ホスピスナースは今日も行く 2014年04月
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ホスピスナースは今日も行く
アメリカ在住日本人ナースが、ホスピスで出会った普通の人々の素敵な人生をおすそわけします。
出会い
 私が住んでいる地域は、アジア系(中国、韓国、インド、バングラディッシュ、ベトナム、フィリピンなどなど)がわりといて、それぞれ小さなコミュニティーを作っています。そんな中、日本人はと言うと、駐在の方、国際結婚の方、留学からそのまま残って仕事をしている方など、結構いるはずなのですが、親しく付き合いがあるのはだいたい同世代に限られてしまい、外では滅多に会うことがありません。近所にあるアジア系スーパーマーケットに行っても、飛び交うのはわからない言語ばかり。ところが、世間と言うのは意外と狭いもので、ある時、こんな偶然があったのです。
 何年も前の事ですが、私がそのアジア系スーパーの冷蔵棚の前で、厚揚げか何かを選んでいた時、「日本人の方ですか?」と声をかけられました。振り向くと、小柄な老婦人が立っており、「はい、そうです。」と答えると、「何かね、日本の物を見ておられたようなので、もしかしたらと思ったんですよ。」と、きれいな日本語で話し始めたのです。その人は、美智子さん(“美智子様のミチコよ”、と教えてくれました)と言って、今はここから北に60Kmほど行った、アレンタウンと言う町に住んでいるのですが、娘さんがこの近くにいるため、時々お孫さんのベビーシッターをしに来るという事でした。しかもこの辺は昔住んでいたので、とても懐かしいのだと、嬉しそうに話してくれました。彼女は戦後、日本で会ったアメリカ兵と結婚して渡米し、娘さんも生まれたのだけれど、いろいろあって別れてしまい、でもお互い再婚して、それぞれの家族と幸せに暮らしているという事でした。最初の旦那さんは、何度も表彰された優秀な警察官だったとも教えてくれました。「ほら、Hストリートってあるでしょ、あの角の石造りのお家に住んでいたのよ。あの通りの名前は、彼のラストネームからとったのよ。」
 冷蔵棚の前で、しばらくそんな立ち話をしてから、美智子さんは「久しぶりに日本語を話せて嬉しかったわ。お時間とってしまって、ごめんなさいね。」と言うと、話の中で偶然にも発覚した共通の知人(日本語の上手なアメリカ人)にも、是非よろしく伝えてくれ、と言ってから、連絡先も交換せずに別れました。
 それから半年ほどたった頃、私はホスピスの初回訪問で、フィリップさん(仮)に会いました。彼は末期のうっ血性心不全でしたが、背が高く、80代にしてはがっちりとした体格をしていました。しかし、体力はなく、静かにリクライナーに座っており、奥さんと娘さんがかいがいしく世話をしていました。途中からシェフをしている息子さんや、近くに住んでいるフィリップさんの弟さんもやってきました。初回訪問だけでも、フィリップさんがいかに人望の厚い、家族に愛されている人かということが充分にわかりました。壁には彼の受けた数々の表彰状や楯が飾ってあり、社会的にも功績のある人のようでした。
 訪問を終え、帰り際に、奥さんがふと、「あなた、出身は?」と訊いてきました。「日本人です。」と答えると、ぱっと顔を輝かせて、「そうじゃないかと思ったのよ!私の娘も半分日本人なのよ!」と言ったのです。一瞬、言われた意味がわからず、何か聞き間違えたのではないかと思い、思わず「は???」と聞き返してしまいました。フィリップさんも奥さんも、どう見ても西洋人で、そこにいる娘さんも金髪碧眼の典型的な白人で、一体どこに日本人の血が混じっているのか、きっと、その時の私の顔には?マークが張り付いていたのでしょう。娘さんが笑いながら、「そりゃわからないわよね。私の父は再婚で、父の最初の奥さんが日本人だったのよ。だから、私の姉が半分日本人だって言う意味なの。」と説明してくれました。「でもね、“アンティーミチ”(ミチおばさん)は今でも仲良しだし、私たちは彼女の作るお料理が大好きなの。」そう言った所で、タイミング良くその“半分日本人”の娘さんがやってきたのです。奥さんが、「この子、この子よ!」と紹介してくれ、その娘さんも、なにやら盛り上がっているけど、何々?という感じで会話に参加してきました。そして、話の流れで、そのアンティーミチはアレンタウンに住んでおり、娘さんは私の隣町に住んでいる、と言う事が判明した時、私の頭の中で何かがクリックしたのです。“ん?ミチ?アレンタウン?娘はノースウェールズ?そういえば、彼のラストネームはHストリートと同じではないか!!”
 「もしかして、アンティーミチの名前って、“ミチコ”って言うんじゃないですか?」「そうだけど?」「もしかして、これくらいの身長で、眼鏡をかけていて、XXさんって言う知り合いがいて、昔Hストリートの石の家に住んでました?」「そうよ!!どうして知っているの??」「その人、私、半年前にスーパーで話したことがあります!」
 奥さんと娘さん達は、“Oh my God!!”を繰り返しながら、私をフィリップさんの所へもう一度引っ張って行くと、彼に向かって言いました。「彼女、ミチに会った事があるんですって!ノースウェールズの家も、知っているんですって!」うとうとしていたフィリップさんは、奥さん達の勢いに驚きながらも、「そうか、そうか」と嬉しそうに言うと、「あの家は古いファームハウスで、私がいろいろ手直ししたんだよ。」と懐かしそうな眼をし、それから奥さんの手を取ると、もう一度「そうか、そうか」と言いました。思いがけない偶然に、一家は興奮していました。この家族にとって、美智子さんの存在は、何か特別なものだったようで、私はその時、半年前のあの短い出会いが、もしかしたら、ただの偶然ではなかったのかもしれないな、と、なんとなく思ったのです。
 
[2014/04/25 11:25] | ホスピスナース | トラックバック(0) | コメント(0)
記念日
 患者さんの最後が近づいてくると、家族にとってどうしても気になるのは“いつ”なのかと言う事。特にクリスマスや、誰かの誕生日が近いと、余計気を揉んでしまうものです。それはもう、誰にもどうしようもない事なのですが、やはり、毎年お祝いをする日には、できるだけ命日は重ならないでほしい、と思う人は多いのです。
 私の義母は、折につけ必ずカードを送ってくれる人で、子供5人、その配偶者、孫12人、ひ孫3人の誕生日、クリスマス、サンクスギビング、イースター等の祝日はもちろん、結婚記念日まで、私の記憶にある限り、一度も欠かしたことがありません。反対に、私はと言うと、さすがに家族の誕生日は忘れませんが、結婚記念日となると、お義母さんから届いたカードを見て思い出す始末で、一度などは、すっかり忘れて、職場の同僚と飲みに行ってしまい、夫と子供達はピザで晩御飯を済ませたときもあったほどです。もちろん、夫は憶えていたのですが、私が飲みに行ってもいいかと訊いた時も何も言わず、帰ってきてテーブルの上に飾ってある花を見てやっと、“そういえば今日は...”と気付き、平謝りしたものです。
 季節ごとの行事も忘れがちで、お雛様やこいのぼりも、子供達が小さい時は飾っていましたが、それでも2,3日前に思い出し、大慌てで出すテイタラクで、家の中の飾りつけも、ハロウィーンやクリスマスは娘にひっぱられて重い腰を上げますが、あとは年中変わり映えしません。これは、忙しい、と言うよりもただ面倒くさいわけで、私の中にそういうパッションがないのです。当然夫の実家では、季節ごとに壁の絵や置物を替えていて、私はそれがとても好きなのですが、なかなか自分では出来ないものなのです。
 そんな私を知ってか知らずか、私の祖母は、私達の結婚記念日に亡くなりました。96歳で、まさに大往生でした。大正生まれの女学校を出た才媛で、大学教授の祖父と結婚してから戦中、戦後を生き抜き、4人の子供を育て上げ、舅、姑の世話をし、還暦を過ぎてから日本舞踊や句会、鎌倉彫、油彩画、などの趣味を楽しみ、祖父を看取り、晩年は娘夫婦と同居し、最後は枯れるように亡くなりました。私の夫とも、一生懸命英語を使って話そうとし、最後に会った時は、私たちに賛美歌を歌ってくれました。幼かった子供達はひいおばあちゃんの部屋の炬燵にもぐりこみ、おやつを食べながら一緒にテレビを見るのが大好きでした。
 東日本大震災の時は、祖母は入院しており、殆ど眠っている状態だったので、あの恐怖を経験しなくて済みました。そしてその一ヵ月後に亡くなったのです。ホスピスナースとして、数え切れないほどの他人を看取ってきたにもかかわらず、肉親である祖母を看取る事はできませんでした。
 祖母が亡くなった知らせを受けた時、フィラデルフィアでは桜が咲き始めていました。私は昔、祖母がまだおそらく60代だった頃、一緒に桜を見ながら言った事を思い出しました。「あと何回これが見れるかしらねえ。」
 今年は冬が寒く、長かったので、祖母の命日の桜は固い蕾でした。でも、祖母のおかげで、以来、結婚記念日と命日を一緒に祝う事ができるようになりました。私にとって、祖母の命日は、彼女の思い出を夫や子供達と話す日であり、家族のスタートとなった私達の記念日を、改めて心に刻む日なのです。
[2014/04/17 10:20] | つぶやき | トラックバック(0) | コメント(0)
産みの苦しみ
 下世話な話です。ホスピスケアの中で、痛みのコントロールと言うのは、とても大きな位置を占めるのですが、そのために、かなりの割合で麻薬を使います。そして、麻薬の副作用のなかで、ほぼ確実に起こるのが、“便秘”なのです。ですから、痛みのコントロールと便秘対策は、常に切っても切れない関係なのですが、疾患によっては、これがとても難しい場合もあるのです。
 その患者さんは50代の男性で、とてもきれいな奥さんと二人暮しでした。DINKS (Double Income No Kids)を絵に描いた様なカップルでしたが、ご主人が多発性骨髄腫と言う病気になり、治療の甲斐もなく、ホスピスを選ぶようになった時点で、奥さんは介護休暇をとっていました。ご主人は自宅でビジネスをしており、私が訪問を始めた時も、まだ仕事をしていました。二人とも無口で、特にご主人は“君は、余計な事は聞かず、君の仕事をちゃんとやればいい”と言う人でした。もともとの性格もあるのでしょうが、バリバリ仕事をしていた働き盛りの男性が、思いがけない病気になり、自分より年下のホスピスナースの訪問を受けるようになるなど、簡単には受け入れられなかったのだと思います。そして、奥さんも、ずっとお互いに自立した共同生活をしてきたのに、こうして自分は仕事を休み、彼の世話をするようになるなどとは、夢にも思わなかった事でしょう。
 多発性骨髄腫と言うのは、血液の癌の一種で、骨の痛みを伴い、また、骨がもろくなる為、脊椎の圧迫骨折が起こる事がよくあります。そうなると、痛みだけでなく膀胱や直腸障害が起こり、排尿や排便のコントロールが出来なくなります。彼の場合も、痛みがひどく、かなりの量の麻薬を使っていました。ところが、不思議な事に緩下剤も飲まないのに、きちんと毎日お通じのある人で、私も“うわあ、ラッキーですね”、などと感心していたのです。ただ、下半身が弱くなってきているし、圧迫骨折は横になっていても起こるので、楽観は出来ず、本人や奥さんにも、病気の進行に伴う症状は説明していました。そして、やはり、“便秘問題”は発生してしまったのです。
 ある日を境に、彼は座る事ができなくなりました。背の高い人だったので、電動ベッドのフットボードに、足がくっつきそうでした。いつものように、“最後にお通じがあったのはいつですか?”と訊くと、“二日前”と、むっとしたように答えました。早速緩下剤をはじめる事にしましたが、本人も奥さんも、ベッド上でコトを済まさなければならない事に、かなり不安を感じているようでした。二人にはお子さんがいなかったので、下の世話に免疫がなく、しかもいきなり大人バージョンとなると、奥さんは、内心パニックになっていたと思います。私は、ベッドのポジション、必要物品、手順、などを、できるだけリアルに説明しました。万が一の為、おむつの当て方もぬいぐるみを使って説明しました。本当は、本人で実演したかったのですが、一言、“NO!”で却下されました。緩下剤の用量も、“何錠飲んで、効果がなければ、何錠に増やして、云々”という説明を詳しく紙に書き、“それでも効果がなければホスピスに電話してくださいね”と念を押しました。奥さんは少し緊張しながらも、“分かった”と言って、ご主人を見ました。彼はじっと目を瞑っていました。それが木曜日の事でした。
 奥さんから“まだ便が出ない”と、ホスピスに電話があったのは、土曜日の夜でした。翌日、看護師が訪問し、グリセリン浣腸をしたのですが、あまり効果がなかったらしく、月曜日に私が訪問すると、開口一番“何とかしてくれ!”と叫ばれたのです。
 実はその時、私は娘を妊娠しており、臨月に入っていました。私は奥さんに、お湯とタオルを用意するように頼み、腕まくりをし、使い捨てのガウンを着ると、手袋を二重にはめました。彼のおなかはパンパンに張り、ちょっとやそっとの便秘ではなかったのです。私と奥さんはベッドを挟んで向かい合い、まるでこれから手術を行う執刀医と助手のようでした。温かいタオルでおなかを暖め、マッサージをし、奥さんが腰をさすり、タイミングをみて摘便をし、それからおなかを押しながら「ハイ、押してー!!」。これを延えんと続けたのです。「息すってー」「ハイ、止めてー」「ハイ、押してー!」こんなコトを繰り返しているうちに、私の頭の中には、あるイメージが浮かんできました。ふと見ると、ご主人の腰をさすりながら、奥さんの肩が微妙に震えているのに気が付きました。“もしかして...”と思った時、彼女と目が合いました。その瞬間、二人同時に吹き出してしまったのです。「これって、来週か再来週には、あなたが言われている台詞よねえ!」
 便秘で苦しんでいる夫を前に、大きなおなかを抱えながら“ハイ、押してー”と叫ぶナースの姿は、やはりちょっと滑稽であり、一度たがが外れた奥さんは、もうひたすら笑っていました。私も、不謹慎とは思いつつ、一緒に大笑いし、ついにご主人に“笑うな!”と怒られ、“すいません”と言いながら、それでもしばらくの間、二人で笑いころげたのでした。
 
 
[2014/04/10 23:15] | ホスピスナース | トラックバック(0) | コメント(0)
五つの言葉
 ホスピスナースになりたての頃は、一回一回の訪問が勉強で、あの頃私の受け持ちになった患者さん達のことを思うと、申し訳ないような、穴があったら入りたいような、複雑な気持ちになります。同時に、新人で、比較的若く(随分長い間、チームの中で一番年下でした)、しかもRとLの発音の区別もおぼつかない外国人の私を、よく文句も言わずに受け入れてくれたものだと、ありがたく思わずにはいられません。16年目に入った今でも、RとLはいまいちですし、毎回何かを学ぶ事に変わりはありませんが、それでも、患者さんや家族に、プロのホスピスナースとして話せるようにはなりました。
 私が働き始めた頃は、クリントン政権が提唱したヘルスケア改革の為、今のオバマケアほど酷くはありませんが、それでも医療業界はコスト削減のために右往左往し、小さな病院はどんどん大病院に吸収されていった時期でした。それでも、ホスピスケアは他に比べてお金がかからない事もあってか、あまり制限はされませんでした。ですから、新人教育にもお金と時間をかけることができ、私も、フィラデルフィアにある癌センターで、四日間の“ホスピスとパリアティブ(緩和)ケアのためのセミナー”に参加させてもらえました。
 そのセミナーでは、医師、看護師、薬剤師、ソーシャルワーカー、チャプレン達による、ホスピスにおける、あらゆる面からのアプローチについての話を聞くことが出来ました。その中でも強く印象に残ったのが、ホスピスとパリアティブケアでは有名な、アイラ・バイオック先生の講義でした。
 バイオック先生の講義の焦点は、“よく死ぬ”ことでした。日本でも、アメリカでも、おそらく多くの文化圏でも同じだと思いますが、“死”そのものが、究極の“よくない事”として位置づけられていると思います。ただし、日本では「大往生」という言葉があるように、ある意味、“よい死”という概念もあります。「大往生」を辞書で引くと、“少しの苦しみもなく安らかに死ぬ事、又、立派な死に方であること”とあります。一般的には、高齢で、天寿を全うした方に使われる言葉ですが、実はこれがホスピスのゴールでもあるのです。つまり、年齢に関わらず、天寿(与えられた寿命)を全うし、苦しまずに安らかに死ぬ。そして、サンダース女史の言う、「その人が死ぬのをケアするのではなく、死ぬまで生きるのを支える」のが、ホスピスナースの役割。
 その講義の中で、バイオック先生は、“死ぬ前に言っておきたい五つの言葉”について話されました。それは、「私を許してください(Forgive me)」「あなたを許します(I forgive you)」「どうもありがとう(Thank you)」「愛しています(I love you)」「さようなら(Good bye)」の五つでした。日本語にするとなんとなく照れくさくなる言葉なのですが、アメリカ人でもなかなか正面切っては言いにくいことなのかもしれません。でも、だからこそ、死んでいく者、残される者が、お互いに伝え合うべき言葉なのではないでしょうか。
 この五つの言葉は、以来、いつも私の意識の片隅にありますが、実際に患者さんや家族に話したのは、ほんの数回です。多くの人たちは、私がきっかけを作らなくても、自然に伝えるべき事を知っています。ただ、そのタイミングが分からないだけなのです。ですから、そのタイミングを逃さずにすむよう、言いにくいことを言えるようになった時、プロのホスピスナースに一歩近づいたかな、と思ったものです。
[2014/04/04 10:33] | ホスピスナース | トラックバック(0) | コメント(0)
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ラプレツィオーサ伸子

Author:ラプレツィオーサ伸子
アメリカ東海岸で在宅ホスピスナースをしています。アメリカ人の夫、子供3人、犬一匹と日々奮闘中。

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2冊目の本がGakkenから出版されました。 「それでも私が、ホスピスナースを続ける理由」https://gakken-mall.jp/ec/plus/pro/disp/1/1020594700 「ホスピスナースが胸を熱くした いのちの物語」と言うタイトルで青春出版社から発売されました。 http://www.seishun.co.jp/book/20814/

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