ホスピスナースは今日も行く 2014年09月
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ホスピスナースは今日も行く
アメリカ在住日本人ナースが、ホスピスで出会った普通の人々の素敵な人生をおすそわけします。
CHPN
 今日、フィラデルフィアの中心街に行って、4年ぶりにテストを受けてきました。最近は日本でも増えてきましたが、アメリカには、さまざまな分野の専門看護の認定資格があり、ホスピスとパリアティヴ(緩和)看護もその一つです。こうした認定資格は任意で受けるもので、持っていないからと言って困るものではありません。受験料も安くはないので、そんな肩書きいらないわ、という人も大勢います。と言うのは、こちらの看護師はネームバッジや、名刺、研究発表などの名前の後ろにタイトルを書くのが通例で、RN(正看護師)やBSN(看護学士)、MSN(看護修士)あるいはPh.D(博士)等免許資格や学位の他、ずらずらと認定資格が連なる人もいるのです。うちのネームバッジは、RNやLPN(準看護師)以外は書いておらず、認定看護師であろうがなかろうが、誰にもわかりません。それでも、うちのホスピスチームのナース達のおそらく7割は、ホスピスとパリアティヴ看護の認定資格を持っています。
 以前は認定資格を持っていると、年末にボーナスが(ちょっとだけ)出たし、受験料も(合格した場合のみ)病院が払い戻してくれたのですが、今となっては夢のような話で、当然お給料に色がつく事もありません。しかも、この認定資格は4年間のみ有効で、4年毎に試験を受け、パスしなければ当然“認定看護師”とは名乗れなくなります。もちろん、いったん名乗ってしまったタイトルを、途中から修正液で消すわけにもいかないわけで、そうなるともう、4年毎にお金を払って受験し、何とかパスするしかないのです。
 社会人になってしまうと、試験と言うものから縁遠くなります。私の夫は大学を卒業してもう何十年と経つのに、未だにテストの夢(全く勉強していないのにいきなり試験会場にいる、と言うよくあるパターン)を見るそうですが、私は、楽天的というか、図太いと言うか、夢に見るほど緊張した事はありません。でも、やっぱり落ちたら恥ずかしいので、テストはこっそり受けて、受かったら報告する事にしています。今回で4度目になりましたが、初めて受けた時は、まだマークシート式で、ペンシルベニア大学の法学部の階段教室が受験会場でした。ほかの受験者のカリカリと言う鉛筆の音が、やけに響いていたのを覚えています。その日はちょうど、聖パトリックデーと言うアイルランドの祝日で、アイリッシュもそうじゃない人も緑色の物を身につけ、朝からお酒を飲んだくれても許される日で、試験会場のすぐ近くのアイリッシュバーでも、緑の服を着て、緑の帽子をかぶった人たちが大騒ぎしていました。その時は、同期のナース二人と一緒に受けたのですが、試験後、出来はともかく、とりあえず終わったと言う事で、真昼間でしたが、3人でギネスで乾杯しました。その二人も、何年も前に一人はミシガンに引っ越し、一人は定年退職してしまいました。時は流れ、3度目の時からは、納税申告事務所の奥の小さな部屋のコンピューターで受けるようになり、結果もその場でわかってしまうようになりました。
 認定看護師の資格を持つと言うのは、実質的な恩恵があるわけではありませんが、自分が好きで、情熱を持って仕事をしている分野の専門家であると、胸を張って言える為の裏付けと言うか、証のような、自信の支えのようなものなのだと思います。そんな物がなくても、自信を持って仕事をしている人はたくさんいますが、私のような怠け者の楽天家には、4年に一度、慣れてしまった脳みそに刺激を与える丁度いい機会なのかもしれません。
 ちなみに、タイトルのCHPNですが、Certified Hospice and Palliative Nurse(ホスピス及びパリアティヴ認定看護師)と言う意味です。で、結果は?お蔭様で、お金をどぶに捨てずにすみました。次回のテストを受ける時は、長男が20歳になるかと思うと、なんともはや、自分の脳年齢がどうなっているか、ちょっと怖いです。
 
[2014/09/26 15:09] | ホスピスナース | トラックバック(0) | コメント(0)
殻いっぱいの...
 以前は4人いた小児ホスピスのメンバーが、いろいろあって、現在は二人になってしまいました。そして、今、うちのホスピスにいる小児ケースは、4名。全員在宅です。そのうち三人は私の受け持ちで、一人は小児ナースのキャロルが受け持ち、私がサブになっています。小児のケースの場合、担当地域を選べないので、一人は自宅から東へ50Km(ニュージャージー州との州境)、もう一人は北へ30km、幸いもう一人は8kmくらいですが、昨日はこの3人をみな訪問し、加えて成人の予定訪問と、緊急の死亡時訪問もあったので、なんと、一日で160km以上運転しました。(普段は、大体50-70kmくらいです。)もちろん高速道路も使いますし、また、一般道でもできるだけ田舎道を使うので、町と町の間は殆ど信号なし、という、のどかなドライブですが。
 成人のケースの場合は、担当地域を決め、できるだけ異動に時間を費やさなくてすむようにしています。その分、訪問そのものに時間を使う事ができるからです。ですから、小児のケースのように、あちこちに点在していると、一日の仕事の効率はよくありません。でも、実は、この移動時間が、特に小児の場合、私にとって非常に大切な時間なのです。
 小児のケースの場合、子供の年齢や疾患にもよりますが、たいてい親、特に主な介護者である母親に対するサポートが、ホスピスナースの大きな役割になります。初めての子供が先天性の疾患で、出生後、退院時から即ホスピス、と言うお母さんもいれば、2番目あるいは3番目の子供で、生まれたときは健康だったのに、ある年齢で発症、発症してから1年以上闘病し、子供の状態やケアについては誰よりもよくわかっている、というお母さんもいます。そして、それぞれ状況は違っていても、どのお母さんにも共通したオーラのようなものがあり、それは、はるか昔、私が看護学生だった頃、小児科実習で出会ったお母さん達に感じたものと似ていました。しかし、あの頃は自分自身がまだ、半分子供のようなものであり、明るく元気で、絶対に希望を捨てない強さを持ったお母さん達に、ひたすら圧倒され、感嘆するばかりでした。そして、そのずっと奥にある深い悲しみには、自分の持つ想像力の限りを尽くしても、近づく事さえできていなかったのです。ただ、いくら未熟な私でも、彼女達の痛みは、自分にはわからないのだ、と言う事はわかっていました。
 私が看護師として病院に勤務していた時、黒枠の葉書きを受け取った事がありました。それは、学生の時の小児科実習で受け持った、当時9歳だった美和子ちゃん(仮)という子のご両親からでした。美和子ちゃんは、急性骨髄性白血病で、寛解(症状がなく安定した状態)と再発を何年も繰り返していました。私が実習で会った時も、何度目かの再発で、化学療法を受けていたのです。わずか2週間の実習でしたが、その間に私と美和子ちゃんはとても仲良くなりました。一緒に絵を描いたり、折り紙を折ったり、好きな歌手の話をしたりしました。そして、実習が終わったあとも、しばらく文通していたのです。しかし、その年は、美和子ちゃんからの年賀状が届かず、どうしたのかな、と思ってはいましたが、その春は、神経内科に移動があり、気持ちに余裕がないまま、慌しい日々を送っていました。ですから、初夏に届いた美和子ちゃんのお母さんからの葉書きを見て、愕然としたのです。翌日、腫れた目をして出勤した私は、ありがたい事に集中ケアを行う病室の担当になりました。その日は一日中、その病室に詰め、気管切開をして呼吸器を着けたばかりの、ALSの患者さんのケアに集中する事で、美和子ちゃんのことを思い出さずにいられると思ったのです。私は滅多に泣かない方で、特に人前で泣く事はまずなかったのですが、その日の涙腺は、まさに緩んだ蛇口のようで、勤務交代時には、申し送りをした準夜勤のナースに心配されるほど酷い顔になっていました。しかし、本当は、私の事を、“お姉さん”と呼んで慕ってくれた女の子が、たった12歳で亡くなった事が自分に与えたショックの大きさに、私自身が驚いていたのです。
 事故であれ、病気であれ、戦争であれ、“子供が死ぬ”というのは、親にとって一体どれほどの苦しみなのか。小児ホスピスの子供達のお母さん、お父さん達は、刻一刻と近づいてくる“その時”が、いつか現実となるのを知りながら、日々の生活を営んでいかなければなりません。ですから、その貴重な一瞬一瞬を無駄にするわけにはいかないのです。
 小児のケースの訪問を終えると、いつも心に浮かぶのは、新美南吉の「でんでんむしの悲しみ」という話のカタツムリたちです。主人公のカタツムリは、ある時、自分の背中の殻の中が、悲しみでいっぱいである事に気づき、これではもう生きて行けない、と思います。ところが、友達のカタツムリたちにその話をすると、皆の殻の中も、悲しみでいっぱいである事を知り、自分もこの悲しみを背負って生きていくしかないのだ、と悟るのです。
 人それぞれ、背負っている殻の大きさや重さは違います。明るく元気な、ホスピスの子供たちのお母さんは、殻から溢れてしまいそうな悲しみを背負いながら、それを嘆き悲しむのではなく、一緒に生きて行くしかないのだという事を、痛いほど知っているのです。そして、私たちには、その悲しみを減らす事もできないし、代わりに背負ってあげることもできません。ただ、一緒に歩く事はできます。その道は、長かったり短かったり、スムーズだったりデコボコだったり、いろいろですが、せめて一緒に歩いている間は、殻が重くて倒れそうになったら支えてあげられるように、いつも横にいる事が、唯一ホスピスナースとしてできる事なのではないか、と思うのです。
 
 
 
[2014/09/18 20:21] | ホスピスナース | トラックバック(0) | コメント(0)
太陽(2)
 新しい患者さんを受け持つ時や、初回訪問を行う場合、その人の名前を知るのは、ラップトップの受け持ち患者一覧および、その日の訪問予定を見る時です。が、たまに上司が直接電話で知らせてくることもあります。ザコーヴィッチさんの場合が、そうでした。"ザコーヴィッチさんって、覚えてる?"上司にそう聞かれたとき、私は思わず目を瞑りました。
 ザコーヴィッチさんは、骨髄異型性症候群と言う、骨髄機能の異常によって造血障害を起こし、白血病に移行することもある予後不良の病気で、マリアさんが亡くなった直後に、診断されたのでした。骨髄移植などの治療は、年齢的にも不適応だったので、結局対症療法として、輸血と免疫抑制剤、赤血球増殖薬、白血球増殖のための刺激因子剤などの治療を受けていました。その時点では、まだ治療を続けていたので、パリアティヴケアでした。
 一年ぶりに彼のマンションを訪れ、どきどきしながらベルを鳴らすと、見覚えのある息子さんが出てきました。彼も私のことを覚えており、“久しぶり!覚えてるよ、母のナースだろ?”と、ニコニコして迎えてくれました。懐かしいリビングルームに入って行くと、ザコーヴィッチさんが、丁度いすから立ち上がるところでした。片手に杖をついており、最後に会った時よりもやせていましたが、声や話し方、何よりもあの笑顔は一年前のままでした。私は自分の立場を一瞬忘れ、「お久しぶりです!」と言って近づくと、お互いにしっかりとハグしました。再会の嬉しさと、こんな風に再会するなんて、と言う気持ちとが交じり合っていましたが、ザコーヴィッチさんに「さてと、今度は僕が君の笑顔をもらう番だ。」と言われたとたん、そこでの自分の役割を思い出したのです。
 ザコーヴィッチさんは黄斑変性の方も進行しており、週に一度、図書館からカセットに録音された本を、まとめて借りていました。私の訪問時には、いつも私の子供たちの様子や、日本の事、外の様子などを楽しそうに聞いては、ザコーヴィッチ家の子供たちが小さかった頃のエピソードなども話してくれました。ある時、私はずっと気になっていた一枚の絵について、思い切って訊いたことがありました。その絵は、リビングルームの端の目立たないところに掛けてあったのですが、どう見ても部屋の雰囲気や全体の趣味にはそぐわない、どちらかと言うと“なんか変”な絵でした。私は恐る恐る、ザコーヴィッチさんに「あそこに掛けてある、犬の絵なんですけど...」と言うと、彼は最後まで聞かずに笑い出し、「変な絵だろ。本当はあんなへんてこな絵、掛けたくないんだけどね、当たっちゃったんだよ。」と言って、その奇妙な犬の絵について話してくれたのです。
 数あるザコーヴィッチ家の伝統の中に、クリスマスのプレゼント交換がありました。毎年、クリスマスには一家全員が集まり、皆、小さなプレゼントを持ってきて、くじ引きで当たった物をもらうのですが、その中に一つだけ、“誰も欲しがらない醜い物”が混じっているのです。その“ハズレ”が当たってしまった人は、一年間、家のどこかにそれを飾らなければならず、次のクリスマスにはその“ハズレ”を処分し、新たなる“ハズレプレゼント”を持ってくる事になっていたのだそうです。ところが何年か前にこの奇妙な犬の絵が登場し、あまりの醜さにザコーヴィッチ家全員が魅了され、以来、この絵が“永遠のハズレ”となったのだそうです。「それでね、去年のクリスマスに僕がこれを当てちゃったってわけなんだよ。」ザコーヴィッチさんはそう言うと、「でもね、僕にはもうよく見えないから、全然気にならないのさ。」と言って笑いました。
 月に一度の輸血が3週間に一度になり、2週間に一度になった頃、一日の殆どをリクライナーに座ってすごすようになったザコーヴィッチさんは、私に言いました。「そろそろですか?」輸血をしても、それまでは楽になっていた呼吸や、なんとなく軽くなっていた倦怠感も、その頃にはもう全く効果が見られなくなっていました。私は、「これ以上輸血を続けても、穴の開いたバケツに水を入れ続けるのと同じで、あとは体の負担になるだけだと思います。ホスピスに切り替えるなら、今がその時だと思います。」と言い、言いながら心の中で、こんな事をこの人に言わなくてはならない自分の立場を、少し恨んでいました。「僕もそう思います。もう、十分です。」ザコーヴィッチさんはそう言うと、目を閉じました。
 翌日、ホスピスケアに切り替え、電動ベッドを入れ、緊急時用の薬のセットをオーダーし、ホームヘルスエイドのサービスを始め、昼間は娘さんたちが、夜は息子さんたちが交代でザコーヴィッチさんの世話をし、まるで一年前に戻ったようでした。そしてザコーヴィッチさんもまた、マリアさんと同じように目に見えて弱っていきました。呼吸はモルヒネで楽にはなっていましたが、肌は紙のように白く、声も途切れ途切れになっていきました。
 ホスピスケアに切り替えて三日目、その週最後の訪問日、私が、「月曜日にまた会いましょう。」と言うと、ザコーヴィッチさんは、私の目を見て言いました。「それはちょっと、わかりません。」「....」
 私は、ベッドのザコーヴィッチさんに最後のハグをすると、「あなたと、あなたの素敵なご家族にお会いできて、本当によかったです。どうもありがとうございました。きっと、これで、さよならですね。」と言いました。ザコーヴィッチさんは頷くと、あの大きな手を差し出しました。一年前に比べると、すっかり青白く細くなっていましたが、まだ暖かさは同じでした。
 帰りの車の中で、私は、ザコーヴィッチさんとマリアさんに初めて会った家を、思い出していました。すると、最後にあの家を訪問した時にザコーヴィッチさんが言ってくれた一言が、突然よみがえってきたのです。
 “You are our sunshine.(君はね、僕たちの太陽なんだよ。)”
 次の瞬間、自分でも驚くほど突然に、涙が溢れてきました。たとえそれが、使い古された言葉であったとしても、ナースとしての私におくられた言葉であったとしても、自分の好きな人達にそう思ってもらえるのは嬉しい事で、そんな優しい人達が二人共いなくなってしまったことが、悲しくて仕方なかったのです。
 ザコーヴィッチさんは、その二日後に亡くなりました。今でも、あの有名な歌を聴くたび、ザコーヴィッチ夫妻の事、そしてあの奇妙な犬の絵を思い出して、泣きたいような、笑いたいような、懐かしい気持ちになるのです。
[2014/09/14 13:44] | 忘れられない人々 | トラックバック(0) | コメント(0)
太陽(1)
 ザコーヴィッチさん(仮)に初めて会ったのは、奥さんのマリアさん(仮)の初回訪問でした。その時はパリアティブケアで、マリアさんは子宮ガンの治療中でした。二人とも70代中頃で、息子さんが3人、娘さんが2人いて、それぞれ結婚して子供もいましたが、祝日やお二人の誕生日には必ず皆が集まる、とても仲の良い家族でした。夏には、メリーランド州のビーチにあるサマーハウス(別荘)でバケーションを過ごすのも、ザコーヴィッチ家の伝統でした。ビーチで大きな深鍋にお湯を沸かし、有名なメリーランドのブルークラブと言う蟹を山ほど茹でて、みんなで食べまくる様子を、マリアさんは楽しそうに話してくれたものです。
 マリアさんは数ヶ月前にかなり進行した子宮ガンだと診断され、摘出手術の後、化学療法を受けていました。ザコーヴィッチさんは、黄斑変性と言う加齢に伴う眼の網膜の病気のため、視力がかなり落ちていたので、週に一度、マリアさんが治療に行くときは、お子さんたちの誰かが連れて行っていました。マリアさんもザコーヴィッチさんも背が高く、穏やかで、よく笑う人達でした。お二人は長年住んだ家から、近所に新しくできた、看護師が常駐する高齢者向けマンションに、近々引越しする事になっていました。いずれお互いに何らかのケアが必要になった時に、子供達に負担をかけずにすむよう、まだ元気な今のうちに引っ越しておこう、と決めた矢先、マリアさんの癌が発覚したのです。マリアさんは、「こんなに早く現実になるとは思っていなかったんだけどね。でも、これで少し安心だわ。」と言って、静かに笑っていました。
 お二人はとても仲が良く、ザコーヴィッチさんは、家事やマリアさんのケアを、いかにも嬉しそうにしていました。もちろん、眼の悪い彼ができることには限りがあるため、娘さんや息子さんたちが順番で手伝いに来ていました。子供さん達も皆、明るく、よく冗談を言って笑う人達で、私もついつられて、まだ幼かった子供達の奇行や迷言を話しては、一緒に笑っていました。マリアさんは、化学療法が進むにつれて、食欲がなくなり、倦怠感が強くなり、腹水や下肢のむくみも増え、横になっていることが多くなっていきました。同時に引越しの日取りも決まり、ベッドに横になりながらも、ザコ-ヴィッチさんに捨てる物と持っていく物の指示をするなど、5人の子供を育て上げた一家の主婦の貫禄を見せていました。そして、引越し前、家族の思い出が詰まった家での最後の訪問日、玄関まで見送ってくれたザコーヴィッチさんに、私は言いました。「引越し後、もしかしたら、マリアさんは安心して急に弱るかもしれません。そろそろホスピスのことも考えたほうがいいと思います。」すると、ザコーヴィッチさんは、その大きな手を私の肩に置き、こう言いました。「正直に言ってくれて、ありがとう。僕も少しそんな気がしてましたよ。これからも、マリアに笑顔を持って来て下さい。君はね、僕たちの太陽なんだよ。」
 新しいマンションでの最初の訪問日、マリアさんはベッドで眠っていました。娘さんが一人来ていて、引越しのあと片づけを手伝っていました。マリアさんは、声をかけるとすぐに目を覚まし、私を見るとにっこりして言いました。「もうね、化学療法は終わりですって。ほっとしたわ。ここにも移ったし。だからね、今日はこれからのことを考えましょう。」アセスメントが終わってから、マリアさんはご主人と娘さんを呼びました。そして、私にホスピスについて説明してほしいと言い、もう病院には戻りたくないと、はっきりと言いました。説明が終わると、マリアさんは、「私はこれが一番いいと思う。でも、ほかの子供達とも話さないとね。」と言い、ザコーヴィッチさんとその場にいた娘さんもうなづきました。そして二日後、私は再び彼女を訪問し、ホスピスケアに切り替えたのです。
 ホスピスに切り替えてからのマリアさんの衰弱は、まさに、坂道を転がっていくようでした。毎日お子さんやお孫さんたちが訪ねて来て、眠っているマリアさんにキスをし、ザコーヴィッチさんの手伝いをしていきました。それでも、そこには必ず笑いがありました。マリアさんは、愛する家族に囲まれて、ホスピスにサインしてわずか一週間で静かに息を引き取りました。家族の手を煩わせることも殆どなく、残してゆく夫も安心できる場所にいて、全てが彼女の望んでいた通りでした。
 彼女のお葬式で、棺の中に色とりどりの花に埋もれて横たわるマリアさんは、きれいなピンク色のワンピースを着ていました。彼女に手を合わせてから、ザコーヴィッチさんに挨拶すると、「よく来てくれたね。」と言って、ハグしてくれました。彼女がとてもきれいだと言うと、彼は嬉しそうに、「当然だよ。僕が選んだんだからね。」と片目をつぶり、「今までいろいろありがとう。僕たちはいつも君の訪問を楽しみにしていたよ。もう会えないのが残念なくらいだ。」と言って、笑いました。
 そして、それからわずか1年後に、再びザコーヴィッチ家のドアをノックすることになるとは、その時は思いもしなかったのです。太陽(2)に続く。
 
[2014/09/10 16:49] | 忘れられない人々 | トラックバック(0) | コメント(0)
2週間
 “あとどれくらい?”という質問は、ホスピスナースとして一番聞かれたくないことですが、遅かれ早かれ、ホスピスの半数以上の患者さんや家族は、この答えを知りたがります。もちろん、皆、私達が水晶玉を持っているわけではないことはわかっているのですが、人間と言うのは、未来を知りたがり、そこで自分が何をするのか考えようとする生き物なのかもしれません。
 期間限定、と聞くと、なんとなく、“逃したくない”と思う人は結構いるのではないでしょうか。私は、保健婦学校に通っていた1年間、札幌に住んでいたのですが、保健婦科の生徒の中でも“内地”から来ていた3人は、休みになると、ここぞとばかり、北海道中をあちこち旅行し、道内出身のみんなをあきれさせていました。つまり、時間が限られている、と言う事は行動を起こす起爆剤になるものなのです。戦争中、東京と富山、両方の大空襲を経験した父は、“今日できる事は今日やる”と言うのがポリシーなのですが、平和な時代にぬくぬく育ってしまった私は、ついつい“まあ、明日があるさ”と流されてしまいがちです。心の隅の方には、“明日は何が起こるかわからない”という気持ちも常にあるのですが、それでもそれはやはり、実感として切羽詰ったものではないのです。
 小説や映画でも、突然“あなたの命はあとこれだけです”と宣告された主人公が、残された時間をどう生きるか、と言うテーマのものはよくあります。そして、そういう作品に触れて、“自分だったら...”と考えた事がある人もいると思います。ホスピスナースという仕事は、常にその主人公たちに接しているわけで、乱暴に言ってしまえば、誰でも主人公になりうるのです。
 今まで受け持った患者さん達の中で、なぜか、“あと2週間だと思ったら、必ず言ってください”と頼んできた人が何人かいました。どうして2週間なのか、今思うと、理由を聞いてみればよかったのですが、その時は、結構プレッシャーに感じてしまい、訪問するたびに緊張していた気がします。“わかりました、私のわかる限りですが、それくらいかもしれないと思ったら、言いますね。”と返事をしつつ、内心“2週間だと言って、二日だったら、それとも3週間だったら、どうしよう...”と、困ってもどうしようもないことに困っていたのです。そして、もしも本当に2週間であったとしても、その2週間の間に予想外の事態が起こるかもしれないし、不可抗力である自然災害が起こることだってありえるのです。何年も前の事ですが、この辺りでは珍しく、暴風雨に加え、竜巻が起こった時がありました。その時、自宅で奥さんがケアをしていた50代の男性で、今日か明日か、と思われていた患者さんの、家の横に立っていた大木が根こそぎ倒れ、屋根を突き破って患者さんの寝ていた寝室に飛び込んできたのです。不幸中の幸いで、直接患者さんに当たることなく、救急車でホスピス病棟に搬送された彼は、そこで3日後に亡くなりました。
 アメリカは常にどこかの国で戦争をしている国家です。そこには必ず“正義の”と言う名目がつきますが、健康で、まだまだ生きる事のできるはずだった沢山の人達が、双方で殺されている事に違いはありません。国民全てに健康保険を、子供達の健康の為に、学校給食にもっと野菜を、と言っている同じ口で、未来のある若者達を戦地に送りこむ矛盾は、すでに当たり前の事になってしまい、人々は、自分の住む町や村が戦地になってしまった遠い国の人達の生活を想像することもなく、皆が日々のストレスと闘いながら生きています。それでも、そんな中で、もしも自分の命があと2週間だとしたら、一体何ができるのでしょうか。何をしたいと思うのでしょうか。何をしなければならないのでしょうか。
 人生は長いけれど、短いかもしれない。未来を想像しながら、今日を悔いのないように過ごしていれば、あと2週間、と言われたとしても、平静でいられるのでしょうか。今の私には、それはまだわかりません。
[2014/09/04 18:29] | つぶやき | トラックバック(0) | コメント(0)
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ラプレツィオーサ伸子

Author:ラプレツィオーサ伸子
アメリカ東海岸で在宅ホスピスナースをしています。アメリカ人の夫、子供3人、犬一匹と日々奮闘中。

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2冊目の本がGakkenから出版されました。 「それでも私が、ホスピスナースを続ける理由」https://gakken-mall.jp/ec/plus/pro/disp/1/1020594700 「ホスピスナースが胸を熱くした いのちの物語」と言うタイトルで青春出版社から発売されました。 http://www.seishun.co.jp/book/20814/

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