2018年07月の記事 - NewOrder
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GOMA28

Author:GOMA28
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ザ・ホスト 美しき侵略者

Saoirse Ronan

The Host
2013年
アメリカ

アンドリュー・ニコル監督・脚本
ステファニー・メイヤー『ザ・ホスト』原作
アントニオ・ピント音楽

シアーシャ・ローナン 、、、メラニー・ストライダー/ワンダラー
ジェイク・アベル 、、、イアン
マックス・アイアンズ 、、、ジャレド・ハウ
フランシス・フィッシャー 、、、マギー
チャンドラー・カンタベリー 、、、ジェイミー・ストライダー(弟)
ダイアン・クルーガー 、、、シーカー/レイシー
ウィリアム・ハート 、、、ジェブ・ストライダー(叔父、人間のレジスタンス指導者)

ガタカ」の監督である。

マリー・アントワネットに別れをつげて」でマリー・アントワネットを演じていたダイアン・クルーガー。
アンノウン」の存在感も光った女優だ。
「つぐない」で凄い子役ぶりを見せて注目を浴び、「ハンナ」、「グランド・ブダペスト・ホテル」、何と言っても「ブルックリン」のシアーシャ・ローナンの主演である。

分かり易いSF恋愛映画である。
とても観易い。
ソウルという地球外生命体に征服された人類。
体を乗っ取られた人間は目の色が銀色?に変わる。見た目は分かり易い。
銀目玉の圧倒的多数~体制に対する少数の生き残り(オリジナル)人類という構図か。
すでに残った人類などほとんど相手にしていないが、ダイアン・クルーガーのシーカーはムキになって残党を探す。

彼らはその惑星に棲む知的生命体に乗り移って生きながらえてきているという。
メラニーに移ったソウルは1000年以上も生を繋いでいるらしい。
その振る舞いはDNAのようだ。ある意味、われわれの肉体はDNAの乗り継ぐ舟のようなものだから。

ソウルに体を乗っ取られた者たちに対する少数の人類レジスタンスの残党たちが、何とか人類の世を取り戻そうとする。
しかしソウルに身体を受け渡しながらも人間としての意識を残し内部~こころで葛藤するメラニーのような例も現れる。
そんなワンダ/メラニーという存在を軸に話しは進展する。
テーマは「愛」である。
理屈ではない。
様々な感情の揺れ動きが物語を展開させてゆく。

Diane Kruger

(外科的な)医学は非常に高度に発達しているのに、他のテクノロジーが地球人の使っているものをそのまま利用している。
まどろっこしくはないのか?
シーカーが逃げたメラニー・ストライダー/ワンダラーらを探すのに、ほとんどテクノロジーが駆使されず、ヘリと車の目視で探しまわり、地球は広いわね、みたいな弱音を吐いているのにはまいった。遥か彼方の深宇宙から地球を探し出してやって来たエイリアンなのか、ホントに?まあ、そんな部分は沢山あるのでいちいち問わない。

テーマは恋愛である。

とは言え、身体が余りに異なるのに、(恋愛)感情や思考が似ている、というよりほぼ同じというのも、逆に大変違和感を覚える。
特に1000年以上も生きている知的生命体のワンダラーが地球人のティーンの女子くらいの知的反応~対応しかないというのも、どうなんだろう。
そしていとも簡単にレジスタンスのひとりの男子に恋をしてしまう。
でも元の彼女メラニーは他の男子が元々好きなのだ。
一つの体で、好きな男子が別なのだ。別々に違う男子を好む主体がふたつ同居している。
これは二股架けるというのとは原理的に異なる状況である(敢えて言うまでもない)。
極めて身体性の比重が強い恋愛が、そんな分裂状態でそもそも可能であるのか?

元は光るミジンコみたいな身体性をしていて、人間の男子にそんなに簡単に恋をできてしまうのだろうか。
純粋に精神的にと言いたいところなのだろうが、、、。
それが、俄かに納得できないために終盤ズブズブと恋愛の沼地に沈んでゆくに従いこちらは白けて浮上してくるのであった。

host.jpg

ソウル(エイリアン)を宿主の人間から取り出す場面はとても興味を惹かれる光景であった。
そして一人だけ暴走してメラニー/ワンダラーを追ってきたシーカーを人間に戻すことによって、彼女の内的な葛藤も知ることが出来る。結構、乗っ取られた人間の精神が、強く抑圧されながらも人間本性~記憶(意志)を残し持っていることが分かる。
この辺は妙にリアルで説得力ある部分であった。

だが恋愛映画として観る場合、余りに単純でかなり無理がある。
共感がどうのというレベルではない。

シアーシャ・ローナンの映画としては、「ブルックリン」の方が圧倒的に良い。
ダイアン・クルーガーはなかなかクール・ビューティな面は魅せることが出来ていたので、それなりによかったのでは、、、。

謂っている内容は分かるが納得出来ない映画というのは少なくない。





未来のミライ

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2018年
細田守 監督・脚本・原作
山下達郎 オープニングテーマ「ミライのテーマ」、主題歌「うたのきしゃ」

上白石萌歌、、、くんちゃん(4歳)
黒木華、、、ミライちゃん(くんちゃんの未来から来た妹)
星野源、、、おとうさん(建築家)
麻生久美子、、、おかあさん(キャリアウーマン)
吉原光夫、、、謎の男(ゆっこ)
宮崎美子、、、バーバ
役所広司、、、ジージ
福山雅治、、、青年(曾ジージ)

娘が「これみたい、みたい」とせがむので、映画館へ。

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いつも車の中で聴いている上白石萌音の妹が主人公の声であり、それなりの親近感をもっていたが、、、声優が誰であるかは関係ないな、と改めて思った。くんちゃん、であった。

細田守監督の作品は、「時をかける少女」、「 サマーウォーズ」、「おおかみこどもの雨と雪」、 「バケモノの子」、と本作となる。

どれをとっても良いが敢えて言えば「サマーウォーズ」、、、かな。
サマーウォーズも主題歌が、山下達郎 『僕らの夏の夢』であったが、他の誰でもないメロディーラインと粘っこいヴォーカルで、とても良かった。

4歳の男の子が主人公というアニメ~映画は、他に知らない。
(森永乳業の絡んだ「私は二歳」(市川崑)という映画はあるが、、、)。

4歳のくんちゃんの冒険を軸に物語が展開する。
冒険はその都度、接続される亜時間の流れの中で成される。

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くんちゃんに妹~あかちゃんが出来、両親の意識や注意はほとんどそちらに向く。
くんちゃんは、淋しくなる。
おいたをして注意を自分に向けようとするが上手くいかず、あかちゃんのミライちゃんを新幹線の玩具でぶったりして余計に怒られ逆効果となり悪循環となる。ともかく、ミライちゃんの存在が疎ましくて仕方ない。

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そんな時に中庭に幻が現れる。
飼い犬ゆっこが謎の男~化身となって、自分は丁度きみと同じ目に逢ったものだということを告げる。
君が生まれたお陰で餌が特売品の不味いものに替えられたと。
これを謂われても相対化は難しかろうが、僅かに他者を意識する契機にはなるか。

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お母さんに注意されては鬼婆と叫び、気に喰わないことがあれば、何にでも「好きくない」と言って暴れたり不貞腐れる。
ここは他人事ではない。よく分かる。
おとうさんにも当るが、彼はよくやっていると思う。
ぼうっとしてはいるが、距離感を常に冷静に保ち見守っている。

母の自分と同年齢の頃の時間流に入り、一緒においたをして思いっきり遊ぶ。
この距離の無さは、まず実現不可能だが相互理解には理想的な状況ではあると思われる。
母が思いの外、自分と似ていることに気付く。
親和的な共感は呼ぶはず。

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ミライちゃんはちょっと辛口の圧倒的なお姉さんである。
未来からやって来ているのだ。
まさにくんちゃんは世話の焼けるおとうととしてお世話になる。
だが、自分が彼女を守るべき存在である、いもうとという認識は生じない。

やたらめったらカッコよい福山雅治の曾ジージに馬や手製のバイクに乗せてもらいながら、大人のカッコよさを知る。
そして自転車に乗るチャレンジをする。前を遠くを見ろと曾ジージに教わった通りに。
ミライちゃんと逆の時間流にも乗る(冒険する)ことでくんちゃんはどんどん自立してゆく。
生の曾ジージから手ほどきを受けるのだ。実際こんな導きに逢えば随分得する。
飽くまでも、相手が魅力的な存在であれば、のことであるが。

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それでもだだをひたすらダダを捏ねていると、突き放した感じの高校生のお兄さんに出逢う。
未来の自分である。まるで時間の絵本を捲るような感じである。
このような時間流の交錯する中を無意識に乗り継ぎながら生きられればそれは意義深い経験となろうが、危険性を充分孕むだろう。戻って来れないという。
乗るな!という制止を振り切り、勝手にやってきた電車に乗り込んでしまう。
くんちゃんは電車オタクである。夢中になって車窓から外を眺めているうちに見事な東京駅に着く。

サマーウォーズに顕著に観られた仮想空間の構築物が、東京駅に見事に結実していた。
特に地下構造の異界の雰囲気は素晴らしい。
まさに別の光で魅惑する地下世界であった。
しかしそれは死の世界の入り口でもある。
死と再生の物語という定番でもなかろうが、実に自然な運びであった。
彼は死の世界にゆく電車に吸い込まれそうになる彼女を見出し、身を張って守る。
ここで赤ちゃんミライちゃんをくんちゃんはしっかり受け止めたのだ。
(そうした無意識の流れが生じた)。

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受けとめられたミライちゃんが今度は女子高生の姿でくんちゃんを彼の今あるべき時間系へと導く。
最後に、女子高生ミライちゃんの前から立ち去るとき、くんちゃんは「さよならするのと聞くとこれからうんざりするほど一緒にいるでしょと」言われる。
くんちゃんは元の時間に戻る。
おにいちゃんとしてミライちゃんにバナナをあげて一緒に笑う。
細田ワールドには違いなかったが、、、ちょっとこじんまりして大人しい感じはした。
(テーマから謂ってそういう映画か)。



今日も長女はトイレに行くと言ってよいところで中座した。
彼女らにどう作用するか、それなのだが、、、。
これからは、巨大ポップコーンとコーラのサイズを小さくしたい。




シルバー・グローブ/銀の惑星

Na srebrnym globie001

Na srebrnym globie
1977(1987)
ポーランド

アンジェイ・ズラウスキー監督
イェジイ・ズラウスキー『銀球で』原作(監督の大叔父)
アンジェイ・コジンスキー音楽
アンジェイ・ヤロシェヴィッチ撮影

アンジェイ・セヴェリン 、、、マレク
クリスティナ・ヤンダ 、、、アザ
ラジーナ・ディラグ 、、、イエザル
イェジー・トレラ 、、、イェルジー


160分の間に数回、気を失う。
抗えない睡魔との壮絶な闘いであった。
間違っても詰まらぬ作品だからではない。
体調の上からも無理はあった。
凄まじい大作であるが、余りに鑑賞者を寄せ付けない圧倒的な自律性~独自性により成り立つもののためか。
(半ば鑑賞者を拒絶するような)。

その強度は(度肝を抜くドロドロの映像においても)「神々のたそがれ」にも通じるものがある。
その(原)神学性からもタルコフスキー作品に繋がるものを感じる。
だが、この映画の対話~言説に入って行くことに対する抵抗は大きい。

神学的な、いやそれ(神)以前のヒトの存在に対する根源的な問いが全編を通して発せられる。
その高い熱量で素早いやり取り(過剰な情報)が難解というより極めて詩的でもあり、字幕でついて行ける範囲ではない。
異星人(シェルン)との語りもあるので猶更だ。
更に画像~細やかで特異な所作、表情、表現、行為からの微妙なメッセージからも目を離せない。
本当はポーランド語をそのまま聞き取れないと分かるところまで辿り着けない気はする。
字幕でなければ、もう少し入り込み易いかも知れない。
最低限の理解なしには、3時間近くを見届けることは出来ない映画である(いや何の映画でもそうであろうが)。
(正直、一回の鑑賞でこれほど理解の難しい映画は初めて観た。二度続けて見る体力もないし)。

Na srebrnym globie003

観たイメージを頼りに取り敢えず書くというのも覚束ないが。
神学的なやり取り~語りなどは、タルコフスキー映画にはかなりあるが、それとは随分異なる。
あのように物質的な自然に属するような語り(風のような質)ではなく、こちらは意味でありその質量がのしかかってくる。
役者たちの鬼気迫る狂気の演技により相乗作用である。
さらに衣装やシェルンの鳥を元にしたようなフィギュアの造形が際立つ。
美術のセンスが非常に高い。

また特異な点は未完であることからもくる。1977年に予定通り運べば完成を見るという矢先にポーランド政府から製作を強制的に打ち切られフィルムの多くの部分を奪われ、監督はその迫害から逃れるようにフランスに亡命して後、10年後にこの映画を未完のまま執念で完成にまでもちこむ。しかし監督自身はその上映を観ることなく亡くなってしまう。
途中の何箇所にも渡り、フィルムの欠損からそこに本来繋がるはずであったシーンの早口のナレーションが流れるという構成なのだ。
それで緊張の途切れるようなやわな映画ではないが、映像共々思弁的な運びで、世界をこちらでまとめ咀嚼することが容易ではない。
鑑賞者も編集作業をしながら見るような形を強いられる。受け身ではどうにもならない敷居がある。

その映像の塊は危険な程のエネルギー体であった。(政府は、これに危機意識をもったか?)
見る前に覚悟が必要であったことを知る。
(涼しくなってから再度、出直したい(拝)。

Na srebrnym globie002

荒廃した地球から別天地を求めて他の惑星に移住を図るというのは、極めて今日的テーマである。
ここでも地球に激似の惑星に宇宙船で不時着する。その直後から彼らは神学的な問答を始める。
わたしもその手の噺は好きなのだが、置いてけぼりを喰う(爆。ポーランドのセンスにどうもついてゆけないのか、、、。
その惑星で彼らは子供を作るが、地球におけるより成長が速く、自分が活きている間に何世代もの子孫をもうけることとなる。
子孫たちは科学者の先祖の教育は拒否し、独自の宗教を打ち立て呪術的な世界が形成されてゆく。
初代は太古の人と呼ばれ聖職者みたいな立場となり、一人が殺され残った者は神となる。
不時着以来ずっと日々の出来事をビデオに撮り続けていた彼は、膨大なデータを地球に送る。
そのカプセルを手に入れた科学者がその星に実情を調べに来て、救世主の扱いとなる(これは預言されていた)。
シェルンという先住民との闘いで彼は陣頭指揮を執り脅威から人々を救うが、人類を地球に連れて還る気が無かった為、十字架に架けられ殺される。
、、、このような表層の筋を追ってもまるで意味はない。その場面場面での迫真の演技とセリフの連打がこの映画そのものであろう。スプラッター場面はあるにしても、高く掲げられた棒にお尻から刺されて内臓を垂れ流して死んでゆく刑は、如何にも痛いが(爆。

やはり「神々のたそがれ」に対抗できるのはこの作品くらいか、、、

Na srebrnym globie004

この映画は夏バテの身で見る映画ではない。
冬の迫る秋にでも体調を整えて集中して観なければならない映画と謂えるか、、、。








トトロの雨

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昨日、台風の中、長女とドライブをした。
ワイパーをうんと速くしても前の見える時間は僅か。
風の唸りとシャワーの細かく鋭い連続音。
この水のお陰か、車内の空間密度が昇まる。
濃密になって来る。

桜並木の中央通りに差し掛かると、雨のシャワーとは全く別の水の塊の落ちる低音が不規則に天井に鳴り響く。
ちょっとユーモラスな太鼓の音だ。
後ろの席で、彼女が「トトロ、トトロ」と歓ぶ。

確かにそうだ。
トトロだ。

ドン!と鳴るとキャハっと笑う。
また、、、ドン!と鳴るとこちらも一緒に笑ってしまう。
ドドン!(笑。
ドドドン!(爆。


トトロサウンドとシャワーで音も視界も密閉される感覚が嬉しい。
この状態がもっと進めば、走るアイソレーション・タンクとなるか?
アルタード・ステイツへとコズミック・ドライブ!(笑。

豪雨の日はスピードがより際立つ。
水しぶきを豪快にあげて走る。
気持ち良い。
水の四重奏だ。
離脱する。

特別な浮遊感。


離脱。



さあ、どこに再接続するか、、、


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アンドロメダ

The Andromeda Strain001

The Andromeda Strain
1971年
アメリカ

ロバート・ワイズ監督・製作
ネルソン・ギディング脚本
マイケル・クライトン『アンドロメダ病原体』原作

アーサー・ヒル 、、、ジェレミー・ストーン博士
デヴィッド・ウェイン 、、、チャールズ・ダットン博士
ジェームズ・オルソン 、、、マーク・ホール博士
ケイト・リード 、、、ルース・リーヴィット博士
ポーラ・ケリー 、、、カレン・アンソン(看護婦)
ジョージ・ミッチェル 、、、ジャクソン老人
ラモン・ビエリ 、、、マンチェック少佐


地球の静止する日 ”The Day the Earth Stood Still ”(1951)ロバート・ワイズ監督のSFと謂えばわたしにとって、これである。
色褪せない名作だ。(ちなみに「地球が静止する日」(2006)はリメイク版で、ゴルドベルグ変奏曲が流れるこれも名作)。
「アンドロメダ」については知らなかった。BSに入って来たので観てみた、、、毎度のことである(笑。
(恐らくロバート・ワイズ監督と言えば、もっとも有名な映画は「ウエスト・サイド物語」かなとは思うが。これの感想は書いていないが、見事なエンターテイメントという以外に何が謂えるか)。

The Andromeda Strain002

墜落した人工衛星スクープ7号に付着した未知の生命体が原因で、赤ん坊とアル中の老人の2人を残し村一つが全滅する。
死体がころころ転がっているのだ。明らかに人工衛星が宇宙から持ち込んだ「病原菌」による事件であることは疑いようのないものであった。
「宇宙戦争」”War of the Worlds”では、火星人が地球のバクテリアに感染して全滅するが、その逆である。
その被害の検証と危険性~伝染(パンデミック)を防ぐ為、各分野の一流の科学者がその地に召集された。
死人の血が直ぐに凝固して傷をつけた腕から血液の粉末がさらさら砂みたいに落ちるところなどインパクトは大きい。
「科学的な危機を正確かつ客観的に記録した報告」という体裁をとっている為、ドキュメンタリー風に描写しているのが一番の特徴である。わたしは始めの頃は、本当にあった事件かと疑いつつ心細い気持ちで見ていた(笑。勿論、DNA構造とは全く別種の結晶構造による緑の生命体が出てからフィクションであることに安心したのだが(爆。
だが、アンドロメダ菌株の増殖など、その光具合の演出で終始不気味で不安な基調は維持されていた。

また、この時期特有のSF画像の質感が何とも言えない郷愁に染まる。
レトロなテクノロジーが何ともくすぐったい感覚だ。
特にコンピュータであり、そのパネル表示などたまらない。表示ドットの粗さがまた良い。
ジージー音を立てて印字するプリンタも、ランプ類もスウィッチもしかり。
今なら、空中に現れる透明パネルを指でスクロールなどしながら入力したり確認したりとなるところだが。
しかしディテールはしっかりしている。
全てが堅牢に作られていて話し共々重厚である。

The Andromeda Strain003

まずワイルドファイア地下研究施設入構時の何重にも渡る厳格な「防疫・滅菌手続き」を漏らすところなく丁寧に追って行く。
非常に詳細かつ説明的な描写なのだが、それが一貫して全般に行き渡っている。
前半は施設の全容やシステムを明かす(原爆の自爆装置が自動で作動することが大きなポイントである)が、どうにも禁欲的で派手さのない内容なのだ。しかし、石に付着した緑の生命体を特定したところから、かなりの緊迫した展開となる。
アンドロメダ「菌株」の正体を探り、それを無効化する対策を練って行く4日間の過程は、事件やアクションはほとんど無いにも拘らず充分にサスペンス要素もあるスリリングなものであった。

科学者全員には明かされていなかったようだが、スクープ7号は、宇宙空間の微生物を回収して生物兵器を作り出す軍事目的で運用されていた。この辺はある意味、お約束かも知れないが、冷戦下であれば、このような思惑も必然であるか。

結局、ふたりの生存者の状況観察と、アンドロメダ菌株に対する培養実験など様々な実験観察、それを元にしたコンピュータシュミレーションなどからアンドロメダ菌株は狭いpH領域において生存~増殖可能である事が解明される。
強い酸性(アル中のおやじ)か、強いアルカリ性(赤ちゃん)であれば助かるというのだ。
う~ん、、、。
感染した科学者が一生懸命、速い呼吸をしていたのが、何とも言えない。
それから、赤いアラートの光を見て癲癇発作を起こす紛らわしい細菌学者もいたりして、伝染と間違え混乱を呼ぶなどとてもリアルなシーンもあった。
アンドロメダ菌株の無害化に彼らは成功する。

The Andromeda Strain004


取り敢えず、その時点で一件落着ではあるのだが、伝染が施設内に感知された為に自動で自爆装置が作動してしまう。ここで原爆が起きれば全世界に息を吹き返したアンドロメダ菌株が勢いよく広まってしまう。というところで、危険を冒して科学者が自爆装置の解除に身を張って挑む。ここがほぼ唯一のアクションシーンであるか。
レーザー光線を受けてよろよろになりながら、なかなか頑張る。
自爆8秒前に停止。
施設内の人間は誰も死ぬことのない、ほぼ実験観察のみで130分を超すスリリングな時間を提供する硬派のSFであった。


この緻密で律義な描き方からして、ロバート・ワイズという監督、非常に真面目な人ではないか、と感じた。



獄門島

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1977年

市川崑 監督・脚本
横溝正史 原作

石坂浩二 、、、金田一耕助
司葉子 、、、勝野
大原麗子 、、、早苗
佐分利信 、、、了然和尚
草笛光子 、、、お小夜(三姉妹の母、鬼頭与三松の妾)
東野英治郎 、、、鬼頭嘉右衛門(本鬼頭家先代)
浅野ゆう子 、、、鬼頭月代(三姉妹)
中村七枝子 、、、鬼頭雪枝(三姉妹)
一ノ瀬康子 、、、鬼頭花子(三姉妹)
加藤武 、、、等々力警部
大滝秀治 、、、、鬼頭儀兵衛
上條恒彦 、、、清水巡査
松村達雄 、、、漢方医幸庵
稲葉義男 、、、荒木村長
辻萬長 、、、阪東刑事
小林昭二 、、、竹蔵(鬼頭家の使用人)
ピーター 、、、鵜飼章三(分鬼頭巴に囲われている)
太地喜和子 、、、分鬼頭巴(儀兵衛の後妻)
大滝秀治 、、、分鬼頭儀兵衛
三木のり平 、、、床屋の清十郎
坂口良子 、、、お七(清十郎の娘)
内藤武敏 、、、鬼頭与三松(本鬼頭家先代の息子、発狂し座敷牢にいる)
武田洋和 、、、鬼頭千万太(与三松の息子、帰還中に病死)

これまでに市川崑監督のものは、「犬神家の一族」と「悪魔の手毬唄」と「野火」を観たが、これも大分以前に見ていたことに気付いた。(今日BSに入って来たのでチェックがてらそのままズルズルと観てしまった)。
3姉妹が出てきたところで思い出した。
それぞれかなりの死にっぷりである。いや殺されぷりである。特に雪枝は死んでいるにも拘らず鐘に挟まれ首まで宙に飛ぶ。その後の木々や海の波の騒めき、、、ここが特異な場所~共同体であることを思い知らせるものだ。

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これなら覚えていておかしくない。
趣向を凝らしている。
俳句に合わせてそれぞれ殺害するという様式美に拘ったものだ。
何と謂うかムラという異様な呪縛装置の理屈では説明できないおどろおどろしい悲劇を描いたものか、、、?

獄門島の網元である鬼頭家の跡取りの千万太が死んだ(戦争で戦死した)場合、分家の一に継がせるために、本家の三姉妹を殺せと当主の鬼頭嘉右衛門が死の間際に和尚と村長と医者に頼んだという。
理由は他所から流れて来て息子をたぶらかした女が生んだ3姉妹に本家を継がせてはならぬ、ということらしい。
如何にも「ムラ」~呪縛の構造である。よそ者を排除する、家系を何より重視するのは分かるが、余りに極端ではないか。

ならば、その三姉妹には継がせぬと遺言でも残して死ねばよいではないか。
とても大きな権力を持った男のようだし、実際その男の言ったことが実行に移されているのである
従う方も呆れた腑抜けだが、それだけのカリスマ性があるなら、跡継ぎは誰と指定するだけで事足りる。
遺言が無く、殺人を頼まれていたにせよ、後から何とでもなろう。
実際、三人とも家を継ぐ適正を持った人ではない(頼んだ時点では三姉妹の資質まで分からないにしても)。
わざわざ、俳句に見立てて殺すという厄介で手の込んだ仕事をわざわざする必要があるのか、、、。
お前はギャングか?和尚じゃないのか?イタリアマフィアならやるだろうが。
前提からして理解に苦しむ。

ともかく、何にしてもどうでもよい他人の都合でいちいち殺されていてはたまらない(爆。
運命に翻弄された悲劇の人たちとして和尚や勝野たちをドラマチックに描いているが、一番の被害者は三人姉妹に他ならない。
扱いからして可哀そうでならない。
この噺では彼女らはただの厄介者みたいだ。
鵜飼章三を三姉妹の誰かと結婚させ家を乗っ取ろうとする分鬼頭巴の策略などもあったが、いずれにせよ駒でありモノに過ぎない。
早苗が金田一に外の世界に連れ出して、というのも分かる(わたしが一番共感したところだ)。

何より異様なのは、人を殺しておいて被害者ぶって自らの運命?を嘆いている和尚である。
彼は約束を守る律義な人扱いなのだ。やはり村人全員が狂っている(等々力警部の言う通り)。
不遇の人生を歩み和尚に助けられた勝野も自分たちの身を憐れみ、殺した娘たちなど何とも思っていない。
このムラ(鬼頭嘉右衛門)の呪縛に苦しんだ悲劇の主人公みたいに和尚と一緒に海に投身自殺する(心中か)。
単なる身勝手な殺人犯ペア以外の何ものでもないのだが、、、。

それからこういう映画に必ずつきものの出生の秘密のドロドロ感。
外から流れ着いて下働きをして過ごして来た勝野が早苗の実の母であった。
しかも、嘉右衛門との間の子であったことは早苗にとり名状し難い複雑な嫌悪感を抱かせるものであろう。
系図のドロドロ感とオドロオドロしい殺人、暗い風景に芝居小屋、鐘と特異な地形、、、効果音、、、獄門島イメージは充分であった。

金田一耕助が仕事を終え船で島を離れるときに、早苗が高みから鐘を突く姿でエンディング。
終わってみるとなかなか良い映画だった気がする。
キャストが魅せていたせいだ(大変な豪華キャストに違いない)。

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大原麗子は、今の大味な女優にはない、とても瑞々しく、繊細でしっとりした演技の出来る人だと思う。
司葉子も勿論そうだ。彼女らを見るともう、、、学芸会映画は観れない、、、。

役者は皆よかったが、加藤武のワンパタン演技が決まっていた。
うん。よし。分かった(手をパン!)。
それを見る石坂浩二の困惑の表情(笑。
三木のり平の床屋そっちのけで俳句ばかりやっている味のあるおやじさんも際立つ存在である。
小林昭二は仮面ライダーのおやっさんであるが、ここでも良い仕事をしていた。

特筆したいのはピーターである。
こういう呪詛された規範のムラのなかにいる特異な他者とも謂える微妙な存在を見事に演じていた。
ナヨっとした色白の中性的な女たらしの男がこのようなムラで居場所~バランスを保持している面白さである。


佐分利信はやはり小津映画で原節子と出ている方が良い。
そっちの人だと思う(笑。



人狼ゲーム マッドランド

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2017
綾部真弥 監督・脚本

浅川梨奈、、、小池萌(用心棒)
松永有紗、、、佐藤彩乃(預言者)
門下秀太郎、、、周太樹(狂人)
飯田祐真、、、中川未来(人狼)
栗原吾郎、、、宇佐美慧(狂人)

以前、古畑 星夏主演の「人狼ゲーム ラヴァーズ」というのを観たことから、似た感じを期待して観てみた。
夏場に良いような気がしたので。
人狼ゲームというゲームが元々あるそうだ。
このシリーズ映画もこれで6作目を数えるらしい。
死闘を演じなればならない前提から始まるところやほとんど生き残れないところ、特権的な観衆の存在などが先日観た「ハンガーゲーム」にも通じる。
突然、ゲームをするビルに監禁され、首輪を付けられている。ルールを無視したり逃げ出そうとするとそれが締まって殺される。その一部始終をカメラで鑑賞するゲーム管理者~観衆がいる。昼の投票と夜の人狼の襲撃でひとりひとり、自分が生き残るために誰かを殺して勝ち残ろうとする。勝者には褒美として1億円が与えられるという(安い)。
「ハンガーゲーム」と最も異なる部分はディベートにも似ているところか。ともかく相手を言いくるめて騙すことで生き残るしかない。腕力や体力、体術などは関係ない。指定の武器はサバイバルナイフひとつである。
はっきり極限状態である。各自の本性が曝け出される。それは無理もない。またこんな状況下で冷静に生き残る策が立てられるだろうか、それすら疑問である。パニックになって発狂してもおかしくない、、、。

しかし本作は、メンバー構成が「ラヴァーズ」とかなり異なり、人狼ゲームというのは、その構成が変えられルールもそれにより変化するものであることを知る。(まだ二つしか観てはいないが)。
要素の動き方と要素間の協力関係もそれに従い変わることになる。
人狼 1 狂人 7 預言者 1 用心棒 1という構成である。
ちなみに、以前観た「ラヴァーズ」は、、、
人狼2 村人5 予言者1 霊媒師1 用心棒1 キューピッド1であった。
(ほとんど忘れていたため確認に手間取った(笑)。
これを観ると人狼、預言者、用心棒以外は任意に要素を決められる(加えられる)ようでありルールもその分複雑になる。当てられる人数もそれぞれ任意のようだ。
その時のテーマで「マッドランド」では上のように、「ラヴァーズ」では下のように組まれたということになろう。

人狼ゲームの基本は、村に紛れ込んだ人狼と思しき人物を昼間村人が投票(多数決)によって処刑し、夜は人狼が村人の誰かを襲って殺すもののようで、人狼を皆殺せば村人の勝利となり、人狼と村人の数が同数になった時点で人狼の勝ちとなる。
負けた者はその時点で殺されていなくともその場で首輪が締まって死ぬ。

用心棒は夜、村人の誰か独り人狼から守ることが出来る。自分の部屋でそれを指定する。ここでは対象は預言者しかいないが。
預言者は人狼が誰かを知ることが出来る人のようだが、今回見た限りでは人狼と名乗った人がそうでないことを知るにとどまっていた。

狂人は、誰が人狼なのかは知らないが人狼に加担する役割であり、人狼の勝利により勝つことが出来る。人狼グループの村人と謂える。
今回の「マッドランド」では、普通の村人はおらず、狂人のみで構成する狂人村である為、初っ端から人狼がカミングアウトする。
俺の言う事を聞けと。言う事を聞かないとお前を襲うぞという感じで威張り散らしている。その虚勢が効果的でもあった。
普通の村人が多数の中で人狼であることが発覚してしまえば直ちに村人の投票で昼の内に殺され勝負がついてしまうだろうが、今回は立場がノーマルな場合と逆と謂えるか、、、(良く知らないが)。
つまり、狂人が7人に人狼が1人の8人グループ対預言者と用心棒の2人組という対戦関係と謂えよう。
過半数が狂人である環境において、人狼は名乗り出ることで安全が保障されるうえに、うっかり人狼と知らず投票してしまえば、狂人は皆死ぬ運命となるので人狼がはっきり分かることは、狂人にとっても、もっとも重要なこととなる。

だから人狼は圧倒的に有利な立場である。
だが、ここでは最初のルール説明のTV画面に一人しかいないと示されていた人狼が二人名乗り出ている。
主人公の女子が用心棒であることを視聴者側~こちらは知っている為、もう一人の人狼を主張する(もう一人のヒロイン)女子が預言者かなと思われる。当然、狂人~人狼グループを騙さない事には生き残れない。人狼を何とか処刑するところにもってゆくにはかなりの困難がある(8対2は大きい)。

預言者は、用心棒も狂人も見分けがつかないようなので、はっきり言って最も無力な存在とも謂える。その為、はったりで人狼だと名乗り随分頑張るがこれはかなりシンドイ。だが、そこに用心棒のヒロインが見通しあなたを守ると持ち掛けてきて、わたしたちがマイノリティ2人組であることだけはバレない様にしようと結託する。ただし用心棒は自分を守ることが出来ない。ずっと預言者を守り続けることは無理であろう。

だがそこでこの用心棒女子は自己犠牲の精神で本物の人狼が彼女を殺しに現れた時、自分の頭部をリモコンで激しく打ち付け、ナイフの柄で強打されたことを装い窓の下に自ら転落して絶命する。事前に預言者(偽の人狼)に柄の潰れた証拠ナイフを手渡し、彼女の制服のスカーフをポケットに忍ばせておいて、転落時にそれを掴んで落ちたことにした。更に予め最後の投票に当たって、一人の狂人女子に自分が死んだときに必ず誰が殺したかの痕跡を残して死ぬと告げておく。
用心棒の亡くなった次の昼の投票の際、痕跡のあるナイフを調べた狂人女子は、用心棒の思惑通り本物の人狼を処刑の対象とする。
人狼が殺されることで残った狂人は死に、最も弱い立場の預言者女子が独り生き残った。

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何故、用心棒女子はそこまでのことをしようとしたのか、、、。
彼女は預言者女子にそれを問われた時、突然こんな境遇に拉致され殺し合いを強いられることになったとはいえ、こんなところにあっても自分の生きた意味を見出したい、と述べる。圧倒的不利の預言者を救うことがそれであったのか、、、。
恐らくそれ以上の選択はなかったのだろう。
われわれが今の生において果たしてこれよりましな選択をして生きていると謂えるかどうか、、、。


ただ預言者女子はこの構成員のなかでは特異な精神性をもった用心棒女子に寄りかかり助かったようなものである。
かなり血生臭い中から独り生き残り、、、。
これから1億円ばかりもらって彼女はどう生きてゆくのか(いや、いけるのか)、と余計なことも思ってしまった。



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否定と肯定

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Denial
2016年
イギリス・アメリカ

ミック・ジャクソン監督
デヴィッド・ヘアー脚本
デボラ・E・リップシュタット『否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる戦い』原作

レイチェル・ワイズ 、、、デボラ・E・リップシュタット(大学教授)
トム・ウィルキンソン 、、、リチャード・ランプトン(法廷弁護士)
ティモシー・スポール 、、、デイヴィッド・アーヴィング(ホロコースト否定論者)
アンドリュー・スコット 、、、、アンソニー・ジュリアス(事務弁護士)
ジャック・ロウデン 、、、ジェームズ・リブソン(事務弁護士補助)
カレン・ピストリアス 、、、、ローラ・タイラー(事務弁護士補助)
アレックス・ジェニングス 、、、サー・チャールズ・グレイ(判事)
ハリエット・ウォルター 、、、ヴェラ・ライヒ(ホロコースト生還者)
マーク・ゲイティス 、、、ヴァン・ペルト教授(ホロコースト学者)
ジョン・セッションズ 、、、エヴァンス教授


「情報」の問題ではある、、、。

前提として当然在ると信じていたことであっても、実はなかったという可能性はある。
その直接な当事者でない場合、われわれは書籍やTVやネット画像などでそれを知る。
それを真実であると思い込んでいる。いや思い込まされている。
メディアを介した世界認識はそれを流す管理側からすればとも容易く操作可能であることは確かだ。

ひと頃流行った(今でも消えた分けではないか?)アポロ11号は月面着陸などしていない、という例のねつ造説である。
あれはスタジオで製作して全世界に配信されたものだというまことしやかな噂で、その類の映画すら作られている(こちらは火星にしているが)。「カプリコーン 1」である。とても面白い映画ではあった。

ここでは「ホロコーストなどなかった」である。
こういうことを力説されたらキョトンとする他ない。
だが、実際その辺のある・ないという話は尽きない。従軍慰安婦はあった・なかったをはじめ、、、かなりあるものだ。
実はあったのに歴史の闇の中に意図的に消された事柄や勝者の文脈から外れ全く取り上げられないまま消え去った事実もどれほどあったか分からない。そしてそれはもう取り出すことなど、ほとんどの場合永久に不可能だ。
忘却以前の存在すらなかった或る出来事なのだから、、、そんな無意識の歴史を時折想う、、、。
わたしの存在もいつの間にか跡かたなく消え去っていることは間違いない。
要するに誰の中にわたしの情報が受容されて引き継がれ(組み込まれ)て展開してゆくか、だけである。
誰がが問題なだけだ。少なくとも私の場合は。
(ネアンデルタール人がホモサピエンスに組み込まれて存続しているというドラマチックな事実にも想いを馳せる)。

さて、この”Denial”(否定)では、「アウシュビッツ」の映像がかなり生々しく出てくる。
やはり映像の力(情報力)は大きいとしか謂えない。
わたしもあれを見ただけで、身体的に知識として受け取ってしまう。しかし画像とは両刃の剣だ。
画像(写真)とは常に言語的に読まれるものである。高度に意味付けが成されて配布される。
例え同じデータであっても読みによって正反対の価値~意味になる場合も少なくない。騙りによって何とでもなり得る。
以前にも「情報リテラシー、、、」に関して覚書を書いたことはあったが、これは日々の生活レベルにおいても差し迫った問題になっている。(更に巧妙化して続いているオレオレ詐欺なども騙りの力を実証している)。

歴史的に世界においてこれ程重い事実として、戦争~ヒトラーを考える前提とされていること自体を再度検証し直す、しかも学問(歴史)的にとか哲学的にではなく法廷でその事実を決めようというのだ。最初から何という事件か?という感じである。
著作の事実認識の誤りを指摘したら、名誉棄損で訴えて来る。
それを理論的にまた実証的に緻密にやりこめていったら、裁判長から彼はしかし自分の理論を信じており嘘をついている認識はないのではないか(故意に事実を歪曲した分けではないのでは)などという横槍が入り皆唖然とする、、、ところなど笑えた。

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しかしこういうことはあるのだ。
われわれの世界は様々な思惑をもった人間で構成されている。
どのような欲望(又は盲目的な欲動)で情報を操作・歪曲・ねつ造してくるか分からない。
それがどんな風にどのタイミングで身に降りかかってくるか、幾度かわたしも経験して驚いてはいる。
勿論、実害をもたらしてくる場合はこちらも完膚なきまでに叩き潰すが、それをするタイミングを逸したままで来ている件もある。
タイミングは見計らわなければならない。何処かを経由してまた回ってでも来たならその時に1000倍はお返しする。
常に臨戦態勢にいることが肝心だ。
戦略も重要だ。(ここでは冷静で準備周到なチームプレイであった)。いろいろあろう。

言論の自由は保証されるべきだが、事実の歪曲や説明責任の回避は許されないと主人公は最後に述べているが、自由がどうのという問題ではない。ただ情報に対する誠実さ、これのみである。


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夏場の冬眠

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外に暫く水撒きに出ただけで滝のように汗が流れて着替える。
ここのところ少し用事で外出するたびに汗だくとなりシャワーを浴びて着替える。
そんなことを日に4回くらい繰り返す。

今日は日中は一歩も外に出ず、ここ2週間利かせっぱなしのクーラーの下でひんやりしながらずっと寝ていた。
時折、眠り半分目覚め、またウトウトしつつ、、、。
チョット寒い感じであったが、気にせず寝ていた。

何もしない快感である。

とは言え、西部劇「荒野の用心棒」と「ハンガーゲーム2」を観てしまった(笑。
(近いうちに感想でも書きたいが、黒沢の「用心棒」と「ハンガーゲーム3,4」を観てからにしたい)。

全く何もしないというのは難しい。
おっとそれから、トイレに起きた後で「乃木坂工事中」を観た。これが一番面白かった。

やはりトップアイドルの女子たちの溌溂としたクリエイティブなパワーは小気味好い。
鬱屈する暑苦しい外界~日常とは異次元だ。
ひと頃、「お笑い」も観ていたが、それ以上の清涼感と解放感がある。

しかも充分笑えるのだ。
気持ちよく笑わせてくれるヒトがわたしにとっていま最も必要な人である。


(こんなに暑い中、娘たちは喧嘩ばかりしているし、、、)。



夜風

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反復運動の切断
そして意味から解かれること
疾走すること
この快感のうちにいること

長女と手をつないで夜の散策に出る
昼の熱風は死に心地よい風が吹き外という過酷さは微塵もない
公園を横切り猫が逃げ出す
猫の走る先に雲に包まれた月が灯る

自分の歴史を描くこと
「心の経路を有りの儘に現はすこと」(夏目漱石)
そしてつまり創作すること
清められるために

不透明な事象~身体それ自体をそれとして描くこと
不可能な物語を
出来る限り克明に
有りの儘に

複雑極まりない塊にもそれなりのパタンも見つかる
メスをいれる
対象化して
証明を作る

沈黙を
暗号を
徴を
言いようのないフィギュアで


清められ
安らかに
新たに
加速するために

自分を心地よく捨てるために
ひとことも喋ることなく長女と帰った



ジオストーム

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Geostorm
2017年
アメリカ

ディーン・デヴリン監督・脚本

ジェラルド・バトラー ジェイク・ローソン(ダッジボーイ開発者)
ジム・スタージェス マックス・ローソン(ジェイクの弟、ダッジボーイ管理責任者)
アビー・コーニッシュ サラ・ウィルソン(シークレットサービス)
エド・ハリス レオナルド・デッコム(アメリカ合衆国国務長官)
ダニエル・ウー 、、、チェン・ロン(マックスの友人、科学者)
アンディ・ガルシア、、、アンドリュー・パルマ(アメリカ合衆国大統領)
タリタ・ベイトマン、、、ハンナ・ローソン(ジェイクの娘)
アレクサンドラ・マリア・ララ、、、ウーテ・ファスベンダー(国際宇宙ステーション司令官)

一瞬「磁気嵐」かと思ったらそちらではなく「地球嵐」とでも呼べるか、地球規模の大嵐というか自然災害のようだ。
この大災害が飛んでもない野望による人災であり、それをギリギリのところで食い止めるパニック映画である。
ストーリーが細かいところまでよく出来ており、迫力ある描写にグイグイ惹きつけられる久々の傑作であった。

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2019年に途轍もない気象異常により大規模な災害が起きた、というところから始まる。
(ちなみに説明のナレーションは早熟の才能を示す科学者ジェイク・ローソンの9歳の娘である)。
その気象異常をコントロールするための人工衛星を張り巡らせたシステムが構築されダッチボーイと命名される。
ダッジボーイによって地球の気象は落ち着き安定した気象コントロールと運用がなされていた。
インデペンデンス・デイ」(ローランド・エメリッヒ)同様、金のあるアメリカと中国がここでもリーダーシップを取っている。

ところが、2022年アフガニスタンで突然、一つの村が住人ごと凍り付いてしまう。
ダッジボーイの不具合が原因か、、、ということで一次は上層部に盾をついて管理者をクビになったジェイクがステーションに呼び戻される。この時、彼の弟マックスが総責任者に任命されており、発明・開発者の兄はその部下という立場となる。
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その後立て続けに、あり得ない衛星の誤作動・暴走が見られる。

インド ムンバイでは巨大な竜巻が次々に発生。
香港では、異常な気温上昇からガス管が爆発、竜巻が発生してビルも倒壊。科学者チェン・ロンがその原因に迫るが、ゼウス計画と言い残して、何者かに殺される。このことから マックスはホワイトハウスを疑う。兄も同様に政府の中枢にいるものを疑う。
東京では銀座の惨劇が映される。ゴスロリの少女もいて描写は細かい。大きな雹に見舞われバスが潰されたりしてゆく。
リオデジャネイロでは、異常な気温低下で、人、鳥、飛行機等がたちまち凍結してしまう。
ロシアでは、熱レーザーが発射され雪や氷が溶け火災に包まれる。
アメリカでは、落雷が続き甚大な被害が広がる。等々、、、。

これらのVFXは実に激しく迫力と臨場感に富んでいる。
街の破壊、倒壊スケールも「インデペンデンス・デイ」と互角。
この監督、ローランド・エメリッヒ監督に感性や思想が近い人かも知れぬ。
と思いきや、「インデペンデンス・デイ: リサージェンス 」の製作・脚本家でもあった。
道理で。この人が寧ろブレインか。

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権限を持つ層からの衛星へのアクセスがことごとく巧妙にブロックされていたことから 内部の中枢にいる人間の仕業であることがはっきりする。任務にあくまでも忠実なシークレットサービスのサラ・ウィルソンも事の重大さを認識しマックス~ジェイクに協力することとなる。この女性、車の運転と銃撃戦に素晴らしい腕を見せつける。

気象を自在に操れるのなら強大な武器に転用できる。
それは、今回のように誤作動に見せかけ忍ばせたウイルスによるゼウス計画の試行で破壊力は充分に確認された。
アメリカは近日中にダッジボーイを国連に明け渡すことになっていたのだが、自国の利益~軍事利用の為にそれをさせないように画策したのだ。最高位の機密情報にアクセスできる人間は限られてくる。
それは誰か?

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気象コントロール衛星網~ダッジボーイを現在停止できるのは、大統領ひとりしかいないことが分かる。
大統領の手と瞳が無ければ停止命令が出来ない生体認証システムであった。
そのことからジェイクは大統領の陰謀であると考える。

しかしそれを最も大統領に近く、彼らの理解者でもあったはずのレオナルド・デッコムにマックスが打ち明けた途端、彼を殺害しようと牙を剝いて来るではないか。
実は国務長官が国家転覆とアメリカによる世界征服を企んでいたのだ。
(もう既に歴史に例を見ない大量虐殺犯である)。
この突飛な筋書きが映画の中ではとてもスムーズに説得力をもって明かされ緊張感タップリに展開されていた。

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結局、ステーション内のプログラミング担当の男が多額の金で雇われ、ウイルスを感染させ全ての衛星をゼウス計画にのっとった作動をさせていたのだ。そして最終的にジオストームを地球に起こす。だが、それも全的崩壊させては意味がない。そこを反逆者たちはどう考えていたのかは、映画の中では分からない。つまりどの程度のコントロールをするのかその計画の詳細は明かされない。ジオストームというのが恐らく造語であろうことから、どれ程のものを指すのかが前提としてイメージしにくい。

大統領たちは、デッコムらの妨害追跡を逃れて無事、生体認証により衛星機能を停止する。だが、ステーションに仕組まれた自爆システムのカウントダウンは止めることは出来ず、そこでだれかが残りシャットダウンされた衛星システムの再起動をしなければならない。
自爆するステーションに残り、気象コントロール衛星を再起動するジェイクとウーテ。
正常に再起動させることでウイルスは消え、元の機能が戻るが、ステーションの方は予定通り爆発してしまう。
二人は宇宙服を着て一か八かでスペアで残っていた衛星に乗り込み、救援信号を出して運を天に任せ漂う。

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最後に彼ら英雄二人を救出しに来るのがメキシコからのスペースシャトルであった。
こんなところも「デイ・アフター・トゥモロー」(ローランド・エメリッヒ)みたいだ。この映画ではアメリカ南部の人間はメキシコに難民として受け入れてもらい、アメリカ臨時政府もメキシコに置いている。

今回の子役タリタ・ベイトマンもこれからが楽しみな女優である。
キャストも全て申し分なし。

この映画は充分パニック映画としてよく出来ていた。
夏場にスッキリする映画である。








世界にひとつのプレイブック

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Silver Linings Playbook
2012年
アメリカ

デヴィッド・O・ラッセル監督・脚本

ブラッドリー・クーパー 、、、パット
ジェニファー・ローレンス 、、、ティファニー
ロバート・デ・ニーロ 、、、パット・シニア(父、ノミ屋)
ジャッキー・ウィーヴァー 、、、ドロレス(母)
クリス・タッカー 、、、ダニー(同じ精神病院にいた親友)
アヌパム・カー 、、、パテル(精神科医)
ジョン・オーティス 、、、ロニー(父のノミ屋のライヴァル)
シェー・ウィガム 、、ジェイク(兄、リア充)
ブレア・ビー 、、、ニッキ(パッドの元妻)


”Silver Linings”「どんなにつらい状況でも希望はある」
”Playbook”は作戦図であることから、こういう邦題となったのか?!
いつもながらシュールだ。
難しかったらカタカナで表記すればよいのでは。
「世界にひとつの、、、」は、全く意味不明。

確かに主人公二人は大変厳しい境遇に置かれており、何とか「上を目指したい」のだ。
ここではたまたま功を奏したのが二人で取り組むこととなったダンスであり、それと絡めた親父さんとのアメフトのノミ行為であろうが、そんなの成り行きでそうなっただけの噺である。
ただ、その流れになってきた段階で作戦図と言ってもよい計画は練られる。
現状を克服して希望を見出す作戦はとられる。

カメラワークがなかなか凝っていて決まっている。
芸が細かいが不自然さはない(360度回転など)。まずそれを感じた。
躁うつ病で薬を(確かにボーっとしたり太ったりするので)拒否して、運動して体力と精神力で克服するという姿勢は一理ある。
運動をしようと思えるだけ、それ程重くはないのかも知れない。
だが、元々の性格が自制心が無く粗暴で神経質なのではないか。
暴力沙汰で刑務所、精神病院に入りながらも、裁判所から接近禁止命令を受けている元妻とのよりを戻すことばかりに拘っている。偏執狂的な面も大きい。
その主人公が、夫を事故で亡くし、精神的外傷に悩む女性ティファニーと出逢う。
この女性は性依存症であったことから最初は変態扱いをして毛嫌いする。
だが彼女の事を詳しく知るにつけ共感し尊重するようになる。
この辺からの流れはハリウッドのお得意技であろう。
ちょっと抉れたりしながら予定調和は見えている。

劇中サインという言葉が何度も出て来る。
サインを読めと。この映画特有のキータームであるかと謂えばそれほどのものではない。
通常、物語の中にはサインが散りばめられている。ここでは特にその読み取りの差や成否によって事態の激変があるようなことはない。
サインに対する反応のズレ~遅延でロマンチックなドラマが生じるハリウッド(に限らず)普通のパタンだ。
殊更、「サイン」を取り上げる必然性は感じられない。

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ティファニーはダンスが生甲斐であり大会に参加する為のペアの相手を探していた(夫は事故死している為)。
ニッキへの手紙を渡すための条件としてパッドはティファニーとダンスのペアを組むことになるが、ハードなダンスの練習をお互いに協調しながらこなすうちに相手に対する理解も深まって行くという展開。
いつしか相手に対する愛情が芽生えて来る。
元妻への拘りよりもそれが勝って行く。
という展開は分かっているがこちらもワクワクとそれを望んでしまうハリウッドの方程式である。

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最後はデニーロの親父さんが、アメフトとそれと込みのダンス大会の5点達成の賭けに大勝ちする。
周りの実力者ペアのようなテクニックはないが、充分観ていて面白い二人のダンスであった。
ジェニファー・ローレンスもバレリーナはチョッとであったが、このようなダンサーとしては動きもよく見栄えがあって迫力充分。
そしてティファニーとパッドは当然めでたく結ばれハッピーエンドもよいところである。


鬱病にはダンス、特にこんな風なペアでのダンスなどとても効果的だと思われた。
身体の運動面でも精神的にも好ましいと感じられる。
ふたりとも実生活面でとても良い方向に向くはず。


このかなり普通のラブコメにおいて、少し間を置いて登場してくるジェニファー・ローレンスの存在感は圧倒的であった。
特別なメイクも特異な演出もなく本当に普通の感じでいるのだが、強度のある演技でティファニーという女性を見事に印象付けた。
骨太の実力派女優であることがよく分かった(すでに風格もある)。

ロバート・デ・ニーロはじめキャストがよく、普通の映画がワンランクアップした感もある。


レッド・スパロー

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Red Sparrow
2018年
アメリカ

フランシス・ローレンス監督
ジャスティン・ヘイス脚本

ジェニファー・ローレンス、、、ドミニカ・エゴロワ
ジョエル・エドガートン、、、ネイト・ナッシュ
マティアス・スーナールツ、、、ワーニャ・エゴロフ(ドミニカの叔父、ロシア情報庁の幹部)
シャーロット・ランプリング、、、監督官
メアリー=ルイーズ・パーカー、、、ステファニー・ブーシェ上院議員
ジェレミー・アイアンズ、、、コルチノイ将軍
キーラン・ハインズ、、、ザハロフ
ジョエリー・リチャードソン、、、ニーナ・エゴロワ(ドミニカの母)


今日は映画ソフトを選ぶ余裕がなく、たまたま手元にあったもので、、、。
ドミニカ・エゴロワというロシアの女スパイがどういう野望を持ちどう出るのかを最後までひたすら追うという映画であった。

ボリショイのプリマバレリーナの道を怪我で絶たれてスパイ(スパロー)養成所に選択の余地なく叔父によって入れられるが、ドミニカはそこで頭角を表す。
「人間の欲求はパズルのようなもの」。
「相手の欠けたピースになれば、容易く操れる」。
所謂、詐欺の手管だ。

病気の母や自宅の確保の件もあり、スパイとなって国家に尽くせば全て面倒見るといった強引な展開から始まるもの。
それでロシアスパイとしてアメリカCIAのモグラを探る任務を与えられるが、どうやら彼女はそれを素直に実行する気はないように窺えるのだ。その不安定感と全体的に暗い場面ばかりの重苦しさが軸となる。素直に叔父の命に従いロシアの為に働くというより、何かロシア~アメリカ間での板挟み状態で動いているように見える。彼女の考えや内面はこちらも超越的に窺う視座は持たない。だが実際そんな感じなのだ。
双方を欺いているようにしか見えない場面があり、それが酷い拷問にかけられたうえで相手を信じ込ませるみたいな痛い手が披露される。何でそこまで、、、素人には受け入れ難い。半ば趣味の内なのかも知れぬが(人によっては)。

スパイの残虐な拷問がともかくきつかったが、その他は特にこれと言ってなく、『アトミック・ブロンド』のようなアクションによる娯楽性などはなかった。ハニートラップなどのお色気実践と呼べるようなところも特になく、かと言って綿密な頭脳戦というのでもない。ミスタービーンみたいなコミカル展開など微塵も入る余地なく、、、ドミニカが何を狙ってどちらに付くのか彼女の真意を見届けようという見方に引きずり込まれる。敢えて謂えば心理戦か、、、。
かなり重苦しく痛い展開の中で、、、。

どちらにどう転ぶのか分かりにくい流れの中で、彼女の決して誰にも屈しない姿勢は貫かれていたことは確かだ。
基本的に自分を支配し利用しようとするものが許せない。プライドは絶対に捨てない。そんな人だ。
だがスパイとは国家権力によいように利用される捨て駒のような存在である。
確固たる自分を持った人がスパイにならざる負えなくなったとき、どう動くかという物語ともとれる。
男目線(男性中心主義)を徹底的に退けていることも顕著。
この映画、フェミニスト受けもよさそうな気がする。

結局、プーチンそっくりの叔父への復讐になって祖国に戻って来て英雄となる、、、。
何ともよくあれで生きて帰れたものだと思うが、ヒロインが死ぬタイプの映画ではない。
だが、相当な傷は負っているはず。
スパイになんてなるものじゃないな~とつくづく思う映画か?
(そもそも、なりたい職業に入ってくる職業か?)
しかし職業としてのスパイとも謂える映画であった。

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だがジェニファー・ローレンス、バレリーナもちょっと無理があったぞ。
ブラックスワン』のナタリー・ポートマンはまさにピッタリのはまり役であったが、ジェニファーは少々重くはないか?
あんなむっちむちでは早晩足腰をやられると思う。
この映画では仕組まれて脚を折られたのであるが。
それにしてもその復讐が情け容赦なく凄まじかった(まだ養成所に入る前の一般人である)。
やはり叔父の言う通り、その資質スパイには向いているのだろう。

またこの映画の売りは、プーチンそっくりのワーニャ氏(ドミニカの叔父)であるか。
叔父でありながらドミニカをスパロー(ハニートラップ)養成所に入れてしまうのである。
その冷酷非道さも含めかなりイメージ的にも迫っていた。


何とも言えないが、ジェニファー・ローレンスの映画で面白いという印象をもったものがあまりない。
この映画では極めてファッショナブルに決めているうえにヌードにもなっているが、シチュエーション的にささくれ立っており絵として和めるものではない。
(ジェニファーのものは、まだ観ていないコメディ映画もあるし、、、)。
「世界にひとつのプレイブック」は近いうちに観たいものだ。

Red Sparrow003





イースター・パレード

Easter Parade001

Easter Parade
1948年
アメリカ

チャールズ・ウォルターズ監督


フレッド・アステア 、、、ドン・ヒューズ
ジュディ・ガーランド 、、、ハンナ・ブラウン
ピーター・ローフォード 、、、ジョナサン・ハロウ3世
アン・ミラー  、、、ナディーン・ヘイル
ジュールス・マンシン 、、、フランソワ


「オズの魔法使い」のジュディ・ガーランドなので観てみたいと思った(オズの子役以降の彼女はこれがはじめて)。
勿論、フレッド・アステアのダンス(特にタップ)は堪能したい。
更にアン・ミラーがタップが凄いということなので、ジュディのその後?とダンス(タップ)の醍醐味というところから愉しむことにした。

話しは何だか分からない。
ドン・ヒューズとのパートナーを解消して独り立ちするナディーン・ヘイル
その後釜に就くハンナ・ブラウン
どちらも成功する。
ドンとハンナは愛も育む、、、
という話しか、、、。

フレッド・アステアと言えばジンジャー・ロジャース、というのはわたしでも知ってはいるが、映画を観ている訳ではない。
一つくらいは観ていてよいはずだが、未だに観てはいない。わたしは映画ファンとは到底言えない。
10作くらいコンビで出ていて物凄く息の合ったダンスが売り物だという事。その部分をピックアップして見せているヴィデオは過去に何度か見てはいる。
ユーチューブでも以前観てつくづく感心したものだ。

ナディーン・ヘイルの独立騒動から始まる映画であるが、、、
アステアとジンジャーとの関係にも重なって来るところがあるのか。
ナディーンもソロのステージで成功を収めるが、ジンジャー・ロジャースも一人になってダンスの無い映画でアカデミー主演女優賞を取っている。
その辺の詳しいことは知らないが、アステア・ジンジャーコンビをずっと追っているファンには何らかの意味があるのかも知れないと思った。

Fred Astaire and Ginger Rogers Fred Astaire and Ginger Rogers002 Fred Astaire and Ginger Rogers003
   (Fred Astaire and Ginger Rogers)

驚いたのはフレッド・アステアのダンスだけスローモーションで映し背後のダンサーたちの踊りはリアルタイムで合成されているところだ。
それによりアステアの躍動感が倍増する効果が得られる。
スタイリッシュで見応えがあった。
このVFXがこの時代に撮れたのは意外に思え、感心した。
これがあるのなら、もう一か所くらい他の場面でも使ってよかったのでは、、、。
ウサギの縫ぐるみをゲットする際のドラムスティック捌きも見事であった。

ミュージカルである以上、歌もはいってくるが、こちらはそれ程唄いまくっている感じでもなかった。
全体の流れを雰囲気と共に追ってゆくが、やはり踊りの場面だけ突出した印象が残る。
衣装やセットなども整えられているのは分かるが殊更意表を突くものではなかった。
意表を突くと謂えば、レストランのウェイターがサラダの作り方を説明するところだ。
ここも大いに(妙に)突出してはいる。これもハリウッド方程式に組み込まれている部分なのだろうか(そうも思えないが)。

Easter Parade004

成る程アン・ミラーのステージも見栄えがある。
技術もこなれているが、ソロで成り立つ華もある。
だが、ドンとしてはコンビ解消した彼女の踊りに感心している場合ではない。
新しいドンとハンナのコンビの独自性を出して売ってゆかねばならない。
というところで二人で奮闘する(笑。その過程がお互いに誤解したりすれ違ったりしながら予定調和に向かうハリウッド流である。

なかなか物語性のある創作ダンスを二人で決め大いに受けるが、ナディーンの使いで偵察に行った召使の黒人女性が詰まらいと報告した為、実際どれ程の出来であったか彼女には判断がつかない。
黒人の召使~労働が透明化(前提)となっていてそれが極めて自然な社会であることが分かる。
そしてその使用人があまりものの価値判断もつかない存在であるように描かれていた。
そういう時代性もストーリーの無意識部分に垣間見られる。

Easter Parade002

タップダンスは、最近流行のミュージカルではほとんど見られないもので、アステアやアン・ミラーのようなスペシャリストの踊りが披露される本作はそれだけで価値もあると思われる。
ダンスには全く無知なわたしでもそれなりに愉しめた。
もう少し噺自体が面白ければもっと乗り出して観れたのだが、、、。
ミュージカルとはこういうものか。

イースター・パレードと何で題がついたのか理解が出来なかった。

Easter Parade003



ともあれ、これを観た刺激で、、、
踊りの滅法楽しいインドのミュージカル映画が観たくなった(爆。
「ムトゥ 踊るマハラジャ」とかあったな(笑。

暇になった娘と観たい。
(通知表をまず見てからであるが、、、)。








ビリーザキッド 21才の生涯

Pat Garrett and Billy the Kid001

Pat Garrett and Billy the Kid
1973年
アメリカ

サム・ペキンパー監督
ルディ・ワーリッツァー脚本
ボブ・ディラン音楽

ジェームズ・コバーン 、、、パット・ギャレット
クリス・クリストファーソン 、、、ビリー・ザ・キッド
ジェイソン・ロバーズ 、、、ルー・ウォレス
ジャック・イーラム 、、、アラモサ・ビル
リチャード・ジャッケル 、、、キップ・マッキニー
ケティ・フラド 、、、ベイカー夫人
ボブ・ディラン 、、、エイリアス
スリム・ピケンズ 、、、コリン・ベイカー
L・Q・ジョーンズ 、、、ブラック・ハリス
ハリー・ディーン・スタントン 、、、ルーク
R・G・アームストロング 、、、ボブ・オリンジャー
ルーク・アスキュー イ、、、ーノ
ジョン・ベック 、、、ジョン・W・ポー
マット・クラーク 、、、J・W・ベル
チャールズ・マーティン・スミス 、、、チャーリー
リタ・クーリッジ 、、、マリア


最期の西部劇であるという。

その幕引きは、根っからの西部の人であったサム・ペキンパーによってなされる。
無法の終わりは西部の終わり。
かつて自由気ままに無法者として流れていた名のある早撃ちガンマンたちは皆、権力者の後ろ盾で保安官となり、体制側に取り込まれた。
そこでもなお、自らを曲げないビリー・ザ・キッドに、もはや生きながらえる地など、なかった。
親友と謂うより親のような立場であったパット・ギャレットはできることなら彼を殺したくはない。
それでキッドに予めメキシコに逃げてくれと「これはおれの願いだ」と告げにゆく。
キッドも一度はそれを呑み、メキシコに逃亡を決めるが、体制側の無法に彼の血が騒ぐ。
彼は帰って来る。
もう対決しか残っていない。

しかし英雄らしい華々しい戦死からは程遠い死であった。
サム・ペキンパーがビリー・ザ・キッドいやパット・ギャレットに自らを重ねているのか、大変想いの濃い二人のやり取りと対決である。パット・ギャレットは逃げるビリー・ザ・キッドをワザと遠回りしながら追いかける。そして追い詰めるしかなくなる。
監督自身、これで西部劇を終焉させる最期の舞台なのだ。その複雑な心境も感じられる。

深夜待ち伏せしていたパット・ギャレットが食べ物を探しに降りて来た上半身裸のビリー・ザ・キッドを一発で撃ち抜く。
倒れるキッド。そこに丁度姿見の鏡に映ったパット自身の胸目掛けて銃を撃つ。あたかも自分が撃たれたかのように。
何故だろう、キッドの身体の何処にも撃たれた傷が見当たらない。
だが彼は即死していた。
パット・ギャレットについてきた部下がキッドの指を切って持ち帰ろうとしたとき、パッドは叫び声をあげ激しくその男を突き飛ばす。
ソファに沈み込むパッド。これはサム・ペキンパー自身でもあるか。
ここで一つの時代が終わった。

Pat Garrett and Billy the Kid002

わたしは、ボブ・ディランはあまり好きなミュージシャンではないが、エイリアスの存在はかなり魅力的であった。
この映画になくてはならないキャラでもある。
彼の曲がほぼ絶え間なく鳴っている印象であったが、やはり”Knockin' on Heaven's Door”(天国への扉)の流れる場面だろう。
今にも命の潰える初老の保安官が河に向かってゆき跪く。
その背後で彼を見守るしかない妻。
これほど悲哀の籠った壮絶なシーンというのもない。
まさに歌詞そのものの世界である。
(これはこのシーンの為に作られた映画音楽なのだから当り目だが、余りに一体化していた)。

>かあさん、このバッジを俺から外してくれ
>もうそれは使えない
>暗くなっていく、何も見えない
>どうやら天国のドアを叩いるようだ

エリック・クラプトンやガンズ・アンド・ローゼズのカヴァーで昔聴いたものだが、これはディランのオリジナルが最も良い。
間違いなく。
この映画で聴くのが真っ当な聴き方だと分かる。

Pat Garrett and Billy the Kid004

西部劇の渋い大スターが沢山出ている上に、これまた渋いミュージシャンが3人いる。
リタ・クーリッジ、、、思い出そうとすると眩暈がする(笑。
大柄で歳もいっているが、カントリー歌手のクリス・クリストファーソンも自然体で憎めないビリー・ザ・キッドになっていた。
そしてジェームズ・コバーン~パット・ギャレットがやはり主役であった。
彼が冒頭で土地の取引を巡り暗殺される今際の際に、走馬灯のように脳裏を巡ったヴィジョンがこの映像であったのだろう。

ペキンパーから、本当の西部に捧げられたレクイエムであるか。



この映画の「天国への扉」を最初に聴いていたら、もう少しディランを好きになっていたと思われる。

Pat Garrett and Billy the Kid003









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ザ・サークル

The Circle001

The Circle
2018年
アメリカ

ジェームズ・ポンソルト監督・脚本・製作

エマ・ワトソン 、、、メイ・ホランド(サークル社新入社員)
トム・ハンクス 、、、イーモン・ベイリー(サークル社CEO)
ジョン・ボイエガ 、、、タイ・ラフィート(SNS「トゥルー・ユー」製作者)
カレン・ギラン 、、、アニー・アラートン(メイの親友、職場の先輩)
エラー・コルトレーン 、、、マーサー(メイの男友達)

イーモン・ベイリーはわたしの敬愛するスティーブ・ジョブスを模しているが、創造的な狂気が感じられない。
プレゼン能力のあるカリスマ経営者の雰囲気はよく出ている。
ヒロインのメイ・ホランドは優秀でやり手の社員というより知能指数の高い白痴か。

ここで出て来た興味深い方向性は、ワンストップサービスによる行政インフラの拡充と、相互監視システムという形で人の管理を国から民間企業~国民主導へと移行することで徹底した管理体制を完成させようというもの。
行政インフラに関しては利便性はあるが、任意の部分は残しておく必要がある。
後者はつまり一般人が自ら進んでSNS~小型高解像度カメラによって自らを透明化しその全てを衆目に晒し合うことを望む社会の到来ということだ。
しかしこの透明化は原理的に不可能であるだけでなく、それを推し進めることで社会の閉塞化を強める弊害しか生まない。
まず、どれだけその人間に関する情報を収集してもその人間の存在には迫れないばかりかその不透明性は増すだけである。
それが人間という自然の姿だ。

それを強引に単純化・平板化した個として管理しようとすれば、より大きな病と犯罪しか呼ぶまい。
「隠し事は罪だ」などにまともについてゆく者はまずいまいが、まさに発狂している。
目標が「完全化」~全ての人類の”トゥルー・ユー”への加入~完全依存である。
全体主義以外の何ものでもない。情報操作(扇動)など思いのまま出来る環境となる。
ここではインフルエンサー・マーケッティングの担い手となったメイが新新興宗教の教祖みたいだ。
この一見アットホームで自由で親和的な気風に思える環境はとても抑圧的で隷属的で身体を消耗させる。

まず社会がどうあるべきかを考察する前に、人間とは何かの洞察が不可欠である。
「シー・チェンジ」(小型高性能カメラ)は、観光や犯罪・事故対策に最適であろうが慎重な扱いが前提となろう。
身を隠したがっている~これも大切な人権だ~一般人をカメラの群れで追い詰め晒しものにして事故死させるようなケースは必然的に生まれてゆく。
それもCEOをはじめとする社員は、ネットワークシステムの充実で乗り切れると信じている。

The Circle002


だが、当初からこのシステム開発者であるタイ・ラフィートはこのSNSの適用の仕方に疑問と危機感を抱いていた。
メイも友人の死によってこのシステムの見直しを考えていた。(あくまでも見直しである)。
ふたりが共同して調べたのは、透明性を強調するCEOや管理者たちが、データ全てをクラウドにあげ誰もがアクセス可能とする知の完全な平等を詠っていたにも拘らず、重要な(犯罪的)データをサーバーに隠していたことである。
秘密のデータを持つことは、構成員の誰よりも特権的な立場を保持することが出来る。
つまり世界の支配者だ。彼らも単なる野望を持った飛んでもない偽善者に過ぎなかった。
プレゼンでメイはふたりのトップをステージに呼び、彼らの理想とする理念を語ったうえで、その多くの秘匿情報を全社員に見せデータを各自の端末に送ってしまうのだった。
それから彼女は、社はどういう方向性を辿ったのか、、、

そこからの展開は映画では語らず、メイが河で趣味のカヤックに乗っており、その近くをドローンが何台も飛び回っている光景が広がる。(彼女の理念が具体化された「サークル社」が存続・発展している様子が窺える)。
彼女のとても晴れやかな表情でカヤックを漕ぎ進める印象的な姿で終わる。


彼女の基本的な信念はテクノロジーで困難は全て解決出来るというものだ。
人間は透明化出来、平和裡に管理可能であると信じて疑わないヒトなのだ。
もしかしたらメイが一番狂っている、、、。







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デヴィッド・リンチ:アートライフ 断片補遺

David Lynch

イレイザーヘッド」を撮る間、全てが美しかった、、、
と彼は語っている。
カリフォルニア・サンシャインの元、娘さんと制作をする風景がわたしには「東京物語」の埠頭の上をゆく平山周吉夫婦の姿にも重なる想いがした。

すでにこの世を超脱しているような。
確かにそこに存在しているのだが、ふと何処かに消えてしまっても不思議でない。
永遠がそこにある。


David Keith Lynch002

エンディングに語られる(書かれる)言葉が美しく、映画の光景が浮かぶようで、そのままここに記しておきたい。

深い闇と明るい光が
周りを包んでいる
根の中にあったものは
やがて木になり
星空の下の家になった
その家の中で
よく見るための目と
長い腕を持つ男は
明るい光に手を伸ばし
深い闇にも手を伸ばした
そして自分自身を見た


David Lynch001

さて、アートライフへ、、、








デヴィッド・リンチ:アートライフ

David Keith Lynch001

David Lynch: The Art Life
2018年
アメリカ
ジョン・グエン、リック・バーンズ、オリヴィア・ニーアガート=ホルム監督


昨日で、”ツイン・ピークス The Return ”を取り敢えず見終えたところでもあり、、、
まだ混乱したままではあるが、引き続き監督デヴィッド・リンチその人の映画を見ることにした。
彼の幼年期からあの傑作”いレイザーヘッド”を製作するというところまでの大変イメージ豊かな変遷を監督自らが(一人称で)語る形式である。

興味深い内容で、じっくり咀嚼してからでないと何を書くにも難しいところだが、偉大な巨匠の為になるメッセージとか貴重な作品の制作風景が見られて勉強になるとかいう次元ではなく、また作品の謎解きのヒントを探るとかいうことより、彼そのものを感じる機会となりとても見応えがあった。
これは(わたしにとって)まだ何度も見なければならない記録(ドキュメント)となる。

まずわたしとは大変異なり、幼少年期はまさに愛に包まれた幸せ一杯の日々を満喫していたことが語られる。
使われているスナップ写真やヴィデオからも推察できる。
(すでに子供の頃の顔~表情に今の彼の顔の面影がありありと窺えるところは面白かった)。
まさに彼の言う通りの生活であっただろう。
家だけでなく周囲の環境的にも光と輝きに充ちた場所であったようだ。
(多分に精神的な反映によるところはあろうが)。

ここで彼の述懐する、「小さな世界の中に全てがあった」というのがその後の彼の創作スタイル~環境にも反映されていくことが分かる。幼少年期の遊びとその時の環境の重要さは多くの場で指摘されている通り。
そして今でもはっきり思い出せるほどの名状しがたい奇妙な体験もこの時期にしている。
(当然、ツイン・ピークスにも反映されていよう。というより基調となっていると言える)。

基調と謂えば、限りなく重要なことが、ここで語られる親子の関係である。
母はレイシズムには反対で、温かく善良な人柄だがそれをひけらかさず、信仰心はあるが決して押し付けない愛情深い人であったという。父親は何事に対しても公明正大で正直で信頼に足る人柄であり、何をかするときには必ず半分を一緒にやってくれ、自分で目的を遂げる自信を付けさせてくれた人であるという。また我が道を行く姿を自らの行動で教えてくれた存在でもあった。母も「塗り絵」は創造性を阻害する恐れから彼に与えなかったそうだ。
お陰で彼ら子供たちは、誰からも圧力を受けず自由そのもので、愛情を感じながらそれぞれの道に進むことが出来た。
そして両親の言い争いをついに一度も聴いたことがなかったという。
この基盤はこどもの成育にとって大変重要であり、どれ程強調しても足りないと思う。

David Keith Lynch003

勿論、監督にも色々と大変なこともあり、その困難を乗り越えて来ている訳ではあるが、この時期に固めた基盤があったからこそ自分を信じ決して妥協することなく力強く進んで来れたはずである。
自分に何の心配なく外に出て行ける素地はこの時期に作られたものだ。

この監督は英語の学習に使えるほど明瞭な英語でゆったりと語るのでとても聴き易い。
次回は字幕なしでもいけるのではないかと思える。
この喋り方~身体性は人を惹き付けるだろうなと感じるものだ。

その後、(父の昇進で)転校した地バージニアは昼でも夜のように暗い(イメージ?)であったそうだ。
この時期に悪友が出来、たばこを吹かしマリファナを吸い遊びまくって勉強をさぼったり、授業体制に疑問を抱いたり(これは分かる)大分親を困らせたようだ。自分でも制御不能となったと騙る。これも後々重要な世界描写に繋がる一要素となったはず。
その反動もあってか、創作に日夜没頭し燃焼しつくして何かを掴む必要性を感じるようになる。
そして友人の父である画家にお世話になり、本格的に画家^アーティストの道をまっしぐらに歩むようになる。
”アートライフ”とは、「コーヒーを飲みタバコを吸い絵を描く」それだけ、という境地となる。
(友人の画家のお父さんから貰った本に大変触発されたそうだ)。
彼は悪友(ピーターウルフとルームメイトしていた)にも芸術家の友人にも恵まれている。
また、生活を三重に捉える傾向があり、「友と遊ぶ人生」、「自分の基本となる人生(家族生活)」、「アトリエの人生」である。
これらをそれぞれ自立して交わらないように気を付けて生活を送るようにしているとか。
確かにその事の評価はその文脈の中で決まり、とても純度の高い事柄を扱っている時はそれを異なる文脈上に軽々しく披露する危険性は、ある。これは彼が経験上学んだ生活の知恵であろうか。


基本的に、長じて映画を作るようになってからも、部屋に籠りその中だけでほとんどのものを作ってしまったりが好きで、「部屋の中が僕の全世界」と言ってしまっている。(この点は、わたしも大いに共感可能な部分ではある)。
あの、部屋が余剰次元に接続し途轍もない拡がりを見せるデヴィッド・リンチ・ワールドである。
確かに”ツイン・ピークス”はそこから生まれてくるだろう。
(しかしこの映画では、「アルファベット」、「グランドマザー」、「イレイザーヘッド」の製作までを覗くことが出来るだけだ)。

ボストンでの大学のつまらなさやフィラデルフィアの恐怖と病の感覚の垂れこめる様子など場所に対する豊かな感受性も興味深いものであり、彼の映画に出て来る場所感覚に大いに通じるものがあった。
外の世界の質感やディテールをありありと想像することで生まれるイメージである。
”ツイン・ピークス”はそれに溢れている。

自然に彼の作った映画が思い起こされてしまう事は当然ではあるが、これを見て何か分かったというものでは決してない。
謎は謎のままだが、彼の人となりには少しばかり触れ得た気がする。

David Keith Lynch002

うんと若い(幼い)娘さんと仲良く制作をしているところが微笑ましい。
と言うより何かが起こる前兆のような不穏な明るさを感じさせる。
ふたりの制作姿勢がやけに似ているところも怖い。

日常の光景もリンチの映画世界に異化されてゆくのが分かる、、、。

フェリーニのアマルコルド

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Amarcord
1973年
イタリア/フランス

フェデリコ・フェリーニ監督・脚本
ニーノ・ロータ音楽

ブルーノ・ザニン 、、、チッタ
プペラ・マッジオ 、、、チッタの母
アルマンド・ブランチャ 、、、チッタの父
マガリ・ノエル 、、、グラディスカ

これは想い出の集積のような映像だ。
綿毛が風に舞って冬の終わりを告げる光景から始まり、再びその光景で閉じる、、、。

ファシスト党の集会の最中に、教会の塔の天辺で蓄音機からインターナショナルの曲を流すなどしても、チッタの父は軽めの拷問を受けて家に帰される。
すぐに元気を回復している。
ファシスト党もどこかのんびりしている。
戦争になろうが、どんな体制が敷かれようが、われわれは自分たちの生活を楽しむという気概が伝わる。

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馬車に乗って家族でピクニックしたりして、ムッソリーニが台頭するなかでも、それだからこそ人々は精一杯生活を楽しもうとしていたのだ、、、。
ポプラの綿毛が風に舞いそれを街頭で皆がはしゃぎながら手に掴んで春が来たと喜びを分かち合う。
するとアコーディオンが街に鳴リ響き。
誰に向けてか(映画を観る観客に向けて)美術作品や建築の蘊蓄を語る男。
ただバイクを乗り回す男。
女であることを愉しんでいるような女性。
いい加減な司祭。
悪戯ばかりしているませたガキども(笑。

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皆フェリーニの子供のころからの記憶の断片でもあろうか、、、。きっとそうだ。
色々な先生のそれぞれアクの強いこと。生徒のしょうもない悪戯。
とても綺麗で可愛らしい女子がいるのに、その子に皆の気持ちが集中するわけではなく、年上の大人の女性に彼らは憧れる。
まあ、先生に初恋を抱く年頃でもあるが、、、。この子たちは寧ろ大きな胸とお尻に過剰に拘る即物派であるか。

面白かったのは、チッタの叔父さんである。
精神病院に入院しているが、良くなってきたというところで彼を誘い家族全員で馬車で出かけるが、その先で叔父は大きな木に登ってしまい、いつまでも降りてこない。しかも大声で「女が抱きたい~」と叫ぶのだ(困。
幸いピクニックで町はずれに来ていたため近所に聞かれることはないにしても、家族としては大変気をもむ事態となりピクニックどころではない。
梯子を掛けて降ろそうとするも、ポケットに入れた石のつぶてを頭に投げつけられる。
笑える。が、家族にとっては想定外の災難に違いない。しかし彼らは終始そんな叔父に優しい。とても優しいのだ。
こうしたご時世に。いやそうだからこそなのだ。何故ならムソリーニもヒトラーもスターリンもそういう人を徹底して排除する体制を理想の世界として構築しようとしていたのだから。
結局、先生に車で迎えに来てもらうが、叔父は看護婦さんの言う事にはニコニコしながら従い、降りて来る。そんなものだ。

もうひとつ強く印象に残ったのは、街の人々が夜、わざわざボートに乗って集まり、近くを運行するアメリカの超豪華客船を見に行くところである。それを見て皆が歓声を上げ手を振り涙を流すのが何とも言えないところであった。
アメリカ(文化~自由の国)への憧れなのだろうか。
やはり体制による日々の抑圧と鬱積するものをやがていつか解放してくれる巨大な象徴にも窺える。

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こんな風に、色々と困ったり喧嘩をしたり子供を叱りつけたりその家の特殊事情の悩みがあったりの普通の家庭生活がちゃんとなされているのだ。
市井のひとたちの力強い日常の日々がとても豊かに描かれている。
かなり厳しい情勢となっていることは確かであり、こんな時に浮かれていられる訳ではないが、絶対に体制に圧し潰されない。
幼い時からの記憶であれば美しく染め上げられている部分も少なくはないはずだが、良い物語に編集されていると思う。

雪の降った冬の広場に舞い降り羽を広げた孔雀。
これはきっと忘れられない記憶なのではないか。
(わたしも恐らくこれに似た少年時代の想いはある)。

そして、最後の海辺である。
街一番の美女グラディスカの結婚を祝う引いたカメラでの情景がこちらの無意識的な記憶にも浸食してくるのだ。
何ともノスタルジックな感情が自然に込み上げて来た。
きっと盲目のアコーディオン弾きがここでも演奏していることは大きい。



眺めのいい部屋

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A Room with a View
1986年
イギリス

ジェイムズ・アイヴォリー監督
ルース・プラワー・ジャブヴァーラ脚本
E.M.フォースター『眺めのいい部屋』原作

ヘレナ・ボナム=カーター 、、、ルーシー・ハニーチャーチ(シャーロットの従妹)
デンホルム・エリオット 、、、エマソン氏(ジョージの父、英国人旅行者)
マギー・スミス 、、、シャーロット・バートレット(ルーシーの従姉)
ジュリアン・サンズ 、、、ジョージ・エマソン(ルーシーの恋人)
ジュディ・デンチ 、、、エリナー・ラヴィッシュ(小説家)
ダニエル・デイ=ルイス 、、、セシル・ヴァイス(ルーシーの婚約者)
サイモン・キャロウ 、、、ビーブ牧師
ローズマリー・リーチ 、、、マリアン・ハニーチャーチ(ルーシーの母)


このイギリス貴族の映画を観て、最近読んだカズオイシグロの「日の名残り」を思わず想いうかべてしまったのだが、このジェイムズ・アイヴォリー監督は何とその「日の名残り」を映画化した監督でもあったという。
今度は是非、そちらを観てみないと。
この監督であれば期待も膨らむ。
緻密で間のある格調高い絵が撮れる人でないと、あれは無理である。
(こういった映画はサスペンスの監督には形式的に困難か、、、いやサスペンスの要素がない訳ではない。恋が題材なのだし)。

A Room with a View002

この作品世界は、20世紀初頭に設定されているが、田園風景や衣装、馬車、屋敷や人の佇まいからしてトマス・ゲインズバラ(英18C)のあたりの絵画世界を思い起こすところはある。
この時期、風景画をよく描く肖像画家がイギリスにはいた。(コンスタンブルは圧倒的に風景であった。ターナーは別格)。

20世紀になっても古き伝統の息づく貴族社会の一齣が窺える。一種の憧れにも近い、、、。
Thomas Gainsborough
(Thomas Gainsborough)
マネようなドギツサは間違ってもない(笑。
プレ・ラファエル派は異質である。
やはりトマス・ゲインズバラの雰囲気か(と言ってもこの様式化は少し気になるが)。

A Room with a View003

ここのところずっとティム・バートン監督映画で途轍もない役をすました顔でこなしているヘレナ・ボナム=カーターがラブロマンスのちょっと気の強いヒロインである。
とても似合っている。本来こういう人だったのだと、感心する(笑。
テニスも男勝りにやるが、ピアノでベートーベンをアグレッシブに弾き、シューマンも弾いている。歌も弾きながら唄っている。
そして何よりプッチーニの「私のいとしいお父さん」である。
とてもこの映画にしっくりしていた。
お陰でこの曲がもっと好きになってしまった。

色々とニンマリ面白い光景があるが、男三人の森の中の湖での水浴は傑作だった。
画家達に広く題材化された「水浴」であるが、この絵は恐らく誰も描くまい。
牧師もそのなかの一人で、散歩で出くわしてしまったルーシーに狼狽して逃げ惑い、爆笑されている。
様々な絵(風景)や音楽、日常の何気ない出来事、、、その辺が愉しめる作品であって、あまり話にはついて行けなかったのがホントのところ。
おばさま方のお喋りが途中から何言ってるのか分からなくなってしまった。


フィレンツエとイギリスそしてギリシャか、、、。
外国に行ったらホテルの部屋からの眺望には拘るね。
その空こそがその国なのだろう。
恋などは勿論、自国~伝統の柵から解かれてかなり情感に任せて出来てしまうものか。
フィレンツエの地で出逢ったジョージ・エマソンにシチュエーションからも惹かれる(両想い)。

しかし帰国したらもう婚約者が出来ていた。
あっさりしていてこちらが戸惑う。

A Room with a View004

婚約者セシル・ヴァイスはわたしとちょっと(かなり)似ているので、どうなるものかと思って観ていたら案の定である。
引き際も実にあっさりしている。そこも似ている(爆。

ルーシーは何でもはっきり言って自分の気持ちを貫くかと謂えばそうではなく、言う事で何か肝心な事を押し隠し、自分でもそれを嘘と自覚している。
つまり自己主張のしっかりした自分を押し通す女性に見えて、実はとても臆病な保守的で脆弱な自我を守っている感じである。

何度もジョージ・エマソンを拒絶しつつ彼に惹かれていくのは、観る目をもつ人なら誰でも分かる(爆。
(特に弟それからジョージの父、、、)


A Room with a View001

ギリシャに逃避行しようとする最後の最後にジョージ・エマソンを受け容れたルーシー・ハニーチャーチのこころからほっとして解放された表情が大変印象的であった。桎梏から解かれた顔が綺麗であった。
そう、こういう時こそ人は輝く。
(それを演技で出来るのだから役者は凄い)。

この時期、上流階級はこのような恋愛で結ばれるのは、かなり大変であったのか(20Cである)。
いやいや、イギリス王室のやりたい放題ぶりからしても、そんなことはないと思う。






ザ・リング/リバース

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Rings
2017年
アメリカ

F・ハビエル・グティエレス監督
鈴木光司 原作

マチルダ・ルッツ 、、、ジュリア(ヒロイン)
アレックス・ロー 、、、ホルト(ジュリアの彼氏、大学の研究生)
ジョニー・ガレッキ 、、、ガブリエル(ホルトの教授)
ヴィンセント・ドノフリオ 、、、バーク(元牧師、サマラの父)


夏なので観てみた。
もともとオリジナル「ザ・リング」に何の思い入れも興味もない。
当時の友達関係で、原作まで読んでしまったが、別に何の印象も残らなかった。
ただハリウッド版で、如何にもというドラマチックなエンターテイメントに仕上がっていればそれはそれでよい息抜きにもなるかと思ったのだ。
ここ数日間、「ツインピークス」で訳が分からなくなっており、わたし自身がダグラス・ジョーンズ(ダギー)みたいになっているので(爆、小休止が必要なのだ(娘がいるのでそれは不可能だが)。
(依然、「ツインピークス」はDVDの5つ目で、まだ先は長い)。

のっけからジャンボジェットの乗客で、呪いのビデオを観てから丁度7日目というのがいて、、、何と飛んでもない野郎だ(怒。
乗客・乗員全てを巻き込むスケールでいきなり始まった。
流石はハリウッド、これはやってくれそうと期待を膨らめたものだ。

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だがその二年後という本編に入ってから、、、オルフェウスの話などして盛り上がり、彼氏と溌剌とした笑顔を見せていた頃には良い女優だなと思っていたヒロインが、顔をしかめて演技し出すと何とも魅力ない人に見えて来る。
暗い雰囲気になってからも、大学の研究室の専門チームでサマラの呪いからの救済をシステム化する研究がしっかりなされてゆくのか、と思いきやテールとか何とかいって誰かにコピービデオを見せるという従来の方法をとっており、謎の解明と拡散を食い止める手立てなどを提示する方向性は見えず仕舞いだ。
結局、とても小規模なその教授と教え子だけの個人的な試みだったのだろう。
ここに来て、最初に抱いたスケールの大きい大胆で大掛かりで豪快に愉しませるハリウッドの側面は期待できそうにない事を感じる。

ただ、ちまちまと暗い感じで噺は進行してゆく。
サマラは、流石にメディアとしては消え去ったビデオテープからデジタルデータ化してパソコン上のファイル単位で活動をしていた。
これならメール、SNSなどで一気に世界規模で拡散できる。どう考えてもこの手しかあるまい。
ただ、電気を(コンセントを)抜いてもテレビから、しかも倒れている画面から這い出てくるのが、執念というか律義さを感じさせ、やはり情念~零世界を感じさせるところなのだ。

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ちょっとそのじめじめ感が日本版にも通じる雰囲気もあり、まさかとは思うが原作や「リング」をリスペクトして追従した作りなのだろうか、と勘繰ってしまった。未だに井戸から出て来るし(ビデオの中だけだが)。
怪獣(映画)をリスペクトして作られたギレルモ監督の「パシフィックリム」は大傑作であったが、貞子をリスペクトしてもまず良いことはないはず。
まあ、サマラの呪いの原因が牧師の性犯罪にあったなどアメリカ的に分かり易くなっていたが、ちょっと原作~日本オリジナルからは馴染めない感じになってしまっている。
ハリウッド版なので仕方ないが。

サマラのビデオはかなり絵も複雑でアートがかっており、絵が後から加わりデータ量も増す。
デジタル化した分、ネット上で遥かに柔軟で発展的な情報体となったことが分かる。
そのうちサマラ製作(というか自己拡張)のビデオが2時間映画そのものになってしまう可能性もあるかも。
そうしたら、「アンダルシアの犬」などと同様に人々の(特に評論家の)注目をより浴びる作品となるはず。
ただ見た後、皆死んでしまうが、、、その方向性も面白い。
恐らくザ・リング本編より面白く芸術性の高い作品として残るに違いない。サマラは監督か?

複雑なアートサマラビデオをヒロインの女の子はよく記憶しており、サマラの葬られている土地に行く先々にその場所や形や人物~少女を見出してゆく。この予定調和はある意味、サマラに導かれているのか?惹き合っている様だ。
ヒロインは魂の解放に来てくれるのだし。
そのようなスタンスとなっているようである。
それが一番よく分かったのは、ジュリアが牧師に殺されそうになった時、父でもあるその男を例の恐怖の顔で怖がらせて殺すという、ヒロインを助ける動きに出たことでも分かる。

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このような映画のお約束の最後のどんでん返しであるが、サマラの埋葬が済み、全て解決したとホッとしてシャワーを浴びていると何とジュリアの身体に異変が起きる、同時に彼氏は教授のボイスメモに気付きジュリアの手の傷が点字のメッセージであることを知る。
ジュリアのもがき苦しむ口からはサマラの髪と蝉?が吐き出され、彼氏の点字翻訳がコマンドとなり、サマラのファイルが一斉にメーリングリストを通じコピー転送されてゆく。コンピュータのコンセントを抜いてもそれは止まらない。これはサマラの得意技の一つでもある。
恋人同士二人が叫び声をあげてパニックになる。
拡散したファイルの感想がすぐさま戻って来て、、、ジュリアの方は何とサマラに乗っ取られてしまったか、、、。


しかしこのファイル拡散はパソコンのディスクトップにファイルのアイコンが乗っている時点で最初からこちらも分かって見ている。
今更驚けない。ジュリアの身の上に関しても想定の範囲内である。
どんでん返しには全くならないし、どうにもこの映画自体が怖くはないし、驚きもない、サスペンスというほどの緊張感もない。
これが一番肝心なことであるが、貞子ではなくサマラがあまり出て来ないし、活躍もしていないのだ!
もっとおどろおどろしく暴れてくれなければ。この点においては、日本版の方が怖さはある。
元々サマラより貞子の方が怖いのかもしれない。
ヒロインは、ハリウッド前作のナオミ・ワッツの方がずっと良かった気がする。
彼女は「ツインピークス」でバリバリに活躍している(笑。



やはり「パシフィック・リム」みたいなものを観たい。
(貞子より怪獣である)。


マッドボンバー

The Mad Bomber001

The Mad Bomber
1972年

アメリカ

バート・I・ゴードン監督・脚本・製作・撮影

ミシェル・メンション音楽

チャック・コナーズ、、、ウィリアム・ドーン(爆弾魔)
ヴィンセント・エドワーズ、、、ジェロニモ・ミネリ(刑事)
ネヴィル・ブランド、、、ジョージ・フロムリー(レイプ魔)


年代物映画の好いところと困ったところが両方ある。
効果音・BGMがまず凄い。
耳障りで何の音だか分からない。
ペラペラ音だけが絵から自立してやけに気になる。
緊張感を高める演出としてはかなりきつい。
(「ウルトラQ」とか「怪奇大作戦」に近い乗りではあるが、それらの方が上手かった)。

反面、テープレコーダーが度々出てきて懐かしい。
そして何より(巨大)コンピュータである。
もうたまらないデカさ(大型冷蔵庫以上)と大まかなスウィッチ・ランプそしてデータテープの回転である。
モニタも小さいブラウン管でコマンドライン入力、プリンタからのテープ出力も何とも慎ましい。
爆弾犯人は被害妄想の偏執狂で金は関係なく社会に対する個人的な恨みを元に犯罪を繰り返していると分析結果が出る。
別に言われなくとも誰もがそんなところだろうとは想像している(笑。
犯人の特定に結びつくような特別な犯人像というものではない。

また何と謂っても当時マンガに出てきたようなダイナマイトと丸い目覚まし時計みたいな物との組み合わせの時限爆弾である。
この辺の物~ガジェット類がとてもコミカルな要素となっていてフェティッシュな愉しみが生じてしまう。
(何と謂うか物語の無意識部分に当たるか)。
そう、ファッションも見事に70年代でありその雰囲気に酔える。

The Mad Bomber002

堕落した社会が報復を受けるのは当然の話しだ、と言って犯人は次々に公共施設を爆破して行く。
ともかく、背が高い。2mくらいある。
如何にも頭が固そうな規範に厳しく受容性に乏しい他罰主義男である。
レイプ魔はここでは病院での犯行時に爆弾犯を目撃している可能性が高いことから物語に絡んで来る。
このレイプ魔も非常に悪質であるが自分はさておき、世直し爆弾魔を飛んでもない奴呼ばわりしている。
ほとんどこの男も罪悪感を持っていないことが分かる。

この二人は共に非常に残酷な犯罪を犯しているが、爆弾犯は正義の立場からの制裁という形で人を殺しているのに対しレイプ魔の動機は単なる個人的な欲望の実現以外の何ものでもないのだが、悪びれていない点で同等である。
どちらも身体性において他者との距離がとても離れている。
他者は大変貧しい記号的存在となっている点で両者は似ている。
片や愚かで不道徳な大衆という記号と片や単なる欲望を実現させるだけの性的記号である。
そして彼らは外にしか意識が向いていない。
内省というものが微塵も感じられない為、自己対象化の余地もない。

この物語は刑事も含め、かなり極端な単純化されたキャラで構成されている。
(とは言え、役者の怪演はかなりのものなのだが)。
刑事については、ハードボイルドな一匹狼タイプの先駈け的な存在か。
そのキャラたちの乗る平板な流れが独特な雰囲気を作っている。
何と謂うかこの時期のTVのクライムドラマに質的に近い。
絵の色が実に日常的で映画的ではないところからも。
お金もさほど掛かっていないことは分かる。

何れにせよ原理主義者によるテロや利己的で無意識的な犯罪の多発はすでに現状である。
更にこの爆弾犯のような内省や洞察を欠く他罰主義者が跋扈している点では、潜在的には遥かに恐ろしい状況となっている。
ともあれ古いで片付けられない映画である。

出て来る人物への共感とかは、その人物像の薄っぺらさから無理はあるが、ではつまらない映画かと言われると、そうではない。
爆破で殺された無残な死体などの描写や性的表現も少なからず斬新さがあり、カメラワークも上下(俯瞰)の動きなどに工夫が感じられる。
終盤、犯人が赤いワゴン車にロスの多くの人間を道連れに出来るダイナマイトを積み込み、彼らしく街の決まったコースを信号を守りながらゆっくりと巡回し、爆破のタイミングを計るシーンがあるが、ここなど派手なカーチェイスよりテンションを高められる部分であったと思う。
特に爆弾犯の壮絶な最期などちょっとびっくりした(カメラワークも併せて)。

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こうしたタイプの映画の初期形を観る愉しさは確かにある。

そして今思ったのだが、本作が毎晩少しずつ見ているデヴィッド・リンチの「ツインピークス」に収束してくる流れの一本にも感じられてくるのだ。

GODZILLA 怪獣惑星 

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GODZILLA

3部作構成の第1章である。
2017年

静野孔文、瀬下寛之 監督
ポリゴン・ピクチュアズ制作
虚淵玄 原案・脚本
XAI 主題歌「WHITE OUT」


ハルオ・サカキ大尉
ユウコ・タニ曹長、兵器開発者
メトフィエス中佐、エクシフ(異星人)の大司教
ムルエル・ガルグ中佐、ビルサルド(異星人)の技術士官


アニメーションの自由度をフルに活かし、途轍もないスケールと圧倒的な疾走感で一気に見せてしまう。
とは言えゴジラ自体はあまり動かない。
名状しがたい深い表情。
吠える声はまさにゴジラのものであった。
そして、熱線の破壊力に尽きる。

2作目も早く見たいと思った。

地球が怪獣たちやゴジラに壊滅的に破棄され、選ばれた者たちが他の惑星目指して逃れるが、その惑星には人類は住めずに宇宙を漂流する羽目となる。
長い年月宇宙船の劣悪な環境下にあって、地球に戻りゴジラを倒して故郷を奪還すべきという案に賛同する者が増えて来る。
戦術的にもゴジラを倒す案がサーバーにアップされ、誰もの注目を集めるようになっていた。
主人公は幼い時にゴジラに両親を殺され、何よりも人類の手でゴジラを倒し地球を取り戻すことを自らの使命と捉えている。

更にこの宇宙船には二種類の地球に移住を求めて来た異星人も加わっている。
ほとんど地球人と体形の変わらぬ意思疎通のできる高度な知性を有した種族である。
文明も文化も共有(理解可能な)部分が大きいように窺える。
(と謂うより、余りに似すぎている感じであり、普通の外国人くらいの雰囲気だ)。
議論して協力体制のもと、結局地球に戻り、ゴジラ殲滅作戦に打って出ることとなった。

彼らは宇宙船内に20年過ごしたが、地球はすでに2万年以上経っていた。
その間、環境はゴジラに最適化されたものになっていたようだ。
空気は人の吸えるものではなく、電波も撹乱され、怪獣が跋扈しており、2万年の時の経過は残酷なものであった。

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何と謂ってもメインは目を離せない怪獣やゴジラとの死闘である。
綿密に立てた作戦の決死の決行により、犠牲を出しつつ確実ににゴジラを追い詰めてゆく。
そしてギリギリの攻防の末、ついにゴジラを倒す。

しかし多大な犠牲を払い総力をかけて倒したゴジラはオリジナルの子孫に当たる個体であった。
勝利の余韻に浸る間も無く、ゴジラ・アース~本体が現れた時の敗北感は凄まじいものだ。
もう全く余力のない戦闘員たちになす術もない。
驚くのは、初代ゴジラが2万年の間、ずっと生き続けて成長を遂げていたということである。
体長300メートル、体重10万トンという巨大さは生物の限界を完全に超脱していた。

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誰もが宙を仰ぎ、その魔物の姿に打ちのめされる。
我に返り、その場を退却してゆくが、尻尾一振りの破壊力で多くが吹き飛ばされてしまう。
彼らはもはや散り散りだ。
絶体絶命の状況で物語は第2章へ渡される。


共感したり批判したりする余地のないテンポが凄かった。
暗く白熱した悪夢のようだ。
ただ引きずり込まれて見るだけの映画であった。


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ゴジラが物凄い筋肉質であったことが分かる。
これは動いても凄そうだ。










リアルであるとは

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映画を観ても造形に関わっても肝心なことであるが。
リアルとはどんな状態であるか。

少なくともリアルと所謂現実とは異なるものととらえている。
端的に謂って、現実とは距離をもって意味付けすることで全てを曖昧にしてしまう形式である。
解釈が不可避的に入って来る世界。

それは籠って見る世界に他ならない。
内面化とは意味による混濁に過ぎない。

夢には自意識の入る余地はない。
夢という場に対象化する距離はない。
了解のみの世界が脈絡なく展開する。

その余りの鮮明さ、稠密さに圧倒される。
遠近法~統語法がない。
リアルという感覚はそれかも知れない。

時折、映画にそれを見る。
小説にそれを見る。
夢のようにリアルな現実描写という、、、。


われわれは(わたしは)意味の剥ぎ取られた現実に触れたいのだ。
音楽はそれにとても近いピュアな力を形式上保持していると思われる。

しかしやはりいつもは言葉~意味に絡めとられている。
音楽が本来の力~流れと輝きを見せることは稀である。


距離があるところには必ず(時間の)遅延がある。
そこに記憶による構成~物語化が不可避的に起こる。


恐らくその解体・編集が鍵となってくるか、、、。



まとまりのないメモである。


ストレンジャー・イン・パラダイス

Stranger Than Paradise000

Stranger Than Paradise
1984年
アメリカ、西ドイツ

ジム・ジャームッシュ監督・脚本
ジョン・ルーリー音楽

ジョン・ルーリー 、、、ウィリー(ベラ・モルナー)
エスター・バリント 、、、エヴァ
リチャード・エドソン 、、、エディ
セシリア・スターク 、、、エヴァの叔母


ジム・ジャームッシュお得意のキャスティングである。
主人公や主要キャストにミュージシャンを選ぶ。
長編一作目の本作では、ウィリーにジョン・ルーリー。相棒エディのリチャード・エドソンはソニック・ユースのドラマーである。
ふたりのミュージックスタイルはかなり異なるが。

ブダペストから来た従妹のエヴァがクリーブランドに向かう途中でウィリーのアパートに転がり込んで来るところから始まり、エヴァを軸に淡々と無機質に展開する。

基本的に何が起きるでもない。
賭けで小銭を儲けてブラブラ生活している様子が垣間見られる。
各シーンは短く、物語性が膨らむ前に周到に摘み取る様に途切れる。(ワンカットワンシーン)。

ギャンブラーとして生計を立てているウィリーがしきりにハンガリー人であることを隠す。
従妹のエヴァを10日ばかり預かってくれと電話をよこす叔母にハンガリー語でなく英語で話せと訴え、自分は生まれも育ちもアメリカ人であると暗に顕示しようとするかのようだ。
エヴァを訪ねて叔母のところに行ったとき、本名のベラというのを相棒に聴きとられただけで怒っている。

そしてウィリーはラジオにかかるジョン・ルーリーの曲を「最低だ」と言って嫌うのが面白い。
他のふたりは大好きだというのに。

競馬で「トウキョウストーリー」が強いとか、小津ファンであることを仄めかすところもある(監督が)。

噺は三つの舞台に分かれる。

The New World
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ニューヨークである。
ギャンブラーとして生計を立てて生きる我が街である。
簡素な街のこれまた簡素なアパートの一室。
これがアメリカ人の食事だといって食べるアルミの皿のセットメニューも実に簡素なものである。
皿を洗う必要がないんだ、と威張っているがエヴァにとっては、それって食べ物?という感じである。
アメフトをTVで観ながら解説するが、エヴァはちっとも興味が沸かず、バカみたいとあっさり退ける。遠慮はない。
そのくせ、この部屋汚れているわと、掃除機をかけたりする。ちょっとこの辺、秋葉のツンデレっぽいか?
相棒のエディもやって来て彼女と顔見知りとなる。確かに素っ気ないコケティッシュな魅力であろう。
クリーブランドに発つときにウィリーは彼女にワンピースをプレゼントする。
「わたしこういうの着ないの。」「ここはアメリカだ。」ウィリーを支えるアメリカ観とは如何なるものか興味深い。
(少なくともアメリカンドリームを当てにしてアメリカにやって来る上昇志向は微塵も見られない。しかし誰よりもアメリカ人でありたいという意識は窺える。では彼のアメリカ人とはどのような像なのか。別のアメリカンイメージがあるのだ)。

夜、外でエヴァはそのダサい服を脱いでゴミ箱に捨てる。
エディはそれを目撃するがウィリーには言わない。

One Year Later
Stranger Than Paradise002
クリーブランドである。
如何様ポーカーでひと稼ぎした勢いで、クリーブランドにエディの借りた車で行くことにする。
「エヴァに逢いに行こうぜ。」この辺、極めて身軽な連中なのだ。
しかし二人にとってエヴァは何であるのか?
エディは赤の他人であるしウィリーも日本であれば4親等であることから彼女にする資格は法的にもある。
特に何も考えずただ逢ってみたいだけでもない執着心は感じるが、どれだけ意識しているかは分からない。
エヴァはクリーブランドのマクドナルドで働き映画を一緒に観る彼氏も出来ている。
彼氏とエヴァの間にエディが座るという4人構成でカンフー映画を観たりして、、、。

だが、そこは寒い。退屈。叔母とカードをしては負けるだけの日々に彼らはもたない。
それにエディの言うように、どこもみな同じなのだ。
全くその通りだ。
エディにブダペストもこうなのかい?と聞かれまたもウィリーは怒る。(エディはほとんど何も考えない男だ)。
600ドル持っている心の余裕からか、ふたりはエヴァを誘ってフロリダに行くことに決める。
エヴァも仕事と彼氏がいるのに、二つ返事でフロリダ行きに乗ってしまう。
叔母の反対を押し切って雪の中を車で乗り出す。

Paradise
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フロリダである。
最初のうちは観光客気取りで良い調子であったが、、、。
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二人部屋の安モーテルに三人で泊まり、節約して遊びまくるのかと思えば、彼女を部屋に残して出掛けたドッグレースで有り金のほとんどをすってしまう。そしてかなり険悪な事態になる。
一体何をしに来たのか、、、。そんなこと彼らは端から考えてもいない。
どこもみな同じなのではなかったのか?
それでまた、エヴァを独り残して今度は競馬に出掛けてしまう。
つまりウィリーの関心事は何処にいようが、賭け事以外にないことが分かる。観光を愉しむという世界などない。
ここに彼のアメリカ人としての非常に覚束ない(ギャンブルで繋がるレベルの)アイデンティティが窺える。
(母国ではどうだったのだろう?アメリカに来てこうなったのであれば、母国語の抑圧・否定が作用している部分は大きいと考えられる)。
そしてどうやらウィリーは賭けの際、女は絶対連れてゆかない(同席させない)という固い信念(ジンクス)を持っていることも分かる。
エディがいくら可哀そうだし連れて行こうよと懇願しても聞かない。

何も考えていないのが幸いしてか、外を散歩中だったエヴァは麻薬の売人と間違えられて大金を手にする。
競馬で稼いだ二人が小銭を手にしてモーテルに戻ると彼女はすでにいない。
空港に行くという置手紙とかなりの大金が添えてあった。
ふたりは金を持って、彼女を連れ戻そうとすぐに空港に駆け付ける。

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この映画全般のリアルな雰囲気はとても良い。
ユーモアとペーソスに充ちている。
特に最後のシーンはブラックユーモアと謂ってよい。

結局、ウィリーは彼女を探して飛行機に乗ったまま何とブダペストへ直行して行く(爆。
その日に発つ飛行機はブダペスト行きしかなかったのだ。
その飛んでゆく飛行機を呆れ顔で眺めつつエディはニューヨークに還るしかなかろう。
彼女は、ブダペストへ帰っても意味はないし、独り引き払われたモーテルに戻って来る。
(自分の書いた手紙から二人はすでにいないことは分かっていても何とも虚しい)。
三人バラバラになってしまうが、最初からバラバラであった。

誰もがストレンジャーなのだ。アメリカは元々そういう国である。
そして何処に行っても同じなのだ。

ダウン・バイ・ロー」とともにお気に入り映画のひとつである。


ピアノ発表会

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昨日、恒例のピアノ発表会があった。
毎年、緊張するものだ。

これが終わるまでは、夏も落ち着かない(わたしが)。
幸い今年は7月の最初に時期が早まり、夏休みはゆっくり過ごせる(笑。
今回もまだまだ年少組の為、順番は早い。
次女が8番、長女が10番。
順番が早い方がドキドキ待つ時間も少なくてよい。
後はお姉さん方の演奏を聴いていればよい。
ショパンの凄い演奏なども聴けたりする。
(今回は先生方のなかからショパンが聴けた。あの「幻想即興曲」である。得した気分になった)。


次女は大抵一か所はミスってハラハラさせる。
本人は結構落ち着いているのだが、、、。
今回も同様に(苦。
練習段階で(家で)間違えずに弾けていても、当日うっかりやる。
最小限に誤魔化して流していたが、こればかりは誰にも分かってしまう。
音楽の怖いところだ。一瞬が目立つのだ。
しかし曲の表情と強弱はついており、リズムも問題なかった。
聴かせようという意識は感じられて、まずまず楽しい曲になっていた。

長女は、事前にわたしがプレッシャーをかけ過ぎていた。
それまでほとんどなかったのだが、本番間近になって、やけにタッチミスが入り始めてきたのだ。
気を抜いて弾いている部分もあるかと思い、集中して間違えないように弾くことがまず基本と結構繰り返していた。
何とか前日にそれまでの指が滑って他のキーに触れてしまう?という感じはなくなったのだが。
10番目の演奏において、弾き間違いはなかったが、全体にタッチが弱いかんじであった。
終わってから「弱気になった?」と聞くと「きんちょうした~っ」とはにかんで言っていた。
「ご苦労さん」と自然に言葉が出た(笑。

その夜(昨晩)、先生からのメールで知ったのだが、舞台袖で非常に緊張していて手を握ったら汗をかなりかいていたそうだ。
相当プレッシャーがかかっていたかな、と思う。
緊張していたが綺麗な音色で曲想豊かに弾けていたとあり、とてもホッとした。
「あの子だけ音色が違うわね」と他の先生に褒められたと書き添えられていて、これは嬉しい限りであった。

全体に少し弱い面はあったが、ペダルもタイミングよく合って綺麗な音色を出すことは意識出来ていたと思う。
最後に、生徒たちがより成長出来るようにがんばります、と締めくくられており、こちらとしても是非末永くお願いしたいものだ。

音楽を通して学べることは実に大きい。
楽理的なことや演奏技術や藝術的素養は勿論だが、、、
精神的に強くなることがとても大切なことである。
(これがまず彼女らには一番必要なことかも)。


将来的に音楽で自分を表現できるようになれれば言う事はない。


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演奏会の良いところは、他の人~先輩方の演奏を鑑賞できることだ。
その感想として、ふたりとも早くショパンが弾きたいそうだ。
わたしも聴きたい(笑。

白い家の少女

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The Little Girl Who Lives Down the Lane
1976年

アメリカ

ニコラス・ジェスネール監督
レアード・コーニッグ原作・脚本

ジョディ・フォスター、、、リン・ジェイコブス (13歳の少女)
マーティン・シーン、、、フランク・ハレット (夫人の息子)
アレクシス・スミス、、、ハレット夫人 (家主)
スコット・ジャコビー、、、マリオ・ポデスタ (片足の不自由な彼氏)
モルト・シューマン、、、ロン・ミリオリティ (警官)


ニューイングランドのウエルズ・ハーパーという物哀しい街が舞台。
街にも出るがほとんど少女リン・ジェイコブス宅でのやりとりである。
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リンは、ハロウィンがバースデイなのだ。
ハロウィンがバースデイだなんて。
白い家に独り淋しく強く生きている。
その白い家に独り住むことを宿命付けられているとも謂えるか。

13歳の娘が独りとなると周りも煩い為、父が書斎に閉じ籠って仕事をしている偽装を凝らしている。
リンは父の思想に共鳴し彼の遺志を継いでいる。高い知性と鋭い感受性をもつが社会の枠に嵌められることを殊更嫌う。
父と同じ感性なのだろうが、外に交わることの不安や恐怖も感じられる個性だ。
金は潤沢にあるようだ(家は向こう三年分の賃貸料を前払いしている)。

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父が詩人というのに一度も出て来ない。
死期を悟り海で自殺してしまっているからいないのだが、回想にも出て来ない。
母は父から渡された青酸カリ入り紅茶で死んでもらっている。
母は父も彼女も大嫌いな人物であったらしい。
だからか母も回想には出て来ない。
(この映画はよくある現在の時間流に過去の時間流が混入するようなタイプのものではなく時間は線状的に流れる。と謂うより内面描写そのものがない)。
部屋のなかに流れる時間で演じられる物語だ。

兎も角、不快極まりないのはハレット母子である。
自分が家主である事をよいことに、他人の家(契約上)にズカズカ入り、やりたい放題の無礼を働き捨て台詞を吐いて立ち去る。
こんな奴らばかりなら、閉じ籠るのも仕方ない。

自分にとって不要なものを遮断して行く生き方は今のわたしと同じでもあり共感出来るが、マリオのアドバイス通り学校くらいは行っておいた方が良いと思う。
この状況は、切断以前に関係性の網が余りにも貧弱すぎる。
ほとんど孤立状態に、ウザいフランクやその母のハレット夫人のような輩のみがズカズカ入り込んで来るだけだ。
警官は職務上仕方ないところはあるが。
まともな友がマリオ一人というのは大変キビシイ。
いくらしっかりしていても人の助けは何かと必要となるものだ。

gifted/ギフテッド」のメアリーと同じように知力と超脱した感性と認識によって同世代の枠に馴染めないのは分かるが。
もう少し関係の網を広く伸ばしてから不要なものを切断して行けばよいのでは。
所謂、普通の他者との交わりである。

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マーティン・シーン演じる粘着気質の嫌な男ぶりは徹底しており悪魔としか言えないものであった。
(最後はまさに悪魔そのものであったが)。
この男との攻防戦が軸とも取れるが、最後のリンの紅茶の巧妙なシーンにはドキドキした。
しかし予め毒入り紅茶を自分が飲むようにセットして置き、相手の猜疑心を刺激してその紅茶の方に手を伸ばすように誘導する等、百戦錬磨のスパイみたいではないか。
13歳の女の子のすることか?
ジョディ・フォスターなら出来る(笑。

地下室から屍を二体引き釣り出して、庭に埋めるが警察犬などに匂いを嗅がれたらアウトのように思うが。
更に最後はもう一体増える。
死体処理どうするんだろうとこちらも心配になる映画であった。
グッドフェローズ」でプロのギャングでさえ死体の処理には困っていたものだ。
相棒のマリオは、雨の日の墓場堀りで肺炎を抉らせ入院中である。

綺麗だねと自分の髪をさすりながら息絶えてゆくフランクを冷たく突き放した瞳で眺め続けるリンのアップでエンドロールである。
魔性すら窺わせるところだ。
ある意味、ジョディの少女期のPVとも受け取れるフィルムでもあろう。
確かに恐ろしい新人女優の登場である。

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羊たちの沈黙」や「コンタクト」が余りに素晴らしく、そちらのジョディ・フォスターにばかり注目してきたが、この時期の彼女も魅せる。








かくも長き不在

Une aussi longue absence

Une aussi longue absence
1961年
フランス

アンリ・コルピ監督
マルグリット・デュラス脚本

アリダ・ヴァリ 、、、テレーズ・ラングロワ(カフェの女主人)
ジョルジュ・ウィルソン 、、、浮浪者(アルベール・ラングロワか?)
ジャック・アルダン 、、、ピエール
シャルル・ブラヴェット 、、、フェルナンド


テレーズはパリの下町にカフェをもち、御客で店は賑わっている。
彼女が信頼され土地に根付いた生活を営んでいることが窺える。
パリ祭が始まると、人々はバカンスに出かけてゆき、すっかり街は静まりかえった。
そんな時、彼女は16年前にゲシュタポに強制連行された夫にそっくりな男に出会う。
”歌手”と綽名を付けられた浮浪者である(セビリアの理髪師を唱っている)。

驚きの念を隠せず、テレーズは男に何とかコンタクトを取るも、彼はこれまでの記憶をすべて失っていた。
男は、川岸に掘っ立て小屋を作り、そこに寝泊まりしている。
古紙を集め生活しており、午後は小屋の前に腰掛け、残った雑誌から気に入った写真を切り抜き箱に収集しているのだ。
彼は基本的に他者に興味がない様子で、淡々と自分のやるべきことに没頭していた。

女は決して直接自分と彼の関係を仄めかしたり、過去を殊更問いただしたりはしない。
ただ話を聞いたり、彼が口ずさむオペラの曲について話したり、店のジュークボックスにその曲を追加して一緒に聞いたりするだけである。
思い出せる一番昔の記憶は、、、とは聞くが、彼は野原で立ち上がり、歩いたというだけであった。
(恐らくそれはつい最近の記憶である)。

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彼女はあくまでも彼の方から思い出してもらいたいのだ。
わたしはアルベール・ラングロワだと、、、。
彼女は親族を呼んで、彼を監査してもらうが、目の表情が違う、身長が違う、音楽に興味はなかったと否定的な見解を述べるが、彼である可能性を打ち消すことも出来ない。誰もが少なくても16年は逢っていないのだ。その不在は、あらゆる面で大きい。
結局、テレーズの彼への想いを、彼こそが帰って来た夫だという確信を、強めることになる。

彼の持っている証明書には名前が「ロベール・ランデ」となっている。
しかしそれも記憶喪失の彼の持ち物であり信憑性に欠ける。
彼には店で食事をしたり、音楽を聴いたり、話をしたりしましょうと持ち掛け彼の承諾を取る。
彼女自身であくまでも彼の正体を暴きたい。
いや共に生きた何らかの記憶を共有したいのだ。
(これが人間の究極的な願いなのかも知れない)。

彼女は食事に取って置きの「ブルーチーズ」を振舞う。
やはり好きであった食べ物が想い出に繋がる可能性は高い。
そう、マルセル・プルーストは(紅茶に浸った)「プチット・マドレーヌ」であった。
だが、そのチーズは美味しいというだけで、何かの想い~記憶に接続することはなかった。

Une aussi longue absence001

街の住人(バカンスに行っていない人々)も彼女の動向を固唾をのんで見守る。
皆、個の事態に狼狽えているのだ。

或る夜、音楽(オペラ)を聴いて歌を二人で唄って打ち解けた後、ダンスをして彼女は初めて気づく。
彼の後頭部に大きな深い傷が生々しく残っているのだ。
普段は帽子で気付かなかったそれに彼女は少なからぬ衝撃を受ける。

医者ももう治らないだろうと言っていると彼は他人事のように語る。
そう、感情的な面でも(記憶と感情は切り離せない)何か欠損があるように受け取れる。
彼女の表情は曇るが、時間をかければ記憶の蘇る可能性もあると気を取り直し信じようとする。
いや、そうではない。もはや彼の記憶が戻ろうが戻るまいが、夫であるかどうかなどの次元ではなく、夫をゲシュタボに奪われてからの空白の長い年月の空虚~不在を埋める生きる力~希望と、彼の存在はなっていたのではないか?

Une aussi longue absence004

夜の街頭に出たところで彼は、テレーズから、寄り集まって来た街の人々から”アルベール・ラングロワ”と叫んで呼ばれる。
彼はフリーズし両手を上げる。
そして怯えて走って逃げ出す。
街の人々に追われて、、、何かに追われて、、、
正面からやって来た車に、助けを求めるかのように両手をひろげ飛び出してゆく、、、。


警官が彼女のもとに戻って来て、「彼は出て行った」「分かるだろ」と告げる。
彼女は、「また出て行った」と返し呆然としながら「でも冬が来ればまた帰って来る」「冬を待ちましょう」と呟く。

彼女にとり、(また)永遠なる不在がはじまる。







gifted/ギフテッド

Gifted001.jpg

Gifted
2017年
アメリカ

マーク・ウェブ監督
トム・フリン脚本

クリス・エヴァンス 、、フランク・アドラー(メアリーの叔父、元大学哲学教授、現ボートの修理屋)
マッケナ・グレイス 、、、メアリー・アドラー(ギフテッド、フランクの姪)
リンゼイ・ダンカン 、、、イヴリン・アドラー(メアリーの祖母、フランクの母親、数学者)
ジェニー・スレイト 、、、ボニー・スティーヴンソン(メアリーの担任)
オクタヴィア・スペンサー 、、、ロバータ・テイラー(メアリーとフランクの隣人)


マッケナ・グレイス。
エマ・ワトソン、ナタリー・ポートマン、ダコタ・ファニングみたいに彼女もなるか、、、
最近では、アミア・ミラーというこれまた凄い女優が出ているが、ライヴァルとなるのか、、、。
子役というのは不安定な要素があるからそのまま伸びるかどうかは定かではないが、まずここで充分な役割を果たしていた。

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片目の猫もいるだけで充分な存在であった。
猫とは本来そういうものである。
そしてなくてはならないものとなっている。
こころの支えにいつの間にかなっているものだ。
この猫は、鳥にも優しい猫である。
メアリーの情操教育にはなくてはならない。

彼女は同年代の子供との数学的能力の余りの開きが元で普通の学校には適応できない。
しかし、その他の認識力、哲学的な洞察や考察が秀でているかといえば、ほぼ歳相応でもある。
所謂、数学能力の飛び抜けた天才なのだ。

このような場合、やはり彼女自身の求める環境~ヒトの中で愛情たっぷりに育て、際立つ能力だけを更に育成する場に預ければよいはずではないか。

Gifted003.jpg

メアリーの自殺した母は世界的に有名な天才数学者であった。
自分がデートの約束をしていたため、相談に来た姉ののっぴきならない悩みに耳を貸さず、帰ってみると姉が自殺していて、彼女の子供を自分が育てる運命となっていた。フランクが大きな責任を感じるのは当然である。
しかしフランクは実際メアリーが可愛くてしかたない。
そして尋常でない数学的能力が通常の生活を妨げてしまうメアリーを歪に育てたくない。
ここに”Gifted”特殊な秀でた能力をもつ子供の育て難さがよくあらわされている。
隣人のロバータがメアリーに殊の外肩入れしている。
彼女の置かれた立場と彼女に最も必要なものをよく知っている、貴重な存在である。
天才には、こういう人が一人ついているといないとでは、大きなサポート面での差が出来る。
通常であれば単なるお節介になってしまうだろうが。

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数学の問題・ツールの一杯詰まったMacbook、、、これは良い祖母からの贈り物だ。
この娘なら忽ち使い倒してしまうだろう。
だが、このようなアイテムよりこの子にとって必要なのは愛情ある環境である。
才能を開花させるという祖母の気持ちは、単なる娘の代わりに数学の偉業を達成させようという自分の野心の道具に孫を利用としようとする以外の何ものでもない。
周りの人間は、才能を見出すとそれを物象化してそれを持つ人間そのものには見向きもしなくなり、ひたすら才能という物のみに際限なく拘り始める。それを利用しようとする。
これでは、娘(メアリーの母)が精神破綻して自殺してしまうのも無理はない。
祖母は、娘だけでなく孫のメアリーにも同じことをしようとする。
悲劇を繰り返そうとする。

そのやり口は流石に巧妙である。
叔父の暮らす環境が劣悪過ぎる(教育的にも経済的にも健康面からも)という事から親権を巡り裁判を起こす。
フランクの弁護士を抱き込み、自分が勝者と見えないようにし、第三者である里親に託してメラニーに対し同等の権利を持つかのように装い、里親の別棟に彼女を軟禁し自分も入り浸り英才教育を受けさせていた。
祖母は猫アレルギーの為、片目の猫を保健所に追い遣り、すんでのところで処分となっていた。
小学校の担任の先生がそれに気づきその猫は九死に一生を得て、フランクは里親トリックを見抜き、直ぐにメラニー奪回に飛んでゆく。

Gifted002.jpg

結局、メラニーはマサチューセッツ工科大学に小1から学び、放課後は同年代の普通の小学校の子たちと遊ぶことになった。
大好きな叔父と隣人のロバータと片目の猫のいる環境に戻り。
これまでと同じ、この落ち着き先で良いと思う。

娘(メラニーの母)は、7年目にすでに「ミレニアム懸賞問題」のなかの”ナビエ-ストークス方程式の解の存在と滑らかさ”を解いていた。それを敢えて公表せずにいたのだった。
その証明の冊子はフランクに託されていた。
母の死後まで公表するなという意思に従い。
だが、フランクはそれを母に託す。祖母の興味関心と野心はそこにあったはず。
最後に、手渡された直筆の数式のメモの束を見てイヴリンは泣き崩れる。


知的欲求を満たし、身体的~全人的な成育を全うする環境が得られれば取り敢えずは言う事ない。
ピアノをとても弾きたがっていたのだし、それは買ってあげた方がよいだろう。
恐らくかなりのピアニストになってしまう気がする。
グッド・ウィル・ハンティング」を思い起こす。
幼さと利発さと生意気をしっかり演じていたマッケナ・グレイスの今後にも注目したい。



奇跡の丘

Il Vangelo secondo Matteo002

Il Vangelo secondo Matteo  The Gospel According to St. Matthew
1964年
イタリア・フランス

ピエル・パオロ・パゾリーニ監督・脚本
ルイス・バカロフ音楽


エンリケ・イラソキ、、、 イエス
マルゲリータ・カルーソ 、、、母マリア(若い時代)
スザンナ・パゾリーニ(パゾリーニの母)、、、 母マリア
マルチェロ・モランテ、、、 ヨセフ
マリオ・ソクラテ、、、洗礼者ヨハネ
セティミオ・デ・ポルト 、、、ペトロ
アルフォンソ・ガット 、、、アンデレ
ルイジ・バルビーニ 、、、 ヤコブ(ゼベダイの子)
ジャコモ・モランテ 、、、ヨハネ(ゼベダイの子)
ジョルジョ・アガンベン 、、、フィリポ
グイド・チェレターニ 、、、 バルトロマイ
ロザリオ・ミガーレ 、、、トマス
フェルッチョ・ヌッツォ 、、、マタイ
マルチェロ・ガルディーニ 、、、アルファイの子ヤコブ
エリオ・スパツィアーニ 、、、タダイ
エンゾ・シチリアーノ 、、、シモン(熱心党)
オテロ・セスティリ 、、、ユダ(イスカリオテ)
ロドルフォ・ウィルコック 、、、カヤファ
アレッサンドロ・クレリチ 、、、ポンテオ・ピラト
アメリゴ・ベヴィラッカ 、、、ヘロデ大王
フランチェスコ・レオネッティ 、、、ヘロデ・アンティパス
フランカ・クパーネ 、、、ヘロデア
パオラ・テデスコ 、、、サロメ

、、、役者は皆、素人だという。イタリア語で演じられる。
(キリストは流石にシャープで祭司長はベテラン役者風であるが、その他はホントに朴訥とした素人集団だ)。
白黒の画面こそこの物語に似つかわしい。
美しい映画だ。

「マタイによる福音書」に従い全てが描かれてゆく。
(「マタイ」の他に「マルコ」「ルカ」「ヨハネ」の福音書があるが、パゾーリーニはこれを選んだということか)。
イエスはディベートの達人であった。
イエスの語った有名なセリフがこれでもかという感じで強烈に連打される。
例え噺がやはり面白い。説得力を増す。
イエスのかなりの戦闘力を感じるフィルムであった。
音楽が広範囲から選び抜かれてかけられているように思ったが、微妙な選曲もあった。
バッハのマタイ受難曲、モーツアルトの協奏曲は絶妙であった。民族音楽?の使い方、、、。

処女懐胎にはじまる。
ダビデの子、ヨセフの元に天使が現れ、マリアが精霊により身籠った、恐れずにマリアを妻として迎えよと告げる。
(天使は中性的な雰囲気を持つ若い乙女である)。
Fra Angelico
(フラアンジェリコ)
人々の笑顔の表情が印象的。
特に東方の三博士の表情が柔和で中性的な感じがした。
母マリア(若い時代)の顔がとても個性的であった。
(まさに前ルネッサンスの絵に現れる顔である)。
Il Vangelo secondo Matteo001


そしてイエスの誕生
Correggio.jpg
(コレッジオ)
ベツレヘムに生まれる。
天使が現れ幼子イエスの危機を救ってゆく。
へデロから逃れエジプトに留まるのです。
イスラエルに行きなさい、、、。

イエスの洗礼
Verrocchio.jpg
(ヴェロッキオ)
ヨハネから洗礼を受ける。
ヨハネはすでにイエスを知っていた。
自分よりも遥かに高次の存在として。
Il Vangelo secondo Matteo003

青年イエスの顔がマリアそっくりなのには驚く。(トップ画像)
(最初、マリア役の女優がやっているのかと思ったくらい)。
最初の内はどうもキリストというイメージが馴染まず、少し違和感を持ちながらの鑑賞となる。

荒野の誘惑
William Blake
(ブレイク)
悪魔がお前が神の子であるならば、と無理難題を吹っかけてくる。
「この砂漠の石を全てパンに変えてみろ」等々、、、。
「人はパンではなく神の御言葉で生きる」
「神を試してはならぬ」
と、サタンを退ける。
道すがらイエスに「悔い改めよ、天国は近づいた」といきなり言われた農民がきょとんとして振り返っている。
「荒野に叫ぶもの」である。
ここから以後、イエスは苛烈に福音を説いてゆく。
弟子となる者に声をかけてゆき、みな従う。ペテロ、アンデレの漁師たちから、、、ヤコブ、ヨハネと、、、。

イエスの奇跡
Tiziano.jpg
(ティツィアーノ)
ガリラヤを巡回するなか、病人を次々に治す。
ハンセン病が一瞬に治る。
盲目の人の目が見えるようになる、、、。
杖なくして歩けない夫人が杖を捨てる。
安息日に何で病気を治してやるのかという批判に対しても相手を軽くねじ伏せる。
イエスがデベートに強いのは何よりも律法に精通しているからだ。これがまず前提であろう。
イザヤの予言と律法の成就の為に我は来た。

この頃となると、イエスがとてもしっくりしてきて、鋭く全くぶれのないキリスト以外の誰でもないという感じに落ち着く。
若いが威厳に充ち溢れている。
そして、彼を一刻も早く殺さねばと策を巡らすユダヤの司祭たち。

使徒の乗る船を後ろから水面の上を歩いて追いつくキリスト。
岸に就くとユダヤの王エロドの地であり、ヨハネ(洗礼者)が井戸に閉じ込められている。
サロメの舞に歓び王は何でも欲しいものを与えると言い、彼女はヨハネの首を欲する。
(サロメは新体操の選手みたいな少女であった)。

最後の晩餐
Il Vangelo secondo Matteo004
(レオナルド)
レオナルドダヴィンチの絵で余りに印象深い。
イエスはすべてをすでに知っている。
「わたしはエルサレムに行かねばならない。わたしはそこで殺される。」
「殺されるが3日後に復活する。」
エルサレムでキリストはユダヤの祭司長らを圧倒する。
そして火を噴くような説法。非常に攻撃的な内容。
エルサレムとは予言者たちを殺した地である。

祭司長は策略をもってキリストの殺害を実行に移す。
そこにユダが金欲しさに乗って来る。
そして余りに有名な「最後の晩餐」である。
予言者キリストは全てを知っていた。
「おまえたちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」「お前は鶏の鳴く前に3度わたしを知らないという。」
確信を持ったアップの表情がとても多くなる。
(デューラーの肖像画を想いうかべてしまう)。

ゲッセマネの祈り
Mantegna002.jpg
(マンテーニャ)
ペテロ、ヤコブ、ヨハネと共にキリストはオリーブ山の麓にあるゲッセマネの園へ行く。
キリストが神に祈る間、三人の弟子たちは眠ってしまい、天使がキリストに聖杯を与える。
ユダがキリストを逮捕する兵士を率いて来る。


ゴルゴダの丘
Mantegna.jpg
(マンテーニャ)
これも多くの画家が描いたテーマだ。
エルサレム神殿を頂点とするユダヤ教体制を批判したかどで、ユダヤの指導者から処刑される。
「お前は神を冒涜した。」
十字架に磔~という公開処刑である。
かなり詳細にリアルに描いている。

復活
Raffaello Santi
(ラファエロ)
天使が使徒たちにイエスの復活を知らせる。
キリストは復活して、すでにガリラヤにいた。

”お前たちは行って、あらゆる国の人々を弟子とし
 父、子、精霊の御名によってバプテスマ(洗礼)を授け、
 また、わたしが命じておいたすべてのことを教えよ
 
 見よ、わたしは、世の終わりまで、お前たちとともにいる”


強烈なノスタルジーを覚えた。
パゾリーニ監督はマルキストとして有名な人である(無神論者)。







”Bon voyage.”

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