ホスピスナースは今日も行く 2014年05月
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ホスピスナースは今日も行く
アメリカ在住日本人ナースが、ホスピスで出会った普通の人々の素敵な人生をおすそわけします。
お葬式
 ホスピスケアを受ける人達は、メディケアの基準に合った人、つまり、医師によって余命6ヶ月もしくはそれ以下と診断され、積極的な治療(根治療法)を受けない事を前提としています。しかし、6ヶ月と言うのはあくまでも目安であり、24時間以内に亡くなる人もいれば、1年以上ホスピスケアを受ける人もいます。もちろん、6ヶ月以上ホスピスケアを受けているケースに関しては、メディケアなどの保険の監査が非常に厳しくなります。と言うのも、信じ難い話ですが、ホスピスをお金儲けのビジネスとして行う事業所が増えており、医療報酬を不正に受け取り、私腹を肥やす人たちが大勢いるからです。
 ホスピスケアを受ける平均日数は、全国では2ヶ月ちょっと(ただし、システムの濫用も含むので、実際はもう少し短いはず)、うちのホスピスでは大体3-4週間くらいです。(私が始めた頃は、平均2週間と言われていました。)ただ、うちのホスピスはパリアティブケアの患者さんもみるので、ホスピス以前に受け持つ期間がある場合もあり、そうすると、結構長いお付き合いになったりします。
 ホスピスナースでも、やはり患者さんや家族との相性はあり、受け持つ期間の長さに関わらず、思い入れの強くなる人とそうでない人がいるのは、どうしようもないもので、だからと言ってケアに差が出る事はありませんが、一つだけ、個人的にしたりしなかったりする事があります。それは、患者さんのお葬式に出席する、という事です。私がこの仕事を始めた頃は、メディケアも余裕があり、うちのホスピスでは遺族ケア(bereavement service) の一環として、ナースが受け持ち患者さんのお葬式に行く事を、訪問一件分に認めていました。残念ながら、10年近く前からそれはなくなり、今は、出席するのは構わないけれど、あくまでも個人の時間を使って、と言う事になっています。
 ホスピスナースに別れは付きものですが、ケースによっては、心にけじめをつける、と言うか、きちんと終結させないと前に進めないことがあります。そういう場合、私はお葬式に出席する事にしています。こちらのお葬式は、教会や葬儀社で行うのが通例です。人によっては、viewing (お通夜)とお葬式を二日間に分ける事もあります。また、お葬式のあとは、日本の精進落としのように、参列した人を食事や軽食に招待することもあります。
 お葬式では、故人を偲んで家族、親戚や友人が短いスピーチを行う事がよくあります。私は、たいてい一番後ろに座ってそれを聴くのですが、その度に、その場における自分の特殊な立場、つまり、健康であった時のその人とではなく、人生の終焉に立ち会った、という関わりしかない事を、改めて知らされるのです。また、それに輪をかけて思い知らされるのが、遺族に挨拶する時です。特に、最期を看取った家族が、私の顔を見たとたんに泣き崩れたりすると、やはり、一番辛かった日々を思い出させてしまうスイッチになってしまうのだと、実感するのです。
 それでも、それがわかっていても、“この人のお葬式には必ず行かなくては”と思う人達がいます。患者さんに最後のお別れをするため、看取りの介護をした“戦友”の肩を抱くため、そして、一つの人生の幕が閉じるのを見届けるために、行かずにはいられないのです。そして何より、そこでは、ホスピスナースとしての役目を終えた、私個人として、気兼ねなく涙を流す事ができ、この出会いを思い出に変えて、心の引き出しにしまう事ができるからなのです。
 
 
 
[2014/05/29 11:18] | ホスピスナース | トラックバック(0) | コメント(0)
遥かなるケンタッキー
 アンさん(仮)は、90代前半の未亡人で、娘さんの家に同居していました。三ヶ月ほど前までは、生まれ育ったケンタッキーで、息子さんと一緒に暮らしていたのですが、息子さんが心筋梗塞で急逝してしまったため、ペンシルベニアに移ってきたのです。そしてこちらに来てほどなく、体調を崩し、病院に行ったところ肺癌が見つかったのでした。しかし、高齢であり、心臓の持病もあることから、治療は行わず、ホスピスを勧められました。
 アンさんは、かなり耳が遠く、会話は、私が太字のペンで紙に書き、彼女がそれに答えると言うパターンでした。ところが、生粋のケンタッキー娘のアンさんは、南部訛りがかなり強く、おそらく、日本語で言えば鹿児島弁を聞くような感じなのでしょうか。最初は何を言われているのか、全くわかりませんでした。全ての単語が伸びの良いお餅の様な、チューインガムのような、中国古来の弦楽器のような音で、(この感じ、分かるでしょうか?)母音がやけにねっとりした感じなのです。フィラデルフィアにも独特の訛りはありますが、この南部訛りには、慣れるまで娘さんに通訳してもらわなければなりませんでした。
  アンさんの実家は、代々葬儀屋さんで、今は彼女の甥ごさんが跡を継いでいました。ですから、自分のお葬式はケンタッキーの実家で、と言うのが彼女の希望でした。娘さんは自宅から電話で仕事をしていたので、アンさんは一人になる事はありませんでしたが、娘さんが電話している間は話し相手もおらず、テレビは聞こえないし、近所には尋ねてくる知り合いもいないので、私とホームヘルスエイド(介護士さん)の訪問を、毎回楽しみにしてくれていました。アンさんは特に痛みはありませんでしたが、すぐに息切れしてしまい、酸素を使っていました。歩行器を使ってゆっくり歩き、5m毎にひとやすみするので、トイレに行って帰ってくるだけでも一仕事でした。ですから、できるだけアンさんの訪問は一日の最後に入れ、次の訪問先を気にせずゆっくりできるようにしていました。
 アンさんは、特に私の家族や日本の話を聞きたがり、毎回アセスメントが終わると、待ってましたとばかりにいろいろ質問してきました。ナースの中には、患者さんや家族に、個人的な事は一切話さない、と言う人もいますが、私は気にせずに話すほうで、その方が患者さんや家族とも話が弾み、お互いよく知り合うことができると思うのです。幸いうちの子供達や犬が、いつも何かしら話題を提供してくれていたし、日本の暮らしや食べ物の事なら、お手のものだし、そのうち私のほうも、“今日は何を話そうか”と、考えるようになっていました。ある時、日本の実家の事を聞かれ、母が絵を描くと言う話をすると、是非見たい、と言われ、次の訪問時に母の描いた絵の写真を持って行きました。アンさんは、耳は聞こえませんが目はしっかりしており、私がミニアルバムに入った絵の写真を見せると、大喜びし、娘さんと二人で“この絵は売っているのか?”“こっちに持って来れないのか?”“一体どうやって描くのか?”などなど、大興奮でした。そして、“他にはもうないのか?”“新しいのができたら、また見せて欲しい”と、大変な勢いでした。
 こんな風に、ホスピスナースの訪問を、毎回楽しみにしてくれていたアンさんも、次第に歩けなくなり、眠っている事が多くなり、ベッドから起き上がれなくなっていきました。アンさんはいつも、“死ぬのは怖くないし、早くあちらに行きたい。でも、死ぬ前がどんなものなのか、それが心配だ”と言っていました。娘さんも、“母が最後の日々に不安を感じないで逝かせてあげたい”と心配していました。私は、アンさんと娘さんに、死へのプロセスと、症状の緩和をどのようにするのかを、何度も話しました。そして、“それでも、私は自分で実際に体験したわけではないので、本当にどんな感じなのかは、分かりません。ただ、ナースとしての知識と経験と感覚を総動員して、あなたが苦しまないようにするつもりです。”と言いました。すると娘さんが、“そうよ、お母さん。こればっかりはお母さんにしかわからないんだもの。だから、お母さんが私に教えて頂戴。私に何かサインを送って。”と言ったのです。アンさんは、私たちが書いた文章をじっと読んでから、私を見て“あなたを信用します。”と言い、それから娘さんを見ると、“わかりました。ちゃんとサインをあげるから、しっかり受け取りなさいね。”と言いました。
 それからまもなく、アンさんは昏睡状態になりました。そして、ある朝、私を玄関に迎えてくれた娘さんがこう言ったのです。「今朝、母が夢に出てきたの。一緒にね、馬車に乗ってたの。私が、“ずいぶん古い馬車ね”、って言ったら、“だって、お父さんのだもの”って母が言ったのよ。私が“えっ?”って言ったら、母が笑って“だからあなたはここで降りなさい”って言ったの。そこで目が覚めたんだけど、よく考えてみたら、あの馬車は私のおじいさんのだったんだと思う。とにかく、慌てて下に来たんだけど、あの通り、まだがんばっているわ。」
 この時、口にはしませんでしたが、娘さんも私も、アンさんが約束を守ったことに気付いていました。ですから、その晩アンさんが亡くなった時、娘さんは不思議と落ち着いていたそうです。翌日、娘さんにお悔みの電話をかけたとき、彼女は、あの夢はやはりアンさんからのサインだった、と教えてくれました。あの朝、あれから娘さんは、葬儀の為に、アンさんの写真を整理したのですが、その時一枚のとても古い写真を見つけたのだそうです。それは、ケンタッキーのお祖父さん(アンさんの父親)の葬儀社の写真で、そこに、あの馬車が写っていたのだそうです。
 「きっとね、母はあの馬車でケンタッキーに戻ったのよ。そして、懐かしい土地で、安心して亡くなったんだと思うわ。だからね、私もほっとした。葬儀は向こうでやって、母は父の横に眠る事になるわ。でも、最後に母と過ごせて本当によかった。もしかしたら、これは兄からのギフトだったのかもしれないわ。」
 お兄さんからの最後の贈り物。アンさんは、娘さんにそれを届けてから、懐かしいケンタッキーに帰ったのでしょう。そして、それが彼女から娘さんへの、最後の贈り物でもあったのです。

 
 
[2014/05/22 23:47] | 忘れられない人々 | トラックバック(0) | コメント(2)
特別?特殊?
 仕事を訊かれて、“ナースです”と言うと、殆どの人は“わあ、大変でしょうけど、いいお仕事ですね”といった反応をします。たいていはそこで終わりますが、時々、どこで、とか、どんな、と突っ込んで聞いてくる人もいます。そういう時は正直に“在宅のホスピスナースです”と答えますが、大体そこで空気が一瞬引きつります。たとえそれがナース同士でもです。それから、9割がたの人が“You must be a very special person(あなたは特別な人なのね)”と言うのです。これは、同僚たちの誰もが似たような経験をしているらしく、中にはホスピスナースだとはあえて言わない、という人もいます。多分、葬儀屋さんなども同じような経験をしているのではないかと思うのですが、やはり“死”に関係する仕事というのは話しにくいと言うか、明るく楽しい話題にはなりにくいのです。つまり、相手が返事に困ってしまうと気の毒だし、急に話題を変えるのもわざとらしいし、話が深刻になってしまうのも気まずいので、“だったら初めから言わない”と言うわけです。
 私も、ホスピスナースになって最初の何年かは、“あえて言わない派”でした。私自身、プロのホスピスナースとして名乗れるほど自信はなかったし、さらり、と話せる余裕もなかったからです。でも、経験を重ね、いろんな人たちに出会い、同僚たちといろいろな体験を話したりするうちに、“あえて言いたい”と思うようになってきたのです。
 世の中にはいろいろな職業がありますが、それぞれ同業者にしか分かり合えないもの、というのがあると思います。例えば米原万里さんの“通訳もの”の様に、“ホスピスナースもの”も、書き様によってはかなり面白くなるはずです。ただ、後者の場合、世間的に受け入れられるかが微妙なところで、やはり、どこか、“人が死ぬのに笑っちゃダメ”的な暗黙の掟があるのです。ですから、ホスピスナース達がチームミーティングの時に冗談を言ったり、キワドイ話題で大笑いしているなんて、“なんかイメージ違う”わけで、そういう掟破りはやはり、“ここだけの話”、にならざるを得ないのです。
 私がカミングアウト(?)してから、一度こんな事がありました。息子がまだ小さかった時、お友達の家で遊んでいた彼を迎えに行った時です。ちょうどその子のお父さんがいて(そのお父さんは大学で哲学を専攻したのですが、哲学では食べていけないため、結婚後に法学部に入りなおし、弁護士になった人でした)、なんとなくお互いの仕事の話になりました。で、私が“ホスピスナース”だと言った途端、そのお父さんは、眉根を寄せて、“Ohhh”と言い、私の肩をポンポンと叩きながら、“I'm sorry (それはお気の毒に)”と言ったのです。私は、思わず“いえいえ、ご心配なく。私が死にそうなわけじゃありませんから”と言い、にっこり笑うと、彼はちょっとあっけにとられていましたが、“ああ、まあ、そうか、そうですね”と言って、照れ笑いをしていました。私も、あれはちょっときつかったかな、とは思いましたが、少なくとも、彼のホスピスナースに対する“お気の毒”なイメージは払拭できたでしょう。
 この仕事を長く続けているのは、“ホスピス以外の仕事は考えられない”と思っている人達ばかりです。ナースだけでなく、ソーシャルワーカーや医療監督の医師も、なぜかホスピスケアが好きで好きでたまらない人達なのです。もちろん途中で“やっぱり自分には合ってない”と気付き、やめていく人もいます。けれど、続けている私たちが特別なわけではありません。人それぞれ、みんな自分の得意な分野があるように、向いている仕事があるように、たまたま私達はホスピスケアと言う仕事に魅力を感じ、楽しみ、自分の持つ能力を発揮することができるだけなのです。ただ、それが少数派で、ちょっと特殊なのかもしれないですが。
[2014/05/14 22:22] | つぶやき | トラックバック(0) | コメント(0)
ちょうちょ
 蝶はホスピスのシンボルです。End of Life (人生の終焉)が、青虫がさなぎになり、そして蝶になって飛び立っていく変貌の過程に似ているからだそうです。(そう、それで、このブログのデザインも蝶々なんです。)
 ジューンさん(仮)を初めて受け持ったのは、娘の産休から復帰したすぐあとでした。彼女は70代の元幼稚園の先生で、私の義母に少し雰囲気が似ていました。すい臓癌の診断を受けたばかりで、化学療法を始めるにあたり、PICCライン(ピック:末梢静脈挿入型中心静脈カテーテル)を挿入し、私は主にピックの管理をする為、週に一回訪問していました。(その時はホスピスではなく、パリアティブケアでした。)
 ジューンさんは、引退した警察官のご主人と二人暮しで、二人ともとても穏やかで、仲が良く、そんなところも私の義父母を思わせました。ご主人は、近所の小学校の登下校時に交通整理をする、“みどりのおじさん”のボランティアをしていました。お二人には娘さん二人と息子さんが一人いて、三人ともわりと近くに住んでおり、しょっちゅう手伝いに来ていました。ジューンさんは、化学療法も順調で、副作用も軽く済み、ピックラインのケア以外は特に問題もなかったので、雑談をする事も多く、特に私の子供達のエピソードを聞くのを、とても楽しみにしてくれていました。ジューンさん達もまた、ご家族の事をよく話してくれました。そうして、娘さんの一人と息子さんが、癌の治療を受けている事や、お孫さんの赤ちゃんが超未熟児で、3ヶ月も入院していた事なども知ったのです。
 ジューンさんは、すい臓癌のほかにも、心臓の持病があり、訪問看護を受けている間にも、心臓の処置などで、何度か入院しました。そして、退院するたびに、私が訪問看護師として再訪し、パリアティブケアで足掛け3年半も受け持ったのです。しかし、何かが起こり、退院するたび、少しずつ、彼女は弱っていきました。
 ジューンさんは、いつも息子さんと娘さんの病気の事を心配していました。娘さんは乳癌、息子さんは大腸癌でした。幸い二人とも手術で取り除く事ができたので、あとは治療をしながら転移や再発がない事を祈るだけでした。自らもそうして闘病しながら、それでも必ず両親を手伝いに来てくれる子供さん達に、ジューンさんご夫妻は、いつも感謝していました。地道に働き、家庭を守り、愛情をかけて子供を育て、質素ながら清潔で品のある暮らしをしてきた、ごく平凡な夫婦でしたが、それが実は何よりも大切で、価値のある人生だという事を、お二人は知っていました。
 そんなジューンさんにも、ついにホスピスを選ぶ時が来ました。癌は肝臓と腎臓にも転移し、ある時を境に急激に悪化していったのです。少しずつホスピスの話はしていたので、彼女もご主人も準備はできていました。ホスピスケアにサインし、4年近く通ったリビングルームが病室になり、電動ベッドの中で、ジューンさんはあっと言う間に小さくなっていきました。そして、平日最後の訪問日に、うつらうつらしながら、ジューンさんは私に両手を伸ばしてきました。“ああ、これでお別れなんだな。”私は、ベッドに横たわる、小さく小さくなってしまったジューンさんを、そっとハグしました。すると彼女は、“Take care of your children(子供達を大事にね)"と言ったのです。まるで、母親が娘に言うように。その週末、家族みんなに見守られて、ジューンさんは安らかに息を引き取りました。
 半年後、ジューンさんのご主人と娘さん二人が、メモリアルサービスに来てくれました。式の後、私は待ちきれずに駆け寄ると、ご主人は私の名前を呼び、ギュッとハグしてくれました。ご主人は、少し痩せていましたが、お元気そうでした。私達は再会を喜び、お互いの近況を報告しあいました。それから、娘さん達が、メモリアルサービスの中で行った儀式(出席した家族が、亡くなった患者さんの名前を読みあげられた時に、正面のガーデンアーチに蝶の飾りを括りつけるもの)がとても象徴的だったと言い、ジューンさんが亡くなった時の事を話してくれたのです。
 「母は花が好きだったでしょ。元気な頃はよく庭の手入れもしていたんだけど、母が庭仕事をしていると、なぜかいつも蝶々が飛んできたのよ。それで、私たちはよく“マダムバタフライ”って呼んでからかってたの。それでね、母が亡くなった日、人の出入りが多かったから、ドアが開いたままになっていたのね。そしたら、どこからか小さな黄色い蝶がひらひら入ってきてね、まっすぐ父の所に来たの。その蝶はしばらく父の肩にとまってたんだけど、いつの間にか、またひらひら飛んで出て行ったの。私たちみんな、あれは母だって思ったわ。さよならを言いに来たんだって。」
 ジューンさんの魂が、蝶の姿になって飛び去ったのか、たまたまなのか、それは誰にもわからないし、わかる必要もありません。でも、そんな素敵な偶然も、見えない何かの力で起こるのであり、そこに意味を見出す事で、人はやすらぎを覚えたり、救われたりするのではないでしょうか。
 
[2014/05/08 18:04] | 忘れられない人々 | トラックバック(0) | コメント(0)
にほんご
 私が今の職場に就職した時、訪問看護部では唯一のアジア系、病院全体でも唯一の日本人でした。今は病院に二人も日本人のナースが働いており、フィラデルフィア近辺で働いている日本人ナースの数もずいぶん増えました。しかし、訪問看護、特にホスピスケアをしている日本人ナースは少ないようで、いまだにうちの訪問看護部では、日本人は私だけです。
 初回訪問では、まず、電話をして訪問時間を確認するのですが、その時に名前を言った時点で、すでに相手の戸惑いが伝わってきます。そして実際に会ってみると、往々にして“中国人?韓国人?”ときかれます。たまに“出身は?”と訊かれたり、ごく稀に、“日本人?”と言われる事もあります。そういう人は、たいてい日本に行った事があったり、日本人の知り合いがいたりする人で、大体名前で判断するようです。どちらにしても、私が日本人だとわかると、殆どの人が好意的な反応を示してくれます。日本に縁があった人も年代によって、終戦直後だったり、仕事で日本に行った事があったり、軍隊の基地にいたことがあったりと、知っている日本はさまざまですが、その人達に共通しているのは、みんないくつかの日本語を覚えていること、日本人がどんなに親切でまじめな人たちか、日本がどんなに美しい国であるか、と言う事を話してくれることです。もちろん、日本人の私に向かって、わざわざ悪い事を話す人もいないとは思いますが、そんな風に、自分の国に良い印象を持っていてもらえるのは、素直にうれしいものです。同時に、ここで私がその印象に傷をつけたらどうしよう、と、なにやら日本人を代表しているような気にもなってきます。
 時々70代以上の韓国人で、英語を話さない患者さんに会うことがあるのですが、私が日本人だとわかると、日本語で話し始める人もいます。そういう人は、とても丁寧な日本語を使うのですが、私としては複雑な気持ちになります。人それぞれに歴史があり、思い出は一人一人のものなので、一概には言えませんが、やはり辛い記憶であるだろう日本語を、懐かしそうに話してくれる人に会うと、時間の力とか、人の心の深さというものに無限の大きさを感じます。
 一度、戦争花嫁でアメリカに来た日本人の女性を受け持った事がありました。ご主人は、私が日本人だとわかると、天の助け、と言わんばかりにすがりついてきました。「日本語で話してやってください。この頃、何を言っているのか、よくわからないのです。」その女性は、かなり衰弱しており、ベッドから起き上がる事もできなくなっていました。私が「こんにちは」と言うと、信じられない、と言うように私の顔を見ました。「日本人の方ですか?」「そうです。日本人です。」彼女は、“ああ”と言うと、とても安心したように私の方に手を伸ばしました。日本語が全くわからないご主人は、ずっと横に立って、奥さんの様子を見ていました。私は、彼女の手を取ると、日本語で自己紹介をし、アセスメントも全て日本語で行いました。彼女はきれいな日本語で、「こういう事をですね、皆さんはどんな風に仰るのでしょうか。なにかしらね、上手く言えないんですよ。ですから、主人も困ってしまいましてね、申し訳ないんですよ。」と言うと、言葉に詰まってしまいました。50年以上もアメリカに住み、英語を使って生活してきたのに、一番辛く助けが欲しい時になって、一番わかってもらいたい人に、気持ちを上手く伝えられない。そんな思いが、一気にこみ上げてきてしまったのでしょう。私の手を取ったまま、さめざめと泣く奥さんを見て、ご主人は気の毒なほどおろおろしていました。私は彼に奥さんが言った事を訳すと、ご主人は奥さんの頭をなでながら、“I'm sorry, I'm sorry”と言って泣きました。
 言葉がなくても伝わる事は沢山あります。しかし、言葉が持つ力も、やはり大きいのです。アメリカで、日本人ナースとして働いていて、分が悪いな、と思う事は沢山あります。けれど、日本人の私だからこそできる事もあるのです。沢山いるホスピスナースの中で、よりによって外国人の私が担当になってしまった人達に、“あなたでよかった”と思ってもらえるよう、自分の中の“日本人”を失くさないでいたいと思います。

 
 
 
[2014/05/01 12:11] | つぶやき | トラックバック(0) | コメント(0)
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ラプレツィオーサ伸子

Author:ラプレツィオーサ伸子
アメリカ東海岸で在宅ホスピスナースをしています。アメリカ人の夫、子供3人、犬一匹と日々奮闘中。

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2冊目の本がGakkenから出版されました。 「それでも私が、ホスピスナースを続ける理由」https://gakken-mall.jp/ec/plus/pro/disp/1/1020594700 「ホスピスナースが胸を熱くした いのちの物語」と言うタイトルで青春出版社から発売されました。 http://www.seishun.co.jp/book/20814/

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