ライアン(仮)は、テイ・サックス病という、遺伝性の神経変性疾患を持つ15ヶ月の男の子でした。テイ・サックス病というのは、常染色体の劣性遺伝の病気で、両親が二人とも保因者である場合に、四分の一の確率で生まれます。アシュケナージ系という、東欧由来のユダヤ人に多い事で知られていますが、実は、アイルランド系アメリカ人にも保因者が多いのです。ある一定の脂質を分解する酵素が欠如している為に、それが神経細胞に蓄積され、その為に精神、身体機能の低下が起こり、視力や聴力の喪失、全身の筋萎縮や麻痺が起こる予後の悪い疾患です。 ライアンの両親、キャサリーンとパトリックは、二人ともアイルランド系で、お互い5人兄弟と言う大家族出身でした。キャサリーンは特別教育の先生で、高校生を教えていました。二人には3歳になる長男がおり、家中あちこちに、二人の結婚式から、長男のエイデン誕生、ライアン誕生、そして沢山の4人の思い出の写真が、所狭しと飾ってありました。ライアンは生後3ヶ月でテイ・サックス病と診断されましたが、キャサリーンはもう少し前から、何かがおかしい、と気付いていたそうです。テイ・サックス病の子供は、乳児期発症型の場合、生後6ヶ月くらいまで正常に発育すると言われているので、ライアンはかなり進行の早いタイプのようでした。彼がテイ・サックス病だとわかってから、キャサリーンとパトリックの両親、兄弟姉妹たちも遺伝子の検査を受け、キャサリーンのお母さんと、パトリックのお父さんが保因者だった事がわかりました。知らなかった事とはいえ、それが判明した時のキャサリーンのお母さんのショックは、言葉に表すことが出来ないほどだったそうです。 二人は共働きだったので、平日の日中はPrivate Duty(付き添い)のナースに来てもらっていました。ライアンは1歳の誕生日を迎えた頃からミルクを飲む力が弱くなり、体重が減り始め、誤嚥によって肺炎を起こし、呼吸困難を起こして、入院を繰り返すようになりました。最初は経鼻チューブを入れたのですが、結局Gチューブボタンを着け、経管栄養に切り替え、キャサリーンとパトリックは、小児病院のパリアティブケアチームと今後の事について話をしました。そして、緊急時は小児病院の救急に行くことや、もちろんDNRにはサインしない事を前提に、“いつかは必要になる事だから”というスタンスで、ホスピスケアを受ける事にしたのです。 ホスピスの初回訪問では、キャサリーン、パトリック、キャサリーンの両親、パトリックのお姉さんとキャサリーンの友人、そして一年近く付き添いをしているナースのマリアンが、緊張した面持ちで私達を待っていました。一体あなたたちはここで何が出来るのか、と。そんな中、ライアンは灰色がかった緑色の大きな目をパッチリと開け、柔らかい金髪を横分けにして、15ヶ月とは思えない大人びた表情で、ソファーに置いたクッションの上に横になっていました。耳の横に置いたiPadからは子供向けの音楽が静かに流れ、やはり頭の横に置いたおもちゃの水槽の中では、カラフルな熱帯魚たちが光の中でゆっくりと泳いでいました。ライアンは、光と大きな音には反応し、特にドアが勢いよく閉じたり、何かが落ちた時などは、びくっと震え、大きな目をますます大きく見開きました。ホスピスと言っても、その時のキャサリーンとパトリックにとっては、ナースが定期的に来てライアンをチェックすることで、症状の悪化による入院を防ぎ、何かあったらホスピスのホットラインはあるけれど、緊急事態であれば救急車で小児病院のERに行く、と言うものでした。そして、小児ホスピスでは、それが可能であり、治る病気ではない事は承知していても、できる限りの事はする、そして最後の判断はその時になってみないとわからない、と言う親の方が、圧倒的に多いのです。そして、私たちの役割は、症状の緩和は言わずもがな、“その時”に向けて、少しずつ準備をし、最終的にその子が、その子にとって理想的な環境で苦しまずに逝けるよう、親のサポートをしていくことであり、このカップルがそれを受け入れられる日が来るのかどうか、その時点では小児病院のパリアティブケアチームを含め、私達、小児ホスピスのメンバー全員が悲観的な印象を持っていました。つまり、恐らくこの二人は、最終的に救急車を呼ぶだろう、と。 私たちは、週に一度、毎週水曜日の4時半に訪問することになりました。と言うのは、キャサリーンが仕事から戻れるのがその時間だったからです。幸いライアンの家は、小児ナースのキャロル、ソーシャルワーカーのキンバリー、そして私の自宅からも10分程度の距離だったので、皆、大抵一旦自宅に戻り、その日の記録をできる限り打ち込んでから、再びライアンの訪問に出るというのが水曜日の日課になって行きました。ライアンは、時々ちいさな痙攣の発作を起こしましたが、それ以外は特に問題も無く、経管栄養も順調でした。パトリックが5時頃エイデンをデイケアからピックアップして戻ってくると、静かだった家は一気に賑やかになり、ライアンも心なしか嬉しそうでした。 春が過ぎ、夏になり、キャサリーンの学校も夏休みに入りました。ライアンは比較的落ち着いており、Early Intervention(アーリーインターベンション:3歳以下の障害児に無料で提供される早期介入セラピー)のPTやOTも続けていました。その頃、パトリックは仕事をやめ、家にいるようになりました。理由は、家族4人で過ごせる恐らく最後の夏を、出来るだけ息子の傍にいてやりたい、と言うものでしたが、キャサリーンによると、パトリック自身の体調も今ひとつ良くないようでした。元々あまりしゃべらず、私たちがいてもすぐに二階に行ってしまうか、庭仕事をするか、エイデンを遊ばせるかで、何か要求があるとき以外は、殆どコミュニケーションをとろうとしませんでした。気さくでいつもニコニコしているキャサリーンとは対照的で、性格もあるのでしょうが、キャサリーンを含め、私たちは彼が鬱の傾向にある事を心配しました。しかし、彼はソーシャルワーカーのカウンセリングも受けようとはせず、唯一、ノースキャロライナに住むお兄さんには心を許しているようでした。お兄さんも時々来ては、2-3日泊まっていく事もあり、そんな時のパトリックは目に見えてリラックスしていました。ライアンは特にこれと言った問題も無く、家族でビーチに行ったり、遊園地に行ったりと、楽しく充実した夏はあっという間に過ぎて行きました。 夏が終わり、秋になるといよいよインフルエンザのシーズンがやってきました。アメリカでは数年前から、町のドラッグストアの薬剤師が、インフルエンザや帯状疱疹の予防接種を行えるようになりました。そのせいか、おかしなことに、診療所などがワクチンを入手しにくくなる傾向にあり、その年は特に乳児用のワクチンが手に入りにくく、ライアンも暫く待たなければなりませんでした。ハロウィーンには、エイデンと二人、ライアンもスパイダーマンになり、トリックオアトリートには行きませんでしたが、近所の子供達が来るのを楽しみました。しかし、11月に入ると、エイデンの風邪を皮切りに、ライアンにも避けては通れない試練が待っていました。どんなに気をつけても、ウイルスは忍び寄り、鼻水が出て、咳が出るようになると、あっという間に呼吸状態が悪くなりました。抗生剤を投与し、上気道の状態は良くなりましたが、今度は副作用で下痢になり、脱水に注意しなければなりませんでした。ちょっとした風邪から回復するのに、2週間はかかりました。同時に、ライアンは小さな癲癇発作や痙攣を頻回に起こすようになり、抗癲癇剤の量を増やしました。テイ・サックスは、少しずつ、しかし確実に進行していました。 そんなある夕方、私がその晩ベビーシッターのバイトをする長男を乗せ、友人宅に向かっていた時、夜勤(オンコール)のナースから電話がかかってきたのです。小児ホスピスのケースから電話があった場合、問題によっては、夜勤ナースは私か上司のバーバラに連絡する事になっているのです。いやな予感は的中し、ライアンのお母さんから電話があり、詳しいことは良くわからないけど、どうも痙攣発作が止まらないようなのだ、ロラゼパムを与えるように指導したけど、一応フォローアップして欲しい、と言うことでした。私は、息子を送り届けると、すぐにキャサリーンに電話をしました。キャサリーンはすぐに出て、「午後3時くらいからしゃっくりのような痙攣が始まり、1時間位して止まったのだけれど、30分位したらまた始まり、まだ続いてる、とても辛そうで、どうしていいかわからない」と言いました。私がロラゼパムをあげたか確認すると、私からの電話を待っていたので、まだあげていない、と言うのです。私は、「今すぐ薬をあげて。小児病院の受け持ち医師に電話をしてから、また連絡するので、そのまま待ってて」と言いました。キャサリーンは「わかった」と言うと、電話を切りました。 私はすぐに小児病院のパリアティブケアチームのホットラインに電話をすると、よく知ったフェロー(レジデント〔研修医〕終了後、専門分野で更に研鑽する医師)が出ました。彼女に状況を説明すると、いったいライアンに起きている事が癲癇なのか、ただの痙攣なのかわかりかねるので、なんとも言えない、と言うのです。今の段階では、ロラゼパムの効果をみるしかなく、効果が無ければまた連絡して、と言う事でした。私はキャサリーンに電話をすると、今度はパトリックが出ました。私が説明する暇もなく、彼はこう言いました。「で、誰か来てくれないの?」電話の向こうから、まるで子猫の悲鳴のようなライアンの声が、途切れ途切れに聞こえていました。私は、「今から行くから。10分待ってて」と言うと、次男と娘に留守番を頼み、夫にメモを残して飛び出しました。 キャサリーンはライアンを抱いて、ソファーに座っていました。日勤のナースは帰宅しており、パトリックとキャサリーンのお姉さんがその横に立って、二人を見守っていました。ライアンは、1-2分おきにびっくりしたように目を開き、両手を前方に伸ばすと、2-3秒ほどで腕を下ろしてから、子猫の鳴き声のような悲鳴を上げるのでした。ロラゼパムを投与してから30分近くたっていましたが、効果は無いようでした。キャサリーンは、「辛そうなので、タイレノールをあげたけど、ぜんぜん効果が無いみたい」と言って私を見ました。私が見たところでは、癲癇ではなく、痙攣発作であり、呼吸や心拍数は少し速めでしたが、特に問題はありませんでした。キャサリーンは、最初にこの発作が始まった時、ライアンが吐いたので、経管栄養は止めたけど、もう次の食事の時間なのでどうしよう、と心配しました。私は、経管栄養の事は今は心配しなくても大丈夫だと言い、それよりも、モルヒネをあげて少し楽にしてあげよう、と提案しました。少量のモルヒネでリラックスする事で、ライアンも少しは楽になるはずだったからです。キャサリーンはパトリックを見ました。パトリックは疑わしそうに私を見ると、「モルヒネ?」と一言言いました。まるで、“それで一体何が解決するのだ?”と言わんばかりでした。私はパトリックを見ると、「はっきりした事はわからないけど、驚愕反応(びっくりしたような過敏反応)や痙攣はテイ・サックスの症状で、癲癇ではないようだけれど、こんなに長い時間続くのでは、ライアンが辛いのは当然。とりあえずモルヒネで苦痛を和らげ、リラックスさせてあげる事が先決だと思う」と言いました。キャサリーンが、「私もそれが良いと思う」と言うと、パトリックはそれでもしぶしぶ「わかった」と言い、薬を取りに行きました。わたしは、小児病院のフェローに再び電話をし、今の状況を説明しました。彼女は、「うーん、やっぱり一度診察しないとわからないから、うちに来るかどうか、聞いてみてくれる?」と言いました。私は、「わかった。とりあえず今モルヒネ投与するから。もし両親が賛成するようならまた電話するから、救急からすぐそっちの病棟にいけるように手配してもらえる?」と聞くと、「了解、じゃ、電話して」と言って電話を切りました。私はパトリックがライアンのGチューブからモルヒネを注入し、水でフラッシュするのを見届けてから、いま、フェローが言った事を伝えました。パトリックは「救急に行って、そこでまた何時間も待たされるんじゃないか?いつもそうだ」と言い、私が、「そうならないように手配してもらっているから」と説明すると、「それならいい」と言ってキャサリーンを見ました。キャサリーンは頷くと、お姉さんが、「私が運転するから、パトリックはエイデンを迎えに行ってあげて」と言い、準備を始めました。私は再度小児病院に電話をし、ライアンが病院に行くことを伝えました。彼女は、「わかった。救急に着いたら神経内科に直接上げてもらえるようにしてあるから」と言い、私はその旨をパトリックに伝えました。キャサリーンが毛布を敷いた床にライアンを寝かせてから、支度をしに二階に上がると、パトリックが「夜の薬の時間だ」と言って私を見ました。私はちょっと迷いましたが、癲癇の薬や筋弛緩剤もあるので投与しよう、と言いました。パトリックが何種類かの薬をGチューブから入れると、数分して、ライアンは吐き気を催してきました。そして、身体を少し斜めにした途端、今入れた薬を全部吐いてしまったのです。痙攣も続いていたので、ライアンの血中酸素はあっという間にさがり、チアノーゼが出始めました。私はすぐに吸引し、パトリックが酸素を着けました。背中をたたいて刺激すると、チアノーゼはすぐに引き、血中酸素も元に戻りました。パトリックと私はライアンのシャツやオムツを替え、キャサリーンの支度が整うと、私がライアンを抱き、パトリックが荷物を持って、外に出ました。後部座席に座ったキャサリーンにライアンを渡すと、彼女は初めて涙ぐみ、「ありがとう」と言いました。 お姉さんの運転する車を見送ってから、私とパトリックは家に入りました。しん、とした家の中で、パトリックはホッとしたように、大きなため息をつきました。私は荷物を持ち、「それじゃ、また、ライアンが戻ってきた時に」と言うと、パトリックは、「そうだね」と言いました。「ライアンは大丈夫だと思います。痙攣が治まれば、すぐに帰ってくるんじゃないかな」と言うと、パトリックは少しだけ笑い、「俺もそう思うよ。大騒ぎして悪かったね。でも、助かった。ありがとう」と言いました。玄関を出ると、冷え切った空気の中で、いつの間にか昇った月が、黄色くピカピカに光っていました。 忘れられない夜(2)に続く。
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