ホスピスナースは今日も行く 忘れられない人々
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ホスピスナースは今日も行く
アメリカ在住日本人ナースが、ホスピスで出会った普通の人々の素敵な人生をおすそわけします。
犬も食わない (1)
 フランクさん(仮)は、1年前に大腸がんと肝臓転移の診断を受け、化学療法を受けていました。広い庭のある2階建ての家に夫婦二人で住み、治療を受けながらもほぼ普通の生活をしていました。ところが、その日、突然トイレで意識をなくして転倒、顔面を強打し、救急に運ばれると、癌の進行に加え、多臓器に渡る合併症と敗血症のため、そのまま入院しました。そして、ある程度状態が落ち着くと、フランクさんはそれ以上の治療を望まず、家に帰ってホスピスケアを受けることにしたのです。奇しくも退院したその日は、フランクさんの80回目の誕生日でした。
 フランクさんは意識ははっきりしていましたが、顔面には転倒の際の内出血が色鮮やかに残っており、入院中ほとんど食事が取れなかったこともあって、著しい体力の低下と全身状態の衰弱が見られ、本人と家族は、医師から余命は2ヶ月ほどだろう、ときかされていました。それでも、フランクさんは自分の意見をはっきりと持っており、納得がいかないことには、とことん喰らいついてくるエネルギーを持っていました。そして、妻のエステラさんも、身長140㎝あるかないかの小柄な女性でしたが、初対面からかなり強烈なインパクトを放っていました。彼女はとてもチャーミングでしたが、感情を抑えることをせず、自分が正しいと思うことを信じて突き進み、それをとてもドラマチックに表現しながら話し始めると、もう誰も口をはさむことはできませんでした。そんな二人の会話は、ちょっとした一言からあっという間に燃え上がり、瞬時に炎上してしまうのでした。
 退院時のフランクさんは、一人で歩くことはできず、ホスピスからのホームヘルスエイドの訪問に加え、24時間を2シフトでカバーするエイドを雇わなければなりませんでした。フランクさんとしては不本意でしたが、エステラさんは心臓の持病があり、一人で彼のケアをするのは無理だったのです。私たちはホームヘルスエイドの会社のナースマネージャーにも会い、ホスピスのケアプランや緊急時の対応、薬の使い方などを確認し、フランクさんたちに関わる医療ケアチームとして、こまめにコミュニケーションを取るようにしました。
 ところが、3日もたたないうちに、プライベートエージェンシーのナースマネージャーから、「患者と妻が四六時中怒鳴り合っていて、精神衛生的にひどい環境なうえ、患者はケアを拒否するし、妻は薬を与えようとしないし、このままじゃうちのスタッフが安全にケアを行うことができない」と電話があったのです。
 フランクさん達の寝室は2階にありましたが、彼が階段を上ることは、その時点では不可能だったため、ファミリールームのソファーを動かして、そこに電動ベッドを置いていたのですが、フランクさんは電動ベッドが大嫌いでした。のっけから一番の訴えは、こんなベッドじゃ眠れない、でした。私たちはエアマットレスの空気を調整してみたり、ジェルマットレスに変えてみたり、軽い眠剤を試したりしてみましたが、どれも”ちょっとはマシ”程度で、フランクさんの気に入ることはありませんでした。また、フランクさんはエージェンシーのエイドは必要ないと言い張り、そのたびにエステラさんはヒステリックに、自分一人じゃ彼の世話はしきれない、と言い返し、その間に入って私とソーシャルワーカーのキンバリーが安全性について説明し、すると私たちに向かって、フランクさんは、自分は一日中何もしないのに何が危険なのだと食い下がり、エステラさんは私たちにいかにフランクさんがわからず屋であるかを訴え、今度はそれに対してフランクさんが、エステラさんは何もわかっていないと言い捨て、エステラさんがますますヒステリックに、そうやっていつも私を無能扱いするのだ、と憤慨し...と言うように、とにかくもう、一枚倒れたら止まらないドミノのような、吹き消しても吹き消しても点火する、トリックキャンドルのような、果てしない夫婦の怒鳴り合いになってしまうのでした。
 次男で末っ子のマークさんは、実家から20分ほどの近所に住んでおり、仕事は夕方からの勤務だったので、私たちが訪問する時は、できるだけ同席していました。というのも、両親からの話では、父親の状態について、一体どちらの言うことが正しいのか判断できないからで、同席できない時は、私が訪問後に彼に電話で報告をするようにしていました。そして、マークさんは毎回申し訳なさそうに、私たちに両親の態度について謝り、二人はマークさん達が子供のころから口げんかが絶えず、どうしていまだに一緒にいるのかわからない、と、嘆くのでした。私もキンバリーも、普通の会話が怒鳴り合いのような夫婦は、彼らが初めてではなく、とにかく私たちは中立であり、どちらの意見も尊重するし、どちらかの肩を持つことはしないが、フランクさんが人生の最終章にいるからといって、私たちの介入で長年の二人の関係が変わるわけではないことを説明しました。そして、私たちのために、二人のいがみ合い、怒鳴り合いをマークさんが気にすることは、一切ないから、気持ちはわかるけれど、心配しないでほしいと話しました。ただ、確かにこの二人と12時間を過ごすプライベートのエイドさんにしてみたら、戸惑うどころか、耳をふさいで逃げ出したくなっても仕方なかったことでしょう。
 実を言うと、私はひそかに、この二人をMr. and Mrs. Costanza(コスタンザ夫妻)と呼んでいました。コスタンザ夫妻というのは、「となりのサインフェルド」(原題 Seinfeld)という、80年代終わりから90年代の終わりにアメリカで大人気だったシチュエーションコメディーに出てくる老夫婦で、とにかくいつも怒鳴り合っているのです。それが、多少大げさにしているとはいえ、リアリティーがあり、時々自分の親の夫婦喧嘩を思い出したりして、なんともいえず可笑しいのです。フランクさんとエステラさんも、当の本人たちは大真面目なのですが、どこかコミカルで、笑いをこらえるのに苦労することもしばしばでした。スケジュールの都合で私が訪問できないと、代わりに訪問して二人の応酬に驚いたナースが、患者さんはあの環境で安全なのか?と心配したり、MSWやチャプレンは介入しているのか?と確認してくるのでした。そのたびに、MSWもチャプレンも介入しているし、患者さんは安全で、あの二人は60年近くああして暮らしてきたのだ、と説明してから、「Mr.&Mrs.Costanzaなのよ」と付け足すと、みんな、「あー、わかったわかった」と納得してくれました。あるナースなど、訪問後「あの人たち、アイスクリームのことで怒鳴りあいになっちゃって、私なんて言っていいかわからなかったわよ。アイスクリームで喧嘩する夫婦なんて、初めてだわ」と電話してきたほどでした。
 それでも、エステラさんは、フランクさんのために必死であり、だれが何と言おうと、最後まで彼をこの家で看取るのだ、そのためにはフランクさんに何と言われようとかまわない、という決意がありました。なぜなら、それがフランクさんの希望だったからです。ある日、いつものようにフランクさんが、プライベートエイドはお金の無駄だ、とつぶやいたことから火がつき、激しい怒鳴りあいの末、「なにをするわけじゃないのに、なんで一日中隣に座っている介護人なんか必要なんだ」と言ったフランクさんに、エステラさんはこう叫び返したのです。「あんたに死んでほしくないからよ!」とてもシンプルな、彼女の本音でした。
 ところが、フランクさんは日を追うごとに回復していき、2週間もすると歩行器を使ってトイレまで歩くようになったのです。少しずつ食欲も出てきて、エステラさんやマークさんは、これは一体どういうことなのかと、首を傾げ始めました。私は、化学療法をやめた後、副作用がなくなり体が楽になるため、しばらく元気になることはよくあることで、だからといって癌が治ったわけではないので、様子を見ていくしかない、と答えました。その時点で、余命については何とも言えず、誤った期待を持たせてもいけないし、がんの進行の速度は個人個人で計り知れないので、私自身もどうなるのかはっきりした予測がつかなかったのです。
 フランクさんは、自分の具合が悪くなったのは化学療法のせいだったのだ、という結論に達し、それを証明するように、少しずつ自分の身の回りのことができるようになり、ひと月後にはエステラさんやマークさんも納得の上、プライベートのエイドはキャンセルし、ホスピスのエイドのみ、週3日訪問することにしました。そして、しばらくすると、フランクさんはホスピスのエイドも、ナースとMSWの訪問と同じ日にして欲しいと希望してきました。要するに、他人が来る日を週2日にまとめてしまいたかったのです。こうして、火曜日と金曜日はホスピスチームの訪問日、というスケジュールに落ち着き、私とキンバリーはよほどの理由がない限り、朝9時に一緒に訪問することにしたのです。ナースとMSWが同行することで、私がフランクさんのアセスメントをしている間はキンバリーがエステラさんの話を聴き、そのあと私がエステラさんと薬のセットをしている間にキンバリーがフランクさんの話を聴き、できる限り二人のバトルを回避して、それぞれの本音を遮られることなく吐き出せる状況を作ろうとしたのです。そして、フランクさんは、ほれ見たことか、と言わんばかりに、悠々と2カ月目をクリアしたのでした。犬も食わない(2)に続く。
 
 
 
[2024/08/04 06:12] | 忘れられない人々 | トラックバック(0) | コメント(0)
宿命を生きる(2)
 ベッキーは散歩が好きで、天気が許す限り、1日1回、多い時は3回ほど、車いすで家の裏にある全長1.5㎞ほどの遊歩道をぐるりとまわっていました。たいていはペギーさんが押していましたが、ホスピスのエイドやボランティアが行くこともありました。寒い日は手袋と帽子、マスクにマフラーをぐるぐる巻きにして、ダウンコートの上から毛布を羽織り、ブーツを履いて完全防備でのぞみました。
 その頃、残念なことに何人かのエイドが辞めてしまい、しばらくナースがエイドの訪問をカバーせざるをえない状況が続きました。つまり、ナースがダブルデュ―ティーとして、1人の患者さんに、看護師とエイド両方の訪問を行なうわけで、そんな時は必ずベッキーの訪問をダブルにしてもらいました。なぜなら、私がダブルの時は、必要な情報だけ聞いた後、ペギーさんに少し長めのフリー時間を持ってもらうことができるからでした。最初は、ダブルデュ―ティーだと言うと、ペギーさんは、「あら、だったら、ヘルパーさんと私でやっておくから、あなたはササッと切り上げたらいいわよ」と、まるで本末転倒な気を遣ってくれました。「ペギーさん、それじゃあまったく意味ないじゃないですか。私に気を遣って下さる必要は、全くありません。私があさイチで来て、ベッドバス(清拭)して、それからナーシングのアセスメントしてもいいし、逆に、ラストの訪問にして、アセスメントの後ベッキーを散歩に連れて行ってもいいですし。どちらにしても、私がいる間、ペギーさんはご自分のことに時間を使ってください。私たちはベッキーのケアだけのために来てるんじゃないですよ。介護者のケアだって、私たちの役目なんですから。遠慮される必要は、本当にないんですよ」
 ペギーさんはちょっと驚いたような顔をしてから、納得したように、「そうか、そうだったわね。ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうわね」と微笑みました。
 ペギーさんの家は、55歳以上のリタイアした人たちを対象にした、平屋作りの家が並んだちいさなコミュニティーにあり、ベッキーと散歩している時も、のんびりと歩く老夫婦や、犬の散歩をする中高年の住民とすれ違うことがよくありました。みんなすれ違う時はニコニコと挨拶し、ベッキーもご機嫌でした。特に向うの方から犬が見えてくると、ほらほら、と言うように指をさして、微かにはしゃいだり、リスや野鳥を見かけるたびに指をさし、言葉はなくても、可愛いね、面白いね、と言っているようでした。私は、車いすを押しながら、自宅の玄関前の歩道をキツネやスカンク、一度などコヨーテまでもがトコトコ通り過ぎて行った話をし、特にここ数年は、早朝や夜に犬の散歩をする時は気を付けないと、ある意味危険が増えてきたなんてことを言うと、ベッキーも笑ってうなづいていました。そんな風にして、日常の何気ないことを、何気なく話し、面白くても面白くなくても、目線を合わし、ベッキーが何を思っているのか、何を感じているのかが、少しでも、何でもいいから、伝わってきたらいいのに、と願っていました。
 その日、ベッキーはアセスメントの途中から、車いすの中でうつらうつらしていました。ペギーさんに、「昨夜はよく眠れなかったんでしょうかねえ」と尋ねると、ペギーさんは、「どうかしらね。ほら、夜は私がトイレで目覚めた時に確認するくらいで、あの子は起きてても何するわけでもないからね。でも、この頃は昼間にうたた寝していることが多いわね」と言ってから、少し間をおいて、こう言いました。
「今日はね、アミリアの命日なのよ。1年前の、今日だったわ」
 ああ、という顔をした私が言葉を発する前に、ペギーさんは続けました。
「ベッキーは、もう一度誕生日を迎えられるかしらね」
 約2か月後に、ベッキーの誕生日は来るはずで、1回でも多く子供の誕生日を祝いたいと願うのは、親として自然なことであり、ほとんどの親にとって、それは願うまでもない、当たり前のことでした。それが、ペギーさんにとっては、最後のチャンスになってしまったのです。子供に先立たれるというのは、つまり、悲しい記念日がふたつ増えるということなのです。命日と、祝う相手のいなくなってしまった誕生日が。
 2か月後、ベッキーは、無事に最後の誕生日を迎えました。ケーキの代わりに、ベッキーはチョコレートプディングを少し食べ、ペギーさんがお花を飾り、ヘルパーさんが買ってきてくれた風船を車いすに結んで、ペギーさんとヘルパーさんと私でハッピーバースデーの歌を歌いました。ベッキーは、少し笑って、少し泣きました。他のみんなは一生懸命涙をこらえて、笑いました。一足先に誕生日を迎えていた私は、ベッキーに、「また同い年になったね」と言うと、私を指差して少しだけ微笑みました。そして、それが彼女のひとつの目標だったかのように、ベッキーはそれから急激に弱っていきました。
 車椅子に座っていても、ほとんど眠っていて、起きていてもただ宙を見つめているようになりました。1日かけて500mlの水分を飲むのが精一杯になり、車いすに座っている姿勢が保てなくなっていきました。クッションやまくらを使って、何とか身体を支え、それでも、ペギーさんはベッキーを車いすに座らせる、という毎日のルーティンを、変えることができませんでした。ルーティンを変える、それはつまり、できていたことができなくなる、終わりにまた一歩近づくことで、無意識に、それを認めたくなかったのかもしれません。いつものように、車いすに座って、サンルームで眠っているベッキーの左半身は、完全にマヒしており、もう、痛がることもなくなっていました。痩せて、骨ばってきたお尻の皮膚が赤くなり始めた時、私はペギーさんに、車いすに座る時間を減らして、ベッドで身体の向きを変えた方が、褥瘡(床ずれ)予防ができる、と説明しました。すると、ペギーさんは、「っていうか、車いすに座らせる意味が、まだあるのかしら?」と、自ら核心をついてきたのです。「ベッキーはここに座って外をみたり、貨物列車が行ったり来たりするのを聞くのが好きだったから、リフトでベッドから移動させるのも気にならなかったけど、もう、あんまり意味がないような気がしてきたわ」
 彼女の口からその言葉が出て来るのを待っていた私は、大きくうなずきました。
「そうですね、私もそう思います。今は、ベッドで休んでいる方が、ベッキーにとってはずっと楽で、リラックスできると思います。ペギーさんもお気づきの通り、ベッキーは、別の段階にいるんです」
 多分そうだろう、と思いながらも口にするのが怖い、それでも誰かに指摘されるのはもっと怖い、そんな思いがふとつぶやきになり、そして、それを誰かに肯定された時の気持ちは、なんとも複雑なものです。自分の感覚が的を得ていた、といういわば安堵のような”やっぱり”と、心のどこかでしがみついていた、小さな希望のような奇跡は”やっぱり”起きないのだ、という失望。ペギーさんは、まさにそんな表情をしていました。そして、その翌日から、ベッキーはもう、車椅子には座りませんでした。
 ベッキーは、ベッドで過ごすようになっても、窓から外を眺めるのが好きでした。一日のほとんどは眠っていましたが、おきている間は、バードフィーダーをついばむ野鳥や、鳥たちを押しのけて餌をむさぼろうとするリスをみていました。もう、指をさして笑うこともなくなりましたが、それでも、ベッキーのやわらかな瞳は、自然の中の小さな生き物たちを愛でていました。心理学を学び、カウンセラーとして悩み苦しむ人たちを助け、遺伝という避けることのできない運命に向き合ってきたベッキーは、私の想像など及びもしない恐怖や怒り、そして悲しみと葛藤したことでしょう。そして、その旅路の末に、この穏やかな時間にたどり着いたベッキーの目に映る風景は、彼女にとって優しかったのでしょうか。
 その日のベッキーは、一段と穏やかな表情をしていました。カーテンを開けた窓からは、緩やかな春の光が射し込み、色白のベッキーの顔にほのかな色を差していました。バイタルサインは落ち着いており、苦しそうな様子は全くありませんでした。そうっとアセスメントをしているうちに目を覚まし、「あ、ごめんごめん」と謝る私に、ほんの少し泣き笑いのような表情を見せました。そして、アセスメントをすべて終え、「また明日来るね」と言うと、ハッキリと私の目を見て、ほんのりと微笑みました。
 翌朝、訪問時間の確認の電話をすると、ペギーさんがいつもとは違う、少し震えるような声で、ベッキーの様子が昨日とは全然違うことを伝えてきました。朝一番に訪問すると、彼女は昏睡状態になっており、口で浅い呼吸をしていました。脈は弱く、喉の奥でかすかに、ガラガラという喘鳴が聞こえました。不安そうに私を見るペギーさんに、私は、お迎えがもうすぐそこまで来ていると伝えました。ペギーさんはうなずくと、何かを言おうとして、そのまま両手で口をふさぎました。そして、それまで少しずつ水をためていた風船が、とうとう限界に達してはじけたように、涙が溢れてきたのです。それは、ペギーさんが、初めてみせた涙でした。私は無言で彼女の肩を抱くと、ペギーさんはうなずいたり、首を横に振ったりしながら、慟哭しました。
 いつか来るとはわかっていたのに、実際に、その時が目の前に迫ってきたことを目の当たりにして、それまで手に持っていたものがものすごく熱かったことに突然気づくような、もしくは悪夢が一瞬にして現実に入れ替わったような、そんな瞬間だったのかもしれません。とにかくベッキーが苦しまないで毎日を過ごせるように、彼女のケアに全身全霊を注ぐことで、ペギーさんは、その傷だらけの心の痛みを麻痺させてきたのでしょう。そうしなければ、あまりにも辛すぎる運命を、平静を保って過ごすことなどできなかったのだと思います。それが、一瞬にしてタガが外れ、押し殺していた悲しみが一気に流れ出たのでした。
 しばらくしてペギーさんは呼吸を整えると、「ありがとう」と言ってから、「それで?」と私を見ました。私は、これから起こりうる症状と、その対応、そして、とにかく心配なことがあったらすぐにホスピスに電話するよう説明しました。「それから、ベッキーの呼吸が止まって、3分以上再開しなかったら、ホスピスに電話して下さい。4時半以前だったら私が来ますが、それ以降だったら夜勤のナースが来ますから」
 ペギーさんはすっかりいつもの彼女に戻り、落ち着いた声で「わかったわ」と言うと、改めて私を見ました。そして、私たちは、何も言わずにハグをしました。それから私は、もう一度ベッキーのところへ戻り、チアノーゼの出始めた手を両手で包むと、「どうもありがとう、ベッキー。あなたのナースになれてよかった。本当に、頑張ったね。また来るからね。安心してね」とささやきました。もうすぐ終わる。それでも、彼女の魂は、まだそこにありました。私は、ただただ、ベッキーの魂が安らかであってほしい、悲しい運命を恨まず、いい人生だったと、生まれてきてよかったと、たとえ意識はなくても、魂は、あの優しい光に包まれていますように、と願っていました。
 オフィスから電話があったのは、その日の訪問を終え、帰りに買い物をしようと、スーパーマーケットの駐車場に車を停めて、エンジンを切った時でした。私はすぐにエンジンをかけ直すと、ペギーさんの家に向かいました。
 家に着くと、まるで、どうぞ入って、と言うように、玄関のドアは開いていました。それでも、ドアをノックしてから家に入り、ベッキーの部屋に行くと、ペギーさんが私を見て、椅子から立ち上がりました。私たちはハグをすると、ペギーさんは、「終わったわ」と言いました。
 ベッキーは、清々しいほど穏やかな顔をしていました。不安も、恐怖も、怒りも、悲しみも、彼女を苦しめたもの全てが霧散し、彼女の透きとおった魂は、まぎれもなく救われたのだ、と確信できる、美しい顔でした。私は死亡を確認すると、手を合わせ、心の中でさようならをしました。それから顔を上げると、ペギーさんが目を真っ赤にして、こう言いました。
「今日はね、ずっとここに座ってたの、ベッキーの横に。それで、絵本を読んだり、昔のこと、あの子たちが小さかった頃のことを話したりして過ごしたのよ。不思議なことに、ずっと忘れてたことを、どんどん思い出してね。せつないけど、楽しかったわ。だって、もう、思い出話ができる人は、誰もいないんだもの」
 それでも、ペギーさんは背筋を伸ばし、悔いはない、と言いました。できることはすべてやったし、あとは、自分の宿命を受け入れるしかないのだと。
「でもね、それは、ホスピスのおかげなの。本当に、あなたたちがいてくれなかったら、私だけじゃ絶対に無理だった。ベッキーにとっても、私にとっても、ホスピスは神様の贈り物だったのよ。心から、感謝してるわ。それにね、ベッキーはあなたが来ると嬉しそうだった。どうもありがとうね」
 ペギーさんの最後の言葉に、私の目の奥は熱くなりました。昔、れみちゃんのお母さんに、「れみちゃんと遊んでくれて、どうもありがとうね」と言われた時の、こそばゆいような、嬉しいような、少し誇りに思うような気持が、一瞬にして蘇ってきたのです。私は、ホスピスナースとしてだけでなく、同い年の女性として、ベッキーと知り合いたかったのです。あの頃、いい子ぶってると思われるのが怖くて友達には言えなかったけれど、心の中では、れみちゃんのことをもっと知りたい、と思っていたように。だから、ベッキーが私の訪問を喜んでくれていたのなら、それだけでも、”私”が彼女のナースであったことに、意味を見出すことができました。彼女の最後の日々に“何かいいこと”を、少しでもあげることができたのかもしれないのだと、嬉しかったのです。
 薬の処分をし、必要な連絡や手続きをした後、ペギーさんは、「またいつか、どこかでばったり会えたらいいわね」と言って、お別れのハグをしました。私は、彼女の背中に回した手に、いつもより、ほんの少し力を入れました。この数カ月の日々が、ペギーさんにとって辛いだけではなく、優しさと、愛情にあふれた時間であり、いつか、ああ、いい時を過ごせたなあ、と思えるようになりますように、と願いながら。
 
[2023/11/11 10:50] | 忘れられない人々 | トラックバック(0) | コメント(0)
宿命を生きる (1)
 ベッキー(仮)は、私とふた月しか誕生日が違わない、同い年の50代半ばでした。兄と姉との3人兄妹の末っ子で、大学では心理学を専攻し、実家から遠く離れた西海岸で、カウンセラーとして独身生活を謳歌していました。ところが、5年前に多発性硬化症(MS)と診断され、少しずつ体の自由を失っていき、また、徐々に失語症のような症状も出て来たのです。次第に仕事にも支障をきたすようになり、日常生活も難しくなっていったベッキーは、1年ほど前に母親と継父の住む家に移ってきたのでした。そして、こちらの大学病院でMSが誤診であったことが判明、彼女の本当の病名は、カダシルという、非常に稀な遺伝性の神経難病であることが分かったのです。
 カダシル(CADASIL:皮質下梗塞と白質脳症を伴う常染色体優性脳動脈症)は、脳の小さな血管が障害されることによって、脳梗塞や一過性脳虚血発作(TIA)のような症状が繰り返される病気で、それに伴って血管性認知症を発症することもあります。その名の通り常染色体優性遺伝疾患で、親から子へ、50%の確率で伝わる病気ですが、とても珍しいうえ、人によって発症する年齢や症状が様々なので、ベッキーのように別の神経難病と誤診される人は、少なくありません。ペンシルベニアに戻ってきてから、ベッキーは2度、脳梗塞の発作を起こしました。最初の発作でMSではなく、カダシルだとわかり、2度目の発作の後に、ホスピスケアを勧められたのです。
 初めて会った時、ベッキーはすでに言葉を発することはなく、それでもこちらの言うことは理解していました。2度目の脳梗塞の発作後、左半身に中程度のマヒが残り、歩くことはできなくなっていました。車いすに座ったベッキーは、自然な感じの白髪混じりのショートヘアで、少しはにかんだように微笑んでいました。独身のせいか、オバサンっぽさはなく、同い年ということもあり、なんとなく親近感をおぼえ、だから、会話ができないのがとても残念でした。
 お母さんのペギーさんは80歳でしたが、背筋がシャンとして、艶々した銀髪をきりっとしたショートにしており、70そこそこにしか見えませんでした。ペギーさんの最初の夫、つまり、ベッキー達のお父さんは、30年近く前に亡くなっていました。そして、そのお父さんが、カダシルの遺伝子保持者だったのです。その後、ペギーさんは再婚しましたが、子供達はすでに成人して独立しており、ベッキーにとっては父親というより、母親の新しい旦那さん、という感じの関係でした。私も、訪問時にペギーさんの旦那さんと会うことはほとんどなく、たまに会っても挨拶する程度で、彼が訪問に同席したり、彼から質問や心配事を聞かされることはありませんでした。
 ペギーさんは、驚くほど冷静に、ベッキーの病態や予後について勉強し、受け入れようとしていました。なぜなら、ペギーさんにとって、ベッキーが最後の生存する子供であり、カダシルに奪われる3人目の子供だったからです。3年前に長男が、そして、長女が亡くなったのは、ほぼ1年前でした。
 「息子は結婚してコロラドに住んでいたから、そうしょっちゅうは会えなかったんだけど、最後に会った時は元気だったのよ。本当に突然でね。最初はただの心臓発作かと思ったんだけど、特に他の持病もなかったし、よく調べてもらったのよ。そしたら、カダシルだったってわかったの。でも、そういえば、頭痛やもの忘れはあったみたいなんだけど、まさかね、そんなこと、夢にも思わないじゃない。ショックだったわ」
 長女のアミリアさんも結婚して、2人の娘さんがいました。アミリアさんもベッキーのように、最初はMSと誤診され、日常生活はなんとか問題なく過ごしていました。ところが、彼女の場合は腎臓の血管が障害されたことから腎不全になり、あっという間に全身状態が悪化してしまったのだそうです。
「アミリアの時も、具合が悪くなって、救急に行ったら、そのままどんどん悪くなって、あっという間にホスピスを勧められたの。あの子の娘たちは高校生と大学生だったし、家に帰るのは無理だったから、ワーミンスターにあるホスピス病棟に入ったのよ。あそこではとっても良くしてもらったけど、結局2週間も持たなかったわ。だから、ベッキーも、もし私が面倒見切れなくなったら、あのホスピス病棟に行けたらいいと思ってるんだけど、そうなったら、○×ホスピスから移ることってできるのかしら?」
 ワーミンスターのホスピス病棟、と聞いたとき、私は胸がぎゅうっと締め付けられるような気がしました。それはまさに、私がかつて働いていたホスピスの、あの病棟だったのです。
「残念ながら、あの病棟は閉鎖してしまったんです。実は、私、つい最近まであのホスピスにいたんです。もちろん在宅の方ですが。でも、6月にジョイントベンチャーの新会社になってから、それこそ、あれよあれよというまに人がいなくなって、病棟の方はいったん閉鎖したんです。でも、結局採算が取れないっていうことで、あのまま再開はしていないんです。少なくとも、現時点では」
 ペギーさんは驚くと同時に、とても残念がり、そして、これからどうなっていくのか、ベッキーを最期まで自宅で看ることができるのかという不安を隠せませんでした。私は、これから先、変わっていくベッキーの状態に合わせて、ホスピスがチームとしてできる最大限のサポートを利用することで、ベッキーを自宅で看取ることは可能であると話しました。ただ、ホスピスのホームヘルスエイドは長時間滞在することはできないため、できれば個人的にヘルパーさんを雇うことを勧めました。
 ペギーさんはすぐに行動を起こし、早速毎朝8時から11時までの3時間、ヘルパーさんに来てもらうことにしました。ホスピスのホームヘルスエイドは、とりあえず週3日から始め、ボランティアやリフレクソロジスト(リフレクソロジー:足裏マッサージに似ている非医療的セラピー)にも入ってもらい、その間、ペギーさんが少しでも自分の時間を持てるようにしました。
 ベッキーは特に痛みを訴えることもなく、車いすに座り、主に右足を使って自分で動き回っていました。柔らかい食べ物をスプーンですくって食べたり、ストローを使って飲み物を飲むこともできました。ただ、言葉が出ないため、言いたいことを伝えられないのがもどかしく、イライラして時々泣くこともありました。スピーチセラピストに介入してもらい、イラストを使ったコミュニケーションボードを使ってみましたが、ベッキーは発語障害だけでなく、認知症も発症していたため、どのイラストをさしてもうなずいたり、首を振ったり、いくつものイラストを次々に指すので、ペギーさんは、「なんだか、かえってわからなくなる」と、早々に見切りをつけてしまいました。それでもベッキーは、飼っている猫の様子を見て笑ったり、指差して“ほら、見て”というジェスチャーをしたり、私たちの冗談に笑ったりしていました。
 ベッキーの笑顔は屈託がなく、小学校のクラスで一緒だった、れみちゃんという女の子を思い出させました。れみちゃんは知的障害があり、学校ではひとことも言葉を発しませんでした。細くて色白で、ふさふさした髪をおかっぱにして、いつもにこにこして席に座り、授業中はノートにひたすら○を書いていました。初めてれみちゃんの声を聞いたのは、ある放課後、友達と一緒に彼女のおうちに遊びに行った時でした。満面の笑みで私たちの手を取り、「おともだち! おともだち!」と、優しいアルトで歌うように呼び続けたれみちゃんの声が、意外と低かったのが、とても印象的でした。そして、ベッキーの声も、もしかしたら私の想像よりも低いのかもしれないな、などと思いながら、彼女に話しかけていました。
 ベッキーの趣味や、好きな音楽などはあるのかと、ペギーさんに尋ねると、「それが、よく知らないのよ。大学から西海岸に行っちゃってたでしょ。友達と遊びに行ったり、旅行したりはしてたけど、これといって趣味っていうものはなかったんじゃないかしら。音楽も、CDは持ってたのかもしれないけど、こっちに来る前に全部処分してきたみたいでね。アミリアと違って、ベッキーは自分のことをいろいろ話す方じゃなかったのよ」と、残念さと無念と後悔が入り混じったような答えが返ってきました。ベッキーは兄妹の間でもちょっと距離を置いていて、姪っ子や甥っ子たちともそんなに親しい関係はありませんでした。仲が悪いわけではなく、ただ、いつも少し離れたところから眺めている、という感じでした。「まあ、兄妹同士の関係は、親だって本当のところはわからないじゃない。親しい友達には、自分はもうすぐ死ぬんだ、なんて言ってたみたいだけど。カダシルのことだって、息子のことがあったから、MSって診断されてたことで、実際のところ、少し安心したんじゃないかしら。カダシルよりはましだと思ったのかもしれないわね。でも、もう、あの子の本当の気持ちは、知りようがないのよね」
 ペギーさんは、サバサバとした口調でさらりと言いましたが、そうしなければ、ちょっとした隙にしみだしてくる悲しみに、覆いつぶされてしまいそうだったのかもしれません。ペギーさんは、とにかく自分がベッキーを最期まで看取るのだ、という覚悟で一日一日に向き合っていました。そして、そのためには、自分を鼓舞し続けなければならなかったのだと思います。
 ベッキーは少しずつ飲み込みが難しくなっていき、飲み物にはとろみをつけ、少しずつ飲まないとむせるようになりました。スプーンを持つのが難しくなり、食事介助が必要になり、食欲も減っていきました。唾液をのみ込む頻度が減り、特に朝は喉にたまった唾液にせき込むことが多くなりました。そうなると、ベッキーは軽いパニックになり、呼吸がしにくくなるため、抗コリン剤を舌下して、唾液を乾かすようにしました。
 車いすに座っていても姿勢を保つのが難しくなり、普通の車いすから、背もたれが頭まで支えられるハイバックで、レッグレストも一緒にリクライニングできるものに変えました。少しずつ、でも確実に筋力が衰え、特に左半身の麻痺がひどくなっていったのは、おそらく気づかぬ間にTIAを繰り返していたためだと思われました。ベッキーは話せなくても、私のタブレットのスクリーンに、訪問確認のサインを指でかいていましたが、それも次第に、ただ、波線を繰り返すだけになっていきました。
 ペギーさんは、調子のよい日と悪い日をくりかえしながら、少しずつ悪化していくベッキーの状態に、わかってはいるけれど、やはり気持ちはジェットコースターのように上がったり下がったりしてしまい、その度にいったい何が起きているのか、なぜこんなにもアミリアの時と違うのか、この先はどうなっていくのか、と質問をしてきました。そして、とうとう、フィラデルフィアの大学病院で診てもらった先生に、診察はしなくても、今のベッキーの状態がどの時点にあるのか、意見を聞かせてもらうことはできないだろうか、と言いだしました。私は、コンタクトをとることはできるだろうけれど、返事が返ってくることはあまり期待できないし、返ってきたとしても、だから何ができる、ということもないだろうけれど、それでも、専門家の意見を聞くことで気持ちが少しでも楽になるのなら、トライする価値はあると思う、と話しました。ペギーさんは、とにかく何かをせずにいられなかったし、少しでも病気を理解し、この先に向かって準備をしなければ、という強い思いに駆られていたのです。しかし、予想していた通り、何度かメッセージを残したペギーさんに、大学病院から連絡が来ることはありませんでした。
 ある日、どういう流れか、前のホスピスでは小児も受け入れていた、という話になった時、ペギーさんは何気なく、「でも、同じ遺伝性の病気で3人の子供を亡くした人はいないでしょう?」とつぶやきました。私は、一瞬迷いましたが、彼女ならただ事実として受け取るだろうと思い、こう答えました。
「そうですね。ただ、ひとり、自分自身が、30代後半に発症した神経難病を持っている、5人の女の子たちのお母さんに会ったことがあります。私の患者さんは、彼女の15歳の長女で、その子がお母さんと同じ神経難病でホスピスケアを受け始める半年ほど前に、2歳になったばかりの五女を同じ病気で亡くしていました。そのお母さんの母親、つまり私の患者さんのお祖母さんも同じ病気で亡くなっていて、その子の3人の妹たちもすでに発症していました。つまり、女性3代にわたって、全員が同じ神経難病の遺伝子を受け継いでしまったんです。その15歳の女の子は、その時点ではすでに郊外にある小児専門の療養施設にいたんですけど、そのお母さんは、歩行器を使ってゆっくり歩き、視力もかなり弱っていましたが、家に残っている3人の娘たちをホームスクールで教えていました」
 ペギーさんは、私の顔をじっと見ながら聞いていました。それから、大きくため息をつき、「そういう人生もあるのね」と言いました。宿命を生きる(2)に続く。
 
 
 
 
[2023/09/09 05:28] | 忘れられない人々 | トラックバック(0) | コメント(0)
妻の決意 (2)
 テッドさんは眠っていることの方が多く、たまに目覚めていても、リアクションをみせることはほとんどありませんでした。それでも、肺音を聞くときには、わずかではあるけれど、私の指示通り、深く息を吸おうとしているのかな、と思うこともありました。調子のよい時は子供の茶碗一杯分ほどのオートミールや、ヨーグルトなどを食べたり、とろみをつけた飲み物やエンシュアなどの栄養剤を飲むこともできました。しかし、一日のうちでも、それができる時間は限られており、そんなテッドさんの身体や気分の調子に合った絶妙なタイミングを読めるのは、リンダさんだけでした。
 パーキンソン病は、体が震えたり、筋肉が拘縮して動かしづらくなるだけでなく、顔の表情も硬くなり、声や言葉も出にくくなります。また、4割くらいの人は、認知症を合併するため、テッドさんのようにかなり進行している場合、コミュニケーションをとることは非常に難しくなります。つまり、こちらの言うことを理解しているけれど、反応することができないのか、理解できていないから反応しないのか、はたまた理解も反応することもできないのかを正確に判断することは、かなり困難なのです。しかし、リンダさんは、私の答えを知りながら、それでもテッドさんがどれくらい理解していると思うか、私の意見を聞きたがりました。私も、リンダさんが正解を求めているわけでも、正解があると思っているわけでもないことはわかっていたので、ただ、自分が感じたことを、正直に言うしかありませんでした。
 「私は、テッドさんはわかっていると思います。だから、機嫌のいい時や悪い時があるのだろうし、私たちの話していることも、ちゃんと聞いている気がします。目がね、テッドさんの瞳が、ちゃんと通じているような、そんな感じがするんですよ。なんだか全く医学的根拠とかない答えで、しかもすっごく曖昧で、申し訳ないんですけど」
 「いいの、いいの。やっぱりあなたもそう思うのね。私も、なんとなくそんな気がしてるし、多分そうなんだと思うわ。気のせいかもしれないけど、私だけの気のせいじゃないんだったら、やっぱりそうなのよ。どうもありがとう」
 ○×ホスピスに移ってから、ホームヘルスエイドは週に5日訪問できるようになり、一日のほとんどを眠って過ごすテッドさんとの生活に、リンダさんの身体的なストレスは、ずいぶん軽減されていきました。ボランティアにも定期的に来てもらい、その間は、娘さんとランチに行ったり、買い物に出たりして、一週間のうちほんの数時間でもリフレッシュできるようになり、ショートステイによるレスピットを必要とすることもなくなりました。以前は、テッドさんの機嫌が悪いと、ああでもない、こうでもないと、心配し、原因を見つけ、それに対して何かをしないと不安だったのが、「そういう時もあるわよね」と、余裕を持って構えられるようになっていきました。目に見える明らかな原因もなく、それでもどうしても機嫌が直らず、本人もイライラして落ち着かない時は、少量の抗不安剤を屯用で使うことにも抵抗が無くなり、それで本人がリラックスできるのなら、あれやこれや詮索してますます苛立たせるよりも、ずっと効果的であることを受け入れられるようになったのです。
 ある時、アセスメントを終えた後、ベッドサイドの小さなナイトテーブルの上の写真たてに、ふと目が留まりました。それまでも、おそらく目の端に入っていたはずでしたが、なぜかその時まで気がつかなかったのです。それは、スーツを着たテッドさんと、白いワンピース姿のリンダさんが手をつないで並び、嬉しそうに笑っているものでした。テッドさんは若々しく、リンダさんは可愛らしい初々しさを漂わせ、2人とも、この上なく幸せだ、という顔をしていました。
「わあ、このお二人、とっても素敵ですね。いつの写真ですか?」
すると、リンダさんは、よくぞ気づいてくれた、とでも言うような笑顔になりました。
「ああ、それは、私たちが結婚した時の写真なの。もう30年以上前だわ。お互い再婚だったから、ほんの内輪だけのパーティーだったんだけど、とっても楽しかったの。彼はいつでも機嫌のいい人でね、なにかしら楽しいことを見つけては、2人でよく笑ったわ。夜はいつも一緒にお気に入りのテレビ番組を見たし、週末はバックポーチでバーベキューしたり、友人が来てカードゲームしたりしてね。テッドは本当に人生の楽しみ方を知ってたわ。何が寂しいって、あんな風に2人で過ごした、普通の楽しい時間がね、なにより恋しいの。ああ、本当に楽しかったわ。今でも一緒にテレビを観たりもするけど、やっぱりね、一人で笑っても、切なくなっちゃうだけなのよね」
 楽しい思い出がある人生は、幸せだ、と誰もが思うのでしょうが、楽しかった分だけ、幸せだった分だけ、それを失った心の穴も大きいのかもしれません。永遠に続くと信じていた、楽しい時間。隣で一緒に笑える人がいる喜び。時が経てば、いつかは、そんな思い出を懐かしむ、という別の幸せな時間が待っている。しかし、中には、失うのが怖いから、その寂しさに耐えられそうもないから、最初から楽しい時間なんかない方がいい、という人もいるでしょう。でも、リンダさんは素直に、テッドさんとの楽しい時間を選び、共に生きることにしたのです。そして、その最初の一歩が、この写真の中の二人でした。しかし、それがテッドさんにとっても、リンダさんにとっても、夢にも思わなかった展開になってしまったわけですが、そこから逃げ出すことのできないテッドさんから、リンダさんも逃げ出さなかったのです。
 テッドさんがホスピスケアを受け始めてから1年が経とうという頃、フィラデルフィアでは、地元のアメリカンフットボールチーム、イーグルスが、5年ぶりにスーパーボウル出場なるか?!ということで、普段アメフトに興味のない私のような人間も含め、地元全体がざわざわと盛り上がっていました。フィリーっ子のテッドさんとリンダさんは、もちろん筋金入りのイーグルスファンで、以前はシーズンチケットを購入していたほどでした。テッドさんのベッドの毛布やシーツ、枕カバーは当然イーグルス一色、試合のある日は、リンダさんもイーグルスのフーディーを着て応援していました。
 しかし、世間の盛り上がりとは裏腹に、テッドさんはとうとう飲み込むことをやめ、ひたすら眠り続けるようになったのです。私はナースとエイドの訪問回数を増やし、キンバリーも毎週訪問するようになりました。私たちは眠っているテッドさんに、「イーグルス、今度こそスーパーボウルに行けますかねえ?」「またいつもみたいに、最後でコケちゃうんでしょうかねえ?」などと声をかけ、いいところまで行くのに、最後の詰めが甘いことで有名な、我らが猛禽類をダシに、リンダさんと笑い合っていました。そして、イーグルスがついにスーパーボウル行きの切符を手にした試合も、リンダさんはテッドさんと一緒に、寝室のテレビで観戦していました。もう、いつ呼吸が止まってもおかしくない状態の中、テッドさんはリンダさんの横で、イーグルスが5年ぶりに羽ばたくのを見届けたのです。そして、隣のリビングルームでは、テッドさんの娘さんとその家族、そしてリンダさんの娘さんとその家族が、大喜びで抱き合い、乾杯していました。みんなはそのままテッドさんの寝室になだれ込み、リンダさんにビールを渡すと、もう一度乾杯しました。テッドさんに聞こえるように、口笛を吹き、歓声を上げ、「ゴー、イーグルス、ゴー!」の掛け声を唱えました。当然テッドさんも心の中で一緒に叫んでいるかのように、家族みんなで喜び合ったのです。
 しかし、それからは、リンダさんにとって、この1年間のうちで最も長く、心の天国と地獄を行ったり来たりするような、あてどない感情の行方に翻弄される日々でした。テッドさんは骨と皮ばかりになりながら、じっと凝視しなければわからないような呼吸を続けていました。それでも苦しそうな様子はなく、すぐ近くまで来ているお迎えに、リンダさんの心は休まることはありませんでした。来てほしくはないけれど、早く来てほしいような、現実だとわかっているのに、夢かもしれないと思ってしまうような、矛盾。すべてが静かで穏やかなのに、必ず来てしまうその瞬間への恐怖と平穏が、自分自身にさえ予測できない自分の反応が、いったい自分の心はどうなるのだろうかという漠然とした不安となって渦巻いていました。人間は水や食べ物を一切取らなくなってから、2週間、人によっては3週間近く生き続けることができます。実際に、私も何人もそんな人たちに会ってきました。そしてそれは、家族にとって、そしておそらく本人にとっても、自分と神との葛藤と祈りの時間となるのです。
 水曜日、かすかに胸が上下するほどの呼吸を続けるテッドさんの喉から、ほんの少し、猫がのどを鳴らすような音が聞こえ始めました。リンダさんに、多分今夜か明日だろうと話し、喘鳴がひどくなってきたら、テッドさんがそれで苦しむことはないけれど、苦しそうな音が気になるようなら、それを乾かす薬を舌下するように説明しました。翌日は、私は残念ながら週末勤務の代休日のため、別のナースが来ること、そして、テッドさんが亡くなった時は、ただ、ホスピスに電話するだけでよいことを話しました。
 「わかってるわ。もう、何度もリハーサルしてきたから。何度も覚悟をして、驚かされて、でも、今度こそ彼の時間だって、確信できる。テッドは何度もあっちに行きかけて、そしていつも戻ってきたけど、でもね、これが最後。もう、頑張らなくていいのよ」
 私はもう一度ベッドサイドに行き、テッドさんに挨拶をしました。テッドさんとリンダさんに出会えて、本当によかったこと。思うようなケアができなかった時期もあったけど、再びテッドさんのナースになれて、とても嬉しかったこと。そして、ホスピスはリンダさんや娘さんたちのサポートもするから、もう、何も心配することはないこと。自分は明日休みなので、別のナースが来ること。私は金曜日にまた来ること。
 テッドさんは薄く口を開け、浅い呼吸をしながら、私の声を聞いていました。それから、テッドさんの右手を軽くポンポン、とたたき、「長い間、お疲れさまでした」と言いました。すると、気のせいか、テッドさんの長い睫毛がわずかに震えたのです。私は、思わず向かい側に立っているリンダさんを見ると、リンダさんも私を見て、「見たわよ」という表情をしていました。
 テッドさんにお別れをし、それから、いつものように玄関まで見送ってくれたリンダさんと、ぎゅうっとハグをしました。リンダさんは、私を見上げて言いました。
「怖くはないの。彼が苦痛を感じていないって、わかってるし、もうね、十分なの。彼も、私も、じゅうぶん頑張ったわ。私は、彼との約束を守れたことが誇らしいの。でもね、それは、本当にホスピスのおかげなのよ。あなたたちがいなかったら、私だけじゃ、とてもできなかった。ただね、寂しいだけなの。彼がいなくなってしまうことが、会えなくなってしまうことが、どうにもならないくらい、寂しいのよ。きっとね、この先もずっと、彼に会いたいと思っていくんだと思うわ。でもね、私は大丈夫。娘たちがいるし、孫たちもいるしね。多分、もう、あなたには会えないと思うけど、本当にどうもありがとう。あなたとキンバリーがいてくれて、どんなに心強かったことか。テッドも同じ気持ちだったと思うわ」
「リンダさん、本当に素晴らしかったのは、あなたです。あなたのお手伝いができて、私は幸運でした。あなたがテッドさんのためにしてきたことは、並大抵のことではないです。それでも、笑顔を絶やさなかったあなたの献身と愛情には、本当に敬服するし、羨ましいです。テッドさんは、本当に幸せな人ですね」
 溢れだした涙をぬぐおうともせず、リンダさんは頷きながら、「ありがとう、ありがとう」とくりかえしました。私たちはもう一度ハグをすると、お互いに泣き笑いの崩れた顔で、手を振りました。
 テッドさんは、金曜日の早朝、家族に見守られ、静かに息を引き取りました。その二日後に開催されたスーパーボウルで、イーグルスは素晴らしい試合をしました。そして、接戦の末、その定評通り、わずか3点差で王座を制することはできませんでした。けれど、それはそれで、やっぱりフィラデルフィアらしい、愛すべきイーグルスであり、きっとテッドさんも上の方から眺めて、満足していたのではないかと思います。試合も人生も、大切なのは結果よりも、そこにたどり着くまでどんなふうに向き合ったか、全力を尽くしたのか、ベストを尽くせたのかだと思います。リンダさんは、テッドさんが最期までベストを尽くしたことを知っていたから、悔いなく見送ることができたのでしょう。だからこそ、葛藤と祈りの末に、納得することができたのだと思うのです。そして、そんなテッドさんを看取ったという誇りが、彼との思い出とともに、リンダさんのこれからの人生を支えていくのだと思います。
 
 
 
[2023/07/07 06:32] | 忘れられない人々 | トラックバック(0) | コメント(0)
妻の決意 (1)
 70代後半のテッドさん(仮)は、末期のパーキンソン病で、経口摂取が困難になってきたことによる体重の減少が著しく、転倒のため入退院を何度か繰り返した後、本人が胃瘻造設を拒否し、自宅での緩和ケアを望んだため、在宅にてホスピスケアを開始しました。まだ、私たちのホスピスが1年後にどうなっているかなど、誰も想像もしていなかった頃です。
 お互いに再婚同志の奥さんと、簡素でこざっぱりとしたアパートで暮らしていたテッドさんは、私の受け持ちではありませんでしたが、テリトリーの一部をシェアしていたナースのケイが行けない時に、しばしば訪問していました。
 初めてテッドさんに会った時は、彼はまだ、歩行器と奥さんのリンダさんに支えられ、何とかベッドルームから5メートルほどのリビングルームにある、リクライニングチェアまで歩いていました。背が高くハンサムなテッドさんと、彼を支える小柄で愛嬌のあるリンダさんの二人は、いつもマンガの『チッチとサリー』を連想させました。しかし、それも次第に難しくなり、ほんの5メートルでしたが、移動用の軽量型車いすを使うようになりました。テッドさんはこちらの言うことはわかるのですが、調子のよい時しか言葉を発することができず、表情も硬いため、コミュニケーションを取るのはなかなか困難でした。しばらくすると、テッドさんはサンダウン(夕暮れ)症候群とよばれる、夕方から夜間にかけての不穏症状が出始め、夜中にベッドから落ちたり、薬をのむのを拒否したり、リンダさんに攻撃的な態度を取ったりするようになりました。もともととても穏やかで優しく、明るい性格のテッドさんに、見たこともないような険しい顔で拒絶されたリンダさんは、それが病気のせいだとわかってはいても、やはりショックを隠せませんでした。
 サンダウン症候群は抗不安剤をうまく使うことでだいぶ落ち着きましたが、テッドさんは調子のいい日と悪い日の行ったり来たりをくりかえしながら、着実に弱っていきました。調子のいい日よりも悪い日の方が多くなり、次第にそれが彼の”ニューノーマル”になっていきました。最初は「娘が手伝ってくれるから大丈夫」と言って断っていたホームヘルスエイドもついに受け入れ、リンダさんが少しでも自分の時間を持てるよう、ボランティアの活用も勧めました。それでも、リンダさんはできる限り自分でテッドさんのケアをしようとし、24時間、常にテッドさんのことを気にかけていました。ケイもMSWのキンバリーも、疲弊していくリンダさんに、ことあるごとにホスピス病棟でのレスピット(認定期間毎に5日間、ホスピス病棟や、提携しているナーシングホームなどにショートステイできる、メディケアのホスピスベネフィットで保障されているケアレベル)の活用を勧めましたが、リンダさんはなかなか決心できずにいました。しかし、2回目の認定期間である6カ月目が過ぎようとした頃、慢性的な睡眠不足で疲れ切ったリンダさんは、とうとうレスピットを利用することにしたのです。
 あんなにためらっていたレスピットも、実際に利用してみると、リンダさんは5日間で見違えるように元気になり、ホスピス病棟でのテッドさんのケアにも満足し、「あなた方の言う通りだったわ。どうしてもっと早く利用しなかったのかしら」と言って、笑いました。私たちもほっとして、これからは定期的にレスピットを活用してもらえるだろうと喜んでいました。
 ところが、そんな矢先に飛び込んできたのが、ホスピスを含む訪問看護部の、ジョイントベンチャーのニュースだったのです。もともと私たちが所属していた病院は、古くから地域に根差した総合病院でしたが、2015年にフィラデルフィアの大学病院のヘルスシステムに吸収合併され、当時も多くの仲間たちが去っていったのですが、何とか再構築し、ホスピス病棟の存在もすっかり浸透、在宅ホスピスと共に、地域の人々に信頼され、最後の頼みの綱として認められるようになっていったのです。それを、その大学病院のヘルスシステムは、あっさりと全国ネットの大手ホームケア会社と、51(向こう)/49(こちら)%の出資で、ジョイントベンチャーと銘打って、新しい会社を立ち上げたのでした。そしてそこからは、転がる石のごとく、私たちが愛したホスピスは、崩壊への一途をたどったのです。
 リンダさんが頼みの綱にしていたホームヘルスエイドは、1人、2人と去っていき、背に腹は代えられずにナースがカバー、そのナースたちもどんどん辞めていき、テッドさんが受けられるはずのケアは、人手不足により守ることができなくなっていきました。人材流出は在宅だけでなく、ホスピス病棟も同様で、とうとう一旦閉鎖することになったのです。表向きには、リノベーションのため、という名目でしたが、実際は再開の目途は全くの闇の中でした。チームミーティングの度、ケイとキンバリーは上司に「ホスピス病棟はいつ再開する予定なの?っていうか、本当に再開できるの? レスピットが必要な家族がいるんだけど」とたずね、その都度、上司は「再開はするわ。いつかはまだわからないけど、準備はしているから」と答え、誰もが心の中では、再開を強く願いつつ、しかし、上司の言葉を心から信じることはできずにいました。それでも、上司は彼女の立場でできる限りのことをし、ホスピス病棟再開のために、全力で準備を進めていたのです。そして、ついに一週間後に再開が決まったと上司からアナウンスがあり、私たちは半信半疑ながらも、少しだけ希望の光を見た気がしました。が、それもまたぬか喜びに終わり、その光は一瞬にして吹き消されました。金曜日の朝、理事会の緊急会議がおこなわれ、ホスピス病棟再開はいったん棚上げされたのです。理由は、採算が取れるか再度見直しする必要がある、ということでした。その期に及んでそんな理由をつけることの本当の意味は、誰から見ても明白であり、つまり、私たちのホスピス病棟の未来は、ほぼ確実に葬られたのでした。
 キンバリーと私の転職が決まり、その後、ケイも別の仕事を探し始め、リンダさんは途方に暮れていました。キンバリーは、彼女と私が○×ホスピスに移ること、テッドさんとリンダさんには、ホスピスを選ぶ権利があり、別のホスピスに移ってもメディケアのサービス期間には何の支障もなく、ベネフィットはそのまま継続されることを、リンダさんに伝えました。もちろん、その地域には○×ホスピス以外のホスピスもいくつもあり、私たちは○×ホスピスを勧めたわけではありませんでしたが、リンダさんは「考えてみるわ」と、他のホスピス探しも考慮し始めたようでした。そして、そんな風にあとに残していく患者さんや家族に後ろ髪をひかれながら、私は○×ホスピスで再出発したのです。
 キンバリーと私が新しい職場に慣れてきた頃、私たちはアドミッション報告(新患)に、テッドさんの名前を見つけました。キンバリーと私は大興奮で、ほぼ同時にお互いの携帯に、‟見た? テッドさん、とうとう来たね!”とテキストを送りあい、私はリンダさんが○×を選んでくれたことが嬉しく、キンバリーと二人で担当できないかと、密かに願っていました。そして、その願いを知ってか知らずか、ボスのジーンは、テッドさんがキンバリーと私の前職場だったホスピスからの移転であることから、私たちに彼を知っているかどうか尋ねてくれました。そして、私たちの「もちろん」という返事を聞き、だったら、と、私たちを彼の受け持ちにしてくれたのです。
 ほんのひと月余りではありましたが、リンダさんは私たちとの再会を、本当に喜んでいました。お久しぶりのハグをした後、リンダさんは、私たちが去ったあとの様子を利用者側からの視点で語ってくれました。病棟の閉鎖や、ホームヘルスエイドのサービスが不安定になったこと、そして、スタッフがどんどん変わり、心を許して話せる人がいなくなってしまったことで、あのままテッドさんを自宅で看取ることに、不安と限界を感じたのだそうです。そして、彼との約束、つまり、最期まで自宅にいることを守るために、彼女は○×ホスピスへの移転を決断したのでした。
 「キンバリーとNobukoが受け持ちになってくれるって聞いて、もう、飛び上がっちゃったわ。ケイも辞めちゃって、本当に、どうしようかと思ったけど、これで安心。テッドはね、あなたが最後に来た時と比べたら、ずいぶん変わってると思うわ。もう、たまにしか反応してくれないし、ベッドから起き上がることもないのよ」
 久しぶりに会ったテッドさんは、さらに痩せ、面変わりするほどでしたが、私を見ると、少しだけ目を見開き、口を動かしました。言葉にはなりませんでしたが、テッドさんが私を覚えていてくれたことに、間違いはありませんでした。そして、働く組織は違っても、私は彼のホスピスナースであり、この2人の人生に、再び関わることができる縁に、嬉しいような、有り難いような、襟を正すような、なんともちょうどいい言葉が見つからない感情が湧き上がってきたのです。妻の決意(2)に続く。
[2023/05/29 06:13] | 忘れられない人々 | トラックバック(0) | コメント(2)
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ラプレツィオーサ伸子

Author:ラプレツィオーサ伸子
アメリカ東海岸で在宅ホスピスナースをしています。アメリカ人の夫、子供3人、犬一匹と日々奮闘中。

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