アデリーナは、毎朝お風呂に入るのが日課でした。エレーナとエミリオが二人がかりで入れるのですが、日に日に大仕事になっていきました。エレーナがお湯の準備をする間、アデリーナは進行方向を向いたまま、エミリオの足の甲に自分の足を乗せて立ち、彼に両腕を支えてもらって、ペンギンのように一歩ずつバスルームまで歩くのでした。その朝は、彼女の皮膚の状態を見てもらいたいから、と私の訪問時にお風呂に入ることにしていました。いつものように、イッチニ、イッチニ、とパパの竹馬に乗ってバスルームに着くと、アデリーナは待っていたエレーナに抱きかかえられるようにして立ちました。そして、赤くなり始めた臀部をチェックしようと私が覗き込んだその時、アデリーナが「プウッ!」とおならをしたのです。私とエミリオ、そしてエレーナが同時に「アデリーナ!!」と叫ぶと、アデリーナは声をたてて笑ったのです。身体を揺すって、本当におかしそうに、アデリーナは笑いました。それは、私が初めて聞いた、アデリーナの笑い声でした。透き通った、ガラスの鈴を鳴らすような、どこまでも響いていきそうな、そんな笑い声でした。私達も笑いながら、「おかしくないわ、アデリーナ!(私)」「いやいや、今日はNobukoのラッキーデーだな(エミリオ)」「もう、アデリーナったら(エレーナ)」と口々に言い合い、それを聞いてアデリーナはますます笑い、しばしの間、エレーナとエミリオも目尻に涙をにじませながら、笑い続けていました。 アデリーナは、カーテンを閉めた部屋で眠っている時間が増え、頓用のモルヒネを使う頻度は少なくなっていきました。頭痛は起こらず、食欲はすっかり影をひそめ、穏やかな日が続きました。私の毎日の訪問は、主にエレーナとエミリオ、おばあちゃんと話をし、ビビアンと折り紙をして遊ぶ事で、アデリーナのアセスメントはいつも必要最小限にしていました。アデリーナの小康状態が続いていた時は、もしかしたら誤診だったのではないかと、疑問と微かな希望を抱き始めていたエミリオも、この頃には、残念ながらそうではない事を受け入れていました。ビビアンは折り紙のパピーとてんとう虫がお気に入りで、何度も折ってくれとせがまれました。そして、それぞれが4つずつになった時、ビビアンはそれらを並べてエミリオとエレーナを呼びました。「ほら見て、ファミリーよ!これがママ、これがパパ、これがアデリーナ、それからこれがビビアン。」エレーナもエミリオもニコニコと笑って、「ほんとだ、ファミリーだ」と言いながら、ビビアンを抱きしめました。ビビアンはただ無邪気に、両親を喜ばせた事が嬉しくて仕方ない、と言うようにはしゃいでいました。3歳のビビアンが、自分にお姉ちゃんがいたという事実を実感として記憶する事は、おそらくないでしょう。私は3人を見ながらぼんやりと、「エレーナはきっと、この折り紙の4人家族を取っておくだろうな」と思いました。そして同時に、家族が減る、子供がいなくなる、と言う喪失感の深さや重さは、自分には計り知れないものなのだと痛感していました。 アデリーナは、階下に降りてくる気力も体力もなくなり、ビビアンがアデリーナのベッドを訪れる事もなくなっていきました。私とソーシャルワーカーのキンバリーは、3歳児が重病の家族に会おうとしなくなるのは、ごく自然な事で、一種の自己防衛機能であることをエレーナ達に話しました。エレーナ達は良く理解し、自分達の気持ちや期待を、ちいさなビビアンに押し付けるような事は決して言いませんでした。アデリーナの呼吸が少しずつ不規則になり、眠っている間に時々数十秒ほどハッハッと素早く吐き出すような呼吸が見られるようになりました。エレーナは、初めてそれに気づいた時、不安のあまり動画に撮って私の携帯電話に送ってきました。私はすぐに、それが自然なプロセスの一部であり、アデリーナが苦しそうでない限り、心配しなくて良い事、一生懸命呼吸をするようであれば、液体のモルヒネを舌下するように返事をしました。来週にはキャロルが戻ってくるという、それが木曜日の事でした。金曜日、アデリーナは薬をのむのを嫌がりました。私が、モルヒネとロラゼパム以外の薬は中止してもかまわないと言うと、エレーナもエミリオもその意味を理解したように、頷きました。私は腫瘍医にアデリーナの状態と、症状緩和以外の薬は全て中止した旨を伝えました。腫瘍医は、「私に出来る事があったら、いつでも連絡して頂戴」と言い、両親にも同じことを言ってくれました。土曜日の朝、アデリーナはエレーナに「卵が食べたい」と頼みました。エレーナの作ったふわふわのスクランブルエッグをひと口食べたアデリーナは、「おいしい」と言ってもう一口食べ、それから、エレーナに手を伸ばしました。エレーナはスプーンを置き、アデリーナとハグをしました。それが、アデリーナが口にした、最後の食事でした。 日曜日、アデリーナは昏睡状態に入りました。エレーナとエミリオは、交代でアデリーナの傍につきました。しかし、一方が付いている間も、結局殆ど眠る事はありませんでした。同時に、彼らからいつ連絡が来てもいいよう、私も携帯電話を離さず、夜は居間のソファーで寝ていました。イタリアから戻ってきたキャロルには、アデリーナが重篤な状態である事を伝え、月曜日は一緒に訪問することにしました。キャロルは驚かず、逆に自分の事を待ってくれたのだと思いたい、と落ち着いて言いました。月曜の朝、キャロルとキンバリーと私の3人が寝室に入ると、アデリーナは暫く使っていた電動ベッドではなく、以前のように両親の大きなベッドに横になっていました。呼吸は浅く、心拍数は速く、全身で闘っているのが一目で分かりました。すぐに腫瘍医に電話をして、モルヒネの量と使える頻度を増やしました。不安そうなエレーナに、モルヒネは呼吸を楽にしてアデリーナをリラックスさせることはあっても、死を早める事はないと説明すると、エミリオが、「君達の判断に任せるよ。とにかく、アデリーナが苦しくなければ、それでいいんだ」と言い、エレーナも頷きました。二人とも、アデリーナといられる時間があと僅かであること、大きな哀しみと、たくさんの小さな喜びに満ちたこの旅が終わりに近づいている事を悟っていました。私はこれから見られるかもしれない様々な症状を説明し、何かあったらいつでも私かキャロルに連絡するように言いました。エレーナは、「わかってるわ、あなたも知ってるでしょ、私が言われなくてもそうするってこと」と言って、少し笑いました。 エレーナは何度かメールでアデリーナの様子を知らせてきました。夜になると、口や鼻から泡が出てきたと言い、吸引機が必要じゃないのかと訊いてきました。私は、それが自然なプロセスの一つであること、吸引機は必要なく、分泌液を減らす液体の薬を数滴舌下する事、そして、こまめに口や鼻を拭いてあげるように答えました。私が彼女のメールに答えるたび、エレーナはいつも律儀に『ありがとう』と返信してきました。火曜日、キャロルと私は再び一緒に訪問しました。キャロルにとっては、死のプロセスの最終段階を実際に見る初めてのケースであり、小児ホスピスナースとしてはとても大切な機会でした。アデリーナは、まるでその為にキャロルの帰国を待っていたかのように、典型的な症状を一つ一つ見せてくれたのです。呼吸が浅く、チェーンストークスと言われる、無呼吸と速い呼吸を繰り返す状態になり、断続的な発熱に加え、手足は冷たく、チアノーゼがみられるようになりました。アデリーナの胸にはエレーナのロザリオが置かれていました。エミリオは神を信じてはいませんでしたが、それがエレーナにとってとても重要なことであることを認め、理解していました。キャロルはその事にいち早く気づき、エミリオに敬意を払っていました。クリスチャンであるキャロルには、それがとても意味深いことであるとわかっていたのです。 その晩遅く、エレーナからこんなメールが来ました。『アデリーナはとても静かに眠っているわ。あの子ったら、どんどんきれいになっていくの。』私はこう返信しました。『それがあなたたちのお嬢さんよ。』エレーナからはいつものように返事がきました。『そうね、どうもありがとう。』エミリオから電話があったのは、それから数時間後の午前2時半頃でした。 私はエミリオにこれから行くと言ってから、キャロルに電話をしました。キャロルは一緒に死亡時訪問をしたいので、必ず連絡してほしいと言っていたのです。私は15分後にピックアップするから、と言って大急ぎで着替えました。真夜中の高速道路を走りながら、キャロルは死亡時訪問でするべきことを確認しようとしましたが、緊張しているのか、何度も同じ質問を繰り返しました。私はキャロルにこう言いました。「心配しなくて大丈夫。私がサポートするから。それよりも、あなたは大丈夫?」キャロルは少し間をおいてから、「実はね、自分でも意外だけど、ショックはなかったわ。平気、とは言えないけれど、思ったより落ち着いてるの。なんだろう、悲しいけど、悔いはないっていう感じかしら」と言いました。私は誰もいない道路を見つめながら、キャロルに言いました。「あなたもすっかりホスピスナースになったね。」 アパートに着くと、おばあちゃんがドアを開けてくれました。私達はそれぞれハグをして、お悔やみを言いました。おばあちゃんは涙を拭きながら、「全て終わったわ。あの子は天国に行ったわ。もう、苦しまなくていいのよ」と言い、私達を二階に促しました。寝室に入ると、エレーナとエミリオに挟まれ、アデリーナが静かに横たわっていました。エレーナが言った通り、アデリーナはとても綺麗でした。思わず「天使だわ」と口にしたその瞬間、ああ、終わったんだ、と言う思いが、透明な水に一滴インクを垂らしたように、一気に胸に広がり、二人が立ち上がるまで、そのまま動けませんでした。 エミリオとエレーナはとても落ち着いていました。真っ赤な目をして、時々頬を拭いながら、それでも二人とも精一杯の微笑を作って、私達に一人一人ハグをしました。二人とも、何度も「ありがとう、本当にありがとう」と言いました。私達はアデリーナの死を確認してお悔やみを言い、エミリオと一緒に階下に降りました。エレーナは一人でアデリーナの傍に残りました。死亡診断書に死亡確認時刻を記入し、確認者としてのサインと、看護師免許番号を記載しました。それから腫瘍医に電話をし、死亡確認の連絡をしました。葬儀社にはエミリオが電話をしました。薬を処分し、葬儀屋さんを待っている間、エミリオはこんな事を言いました。「今でもまだ、悪い夢を見ているようだよ。でも、本当に終わったんだね。認めたくはないけど、でも、やれることはすべてやったと思うよ。後悔はない。僕は、仕事ばかりの父親じゃなかったし、彼女の学校に迎えにも行ったし、先生たちとも良く話した。行事だって参加したし、家でも父親として出来る事はなんでもしたよ。旅行だってしたしね。だから、アデリーナとの関係も良かった。アデリーナは僕を信じていたし、パパは何でも出来ると思っていたんだ。だからこそ、彼女は僕にしてほしい事があったんだと思う。アデリーナはね、僕に助けて欲しかったんだよ。口には出さなかったけどね、僕に救ってもらいたかったんだ。でも、僕には出来なかった。アデリーナを助けられなかったんだ。」それから彼は後ろを向くと、声を殺して泣きました。キャロルが必死になって言いました。「エミリオ、あなたはできる限りのことは全てやったわ。アデリーナの為に、何もかも投げ出して、この3ヶ月間、彼女の為だけに生きてたじゃない。あんな事、誰にでも出来る事じゃないわ。あなたは本当に良くやったのよ。」エミリオは向こうを向いたまま、うん、うん、と頷きました。おばあちゃんはキッチンでコーヒーを入れながら、そんな息子を切ない眼で見つめていました。 玄関のベルが鳴り、葬儀屋さんが入ってきました。キャロルと私はもう一度寝室に上がり、エレーナとアデリーナに最後のお別れをしました。私はアデリーナのおでこにキスをし、それからエレーナにハグをして、言いました。「あなたは素晴しいお母さんだわ。アデリーナは本当にラッキーだったと思う。きっと、彼女もそう思ってたと思うわ。」エレーナは泣き笑いの顔で、「どうもありがとう。アデリーナはね、私の自慢の娘よ。心から誇りに思うわ」と言い、それから「あなた方とキンバリーには、感謝しても仕切れないわ。本当にどうもありがとう」と言いました。 私達はもう一度おばあちゃんとエミリオにハグをして、お別れをしました。私は、エミリオに「あなたはアデリーナにとってはヒーローだったと思うわ。きっと、彼女はわかってた。自分のパパは世界一だって」と言いました。エミリオはいつもの笑顔になると、「ありがとう。僕らはラッキーだったよ。君達が彼女のホスピスナースでね」と言い、それから、出来るだけ早くここを引き払い、暫く3人でヨーロッパを旅行してから、ペルーに帰ると言いました。そして、故郷に戻ったら、アデリーナの名前で何かチャリティーを立ち上げるつもりだから、その時は知らせるよ、と言いました。私達は、「待ってます」と言って、3ヶ月間、ほぼ毎日通い続けたアパートを後にしました。 それからひと月半ほどたって、エミリオからメールが届きました。リマに戻り、みんな元気にしている、と言うことでした。そして、『アデリーナ・アート』と言う、癌の子供達に、アートを通して楽しく、創造的で、そして愛情に溢れた時間を提供するチャリティー団体を立ち上げたと知らせてくれました。お絵かきや、クラフトが大好きだったアデリーナを記念するのに、それ以上のものはないでしょう。代表者はエレーナでした。早速フェイスブックを見てみると、目に飛び込んできたのは、折り紙のパピーや、蝶ちょ、折鶴などを並べた写真でした。それは、私が作ったものではありませんでしたが、一瞬にして、アデリーナのために、今日は何を折ろうか、と思案した日々が蘇ってきました。エレーナとエミリオにとっては、忘れてしまいたい、けれど決して忘れられないフィラデルフィアでの4ヶ月の中で、箱いっぱいになった折り紙たちは、もしかしたら、いつの日か懐かしい思い出になってくれるのかもしれない。そう思ったら、いつか、ペルーを訪ねてみたい、大きくなったビビアンに会ってみたい、アデリーナが大好きだったリマの海を見てみたい、そして、エレーナやエミリオたちと一緒に、ペルー産のワインを飲みながら笑いあいたい、そんな気持ちが押し寄せてきたのです。そんな日が来るまで、アデリーナは、ペルーの山に咲く静かだけれど色鮮やかな花のように、私の心の中に咲き続けるような、そんな気がするのです。
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