ホスピスナースは今日も行く 2016年03月
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ホスピスナースは今日も行く
アメリカ在住日本人ナースが、ホスピスで出会った普通の人々の素敵な人生をおすそわけします。
ミュージシャンを送る
 先日、知り合いのミュージシャンが亡くなりました。まだ60代半ばだったリチャードは、その晩、長年教えていたギターのレッスンを終えた後、ベンチで一息つき、そのまま心臓発作を起こして亡くなったのです。やはりミュージシャンで、彼とよく一緒に演奏していた友人のバイオリニストのロブから連絡を受けた時、夫も私もあまりに突然のことに、言葉を失いました。
 リチャードと知り合ったのは、長男が小学校一年生の時、息子が仲良しだった友達のお父さんを通してでした。と言うのも、ヴィセンテと言うそのお父さんは、出身地であるメキシコのワハカ州ではかなり有名なギタリストで、またシンガーソングライターでもあり、リチャードとは絶妙のコンビで、よく一緒に演奏していたのです。スペイン語訛りの英語でよくしゃべり、よく笑う背の低いヴィセンテとは対照的に、長身のリチャードは寡黙で、それでいていつも柔らかな優しい雰囲気を持った人でした。ヴィセンテの弾き語りはソロでも素晴らしいのですが、そこにリチャードが加わると、たった二台のギターとは思えないほど、曲の幅と深みが増幅し、弾くほどに二人のテンションは上昇し、聴いている者達を遥か遠い世界に連れて行ってくれるのです。始めて二人のデュオを聴いた時は、あまりの素晴らしさに、感動を通り越して度肝を抜かれたものです。
 フィラデルフィアは、アメリカ建国の地であると同時に、実は音楽や芸術の豊かさでも歴史のある街です。ニューヨークが近いので、ついその陰に隠れがちですが、アメリカで一番古い劇場はフィラデルフィアにありますし、有名な音楽学校や美術学校もあります。クラシック音楽はもとより、ジャズやR&B、ソウルや、ヒップホップなどでも沢山のミュージシャンを生み出していますし、今年で55回目を迎えるフィラデルフィア・フォークフェスティバルなどは、全国からミュージシャンが集まって演奏し、沢山の人がテントを張って泊まり込むという、ちょっとしたミニ・ウッドストックといった感じです。そして、リチャードはこのフォークフェスティバルの常連演奏者でした。
 リチャードのメモリアルサービスは、彼が一番よく演奏していたマーメイド・インという小さなライブ・バーで行われました。フィラデルフィアのチェスナットヒルという町の、かつて路面電車が通っていた石畳の坂の下にあるその古いバーは、1734年に宿泊できる居酒屋として建てられ、ジョージ・ワシントンら、“建国の父”達も集った(らしい)という歴史を持つ場所で、また、フィラデルフィアのフォークミュージックシーンの“ホーム”としても長い歴史を持っていました。冷たい雨がそぼ降るその日、マーメイドはリチャードを偲ぶ人達で溢れ、中に入り切れないほどでした。夫と私はそこでロブと彼の奥さんのジャネットに会い、リチャードの最後の日の様子を聞きました。とにかくあまりにも唐突で、実感が湧かない、と言うのが私達に共通した思いでした。その日のマーメイドはラッシュアワーの山手線並みで、結局リチャードの奥さんや一人息子でやはりミュージシャンのエメットに挨拶もできませんでしたが、ロブ達が「今月中にドラマーのジムのスタジオでメモリアル・ギグを行うから、はっきり決まったら連絡する」と言ってくれたので、そのままマーメイドを出ました。
 リチャードの悲報は、フィラデルフィアの新聞の死亡欄でも写真入りで大きく取り上げられました。それを読んで、私達は初めて彼の生い立ちやミュージシャンとしての経歴を知りました。そういう話をしたことがなかったのが、今になって悔やまれ、同時に改めて彼のミュージシャンとしての偉大さを知ったのです。彼はまた、ベトナム戦争の時、conscientious objector(良心的参戦拒否者:宗教上などの理由で戦闘には参加せず、別の方法で国に奉仕する人)としてボストンの病院で働いたそうで、夫は何度も「そうか、そうだったのか」と頷いていました。
 メモリアル・ギグはフィラデルフィアのリッテンハウス・サウンドワークスという、古い倉庫かガレージの二階を改装したスタジオで行われました。そのスタジオは地元のミュージシャン達のレコーディングや、音楽やアートのパフォーマンス、また、音楽のレッスンなども行っている所で、リチャードの音楽仲間であるドラマーでパーカッショニストのジムが主催していました。ポットラック(食べ物持ち寄り)と言うことで、私は以前何かのポットラックパーティーで、リチャードが美味しいと言っていた、太巻きを持っていきました。薄暗い階段を上がると、打ちっぱなしの壁に、大きな梁がむき出しのパフォーマンスエリアで、最初に演奏するミュージシャン達がセッティングをしており、パイプ椅子と年季の入ったソファーが並べられた観客席は、すでに大方埋まっていました。私達はロブとジャネットを見つけ、少し話しをしてから、食べ物を取って、席に着きました。その夜、ロブはリチャードにギターを習った息子さんと一緒に演奏するという事でした。
 ギグは、エメットの司会で進められました。ビールのロング缶片手に、彼は淡々とした口調で、父親として、ミュージシャンとして、そして、一人の人間として尊敬するリチャードの為に、こんなに大勢の人達に集まってもらえて、これ以上ありがたいことはない、飛び入りも大歓迎だから、ぜひ音楽を楽しんで行って欲しい、と挨拶しました。
 それから、次々とリチャードの音楽仲間達が、彼の作った曲や、彼との思い出深い曲を奏でていきました。古く長い付き合いのミュージシャンから、リチャードにギターを習ったという若いミュージシャンまで、誰もが魂を揺さぶる様な、そんな演奏をしていました。そこにリチャードがいないのが不思議で、と同時に、彼のギターのパートがハープや、ベースギターや、バイオリンでアレンジされているという現実に、彼の不在をどうしようもなく突きつけられてくるのでした。あるギタリストは、「リチャードは一人で弾いた」と言う曲を、ベーシストと二人で演奏し、リチャードが10本全ての指を使う奏法の達人であったことを、改めて思い出させてくれました。ベトナム戦争の後、24歳のリチャードは、プロのギタリストとしてサンフランシスコの音楽シーンに彗星のように現れ、2年後にフィラデルフィアに戻ると、それ以降、地元での音楽活動をライフワークとしました。生涯で8枚のアルバムを作り、大勢の生徒にギターを教えただけでなく、地元のコミュニティーによる非営利の学習センターのボランティアとして、20年もギターを教えました。彼と一緒に演奏をしたことのあるミュージシャン達は、口を揃えてこう言いました。「彼と一緒に弾くと、出来ると思わなかったことが出来るんだよ。彼はね、一緒に演奏する者の隠れた力を自然に引き出してくれるんだ。僕達自身がびっくりするくらいにね。彼と一緒だと安心して弾けたし、人として、あんなに親切で、心の広い、そして情熱を持った人はいなかったよ。」
 リチャードがいなくなった今、リチャードと彼の音楽を愛する人達が集まって、彼の曲を演奏し、彼のために演奏し、それを聴き、楽しみ、感動し、思い出し、笑い、泣き、懐かしみ、そして、感謝する。いつの間にか座りきれない人で埋まったスタジオは、それぞれのいろんな思いと、奏でられる音が混じり合った、なんとも言えず心地よい空気で満たされていました。
 ミュージシャンを送る。人は死ぬとその身体はなくなりますが、リチャードは多くの人の心の中に、まるで種を蒔く様に、彼の音楽を残しました。そして、彼の残した音楽は、それぞれの人の中で育ち、その人達を繋げたのです。繋がった私達は、その音楽で彼を送りながら、心地よい一体感に包まれていました。そこには、確かにリチャードがいました。スタジオを後にした私達は、冷たく澄んだ夜の中で彼の早すぎた死を惜しみつつ、素晴らしい音楽家と知り合えた幸運に、喜びを感じずにはいられませんでした。そして、そんな風に思われることを、もしかしたらリチャードは望んでいたのではないかな、とも思った、春まだ浅いある晩のお別れでした。
[2016/03/30 22:17] | つぶやき | トラックバック(0) | コメント(0)
奇跡のベイビー
 アナ(仮)がホスピスに紹介されてきたのは、生後一ヶ月でした。まるで、アン・ゲデスの写真の赤ちゃんのような、まるまるとして桜色のほっぺのアナは、一見、健康そのものでした。彼女の頭の奥深くに腫瘍があり、手術も出来ず、誕生日を迎えることもない運命にあるとは、誰にも信じられませんでした。ジャックとティナには3歳の長男がおり、生まれ育ったピッツバーグ(ペンシルベニア州西部)から、ジャックの仕事でこちらに来て一年足らずでした。実家のピッツバーグから、それぞれの両親が出産と産後の手伝いに来てくれていたのが、アナが脳腫瘍で余命いくばくもないと言われ、世界がひっくり返ったのです。それから、二人がアナのケアに専念できるよう、それぞれの両親や兄妹、いとこ達がローテーションを組んで手伝いに来る事になっていました。ソーシャルワーカーのキンバリー、小児ナースのキャロル、そして私の三人で初回訪問をした時は、両サイドの祖父母達と、母親側のおばさんもいて、大きな家の中は、これが現実だとはまだ信じられないような、悲しみというよりも、ショックの只中にある大人たちでざわめいていました。
 産後ひと月で、自分の身体も元に戻っていないティナは、そんな家族のサポートを素直に受けとめながらも、母として、また、その家の主婦として気丈に振舞っていました。思いもよらなかったアナの病気は、ジャックとティナを困惑と悲しみの渦に突き落とし、それでも二人はもがきながらも受け入れ、どんなに短くてもこの世に生まれた喜びをアナに感じさせてあげたい、少しでも一緒に幸せな時間を過ごしたいと言う、前向きな姿勢を貫いていました。そして、そんな二人を支えていた大きなものの一つが、信仰でした。二人は最初、ホスピススタッフの存在を、3歳のダニエルから完全に隠そうとしていました。ダニエルにはアナが病気である事は言わず、あくまでもいつも通り、普通の生活を続けようとしていたのです。しかし、私達が3歳の理解能力、適応機能、そして隠し事による心理的影響を説明し、堂々とホスピスのスタッフに会わせた方が自然であり、それが彼にとって新しい“普通”になる事を説明すると、二人は戸惑いながらも受け入れ、人なつこいダニエルはすぐに私達に慣れてくれました。彼にとって、私達は毎週遊びに来るおばさん達に他ならず、それ以外の何ものでもありませんでした。そして、そんな周りの大人達の心配をよそに、アナはおっぱいをよく飲み、すくすくと大きくなっていきました。発達段階は若干遅れてはいたものの、機嫌もよく、次第に“進行の早い悪性腫瘍でおそらく数週間”と言う診断に、両親も私達も疑問を持つようになっていきました。
 アナはフィラデルフィア小児病院(CHOP)で確定診断を受けましたが、そのほかにもいくつかの小児病院にデータを送り、セカンドオピニオンを求めていました。ある病院からは、診断名は同意見であるが、うちでならこういう治療が出来る、と言う返事が来ましたが、ティナ達はその意見には関心を寄せませんでした。と言うのも、単刀直入に言えば、治療はするが完治することはない、と言う意味であり、つまり、生まれて間もないアナの身体にいくつもの針や薬や管を入れ、それでもいづれ来る運命は変えられないのなら、それは二人にとってはまるで無意味だったのです。ところが、生後3ヶ月を過ぎた頃、ある小児科医から“もしかしたら、悪性腫瘍ではないのではないか”、と言うメールが届き、アナの予想外の発達に首をかしげていたCHOPの医師達も、ちょうどその頃風邪をひいていたアナがよくなるのを待って、新たに生検(バイオプシー)を行う事にしたのです。最初の段階では腫瘍の位置が深く、アナが小さすぎた為に生検は出来なかったのです。そして、その生検の結果、アナと彼女の家族の未来は大きく変わったのでした。
 新たに下された診断は、Juvenile Xanthogranuloma (JXG) (若年性黄色肉芽腫)と言う良性で、主に皮膚に出来、たいていは自然治癒する腫瘍でした。しかし臓器に出来るのは稀で、特に脳内にこの腫瘍が出来るのは非常に珍しく、世界でも殆ど症例がありませんでした。それでも両親にとって、これ程嬉しいニュースは無かったのです。数週間と言われた命が4ヶ月となり、そして、もうアナの命を脅かすものは無くなったのです。しかし、良性であれ、その合併症は確実にアナの発達に支障をきたし始めていました。水頭症の症状が出始め、シャント(頭蓋腔から溜まった髄液を腹腔に流す管)手術をし、その後、飲み込みが悪くなった為NGチューブ(鼻腔から胃まで入れる細い管)を入れたもの、嫌がって抜いてしまうのでNJチューブ(鼻腔から空腸まで入れる管)に変え、また、シャントが漏れて2度も再手術をし、と、悪性ではないとわかった途端、次から次へと問題は表れたのです。そして、何度かの入退院を繰り返したあと、アナの右目はコントロールを失い、内側に寄るようになっていました。
 私達はアナの診断名が変わった時点で、方針を変えていました。JXGはホスピスの適応ではなく、次の再認定はありませんでした。エンドオブライフではなく、少しでも残存機能を保ち、発達機能を刺激するため、Early Intervention(早期介入)と言われる、3歳以下の発達障害を持つ子供達の為の州によるプログラムを受けるようにし、家族がアナの障害を理解し、今後長く続く彼女の人生をサポートしていけるよう、180度の方向転換をしたのです。同時にCHOPでは腫瘍を縮小するために、化学療法を薦めていました。ティナはアナが完全に口から食べられるようになるまで、様子を見たいと言い、母親の直感で、アナにはNJチューブは必要ないはずだと信じていました。そして、彼女の思った通り、ある日曜日の朝、ティナが教会に礼拝に行っている間に、アナは見事にNJチューブを引っこ抜いたのです。家でアナを見ていたジャックはパニックになり、すぐにティナに電話をしましたが、礼拝の間携帯を切っていた彼女は気がつきませんでした。ティナが家に戻るとオロオロしたジャックとニコニコしたアナが待っていました。話を聞いたティナは、とりあえずアナに母乳をあげたのです。アナはごくごくと、全く問題なくおっぱいを飲み、満足するとげっぷをして、眠りました。ティナはCHOPに電話し、パリアティブケアチームと話をすると、ERに来る必要は無し、そのまま経口で様子を見ましょう、と言う事でした。そしてそれ以来、アナは二度とチューブを入れる必要はなくなりました。
 化学療法が始まり、アナは副作用も無く順調でした。そしてついに、アナはホスピスから卒業したのです。それから約半年が経ち、キャロル、キンバリー、私の三人はティナからメールを受け取りました。そのメールにはこう書いてありました。『私達は皆元気です。アナもとっても元気よ。ものすごいサプライズがあるから、明日の7時のニュースを見てね。』
 それは、フィラデルフィアのローカルニュースでした。ローマ法王がフィラデルフィアを訪問し、市内をパレードした際、ジャックの知り合いのFBIエージェントの計らいで、アナは法王のキスをその頭に受けたのです。敬虔なカソリックであるティナとジャックにとって、それはまさに神のご加護そのものでした。そしてその2ヵ月後、アナの奇跡はナショナルニュースどころか、世界に発信されるニュースになったのです。アナがローマ法王フランシスにキスされたのが9月、そして、11月に撮ったMRIでは、それまで変化の無かったアナの腫瘍が驚くほど小さくなっていたのです。ニュースキャスターにインタビューされるティナとジャックは、アナとダニエルを膝に抱き、喜びに満ち溢れていました。もちろん、アナは化学療法を受けていたわけですから、たまたまそのタイミングで効果が現れたのかも知れません。それでも、神を信じ、神に祈り、その御心のままにと、一時はアナを彼の元に送る覚悟さえした二人にとって、それはやはり奇跡でした。
 どんなに祈っても通じない祈りもあります。しかし、祈る事で心を支え、神の言葉を信じる事で救われる人達は大勢います。私は宗教は持ちませんが、奇跡は信じます。科学で証明されようがされまいが、その意味はまったく別の所にあるのだと思うのです。ホスピスナースは稀にですが、そんな奇跡に遭遇する事もあるのです。そして、それ自体が奇跡なのかもしれません。
[2016/03/19 20:18] | 忘れられない人々 | トラックバック(0) | コメント(0)
悲しみのかたち
 『中国、晋の武将が船で三峡を渡った時、従者が小猿を捕らえ船に乗せたところ、母猿が叫びながら岸沿いに船の後を追い、船が岸に近づいた所で飛び乗ったが、そのまま悶死してしまった。そこで母猿の腹を割いてみると、腸がずたずたに切れていた。』-「断腸の思い」の語源、由来となった中国の故事です。
 自分の子供のためにホスピスを選ぶ親は、まさに断腸どころか、体中を引き裂かれる思いでサインすると思うのですが、人によってその思いは色々な形で表されます。そして、私達ホスピスナースにとって、それを掬い上げ、受け止めることが、その人達を支援していく始めの一歩となるのです。
 フィラデルフィアには、大きな小児病院が二つあり、幸運なことにどちらの病院にもパリアティブケア(緩和ケア)チームがあります。私達のホスピスの小児プログラムに依頼が来るのは、主にこの二つの小児病院のパリアティブケアチームからで、患者さんがホスピスにサインしてからも、我々のパートナーとしてそのケースに関わっていきます。つまり、私達は最初から小児ホスピスの理解者と一緒に仕事をするわけで、それは私達にとっても、家族にとっても非常に心強いものなのです。成人でもそうですが、小児の場合は特に、パリアティブケアやホスピスを本当に正しく理解していなかったり、受け入れられない医師が、まだまだ少なくありません。そして受け持ちの医師がそう言う人であると、なかなかこちらの希望するオーダーがもらえなかったり、患者さんや家族を混乱させてしまう事があり、ホスピスナースとしては結構苦労する事になるのです。もちろん、そう言う場合のためにホスピスメディカルディレクターがいるわけで、受け持ちの先生とでは埒が明かない時の切り札でもあるのです。私達のホスピスにはメディカルディレクターが二人おり、一人は小児プログラムを担当しています。そして、新しいケースが依頼されると、彼女は必ずナースと一緒に一度訪問します。患児と家族に実際に会い、自己紹介することで、両親も安心できるし、彼女もより理解を深め、親しみを持つ事が出来るのです。そして、ナース、ソーシャルワーカー、メディカルディレクターの三者はホスピス小児チームの核として、より親密にそれぞれのケースに関わり、また、お互いにサポートし合える貴重な理解者でもあるのです。
 エイブ(仮)は、生後5ヶ月の男の子で、数週間前に乳児脊髄性筋萎縮症と言う遺伝性の先天性疾患の診断を受けました。脊髄性筋萎縮症の中でも予後の悪い急性型で、診断後間もなくフィラデルフィア小児病院(CHOP)のパリアティブケアチームと話をし、ホスピスを紹介されたのです。エイブの若い両親は、父親の就職でメリーランド州からペンシルベニアに引っ越して来てすぐ、こちらの小児科医を決め、ただの検診のつもりが発達段階で引っかかり、CHOPに紹介され、思いもよらなかった診断を宣告されたと思ったら、ホスピスを薦められると言う、青天の霹靂のような悪夢にさらされたのです。エイブの母親はERのナースで、彼女のお母さんは、ホスピスのナースでした。夫婦の初めての子供であるエイブは、全く健康な赤ちゃんとして生まれ、ひと月前まではすくすくと育ち、家族の希望であり喜びでした。その輝いていた希望が、突然絶望に突き落とされ、家族はそのショックの真っ只中におり、そこに私たちが現れ、エイブのやがて来る死を前提に、その最後を少しでも安らかに迎えられるようにお手伝いをしに来たわけで、言ってみれば、彼女達にとって一生関わり合うなどと思っていなかった人間だったのです。
 スケジュールの都合でアドミッションは小児ナースのキャロルとジーナ、そしてソーシャルワーカーのキンバリーが行いました。その時、両親は二人とも情況を冷静に受け入れ、DNRにもサインしました。母親は、とにかくエイブが苦しまないように、できる限りのことをしたい、と言う一心でした。エイブはすでにミルクを飲むことができなくなっており、Gチューブ(胃に留置するチューブ)を付け、そこから経管でミルクを入れていました。私達のホスピスにサインした時点で、家にはすでに経管栄養用のポンプと吸引機、酸素などの医療機器があったのですが、保険の都合で、全ての機器は私達のホスピスが契約しているプロバイダーに変更しなくてはなりませんでした。これは小児に限らず、成人のホスピスでもそうなのですが、一般のホームケア(パリアティブケアを含む)とホスピスでは保険のカバーするプログラムが異なり、それによって医療機器や薬のカバーも違ってきます。そして、ホスピスの場合、それぞれのホスピスが契約するプロバイダーが、ホームケアで使うプロバイダーと異なる事は良くある事で、これは私達の頭痛の種になっているのです。つまり、ホスピスにサインする前にホームケアを受けており、すでに医療機器をレンタルしていた場合や、ホスピスケアを受けていたけれど、安定したのでホスピスからホームケアに戻った場合など、保険によっていちいちプロバイダーを変えなくてはならず、患者さんにも家族にとってもかなりのストレスになるのです。
 私がジーナと一緒に初めてエイブを訪問した時、若いお母さんの一番の問題は、その医療機器のことでした。エイブ自身は機嫌も良く、経管栄養も順調で、初回時に問題だった全身の湿疹も改善していました。ところが、私達が契約する医療機器のプロバイターが持ってきた経管栄養用のポンプやスタンドが汚れていて、お母さんは穏やかに、しかし、かなり憤慨していました。私達はすぐにプロバイダーに連絡し、新しい物と取り替えてもらい、上司にもその旨を伝えました。ところがどういう訳か、その後も医療機器に関するトラブルが続き、その度に私達はプロバイダーに電話をし、上司に報告し、お母さんに謝り、ただでさえ辛い時なのにさらにストレスをかけるような事態になってしまったのです。こうした、契約しているプロバイダーや薬局とのトラブルは直接私達のミスではなくても、サービスを受ける側としては全てを含めてホスピスケアであり、つまりは私達ホスピスの評価に繋がります。そして、エイブのケースのように悪い事は重なるのが世の常で、3度目のトラブルの後、お母さんは上司に直接電話をし、“ホスピスのスタッフには何の問題もないし、彼女達のエイブに対するケアは気に入っているからエージェンシーを変えたくはないけれど、これ以上この医療機器プロバイダーを使うなら考え直したい”と言ってきたのです。ジーナも私もお母さんの気持ちは良くわかったし、私たちも何とかしたいと思っていました。上司はプロバイダーの責任者と話をし、契約更新も考慮したうえで、直ちに全て新品の機械に取り替える、と言う事で、何とかお母さんに納得してもらったのです。
 こうして何とか医療機器に関する問題が落ち着いた頃、エイブはむずがることが多くなってきました。抱っこする時間が増え、それでもなんとなく不機嫌で、夜泣きの回数も増えてきました。最初はタイレノール(アセトアミノフェン)で様子を見ましたが、効果がないためモルヒネとロラゼパムを使い始めました。明らかに病気は進行しており、訪問する度にお母さんはイライラし、私達に対して“はっきりした答え”を求めるようになって来ました。ERのナースである彼女はエンドオブライフケアには慣れておらず、数値や症状、それに対する治療とそこから期待されるアウトカム(結果)と言う構図から抜け切れなかったのです。私達が予測される症状と、それに対してどの薬をいつ与えるかの指導をする時、その判断基準は“エイブが辛そうだったら”“呼吸が苦しそうだったら”というもので、例えば、“心拍数がいくつ以上”とか、“呼吸数がいくつ以上”というプロトコールに慣れている彼女にはかえって難しく、“母親の直感”に頼りきれない不安があったのです。しかし、同時に、彼女は精神的なケアやサポートを、やんわりと、しかし確実に拒否していました。“わかっているから何も言わなくていい”というのが彼女のスタンスでした。そして、私達はそれを尊重し、彼女が私たちに求めるものを出来る限り提供する事に専念したのです。
 そんなある日、私はオフで、センターシティーで通訳の仕事をしていました。その間、携帯電話は切っており、仕事が終わってから携帯電話をチェックすると上司からメッセージとメールが何通か入っていました。それは3時間ほど前のもので、すぐに電話して欲しい、と言うことでした。私はすぐに上司に電話をすると、「エイブのお母さんから、彼の様子が変だからナースに来て欲しい、と言う電話がありジーナに電話したけれどすぐに連絡がつかなくて、キャロルもオフだったので、結局キンバリー(ソーシャルワーカー)と以前小児ホスピスのケースを持っていたバーブに行ってもらった。後からジーナも訪問したけれど、もしかしたら今夜かもしれないので、そうなったら死亡時訪問できるか?」と言う事だったのです。私は、死亡時訪問をすることは構いませんでしたが、このタイミングの悪さと、長い間訴えていたスタッフ不足が、最悪の形で患者さんのケアに影響してしまった事に苛立っていました。オフのスタッフに訪問をしてもらわなければならないような情況が当たり前のようになり、今回のようにそのスタッフの都合がつかない場合、結果そのスタッフは不必要な罪悪感を持つ事になり、また、それをカバーするスタッフは慣れない情況に戸惑いながらもフォローしなければならないと言う事態を招いてしまった体制。何よりも非常時に初対面のスタッフを送り込まれた家族の心境を思うと、それもよりにもよって、このケースであった事が、私の憤懣を遣る方無いものにしていました。
 結局エイブはその晩を乗り越え、ジーナと私は翌朝一番で彼を訪問しました。小さなエイブは浅い呼吸をし、酸素を付けて、ベビーベッドに横たわっていました。アセスメントをした後、私達はお母さんとお父さんに彼の状態を説明し、経管栄養を止め、パルスオキシメーター(血中の酸素飽和度測定器)をはずすように言いました。お母さんは黙ってポンプのスイッチを切り、パルスオキシメーターのセンサーを取りました。それからジーナが両親に「好きなだけ抱っこしてあげて、話しかけてあげて」と言うと、お父さんがこう言いました。「あなた達がしてくれた事にはとても感謝しているし、プロフェッショナルとしていい仕事をしてくれていると思っている。でも、僕達が知りたいのは事実と、それに対して何をしたらいいのかと言う医学的な指針であり、エイブを抱っこするとか話しかけると言うようなことは聞きたくないんだ。あなた達の立場としてそうしたことを言うのはわかるし、そう言う言葉を必要とする人達もいるとは思うけど、僕達は遠慮する。わかってほしい。」
 私達は十分薬があることを確認し、それから、エイブが亡くなったと思ったらホスピスに電話するように言い、家を出ました。私はジーナに大丈夫か尋ねました。彼女は、「平気よ。ちょっとびっくりしたけど、人それぞれだし、はっきり言ってもらった方がかえってやりやすいわ」と言い、それから「あの二人はまだ、失う事に対する怒りでいっぱいなのね」と言いました。エイブの家は私の担当する地域から20マイル(32km)以上離れており、高速道路を使っても30分以上かかるところでしたが、ジーナはその地域に残るという事でした。私達は恐らくその日のうちにもう一度エイブを訪問するだろうと、ほぼ確信していました。そして、私が自分の地域に戻って二件目の訪問を終えたとき、オフィスから電話があり、エイブが亡くなったと連絡がありました。私はジーナに電話すると、彼女は「わかった、すぐに行ってあなたの到着を待つから」といって電話を切りました。しかし、私が方向転換し、次の患者さんに訪問時間の変更を連絡しようとした時、ジーナから電話がありました。「今お母さんに電話したら、どうも早とちりだったみたい。まだ呼吸してるって。でも、一応訪問してみるから、あなたはまだ来なくていいと思うわ。」
 ジーナが訪問すると、エイブはまだ呼吸をしてはいましたが、顔色は灰色に近く、お母さんが勘違いしたのも頷けるような状態でした。ジーナはしばらく観察してから、家を後にし、結局私が最後の電話を受け取ったのは5時近くになってからでした。その日、私は5時に翌週退職する上司とオフィスで会い、彼女による最後の年度評価をする予定で、毎週水曜日の4時に行っている10歳の男の子の訪問をいつもより少し早めに切り上げ、オフィスに向かっている時にジーナから電話をもらったのです。私はすぐに方向転換し、ちょうど入り口の近くだった高速道路に飛び乗りました。同時に上司に電話をし、エイブの死亡時訪問に行くのでミーティングには行けない事を伝えました。家に着くと、ジーナがお母さんの母親、メリーランドでホスピスナースをしているエイブのおばあちゃんと話しながら私を待っていました。お父さんとお母さんはエイブと一緒に寝室にいました。エイブは、真っ白になって両親のベッドの上にいました。お母さんはベッドの横に座り、エイブの小さな手を握ったまま泣いていました。私が死亡を確認すると、お父さんが「来てくれてありがとう。これから必要な事は、なんですか?」と聞いてきました。私はお悔やみを言ってから、今後の手順を説明しました。それから、遺族に対するビリーブメントケア(グリーフケア)について説明すると、お母さんがこちらを見ずに、はっきり言いました。「ビリーブメントはいらない。誰にもコンタクトなんかとって欲しくない。手紙も送らないで。これで終わりにして。」 
 私は「わかりました。他に何か質問はありますか?」と尋ねると、今度はお父さんが「必要な事は全部聞きました。僕達があなた達に求める事は、もう何もありません」と言いました。私は挨拶をして寝室を出ると、居間ではジーナがおばあちゃんと一緒に待っていました。私は二人に今両親に話したこと、彼らが望んでいることを伝えると、ホスピスナースであるおばあちゃんがこう言いました。「あの子達は、家族がサポートしていくから、大丈夫よ。きっとね、自分達が思っていたよりもずっと痛かったんだと思うわ。来てくれて、どうもありがとう。私は小児のホスピスはした事がないし、出来るとも思わないから、あなた方には本当に頭が下がるわ。」
 看護師、特にホスピスナースにとっては必須読本である、エリザベス・キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』では、死の五段階と言う、自らの死を受容するまでの過程が提唱されているのですが、これは、遺される者にも当てはまるのかもしれません。エイブの両親は、その初期段階でもがいていました。そして、その行き場のない怒りは、助けを求める事さえ拒絶し、悲しみの殻の中に二人を閉じ込めてしまっていたのです。冷たい星空の下で、私はジーナに言いました。「残念だけど、今私たちに出来るのはそっとしておいてあげることなんだと思う。これ以上ホスピスに関わる事は、多分、彼女達にとっては傷口に塩を塗るような、痛みを増長させる事なんだと思う。それは、私達の力が不足していたと言う訳じゃなくて、私達は彼らの求めるものは全部提供したっていう事なんだと思う。だから、これはこれでいいのかもしれない。」ジーナは頷いて、「私もそう思うわ。ありがとう。大丈夫よ、私は」と言いました。それから、彼女はこう言いました。「あなたが寝室にいる間、おばあちゃんとずいぶん話をしたの。私も孫がいるから、彼女の気持ちは良くわかるの。自分の娘が子供を亡くすのを見るのは、自分の子供を亡くすのと変わらないくらい辛い事だと思うわ。だからね、彼女と話すことで、私も何か学んだ気がするの。よかったわ。」
 喜びは分かち合う事が出来ますが、悲しみは、一人一人のものであり、それぞれが自分の中で消化しなければならないものなのだと思います。それは、時間とともに形を変え、いつかそれを受け入れて、一緒に生きて行けるようになるのでしょう。人は皆、そうやって生きているのだと思います。
 
 
 
[2016/03/07 23:18] | ホスピスナース | トラックバック(0) | コメント(2)
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プロフィール

ラプレツィオーサ伸子

Author:ラプレツィオーサ伸子
アメリカ東海岸で在宅ホスピスナースをしています。アメリカ人の夫、子供3人、犬一匹と日々奮闘中。

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2冊目の本がGakkenから出版されました。 「それでも私が、ホスピスナースを続ける理由」https://gakken-mall.jp/ec/plus/pro/disp/1/1020594700 「ホスピスナースが胸を熱くした いのちの物語」と言うタイトルで青春出版社から発売されました。 http://www.seishun.co.jp/book/20814/

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