駅馬車
Stagecoach
1939年
アメリカ
ジョン・フォード監督
クレア・トレヴァー、、、ダラス(娼婦)
ジョン・ウェイン、、、リンゴ・キッド(脱獄囚)
トーマス・ミッチェル、、、ブーン医師
ジョージ・バンクロフト、、、カーリー保安官
アンディ・ディバイン、、、バック(御者)
ルイーズ・プラット、、、ルーシー・マロリー(貴婦人)
ジョン・キャラダイン、、、ハットフィールド(賭博師)
ドナルド・ミーク、、、ピーコック(酒商人)
そのまま「駅馬車」である。
クレジットの先頭はクレア・トレヴァーである。
彼女が主役なのか、、、。
アリゾナ州トントからニューメキシコ州ローズバーグに危険を冒して向かう駅馬車でのドラマである。
カメラワークが実によく、馬の疾走感が半端ではなかった。
馬車から先頭馬まで飛び移ってゆくキッドの姿にもビクッとしたが、アパッチとの銃撃戦、闇夜の決闘までのタメには、かなりの緊張を強いられるものであった。
ひとつ、、、銃撃戦で、銃弾が馬に全く当たらなかったのは、インディアンとはそういう人たちなのか、、、?
3対1の決闘でリンゴが前に倒れこみながら銃声だけが轟く。
そして、後二発が闇夜に轟く。
ダラスが不安に戦く。
この辺の演出は見事であると同時に、この映画はダラスの波乱の人生の物語であったことを知る。
この映画、肝心な部分を見せずに想像させる演出が特徴である。
前半にたっぷりジェロニモ率いるアパッチの恐ろしさとその襲撃を予感させておいて、後半駅馬車の客たちが安堵の様子を見せたところに突然の襲撃。
噂話や音や狼煙でまずその存在を告知しておく。
そしてにわかにそれが迫る。
更に、同時性。(予定調和ではない)。
駅馬車のキッドたちとアパッチとの攻防の末、駅馬車側の弾が尽きた絶体絶命の時に奇兵隊の突撃ラッパが鳴り響くところなど、ホントに気持ちが良い。その音を真っ先に聞取ったのがダラスであった。
ご都合主義の対極にある恩寵の場面である。
日常生活においても、希だがこんな瞬間はある。(あったのに気づかなかったりする、それが人生でもある、、、(悲哀)。
このへんの流れは、まずもって気持ち良い。
駅馬車に乗り合わせた客で、悪者は金を横領して逃げる銀行家くらいだ。
この威張り腐った銀行家、吐く理屈からして明らかに現代の(悪徳)資本家の原型だ。
後は、周囲の無理解に苦渋を舐めていたダラスとブーンDr.も献身的な働きとやるときには命を張ってやる姿に信頼を得てゆく。
特にダラスに対し軽蔑の眼差しを向けていた貴婦人ルーシーも、自分の産んだ赤ん坊を寝ずに世話をしてくれた彼女に感謝の念を抱く。
リンゴの活躍なしに、駅馬車の客は生き残れなかったことは誰もが認める事実である。
リンゴを逮捕する目的で駅馬車に乗り込んだ保安官も、彼に友情を深く感じてゆく。(医者のブーンもそうだ)。
ルーシーに何かと気を寄せていたハットフィールドも見知らぬ女性の遺体に自分の外套をかけてやるなどの紳士的な振る舞いはあっぱれなものであった。
やはり南部の貴族の出(グリーンフィールド家)であることが分かる。彼一人アパッチの銃弾に命を落とすが、馬車に乗り込んで終始紳士を全うしたことは確かだ。
酒商人のピーコックも最初は小心者に見えて、次第に良識と良心をしっかり備えたところを示し存在感を増してゆく。
バックも如何にも小市民的な発想でこぢんまりしていたが、人の良いところが充分窺える男だ。
ネイティブの描き方が余りに素っ気なく乱暴であるが、世界大戦におけるアメリカ映画のドイツ兵の描き方とほとんど変わりない。
局面を限定して単純化して描いている分、そこは然程気にならない。
何をおいても、愛情表現とその行為の機微の描き方が絶妙である。
リンゴから愛を打ち明けられたダラスの素直に受け止めきれない(恐らく怖さからか)複雑な心境やアパッチに対抗する銃弾が無くなった時に、ハットフィールドが最後の一発で好意を寄せるルーシーをせめて自分の手で殺してしまおうかと逡巡するところなど、実に説得力のある共感できる場面だ。
そして最後が実に粋である。
保安官と酔いどれ医者が結託して、リンゴとダラスを「文明の外」に逃がしてやるところ、、、。
なかなかありそうで、ないシーンである。
爽やかに解き放たれたふたりが眩しい。
逃がしてやった男ふたりの笑顔も素敵だ。
後味の良いところもこの名作映画の魅力のひとつか。