隣の影
Undir trénu
2017
アイスランド・デンマーク・ポーランド・ドイツ
ハーフシュテイン・グンナル・シーグルズソン監督
ステインソウル・フロアル・ステインソウルソン、、、アトリ(妻に家を追い出された男)
エッダ・ビヨルグヴィンズドッテル、、、インガ(アトリの母親)
シグルヅル・シグルヨンソン、、、バルドウィン(アトリの父親)
ソルステイン・バフマン、、、コンラウズ(バルドウィンとインガ夫妻の隣人)
セルマ・ビヨルンズドッテル、、、エイビョルグ(コンラウズの妻)
ラウラ・ヨハナ・ヨンズドッテル、、、アグネス(アトリの妻)
アイスランド語である。
なかなかエキゾチック。
しかし人の考え方、感じ方がとても日本人と似ている。
(いい大人がと思うが、実際こんなものだろう)。
とても近いものを感じた。隣の芝生は羨望の象徴ともなるが、でかい木となると影が暗い陰を落とす。
猫もどこも同じで、独自の時間を生きている。他者である。
この噺は、日本でも十分通用してしまう(住宅事情も含め)。
隣の木が原因でうちの庭に陰が出来てしまうから何とかしてくれ。
隣の家同士で、これが発端となりとんだことになってしまう。
途中でインガの可愛がっていた猫が暫く姿を消す。
これが彼女の思い込みが狂気に変貌する流れを作る(事態が加速する)。
そしてついにもとには戻れない決定打として隣の犬の剥製化である。完全にレッドゾーンを超えてしまった。
一度疑心暗鬼となると、ちょっとした変化や事故もすべて隣の住人の仕業~企みとなってゆく。
関係ないことまですべてが隣の引き起こしたことであり、諸悪の根源となる。
他者を見失う。全てが自己幻想~妄想の中に閉じてしまう。
妄想が自動的に増幅するのだ。そして機械的に振り回されるとなれば主体はその肥大した妄想自体に他ならない。
そして惨憺たる事態を引き起こし、完全に修復不可能な状況になったところに、素知らぬ顔で猫が旅から帰ってくる。
これまでの悲惨極まりない滑稽な攻防の幕引きにはぴったりだ、と笑いが込み上げるものだ。
皮肉と言いうには余りに滑稽すぎて、、、。
日光浴に差し支えるから大きな木の剪定を頼むよ、からお互いの家の器物損壊、タイヤのパンク、猫の謎の失踪、そして報復の犬殺し、、、
(猫はもともと謎の生き物であり、アトリが言ったように時折、長旅に出てゆく都合もある)。
果ては実力行使で木を倒したらその警戒に外でテントに寝ていた息子を直撃。
切ったのは隣の旦那だがその木を旦那ごと押し倒したのは息子の父である。
向こうは事故だと主張するが、息子の父は犯行を認めろと詰め寄り、結局殺し合いとなる羽目に(笑。
確かに険悪な関係を作ってしまった後で猫が勝手にどこかに出かけていなくなれば、心配で不安が募るだろう。
そしてその不安の解消のため、報復という形で隣にぶつけてしまう。
(このパタンはスケールを変えて様々な局面にも現れる。国家間にも)。
隣の大切に飼っている犬を剥製にして玄関口に置いておくのだ。
挑発というより、もう狂気の世界である。
これは飼い主にとって飛んでもなくショックに違いない。
ここで完全に常軌を逸した、戻ることのできない流れとなる。
(人間的理性などこれ程脆いものか)。
一番の諍いの元を作った頑迷なインガが茶を飲んでいるとき、窓辺の下に猫が優雅な身のこなしで戻ってくるではないか、、、。
息子は重傷で入院しかも離婚が決まり家は崩壊、自分の亭主と隣の亭主は同士討ちで死亡。向こうの奥さんは犬を剥製にされてからショックで寝込み、一番何でもないのは、恐らく元凶ともいえるインガであろうが、、、
ゆったりとしたお茶の時間に何を思うか、、、。
間違いなくドギツイブラックコメディであった。
猫には何の関係もない世界である。
(わたしもこんなところにいたら、猫のように暮らしたい)。
邦画にも充分リメイク出来る世界観ではあるが、わざわざ作るものでもあるまい。
これ一本でたくさん(いや似たものを他で観たような気もする)。
わざと何も書かなかったのだが(他はくどく書いておいて)、アトリという息子夫婦の問題を幼い少女も出してこの一件にどう絡めようとしたのか、いまひとつ意図が分からなかった。兄の失踪から母インガの精神状態が思わしくなくなったことは分かるが、その弟夫婦~妻を裏切り離婚を切り出されて悶々とする男の問題はまた異質であろう。
今一つ余計な絡みに思えた。
まあ、いずれにせよどこも同じようなもんだな~という認識をグロテスクなかたちでさせる映画であった。
よくできているが二度も見るような作品ではない。
AmazonPrimeにて