『中国、晋の武将が船で三峡を渡った時、従者が小猿を捕らえ船に乗せたところ、母猿が叫びながら岸沿いに船の後を追い、船が岸に近づいた所で飛び乗ったが、そのまま悶死してしまった。そこで母猿の腹を割いてみると、腸がずたずたに切れていた。』-「断腸の思い」の語源、由来となった中国の故事です。 自分の子供のためにホスピスを選ぶ親は、まさに断腸どころか、体中を引き裂かれる思いでサインすると思うのですが、人によってその思いは色々な形で表されます。そして、私達ホスピスナースにとって、それを掬い上げ、受け止めることが、その人達を支援していく始めの一歩となるのです。 フィラデルフィアには、大きな小児病院が二つあり、幸運なことにどちらの病院にもパリアティブケア(緩和ケア)チームがあります。私達のホスピスの小児プログラムに依頼が来るのは、主にこの二つの小児病院のパリアティブケアチームからで、患者さんがホスピスにサインしてからも、我々のパートナーとしてそのケースに関わっていきます。つまり、私達は最初から小児ホスピスの理解者と一緒に仕事をするわけで、それは私達にとっても、家族にとっても非常に心強いものなのです。成人でもそうですが、小児の場合は特に、パリアティブケアやホスピスを本当に正しく理解していなかったり、受け入れられない医師が、まだまだ少なくありません。そして受け持ちの医師がそう言う人であると、なかなかこちらの希望するオーダーがもらえなかったり、患者さんや家族を混乱させてしまう事があり、ホスピスナースとしては結構苦労する事になるのです。もちろん、そう言う場合のためにホスピスメディカルディレクターがいるわけで、受け持ちの先生とでは埒が明かない時の切り札でもあるのです。私達のホスピスにはメディカルディレクターが二人おり、一人は小児プログラムを担当しています。そして、新しいケースが依頼されると、彼女は必ずナースと一緒に一度訪問します。患児と家族に実際に会い、自己紹介することで、両親も安心できるし、彼女もより理解を深め、親しみを持つ事が出来るのです。そして、ナース、ソーシャルワーカー、メディカルディレクターの三者はホスピス小児チームの核として、より親密にそれぞれのケースに関わり、また、お互いにサポートし合える貴重な理解者でもあるのです。 エイブ(仮)は、生後5ヶ月の男の子で、数週間前に乳児脊髄性筋萎縮症と言う遺伝性の先天性疾患の診断を受けました。脊髄性筋萎縮症の中でも予後の悪い急性型で、診断後間もなくフィラデルフィア小児病院(CHOP)のパリアティブケアチームと話をし、ホスピスを紹介されたのです。エイブの若い両親は、父親の就職でメリーランド州からペンシルベニアに引っ越して来てすぐ、こちらの小児科医を決め、ただの検診のつもりが発達段階で引っかかり、CHOPに紹介され、思いもよらなかった診断を宣告されたと思ったら、ホスピスを薦められると言う、青天の霹靂のような悪夢にさらされたのです。エイブの母親はERのナースで、彼女のお母さんは、ホスピスのナースでした。夫婦の初めての子供であるエイブは、全く健康な赤ちゃんとして生まれ、ひと月前まではすくすくと育ち、家族の希望であり喜びでした。その輝いていた希望が、突然絶望に突き落とされ、家族はそのショックの真っ只中におり、そこに私たちが現れ、エイブのやがて来る死を前提に、その最後を少しでも安らかに迎えられるようにお手伝いをしに来たわけで、言ってみれば、彼女達にとって一生関わり合うなどと思っていなかった人間だったのです。 スケジュールの都合でアドミッションは小児ナースのキャロルとジーナ、そしてソーシャルワーカーのキンバリーが行いました。その時、両親は二人とも情況を冷静に受け入れ、DNRにもサインしました。母親は、とにかくエイブが苦しまないように、できる限りのことをしたい、と言う一心でした。エイブはすでにミルクを飲むことができなくなっており、Gチューブ(胃に留置するチューブ)を付け、そこから経管でミルクを入れていました。私達のホスピスにサインした時点で、家にはすでに経管栄養用のポンプと吸引機、酸素などの医療機器があったのですが、保険の都合で、全ての機器は私達のホスピスが契約しているプロバイダーに変更しなくてはなりませんでした。これは小児に限らず、成人のホスピスでもそうなのですが、一般のホームケア(パリアティブケアを含む)とホスピスでは保険のカバーするプログラムが異なり、それによって医療機器や薬のカバーも違ってきます。そして、ホスピスの場合、それぞれのホスピスが契約するプロバイダーが、ホームケアで使うプロバイダーと異なる事は良くある事で、これは私達の頭痛の種になっているのです。つまり、ホスピスにサインする前にホームケアを受けており、すでに医療機器をレンタルしていた場合や、ホスピスケアを受けていたけれど、安定したのでホスピスからホームケアに戻った場合など、保険によっていちいちプロバイダーを変えなくてはならず、患者さんにも家族にとってもかなりのストレスになるのです。 私がジーナと一緒に初めてエイブを訪問した時、若いお母さんの一番の問題は、その医療機器のことでした。エイブ自身は機嫌も良く、経管栄養も順調で、初回時に問題だった全身の湿疹も改善していました。ところが、私達が契約する医療機器のプロバイターが持ってきた経管栄養用のポンプやスタンドが汚れていて、お母さんは穏やかに、しかし、かなり憤慨していました。私達はすぐにプロバイダーに連絡し、新しい物と取り替えてもらい、上司にもその旨を伝えました。ところがどういう訳か、その後も医療機器に関するトラブルが続き、その度に私達はプロバイダーに電話をし、上司に報告し、お母さんに謝り、ただでさえ辛い時なのにさらにストレスをかけるような事態になってしまったのです。こうした、契約しているプロバイダーや薬局とのトラブルは直接私達のミスではなくても、サービスを受ける側としては全てを含めてホスピスケアであり、つまりは私達ホスピスの評価に繋がります。そして、エイブのケースのように悪い事は重なるのが世の常で、3度目のトラブルの後、お母さんは上司に直接電話をし、“ホスピスのスタッフには何の問題もないし、彼女達のエイブに対するケアは気に入っているからエージェンシーを変えたくはないけれど、これ以上この医療機器プロバイダーを使うなら考え直したい”と言ってきたのです。ジーナも私もお母さんの気持ちは良くわかったし、私たちも何とかしたいと思っていました。上司はプロバイダーの責任者と話をし、契約更新も考慮したうえで、直ちに全て新品の機械に取り替える、と言う事で、何とかお母さんに納得してもらったのです。 こうして何とか医療機器に関する問題が落ち着いた頃、エイブはむずがることが多くなってきました。抱っこする時間が増え、それでもなんとなく不機嫌で、夜泣きの回数も増えてきました。最初はタイレノール(アセトアミノフェン)で様子を見ましたが、効果がないためモルヒネとロラゼパムを使い始めました。明らかに病気は進行しており、訪問する度にお母さんはイライラし、私達に対して“はっきりした答え”を求めるようになって来ました。ERのナースである彼女はエンドオブライフケアには慣れておらず、数値や症状、それに対する治療とそこから期待されるアウトカム(結果)と言う構図から抜け切れなかったのです。私達が予測される症状と、それに対してどの薬をいつ与えるかの指導をする時、その判断基準は“エイブが辛そうだったら”“呼吸が苦しそうだったら”というもので、例えば、“心拍数がいくつ以上”とか、“呼吸数がいくつ以上”というプロトコールに慣れている彼女にはかえって難しく、“母親の直感”に頼りきれない不安があったのです。しかし、同時に、彼女は精神的なケアやサポートを、やんわりと、しかし確実に拒否していました。“わかっているから何も言わなくていい”というのが彼女のスタンスでした。そして、私達はそれを尊重し、彼女が私たちに求めるものを出来る限り提供する事に専念したのです。 そんなある日、私はオフで、センターシティーで通訳の仕事をしていました。その間、携帯電話は切っており、仕事が終わってから携帯電話をチェックすると上司からメッセージとメールが何通か入っていました。それは3時間ほど前のもので、すぐに電話して欲しい、と言うことでした。私はすぐに上司に電話をすると、「エイブのお母さんから、彼の様子が変だからナースに来て欲しい、と言う電話がありジーナに電話したけれどすぐに連絡がつかなくて、キャロルもオフだったので、結局キンバリー(ソーシャルワーカー)と以前小児ホスピスのケースを持っていたバーブに行ってもらった。後からジーナも訪問したけれど、もしかしたら今夜かもしれないので、そうなったら死亡時訪問できるか?」と言う事だったのです。私は、死亡時訪問をすることは構いませんでしたが、このタイミングの悪さと、長い間訴えていたスタッフ不足が、最悪の形で患者さんのケアに影響してしまった事に苛立っていました。オフのスタッフに訪問をしてもらわなければならないような情況が当たり前のようになり、今回のようにそのスタッフの都合がつかない場合、結果そのスタッフは不必要な罪悪感を持つ事になり、また、それをカバーするスタッフは慣れない情況に戸惑いながらもフォローしなければならないと言う事態を招いてしまった体制。何よりも非常時に初対面のスタッフを送り込まれた家族の心境を思うと、それもよりにもよって、このケースであった事が、私の憤懣を遣る方無いものにしていました。 結局エイブはその晩を乗り越え、ジーナと私は翌朝一番で彼を訪問しました。小さなエイブは浅い呼吸をし、酸素を付けて、ベビーベッドに横たわっていました。アセスメントをした後、私達はお母さんとお父さんに彼の状態を説明し、経管栄養を止め、パルスオキシメーター(血中の酸素飽和度測定器)をはずすように言いました。お母さんは黙ってポンプのスイッチを切り、パルスオキシメーターのセンサーを取りました。それからジーナが両親に「好きなだけ抱っこしてあげて、話しかけてあげて」と言うと、お父さんがこう言いました。「あなた達がしてくれた事にはとても感謝しているし、プロフェッショナルとしていい仕事をしてくれていると思っている。でも、僕達が知りたいのは事実と、それに対して何をしたらいいのかと言う医学的な指針であり、エイブを抱っこするとか話しかけると言うようなことは聞きたくないんだ。あなた達の立場としてそうしたことを言うのはわかるし、そう言う言葉を必要とする人達もいるとは思うけど、僕達は遠慮する。わかってほしい。」 私達は十分薬があることを確認し、それから、エイブが亡くなったと思ったらホスピスに電話するように言い、家を出ました。私はジーナに大丈夫か尋ねました。彼女は、「平気よ。ちょっとびっくりしたけど、人それぞれだし、はっきり言ってもらった方がかえってやりやすいわ」と言い、それから「あの二人はまだ、失う事に対する怒りでいっぱいなのね」と言いました。エイブの家は私の担当する地域から20マイル(32km)以上離れており、高速道路を使っても30分以上かかるところでしたが、ジーナはその地域に残るという事でした。私達は恐らくその日のうちにもう一度エイブを訪問するだろうと、ほぼ確信していました。そして、私が自分の地域に戻って二件目の訪問を終えたとき、オフィスから電話があり、エイブが亡くなったと連絡がありました。私はジーナに電話すると、彼女は「わかった、すぐに行ってあなたの到着を待つから」といって電話を切りました。しかし、私が方向転換し、次の患者さんに訪問時間の変更を連絡しようとした時、ジーナから電話がありました。「今お母さんに電話したら、どうも早とちりだったみたい。まだ呼吸してるって。でも、一応訪問してみるから、あなたはまだ来なくていいと思うわ。」 ジーナが訪問すると、エイブはまだ呼吸をしてはいましたが、顔色は灰色に近く、お母さんが勘違いしたのも頷けるような状態でした。ジーナはしばらく観察してから、家を後にし、結局私が最後の電話を受け取ったのは5時近くになってからでした。その日、私は5時に翌週退職する上司とオフィスで会い、彼女による最後の年度評価をする予定で、毎週水曜日の4時に行っている10歳の男の子の訪問をいつもより少し早めに切り上げ、オフィスに向かっている時にジーナから電話をもらったのです。私はすぐに方向転換し、ちょうど入り口の近くだった高速道路に飛び乗りました。同時に上司に電話をし、エイブの死亡時訪問に行くのでミーティングには行けない事を伝えました。家に着くと、ジーナがお母さんの母親、メリーランドでホスピスナースをしているエイブのおばあちゃんと話しながら私を待っていました。お父さんとお母さんはエイブと一緒に寝室にいました。エイブは、真っ白になって両親のベッドの上にいました。お母さんはベッドの横に座り、エイブの小さな手を握ったまま泣いていました。私が死亡を確認すると、お父さんが「来てくれてありがとう。これから必要な事は、なんですか?」と聞いてきました。私はお悔やみを言ってから、今後の手順を説明しました。それから、遺族に対するビリーブメントケア(グリーフケア)について説明すると、お母さんがこちらを見ずに、はっきり言いました。「ビリーブメントはいらない。誰にもコンタクトなんかとって欲しくない。手紙も送らないで。これで終わりにして。」 私は「わかりました。他に何か質問はありますか?」と尋ねると、今度はお父さんが「必要な事は全部聞きました。僕達があなた達に求める事は、もう何もありません」と言いました。私は挨拶をして寝室を出ると、居間ではジーナがおばあちゃんと一緒に待っていました。私は二人に今両親に話したこと、彼らが望んでいることを伝えると、ホスピスナースであるおばあちゃんがこう言いました。「あの子達は、家族がサポートしていくから、大丈夫よ。きっとね、自分達が思っていたよりもずっと痛かったんだと思うわ。来てくれて、どうもありがとう。私は小児のホスピスはした事がないし、出来るとも思わないから、あなた方には本当に頭が下がるわ。」 看護師、特にホスピスナースにとっては必須読本である、エリザベス・キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』では、死の五段階と言う、自らの死を受容するまでの過程が提唱されているのですが、これは、遺される者にも当てはまるのかもしれません。エイブの両親は、その初期段階でもがいていました。そして、その行き場のない怒りは、助けを求める事さえ拒絶し、悲しみの殻の中に二人を閉じ込めてしまっていたのです。冷たい星空の下で、私はジーナに言いました。「残念だけど、今私たちに出来るのはそっとしておいてあげることなんだと思う。これ以上ホスピスに関わる事は、多分、彼女達にとっては傷口に塩を塗るような、痛みを増長させる事なんだと思う。それは、私達の力が不足していたと言う訳じゃなくて、私達は彼らの求めるものは全部提供したっていう事なんだと思う。だから、これはこれでいいのかもしれない。」ジーナは頷いて、「私もそう思うわ。ありがとう。大丈夫よ、私は」と言いました。それから、彼女はこう言いました。「あなたが寝室にいる間、おばあちゃんとずいぶん話をしたの。私も孫がいるから、彼女の気持ちは良くわかるの。自分の娘が子供を亡くすのを見るのは、自分の子供を亡くすのと変わらないくらい辛い事だと思うわ。だからね、彼女と話すことで、私も何か学んだ気がするの。よかったわ。」 喜びは分かち合う事が出来ますが、悲しみは、一人一人のものであり、それぞれが自分の中で消化しなければならないものなのだと思います。それは、時間とともに形を変え、いつかそれを受け入れて、一緒に生きて行けるようになるのでしょう。人は皆、そうやって生きているのだと思います。
|