ホスピスナースは今日も行く 2015年03月
FC2ブログ
ホスピスナースは今日も行く
アメリカ在住日本人ナースが、ホスピスで出会った普通の人々の素敵な人生をおすそわけします。
あの日のアメリカ人 (2)
 久しぶりにMr.カインのドアのベルを鳴らすと、娘さんが迎えてくれました。お互いに“ひさしぶり”と言ってハグし合い、私は眼だけで、“本当に、残念です”と言いました。娘さんも黙って頷いてから、「父はキッチンにいるわ」と言って、奥に入っていきました。娘さんが、「お父さん、Nobukoが来たわよ。」と言うと、相変わらずおしゃれなベストを着たMr.カインが、杖を突きながら、ゆっくりと現れたのです。
 「お久しぶりです。」私が言うと、Mr.カインは立ち止まり、「やあ、元気でしたか?」と言って、杖を左手に持ち直すと、右手を差し出しました。私も右手を差し出すと、一年半前と同じように、しっかりと握手をしました。Mr.カインがリビングルームの椅子に座り、私と娘さんがソファに座ると、Mr.カインはズバリと本題に入っていきました。「放射線も化学療法も意味はなかったよ。あとはここで、妻に会いに行く日を待つだけだ。」そう言って、Mr.カインはにっこり笑うと、私に向かって「君に任せましたよ。」と言いました。娘さんがあわてて、「お父さん、そんなプレッシャーかけるようなこと言ったら気の毒でしょ。」と言うと、彼は、相変わらずの大きな声で、「何言ってるんだ。この人はプロなんだから、そんな事当然だろう。」と一喝しました。私は思わず笑ってしまい、二人に向かって、「私に分かる事、出来る事は全てしますが、何か問題があったらいつでも私のボスと話してください。他にもナースはたくさんいますし。」と言うと、「他のナースなんて知るか。」と言われ、娘さんはますますオロオロしてしまうのでした。
 その時点では、Mr.カインは、まだ身の周りのことを自分で行っていましが、娘さんは、毎週末、片道3時間運転して、コネチカットから手伝いに来ていました。しかし、少しずつ息切れがするようになり、2階の寝室との行き来が大変になってきました。Mr.カインは、両足のリンパ浮腫がひどく、足の甲から大腿まで、おそらく元の太さの2倍位にはなっていたでしょう。利尿剤は効果が無く、弾性バンデージも試しましたが、着け心地の悪さに見合う効果が無いため中止、できるだけ両脚を高く上げるように促しましたが、だんだん腹水も溜まってきた為、その姿勢も辛く、長くはできませんでした。歩行器を使うようになり、とうとう行き場のなくなった水分が皮膚から滲み出す様になっていきました。そして、ついに24時間住み込みのエイドさんを雇う事に同意したのです。
 エイドさんを雇ってからも、Mr.カインは、かつてイーディスさんの為に設置した、階段のリフトチェアを使って毎朝一階に降りて、キッチンで朝食をとり、自分でコーヒーを淹れ、自分の椅子に座って、コーヒーを飲みながら新聞を読み、朝のニュースを見る、と言うリズムを崩しませんでした。頑固さも変わらず、ジャマイカ出身のエイドさんは、私が訪問する度に、“どうしてこの男性はいつもこんなに偉そうなのだ”と、こっそり愚痴を言ってくるのでした。Mr.カインの両脚の皮膚は赤くなり、浸出液も多くなったため、ガーゼを交換する為に、毎日訪問するようになりました。エイドさんに手当ての仕方を指導し、ナースが訪問できない時は、彼女にやってもらうようにしていましたが、そうすると、明らかに彼は不機嫌になるのでした。ある時は、私の代わりに訪問したナースから、「もう、Mr.カインったら、私のやる事なす事気に入らなかったみたいよ。あの人、いつもあんなにエラソウなの?あなたも大変ね。」と言われ、「いやー、そんなでもないんだけど...」と言いつつ、なんとなく、娘さんの気持ちがわかるような気がしたのでした。
 そんなある朝、世界中のテレビ画面に、怒涛に飲み込まれていく、港町や美しい畑の情景が映し出されました。海外に住む殆どの日本人がそうであったように、私もスクリーンに釘付けになり、すぐに船橋の実家に電話をしました。当然電話は通じず、ちょうど仕事が休みだったその日は、一日中、インターネットで随時流れるNHKニュースを、食い入るように見ていました。すぐにボスのリンから電話があり、“あなたの家族は大丈夫?”と訊かれ、“実家は津波の心配はないけど、電話が通じないのでまだわからないし、親戚が東北地方にいる。”と答えると、“そう。ご家族に何かあったら、すぐに連絡しなさいね。みんな、あなたの為に祈っているから。”と言ってくれました。その後も、夫の両親や兄弟、かつて7年近く受け持った患者さんの家族や、私が12歳の夏休みを過ごした、ミシガン州の大きな農場のお母さん、その娘さんで私のメイドオブオナー(結婚式で花嫁の付き添い人の代表になる未婚女性)になってくれた友人などから、電話やメールが届きました。私は、実家の様子がわからない不安に苛まれながらも、私の祖国を襲った悲劇に、心を痛め、心配してくれる人達の優しさに感動していました。そして、その感動が、義援金の募金活動へと繋がっていったのですが、それはまた、別の話で、とにかくその週末は、実家の安否の確認に明け暮れたのです。
 月曜日の朝、実家や岩手の親戚も無事であった事を確認し、関東にいる友人達とも連絡が取れ、とりあえず心を落ち着かせて仕事に行きました。1件目は、Mr.カインでした。私が訪問すると、彼はすでに一階のリビングでコーヒーを飲みながら、新聞を読んでいました。私が部屋に入ると、彼は新聞から顔を上げ、私を見て“Ohh...”と言うと、絶句してしまいました。私がいつものように、「週末はどうでしたか?今日の調子はいかがですか?」と訊くと、Mr.カインは、「そんな事よりも、君の家族は大丈夫なのか?」と言い、私が「昨日やっと連絡が取れて、みんな無事でした。」と答えると、「そうか、それは良かった。」と言い、それから、ぽろぽろと涙を流し始めたのです。突然の事に私は驚いて、「大丈夫ですか?」と訊くと、彼は泣きながらこう言いました。「あんなに美しい国が、あんな事になるなんて。あの整然とした畑を見ただろう?あんなに礼儀正しく親切で、丁寧な仕事をする人達は、世界中のどこにもいない。日本だけだ。それなのに、なんてことだ...なんてことだ...。」
 私は暫らく、何も言えませんでした。ただ、必死で“ここで泣くな”、と自分に言い聞かせていました。そのままどのくらい経ったでしょうか、部屋の入り口に立っていたエイドさんが、そっとティッシュの箱を持ってきてくれたのを機に、Mr.カインは鼻をかみ、涙を拭くと、エイドさんに「ありがとう」と言い、それから、「さて、それでは君の仕事をさせてあげないとな。」と言いました。
 まもなく、Mr.カインは階下に降りて来なくなり、息切れと痛みのコントロールのために、時々モルヒネを使うようになりました。食欲が減り、かつてイーディスさんが座っていた窓際のリクライナーに座って、うとうとする時間が多くなっていきました。水分もあまり取らなくなり、両脚の浮腫は軽減していきました。そしてある日、彼は私にこう言いました。「僕はね、そろそろ死ぬと思うよ。イーディスみたいにね、パッといくよ。いろいろ世話になったね。君は優秀なナースだったよ。」 そして、すっかり骨ばってしまった右手を差し出しました。私がその手を握ると、彼はにっこりと笑い、「ありがとう」と言いました。私は、「あなたとイーディスさんに、お会いできて幸運でした。イーディスさんに会ったら、よろしくお伝えくださいね。」と言いました。彼は頷くと、「さようなら」と言い、眼を閉じました。私も「さようなら」と言い、階下に降りると、コネチカットの娘さんに電話をしました。そして、Mr.カインの言った事を伝えると、娘さんは、“すぐにそっちに行くわ”と言い、“本当に、いろいろと、どうもありがとう。父はあなたを心から信頼していたわ。”と言って電話を切りました。
 その週末、Mr.カインはその言葉通り、娘さんや息子さんが見守る中、お二人の手を煩わせることもなく、眠るように亡くなりました。あれから4年が経ちましたが、3月11日が来るたびに、未だに震災の傷跡に苦しんでいる人達への思いとともに、その人達の為に涙を流してくれたアメリカ人がいた事を、思い出すのです。
[2015/03/27 12:33] | 忘れられない人々 | トラックバック(0) | コメント(2)
あの日のアメリカ人 (1)
 Mr.カイン(仮)は、70代後半で、背が高く、いつもワイシャツにスラックス、そして洒落たベストを着た、いかにも元ビジネスマン、と言う感じの人でした。仕事で何度か日本に行った事があり、私が日本人だと判ると、大げさなくらい、日本の美しさや日本人の礼儀正しさを賞賛しました。彼は、大きな声ではっきりとものを言い、何事もきちんと合理的に整理し、“適当”とか、“いい加減”というものを許さない、几帳面で、ちょっと頑固な所がありました。ですから、妻であり、私の患者さんだったイーディスさん(仮)の介護も、きっちりと無駄なく、手を抜かず、見事なほど完璧に行っていました。
 イーディスさんは、小柄で穏やかな女性で、いつも窓際の椅子に座り、とても静かに話す人でした。最初に彼女を受け持った時は、心不全の発作のあとで、パリアティブケアでした。薬や病気について説明し、食事や生活についても指導すると、Mr.カインは、それらを全て書き留め、腑に落ちない所は質問し、納得すると、確実に実践していました。イーディスさんのお世話をすることは、彼にとって、生活であり、仕事でもあったのです。
 カイン夫妻には、息子さんと娘さんがいて、娘さんはコネチカット州、息子さんはフロリダ州に住んでおり、息子さんはなかなか会いに来る事ができませんでしたが、娘さんは、仕事の合間を縫って、月に2度はお手伝いに来ていました。たまに娘さんに会うと、いつも、“父が頑固で大変でしょう”と、気を遣ってくれ、それを聞いたMr.カインが、例の大きな声で“何を言っているんだ、当たり前の事じゃないか”と一喝し、私が“そんな事ないですよ”と言うと、“ほら見ろ”というMr.カインを横目に“あなたが我慢強い人でよかったわ”と、ホッとしたように言うのでした。どうも、娘さんにとってMr.カインは厳しい“カミナリ親父”であり、イーディスさんは彼女をやさしく癒してくれる、オアシスのような存在だったようでした。
 イーディスさんは、静かでしたが、とても強い意志を持った人で、ナースやPTの指導をしっかりと守り、実践し、ご主人のケアにも一言も文句を言いませんでした。訪問するたびに少しずつ回復し、私が「すばらしいですね、イーディスさん。学校でもきっとA+の生徒だったんじゃないですか?」と感心すると、彼女はにっこりと笑い、Mr.カインが、「もちろんさ。それだけじゃない、彼女は優秀なゴルファーだったんだ。」と、誇らしげに言ったのです。そして、壁にかけてある楯と、その楯を持って明るい日差しの中で笑っている、若き日のイーディスさんの写真を見せてくれ、「僕と結婚しなかったら、きっとプロのゴルファーになってたよ。」と、いたずらっぽく笑いました。
 そんなイーディスさんでしたから、60日の認定期間終了とともに、ホームケアも終了、このまま小康状態が続くよう祈りながら、カイン家をあとにしました。しかし、残念な事に、その2ヵ月後、イーディスさんはうっ血性心不全の発作を起こし、今度はホスピスケアに依頼されてきたのです。初回訪問の日には、息子さんと娘さんも来ていました。娘さんは、窓際のリクライナーに座るイーディスさんの横に腰掛け、お母さんの手に自分の手を重ねていました。
 私がホスピスについて説明すると、イーディスさんはただ黙って頷きました。Mr.カインは、そんなイーディスさんを見てから「そういうことだ。お母さんの世話は私がするから、お前たちは心配するな。」と言うと、今度は私の方を見て、「では、具体的に何をしたらいいのか、説明してください。」と言いました。私は、これから起こりうること、必要になってくるケア、そして、おそらくエイドさんを雇う必要が出てくる事などを説明しました。娘さんと息子さんも、人を雇う事に賛成でしたが、予想通り、Mr.カインに「そんなものはいらん」と、一蹴されてしまいました。とりあえず、娘さんが1週間は泊まっていく予定だったので、とにかく様子を見て考えましょう、と言う事で落ち着きました。しかし、その一週間の間に、イーディスさんは着実に弱っていったのです。コネチカットに戻らなければならない日が近づくにつれ、娘さんの不安とストレスは上昇、私も何とかエイドさんを雇うよう、いやな顔をされるのは承知の上で、Mr.カインの説得に臨みました。そして娘さんが帰る予定の日に、ついに彼も“イーディスさんの為に”プライベートのエイドさんを雇うことにしたのです。娘さんは予定を一日延ばし、エイドさんのサービスが始まるのを確認してから、帰って行きました。ところが、それからイーディスさんの容態は急変し、その翌日に亡くなったのです。
 死亡時訪問をすると、とんぼ返りした娘さんと、いつも通りきちんとした身なりのMr.カインが、静かに迎えてくれました。Mr.カインは赤い目をして言いました。「こんなに早く逝ってしまうとは、思わなかったよ。君にはわかっていたのかい?」私は、「いいえ。ただ、イーディスさんはきっと、安心されたんだと思います。」と答えました。横で、娘さんが、うんうんと頷いていました。Mr.カインは、黙ったまま、しばらく私を見ていました。それから静かに微笑むと、「そうですか、そう思いますか。」と言って、右手を差し出しました。私も右手を出すと、彼は大きな手でしっかりと握手をし、「いろいろと世話になったね。どうもありがとう。」と言いました。そして帰り際に、彼はこう言ったのです。「僕もリンパ腫があるからね、いつかまた、世話になるかもしれないよ。」
 それから一年半ほど経った冬、私はホスピスの初回訪問の予定に、Mr.カインの名前を見つけたのです。 あの日のアメリカ人(2)に続く。
[2015/03/20 22:02] | 忘れられない人々 | トラックバック(0) | コメント(0)
そこにある悲劇
 アメリカに来た頃、テレビのローカルニュースで毎日のように伝えられる、殺人事件と火事の多さに、心底驚きました。日本だったら、全国ニュース、それも大騒ぎになりそうな事件が、まるで日替わりメニューのように読まれていくのです。それでもそれは、フィラデルフィア市内やニュージャージーの危険な地域の事で、郊外にいる自分達にはどこか“遠い出来事”のような気がしていました。
 訪問看護師になって最初に就職した訪問看護の事業所は、元看護師の母親がオーナー、息子が社長で、フルタイムの訪問看護師が3人と言う、とても小さな会社でした。そして、その3人で、フィラデルフィア市内とその周辺4郡に散らばる患者さんを看ていました。いろいろあって(それはまた、別の話)、その事業所には一年しかいませんでしたが、その間に様々なケースを訪問しました。中でも、“GSW”(Gunshot Wound:銃創)の患者さんの初回訪問で、鉄格子と、普通のドアが二重になっている玄関の前に立った時は、かなり緊張したものです。フィラデルフィア市内では、特にロウハウスと呼ばれる長屋の、鉄格子の二重ドアは珍しくはないのですが、その頃はまだそんな事は知らず、一体この奥にはどんな生活があるのだろうか、自分は無事に戻れるのだろうか、と、いらぬ想像をしたものでした。
 訪問看護は、個人の家庭に入り、その人達の身体的、精神的、時には社会的な問題に触れる仕事です。言ってみれば、全くの他人なのに、家族や友人以上に、個人的な部分に立ち入る仕事なのです。それが例え一時的なものであったとしても、お互いの人生に関わり、場合によっては、その人生に何らかの影響を与える事だってあるかもしれないのです。サンドラは、患者さんやその家族だけでなく、同僚達や、オフィスのスタッフ、彼女に出会った人みんなに、そんな影響を与えるナースでした。
 サンドラは、インド系の、真っ黒な長い髪を1つに結んだ、背の高い美人で、いつも明るい笑顔で誰にでも話しかける、全く屈託のない人でした。彼女は訪問看護部唯一のLPN(Licensed Practical Nurse:準看護師)で、受け持ちはありませんが、その分、大勢の患者さんを訪問し、どの看護師も一度は、自分の患者さんを彼女に訪問してもらったことがあるはずでした。そして、彼女の後に訪問すると、患者さんや家族から、“この間来たナースは、とっても良くしてくれた”という賞賛を、誰もが聞かされていました。私達は、普段は一人で訪問していますので、別のチームのナース同士がお互いに顔をあわせるのは、月に一度、月曜日の朝のアナウンスメント(業務報告)くらいでしたが、それでも多くのナースやオフィスのスタッフは、彼女を知っていました。知っている、と思っていました。
 日曜日の夜、仕事用のラップトップをつなげ、月曜日の予定とメールをチェックすると、緊急アナウンスメントの連絡が来ていました。この所、保険の改悪(!?)や、病院の体制の変革で、訪問看護部やホスピスも、ものすごい勢いで変わらざるを得ない状況にあり、誰もがストレスと不安でいっぱいでした。それを見越してか、そのメールには“雇用に関する事ではありません”と但し書きがありました。しかし、それは、私達にとってリストラよりも何よりも、衝撃的な報告だったのです。
 いつもアナウンスメントを行う会議室に入ると、正面のテーブルに大きなロウソクがおいてありました。訪問看護部長のリサと副部長のキャシーが立ち、その横にホスピスのチャプレンも立っていました。会議室全体が、重苦しい空気で覆われていました。そして、いつも元気でパワフルなリサが、悲痛な顔で、こう言ったのです。
 「すでにニュースで知っている人もいると思いますが、先週の金曜日に、サンドラが彼女の夫によって、殺されました。彼女の夫は、サンドラの二人の娘さん達の目の前で、彼女を殺してから失踪し、昨日、車の中で自殺していたのが見つかったそうです。警察の調べによると、もうずいぶん長い間、サンドラはDV(Domestic Violence:家庭内暴力)の被害に遭っていたそうです。」
 その瞬間、会議室の空気が凍りつきました。みんな、自分の耳を疑いました。あのサンドラが。あの、サンドラが。それから、漣のように嗚咽が広がり、しばらくの間、会議室の時間が止まってしまったようでした。
 「みんな知っている通り、サンドラはそんな事、微塵も見せませんでした。私たちの誰一人として、彼女がそんな苦しみを抱えていたとは、想像もしませんでした。5年間、一緒に働き、一緒に笑い、彼女のユーモアに救われた人もたくさんいたでしょう。患者さんたちに愛され、仲間に愛された、すばらしいナースだった彼女が、どうしてこんな風に命を奪われなくてはならなかったのか。本当に、悔やまれてなりません。」
 リサは一度深呼吸をすると、「私たちにできることは何か。二人のお嬢さんたちは、サンドラのお姉さんの所で保護されているそうですが、今後もいろいろな面で大変だと思います。エージェンシーとして何ができるか、これから話し合っていくつもりです。そして、二度とこんな悲劇が起こらないよう、もしもDVを受けている人がいたら、誰かに話してほしいんです。助けを求めてほしいんです。ここにもホットラインがあるのを知ってますか?手遅れにならないうちに、電話してほしい、誰かに打ち明けてほしい。そして、誰かがDVを受けているかもしれないと思ったら、相談してほしいんです。」と、まるで懇願するように言いました。
 オフィスや病院の化粧室には、必ずDVのホットラインの番号が書かれた小さなポスターが貼ってあります。5年間、あのポスターを見ながら、サンドラはどんな思いでいたのでしょうか。DVは本当に身近な所にあふれています。私の親しい人達の中にも、精神的な虐待を受けていた人は何人もいます。同僚の中にも、過去に虐待を受けていた人はいます。幸いな事に、その人達は何とかその地獄から抜け出す事ができましたが、それができない人たちも、大勢いるのです。
 すぐそこにある悲劇。気付く事ができなかったのは、罪ではないけれど、私たちは、何かを見落としていたのではないか。お互い、知っているようで、本当は何も知らない。一緒に、人の命に関わる仕事をしていながら、お互いの命に関わる話をすることはない。サンドラの死は、ショックとか、後悔とか、哀しみとか、怒りとか、そういう言葉では言い表せない、数年前に一度経験した、痛み、のようなものを、もう一度引きずり出されたような、そんな出来事でした。私と同年代のサンドラの子供達は、やはり私の子供達と同じ年齢です。あの日に何が起こったのか、私達には知る由もありませんが、彼女が子供達を命がけで守ったことは、想像に難くありません。娘さん達が生き残った事、この先彼女達が乗り越えていかなければならない厳しい壁を思うと、胸が痛みますが、それでも生きている事が、残された者達のせめてもの救いなのです。
 
 
 
[2015/03/12 19:31] | つぶやき | トラックバック(0) | コメント(0)
心残り
 去年の今頃を髣髴とさせる大雪の中、次の訪問先を目指してノロノロと運転しながら、私はある女性の事を思い出していました。リンダさん(仮)は、60代前半の元ナースで、一棟に8世帯、15棟ほどが建ち並ぶ、アパートメント・コンプレックスと呼ばれる集合住宅地に、一人で暮らしていました。彼女は思春期の頃より、多発性のう胞腎という慢性の腎臓病を患い、ずっと病気と付き合ってきたのですが、1年近く前から人工透析を受けていました。同時に、腎性貧血もあり、その治療もしていました。彼女は最初の結婚で、腎臓病にもかかわらず二人の娘さんに恵まれましたが、彼女たちが成人してから離婚しました。暫らくしてから再婚し、二度目のご主人ととても幸せに暮らしていましたが、3年前、結婚して3年目に、彼は動脈瘤破裂で急死してしまったのです。それ以来、彼女はナースとして働きながら、そのアパートで独り暮らしをしていました。
 リンダさんのアパートには、建物に入る為の鍵のかかったドアがあり、訪問者は自分が尋ねる人のアパートのブザーを押して、中から自動的に解錠してもらうシステムになっていました。ところが、リンダさんの建物は、外のドアの呼び出しブザーが壊れていた為、毎回建物のドアの外から私が電話し、彼女が自分のアパートから廊下を抜けて、ドアを開けに来てくれたのでした。
 初回訪問の時、ソーシャルワーカーのキンバリーと私は、あまりにも彼女がホスピスに似つかわしくない様子だったので、かなり詳しくホスピスを選ぶに至った経過を訊きました。彼女ははっきりと、「もう、透析はいやなのよ。週に三日もあんな思いをして、疲れきって、この先あとどれ位時間があるのか分からないけど、こんな風に残りの人生を生きたくないの。」と言い、もう透析は受けないと言う意思表示をしたのです。彼女は何の躊躇もなくDNRにも同意し、清々しい顔でホスピスケアにサインすると、ホッとしたように、「これで安心。」と言いました。
 リンダさんの娘さん達は、二人とも結婚して、近くに住んでいました。それぞれ二人ずつ子供もいて、かわいらしい孫達の写真が、部屋のあちこちに飾ってありました。ところが、2年前に突然次女がリンダさんに絶縁宣言をし、その直後、長女も同様に縁を切ると言って、以来、娘さん達とお孫さん達には会っていないと言うのです。キンバリーと私は、衝撃的な事実を悲しげに、しかし淡々と話す彼女に、一体何があったのか尋ねましたが、リンダさんは、「それが、私にも全く分からないのよ。」と私達を見てから、こう言いました。「だからね、死ぬ前に、なぜなのか、それだけはどうしても知りたいの。」
 ホスピスケアを受けるにあたり、必ず必要なのが“Primary Care Person”(プライマリーケアパーソン:主要介護者) となる人で、大抵は直接介護する家族の一人、或いは“Durable Power of Attony”(永続的委任状:家族、他人に関係なく、その人の法的、医学的、財政的決定権を持つ人、またはそれを明記した法的書類)を持っている人がなるのですが、リンダさんの場合、娘さん達は無理なので、親友に頼む事になりました。その親友は学校の先生で、日中は仕事をしているのですが、何かあったらいつでも連絡が取れるようにしてくれている、と言う事でした。私達は、リンダさんに、これから考えなくてはならない事、特に、状態が悪くなり、一人では暮らせなくなった時の事、24時間の介護が必要になった時の事、そしてお葬式の準備の事などを話しました。彼女は、遠いような近いような現実問題を突きつけられ、ショックと言うよりも、“ああ、そうか、そうよね”という感じで、しっかりとメモを取っていました。そして、私が、「何か他に質問はありませんか?」と訊くと、こう言いました。「透析をやめてから、大体どれ位もつものなの?」私は、内心“この人に本当に当てはまるのだろうか?”と思いつつ、「週3回透析を受けていた人がやめた場合、大体2週間だと言われていますが、ひと月近い人もいます。ごくたまに、“もしかしたら、透析の必要がなかったのでは?”と思わせるような人もいるので、一概には言えませんが。」と答えました。するとリンダさんは、「私がその“ごくたま”な人かもしれない可能性もあるのね。」と言ってから、私を見て、「ありがとう。」と言いました。
 リンダさんは、少しずつ息切れが強くなり、ドアを開けに来てから部屋に戻ると、しばらく座って、息を整えなくてはなりませんでした。しかし、透析をやめてから一週間経っても、尿の量も減らず、皮膚のかゆみや吐き気などもなく、ほぼ普通の生活を保っていました。私は、娘さん達が、リンダさんがホスピスケアを受けている事を知っているのか、尋ねました。すると、答えはこうでした。「知っているも何も、ホスピスを勧めたのはあの子達なのよ。私が透析センターで、これ以上透析を続ける意味がわからないって先生に話した後、センターのナースが長女に連絡したのね。そしたらあの子から2年ぶりに電話がかかってきて、こう言われたの。“透析をやめるって言う事がどう意味かわかっているでしょ。だったら、ホスピスに行くしかないわね”って。“でも、私達には何も期待しないで”って。」
 私は、「そんな...」と言ってから、言葉が出ませんでした。リンダさんは、こう続けました。「前の夫と離婚してからも、あの子達とはいい関係だったのよ。孫達とだって。ベビーシッターだってよくやってたし。本当に愛してるのよ。でも、最初はプレゼントの事だったわ。次女が、私が子供たちに物を与えすぎるって言い出したの。私だって、やたらめったら物をあげてたわけじゃないし、いくらかわいくたって、それくらいわきまえてるわ。誕生日とクリスマスくらいよ。そしたら今度は、子供達にはもう会わないでって言われたの。私は訳がわからなくて、どうしてなのか訊いたわ。でも、はっきり言わないのよ。でもね、どうやら彼女は長女に相談していたらしいの。それから彼女たちの父親にもね。それでしばらくしたら、今度は長女から電話があって、“妹はもうあなたとは会わない、自分は妹の味方だから、自分ももうあなたとは会わない”って言われたの。私はもう、何がなんだかわからなくて、私が何をしたのか、何を言ったのか、教えて欲しいって言ったのよ。でも、何の説明もしないで電話を切ったわ。その年のクリスマスも、このクリスマスも、少しだけでもと思って、子供たちにプレゼントを贈ったんだけど、それも全部送り返されてきたの。一体私は、どんなに悪い事をしたのかしら。誰か、教えて欲しいのよ。」
 私が知っている限り、リンダさんは親切で優しく、賢くて落ち着いた、料理好きの素敵な女性でした。そんな彼女が、実の娘二人から絶縁される理由とは、一体なんだったのでしょうか?そしてなぜ、彼女達はその理由を話さないのでしょうか?もしかしたら、彼女達は何か大きな誤解をしているのではないか、父親に何か言われたのではないか、それとも、リンダさんが無意識に、彼女たちをそこまで追い込むほどの何かをしたのか、私がいくら考えても答えがわかるわけではないのですが、それでも、考えずにはいられませんでした。そして、何とかリンダさんが娘さん達と和解できる方法はないものかと、ない知恵を絞るのでした。
 そうして2週間経ち、3週間経ち、ひと月たっても、リンダさんは息切れ以外は症状もなく、誰もが“もしかしたら、これは例の、『ごくたまケース』かも...”と思い始めたのです。リンダさんは、学校の先生をしている親友のほかに、買い物などを手伝ってくれる友人がいました。その友人は実は私と同じホームケアの、小児チームのナースでしたが、私は会ったことはありませんでした。私達は、リンダさんの状態が悪化した時の準備をする反面、やはり、ホスピスにサインしたのは時期が早すぎたのでは?と言う思いを強くしていきました。そして、長かった冬も終わりに近づき、日差しが柔らかくなってきた頃、第一認定期間の90日終了と共に、リンダさんはホスピスケアを一旦中止する事にしました。息切れはおそらく貧血の為であり、家庭医に戻って貧血の治療を再開し、腎臓の方はそのまま様子を見ることにしたのです。
 リンダさんは、予想だにしなかった現実に、戸惑いながらも、悦びを隠せずに言いました。「あとどれくらい生きられるのかはわからないけど、これは神様からの贈り物だから、決して無駄にはしないわ。ああ、夏が来るのが待ち遠しい。私、プールが大好きなのよ。もう一度夏を過ごせるとは思っても見なかったわ。」そして、私の手を取ると、「本当に、いろいろありがとう。あなたに会えなくなるのは残念だけど、今度その時が来たら、また、あなたに担当してもらいたいわ。」と言いました。私は、どんな症状が出たら医師に連絡するのか、と言う事を確認してから、「できれば、ずっと会う必要がない方がいいんですが、必要になったら、また来ますね。それまで、毎日を楽しんで下さい。そして、いつか娘さん達と会えるよう、祈ってます。」と言うと、リンダさんは、「どうもありがとう。」と言い、ギュウっとハグしてくれました。
 それから10ヵ月ほど経ったある日、小児ナースのキャロルと一緒に訪問した後、彼女に「そう言えば、メラニーから伝言があったんだわ。」と言われました。私が、「メラニーって?」と訊くと、キャロルは、「うちのチームのナースよ。“リンダが亡くなった”って。」と言ったのです。私は一瞬考えてから、それがあのリンダさんのことだとわかると、思わず息をのんでしまいました。キャロルはそんな私を不安そうに見て言いました。「メラニーは、そう言ったらわかるって...。」私は我に帰ると、キャロルに説明しました。一年近く前に受け持った人で、状態が良くなって、ホスピスを中止したのだと。それから再依頼がなかったから、ずっと元気にやっているのかと思ってたのに、と。メラニーからの伝言はそれだけで、どこで、どうして、と言う事はわかりませんでした。
 私の脳裏に浮かぶのは、最後に会った、優しい笑顔でハグしてくれた、ふっくらとしたリンダさんでした。あの後、アパートのティーンエイジャーに傷をつけられた車は直したのだろうか、夏のプールを思い切り楽しんだのだろうか、友人たちとバーベキューをしたのだろうか、そして、娘さん達とは、和解できたのだろうか。そんな事が、頭の中をぐるぐる回り、いっそのことメラニーに訊いてみようか、とも思いました。しかし、メラニーは個人的な友人の死を、受け持ちだった私への厚意で知らせてくれたのであり、私が立ち入る事ではない、と思い直したのです。私にできるのは、ただ、リンダさんが娘さん達と和解し、心安らかに人生を終わらせられた事を願うよりありませんでした。それでもやはり、一度は関わった人の最後を見届ける事ができなかったのは、置き忘れた大切なものを二度と取りに戻れないような、そんな心残りとなって、記憶されていく気がするのです。
 
[2015/03/05 17:09] | 忘れられない人々 | トラックバック(0) | コメント(0)
| ホーム |
プロフィール

ラプレツィオーサ伸子

Author:ラプレツィオーサ伸子
アメリカ東海岸で在宅ホスピスナースをしています。アメリカ人の夫、子供3人、犬一匹と日々奮闘中。

最新記事

このブログが本になりました!

2冊目の本がGakkenから出版されました。 「それでも私が、ホスピスナースを続ける理由」https://gakken-mall.jp/ec/plus/pro/disp/1/1020594700 「ホスピスナースが胸を熱くした いのちの物語」と言うタイトルで青春出版社から発売されました。 http://www.seishun.co.jp/book/20814/

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

フリーエリア

フリーエリア

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR