午前零時の奇蹟(シュル・レアリスム覚醒の時間)
これです。
イジー・トルンカのパペット・アニメーションですか?
と問われれば、ハイそうです。
と、澄まして答えるのだが。
実は、午前零時の居間での出来ごと。
偶然、ハンガーにかけた幼稚園の制服と帽子がこの形となって闇に溶け込んでいたのだった。
もちろん、わたしは呆気にとられた。
何かを喋りかけそうになり、口ごもった。
ややドキドキし、そっとワクワクした。
このとき、わたしが水を飲みに降りてこなければ、そのままこの空間に明日の太陽光が沁み渡っていたはずだ。
形自体が認識される余裕すらなく、解体され、何事もない日常が始まっていたであろう。
我が家のシュル・レアリズム0時である。
素敵な訪問者の記録である。
そう、こういうものは、すべてきっと、こんな風にやってくるものだ。
いや、成っているものに違いない。
こんな写真、もう二度と撮れはしない。
真似ごとは出来ても、それこそ全く意味がない。
この”時間”の”出来ごと”こそがあくまで問題なのである。
二度とないことの重さが。
これを今思うと、、、
これまでその存在に気づくことなく永遠に忘れ去られてしまった出来ごと―その時間の完全な喪失、もしかしたらそこから乗り換えられたかもしれないわたしの時間(その可能性)についても想いを馳せることになる。
それについて、何らかの克明な記述―描写こそできれば。
多分わたしが理解する範囲だが、きっとこれをシュル・レアリスムと呼ぶのだ。
この身体性を。
これは人間において本質的な存在学に関わるものだと思う。
その場を喪失(吉本隆明)と呼ぶか過剰(蓮實重彦)と呼ぶかは別として。
恐らく同じことであろう。
この次は、銀色に煌く広大な砂浜を滑り落ちてくるような”夢”に出逢いたい。
夢は願えば何らかの形で実現するという。
もはや夢も現もない。
あるのは、場所としか呼べない(時空)。
テオ・アンゲロプロス(Theo Angelopoulos)の映画のような、、、。
霧に煙るアンドレイ・タルコフスキーの廃墟でもよい。
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イジー・トルンカのパペット・アニメーションですか?
と問われれば、ハイそうです。
と、澄まして答えるのだが。
実は、午前零時の居間での出来ごと。
偶然、ハンガーにかけた幼稚園の制服と帽子がこの形となって闇に溶け込んでいたのだった。
もちろん、わたしは呆気にとられた。
何かを喋りかけそうになり、口ごもった。
ややドキドキし、そっとワクワクした。
このとき、わたしが水を飲みに降りてこなければ、そのままこの空間に明日の太陽光が沁み渡っていたはずだ。
形自体が認識される余裕すらなく、解体され、何事もない日常が始まっていたであろう。
我が家のシュル・レアリズム0時である。
素敵な訪問者の記録である。
そう、こういうものは、すべてきっと、こんな風にやってくるものだ。
いや、成っているものに違いない。
こんな写真、もう二度と撮れはしない。
真似ごとは出来ても、それこそ全く意味がない。
この”時間”の”出来ごと”こそがあくまで問題なのである。
二度とないことの重さが。
これを今思うと、、、
これまでその存在に気づくことなく永遠に忘れ去られてしまった出来ごと―その時間の完全な喪失、もしかしたらそこから乗り換えられたかもしれないわたしの時間(その可能性)についても想いを馳せることになる。
それについて、何らかの克明な記述―描写こそできれば。
多分わたしが理解する範囲だが、きっとこれをシュル・レアリスムと呼ぶのだ。
この身体性を。
これは人間において本質的な存在学に関わるものだと思う。
その場を喪失(吉本隆明)と呼ぶか過剰(蓮實重彦)と呼ぶかは別として。
恐らく同じことであろう。
この次は、銀色に煌く広大な砂浜を滑り落ちてくるような”夢”に出逢いたい。
夢は願えば何らかの形で実現するという。
もはや夢も現もない。
あるのは、場所としか呼べない(時空)。
テオ・アンゲロプロス(Theo Angelopoulos)の映画のような、、、。
霧に煙るアンドレイ・タルコフスキーの廃墟でもよい。
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