否定と肯定
Denial
2016年
イギリス・アメリカ
ミック・ジャクソン監督
デヴィッド・ヘアー脚本
デボラ・E・リップシュタット『否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる戦い』原作
レイチェル・ワイズ 、、、デボラ・E・リップシュタット(大学教授)
トム・ウィルキンソン 、、、リチャード・ランプトン(法廷弁護士)
ティモシー・スポール 、、、デイヴィッド・アーヴィング(ホロコースト否定論者)
アンドリュー・スコット 、、、、アンソニー・ジュリアス(事務弁護士)
ジャック・ロウデン 、、、ジェームズ・リブソン(事務弁護士補助)
カレン・ピストリアス 、、、、ローラ・タイラー(事務弁護士補助)
アレックス・ジェニングス 、、、サー・チャールズ・グレイ(判事)
ハリエット・ウォルター 、、、ヴェラ・ライヒ(ホロコースト生還者)
マーク・ゲイティス 、、、ヴァン・ペルト教授(ホロコースト学者)
ジョン・セッションズ 、、、エヴァンス教授
「情報」の問題ではある、、、。
前提として当然在ると信じていたことであっても、実はなかったという可能性はある。
その直接な当事者でない場合、われわれは書籍やTVやネット画像などでそれを知る。
それを真実であると思い込んでいる。いや思い込まされている。
メディアを介した世界認識はそれを流す管理側からすればとも容易く操作可能であることは確かだ。
ひと頃流行った(今でも消えた分けではないか?)アポロ11号は月面着陸などしていない、という例のねつ造説である。
あれはスタジオで製作して全世界に配信されたものだというまことしやかな噂で、その類の映画すら作られている(こちらは火星にしているが)。「カプリコーン 1」である。とても面白い映画ではあった。
ここでは「ホロコーストなどなかった」である。
こういうことを力説されたらキョトンとする他ない。
だが、実際その辺のある・ないという話は尽きない。従軍慰安婦はあった・なかったをはじめ、、、かなりあるものだ。
実はあったのに歴史の闇の中に意図的に消された事柄や勝者の文脈から外れ全く取り上げられないまま消え去った事実もどれほどあったか分からない。そしてそれはもう取り出すことなど、ほとんどの場合永久に不可能だ。
忘却以前の存在すらなかった或る出来事なのだから、、、そんな無意識の歴史を時折想う、、、。
わたしの存在もいつの間にか跡かたなく消え去っていることは間違いない。
要するに誰の中にわたしの情報が受容されて引き継がれ(組み込まれ)て展開してゆくか、だけである。
誰がが問題なだけだ。少なくとも私の場合は。
(ネアンデルタール人がホモサピエンスに組み込まれて存続しているというドラマチックな事実にも想いを馳せる)。
さて、この”Denial”(否定)では、「アウシュビッツ」の映像がかなり生々しく出てくる。
やはり映像の力(情報力)は大きいとしか謂えない。
わたしもあれを見ただけで、身体的に知識として受け取ってしまう。しかし画像とは両刃の剣だ。
画像(写真)とは常に言語的に読まれるものである。高度に意味付けが成されて配布される。
例え同じデータであっても読みによって正反対の価値~意味になる場合も少なくない。騙りによって何とでもなり得る。
以前にも「情報リテラシー、、、」に関して覚書を書いたことはあったが、これは日々の生活レベルにおいても差し迫った問題になっている。(更に巧妙化して続いているオレオレ詐欺なども騙りの力を実証している)。
歴史的に世界においてこれ程重い事実として、戦争~ヒトラーを考える前提とされていること自体を再度検証し直す、しかも学問(歴史)的にとか哲学的にではなく法廷でその事実を決めようというのだ。最初から何という事件か?という感じである。
著作の事実認識の誤りを指摘したら、名誉棄損で訴えて来る。
それを理論的にまた実証的に緻密にやりこめていったら、裁判長から彼はしかし自分の理論を信じており嘘をついている認識はないのではないか(故意に事実を歪曲した分けではないのでは)などという横槍が入り皆唖然とする、、、ところなど笑えた。
しかしこういうことはあるのだ。
われわれの世界は様々な思惑をもった人間で構成されている。
どのような欲望(又は盲目的な欲動)で情報を操作・歪曲・ねつ造してくるか分からない。
それがどんな風にどのタイミングで身に降りかかってくるか、幾度かわたしも経験して驚いてはいる。
勿論、実害をもたらしてくる場合はこちらも完膚なきまでに叩き潰すが、それをするタイミングを逸したままで来ている件もある。
タイミングは見計らわなければならない。何処かを経由してまた回ってでも来たならその時に1000倍はお返しする。
常に臨戦態勢にいることが肝心だ。
戦略も重要だ。(ここでは冷静で準備周到なチームプレイであった)。いろいろあろう。
言論の自由は保証されるべきだが、事実の歪曲や説明責任の回避は許されないと主人公は最後に述べているが、自由がどうのという問題ではない。ただ情報に対する誠実さ、これのみである。