ホスピスナースは今日も行く 2014年08月
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ホスピスナースは今日も行く
アメリカ在住日本人ナースが、ホスピスで出会った普通の人々の素敵な人生をおすそわけします。
もう少しだけ
 その当時、エミリー(仮)は私とたった3つしか違わない、36歳でした。16歳の娘がいるシングルマザーでしたが、小柄で童顔のエミリーは、娘さんと並ぶと、まるで姉妹のようでした。アパートで母子二人暮しをしていましたが、1年前に卵巣癌と診断されてからは、娘さんも一緒に、小さな古い街中にある、ロウハウス(長屋)の実家に戻っていました。
 私は、ホスピスナースになってまだ3年目で、長男が1歳半、次男を妊娠中の頃でした。同年代の患者さんを受け持つのは初めてで、初回訪問の時は、お互い違った意味で、“若いなあ”と思っていたと思います。実を言うと、彼女が退院するに当たり、ホスピスが依頼を受けた時点で、“長くて三日”と聞いていたので、ドアをノックする時はかなり緊張しており、心の中で、“冷静に、冷静に”と唱えていました。
 エミリーはドアから入ってすぐのリビングルームで、両親とお姉さんと一緒にソファーに座っていました。かなり痩せていましたが、小鹿のような美人で、無口で、けれど必要な事はきちんと話す人でした。彼女の電動ベッドはリビングルームに置かれ、狭い部屋は、それでもう一杯になっていました。エミリーもご両親も、これ以上治療法がないこと、あとは最後まで家で過ごしたい事をはっきりと言い、とにかく苦しまないように、と言うのが願いでした。エミリーは右の鎖骨下にポートという皮下埋め込み式カテーテル(直径1cmくらいのシリコン製のリザーバーから静脈に細い管がつながっており、化学療法など長期にわたり点滴を繰り返す人には便利)があり、そこから持続的にモルヒネの点滴を入れ、痛みをコントロールしていました。点滴はカセットと呼ばれる携帯型輸液ポンプを使っていました。
 もともと無口なエミリーは、全身の倦怠感と衰弱もあり、あまり自分のことは語りませんでしたが、私が子供の話をすると、よく笑っていました。娘さんは普段は学校なので、滅多に会うことはありませんでしたが、たまに早く帰ってきたりすると、エミリーは急にお母さんの顔になり、そっけない娘さんにいろいろ話しかけていました。そして時々、「あの子、あんまり話してくれないの。学校でもどうしてるのか、心配なのよ。」と、こぼしたり、「あとどれくらいなのかしら...」とつぶやいたりするのでした。私は、「どれくらいかはわからないけど、だんだん眠っている時間が増えるし、いずれは話せなくなると思うので、大切な事は出来るうちにやっておく事を勧めます。」と言い、話しにくかったら手紙やビデオなど、何でもいいから伝えてあげて、と話しました。“長くて三日”と言われて家に帰ってきた彼女は、その週も、次の週も、その次の週も、狭いロウハウスのリビングルームで、家族や友達、近所の人達に囲まれていました。しかし、それでも彼女は確実に弱っていき、いつしか昏睡状態になっていました。そして、そこからが、エミリーの本当の闘いだったのです。
 エミリーはシングルマザーではありましたが、結婚はしていました。ただ、相手が刑務所に入っており、結婚生活は殆どなかったのです。16年間、エミリーの両親は彼女を全面的にサポートし、娘さんはエミリーと彼女の両親に育てられました。エミリーの相手がどういう人だったのか、詳しい事は聞いたことがありませんでしたが、彼女達をを幸せにできる男性ではなかったようです。
 エミリーは昏睡状態に陥る前、点いたり消えたりする意識の合間に、“乳母車とチケット”について、うわ言を口走るようになりました。お姉さんが必死になって、どういう意味なのか聞きだそうとしましたが、結局わかりませんでした。昏睡状態になり、モルヒネとほんの僅かな生理食塩水以外は、何も体に入れず、いつの間にか、溜まっていた腹水も全て吸収され、顔も体も半分くらいになってしまっても、エミリーはそこにいました。彼女は意識があるうちに、ご両親に、実家からすぐ近くの墓地に埋葬してほしい事、娘さんの為に溜めた僅かな貯金の事、そして、彼女の死後、娘さんに渡してほしいと書いた手紙の事などを頼んでいました。ですから、ご両親は、彼女がもう、準備ができたのだと思っていたのです。それでも、今日か、今夜か、と見守られながら、エミリーはどうしてもこの世を去ることができませんでした。私は、お姉さんに、もしかしたら、エミリーには水子がいるのではないかと訊ねました。“乳母車とチケット”が、どうしても引っかかっていたのです。お姉さんは、彼女の知る限り、そういうことは無いはずだと言いましたが、彼女も心の片隅で、もしかしたら、と思っていたようでした。万が一そうであったとしても、カソリックのエミリーには口が裂けても言えない事でした。そこで、教会の神父さまがlast rites (最後の秘蹟:カソリック教徒が、臨終の前に受ける祈り、塗油)を授けに来た時、お姉さんは密かに、エミリーが許されるよう、お願いしたのです。
 私たちは、エミリーの為にありとあらゆる事をしました。家族や友達は皆、エミリーに何度も別れを告げ、娘さんの事は心配ないから、安心していいと約束し、娘さんも二人きりの時間を持ち、さらに、エミリーを一人きりにする時間も作りました。神様にも許しを得、あとはもう、ただ、彼女の時が来るのを祈るしかありませんでした。エミリーのお父さんは、こう言っていました。「ひどい親だと思われるかもしれないけど、もう、一時でも早く逝かせてあげたいんだ。どうして神はこの子を迎えに来て下さらないんだろう。」ひどい親だなんてことはない、それは、彼だけではなく、そこにいた全ての人達の願いでもありました。そして、ある朝、ようやくその願いは叶い、エミリーは、まさに、精根尽き果てて、この世界から旅立つ事ができたのです。
 三日後、私は彼女のお葬式に出席しました。そこには、あのリビングルームで会った人達が、大勢いました。ご両親とお兄さん、お姉さんに挨拶すると、あのお父さんが、とてもすっきりとした顔で言いました。「エミリーはね、小さいころからああだったんだよ。絶対にあきらめない。最後の最後までね。辛かったけど、あれがあの子の生き方だったんだよ。」
 私は、その通りだと思いました。誰の為でもない、彼女自身のため、エミリーは文字通り、命の限り生きたのです。その時、大人たちの横に黙って立つ娘さんと、目が合いました。その瞬間、私は、“それだけじゃない”という思いにうたれ、どうしても彼女にそれを伝えたくなったのです。私は、彼女に言いました。「あなたのお母さんは、本当に立派だったね。きっとね、ほんの少しでも長く、あなたと一緒にいたかったんだと思うわ。」
 娘さんは大きな目を見開くと、潤んだ声で「お母さんは、私に手紙を書いてくれたの。」と言いました。私は思わず彼女をハグすると、「良かったね、大切にね。」と言いました。
 私の次男はもうすぐ14歳になります。16歳で母を亡くしたあの子は、今頃30歳になっているはずです。エミリーの手紙には何が書いてあったのか分かりませんが、あの娘さんが、どこかで幸せなお母さんになっているといいな、と思っています。
 
 
[2014/08/29 08:37] | 忘れられない人々 | トラックバック(0) | コメント(0)
原点
 私が看護師になろうと思ったのは、中学2年のときでした。それまで特に大きな怪我や病気をした事はなく、入院した経験もありませんでしたし、家族が入院したとか、知り合いに看護師(当時は看護婦)さんがいたわけでもなく、ましてや、キャンディキャンディに感動したわけでもないのに、ある日、ふと、決意したのです。クエーカーの友人によると、そういうのを“call(神の思し召し、天命)”と言うのだそうですが、そんな大そうなものではなく、まさに、“降って湧いた”のでした。そして、そう決心した後から、“自分は理系だし、なぜか小さい子供とお年寄りには好かれるし、きっと仕事には困らないだろうし、やっぱりこれしかない!”とかなんとか、へんな理由をこじつけていたような気がします。そしてそのまま、何の迷いもなく(幸か不幸か、他にこれと言った才能もなかったので)、看護師への道を一直線でした。高校2年の夏(多分)に、「一日看護婦体験」に参加したのですが、その時は産科に配属され、しかも、お産が終わった直後の分娩室を見せられ、その惨状に高2女子は度肝を抜かれ、“絶対子供は生みたくない”と慄いたのを憶えています。不思議なもので、もしここで、感動的なお産に遭遇していたら、今とは正反対にある、“命の誕生”に関わるようになっていたのかもしれません。ところが、たまたま読んだ小さな新聞記事で、“訪問看護”と言う分野がある事を知ったのも、ちょうどその頃でした。そして、その時も、これと言った根拠もないのに、“これだ!私がやりたいのは”と、確信してしまったのです。
 そうして、看護婦免許を取り、訪問看護をするために必要だった保健婦免許を取り、その当時は珍しかった、訪問看護を行う部署のある病院に就職し(訪問看護ステーションのない時代です)、まずは病棟勤務で修行を積んで、と言うわけで、整形外科、その後神経内科に配属されました。そこで私は、ALS(筋萎縮性側策硬化症)や、MS(多発性硬化症)、若年性パーキンソン病などの神経難病で、何年も入院生活を強いられている人たちに出会いました。特にALSの患者さん達は、呼吸器が必要になると、よほど条件のいい人でない限り、自宅に帰るのは非常に困難でした。在宅ケアをサポートするシステムが、あの頃はまだ確立していなかったのです。入院生活と言うのは、どんなに快適でも、いくら家族や友達がお見舞いに来てくれても、テレビやラジオやコンピューターがあっても、それが長くなると、いつの間にか社会から隔絶されてしまうものです。私は、毎日彼らのケアをしながら、“この人達が自宅で生活できるような、それをサポートするシステムがあったらどんなにいいか...”と思っていました。
 入院している人達は、そこでは皆“患者さん”になってしまいます。一日中寝間着を着て、病院のルールとスケジュールに束縛され、回診では大勢の人にじろじろ見られ、自分の体の事を難解な言葉で説明され、出される食事を食べ、渡される薬をのみ、そこにある人間関係は、“医療従事者”と“患者”の枠にはめられ、そこに“自分の生活”はありません。そんな生活が、命のある限り続く、と言うのは、無実の罪で終身刑を言い渡されたような、どうにもやりきれない、言葉では表しきれない苦悶ではないでしょうか。そんな事を考えても、そこで新米看護師の私ができるのは、8時間の勤務時間の中で、やらなければならないルーティン、日々の処置、記録、その他の雑務の合間に、患者さんの話を聞くことくらいでした。しかし、今思うと、あの頃患者さん達から聞いた話は、いつの間にか私の中に沁みこんで蓄積され、何も知らずに選んだ看護師という職業の、私にとっての中核、つまり“患者さんのadvocate(代弁者、支持者、擁護者)である事”になっていたような気がするのです。
 神経内科での経験は、私の中の“訪問看護師になる”という目標を揺るぎないものにしました。それはやがて、海外留学につながり、そして、ホスピス看護へと導かれていくのですが、全ての原点は、あの病棟で、身体の殆どの自由を奪われながらも、その精神と思考は、決して病に屈しなかった人達との出会いであり、今は、最後まで自分らしく生きようとする人達のadvocateになることで、あの人達が叶えられなかった望みを、ホスピスナースとして、形にしようとしているのかもしれません。
 

 
 
[2014/08/22 15:28] | つぶやき | トラックバック(0) | コメント(0)
仲間
 先日、上司からこんなメールが来ました。“MさんとCさん(先週末、わたしが初回訪問した人達)の家族と、電話で話す機会があったんだけど、どちらもあなたの訪問がとてもdelightfulだったって、喜んでいたわよ。いい仕事してくれてありがとう。”
 その週末は結構忙しく、初回訪問二件(しかも問題山積み)、再訪問二件で、特にそのうちの一件は予定外の緊急訪問だったので、最後の訪問を終えて家に着いたのは6時近くでした。残り物で晩御飯を済まし、それからその日の記録を終わらせ、結局ベッドに行ったのは夜明け近くでした(まあ、途中で何度も意識を失っていたので、正味は大した事ないのですが)。その事をその上司は知らないのですが、それでもこのメールを貰った時、“これでチャラだな”と思いました。
 毎週火曜日のホスピスチームミーティングは、患者さんの状態を報告するだけでなく、自分達の情報交換と、ある意味ストレス発散できる貴重な時間です。患者さんや家族にもいろいろな人がいます。そして、ホスピスナースにもいろいろな人がいます。でも、一貫しているのは、どのナースもプロとしての意識を持ち、いつも自分の能力をフル稼働していると言う事です。それでも、全ての患者さんと家族を満足させると言うのは、不可能に近いのです。自分ではうまくコミュニケーションが取れていると思っていたのに、後から不満を聞かされたり、毎回時間をかけ、私達ができる限りの事をし、特別な計らいまでしたケースでも、最後に登場してきた遠い親戚から吹聴された“どこそこのホスピスはこうした、ああした、私の知っている人はこうだった、云々”と言う噂を真に受け、まるで自分たちが騙されていたかのように思い込んでしまったり、とにかく挙げ始めたらきりがないほど、ナースにとって“落ち込み要因”になるものはあるのです。そして、それはどのナースも経験する事で、完璧な人などいない、と言う事もわかっているのですが、それでもやっぱり、自分の努力が裏目に出たり、誰かを怒らせたりしてしまうというのは、辛いものです。また、ホスピスの患者さんや家族にとって、ホスピスナースと言うのはある意味、唯一、その悲しみや怒り、ストレスのはけ口でもあり、人によってはその表現がナースに対する怒りになってしまうこともあります。そしてそれがわかっていても、こちらも生身の人間だし、その日の気分や個人的な事情もあったりするし、“やってられないわよ”と思う事だってあるのです。そういう事を、チームの仲間に話すことで、“自分一人ではない”という安堵と共感を分かち合い、次のステップにつなげて行けるような気がするのです。もちろん、私達は同情しあうだけでなく、アドヴァイスしたり、一緒に考えたり、泣いたり、時には笑い飛ばしたり、それからギュッとハグしたりして、仲間が落ちていかないように支えあうのです。
 ナースと言う仕事は、“奉仕の精神”でやるものではないと、私は思っています。世の中にあるさまざまな職業と同じく、専門的な知識と技術を持つ、プロフェッショナルです。ただ、その相手が人である事、それもどこか健康を損ねている人達が相手であるという事が、この職業にある種特別なイメージを持たせるのでしょうか。ナイチンゲールだって、確固たるプロ意識があったからこそ、あれだけの偉業を成したのです。そして、プロとしての仕事を行った結果が、相手を満足させる事になった時に喜びを感じるのは、どんな職業でも同じなのではないでしょうか?
 上司のメールを読んで、何よりも私に微笑をくれたのは、“delightful”という言葉でした。これこそが、私がホスピスナースとして、こうありたい、と思っている事だったからなのです。患者さんと家族にとって、一番つらい時なのに、よりにもよって“delightful(喜びを与える、気持ちの良い、心地よい、etc.)”とはどういう事?と訝しむ方もいるかもしれませんが、人生の残り時間が見えている人たちが、たとえ1時間でも30分でも、delightfulな時間を過ごせたら、私の訪問に付加価値が生まれるような気がするのです。そして、そういう家族からの声を私に伝えてくれた、上司の気遣いもありがたく、改めて、“ああ、こうして支えられているから、この仕事を続けていられるんだなあ”と思ったのでした。
 
 
[2014/08/15 13:05] | ホスピスナース | トラックバック(0) | コメント(0)
生きがい
 キャシーさん(仮)は60代半ばの美容師でした。晩年のエリザベス・テイラーのような、若い頃はさぞ綺麗だっただろうと想像させる美人で、でもなんとなく、いろんな苦難を乗り越えてきたんだろうな、と思わせる雰囲気がありました。地元に3軒の美容院を持ち、卵巣癌になるまでは毎日忙しい日々を送っていました。背の高い、エンジニアのご主人と二人暮しで、結婚している息子さんが二人いました。小さな平屋でしたが、いつも花が飾ってある、キャシーさんのセンスがうかがえる素敵なお家で、彼女は居間の大きな窓際に置いた電動ベッドに寝ていました。ベッドの足元の方には大きなクリーム色の鳥かごが下げてあり、白いオウムが一羽、いつも静かに止まり木にとまっていました。
 時々息子さんやその奥さんが手伝いに来ていましたが、キャシーさんの介護は殆ど、ご主人が一人でしていました。180cmを超える細身で無口なご主人は、実はつい最近すい臓がんが見つかったのですが、キャシーさんの世話をするため、治療はまだ始めていませんでした。息子さん達はそちらの方を心配していましたが、ご主人は頑として聞き入れませんでした。
 キャシーさんは、腰の痛みと下半身の浮腫がひどく、殆どベッドで横になっていました。また、吐き気もあり、鎮痛剤と制吐剤を使っていましたが、私が“今日の調子はどうですか?”と聞くと、いつも“大丈夫よ”と答えるのです。するとご主人に“honey、正直に言わなくちゃ”と言われ、キャシーさんはためらいながら“まあ、あんまり良くはないわね。”と言い直したりしていました。ご主人は“彼女は世界一我慢強い女性だからね、信じちゃダメだよ。”と私に言い、キャシーさんはだまって苦笑していました。口数は少ないのですが、ご主人はいつもキャシーさんが楽なように気を配っており、彼女が呼ぶと、何をしていてもすぐに彼女の傍に飛んできました。そして、キャシーさんはいつも、そんなご主人の大きな手を握って“どうもありがとう”と言うのでした。
 ある時、キャシーさんに、“奥の部屋を見て御覧なさい”と言われ、なんだろう?と思いながら行ってみると、そこには床から天井まで、数え切れないほどのトロフィーが飾ってあり、壁には雪原を走るスノーモービルや、さまざまなレーシングカー、そして、トロフィーを抱えて笑うご主人の写真が、何枚も掛けてありました。私は唖然としながら、キャシーさんに言われて部屋に来たご主人に、“これは、全部あなたのですか?”と訊くと、彼は珍しく笑顔になり、“そうなんだよ。僕はこういう事をしてたんだ。”と話してくれたのです。
 キャシーさんとご主人は、地元の高校の同級生で、思った通り、美人で明るいキャシーさんは人気者だったそうです。ご主人は勉強は苦手でしたが、バイクや車が大好きで、その頃からバイクを解体したり、改造したり、ローカルのレースに参加したりしていました。“そんな僕とね、なぜか彼女はつきあってくれたんだよ。”そのまま、キャシーさんは美容師に、ご主人はエンジニア兼レーサーになり、彼は全国のいろいろなレースに参加するようになりました。
 居間に戻ると、キャシーさんはにっこりして、“どう、すごいでしょ?”と言ってから、ご主人に“ねえ、あれも見せてあげたら?”と言いました。ご主人は、いつもとは別人のように目をキラキラさせ、私に“僕の造った車、見たいかい?”と訊きました。私が、“もちろんです!”と言うと、彼はキャシーさんを見て嬉しそうに、“じゃ、見せてくるよ”と言って、私をガレージに案内してくれました。そして、そこには、漆黒に光る、本物のレーシングカーがあったのです。“こ、これ、お一人で造られたんですか?”私は、一体何から訊いていいのかわからず、そんなつまらない質問をしながら、“こんなすごい人が、こんな身近にいたなんて”と、感動していました。ご主人はエンジンや内装の説明してくれ、“よくわからないけど、すごいなあ”と、子供みたいに感心している私を、座席に座らせてくれました。そして、“今度、お子さん(当時小学生)を連れておいで”と言ってくれたのです。
 その日からまもなくして、キャシーさんは急速に弱っていきました。食べなくなり、飲まなくなり、一日中眠っているようになりました。ご主人は、私のアセスメントが終わるのを、キッチンで待っているようになりました。私がキャシーさんの状態や、これから先の説明するのを、キャシーさんに聞かせたくなかったのです。キャシーさんが弱っていくにつれ、大きなご主人がだんだん小さくなっていく気がしました。そしてある日、“もう、いつ逝ってもおかしくない状態です”と言った時、ご主人は大きな体を折り曲げて、声を押し殺して、泣きはじめたのです。私はただ傍に立ち、目の前にある肩にそっと手を置いているだけでした。泣きながら、彼はこう言いました。「彼女がいなかったら、僕もいなかった。彼女が、好き勝手ばっかりしていた僕に、まともな人生をくれたんだ。どんなに苦しくても支えてくれて、僕はそれに甘えるばかりで、それでもずっと一緒にいてくれたんだ。それなのに、僕は彼女に何もしてあげられなかった。」
 その時、いつも静かにしていた白いオウムが、突然鳴いたのです。私達は驚いて、キャシーさんの所に戻りました。ご主人がキャシーさんに“呼んだかい?”と声をかけると、キャシーさんはうっすらと目を開けました。そして、ご主人を見ると、“It's OK”と言い、目を閉じました。ご主人は絶句し、彼女の手を取ると、長い間、祈るように額をつけていました。そして、翌朝、キャシーさんは亡くなったのです。
 死亡時訪問をした時、キャシーさん達の小さな家は、人でいっぱいでした。家族だけでなく、キャシーさんのお店の美容師さんや、ご主人のレース仲間まで、そこにいて、ご主人を支えようとしていました。16歳で出会って、彼の夢を支え続けたキャシーさんは、亡くなった今でも、こうやって彼を助けていました。ご主人はベッドサイドのソファに、ぼんやりと座っていました。私を見ると立ち上がり、私が死亡を確認し、合掌する間、私の横に立っていました。キャシーさんはとても穏やかな顔をしていました。私がお悔やみを言うと、ご主人は真っ赤な目をしてこう言いました。「僕は、癌の治療をすることにしたよ。彼女はそれを望んでいたからね。僕が生きている限りは、彼女も一緒にいるんだよ。」
 その時、私はキャシーさんが言った“It's OK”の本当の意味が、ようやくわかったのです。彼女は、彼を支えるため、結果的に自分も美容師として成功しましたが、何よりも、彼が夢をかなえることが、彼女の幸福だったのでしょう。だから、いつも彼には“大丈夫よ”と言い続けてきたのです。そして、それが、彼がこれからも生きていく為の支えになる一言であり、つまり、彼そのものが、キャシーさんの生きた証、生きがいだった、と言う事が。

 
 
 
[2014/08/07 16:32] | 忘れられない人々 | トラックバック(0) | コメント(0)
再会
 新しい患者さんが依頼されると、基本的に、受け持ちになるナースが初回訪問をします。初回訪問は大体2時間ほどかけ、既往歴や薬、家族構成など、さまざまな情報を収集するので、相手のバックグラウンドを知るにはとてもいい機会なのです。しかし、さまざまな理由で受け持ちナースが初回訪問を出来ない場合もあり、そういう時は初回訪問のサマリーで大体の様子を把握します。
 その週末、私は日曜日に働いていました。そして、金曜日にホスピスにサインし、土曜日にも訪問を受けたテリーさん(仮)と言う、私が受け持ちになる患者さんのサマリーを読んだ時、名字を見てどこかで聞いた事があるな、と思ったのです。住所を見て、やはり、あれ?と思い、子供が10人と言う記述を読んで、やっぱりそうだ、と確信しました。20年以上前の夏、勤めていた病院をやめて留学し、最初のESLのサマーセッションを取った時に教わった先生の、ご主人でした。
 土曜日に訪問したナースのレポートでは、容態が急激に悪化している事を、奥さんが受け容れられず、病状の説明と精神的なサポートが必須、とありました。日曜日、予想通り、テリーさんの家の前には何台もの車が停まっており、家の中は人でいっぱいでした。ベルを鳴らすとすぐに息子さんの一人が開けてくれ、自己紹介をすると、“こっち、こっち”と、リビングルームへ案内してくれました。玄関からリビングに行くまでに、何人かの息子さん達と娘さん達が自己紹介してくれましたが、名前も顔も、とても覚えられませんでした。
 リビングルームでは、電動ベッドに横になったテリーさんと、隣のソファーに座った娘さんが二人と、テリーさんの弟さんが待っていました。テリーさんは声をかけるとうっすらと目を開けましたが、それ以外の反応はしませんでした。長女で、ご自身もナースのマリアさんがソファーに座ったまま、「父は水曜日には歩いてたのよ。水曜日に最後の化学療法をして、木曜日に具合が悪くなって、金曜日はまだしゃべっていたのに、昨日からはこんな感じなの。」と言い、「あなたはどう思う?」と、まっすぐに訊いてきました。私はアセスメントを終えてから、マリアさんにこう答えました。「たぶん、“日”単位だと思います。」ちょうどその時、教会から帰ってきた奥さんが部屋に入ってきました。スレンダーだったあの頃より少しふっくらしていましたが、一目で先生だとわかりました。一緒に入ってきた息子さんが、私の事をホスピスナースだと紹介してくれ、先生は「まあ、そうなの、そうなの。それで、主人はどうですか?」と言うと、テリーさんのベッドに駆け寄りました。私は言葉を選びながら、テリーさんの状態と、それが薬のせいではなく、病気の進行によるもので、私達にそれを止めることはできないけれど、薬を使って症状をコントロールし、彼が苦しまないようにする事はできる、と説明しました。先生は、マリアさんの方をちらりと見てから向き直ると、「つまり、もう良くはならないと言う事?」と言いました。「残念ですが、そういうことです。」「だから、あとは彼が苦しまないようにしてあげるだけだと?」「そうです。」先生はもう一度マリアさんを見ると、「今の、聞いた?」と確認しました。マリアさんは頷くと、立ち上がって先生の傍により、肩を抱きました。二人はしばらく抱き合って泣いていましたが、先生は涙を拭くと、テリーさんの手を取り、頬をなでながら、「あなた、心配しなくて大丈夫ですよ。」と言いました。
 私はマリアさんに薬の使い方と、ホスピスの番号を確認してから、「あなたはここではナースではなく、ただ、娘さんでいていいんですよ。何かあったら、いつでも電話してくださいね。」と言いました。マリアさんは私を見て苦笑すると、「できるだけそうするわ。」と言いました。それから私は先生を見て、こう言いました。「覚えていらっしゃらないと思いますが、私は21年前に先生に英語を教わった、大勢の生徒の一人なんですよ。」先生は大きな目を見開き、「G大学の?」と言うと、満面の笑顔になり、子供さん達を呼ぶと「彼女、G大の時の私の生徒なのよ!」と言いました。子供さん達も、意外な再会に喜ぶ先生を見て、しばし盛り上がっていました。帰り際、車まで行く間、息子さんの一人が一緒に歩きながら、こう言いました。「君が母の生徒だったなんて、すごい偶然だけど、きっとこれは神の御加護なんだよ。だって、母はきっと君の言う事を素直に聞き入れることができるからね。全く知らない他人じゃなく、どこかでつながっていたんだから。」
 翌日は平日のせいか、家の中はひっそりとし、テリーさんの傍には先生と、休みを取ったマリアさんと、息子さんが一人ついていました。テリーさんは静かに横たわり、呼吸が浅く、時々無呼吸も見られていましたが、苦痛の様子はありませんでした。人が少ないと、部屋に飾ってある家族の写真が次々と目に入ってきました。若き日の二人の結婚写真、10人の子供達に囲まれた幸せそうなテリーさんと先生、部屋中がこの家の歴史で溢れていました。
 私は先生と子供さん達に、これからおそらく見られるだろう症状を説明し、それが自然なプロセスであること、薬でコントロールできること、反応がなくても耳は聞こえていることなどを話しました。それから、「どういうわけか、一人きりになった時に亡くなる人が多いんです。ご家族がずっとそばについていても、ちょっとトイレに立った間とか、コーヒーを淹れ直して戻ってきたら、もう息をしていなかった、と言う事がよくあるんです。理由はわかりませんが、もしそうだとしても、それがその人の“時”である事を知っていて下さい。」と話しました。万が一その瞬間に立ち会えなかった場合、その時の自分の行動を後悔してほしくなかったのです。先生達は“わかった”と言い、私は“では、また明日来ます”と言って家を出ました。
 翌朝、朝一番のミーティングに出るため、オフィスに向かっている途中、ケータイが鳴りました。なんとなく予感がしていましたが、やはり、テリーさんが今亡くなった、と言う連絡でした。私はUターンすると、テリーさんの家に向かいました。
 先生は、玄関で私を迎えてくれました。無言でハグすると、一緒にリビングルームに行きました。テリーさんのベッドの周りは、すすり泣きでいっぱいでした。私は死亡を確認し、テリーさんに黙祷しました。テリーさん達が敬虔なカソリックである事は知っていましたが、やはり、手を合わさずにはいられなかったのです。先生は思いのほか落ち着いており、赤い目のまま、私に笑いかけてくれました。そして、こう言ったのです。「主人にね、言ったのよ、あなたのナースは私の教え子よって。立派になって、私たちを助けてくれたのよって。」
 人の縁と言うのは、一体何が操っているのでしょうか。人生には、数え切れないほどの伏線が敷かれていて、それが不思議な“縁”という力によって繋がっていくのでしょう。そして、そこには必ず、何か、意味がある気がしてならないのです。
 
[2014/08/01 10:45] | 忘れられない人々 | トラックバック(0) | コメント(0)
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ラプレツィオーサ伸子

Author:ラプレツィオーサ伸子
アメリカ東海岸で在宅ホスピスナースをしています。アメリカ人の夫、子供3人、犬一匹と日々奮闘中。

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2冊目の本がGakkenから出版されました。 「それでも私が、ホスピスナースを続ける理由」https://gakken-mall.jp/ec/plus/pro/disp/1/1020594700 「ホスピスナースが胸を熱くした いのちの物語」と言うタイトルで青春出版社から発売されました。 http://www.seishun.co.jp/book/20814/

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