予想した通り、ジャンとダフネーはセントクリスを出る時点では、余命いくばくもない、つまり英語で言う“actively dying”な赤ちゃんを連れて帰り、最後を自宅で迎えさせてあげる覚悟でいました。おそらく、二人とも“ホスピス=死”と信じ込んでいたのでしょう。グレイスはあのまま静かに死んでいくと思っていたのです。ところが現実はそうではなく、口から飲み込むことはできなくても、お腹はちゃんと減り、生きているグレイスは必死でそれを両親に伝えたのです。私は、通訳を介し、おそらくセントクリスでも説明されたであろうMLDと言う病気について、もう一度、できるだけシンプルに、そして、自分達の経験や事例を交えながら説明しました。更に、ホスピスケアを受けると言う事は、今日、明日の命である、と言うわけではなく、進行性で、しかも不治の病であるMLDと共に、グレイスの寿命が尽きるまで、できるだけ快適に生きられるようにサポートする為なのだと話しました。二人は納得すると同時に、新たな、それまでとはまた違った不安と向き合わなければなりませんでした。つまり、遠からず死んでいく運命の娘を、看取るのではなく、その時が来るまで育てていくという、言ってみれば目的地までのルートが大きく変更されたわけで、終わりだと思っていたのが実は始まりだったのです。 ジャンはニュージャージー州にある大きな大学でメンテナンスの仕事をしており、火曜日と水曜日が定休でした。ダフネーはジャンがいるのなら通訳は必要ないと言い、キンバリーと私は、ジャンが家にいる日に通訳抜きで訪問する事にしました。グレイスには12歳のお姉ちゃんがいました。ちょうど訪問を始めて2週目くらいに学校が休みの日に当たり、お姉ちゃんにもグレイスの病気の事や、どんな風にグレイスに接してあげたらよいのかと言う話をすることができました。と言うのも、実はお姉ちゃんの方から、グレイスの病気のことについて、そしてホスピスについて、私たちから話を聞きたいというリクエストがあったのです。お姉ちゃんは英語には問題なく、かえって時々ダフネーに通訳するなど、とてもしっかりした子でした。おそらく話を聞いただけでは実感が湧かなかったとは思いましたが、それでも年の離れた妹が、普通の子のように育つことはなく、そして、子供のうちに死んでしまうのだ、という事はよく理解していました。そして、お姉ちゃんはそれまでと同じように妹をかわいがり、世話をし、特に態度が変わることはありませんでした。 グレイスはNGチューブを嫌がることもなく、一回30ccの経管栄養を一日に6回、そして全ての薬をチューブから入れていました。一日180ccの経管栄養は、ぎりぎりグレイスが空腹感を感じないようにするための量でしたが、ジャンとダフネーはグレイスが満足している限り、不安や疑問は感じていないようでした。しかし最初のひと月は、風邪や便秘など、以前だったらあまり心配しなかったことでも、何かの予兆ではないのか、病気の進行のサインではないのか、と不安になり、ジャンから電話やメールが来る事もたびたびでした。特に言語の問題もあったせいか、ジャンはホスピスのオフィスに電話をするよりも私の携帯にメールする方が気安かったのかもしれません。私はその度に訪問し、グレイスがMLDであると同時に、健康な赤ちゃんと同じように対応する事で問題解決することもまた沢山あるのだという事を、二人に伝えるようにしました。そして、ジャンとダフネーも少しずつリラックスできるようになり、次第にメールや電話の回数も減っていきました。 グレイスは寝返りを打つことはでき、また、椅子に座って姿勢を保つ事もできました。音楽が大好きで、子供向けの歌のDVDがかかっていれば、とにかくご機嫌でした。月に一度NGチューブを交換する時も、タブレットで大好きな歌の動画を流しながら出来るだけ気をそらし(といってもやはり嫌がりましたが)、泣き叫ぶ時間を最小限に食い止めるようにしていました。グレイスは180ccの経管栄養で満足しているようでしたが、ダフネーは栄養剤を入れる前に必ず、とろみをつけた水をスプーンで口からあげるようにしていました。私は誤嚥が心配でしたが、ダフネーは「ちょっとでも咳をしたり、嫌がるようだったらすぐにやめてる」と言い、どうしても経口摂取を諦めたくないようでした。私は、必ずグレイスを垂直か、若干前のめりの姿勢にすること、一度にほんの少しの量で、飲み込んだのを確認してから次の一口をあげることなどを指導し、ダフネーの挑戦をサポートする事にしました。小児ホスピスの鉄則は、まず第一に両親、特に母親の直感や主張を尊重する事です。医療者が気付けないことや、予想もしなかったことを、お母さんというものは、時に、不思議な力で感じとることができます。そして、その力を信じる事で、思いがけない結果に繋がっていくことさえあるのです。 グレイスは、当初の予測を見事に裏切り、病気の進行を示唆するような退行症状は見せず、年齢相応のサイズや発達段階には達しませんでしたが、それでも現状を維持していました。ジャンもダフネーもすでにグレイスの可能性を信じ始めており、私に、「筋力をつける良い運動はないか?」と訊いてきました。私は、少しでも長く現状維持する為にも、PT(理学療法士)に来てもらうのはどうかと提案しました。二人は即答で賛成し、早速PTに訪問依頼を出しました。私はセラピー全般(理学療法士、作業療法士、言語療法士など)のスーパーバイザーにグレイスの情況を説明し、現状の維持、もしくは筋力の低下や関節の硬化を遅らせるための運動などを、両親に指導する事が主な目的であると話しました。ホスピスにおけるセラピーの役割はリハビリではなく、安全指導、疼痛の緩和、器具の調整、残存機能の保持などで、要するにQOL(Quality Of Life:クオリティーオブライフ=生活の質)をできるだけ高める事にあります。ところが、グレイスは現状維持どころか、PTが介入してから筋力が少しずつ強化されてきたのです。MLDは退行性で、発症後、運動能力は一般的に低下の一途をたどります。それが、ヨガボールなどを使った効果的な運動により筋肉そのものを刺激し、少なからず鍛える事ができたのでしょう。いずれは神経線維が破壊されることによって四肢麻痺、知能障害、視覚、聴覚障害などが起こるのですが、それでも、今、現在を少しでも良く生きるための努力は決して無駄ではないのです。 こうして、ジャンとダフネーはMLDであるグレイスを、病気の子供としてではなく、独自の発達ペース(いずれはそれが退行に移行するとしても)で成長している娘として受け入れ、いつの間にか彼らにとっては、それが自然な子育て、そして当たり前の生活になって行きました。退行性の疾患の場合、成人の場合でもそうですが、医療者はとかく“いずれ出来なくなる事”を先回りし、それに備えようとしてしまいます。しかし、患者さんや家族にとっては、“今はできる事”を感じ、楽しむことの方が大事であり、それをできるだけ維持できるように何かをする事が重要なのです。グレイスは、穏やかな性格でしたが、好き嫌いははっきりしていました。しかし、どんなにご機嫌斜めの時でも歌の動画さえかかっていればすぐに夢中になり、にこにこしながら、時には身体を揺すったりもするのでした。隔週で行うセントクリスのパリアティブケアチームとの電話でのカンファレンスでも、グレイスの安定振りに、皆驚きを隠さず、Early Intervention(アーリーインターベンション:発達遅延のある3歳以下の子供が受けられる州によるプログラム)を導入することで同意しました。もちろんジャンとダフネーは大賛成でした。ただ、EIが入ると、ホスピスからのPTはサービスの重複になるため終了しなくてはならず、ダフネー達はとても残念がりました。それでも、EIのプログラムからPTとOT(作業療法士)がそれぞれ週に一度ずつ訪問し、週に一度はセントクリスの外来のPTに行くようになると、手や足につける特別なサポーターや、特別仕様のカーシートなど、グレイスが受けるサポートの範囲は拡大していきました。同時にキンバリーは、ジャン達が受けられる社会保障をできる限り活用できるよう、面倒な手続きがなるべくスムーズに行くように手伝っていました。しかし、言葉の壁もあるせいか、こうしたオフィスに出向くのにジャンはなかなか腰が上がらず、ダフネーをイライラさせる事もありました。私はグレイスのアセスメント、MLDについての継続的な教育、薬やオムツ、経管栄養剤などのオーダー、そして、雑談も含め、ダフネー達と様々な話をし、徐々にこの家族が自立していけるようにサポートしていきました。しかし、実を言うとキンバリーも私も、週に一度、ここに来て小さなグレイスを抱っこするのを、何よりも楽しみにしていたのです。 夏に入っても、グレイスは相変わらず安定しており、一家はカナダにいるジャンの家族を尋ねることにしました。4泊5日の小旅行でしたが、グレイスにとっては生まれてはじめての大旅行でした。念のため、万が一の事を考え、ステイ先の近くにある病院を確認し、ホスピスの緊急時薬品箱とホスピスの電話番号を必ず持っていくように指導しましたが、ジャンとダフネーは私達が思ったよりもずっとリラックスしており、どことなく余裕さえありました。そして、一家は無事カナダへの家族旅行を楽しんできたのです。 その頃になると、グレイスはとろみ付きの水だけではなく、ベビーフードも少しずつ食べられるようになっていました。ダフネーの信念と努力は、確実に実を結んでいたのです。身長も少し伸び、体重もほんの少しですが、増えていきました。そして、グレイスが充分な量を経口摂取できるようになった時、私達は一旦NGチューブを除去してみることにしました。薬も嫌がらずに飲む事を確認してから、いよいよNGチューブを抜く日、ダフネーは私にこう言いました。「あなたがキリスト教徒ではないことは知ってるわ。それでもいいの。グレイスがNGチューブ無しでも大丈夫なように、私と一緒に祈って欲しいの。」私は、わかった、と言い、グレイスをベッドの上に寝かせ、ほっぺたの固定用テープを剥がしながら、「大丈夫、大丈夫」と呟きました。私の横では、ダフネーがクレオール語でお祈りを唱えていました。それから私は、「何もかもが上手くいきますように。グレイスに生きる力が与えられますように」と呟いて、一気にNGチューブを抜きました。グレイスは一瞬の事に泣く暇もなく、私はすぐに彼女を抱き上げると、ダフネーに渡しました。ダフネーはすっきりしたグレイスの顔中にキスをし、神様に感謝の言葉を告げていました。そして、私は二度とグレイスの小さな鼻にチューブを入れずにすんだのです。 私達は、現時点では、グレイスがホスピスよりも、積極的なセラピーの介入によって受ける恩恵の方が大きい事を、ほぼ確信していました。セントクリスのパリアティブケアの医師たちも、異論はなく、病気が進行して再びホスピスが必要となるその時まで、一旦ホスピスから卒業する方針に切り替えることにしたのです。キンバリーと私がこの事を告げると、ダフネーもジャンもあきらかに動揺し、「それは困るよ!」と泣きそうな顔になりました。私達は、「もちろん今すぐって訳じゃないですよ。グレイスの様子を見ながら、準備をしていきましょう。そして、これなら大丈夫、ってあなた方が安心できるまで、私達がサポートしますから」と言い、二人は少し落ち着きを取り戻しました。そうして、私達はグレイスのディスチャージ(サービスの終了)に向け、準備を始めたのです。それは主に、私達が請け負っていた部分、つまり、薬や物品のオーダー、いつどんな時に誰に連絡するのか、医師か、ソーシャルワーカーか、セラピストか、などを自分達で行うための引継ぎでしたが、ホスピスではなくなる為に保険のカバーも変わり、また、医師もセントクリスのパリアティブケアチームではなく、かかりつけの小児科医、及び神経内科医が主に関わってくる為、新たにアポイントメントを取るなどの手続きもありました。こうした一つ一つをクリアし、とうとう準備も整い、いよいよグレイスは私達の手を離れることになったのです。 ホスピス最後の日、グレイスはいつものように機嫌よく、つぶらな黒い瞳をきらきらさせていました。8ヶ月前、ジャンとダフネーはこの子を看取る覚悟でこのアパートに戻ってきました。それが今、ダフネーの胸に抱かれ、ニコニコと笑っているのです。その日、キンバリーは車の故障のために最後の訪問ができず、私一人になってしまいましたが、ジャンは目を潤ませながら、「こんな日が来るとは思ってもいなかったよ。二人には本当にお世話になって、どんな言葉でも足りないくらい感謝しているよ」と言い、「キンバリーにも、近くに来る事があったら、ぜひ顔を見せてくれ、って伝えて欲しい」と言いました。私が「もちろん、彼女もあなた達やグレイスに会えなくて残念がっていたもの。ちょっと寂しいけど、でも、こんなに嬉しいお別れができるなんて、私達には滅多にないことだから」と言うと、ダフネーがこう言いました。「全ては神様の御心なんだと思うわ。私はずっと信じていたもの。グレイスは大丈夫よ。」私は頷いて、「そうね、いつかまた私達が来る事があるかもしれないけど、その日ができるだけ遠い未来である事を祈ってるわ。あなた達なら大丈夫。グレイスは幸せな人生を送れると思う」と言いました。それから、私はダフネーに、グレイスの為に折った天使を渡し、しっかりとハグしました。それから、ジャンともお別れのハグをして、最後にもう一度グレイスを抱っこさせてもらい、柔らかいほっぺたにキスをしました。グレイスはくすぐったそうに笑いました。私は心の中で、「この笑顔がいつまでも続きますように」と祈りながら、グレイスをダフネーに渡して、名残惜しい気持ちを残しながら、アパートを出ました。二人は私が階段を下りるまで、何度も「ありがとう」と言いながら、見送ってくれました。 MLDは切ない病気です。それでも、子供にはそれぞれその子の命の強さがあります。グレイスは強い命に恵まれ、強い心を持った両親に恵まれました。この先、いつかホスピスが必要になる日が来ることは、ジャンもダフネーも知っています。それでも、その時までグレイスが楽しく、幸せな日々を過ごせるよう、あの二人なら育てていけると思うのです。
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