ホスピスナースは今日も行く 2015年05月
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ホスピスナースは今日も行く
アメリカ在住日本人ナースが、ホスピスで出会った普通の人々の素敵な人生をおすそわけします。
忘れられない夜 (1)
 ライアン(仮)は、テイ・サックス病という、遺伝性の神経変性疾患を持つ15ヶ月の男の子でした。テイ・サックス病というのは、常染色体の劣性遺伝の病気で、両親が二人とも保因者である場合に、四分の一の確率で生まれます。アシュケナージ系という、東欧由来のユダヤ人に多い事で知られていますが、実は、アイルランド系アメリカ人にも保因者が多いのです。ある一定の脂質を分解する酵素が欠如している為に、それが神経細胞に蓄積され、その為に精神、身体機能の低下が起こり、視力や聴力の喪失、全身の筋萎縮や麻痺が起こる予後の悪い疾患です。
 ライアンの両親、キャサリーンとパトリックは、二人ともアイルランド系で、お互い5人兄弟と言う大家族出身でした。キャサリーンは特別教育の先生で、高校生を教えていました。二人には3歳になる長男がおり、家中あちこちに、二人の結婚式から、長男のエイデン誕生、ライアン誕生、そして沢山の4人の思い出の写真が、所狭しと飾ってありました。ライアンは生後3ヶ月でテイ・サックス病と診断されましたが、キャサリーンはもう少し前から、何かがおかしい、と気付いていたそうです。テイ・サックス病の子供は、乳児期発症型の場合、生後6ヶ月くらいまで正常に発育すると言われているので、ライアンはかなり進行の早いタイプのようでした。彼がテイ・サックス病だとわかってから、キャサリーンとパトリックの両親、兄弟姉妹たちも遺伝子の検査を受け、キャサリーンのお母さんと、パトリックのお父さんが保因者だった事がわかりました。知らなかった事とはいえ、それが判明した時のキャサリーンのお母さんのショックは、言葉に表すことが出来ないほどだったそうです。
 二人は共働きだったので、平日の日中はPrivate Duty(付き添い)のナースに来てもらっていました。ライアンは1歳の誕生日を迎えた頃からミルクを飲む力が弱くなり、体重が減り始め、誤嚥によって肺炎を起こし、呼吸困難を起こして、入院を繰り返すようになりました。最初は経鼻チューブを入れたのですが、結局Gチューブボタンを着け、経管栄養に切り替え、キャサリーンとパトリックは、小児病院のパリアティブケアチームと今後の事について話をしました。そして、緊急時は小児病院の救急に行くことや、もちろんDNRにはサインしない事を前提に、“いつかは必要になる事だから”というスタンスで、ホスピスケアを受ける事にしたのです。 
 ホスピスの初回訪問では、キャサリーン、パトリック、キャサリーンの両親、パトリックのお姉さんとキャサリーンの友人、そして一年近く付き添いをしているナースのマリアンが、緊張した面持ちで私達を待っていました。一体あなたたちはここで何が出来るのか、と。そんな中、ライアンは灰色がかった緑色の大きな目をパッチリと開け、柔らかい金髪を横分けにして、15ヶ月とは思えない大人びた表情で、ソファーに置いたクッションの上に横になっていました。耳の横に置いたiPadからは子供向けの音楽が静かに流れ、やはり頭の横に置いたおもちゃの水槽の中では、カラフルな熱帯魚たちが光の中でゆっくりと泳いでいました。ライアンは、光と大きな音には反応し、特にドアが勢いよく閉じたり、何かが落ちた時などは、びくっと震え、大きな目をますます大きく見開きました。ホスピスと言っても、その時のキャサリーンとパトリックにとっては、ナースが定期的に来てライアンをチェックすることで、症状の悪化による入院を防ぎ、何かあったらホスピスのホットラインはあるけれど、緊急事態であれば救急車で小児病院のERに行く、と言うものでした。そして、小児ホスピスでは、それが可能であり、治る病気ではない事は承知していても、できる限りの事はする、そして最後の判断はその時になってみないとわからない、と言う親の方が、圧倒的に多いのです。そして、私たちの役割は、症状の緩和は言わずもがな、“その時”に向けて、少しずつ準備をし、最終的にその子が、その子にとって理想的な環境で苦しまずに逝けるよう、親のサポートをしていくことであり、このカップルがそれを受け入れられる日が来るのかどうか、その時点では小児病院のパリアティブケアチームを含め、私達、小児ホスピスのメンバー全員が悲観的な印象を持っていました。つまり、恐らくこの二人は、最終的に救急車を呼ぶだろう、と。
 私たちは、週に一度、毎週水曜日の4時半に訪問することになりました。と言うのは、キャサリーンが仕事から戻れるのがその時間だったからです。幸いライアンの家は、小児ナースのキャロル、ソーシャルワーカーのキンバリー、そして私の自宅からも10分程度の距離だったので、皆、大抵一旦自宅に戻り、その日の記録をできる限り打ち込んでから、再びライアンの訪問に出るというのが水曜日の日課になって行きました。ライアンは、時々ちいさな痙攣の発作を起こしましたが、それ以外は特に問題も無く、経管栄養も順調でした。パトリックが5時頃エイデンをデイケアからピックアップして戻ってくると、静かだった家は一気に賑やかになり、ライアンも心なしか嬉しそうでした。
 春が過ぎ、夏になり、キャサリーンの学校も夏休みに入りました。ライアンは比較的落ち着いており、Early Intervention(アーリーインターベンション:3歳以下の障害児に無料で提供される早期介入セラピー)のPTやOTも続けていました。その頃、パトリックは仕事をやめ、家にいるようになりました。理由は、家族4人で過ごせる恐らく最後の夏を、出来るだけ息子の傍にいてやりたい、と言うものでしたが、キャサリーンによると、パトリック自身の体調も今ひとつ良くないようでした。元々あまりしゃべらず、私たちがいてもすぐに二階に行ってしまうか、庭仕事をするか、エイデンを遊ばせるかで、何か要求があるとき以外は、殆どコミュニケーションをとろうとしませんでした。気さくでいつもニコニコしているキャサリーンとは対照的で、性格もあるのでしょうが、キャサリーンを含め、私たちは彼が鬱の傾向にある事を心配しました。しかし、彼はソーシャルワーカーのカウンセリングも受けようとはせず、唯一、ノースキャロライナに住むお兄さんには心を許しているようでした。お兄さんも時々来ては、2-3日泊まっていく事もあり、そんな時のパトリックは目に見えてリラックスしていました。ライアンは特にこれと言った問題も無く、家族でビーチに行ったり、遊園地に行ったりと、楽しく充実した夏はあっという間に過ぎて行きました。
 夏が終わり、秋になるといよいよインフルエンザのシーズンがやってきました。アメリカでは数年前から、町のドラッグストアの薬剤師が、インフルエンザや帯状疱疹の予防接種を行えるようになりました。そのせいか、おかしなことに、診療所などがワクチンを入手しにくくなる傾向にあり、その年は特に乳児用のワクチンが手に入りにくく、ライアンも暫く待たなければなりませんでした。ハロウィーンには、エイデンと二人、ライアンもスパイダーマンになり、トリックオアトリートには行きませんでしたが、近所の子供達が来るのを楽しみました。しかし、11月に入ると、エイデンの風邪を皮切りに、ライアンにも避けては通れない試練が待っていました。どんなに気をつけても、ウイルスは忍び寄り、鼻水が出て、咳が出るようになると、あっという間に呼吸状態が悪くなりました。抗生剤を投与し、上気道の状態は良くなりましたが、今度は副作用で下痢になり、脱水に注意しなければなりませんでした。ちょっとした風邪から回復するのに、2週間はかかりました。同時に、ライアンは小さな癲癇発作や痙攣を頻回に起こすようになり、抗癲癇剤の量を増やしました。テイ・サックスは、少しずつ、しかし確実に進行していました。
 そんなある夕方、私がその晩ベビーシッターのバイトをする長男を乗せ、友人宅に向かっていた時、夜勤(オンコール)のナースから電話がかかってきたのです。小児ホスピスのケースから電話があった場合、問題によっては、夜勤ナースは私か上司のバーバラに連絡する事になっているのです。いやな予感は的中し、ライアンのお母さんから電話があり、詳しいことは良くわからないけど、どうも痙攣発作が止まらないようなのだ、ロラゼパムを与えるように指導したけど、一応フォローアップして欲しい、と言うことでした。私は、息子を送り届けると、すぐにキャサリーンに電話をしました。キャサリーンはすぐに出て、「午後3時くらいからしゃっくりのような痙攣が始まり、1時間位して止まったのだけれど、30分位したらまた始まり、まだ続いてる、とても辛そうで、どうしていいかわからない」と言いました。私がロラゼパムをあげたか確認すると、私からの電話を待っていたので、まだあげていない、と言うのです。私は、「今すぐ薬をあげて。小児病院の受け持ち医師に電話をしてから、また連絡するので、そのまま待ってて」と言いました。キャサリーンは「わかった」と言うと、電話を切りました。
 私はすぐに小児病院のパリアティブケアチームのホットラインに電話をすると、よく知ったフェロー(レジデント〔研修医〕終了後、専門分野で更に研鑽する医師)が出ました。彼女に状況を説明すると、いったいライアンに起きている事が癲癇なのか、ただの痙攣なのかわかりかねるので、なんとも言えない、と言うのです。今の段階では、ロラゼパムの効果をみるしかなく、効果が無ければまた連絡して、と言う事でした。私はキャサリーンに電話をすると、今度はパトリックが出ました。私が説明する暇もなく、彼はこう言いました。「で、誰か来てくれないの?」電話の向こうから、まるで子猫の悲鳴のようなライアンの声が、途切れ途切れに聞こえていました。私は、「今から行くから。10分待ってて」と言うと、次男と娘に留守番を頼み、夫にメモを残して飛び出しました。
 キャサリーンはライアンを抱いて、ソファーに座っていました。日勤のナースは帰宅しており、パトリックとキャサリーンのお姉さんがその横に立って、二人を見守っていました。ライアンは、1-2分おきにびっくりしたように目を開き、両手を前方に伸ばすと、2-3秒ほどで腕を下ろしてから、子猫の鳴き声のような悲鳴を上げるのでした。ロラゼパムを投与してから30分近くたっていましたが、効果は無いようでした。キャサリーンは、「辛そうなので、タイレノールをあげたけど、ぜんぜん効果が無いみたい」と言って私を見ました。私が見たところでは、癲癇ではなく、痙攣発作であり、呼吸や心拍数は少し速めでしたが、特に問題はありませんでした。キャサリーンは、最初にこの発作が始まった時、ライアンが吐いたので、経管栄養は止めたけど、もう次の食事の時間なのでどうしよう、と心配しました。私は、経管栄養の事は今は心配しなくても大丈夫だと言い、それよりも、モルヒネをあげて少し楽にしてあげよう、と提案しました。少量のモルヒネでリラックスする事で、ライアンも少しは楽になるはずだったからです。キャサリーンはパトリックを見ました。パトリックは疑わしそうに私を見ると、「モルヒネ?」と一言言いました。まるで、“それで一体何が解決するのだ?”と言わんばかりでした。私はパトリックを見ると、「はっきりした事はわからないけど、驚愕反応(びっくりしたような過敏反応)や痙攣はテイ・サックスの症状で、癲癇ではないようだけれど、こんなに長い時間続くのでは、ライアンが辛いのは当然。とりあえずモルヒネで苦痛を和らげ、リラックスさせてあげる事が先決だと思う」と言いました。キャサリーンが、「私もそれが良いと思う」と言うと、パトリックはそれでもしぶしぶ「わかった」と言い、薬を取りに行きました。わたしは、小児病院のフェローに再び電話をし、今の状況を説明しました。彼女は、「うーん、やっぱり一度診察しないとわからないから、うちに来るかどうか、聞いてみてくれる?」と言いました。私は、「わかった。とりあえず今モルヒネ投与するから。もし両親が賛成するようならまた電話するから、救急からすぐそっちの病棟にいけるように手配してもらえる?」と聞くと、「了解、じゃ、電話して」と言って電話を切りました。私はパトリックがライアンのGチューブからモルヒネを注入し、水でフラッシュするのを見届けてから、いま、フェローが言った事を伝えました。パトリックは「救急に行って、そこでまた何時間も待たされるんじゃないか?いつもそうだ」と言い、私が、「そうならないように手配してもらっているから」と説明すると、「それならいい」と言ってキャサリーンを見ました。キャサリーンは頷くと、お姉さんが、「私が運転するから、パトリックはエイデンを迎えに行ってあげて」と言い、準備を始めました。私は再度小児病院に電話をし、ライアンが病院に行くことを伝えました。彼女は、「わかった。救急に着いたら神経内科に直接上げてもらえるようにしてあるから」と言い、私はその旨をパトリックに伝えました。キャサリーンが毛布を敷いた床にライアンを寝かせてから、支度をしに二階に上がると、パトリックが「夜の薬の時間だ」と言って私を見ました。私はちょっと迷いましたが、癲癇の薬や筋弛緩剤もあるので投与しよう、と言いました。パトリックが何種類かの薬をGチューブから入れると、数分して、ライアンは吐き気を催してきました。そして、身体を少し斜めにした途端、今入れた薬を全部吐いてしまったのです。痙攣も続いていたので、ライアンの血中酸素はあっという間にさがり、チアノーゼが出始めました。私はすぐに吸引し、パトリックが酸素を着けました。背中をたたいて刺激すると、チアノーゼはすぐに引き、血中酸素も元に戻りました。パトリックと私はライアンのシャツやオムツを替え、キャサリーンの支度が整うと、私がライアンを抱き、パトリックが荷物を持って、外に出ました。後部座席に座ったキャサリーンにライアンを渡すと、彼女は初めて涙ぐみ、「ありがとう」と言いました。
 お姉さんの運転する車を見送ってから、私とパトリックは家に入りました。しん、とした家の中で、パトリックはホッとしたように、大きなため息をつきました。私は荷物を持ち、「それじゃ、また、ライアンが戻ってきた時に」と言うと、パトリックは、「そうだね」と言いました。「ライアンは大丈夫だと思います。痙攣が治まれば、すぐに帰ってくるんじゃないかな」と言うと、パトリックは少しだけ笑い、「俺もそう思うよ。大騒ぎして悪かったね。でも、助かった。ありがとう」と言いました。玄関を出ると、冷え切った空気の中で、いつの間にか昇った月が、黄色くピカピカに光っていました。 忘れられない夜(2)に続く。
 
 
[2015/05/23 17:50] | 忘れられない人々 | トラックバック(0) | コメント(0)
がんばれ、私たち!
 “Change(チェンジ)”は、2008年の大統領選での、現大統領の数あるスローガンの一つでした。そして7年経った今、確かにいろいろな事が変わりましたが、問題は、“どう変わったか”であり、多くのアメリカ市民及び在住非市民は、この数々の“チェンジ”の結果に失望したのではないでしょうか。もちろん、そういう人ばかりではないとは思いますが、要するに、“チェンジ”という言葉に漠然とポジティブな期待を掛けてしまうのは、現状に不満がある人間の、自然な心理なのかもしれません。
 今、私の職場では、ものすごい勢いで“チェンジ”が行われています。そして、ホスピスチームのスタッフのほぼ全員が、その“チェンジ”によって、かつてないストレスに見舞われているのです。チーム最古参の私(最年長ではありません、念の為)が言えるのは、おそらく今が私達にとっての大殺界なのであろう、と言う事です。ただ、それをチームのみんなに英語で説明できないのが、非常にもどかしいのですが。そして、万が一今が大殺界ではなかったとすると、それはもう、絶望的というより仕方ありません。
 なぜ、この“チェンジ”が私達にとって禍となっているのか。それは、それまでの私達が恵まれていたからなのです。17年前、私が就職した頃も、あらゆる面で問題はあり、今とは違った意味で厳しい労働条件でした。しかし、私が2年目の時に来たリンが新しいボスになってから、それこそ前向きな“チェンジ”が行われていったのです。
 彼女には、チームを育てる、と言う意識がありました。その為に、まず行ったのは教育でした。ホスピスナースとして最も基本的で不可欠な知識、疼痛管理を初めとした症状緩和の勉強会を定期的に行い、外部のセミナーなどにも希望者が参加できるように配慮してくれました。2年目以上になると、ホスピス・緩和ケアの認定看護師のテストに挑戦することを奨励し、無事に認定されると、チームのみんなで食事に連れて行ってお祝いするなどのインセンティブも忘れませんでした。また、スタッフができるだけ効率良く訪問できるように、担当地区を分け、少しでも移動時間を減らすようにしました。余程の事がない限り、スタッフの休みの希望は勤務スケジュールに反映され、チームのみんなも“お互い様”という意識でカバーし合うのが当たり前になりました。ナースは責任を持って自分の訪問スケジュールを組み、自分が休みの日には極力訪問を入れないようにして、受け持ちの患者さんはなるべく自分で看れる様に考慮しました。リンは、へヴィーなケースの訪問があった時は、訪問件数を調整したり、相談に乗ってくれたり、アドヴァイスをくれたりしました。基本的に“自分の家族が第一”という信念を崩さず、スタッフが家族の為に急遽休みを取らなければならない時も、必ず“患者さん達の事は心配しなくて大丈夫”と言ってくれました。勉強会でより深めた知識や、認定看護師になることによって、メンバー達のホスピスナースとしてのプロ意識は高まり、ケアの質も向上し、それが患者さんや家族の満足度にも繋がっていきました。セルフスケジュールをすることで、私生活との調整もしやすく、そんなフレキシブルな所が気に入っているメンバーは少なくありませんでした。当然、転職する人が減り、チームの質は上がり、メンバー同士の繋がりも強まり、自信がつき、自分達の働くホスピスに誇りを持つ様になっていきました。そして、定年を迎えたリンは、数々の功績を残し、みんなに惜しまれながら、“普通のグランマ”になりました。しかし、リンが種を蒔き、丹精込めて育てたチームは、すでにしっかりと根を張り、枝を広げていたのです。
 それが、この半年程で全てがひっくり返ってしまったのです。正式に発表されたのは最近ですが、うちの病院はフィラデルフィアにある大きな医科大学の大学病院システムと、パートナーシップを結ぶ事になりました。今のアメリカで医療機関が生き残っていく為に、こうした合併は珍しい事ではありません。パートナーシップと謳ってはいますが、システムの規模から言って、吸収合併に近い事は一目瞭然でした。そして、このパートナーシップ成立に向けて、訪問看護部で最も要求されるようになったのが、“生産性”でした。つまり、同じ時間、同じ給与で、もっと多くの患者さんを訪問せよ、と言うわけです。もちろんケアの質を下げる事など問題外、頭を使って訪問の効率を上げ、保険によってどんどん追加される記録の必須事項も漏れなくこなし、CPR(心肺蘇生法)の認定やヘルスストリーム(医療機関の職員が基本的な安全管理等について学ぶオンラインの教育システムで、毎年決められたコースを受講、テストにパスしなくてはならない)等の必須教育は勤務時間外にやることにしましょう、とまあ、そういう事なのです。もちろん、勉強会などやっている暇はありません。また、スケジューリングの効率をよくするために、セルフスケジューリングから、セントラルスケジューリング、つまりスケジューラーがあなたのスケジュールを決めるので、勝手にやりくりしないように、と言うシステムに変更されました。一応自分の受け持ち患者さん達の一週間の予定は立てますが、急な変更があった場合は、スケジューラーに連絡し、スケジューラーによって調整されるのを待ちなさい、と言うわけです。また、スタッフの勤務スケジュールも、一日の合計訪問数のノルマに合わせて調節され、休みの希望が通りにくくなりました。要するに、自主自律を尊重し、プロとしての責任で調和を保っていたのが、上意下達スタイルになり、いつの間にか私達は、上司の命令に従うだけの一兵卒として扱われるようになっていたのです。
 もちろん、上司たちは“あなたたちの意見や要望は尊重するから、言いたいことがあれば何でも言って欲しい”という姿勢を見せていますし、実際に彼女達は彼女達なりにそういう努力はしてくれているのだと思います。ただ、みんな、それぞれの立場と責任があり、自分の仕事を果たす事がまず第一なのです。しかし、そこで忘れないで欲しいのが、結局最終的に割を食ってしまうのは、何の責任もない患者さん達だということです。スタッフの満足度が下がると、患者さんや家族の満足度も下がります。スタッフのストレスが上がると、医療事故の頻度が上がります。それはもう、多くの研究で立証されている事実です。上司たちは常に、“患者さんにより良いケアを提供する事が我々の使命であることを忘れないで”と言いますが、そんな事は現場にいる私達は百も承知です。そして、その為にスタッフが心身ともに安定した状態になるような労働環境を整えるのが、マネージメントの役割の一つなのではないか、と、私は思うのです。
 こんな状況の中、転職したり、早期退職したりする人もいますが、それができない人、したくない人は、やはり自分達でどうにかするしかないのです。労組も無い中、私達ができるのは、チームとしての意見を具体的に提示して、建設的な問題解決策を模索するしかありません。せっかくリンが育ててくれたチームを、こんな事で枯れさせたくない。現在のチームメンバーには、そんな強い思いがあります。手遅れになる前に、みんなが疲れきってしまう前に、画期的な“チェンジ”を見つけられるよう、ここで踏ん張るしかないのです。自分の好きな仕事を、それを取り巻く状況のせいで台無しにしたくない。きっと世の中には、似たような思いでいる人たちがゴマンといると思います。そんな人たちも含めて、ああ、がんばれ、私たち!
[2015/05/18 17:26] | つぶやき | トラックバック(0) | コメント(4)
ははこづる
 ホスピスの患者さんが亡くなると、遺族に対してbereavement care(日本ではグリーフケアとか、グリーフサポートと言われています)を行います。遺族ケアのコーディネーターが、お悔やみのカードを送ったり、フォローアップの電話をしたり、サポートグループやメモリアルサービスを行ったりする他に、最近、小児ホスピスのお母さん達の為に、小さな贈り物をすることになりました。それは、私が受け持ちだった男の子の死亡時訪問の後、どうしてもこのお母さんに何かをしてあげたい、と言う気持ちに突き動かされ、それを私なりの形にしたものでした。
 初めてショーン(仮)に会った時、彼はお母さんに抱っこされ、コアラのように離れようとしませんでした。くりくりとした大きな青い眼でちょっと恥ずかしそうに私を見ると、すぐにお母さんの肩に顔を埋めていました。一歳半のショーンには、7歳のお兄ちゃんと4歳のお姉ちゃんがいました。ショーンが、胞巣型横紋筋肉腫というサルコーマ(悪性軟部腫瘍)だと分かったのは、彼が八ヶ月の時でした。最初は脛に瘤のような腫瘍ができ、手術で切除したのですが、まもなく膵臓の膵頭と言う十二指腸に近い所にも腫瘍ができ、化学療法で治療している間に、今度は脳にも何箇所か腫瘍が見つかったのです。頭部に放射線治療を行うも、腫瘍はショーンの小さな身体のあちこちに現れ続けました。そして、これ以上癌と追いかけっこをするのは無理であり、両親はホスピスを勧められたのです。
 ショーンは、少しでも腫瘍の増殖を抑えるため、抗癌剤を続けており、その投薬の為にGチューブボタンと言われる胃ろうを造ったばかりでした。しかし、薬以外は全て口からとっていました。彼はブルーベリーのヨーグルトと、魚の形をした小さなクラッカーが好きでした。お母さんはまだ母乳をあげており、ショーンは私達の訪問が終わりに近づくと、いつもおっぱいを欲しがりました。ですから、ちょうど良いタイミングで私達はソファーに掛け、授乳中のお母さんとゆっくり話すことができたのです。彼は脳転移してから発語が減っていましたが、こちらの言う事は年齢相応に理解していました。
 胆管の近くの腫瘍のために、胆汁の流れが悪くなる時があり、ショーンは黄疸が出ていましたが、その度合いは常に変化し、訪問した時点では芥子色だったのが、30分後にはライトビールくらいになっていたりしました。お母さんは、Gチューブのケアに慣れるまで、かなり神経質になっていて、ちょっとした事でも、「これは普通なの?正常なの?感染してないの?」と確認しました。最初の頃はよく私の携帯電話に写メールを送って来て、“これは大丈夫?”とチェックしていました。特に、Gチューブのケアをしている時にショーンが嫌がったり泣いたりすると不安になるようで、訪問時には、お母さんがケアをしている間、私はお母さんのスマホに入っている汽車のパズルゲームを見せたり、ぬいぐるみで遊んだりして気を紛らわす役に回りました。しかし、日が経つにつれ、チューブの挿入部も落ち着き、お母さんとショーンもケアに慣れ、メールの回数も減っていきました。
 ショーンは鼠径部にウズラ卵くらいの腫瘍がありましたが、特に気にしている様子も無く、痛みも無いようでした。黄疸以外はこれと言った症状も無く、一家は以前から考えていたディズニーランドへの家族旅行を決行する事にしました。父方の祖父母も一緒に、五日間のアドベンチャーでした。お母さんはいろいろな場合を想定し、不安ではありましたが、私達は緊急事態の場合の対処法や、万が一の時の為、地域の小児病院を確認しておく事などを勧め、一週間分の薬と必要な物品などをオーダーすると、あとは、お天気に恵まれ楽しい旅行になる事を祈るばかりでした。ただ、もしもの事を考え、お兄ちゃんとお姉ちゃんには出発まで内緒にしており、お母さんはこっそり支度をしなくてはなりませんでした。そして、一家は無事ディズニーランドを満喫し、元気に戻ってきたのです。ディズニーでは特別なパスを用意してもらい、長い列に並ぶ事も無く、ショーンは殆どお母さんに抱っこでしたが、それでも彼なりに楽しそうだったそうです。
 ディズニー旅行から戻って来て暫くは、特に変わりはありませんでしたが、腫瘍は眼に見えて増えていました。そして、これ以上続けても効果は無いため、抗癌剤は中止されました。抗癌剤の中止に伴い、いくつかの薬も不要になり、お母さんは喜んでいました。ところが、思いがけない事に、三週間以上前に終わった放射線治療の副作用が、その頃になって突然現れてしまったのです。最初は頭に小さな発疹ができ、それがあっという間に頭全体に広がり、治療のせいで髪の毛のないショーンの小さな頭は、発疹とそこからの浸出液で覆われてしまいました。特に耳の後ろはひどかったのですが、軟膏を塗り、痛み止めを頻回にあげるしか対処方法はありませんでした。お母さんは、「3週間以上も経ってからこんな事になるなんて、誰も言ってくれなかった」と嘆き、私は“今更ながらだけど”と前置きし、“放射線は治療が終わったあとも暫く体内に残っているので、副作用が後になって出る事はままある”と言うことを説明し、残念ながらそれを予防する事は難しいと話しました。ただ、ショーンの抵抗力が弱くなっていることも、おそらく一因であり、せめて感染を防ぐ為、予防的に抗生物質を出してもらう事にしました。お母さんは少し安心し、また、お父さんが見つけてきた“放射線の副作用の皮膚炎に効く”というかなり高価なクリームを使い始めると、一週間ほどでずいぶん良くなりました。そして、皮膚炎は良くなりましたが、ショーンの食欲は減り、腫瘍は増え、モルヒネを使う回数も増えていきました。
 訪問回数を増やし、訪問するたびに痩せていくショーンは、それでも帰り際にお母さんに抱っこされながら、いつも“High Five”(ハイタッチ)をしてくれました。両親はショーンの腫瘍を、フィラデルフィアの小児病院と、最初に診断された時にとても助けてもらったと言う、別の州にある小児がんセンターに提供する事にしていました。理系の二人は、息子を失う代わり、彼が生きた証として、この先ショーンと同じ病気になった子供達の為に、少しでも役に立てることを望んだのです。
 月曜日の朝、その日はフィラデルフィア小児病院(CHOP)のパリアティブケアチームのメンバー数人が、フォローアップの名目で私と一緒にショーンの訪問をすることになっていました。しかし、日曜日にお母さんからホスピスに電話があり、ショーンの調子がかなり悪いと聞いていたので、私は朝一番で訪問する予定でした。お母さんにも“9時までに行くから”とメールし、“OK”の返事を確認し、ちょうど家を出ようとした時、パリアティブケアチームのメンバーから電話があり、訪問時間を10時半にしてもらえないかと頼まれました。私はちょっと引っかかったのですが、仕方なく予定を変更し、最後に訪問する予定だった比較的自宅に近いケースを先に訪問することにしました。ショーンのお母さんに“申し訳ないけど、CHOPのメンバーが10時半にして欲しいそうなので、ちょっと遅くなる”と急いでメールすると、すぐに“わかった”と返事が来ました。
 頭の隅でショーンの事を気にしながら、一件目の訪問をしている時、携帯電話にメールが届きました。いやな予感がしてすぐにチェックすると、やはりショーンのお母さんからでした。“He passed.(逝ってしまった)”
 私は大きく息を飲み込むと、何事も無かったように、それでもかなりの手際の良さで訪問を終わらせ、飛び出すようにその家をあとにしました。“今すぐ行く”とメールを打ち、アクセルを踏み込みながら、“やっぱりCHOPの都合なんて無視すればよかった”と唇をかみました。“そうしたら、そこにいてあげられたのに...”それから我に返り、ソーシャルワーカーのキンバリーに電話をし、ショーンが亡くなった事を知らせると、彼女もすぐに向かう、と言いました。
 ショーンの家に着くと、おばあちゃんがドアを開けてくれました。おばあちゃんは眼で二階を指すと、ファミリールームで遊んでいる4歳のお姉ちゃんの所に戻りました。彼女にはまだ知らせていないようでした。私は黙って二階に上がり、ショーンの部屋に入りました。そこでは、床に座った両親が、泣きながらショーンの足型を取ろうとしていました。私はお悔やみを言うと、荷物を置き、ショーンのパジャマを脱がせる手伝いをしました。二日の間にすっかり痩せ、くっきりとわかるサルコーマが痛々しく、思わず、「ああ、ショーン...」とつぶやきました。お母さんは顔を上げて私を見ると、こう言いました。「夕べはね、モルヒネあげてからもずっと抱っこしてたの。どうしてもね、落ち着かなかったのよ。それでも、お兄ちゃんのバスの時間になったから、ショーンをベビーベッドに寝かせたの。お兄ちゃんには、どうしようかとは思ったけど、学校には行かせたの。それで、戻ってきたら、ショーンはもう息をしていなかったのよ。」ぽろぽろと涙をこぼしながら、お母さんは淡々と言いました。「こんなにあっけないものだとは、思わなかった...」
 パジャマを脱がせると、お父さんがショーンを抱き上げ、お母さんが砂の入った箱に、ショーンの両足を押し付け、足型を取りました。ところがなかなか上手くいかず、何度もトライしている間に、キンバリーや、CHOPのメンバーが到着したのです。お母さんは、「もういいわよ、上手くいかないから」と言って諦めようとしましたが、お父さんは「構わないよ、上手くいくまでやろう」と言い、私は黙って砂をかき混ぜました。そして、やっと満足行く型が取れると、お母さんは私のほうを見て、「どうしてもショーンをお風呂に入れてあげたいの。Gチューブをつけてから、身体を拭くだけだったから」と言いました。「もちろん」と私は言い、彼女はショーンを抱いてバスルームに行きました。
 お風呂に入ってさっぱりしたショーンは、お父さんに抱かれて揺り椅子に座りました。CHOPのメンバーが次々とお母さんの所に来て、お悔やみを言い、自分達にできることがあれば何でも言って、と申し出ていました。私とキンバリーはそれを見ながら黙っていました。私は薬の処分をし、死亡診断書の死亡時確認者の所にサインをしてから、CHOPのメンバーに渡しました。残りは受け持ちの医師が記入して、サインしなければならないのです。
 私はショーンを抱いているお父さんの所に行き、もう一度お悔やみを言い、2週間後に遺族ケアのコーディネーターからフォローアップの電話をするけれど、それ以前に何か困った事があったら、いつでもホスピスに電話してください、と言いました。お父さんは頷き、私はショーンに最後のお別れをしました。頭をなで、「よくがんばったね」と言うと、お父さんは「ありがとう」と言ってから、声を上げて泣き出しました。キンバリーが彼に声を掛け、私は部屋から出ました。
 私はCHOPのメンバーと話しをしていたお母さんに、遺族ケアの事を説明し、それでも眠れなかったり、食べられなかったり、泣きやむ事ができなかったりしたら、ホスピスに電話して欲しいと話しました。それから、彼女が最も勇気ある母親の一人であり、私はそれを心から尊敬する、と伝えました。小柄なお母さんは私を見上げ、赤い眼をしながら微笑みました。そして、「私のくだらない質問に、いつも付き合ってくれて、本当にありがとう。たいした事じゃないけど、それでもあの時の私にとっては、大問題だったのよ」と言い、ハグしてくれたのです。いつもはショーンを抱っこしていたので、それが最初で最後のハグでした。キンバリーが戻って来て、お母さんに上の子供たちへの対応についてアドヴァイスをしてから、私達は家を出ました。
 車まで歩くあいだ、私とキンバリーはこの死亡時訪問の違和感について話していました。なんとなく、CHOPのスタッフに遠慮しなければならなかった自分達の立場が、腑に落ちませんでした。確かにショーンはCHOPからの紹介であり、パリアティブケアチームのメンバーにとっても思い入れは深かったのでしょう。そしてその時、私はホスピスナースとして、あのお母さんに言った事、私が彼女の勇気を心から尊敬する、と言う気持ちを形にしたい、と強く思ったのです。
 その気持ちが、この新しい贈り物になりました。小さな折鶴の背中にもう一羽、更に小さな子供の折鶴を乗せた母子鶴に、スワロフスキーのビーズをあしらい、細い鎖をつけてネックレスにしたのです。男の子には空色の雛、女の子には桃色の雛で、いつまでもお母さんと一緒に飛んでいるよ、一緒にがんばってくれて、ありがとう、と言う、子供達の声にならなかった想いを込めたつもりでした。
 この、「母子鶴」の第一号は、ショーンのお母さんに贈られる事になっています。いつもショーンを抱っこしていた彼女の胸に、この母子鶴が揺れることを想像し、私達の想いも届いてくれたらいいな、と密かに願っています。

 
 
 
 
[2015/05/06 22:07] | 忘れられない人々 | トラックバック(0) | コメント(0)
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プロフィール

ラプレツィオーサ伸子

Author:ラプレツィオーサ伸子
アメリカ東海岸で在宅ホスピスナースをしています。アメリカ人の夫、子供3人、犬一匹と日々奮闘中。

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2冊目の本がGakkenから出版されました。 「それでも私が、ホスピスナースを続ける理由」https://gakken-mall.jp/ec/plus/pro/disp/1/1020594700 「ホスピスナースが胸を熱くした いのちの物語」と言うタイトルで青春出版社から発売されました。 http://www.seishun.co.jp/book/20814/

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