社から発売されました。 http://www.seishun.co.jp/book/20814/

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