![]() ここ2ヶ月ほど、このブログに書きたいエピソードはあるのに、なかなか筆が進みませんでした。仕事が忙しいとか、あれやこれややらなきゃリストがあるとか、読みたかったシリーズの本を一気に借りてしまったとか、言い訳は諸々あるのですが、それらは今に始まったことでもなく、では、どうしてこうも気持ちが集中しないのかな、と考えていたのですが、朝、犬の散歩をしていて、ああ、そうか、と気が付いたのです。
6年前の夏、あるお母さんと息子さんとの出会いを、「やさしさの輪」http://gnaks.blog.fc2.com/blog-entry-183.htmlというエピソードに書き、その4年半後、その後日談を「ありがタイのおすそわけ」http://gnaks.blog.fc2.com/blog-entry-261.htmlというエピソードに綴ったのですが、このお母さんと息子さんの物語には、もう少し続きがありました。 さちえさんと出会った6年前に14才だった息子さんは、今年20歳になりました。脊髄性筋萎縮症(SMA)という難病で、その中でも重症のタイプだった彼は、専門医から最初の誕生日を迎えることはできないだろう、と言われたそうです。そんな彼を、さちえさんは人生のすべてをかけて守り、育てました。彼女が病に倒れるまで、息子さんはお母さんと一緒に自宅で暮らしていたのです。彼が14歳まで数えきれないほどの難関を乗り越えながら、その素晴らしい人生を楽しむことができたのは、ひとえにお母さんであるさちえさんの愛情が起こした、奇跡でした。 その彼が、あのパンデミックをも乗り越え、とうとう20歳という、人生の大きな節目を迎えたのです。医療的ケア児専門のケアホームに居られるのは、あと2年という年齢でした。そんな、記念すべきマイルストーンをお祝いするバースデーパーティーに、私も招待されたのです。 五月雨のそぼ降る土曜日、あいにくの非ピクニック日和になってしまったにもかかわらず、ケアホームからほど近い公園にあるガゼボには、さちえさんと息子さんをよく知る人たちが大勢集まっていました。さちえさんのお葬式に仕事で参列できなかった私は、そのほとんどの人達を知りませんでした。それでも、自己紹介がてらさちえさんとの出会いを話すたび、どの人も不思議な縁と偶然に驚き、私が2人の人生にほんの少しでも関われたことを喜んでくれました。やがてケアホームのバンが到着し、呼吸器をつけ、車いすに乗った息子さんが、ケアホームのスタッフ2人に付き添われて、やってきたのです。 彼のいるケアホームは、私の家から数ブロックという、歩いて5分もかからないところにあり、さちえさんが亡くなってから、時々日本語の絵本を持って、会いに行っていたのですが、パンデミック以来すっかり不義理をしてしまい、彼に会うのは5年近くぶりでした。当然のことながら、20歳になった彼は、すっかり青年らしくなっていました。 パーティーの進行役をしていた教会の牧師さんの音頭で、参加者みんなが彼の大好きなビートルズのHere Comes The Sunを歌い、みんなそれぞれ彼と一緒に写真を撮り、持ち寄ったごちそうや、息子さんの後見人で、このパーティーの企画や準備を全て取り仕切ったEさんが用意した大きなバースデーケーキを食べながら、この奇跡の日を心から喜び、お祝いしました。私の知らない、元気だった時のさちえさんや、赤ちゃんだった息子さんの成長を支えた人たちに混じり、彼に日本語で話しかけながらも、なぜか、私は場違いなところにいるという違和感はなく、ただただ、この奇跡的な空間に立ち会わせてもらえたことに、感激していました。 ちょうど、Eさんと共にさちえさん親子に深くかかわり、当時、私との連絡係をしてくれたDさんと話していると、Eさんがやってきました。そして、たくさんのバースデーカードのうちの1枚を私たちに差し出しました。Eさんは、「お話し中、ごめんね。でも、どうしてもあなたたちに見せたくて...。これ、Sachieのお姉さんから送られてきたカードなんだけど...」と言って声を詰まらせました。 甥っ子の20歳の誕生日にと、日本の伯母さんから届いたカードには、お誕生日を祝うメッセージに加え、こう書いてありました。 『これは、さちえが○○(息子さんの名前)のために用意していた、最後のカードです』 そのメッセージを見た途端、私もDさんも思わず口を覆いました。そして、涙が溢れ、止めることができませんでした。自分の命の限界を知り、自分のいない世界で生きる息子のためにバースデーカードを準備した時のさちえさんの思い。誕生日を迎えることはできないと宣告された我が子の、20回目の誕生日まで、カードを送り続けた母の願い。その、強くて深い愛情は、彼女がこの世から去った後も、息子さんを守り続けていたのです。私たち3人は、そんなさちえさんの愛と、無念と、悲しみと、祈りに打ちのめされていました。 そんな、心の中に小さな鈴を残されたパーティーから2週間ちょっと経った頃、牧師さんから電話があったのです。牧師さんは、○○君が入院しており、今回ばかりは奇跡を起こすことはできないようだとおっしゃり、そのことを日本の伯母さんに日本語で連絡してもらえないか、と頼まれたのです。それはまるで、そこにあるとわかっていた穴が、もう少し先だと安心して歩いていたら、突然目の前に現れたような衝撃でした。正直に言うと、さちえさんに出会ってから、いつか、○○君がホスピスに依頼されてくるのではないか、という思いが常に心のどこかに潜んでいたのですが、ずっと蓋をして、忘れたふりをしていたのです。 牧師さんは、詳しいことはEさんがもっと良く説明できるので、まずEさんと話してほしいと、彼女の電話番号をくれました。すぐに電話をすると、Eさんは○○君があのパーティーの1週間後に発作を起こし、いつもの薬が効かなかったため、地元の病院に運ばれたけれど、そこでもコントロールしきれなかったため、フィラデルフィアの大学病院にヘリで搬送されたと説明してくれました。そして、その発作の原因が意外なところにあったことが判明し、残念ながら、それを修復、再生することは不可能だったのです。そしてそれは、彼の命をつなぐためには、どうしても欠かすことのできないものでした。 Eさんによると、すでに緩和ケアチームによって、彼が苦しむことはないように症状はコントロールされており、その日も彼はいつもの彼らしく、飄々としていたそうです。しかし、これ以上の延命治療をすることはさちえさんが望んでいたことではなく、Eさんは○○君の後見人として、さちえさんの遺志を尊重した決断をしたのでした。そして、その決断と、その決断に至った過程を、日本にいるさちえさんのご家族に、日本語で説明してほしいのだ、ということでした。もちろん、Eさんからも連絡はするけれど、やはり英語のみのコミュニケーションでは、どうしても誤解や齟齬が生じてしまうため、それを避けるための通訳が必要だったのです。 さちえさんのお姉さんは、ほんの3週間前の嬉しいニュースから一転した知らせに、ショックを受けながらも、Eさんの決断に異存はなく、ただ、○○が苦しまないことだけを祈っている、との返事でした。さちえさんのご家族は、20年前から、覚悟はできていたのです。そして、彼を愛したすべての人達の祈りは神様に届き、彼はEさん、Dさん、そして父方のおばさんに見守られ、苦しむことなく、天国のお母さんのもとへと旅立ったのでした。 あまりにも急な展開でしたが、彼の身体的な状態を考えると、3週間前のパーティーに来たことこそが、まさに真の奇跡でした。あの日の彼は、誰が見ても、パーティーを楽しんでいました。唯一自分の意思で動かせる左手の指が、それを物語っていました。あのパーティーは、さちえさんと息子さんが、どれほど愛されていたかを痛いほど感じさせる、人々の優しさと慈愛に満ちていました。彼はきっと、お母さんが彼のために用意してくれたバースデーカードを、最後の1枚まで見たかったのでしょう。もしかしたら、それがさちえさんからの、「よく頑張ったね、もうこっちに来てもいいんだよ」という、合図だったのかもしれません。 さちえさんや息子さんにとっては、私の存在など記憶の隅にも残らないものだったでしょう。しかし、私にとっては忘れることのできない人達であり、同時に、パンデミックを言い訳に、さちえさんが亡くなった時に立てた、自分への誓いを果たさなかったという、心のシミでもありました。そして、先日の朝、我が家の老犬が珍しく散歩の足を延ばし、○○君がいたケアホームの前を通った時に、あのパーティーでもらった心の鈴が、チリンと音を立てたのです。その時、そうだ、私はこの母子の物語を、私からの視点でしかないけれど、それでも最後まで書かなければならないんだ、と気が付いたのです。 今日は、七夕。もうすぐ、さちえさんの七回忌です。織姫と彦星とはちがい、さちえさんと○○君は、これからはもう離れることはありません。天国で、彼は自由に話したり、駆けまわったりするのでしょうか? 大人になって、声変わりした息子さんの声を、さちえさんは天国で聞くことができるのでしょうか? 『○○君の、「お母さん」という声を、さちえさんが聞けますように』 それが、私の今年の七夕の願いです。 ![]() |
![]() 2年ぶりに、2週間ほど、娘と二人で日本に一時帰国してきました。今回は、娘の二十歳の記念写真を撮影することと、北海道の次男に会うこと、そして、父のやや遅めの納骨とやや早めの三回忌の儀を行なうことが、主な目的でした。そして、北海道旅行中以外の私たちの宿泊先は、母がひとり暮らしをしている実家でした。
母には、何か月も前から、毎日の電話で、毎回、私と娘が日本に行くことは話していました。そして、最初のひと月ほど、「まあ、あなたたちがうちに来るの! 楽しみだわ!」という反応が続いた後、「そうだったわよね、来るって言ってたわよね、楽しみだわ」という反応になり、もうしばらくすると、「そういえば、あなたたちが来るのよね。もう少し近くなったら、詳しい日程を教えてね。準備があるから」という反応になっていきました。そして、ひと月ほど前になってくると、私が、「私たちの滞在準備は、兄がやってくれるから、布団などの心配はしなくてよい」と繰り返し話し、そのたびに納得するものの、母の緊張と不安が伝わってくるようになりました。 ところが、いよいよあと1週間ほどに迫ってきた頃、母は電話に出なくなりました。特に何かあったわけではなく、補聴器を失くしたり、補聴器の充電を忘れたり、テレビの音が大きすぎたりして、電話が聞こえないことはよくあり、週3回のヘルパーさんの訪問や、兄もチェックしているので、心配はありませんでしたが、その1週間で、せっかく今まで刷り込んできた「伸子たちが帰ってくる」という付け焼刃記憶が、ものの見事に消滅してしまったのです。 はたして、娘と私が到着した日、前日から兄や姪が準備していたにもかかわらず、”何も知らされていなかった”母は、喜びながらもかなり憤慨しており、気の毒な兄は、すっかり悪者にされてしまっていました。娘は、私から母の状態を知らされてはいましたが、しょっぱなから認知症あるあるに直面し、若干のショックを受けていました。しかし、すぐに、「言ったよ」が通じない、というよりも、それが母を傷つける言葉であることに気づいた彼女は、「おばあちゃん、ごめんね、サプライズだったんだよ」と機転を利かし、孫の優しい言葉に「まあ、それはとっても嬉しいサプライズだわ」と機嫌を直したのですが、それはほんの始まりにすぎませんでした。 毎週、兄は母のために一週間分のお惣菜を作り、タッパーにラベルを付けて冷蔵庫に入れていくのですが、今回は私たちの分まで用意してくれていました。しかし、母は私たちの夕飯や翌日の朝ごはんのことが気になり、数分おきに冷蔵庫の中を見せて、「ほら、お兄ちゃんがいっぱい作ってくれたから大丈夫だよ」と言っては安心する、というパターンをくりかえしました。それでも、深夜に何か音がすると思ったら、台所で母が山のようにニンジンとピーマンを細切りにしており、声をかけると、「朝ごはんの用意が何もなくて...」との返事。少なくとも、私たちが泊っていることは覚えていたということで、心の中で「お母さんに10ポイント!」としながら、これは、かなりの覚悟がいるな、と気持ちを引き締めたのです。ちなみに、ニンジンとピーマンの細切りを油で炒めたものは、母の常備菜で、遠足や運動会のお弁当のおかずは、いつもこれでした。母は学者の家の長女に生まれ、とにかく好きな勉強だけしていればよいと育てられ、高校の英語教師になり、結婚して家庭に入ってからも、家事よりもできれば本を読んでいたいタイプでした。料理は見た目や美味しさよりも、家族の健康を守るために、栄養価を何よりも重視していました。なので、山のようなニンジンの細切りを見た時、私の脳裏に浮かんだのは、「カロティン」という言葉でした。 それから私は、毎晩寝る前に、古いカレンダーの裏に、マーカーで翌日の日付、私たちの予定と、食事の用意はしなくても大丈夫だというメッセージを書いて、テーブルの上に置き、「朝ごはんと夕ご飯は冷蔵庫の中にあるので、作らなくて大丈夫」と書いた大きな紙を、冷蔵庫、流し台のまな板の上、炊飯器の上、台所のドアなどに貼ったのですが、それでも朝起きると、ゆでたホウレン草やブロッコリーが笊にのっていたり、「たんぱく質が足りないから、これ食べてね」というメモと一緒に、魚の缶詰が山積みしてあったり、テーブルの上の私のメッセージに、「わかりました。朝は苦手なので、おきてこなかったら起こしてね」と返事が書いてあったりと、毎朝新しい発見に満ちていました。 私たちの滞在をとても喜んでいた母ですが、それでも、普段のペースが乱れてしまうことは、かなりのストレスになっているはずでした。娘と私は、ほぼ毎日外出し、帰りが遅くなる日は玄関のドアに、「チェーンはかけないで」という紙を貼り、家で食事をする時でも、テーブルの上のメッセージには、必ず「食事はいりません」と赤いペンで書いていきました。兄が作り置きしてくれたお惣菜と、初日に母が炊いた5合近くのお米を、小分けにして冷凍していたので、それで十分だったのです。もちろん、出かける前に、母は何度も夕飯の有無を尋ね、私たちは何度も「いらないから、作らなくていいからね」と返事をしていましたが、当然、8時間後にはそんな事実はなくなっていました。 ある日の夕方、私たちが帰宅すると、母が雨戸を閉めようとして、うまくいかず、「もう、こんな時に限って、まったく...」と独り言ちながら怒っていました。母はコートを着ており、どこかへ出かけようとしているようでした。私たちが声をかけると、母は、かなり興奮しながら、スーパーで買い物をしたのだけど、カートを持っていくのを忘れて取りに来たのだ、だから早く戻らないといけないのに、雨戸が古くて閉まらなくて困っている、とまくしたてました。私は、自分が行くから、レシートを見せて、というと、ポケットからレシートを出し、ベルトについているお財布からも別のレシートを出しました。ひとつはコープ、もうひとつはビッグAというスーパーで、両方ともその日の日付でした。そして、ふたつとも内容はほぼ同じでした。しかも、それらはすでに、冷蔵庫の中にもびっしりと入っているものばかりでした。母は、モノを置いてきたのはビッグAだと言い、早く行かないと、と今にも飛び出さんばかりに焦っていました。私と娘は何とか母を説得し、母を娘に任せて、ふたつのレシートを握ると、まずは徒歩5分ほどのビッグAへ向かいました。スーパーに着き、大学生のような若い店員さんに、恐る恐る声をかけました。事情を説明し、レシートを見せると、「ああ...カートを取りに行ってくるって言ってた...」と心当たりがあるようで、脇に寄せてあったカゴを持ってきてくれました。私は、母が認知症であること、できれば返品できるものは返品したいことをお願いすると、幸いそれほど時間が経っていなかったため、「次回からは必ずどなたか付き添いをつけてください」と、ごもっともな注意を頂いただけで、全品返品してもらえました。私は何度も謝罪とお礼を言い、今度はそこからさらに徒歩5分ほどの、コープへ向かいました。コープでは、ベテランの女性店員さんが、おそらくよくあることなのでしょう、私の説明に全く動じることなく、「あら、今日はそういった置き忘れはないですよ」とさらりと答えてくれました。 ついさっき、娘とバスに乗り、楽しかった1日を語り合っていた道をひとり戻りながら、私は、ああ、つまり、こういうことなんだな、と、妙に感慨深い気持ちになっていました。こういうことって、どういうこと?と訊かれたら、うまく説明できないのですが、ようするに、生きるというのは、日常であり、日常とは生活であり、そこにはいつも小さな事件が何かしら起きていて、そして、そこではいろんな人のいろんな感情が交差して、毎日が同じようでも少しずつ違っていて、それを続けているうちに、いつの間にか年齢をかさね、老いていくのだ、というようなことで、祖母と母、母と私、そして、私と娘のつながりを思いながら、暮れなずむ懐かしい道を行く足を速めていったのです。 母の日常は今更ながら謎に満ちており、娘も「おばあちゃん、いつもどうやって生活してるんだろうねえ?」と不思議がっていました。さっきまであったモノが消えたり、かと思えばいろいろなモノがどこからともなく現れたりするのは日常茶飯事。ないものはあるもので代用し、それはそれで何とかなっており、それでも、可燃ごみは新聞紙でくるんでから指定の袋に入れるとか、電話では「庭の手入れなんて面倒だし、何にもしなくてもきれいよ」と言っていたわりには、ちょこちょこ枯れ枝を拾ったり、庭の花を洗面所やお仏壇に活けたりということを、さらりとやっているのでした。また、何でもメモする癖があり、テレビで見たり聞いたりしたことを、広告やカレンダーを切ったメモ紙に書いたものが、ありとあらゆるところに存在していました。そしてもちろん、それらはすべて、1分もしないうちに彼女の記憶からは消え去っていました。また、週3回来てもらっているヘルパーさんの存在は、母の中にはなく、兄が作ったお惣菜を見せても、「あら、妹が帰ってくると張り切ってそんなことするのね。あなたが来るまで、顔も出さなかったわよ」と言ったかと思えば、「あらまあ、そうなの? じゃあ、感謝しなくちゃね」と言ったりと、意見や感想もくるくると変わりました。 電話ではいつも、「首から下は元気だけど、ちょっとくらいボケたかもしれないわね。でもボケたら、自分がボケたってわからないんじゃないかしら? あなた、私と話していて、どう思う? ヘンだと思ったら、言ってね」と言い、私が、「そうだね、でも、言ったところでどうにもならないけどね」というと、「あら、謙遜して言ってるのに、ひどいわね」と言って笑い合っていましたが、実際には、自分の記憶力の衰えに不安といら立ちを感じており、それを自覚すると、時折パニックになり、自分の頭をボコボコ叩くこともありました。そして、パニックになると猜疑心も強くなり、テコでも動かなくなってしまうのでした。それでも、なんにでも一生懸命で猪突猛進、せっかちで天真爛漫な性格は変わらず、私たちにお茶を入れてくれようとして、急須が見つからず、なぜか湯飲みを4つ用意し、その一つにお湯を入れ、別の湯飲みに緑茶のティーバッグを入れ、そのお湯をもう一つの湯飲みに入れ替え、もうひとつの湯飲みを手前に戻して緑茶ティーバッグを別の湯飲みに入れ...というようなことを延々としている母に、「お母さん、何してるの? マジック?」と訊くと、「なんか、自分でも何してんだかわかんなくなっちゃったわ」と言って、2人で大笑いしたりすることもありました。 子どもの頃から母とはあまり反りが合わず、私は、高校を卒業したら家を出ようと決めていました。そして、結局海を越えて結婚してしまったのですが、物理的に距離をおいたことで、図らずも私の母に対する感情のトゲの先は少しずつ丸くなっていきました。アメリカで結婚してからは、2、3年に1度は家族で帰国していましたが、1度にとれる休みは2週間が限度で、それは母と私にとっても、お互い優しくいられる限界でした。1時間以内で行ける場所に住む両親に、1週間に1度は必ず電話をしていた親思いの夫とは逆に、私は「便りのないのはいい便り」とばかりに、誕生日や父の日、母の日、祝日や何かしらの用事がある時くらいにしか電話もせず、両親から電話がかかってくることも、めったにありませんでした。特に耳の遠い母は、電話が苦手だったのです。 それでも、両親が高齢になり、母の認知症が”ただの酷いもの忘れ”ではないことが如実になると、週に1度は電話をするようになりました。その頃は、どちらかというと父の苦行を聴く方が主で、以前のように忘れっぽい母を怒れなくなった父は、「まったくね、修行だよ、これは」と言って苦笑していました。 父の米寿のお祝いと、母が私たちのことを覚えているうちに、と、当時の職場の上司とすったもんだした末、2019年の暮れから2020年の年始にかけて何とか休みを取り、家族で日本へ行きました。まさに、コロナ禍に突入する直前で、今思うと、その半年前に、「この休みをもらえないなら、辞めます」というセリフを本気で言う覚悟で希望を出したのは、何かに引っ張られていたのかもしれません。その時の一時帰国で、母の認知症がかなり進んでいることを実感し、まだまだ元気ではあったものの、あちらこちら故障が出ていた父には、かなりのストレスになっていることは明白で、これからは年に1度は、1週間でもいいから帰国しようと決心したのでした。まさか、その数か月後に、世界が一変してしまうとは夢にも思わずに。 その時の母は、まだ自分の記憶の減退に気づくこともなく、父の健康や食事の心配ばかりしていました。父の米寿のお祝いの時は、孫娘たちのそれぞれの夫が認識できず、何度も私にこっそりと「あの方はどなた?」ときいてきました。それでも、レストランの従業員の人たちには、丁寧にお礼を言ったり、愛想よく社交辞令を言ったり、一見すると、普通の老婦人以外の何ものでもありませんでした。しかし、本人の中では、自覚さえできない異変を、どことなく感じ始めていたに違いありませんでした。 そして2年前、父が入院し、急遽帰国した時の母は、エピソード「父を看取る」で書いた通りです。まだ、父が退院して帰ってくる前のある晩、テーブルの上に、母が眺めていた岩合光昭さんの猫の写真集が、そのままになっていました。「死なれるのがかわいそうで嫌だ」という父の意向で、実家では小鳥以外ペットを飼うことはなかったのですが、子供の頃犬と猫を飼っていた母は、動物が大好きでした。アメリカの私たちのところに遊びに来るたび、母は我が家の犬をとてもかわいがり、「犬が飼えていいわねえ」と羨ましがっていました。 認知症が想像以上に進んでいただけでなく、父のことで輪をかけて不安が強くなっていた母は、心の声がダダ洩れで、私はほんの数日で‟そうだった、この人のこれがダメで家を出たんだった”と思い出し、しばし蓋をしていた母に対するチクチクした気持ちが蘇ってきていました。そんな時、出しっぱなしになっていた岩合さんの写真集が目に入ったのです。私は、椅子に腰かけると、写真集を手に取りました。表紙の写真から、すでに猫のかわいさ満載で、ああ、癒されるなあ、と思いながらページをめくると、ページの隅っこの余白に、母の字で‟いいわね、動物は”と書かれていました。 元教師で勉強好きの母は、昔から本を読む時に鉛筆で傍線を引いたり、余白に感想やメモを書く人でした。赤いペンで書かれたそのひとことは、母の素直な気持ちであり、母の独り言が聞こえてくるようでした。そうだよね、ほんとに、動物はいいよね、と同意しながらページをめくると、同じように、余白の隅っこに‟猫はいいわね、幸せね”と書いてあったのです。次のページにも、その次のページにも、そのひとことは書いてありました。私は、ページをめくるたび、猫に心を癒されながら、繰り返される母の‟いいわね、動物は”というつぶやきに、なぜか涙があふれて止まりませんでした。 若い頃から、何をするにもバタバタと慌ただしく、よく忘れ物をしていた母は、認知症になることをとても恐れていました。数学者だった母の祖父や、遺伝学者だった母の父は、晩年に認知症を患っており、自分は大丈夫、という祈りに近い気持ちと共に、もしそうなったら、という不安は常にどこかにあったのかもしれません。だから、そんな心配をしなくてもいい、ただ、自然と戯れ、おひさまの光に目を細め、あるがままでいられる猫が、羨ましかったのかもしれません。 私たちの滞在からひと月が過ぎ、もちろん、母にその記憶はありません。毎朝かける電話も、もはや逆ロシアンルーレット状態で、出たらラッキー、出なくても心配はしない、というスタンスにしています。それでも、電話に出た時は「あら、久しぶり、どうしたの?」と喜び、お互い元気なことを確認し、私の家族が元気なことを確認し、「あなた、これから仕事でしょ? 忙しい時にありがとうね」と感謝して切るのです。たとえ毎回同じ会話でも、たとえ毎回久しぶりでも、たとえ2分後には忘れてしまっても、その瞬間の喜びや感謝の気持ちは本物で、だから何度同じ言葉を繰り返したとしても、私も母と一緒に何度も喜び、彼女がまだ電話をとれることに感謝することにしたのです。 いつか、母が私のことを忘れても、その時に一緒に笑えれば、それでいい。楽しい瞬間があれば、それでいい。その瞬間こそが大切で、たとえ母が忘れてしまっても、私の記憶には残るのだから。 しかし、そんな暢気なことを言っていられるのは、私が遠くにいるからで、実際に母の日常の現実と対峙している兄の苦労やストレスは、かなりのものであるはずです。ましてや認知症の家族と同居している人たちは、想像以上に心身を削られていることでしょう。それでも、やっぱり、笑ってほしい。面倒だし、時間かかるし、頭に来るし、悲しくなるし、もうどうしてって、頭を抱えたくなる時もたくさんあります。でもそれは、認知症ワンダーランドの住人からすると、理不尽に怒られたり、イライラされたり、迷惑がられたりしているわけで、結局理由もわからないまま、悲しくなり、自己嫌悪になり、相手に対して怒り、パニックになってしまうのです。 だったら、怒っても仕方がないのなら、笑えばいいのです。たいていのことは、あとになって考えてみれば、そんなに大したことではないものです。だから、冷静になってから、ああ、怒ってしまった、と後悔するより、最初から笑い飛ばしてしまったほうが、よっぽどいいのです。きっと、父が言っていた「修行」とは、つまり、そういうことだったのだと思います。 どんな時でも笑えるようになる、修行。それは、認知症ワンダーランドの住人と上手にお付き合いするための、隠された秘技なのかもしれません。認知症になっても、人は、誰かの役に立ちたいし、プライドだってあるし、自分の存在意義を感じたいのです。誰だって、最期まで人間らしくありたいはずです。 この先、首から下は健康な母が、どれだけあの家で一人で生活していけるのかは、今はわかりません。もう何年も前、父と母は2人で、実家周辺にある老人ホームを何か所か見学に行っていました。母よりも年上の父は、おそらく自分が先に逝くであろうことを予測し、その時のためにいろいろと準備をしてくれていたのです。そのことを母は覚えてはいませんが、私達には、「いよいよ一人じゃ危なくなったら、どこかのホームに入れてね。火事なんか出して、ご近所に迷惑かけたら大変だから」と言っています。内心、娘がアメリカじゃあ、しょうがない、とあきらめているのかもしれません。 そんな遠距離娘として、とりあえず、今は今の私にできることをするしかなく、今日もまた、受話器を取りながら「出ますように」と祈りつつ、いつもの14桁を押すのです。それでも、いつか母を介護する日が来るかもしれず、その日のために、とりあえず夫を練習相手に(夫は認知症ではありませんが)、今から笑える修業を積み始めようかと思っています。 ![]() |
![]() 2週間ほど前、いつものように地下室にドッグフードを取りに行くと、頭の上の方に、何かいつもと違うものを見た気がしました。そこで、振り向いて見上げてから、私は思わず目を凝らしました。そして、数秒間“それ”を見つめたあと、頭の中でちかちかしていた電球が気を取り直して点灯したかのように、「あああ!」という声が口をついていました。
それは、長年にわたる私の庭改造プロジェクトのひとつ、バックヤードの緑を雑草から芝生に戻すため、去年の夏、せっせと地面を掘り起こしていた際に出て来た、前年の秋に別の場所に植え替えたチューリップの、掘り残しの球根でした。秋になったら植えようと思い、ネットに入れて、涼しい地下室につるしておいて、すっかり忘れていたのです。そして、驚いたことに、その球根たちは地下室の天井からぶら下がりながら、ちゃんと芽を出していたのです。 あららー、と思いながらネットを外し、忘れないようにキッチンテーブルの上に広告を敷いて、その上に載せると、ふと、ユーミンの『悲しいほどお天気』というアルバムに入っている、『78』という曲を思い出しました。「ふるさと忘れない渡り鳥の群れは どこかに磁石を持ってる 見えない法則を人は神秘と呼び 操れるものを怪しむ」という歌詞で始まるのですが、土の中で季節を感じていたわけでもないのに、春が来たらちゃんと芽を出す球根に、まさに神秘を感じたのです。そして、遅すぎるかもしれないけれど、とりあえず植えてみようと、大き目の植木鉢に植え、リスたちにいたずらされないよう、数年前、軒下に住み着いたスカンクを捕獲するために購入した檻を被せました。そして、庭のあちこちから立ち昇る春の息吹を感じながら、私は、ちょうど1年前のことを考えていました。 父の原因不明の入院が長引き、不安と混乱で認知症に拍車がかかる母に毎日電話をし、先が見えない職場では通常運転を続けながらも、次は誰が辞めていくのかという諦めのようなやりきれなさを抱え、さらに、2才の時から10年間看てきた女の子のお迎えが近づいていたという、今思うと、結構なストレスを呑み込んでいた時期でした。特に、一時帰国前の1週間は、怒涛のような日々でした。その時点では1週間の弾丸帰国のつもりだったので、受け持ちの患者さんたち、とくに小児ケースの薬や物品のオーダーを全て済ませ、申し送りをし、とにかく私がいない間、滞りないよう準備しました。帰国4日前の木曜日はオフで、いつもは着物でお茶のお稽古に行っていたのですが、その日は12才の女の子の万が一に備え、10年間その子を受け持っていた小児ナースのキャロルのサポートができるよう、仕事着でお稽古に行きました。そして、案の定、教室に着いた途端、キャロルから「呼吸が変わった」と電話があり、踵を返してその子の家に向かいました。しかもその日は、大学で日本語を教えている友人に依頼され、私の著書『ホスピスナースが胸を熱くした いのちの物語』https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784413231176の一部を学生に読んでもらい、それをもとに「伝える」というテーマで、夕方の5時から、オンラインで講義をすることになっていました。 その子の家に向かって車を走らせながらそのことを思い出し、もし時間までに家に戻れなかったらどうしようか、という思いが頭をかすめました。しかし、こればかりは考えてもどうしようもなく、その時の状況次第でどうするのかを決めるしかありませんでした。そして、その女の子は、私が到着してから3時間後に、彼女を愛する人たちに見守られ、大好きなお母さんの腕の中で、2年前に天国に行った最愛のお父さんのもとへと旅立ったのです。最後のお別れをしてから、それでも十分講義の時間に間に合った私は、心の中でその子に、”どうもありがとうね”と、身勝手な感謝をしていました。そして、気持ちを切り替えるのではなく、その子と彼女の家族への思いを胸に抱きながら、私の思う「伝える」とはどういうことかを、精一杯の言葉で、学生さんたちに伝えたのです。 無事に講義を終え、土曜日にはどきどきしながらPCR 検査を受け、実家のご近所さんや病院その他、お世話になったり、これからお世話になるかもしれない人たちへのお土産を買い、荷物をまとめました。出発前日である日曜日の夕方には、夫の空手道場で、以前から企画していたお茶のデモンストレーションを決行し、ひととき心安らぐ時間を持つことができました。それから帰宅すると、慌ただしく食事とシャワーを済ませて仮眠を取り、早朝3時に夫に空港まで送ってもらうと、フィラデルフィアからLA経由でマスクを着けたまま太平洋を横断し、無事成田に到着。心配していた空港での検査や手続きは思ったよりもスムーズで、3時間ほどで京成電車に乗ることができました。そして、その後のことは、エピソード「父を看取る」http://gnaks.blog.fc2.com/blog-entry-253.htmlに書いた通りです。 あれから1年。色々なことが変わったのに、今年も去年と同じように、いえ、何十年、何百年前と同じように、桜は咲き、散っていきます。人間が作ったコンピューターやAIがどんなに進化して、たとえ人類を脅かすようになったとしても、それでも、時を止めることだけは決してできません。時を操ることは、誰にもできないのです。 春は、一年のうち、最も”いのち”を感じる季節です。私は園芸は得意ではないのですが、なぜか、ひとから頂いた鉢植えは長持ちする方で、長男が生まれた時にもらった観葉植物のアレンジメントは、24年経った今も可愛い汽車の形の鉢のまま、ポトスだけになりましたが、元気に茂っています。友達からもらったカランコエや、夫が結婚する前から持っていたオリヅルランも、子供や孫や曾孫の鉢が増えて、お嫁に出すこともしばしば。カランコエは同じ条件で挿し木をしても、育ち方はそれぞれで、花が咲いたり咲かなかったり、咲く時期が違っていたり、葉っぱばかりモリモリ出てきたり、ヒョロヒョロと茎ばかり伸びたりと、面白いくらい違います。なんだか、人間と同じだなあ、同じ親から生まれて、同じように育ててるのに、同じものはひとつもないなあ、などと思いながら見ていると、毎日本当に飽きません。そして、そんな自分を、まるでおばあちゃんみたいだなあ、などと思ったりもするのです。そして、こうやって、ちいさな命が繋がっているのを見ていると、それがたとえ植物であっても、なんだか嬉しくなるのです。 パンデミックの後遺症ともいえるあれこれ、世界のあちこちで起こる自然、あるいは人的災害、紛争や戦争。アメリカではもう、誰も驚かなくなってしまった無差別銃撃事件。ホスピスナースとして、沢山の人たちの人生のしまい方をみてきましたが、こんな時代だからこそ、ホスピスケアを受けて命を全うできる人たちは、本当に幸せだと思います。本来の寿命を全うできず、理不尽に命を奪われたり、失われた、大勢の人達の魂のゆくえと、残された人たちの痛みを思うと、今、この世界は、かつてないほど、たくさんの悲しみと苦しみに覆われているような気がするのです。 それでも、そんな世界でも、春になれば新しい芽は出てきます。花は、私の心を和ませてくれます。この世にユートピアはないけれど、そんなところがないからこそ、生きているのは面白いのだと思います。去年見た、故郷の桜は、あの時の私のいろいろな思いを受け止め、慰めてくれました。悲しかったり、苦しかったり、うまくいかなかったり、そういうことがあるから、もの言わぬ花に心を癒され、花に救われることがあるのだということを、知ることができるのです。人生が豊かになる、というのは、そういうことなのかもしれません。つまり、全ての夢がかない、苦しみも悲しみもないユートピアでは、豊かな人生は送れないのです。 もうすぐ、父の一周忌。母の中では、父はもう何年も前に亡くなったことになっているようで、あんなに何度も慟哭をくりかえしたことさえ、彼女の記憶には刻まれていません。ただ、父と結婚して幸せだったという思いだけが、今の母が持つ記憶なのです。そして、それはそれで、羨ましいような気もして、私はひそかに、母の病名を「幸せ型認知症」と名付けています。 暖冬だったフィラデルフィアの桜は、今年は少し早く咲き始めました。10年かけて日本から送られた、2000本を超える桜は、毎年、フィラデルフィア市内にあるフェアモントパークという、アメリカ国内最大の都市公園を彩ります。今年は、私の子供たちの故郷であるフィリーの桜を、心ゆくまで愛でたいと思います。 ![]() |
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