ホスピスナースは今日も行く 2015年01月
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ホスピスナースは今日も行く
アメリカ在住日本人ナースが、ホスピスで出会った普通の人々の素敵な人生をおすそわけします。
安楽死と安楽な死
現在、アメリカのワシントン、オレゴン、ヴァ-モントの三州で、医師による自殺幇助(安楽死)が合法になっています。この話題になると、ホスピスナースとしては、なんとも言えぬ虚しい、悲しい気持ちになります。その条例には、かなり厳しく条件が記されてあり、誰も彼もができるわけではありません。そして、この条例の条件に当てはまる人達は、そのまま、ホスピスケアを受ける人達にもなりうるのです。現に、これらの州では、ホスピスケアを受けながらも、最終的には自分でその時を決めたい、と言う患者さんはいるのだそうです。これらの州にあるホスピスの殆どは、この医師による自殺幇助に積極的に関わる事はないようですが、それを選ぶのは患者さんの意思であり、その意思は尊重する、と言う所にとどまっているそうです。しかし、それでもそのホスピスのスタッフは、複雑な思いでいるのではないか、と思うのです。
 ホスピスの最終目的は、患者さんが、限られた時間を身体的にも精神的にも、安楽に過ごし、その人がその人生を全うする事です。果たして、その最後の日を自分で選ぶこと、人工的な力(薬物)によってその人生を終わらせることも、また、“全うする”事になるのでしょうか?私たちの患者さんや家族の中にも、時々“オレゴンの自殺幇助を選んだ人の気持ちがわかるわ”という人はいます。でもそれは、“死”までの過程、未知の経験に対する不安と恐怖の表れであり、絶望とは違う気がするのです。そして、私たちホスピスナースの仕事は、その不安と恐怖をできる限り取り除けるように、もちろん、100%の保障などできませんが、ある意味で、希望を与えることなのです。終わりがわかっているのに、そこにどうやって希望を見出すのだ?と思われるかもしれません。言ってみれば、“死の過程への希望”となるのですが、もしも自分が安らかな気持ちで苦しまずに生き抜く事ができるとしたら、そうする事によって、自分の大切な人達に何かを残せるとしたら、そこに小さな希望が見えて来るのではないかと思うのです。それは、健康な時に願っていた事とは違ってしまうかもしれませんが、不安と恐怖と闘うのではなく、その恐怖のために自殺を選ぶのではなく、“安らかな死”への希望を持って、与えられた時間を最後まで使い切る事ができると思うのです。
  医師による自殺幇助は、あまり知られてはいませんが、失敗する事もあります。つまり、最後のお別れをし、これで楽になると信じて服薬した薬の副作用に酷く苦しみ、結局家族が見るに見かねて、救急車でERに運び込まれたり、また、三日間の昏睡の後目覚めてしまった、などと言う例が、実はいくつもあるのです。その場合、2度目のチャンスはないのだそうです。
 自殺を罪としている宗教も、沢山あります。生まれてきた全ての人には、生きる権利があります。死ぬ権利、もあるのかもしれません。ただ、どのように死ぬか、は、そのまま、どのように生きるか、と言う事でもあります。ホスピスナースとして16年、“人は生きたように死ぬ”と言うのが、私が出会った人たちから学んだ事です。
 尊厳死と安楽死は違います。誰だって、最後まで尊厳を持って生きたい、と思っているはずです。その為に、Living Will(リビングウィル)やDPOA(Durable Power of Attorney:永続的委任状) などのAdvance directives(アドヴァンスディレクティブ)と言われる、自分が病気や怪我で判断能力を失った場合の治療方針(延命処置、蘇生処置などを含む)の事前指示を文書にしたものや、代理人を明記した証書を作っておく事が、とても大切なのです。
 何年か前に私の勤務するホスピスでは、ALSの患者さんの呼吸器をはずす、と言う大きな経験をしました。その女性は60代前半で、うちのホスピスケアを2年以上受けていました。呼吸器を着け、コンピューターでコミュニケーションをとり、殆どの身体機能はなくしていましたが、意識ははっきりしていました。彼女は、5年前に呼吸器を着けた際、“5年経ったら呼吸器ははずす”と決めており、その意思は5年後も変わらなかったのです。これは、彼女のゆるぎない意思であり、リビングウィルにも書いてありました。家族も彼女の意思を尊重し、心の準備をしてきていました。私たちはホスピスチームとして、病院の倫理委員会からも承認を取り、受け持ち医師、ホスピス専任医師、ホスピスナース、ソーシャルワーカー、チャプレンなどが関わりながら準備を進めました。そして、患者さんが選んだその日、家族とホスピスチームのメンバーが見守る中、適量の薬の投与によって呼吸困難やパニックを起こす事もなく、呼吸器をはずして6時間後に、彼女は眠るように安らかに亡くなりました。安楽死、ではなく、安楽な自然死、真の尊厳死でした。 
 自分はどう生きたいか?どう死にたいか?その事を頭の片隅において生きていたら、いざと言う時に、自分の芯がブレずにいられるのかもしれない。医師による自殺幇助で亡くなった人達の決断を、“勇気ある”と書く人も大勢いますが、自然の流れに逆らわず、最後までその命を全うする“勇気ある”人達が、世の中には沢山いるのだと言う事を、ホスピスナースとしては、声を大にして言いたいのです。
[2015/01/31 22:10] | ホスピスナース | トラックバック(0) | コメント(0)
タフクッキー
 それは金曜日の午後でした。オフの日に上司から電話が来ると言うのは、大抵良い知らせではありません。気が乗らないものの、やはり無視するわけにもいかず、電話を取ると、上司の方も“休みなのに悪いわね...”と断りながら、こう言いました。“明日、小児のケースが退院するんだけど、多分1日もたないだろうって言う事なの。つまり、最期を自宅で迎えさせたいって事なのね。で、明日の9時半に救急車が病院を出る予定だから、10時までにはノリスタウンの自宅に着くはず。小児病院のディクソン先生も一緒に行くし、小児ナースのキャロルとソーシャルワーカーのキンバリーも行くことになってて、どうしてもホスピスナースもいて欲しいのよ...”
 翌日の土曜日は娘の日本語補習校の日で、いつも9時くらいまでに行くのですが、運悪くその週は娘のクラスメイトのお母さんに頼まれて、駐車場の交通当番を交代してしまっていたので、9時半まで駐車場で交通整理をしなければならず、まあそれからすぐに行けば何とか10時に間に合うとしても、帰りが何時になるかがわからないし、もしもその子供がその日に亡くなりそうだとしたら、その時まで留まっている必要があるかもしれず、となると娘を迎えに行く時間が...。彼女の話を聞きながら、私の頭の中ではこれらの事がサーっと駆け巡っていました。しかし、とにかくどうにかするより仕方なく、とりあえず上司には、“わかった、何とか10時に行けるようにするから”と答え、今の時点でわかっている情報を、できるだけ詳しく教えて欲しいと頼みました。上司は、“ありがとう!助かるわー。情報は今コンピューターに入っている分が、今のところわかってる事だから。”と言い、電話を切りました。
 それから私は、近所に住む、やはり補習校に通っている友人に連絡し、娘を連れて帰ってきてもらえないかとお願いした所、快く引き受けてもらえ、段取りをつけてから、娘に説明しました。娘は、“えーなんで仕事なの?”と訝っていましたが、お友達と帰って来れるので、特に文句も言いませんでした。夫は、“小児のホスピスナースが君しかいないって事は、これからもこういう事態があるかもしれないって事だよね。ちょっと、それじゃ困るんじゃないか?”と懸念しており、私も同感でしたが、とりあえず今回は何とか都合がついたのだから、と、その懸念は横に置いておく事にしました。
 エリース(仮)は、生後4ヶ月の女の子で、16番染色体異常でした。満期で生まれたもの、とても小さく、ミルクを吸うことができないため、胃空腸チューブ(腹部から空腸まで入れたチューブにボタンと言われるコネクターをつけ、そこから経管栄養のチューブをつなげるもの)からお母さんの母乳を取り、呼吸も弱く、小児病院のNICUでは、ずっとCPAPと言う呼吸器を着けていました。それをはずして家に帰る、と言う事はすなわち、自発呼吸と酸素療法のみでいける所までいきましょう、と言う事なのでした。まだ20歳そこそこの若い両親は、このままNICUで機械に囲まれて一生を終わらせるよりも、たとえそれが時期を早めてしまうかもしれなくても、エリースを家につれて帰り、家族と一緒に暮らすことを選んだのです。
 土曜日の朝、補習校から大急ぎでノリスタウンの家に行くと、エリースはすでに到着しており、ディクソン医師、キャロルとキンバリー、そして別のホームケアから、一日16時間を、8時間ずつのシフトでエリースのケアをするナースが勢ぞろいしていました。その家はエリースの母親であるカレンの実家で、両親とカレン、カレンの3人の姉妹が住んでいました。カレンは4人姉妹の2番目で、お姉さんとカレンは大学生、妹たちは高校生と、小学2年生でした。カレンの両親はメキシコからの移民で、お母さんは殆ど英語を話しませんでした。エリースの父親のホゼは、ニュージャージーに住んでいましたが、職場がノリスタウンだったので、しばらくここに泊まる事にしていました。小さなエリースは鼻腔カニューレから酸素を吸入し、咽喉の付け根をひくひくと陥没させながら、一分間に80回もの呼吸をしていました。顔も体も全体的に灰色がかった色をしており、まるで、ゆらゆらと揺れる、今にも消えそうなロウソクの火を見ているようでした。カレンのお母さんはエリースを抱き、静かに涙を流していました。カレンの小さな妹は、どうしてこんなに沢山の人達が、エリースを見に来ているのか、そんな事には全く構わず、お母さんが抱っこする赤ちゃんのほっぺたを触ったり、自分の指を握らせたりしてはしゃいでいました。カレンとホゼは驚くほど落ち着いており、私達が、いつどんな時にホスピスに連絡するか、どの薬を使うか、そして、エリースが亡くなった時にどうするか、などを説明するのを、淡々と聞いていました。今思うと、あの時、私たち医療者が“死に行く赤ちゃん”を見ていたのに対し、彼女たちは、“一緒に生きてゆく娘”を見ていたのでしょう。DNRにもサインし、葬儀社も決め、覚悟はできていながらも、同時に、ここで自分たちが世話をしたほうが、きっと娘は幸せに生きられる、と確信していたのだと思います。
 一方、私とキャロルは、いつ呼ばれてもいいように携帯電話を離さず、夜勤のナースにも、もしエリースが亡くなったら私に電話をくれるように連絡しました。1週目は毎日訪問予定を入れ、特に最初の3日間は、私達の方が今日か、明日かとドキドキしていたと思います。ところが、そんな周りの不安を笑い飛ばすかのように、エリースはのど元をひくひくさせながら、あくる日も、あくる日も、呼吸をやめる事はなかったのです。
 一週間が過ぎ、二週間が過ぎ、相変わらず呼吸は速いものの、エリースは確実に家族の一員になっていました。私たちは、訪問回数を週三日にし、ホリデーシーズン中は週二日にしました。サンタクロースは、エリースの所にもちゃんとやって来て、一緒に写真も撮りました。昼寝をするサンタの大きなおなかの上で、トナカイの柄のセーターを着たエリースが、すやすや眠っていました。カレンとホゼは、天気のいい日にはエリースを連れて散歩をし、教会にも行きました。小さな歯が生え、指をしゃぶるようになりました。カレンの小さな妹は、雪だるまの家族の絵を描き、そこにはちゃんと、小さなエリースもいました。ホゼは、職場がニュージャージーに移ってしまいましたが、できるだけノリスタウンの家に来て、エリースの世話をしていました。カレンは、エリースの予防接種のことを気にかけ、小児科医に予約を入れました。子供にしか見えなかった二人は、いつの間にか、すっかり親の顔になっていました。
 エリースが家に戻ってからもうすぐ2ヶ月という頃、この季節には付き物の、ウイルス性の風邪が蔓延し、予防対策は万全にしたものの、やはりエリースも避ける事ができず、咳と鼻水が出るようになりました。熱が出始め、解熱剤とクーリングで何とか落ち着かせましたが、何日かすると、また上がり始めました。不思議な事に、呼吸は落ち着いていましたが、どうしても下がりきらない熱を不安に思い、カレンとホゼはエリースを小児病院のERに連れて行くことにしました。私は、ジャクソン医師に電話をし、状況を説明すると、“具合が悪くなっても、病院には連れて来ないつもりだと思ってたけど...”と困惑しながらも、“こちらで出来る事をするから”と了承しました。結局2つのウイルスに感染していたエリースは、三日ほどNICUにいましたが、両親の希望で自宅に帰ってきました。その日、キャロルと私が訪問した時、エリースは両親のベッドですやすや眠っていました。熱もなく、呼吸も落ち着いていました。ただ、オムツがいつもほど濡れていないという事でした。私は、水をさすようで気が引けたのですが、ホスピスナースとして、今言わなければならない事を、エリースを見つめて微笑むカレンとホゼに言いました。
 「エリースは、今まで信じられないくらいがんばったけど、多分今回みたいな事が何度も起こるはず。それは、彼女の状態ではどうしても避けようのないことで、その度にERに連れて行くか、それともここで、薬を使って症状を緩和するか、よく考えて欲しいの。そして、いずれ抗生物質も効かなくなる時が来る。それを忘れないでいて欲しいの。」
 カレンとホゼは、黙って頷きました。そして翌朝、私は、夜勤のナースがカレンの電話を受け、“エリースのお腹が張っていて、とても苦しそうだし、熱も上がってきた”との訴えに“小児病院のERに連れて行ったほうがいい”と指示した、と言う記録を読んだのです。私は、“やっぱり...”という気持ちと、“どうして...”と唇をかみたくなる気持ちで、カレンにメールをしました。『エリースはどう?』暫くすると、カレンから返信が来ました。『今、NICUにいる。あんまり良くない。CPAPを着けた。』『わかった...エリースと、あなた達のために、祈っているから。』『どうもありがとう。みんなが祈ってくれてる。それが救い。』
 その日の夕方、ディクソン医師から電話があり、エリースが家に帰ることはないだろうという事、NICUでは、症状の緩和のみを行っている、個室に移し、家族もみんな来ている、という事を知らせてくれました。ディクソン医師は彼女自身も二人の子供の母親であり、こんな報告をするのは辛そうでした。本来ならば、こういう状況を避けるためにホスピスケアを選んだはずなのに、と思うと、自分の力の至らなさがもどかしく、でも、結局は両親の決断なのだから、と言い聞かせながら、ディクソン医師にお礼を言いました。彼女は、“また連絡するから。”といって、電話を切りました。そして翌朝4時、家族みんなに囲まれて、エリースは安らかに、その短い一生を終えたのです。
 エリースのお葬式には、キャロル、そして、ディクソン医師も来ていました。エリースの小さな小さなお棺には、彼女のピンクの毛布がかけてあり、かわいらしいお花とぬいぐるみで飾られていました。カレンとホゼが、笑顔で迎えてくれました。二つのテレビスクリーンには、エリースの写真やビデオが流れていました。その画面を見ながら、私はとなりのキャロルに言いました。「不思議だね、こんな小さな人間が、こんなに短い間に、これだけ人の心にインパクトを残すなんて。」キャロルは頷くと言いました。「本当ね。私はきっと、一生エリースのことを忘れないと思うわ。」
 家族や友人のメッセージを、始終落ち着いて聞いていたカレンとホゼは、一番最後に挨拶をしました。そして、エリースがくれた、自宅での奇跡のような2ヶ月間を語ると、カレンは絶句し、ホゼがその肩を抱いて、涙を拭きながら締めくくりました。「エリースは、本当にタフクッキー(硬いクッキー:不屈の人)でした。そして、彼女のおかげで、僕達も強くなれたんです。」
 たった4Kgにも満たないタフクッキー。エリースが見せてくれた生命力は、周りの全ての人に驚きと感動を与えました。カレンとホゼの人生は、まだ始まったばかり。二人がこれからどんな道を行くのかはわかりませんが、天使になったエリースが見守っているはずで、だからきっと、あの二人は大丈夫だと思うのです。
[2015/01/24 15:07] | 忘れられない人々 | トラックバック(0) | コメント(2)
リサイクル
 これだけは誰にも負けない自信がある、と言うものを持っている人は、どれ位いるものなのでしょうか。まあ、子供を産んだことのある女性なら、“あの痛みに耐えた根性だけは誰にも負けない”と、密かに思っているかも知れませんが。私は、“誰にも負けない”とは言い切れないのですが、かなりの確率で上位に入るだろう、と言うものが一つあります。それは、髪の毛の多さです。そんなものは全く自慢にはならないのですが、“多い、硬い、くせっ毛”と言う、美容師さん泣かせの悪髪度(と言う言葉があるのかは知りませんが)では、今まで出会った人の中では、おそらくナンバーワンでしょう。昔から、美容室に行くと必ず、“これは、乾かすのが大変でしょう”“平安時代だったら、すごい美人ですね”或いは、“うっわー!”などのコメントを聞かされ、そのせいか、いつしか美容室嫌いになり、長く伸ばした髪を結ぶようになったのです。それでも、背中に垂らした三つ編みは、しめ縄のようで、大人になってから初めて出雲大社に行った時は、なぜか親しみを感じたものでした。
 そういう訳で、アメリカに来てからは、ますます美容室とは疎遠になり、自分で毛先をチョコチョコと切るだけで、シャンプー代はかかるものの、カット代はゼロと言う、悪髪は悪髪でも、お金のかからない悪髪に落ち着いていました。一度だけ、試しに行ってみた美容室では、“私の35年の美容師歴で、こんなに多い髪の毛を見たのは、初めてだわ”と言われ、乾かさなくてもいい、と言ったにもかかわらず、美容師さんの意地なのかプライドなのか、ギューギューと頭を引っ張られながら乾かされ、挙句に二倍の料金を取られてからは、“もう、二度とアメリカの美容室には行くものか”と固く決意したのです。ですから、「Locks of Love」と言う団体があることを知った時は、“これよ!”と、思わず声を上げてしまったほどでした。
 この「Locks of Love」という非営利団体は、様々な医学的理由で、長期的に頭髪を失い、かつ経済的事情を持っている、アメリカとカナダの21歳以下の子供達に、世界中から寄付された髪の毛で作った上質のカツラを提供しています。そして、「Locks of Love」 に登録している美容室の中には、寄付する人のカット代を割り引いてくれるところもあり、しかも切った髪を郵送してくれるのです。その頃はまだ、インターネットも普及しておらず、自分のパソコンも持っていなかったので、電話帳を見ながら、片っ端から近所の美容室に電話をかけ、Locks of Love に登録している所を探しました。これが意外と少なく、やっと見つけたのが、車で30分近くかかる所でした。髪の毛を寄付する条件として、最低25cmが必要なのですが、その時はもう、腰の辺りまでありましたから、50cmほどの束が4つ(普通は1つか2つだそうです)もできたのです。私の髪を切ってくれた美容師さんは、何度も“本当にいいの?”と尋ねてから、“私のほうがドキドキしちゃうわ”と言って、4つに束ねた髪を、ざくりざくりと切っていきました。いともあっけなく自分の体から離れた髪の毛の束を見て、私は初めて、自分の髪の毛を愛しいと思いました。持ち主に嫌われ、美容師に嫌われ、ろくでもない事ばかり言われ続けたこの髪が、初めて何かの役に立てるわけで、そう思うとなんだか感慨無量になったのです。
 それ以来、大体2-3年のインターバルで、髪の毛を寄付してきました。特に妊娠中はホルモンのせいか、髪の毛がよく伸び、産後の授乳期で髪が抜け始める頃に切る、と言うサイクルがちょうどよかったのです。(当然、そういう時期が過ぎると、髪の毛の伸びもスローダウンしましたが。)どういうわけか、その度に切ってもらう店は変わりましたが、2度目、3度目、そして4度目にもなると、美容師さんに、“えらいわねえ...”と感心されるようになりました。自分としては、全く元手をかけていないのに、“寄付”と言うのも変なのですが、言ってみれば、究極のリサイクルであり、ほんの小さな事ですが、それで、見知らぬ誰かに笑顔をあげられるのだと思うと、昔ほど自分の髪の毛が恨めしくはなくなったのです。
 数年前に乳癌になり、治療を受けながら仕事を続けている元上司が、一時期カツラを着けていました。彼女は、“値段は高いけど、やっぱり人の髪の毛で作ったカツラの方が、自然な感じで、ずっといいわ。”と言っていました。私は、“そうか、そういうものなんだ...”と思いながら、改めて、この永遠に続く「一人リサイクル活動」を続けようと、心に誓ったのです。
[2015/01/16 22:45] | つぶやき | トラックバック(0) | コメント(3)
ビスコッティ (4)
 その後も安定した日が続き、カリーナさんは、やはりソファーで一日の殆どを過ごしてはいましたが、時々ヴァーリさんと一緒に料理をするなどして、周りのみんなを驚かせていました。ただ、胆管チューブが漏れ始め、私はその木曜日にIRに電話をしました。カリーナさんは意識もしっかりしており、本人もチューブの交換を希望していました。カリーナさんをよく知っているIRのナースは、“S先生は来週の火曜日までいませんけど、ほかの先生でいいなら明日できますよ”と言い、カリーナさんとご主人は少し躊躇しましたが、結局翌日に予約を入れることにしました。ところが、月曜日に訪問すると、ご主人が開口一番、“金曜日にチューブを入れ替えたんだけど、どういうわけか、いつも貼っている固定用のテープをつけてくれなかったんだよ。しかも、入れ替えたその日から漏れてて、その事は言ったんだけど、様子を見ろって言われてさ、土曜日は大丈夫だったんだけど、夕べからまた漏れ始めたんだよ”と、不安を隠しきれないように訴えてきました。確かに、挿入部を覆っているガーゼは漏れた胆汁ですっかり濡れていましたが、ドレナージバッグ(流れ出た液をためておく袋)にもきちんと溜まっていました。チューブは二針の糸で固定され、ズレてはいませんでしたが、私は念のために、固定用の特別なテープでチューブをしっかりととめました。そして、再びIRに電話をし、いつものナースに状況を説明すると、“もう一日様子を見て、漏れ続けるようだったら明日朝一番に電話して。明日ならS先生もいるから”と言われたのです。私は、カリーナさんとご主人に、その事を伝え、とりあえず皮膚が荒れないようガーゼをこまめに取り替えるように指導しました。そして、「明日の朝電話しますから、もしまだ漏れるようだったら、念のため、夜中過ぎから痛み止めの薬以外は、何も飲んだり食べたりしないでください。そうすれば、明日の午前中にIRでチェックしてもらえますから。」と言い、なんとなくいやな気持ちで、サヴァティーナ家を後にしました。翌朝一番にご主人の携帯に電話をすると、やはりチューブは漏れており、夜中に一度換えたガーゼがもうぐっしょりだ、という事でした。私はIRに電話すると、昨日のナースに“わかりました。今日の午前中にS先生で予約を入れます。ご主人にはこちらから電話して時間を言いますから”と言われ、すぐにご主人に電話でその旨を伝えました。ご主人はホッとした様子で、“よかった。じゃあ、それまで何も飲んだり食べたりしなければいいんだね”と言い、電話を切りました。私もとりあえず一安心し、翌日の水曜日にカリーナさんの訪問をずらしました。ところが、その午後、チームミーティングのためにオフィスに行くと、上司に“明日新しい小児のケースをオープンするから、スケジュールがちょっと変わるわよ”と言われ、カリーナさんは別のナースが訪問することになりました。私はカリーナさんを訪問する予定の同僚に一連の状況を説明し、フォローを頼みました。そして、スケジュールの都合で、結局その週はそれ以降、私がカリーナさんを訪問することはなかったのです。
 日曜日の晩、私は週末の報告をチェックしながら、カリーナさんの記録を何度も読み返しました。何度読んでも私が理解できたのは、こう言う事でした。“IRの医師に何も出来ることがないと言われ、夫は大変憤慨している。チューブは漏れたり漏れなかったりだが、患者の状態は急激に悪化している。”
 月曜日の朝、カリーナさんはいつものソファーに横になり、口と眼を半開きにしたまま、浅い呼吸をしていました。黄疸が出て、枝のようだった両脚が浮腫んでいました。ご主人とヴァーリさん、お義姉さんが、沈痛な顔で私を待っていました。私が、“一体IRで何があったんですか?”と訊くと、ご主人はゆっくりと話し始めました。「あの朝、あんたと話した後、いくら待ってもIRから電話はなかったんだ。カリーナはおなかが空いたので、Nobukoに電話してどうなっているのか訊いてくれって言ったんだけど、それより直接IRに訊いた方が早いと思って、10時過ぎになってIRに電話したんだ。そしたらさ、“ああ、サヴァティーナさん、S先生に話したんですけど、先生は 、我々に出来ることは何もないから、あとはガーゼを換えて、かぶれない様にして、もし熱が出たら受け持ちの医師に連絡するように、ということなんです。”なんて言うんだよ。信じられるかい?それでも、次の日別のナースが来た時はあんまり漏れていなかったからよかったものの、その後また漏れ出してさ、金曜日にナースが来た時には妻はもう起きなかったよ。オレはさ、ただの庭師だし、英語も下手だけどよ、何かがおかしいって事くらいはわかるよ。出来ることはないって、どういう意味なんだよ?あの時はまだ、妻は歩いてたんだよ!」
 怒りと悲しみと医療者に対する不信感でいっぱいの家族を前にし、私は言葉を選びながら、自分自身の怒りを抑えるように、こう言いました。「まず、IRが電話をしてこなかったのは、完全に怠慢です。そして、何も出来る事がない、と言うのがどう意味なのか、例えば、前回の交換の時に何かわかっていたのなら、その説明をするべきでした。もしかしたら、病気の進行が漏れの原因であり、だからできる事がないのかもしれない。交換する事によるメリットがなかったのかもしれない。どちらにしても、少なくとも診察はするべきだったと思います。そうすれば、サヴァティーナさんだって納得できたでしょうから。」それから、「今からIRに電話して、どういうことなのか訊きましょう、」と言い、馴染みの番号を押しました。いつものナースが出ると、私は、単刀直入に本題に入りました。なぜ電話をしなかったのか、なぜ“何も出来ることはない”説明をしなかったのか、そして、今のカリーナさんの状態と、家族が受けている精神的苦痛を説明しました。彼女は、“あの日はご主人が電話をしてきたので、S先生の言った事を伝えたまでです。漏れているのは固定のせいじゃないし、患者さんの容態が変わったのなら、ER(救急)に行って下さい。”と言い、終わらせようとしましたが、私は“あなたを責めるつもりはないけど、それでは答えになっていません”と食い下がりました。すると、“でも、水曜日にホスピスのナースが電話してきた時は、漏れていないと言っていたし、ご主人だって何も言っていませんでしたよ。でも、どうしても家族が納得しないと言うなら、うちのナースプラクティショナー(NP)と話しますか?”と言い、ぜひそうしたい、と言うとさっさと電話を切り替えてしまいました。そして、電話を替わったNPに改めて状況を説明すると、“こちらからすると言った連絡をしなかった不手際は、上司に報告し、今後そのような事がないよう善処します。チューブの交換をしなかったのは、状況的にその必要性と患者さんが受ける恩恵と負担を考慮した結果であり、放棄したわけではありません。患者さんはホスピスケアを受けているそうですが、それでもご家族が希望するのなら、ERに行くしかないですね。”と言われ、私が“今私に言った事を、患者さんのご主人に説明してください。このままじゃ、どうしても納得されないと思うんです。”と頼むと、“いいですよ、それで少しでも助けになるのでしたら。”と言い、ご主人と話しをしてくれました。NPと話し終えたご主人は、それでもまだ納得できない、と言う表情で、こう言いました。「妻の病気が良くならないのはわかっていたし、この間の事で、覚悟はできてたよ。でも、これじゃあやっぱりすっきりしないんだ。もしもチューブがちゃんとして、それでもこうなったのなら、仕方ないよ。癌がそうしたんだ。せめてドクターが診てから、交換できないって言うなら仕方ないよ。そしたら、オレだって納得するよ。諦めるよ。受け入れるよ。でも、こんな状態の妻を今からERに連れて行って、どうなるって言うんだ!」すると、横でずっと黙っていたヴァーリさんが、堰を切ったように、殆ど叫ぶように訴え始めました。「こんな無責任な事ってある?!あの人達にとって私の母は人でもなんでもない、ただの数に過ぎないのよ。あの日、母はまだ歩いてたわ。でも、あの人たちの怠慢のせいでチューブが漏れ、そのせいで黄疸も出て、状態が悪化したのよ!そしてそれを病気のせいにして、何もできないなんて言うのよ。どうしてだかわかる?母がホスピスの患者だからよ!どうせもうすぐ死ぬんだから、そんなの無駄だって思ってるのよ!もしかしたら、保険がおりないのかもしれないわ。だって、交換してすぐもれたって事は、あっちのミスかもしれないじゃない。どっちにしたって、あなたの病院の落ち度だわ!母がどうなろうとあの人達には関係ない。母が死んだって、あの人達は家族と一緒に、笑ってサンクスギビングのご馳走を食べるのよ!だから平気であんな事が言えるのよ!!」
 私には、返す言葉がありませんでした。恐らく、IRの判断は正しかったでしょう。しかし、一旦奇跡のかけらを見てしまった彼女にとって、魔法がとけてかぼちゃに戻ってしまった馬車を受け入れるのは、至難の業でした。翌々日、“母は嫌いだったから”と言って反対していたヴァーリさんを説得し、私はエイドさんと一緒に、カリーナさんをソファーから電動ベッドに移しました。エイドさんがカリーナさんの体をきれいにし、ベッドを整えると、彼女はずっと快適そうでした。ご主人とヴァーリさん、お義姉さんに体の向きの変え方や、床ずれができないようにする枕の使い方などを指導し、今一度、緊急時の薬の使い方、そして、亡くなった時の手順を説明しました。その後ご主人は、静かに眠っているカリーナさんの手を取り、私に向かってこう言いました。「実はさ、こうなる前に、妻はオレに言ったんだよ。“もう、うちに帰る”って。“あなたや子供たちの事、ずっと想ってる”って。彼女はわかってたんだよ。もう、時間だって。」
 帰り際、私はご主人とヴァーリさんに最後の挨拶をしました。私は、ご主人に、「去年、カリーナさんが、私のレシピのビスコッティを焼いてくれたのが、ついこの間みたいです。きっと、一生忘れません。」と言うと、彼は涙を流しながら、「あんたは出来る事全てをしてくれたよ。妻だって、きっと感謝してるよ。」と言い、ハグしてくれました。そして、ヴァーリさんに、「お母さんはいつもあなたの傍で、見守ってくれると思う。辛いけど、心配しないでって、大丈夫って、言ってあげて。」と言うと、彼女は大きな瞳を濡らしながら頷き、「長い間、どうもありがとう。」と言い、そっとハグしてくれたのです。
 カリーナさんは、翌日のサンクスギビングに亡くなりました。ご主人と、3人の子供たち、かわいい孫、そして大勢の義兄弟姉妹に囲まれ、眠ったまま、静かに逝ってしまいました。
 カリーナさんのお葬式で手渡されたメモリアルカード(故人の名前、生年月日と没年月日などを書いた小さなカード)には、ヴァーリさんの結婚式の時の、紫のドレスを着て微笑んでいるカリーナさんの写真と、こんな詩が印刷されていました。

 あなたの心を痛みと悲しみでいっぱいにしないで。そのかわり、明日はいつも私を思い出して。
 喜び、笑い、そして笑顔を忘れないで、私はちょっと休んでいるだけ。
 私の離別は痛みと悲嘆を与えるかもしれないけど、私の旅立ちは私の苦痛を軽くし、安らかにしてくれる。
 だから涙をふいて、私をおぼえていて、今の私ではなく、今までの私を。
 だって、私はあなたたちみんなをおぼえているし、笑顔で見ているから。
 わかって、あなたの心の中で、私はほんの少し休みに行っているだけ。
 私があなたたち一人一人の愛を持っている限り、私はあなたたちみんなの心の中で生き続けることができるから。

  Fill not your heart with pain and sorrow, but remember me in every tomorrow.
 Remember the joy, the laughter, the smiles, I've only gone to rest a little while.
 Although my leaving causes pain and grief, my going has eased my hurt and given me relief.
 So dry your eyes and remember me, not as I am now, but as I used to be.
 Because, I will remember you all and look on with a smile.
 Understand, in your heart, I've only gone to rest a little while.
 As long as I have the love of each of you, I can live my life in the hearts of all of you.


まるで、カリーナさんの声が聞こえてくるような詩でした。家族を愛し、家族に愛され、その想いだけで肉体の限界を超え、奇跡を垣間見せてくれた彼女の、優しさに満ち溢れた詩でした。私は涙を拭き、カリーナさんに言いました。“あなたのことは忘れません。毎年ビスコッティを焼くたびに、私は、あなたの事を想うでしょうから”と。
[2015/01/09 09:35] | 忘れられない人々 | トラックバック(0) | コメント(2)
ビスコッティ (3)
 カリーナさんが退院し、ケアを再開すると言う連絡が来た時、コンピューターのチャートを見た私は、これは間違いでは、と思いました。カリーナさんはホスピスではなく、今まで通り、パリアティヴケアでのケース再開になっていたのです。上司に電話をして確認すると、間違いではないと言われ、私は混乱しました。が、とりあえず訪問し、そこでどういう経緯があったのか確認する事にしました。 
 カリーナさんはいつものようにソファに横になり、眠っていました。その横で、ご主人と長女のヴァーリさんが、いつもより深刻な顔をして座っていました。カリーナさんを起こす前に、ご主人に、「ドクターウェンツと話をしたんですが...」と切り出すと、ご主人は「わかってるわかってる。ドクターウェンツからホスピスの話は聞いたよ。でもやっぱり、彼女はまだ決心がつかないんだよ。」と言い、「もう化学療法はしないけど、サプリメントは続けるし、徹底的に体の毒を出したら、自然の力で治癒できるかもしれない。彼女が重症だってわかっているけど、それでもまだ、諦めたくないんだよ。奇跡を信じたいんだよ。」と、まるで訴えるように言うのでした。私は、「わかりました。ただ、ホスピスケアを受けたって彼女の栄養士さんには会えるし、サプリメントも続けられます。もしもその栄養士さんの様に、癌を克服する事ができたら、ホスピスケアは必要なくなるだけで、それは誰にもわかりません。私が一番心配なのは、カリーナさんの保険が私達の訪問を制限してしまい、何かあったら結局病院に行かなければならない事なんです。そして、病院でできることも、もう限られているんです。」と話し、その日はそれ以上ホスピスについては触れませんでした。その代わり、保険会社に電話をし、何とか訪問日数を増やす事はできないか、何か手立てはないか尋ねました。何人もの“担当の者”にたらい回しにされ、結局20分以上待った挙句、返ってきた答えは、“担当の医師が必要な情報と一緒に申請すればよい”でした。しかし、それは結局“訪問はしても構わないけど、61回目からは費用は全て自己負担ですよ”という意味で、そうなると一回の訪問につき100ドル以上を払わなければならないのです。サヴァティーナ家は造園業で成功し、大きな家を持ち、経済的に余裕がないようには見えませんでしたが、実情はわからないし、多額の保険料を月々支払っている上、カリーナさんの介護のために、ご主人はかなりの仕事をキャンセルしていたので、やはり総額自己負担というのは、厳しいに違いありませんでした。その日の帰り際、ご主人はドアの外まで私と一緒に出て来て、こう言いました。「妻がホスピスにサインしないのは、もう一つ理由があるんだよ。実は、長女は、最初の夫を亡くしているんだ。結婚してまだ間もない頃、彼は、フィラデルフィアのシティマラソンに出てね、ゴールした直後に倒れてさ、そのまま帰らなかったんだよ。だから、妻はヴァーリの為にも死ねないんだ。」
 しかし次の訪問日、保険でカバーされる最後の日に、私はヴァーリさんの事が気になりましたが、意を決してカリーナさんに言いました。「カリーナさんがホスピスケアを受けるのを躊躇している気持ちは、よくわかります。でも、何度も言っているように、ホスピスケアに切り替えることが、あなたの寿命を決めるわけじゃないんです。ただ、あなたはもう病院に戻りたくないと言っていましたよね。ホスピスケアはその希望をかなえる事ができるんです。そして、もしあなたの気が変わって、やはり病院で治療を受けたいと思ったら、その時点でホスピスケアを中止すればいいだけのことなんです。ホスピスに切り替えれば、私も必要なだけ訪問できるし、緊急時のための薬も常備できるし、何かあったらいつでもホットラインに電話すればいいんです。胆管のチューブの交換は今まで通りIRでできるし、心配する事は何もないんです。」カリーナさんは、ご主人を見、ヴァーリさんを見、それから私を見て言いました。「わかったわ。そうしましょう。」
 ホスピスに切り替えてから、カリーナさんは以前にもましてきっちりとサプリメントを飲むようになりました。栄養士さんが調合した何種類かの液体で、主に体に溜まった薬や癌による毒を排出させると言うものでした。穏やかな日が何日か続いた後、ある早朝に、ご主人がおろおろしながらホットラインに電話をかけてきました。カリーナさんがトイレに行くと言って起きた後、家の周りを歩くんだと言ってきかず、訳のわからない事を口走りながら行ったり来たりしているというのです。夜勤のナースは、緊急時の薬のセットの中の薬の一つを飲ませるように指示しましたが、30分後に、“まだ落ち着かない”と電話がありました。夜勤のナースは、別の薬を与えるように指示し、受け持ちナースがその日に訪問すると伝えました。ご主人は、夜勤のナースがすぐに来てくれるものかと思っていたらしく、少し不安そうでしたが、その日に私が訪問すると聞いて、納得したそうです。そして、私が到着した時には、カリーナさんはいつもとは違う部屋のソファーで横になり、ご主人と息子さん、ヴァーリさん、イタリアから来ていたカリーナさんの弟さんが、彼女を囲んで眼を真っ赤にしていました。カリーナさんは、やっと薬が効き、口を半開きにしたまま、眠っていました。アセスメントの後、私は“terminal agitation(ターミナルアジテーション:終末期せん妄)”と言われる症状について説明し、それが意味するところ、つまり、かなり死が近づいている事を話しました。ご主人は、「今朝、初めて現実が見えたよ。彼女は助からない。もう、楽にしてやらなきゃいけないんだ。」と言い、ヴァーリさんに向かって、「もうお母さんを逝かせてあげよう。もう十分だよ。お前が辛いのはわかるけど、お母さんとお父さんの為に、耐えてくれないか。これ以上お母さんをがんばらせるのは、かわいそうだ。」と言うと、泣き崩れるヴァーリさんを抱きしめ、彼もまた嗚咽したのです。
 翌日、家中が親戚で溢れかえる中、カリーナさんはいつものソファーでうとうとしていましたが、私が声をかけると目を覚まし、昨日のことがまるで嘘のように、しっかりとした口調で“沢山人がいて申し訳ないわねえ”と言ったのです。私はちょっと驚いてご主人を見ると、彼はやはり、解せない、と言う顔で、「昨日はあれからずっと眠ってたんだけど、今朝眼を覚ましたら“お腹が空いた”って言うんだ。そして、ベーグルを半分と卵を少し食べたんだよ。」と言いました。そして、「昨日来た電動ベッドよりも、やっぱりこのソファーのほうがいいって言うんだ。」と言うと、肩をすくめて見せました。私は、予想外の展開に、喜びながらも戸惑うご主人とヴァーリさん、大学から急遽戻ってきた次女のエラさんに、「カリーナさんは意志の強い人ですから、もしかしたら、もう一踏ん張りするのかも知れません。でも、だからと言って、病気が良くなっているわけではありません。その事を心に留めて、でも、調子が良いのは、神様からの贈り物ですから、その時その時を楽しんでください。」と言いました。しかし、そう言いながらも、内心“このまま本当に奇跡が起こるのかもしれない”と、ホスピスナースらしからぬことを考えていたのです。ビスコッティ(4)に続く。

 
[2015/01/02 10:25] | 忘れられない人々 | トラックバック(0) | コメント(0)
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ラプレツィオーサ伸子

Author:ラプレツィオーサ伸子
アメリカ東海岸で在宅ホスピスナースをしています。アメリカ人の夫、子供3人、犬一匹と日々奮闘中。

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2冊目の本がGakkenから出版されました。 「それでも私が、ホスピスナースを続ける理由」https://gakken-mall.jp/ec/plus/pro/disp/1/1020594700 「ホスピスナースが胸を熱くした いのちの物語」と言うタイトルで青春出版社から発売されました。 http://www.seishun.co.jp/book/20814/

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