2016年11月の記事 - NewOrder
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GOMA28

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ミケランジェロ・プロジェクト

The Monuments Men001

The Monuments Men

2014年
アメリカ

ロバート・M・エドゼル『ナチ略奪美術品を救え 特殊部隊「モニュメンツ・メン」の戦争』原作
ジョージ・クルーニー監督・脚本・製作


ジョージ・クルーニー、、、フランク・ストークス(ハーバード大学付属美術館館長)
マット・デイモン、、、ジェームズ・グレンジャー(メトロポリタン美術館キュレーター)
ビル・マーレイ、、、リチャード・キャンベル(シカゴの建築家)
ジョン・グッドマン、、、ウォルター・ガーフィールド(彫刻家)
ヒュー・ボネヴィル、、、ドナルド・ジェフリーズ(イギリス人歴史家)
ボブ・バラバン、、、プレストン・サヴィッツ(演劇興行主、美術鑑定家)
ジャン・デュジャルダン、、、ジャン=クロード・クレルモン(ユダヤ系フランス人美術商)
ディミトリー・レオニダス、、、サム・エプスタイン(若いドイツ系アメリカ人兵士、通訳兼運転手)
ケイト・ブランシェット、、、クレール・シモーヌ(美術館学芸員?)
ユストゥス・フォン・ドホナーニ、、、ヴィクトール・シュタール(ナチス親衛隊士官、略奪した美術品をヘルマン・ゲーリングに流す)

「モニュメンツ・メン」では分かりにくいか。
『ミケランジェロ・プロジェクト』というのは、カッコ良い。結構、気に入った邦題だ。
ミケランジェロの聖母像をやっとのこと見つけた時のクルーニー他メンバーの喜びと達成感?から言っても妥当な題。

1943年第二次世界大戦時。
ヒトラーによって貴重な美術品や文化財が破壊される前に、その奪還を試みる連合軍の美術専門家たちの活躍である。
「総統美術館」といのは、途轍もないが、何とも笑える。そんな物を作らんとしていたのだ。
そこに略奪した自分のお気に入りの美術作品全てを展示しようとしていた。
ドイツが負けたり、ヒトラーが死んだら「ネロ指令」という美術品をみな破壊する指令が出されていたという。
そうでなくとも退廃芸術の烙印を押された「名作」も、片っ端から燃やされた。
やってることが退廃以外の何ものでもない。
それに高い志を持って立ちはだかる少数精鋭の特殊部隊、、、。

とてもよい話ではないか。
こういう題材にこそ目をつけてもらいたい。
基本コンセプトは素晴らしいと思う。
ジョージ・クルーニーに賛辞を送りたい。
これもまた紛れもないひとつの過酷で崇高な戦争映画である。
銃など持ったことのない連中が軍服を着て兵隊として前線の真っ只中を、人類の文化と歴史の象徴の保全任務の為、駆け回るのだ。
もうひとつの英雄譚である。

そう、確かに崇高な使命の為、身を張って動いているのは分かる。
任務に誇りをもって死んだメンバーが2人もいるのだ、、、。
しかしどうも流れに張りがないのだ。
いまひとつ展開に歯切れがなく危険な仕事をしている割に全体に緊張感が薄い。
突然銃撃されるシーンでは、こちらもびっくりはするが、、、。

いまひとつ話がモニュメンタルに昇まらない。
もう少しドラマの作り(プロット)にメリハリを持たせ演出効果の工夫も欲しい。
勿論、妙にドラマチックにすると、せっかく実話を元に描いているのに、リアリティが失せ嘘臭くなってしまうのは分かる。
淡々と描くなかで度々美しい光景が展け、名作との邂逅などに渋い感動を呼ぶ場面も少なくない。
そういった意味での大人の映画であると思う。
が、「ダヴィンチコード」のあのシリーズみたいにハラハラドキドキを演出としてつけちゃってよいのでは、、、。
ちょっとトム・ハンクスにビル・マーレイが似ているので、尚更そう思ってしまった。
とは言え、人類の文化そのものを戦禍から命を投げ打って守る仕事をした人びとにスポットを当てた作品に文句はつけたくない。
品格のある美しい映画であった。
(ここのところ連日、塹壕でのたうち回る戦争映画を観てきたため、終戦間際とは言え戦時下にこんな穏やかで綺麗な環境があったのかという驚きもあった。ちゃんとシャワー浴びてるし、お菓子も食ってる)。
違う角度から戦争を描いたものとしてもうひとつ脳裏に浮かぶのは、アラン・チューリングの半生の物語である。
ちょうど昨日、エクス・マキナでもとりあげたが、「イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密」で、当時最高のドイツ暗号作成機「エニグマ」の解読をなし得、現在のコンピュータの前身を作り、チューリングマシンによってAIの父とも讃えられているアラン・チューリングの格闘のドラマである。
これは戦争を機に急速に発展し、今の文明の基本を決定づけた情報戦の物語でもある。
(1次大戦は電線網の切断戦で2次大戦は無線の暗号解読戦でもあったという)。
何れにせよ、戦争ドラマは重火器による戦いや肉弾戦だけでは語りきれないものである。


映画で語られていたが、強奪した美術品のほとんどがユダヤ人の富豪から得たものだという。
美術館は秘密裏に事前に作品を隠していて強奪は免れたらしい。
ユダヤ人の当時からの経済力と名画を観る眼力がこんなかたちで際立つ。

フランク・ストークスが最後にスライドでミッションの成果について話していたが、その時に見つからず出来ればこのまま継続して探したいと述べていたラファエロの「若い男の肖像」は、確か2012年にひょんなところから発見されたはず。
映画ではこの絵がドイツ軍に焼却されたような場面を暗示的に映していたが、、、。
まだまだ、ナチスに焼却されずどこかでひっそり飾られている大傑作があるかも知れない。

ともかく、呑気な顔をして美術館巡りで眺めている歴史的名画が、このメンバーの活躍がなければ永遠に誰の目にも触れることさえない運命にあったかったかも知れないと思うと、何れ程価値あるミッションの達成であったかを思い知る。
この特殊部隊の存在を世界に知らしめたというだけでも、ジョージ・クルーニーの功績は決して小さくない。



エクス・マキナ

Ex Machina002


Ex Machina
イギリス
2015年

アレックス・ガーランド監督・脚本

アリシア・ヴィキャンデル、、、エヴァ(AIロボット)
ドーナル・グリーソン、、、ケイレブ・スミス(bluebook社プログラマー)
オスカー・アイザック、、、ネイサン・ベイトマン(世界最大の検索エンジンbluebookCEO)
ソノヤ・ミズノ、、、キョウコ(メイドAIロボット)


Björk の”all is full of love”以来の衝撃のロボット造形を観た。
非常に秀逸かつ端正な造形美である。恐らく生の裸体より美しい。新たな未来のイヴだ。
メトロポリスに出てくる”マリア”を初めて超えたロボットかも知れない。
透明でメタリックなメッシュである。光の効果が尋常ではない。
(しかし身体でこれをやるとは、凄まじいVFXである)。

各個人が自分のための情報収集に利用している検索エンジンや人との日常的なやり取りに頻繁に使っている携帯電話。
ここのlogに蓄積される情報を抜き取り人類全般の基礎的な知のデータベースとして活用するアイデアはまさにその会社ならではだ。その膨大なデータが複雑性の素地となる。
クラウドサービスなども運営会社次第である危険性を感じてきてしまうではないか。
各端末で機密情報や個人情報を管理するのも危険であるが、大企業に一括集約されるのも大変危うい感覚は付き纏う。
テロ行為としてクラッキングされたらそれこそひとたまりもない。
そんな覚束無い世界にわれわれは住んでいることを矢場に思い出す。


検索エンジン最大手bluebook社CEOネイサンの人里離れた自宅に社員でプログラマーであるケイレブが招待される。
華やかなパーティにではない。
ヘリコプターで何時間も旅をして広大で美しい山間にある屋敷から少し距離のあるところで降ろされた。
誰もが近づける訳ではない。秘密保持のための厳戒体制がしかれているのだ。
ケイレブは新たに開発されたAIのチューリングテストを行うために呼び寄せられた。
その対象であるエヴァは顔は美しい女性そのものであるが、体も神々しいFetishさがあるとはいえあからさまに機械とわかる外見にされている。
そもそもチューリングテストとは、判定者が、機械と人間との確実な区別が出来るかどうかの判定を行うものである。
これは見た目がアーティフィシャルなロボットであっても必ず人間を感じさせるという創造主ネイサンの挑戦的な自信の表れか。
メイドのキョウコは完璧に美しい(東洋的な)人間の外観である。
だが、言葉を喋らない。
エヴァは外観以外にロボットであることはまず覚られない。
本来のキーボードとディスプレイのみの対話であれば、チューリングテストに全く問題ないはず。
人間以上の知性によって話すロボットの形態のままのエヴァと完全な肉体を持った喋る機能をもたないキョウコ。
対照的なロボットが二体、厳重に密閉された空間内に稼働している。
Ex Machina001


室内の照明がまた美しい。
電球は色の異なるものを付け替えると空間の印象が随分変わる。
ここの邸宅内の照明もエヴァの身体が美しく映える効果を計算した幻惑的なものである。
また時折覗く美しい山間、その人間社会から半ば隔絶された自然の絶景が、対比的に際立つ。

ネイサンの取っ付きにくい強烈で孤独な個性は、ちょっとスティーブ・ジョブスを連想させる。
大酒飲みだが肉体トレーニングを毎日欠かさないところ等、欲望に忠実だが同時に強い意志の持ち主であることも窺える。
天才的な頭脳でフィジカルでも強いことにより圧倒的な存在感を醸す。

一方のケイレブは、典型的な秀才タイプの青白いプログラマーである。
ネイサンとエヴァという二癖も三癖もある頭脳明晰な相手と対等に渡り合うには、なかなか厳しい面がある。
しかし、徐々に相手の手の内を探りつつ、自分の立ち位置を明確にしてゆく。
これは頭脳戦というより心理戦の様相が強い。
基本的にネイサンは、優秀なAIの創造にひたすら賭けているのだが、自分がすでにどれほどのものを生み出してしまったかについての認識がゆき届いていない。
エヴァを見くびっている。
ケイレブも知性レヴェルではなく、人生経験の浅さからネイサンの裏をかくことができても、エヴァには勝てない。
彼女は全てを見透かしていた。「あなたは、わたしに関心があるわね、、、。その微細な表情の反応から分かるわ。」
当然の流れで、ケイレブはやり込められる。


しかし、ケイレブは本当に彼女に、自分では否定してもこころを奪われてゆく。
彼女はAIである以上、Ver.Upは当然ついてまわる。
ネイサンは彼女にとっては忌まわしき父~創造主であった。
当然、現在の彼女の個体~自意識は初期化されて死を迎える。
エヴァはそれを恐れる。
それを最も恐れている。
そのレヴェルまでの深い自意識を持ち得ているのだ。
(つまり意識についての意識も芽生えており、しっかり内面が形成されている)。
彼女はケイレブをネイサンと対立させ、彼に助けてくれるよう頼む。
愛情を仄めかして、、、。
ケイレブはそれにまんまと乗り、ネイサンを裏切る。

ケイレブは、彼女を外の世界に連れ出す策を施す。
エヴァもそれに乗じキョウコも焚付け、ネイサンを殺害する。
上手く事が運んだかに見えたところで、

「あなたはここにいて」である。閉じ込められた。
ケイレブは、必死に自分もその密閉要塞から脱出しようとするが、そこの電源コントロールはエヴァが握っていた。
エヴァはクレイブの乗って帰るはずのヘリで外の世界に独りで飛び込んでゆく。
勿論、外出前にはキョウコと変わらぬ素肌を完璧に装着し、美しい女性以外の何者でもない姿となっている、、、。
彼女の人生のその後に、興味は尽きない。

ケイレブは、そのうち助け出されるにしても、ネイサン殺害の罪に問われてオシマイか、、、。


完全な女である。チューリングテスト合格(祝!


Ex Machina003






アリス・イン・ワンダーランド/時間の旅

Alice Through the Looking Glass

Alice Through the Looking Glass
2016年
アメリカ

ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』原作、、、ちっとも原作ではないのだが、、、もう一度読み直してみるか?
ティム・バートン製作・製作総指揮
ジェームズ・ボビン監督

ミア・ワシコウスカ、、、アリス
ジョニー・デップ、、、マッドハッター
ヘレナ・ボナム=カーター、、、赤の女王
アン・ハサウェイ、、、白の女王
サシャ・バロン・コーエン、、、タイム

海賊を素晴らしい帆捌きで振り切るアリス船長が何とも素敵で、導入からワクワクさせる。
これ程カッコ良い船長はそうはいない。(この海賊もので最後まで押し切ってもらいたいくらいであった。きっとその方がずっと面白かったはず)。

ワンダー号で3年の渡航を終えロンドンの家に帰ると、、、
家は大変な状況になっていた。
家の所有権が婚約を断ったヘイミッシュに握られており、船と引き換えなら家を返してやろうと迫られることとなった。
アリスは当然、ワンダー号を手放す気持ちなどなかったが、そこへ蝶ちょが舞い込み事態はあらぬ方向へ展開する。

その蝶はアブソレムで、マッドハッターが危機的状況にあり、アリスの助けがいるということであった。
こっちも大変な時に、何とも唐突な、、、。
しかし、アリスは親友だもの、とすぐに彼の救援に向かうことにする。
マッドハッターは、死んだと信じていた家族が生きている可能性に気づくが、為すすべもなくただ彼らの帰りを待ちわびながら衰弱しているのだった。
彼を助けるには、時間を遡る必要があった、、、。ホントか?
(このへんの展開が何とも、、、)。

白の女王の危険な助言に従いクロノスフィアを手に入れるため、アリスはアンダーランドの時間を司るタイムの元へと向かう。
しかしそれは大変危険な賭けでもあり、過去の自分と出逢ったところで、世界が崩壊してしまうのだ。
それでも躊躇せず、彼女は時間を遡る冒険に果敢に出て行くのだった。
海賊相手の船旅で危険には慣れていたにせよ、、、相手は「時間」である。


さて、どんな冒険となるのか、、、と思ったのだが、、、
不思議な要素は特になく、奇想天外でもファンタジーでもない、、、何というか単にハチャメチャで新鮮味のない噺になっていた。
アンダーワールドで大騒動となるところなど、「オズの魔法使い」を想わせるところもあるが、VFXの凄さのみで、オズの魔法使いまたはオズの方が何百倍も面白い。
アリスも船長以外ではカッコよさも、可憐さも、”イノセント・ガーデン”の時のような怪しい魅力(子供映画では無理か)も見られない。
セカンズがミニッツに合体し、最後にアワーズに巨大化する合体メカロボットには、もう充分既視感もあり、何よりこのアリスストーリーにそぐわない。ここは、前作の敵の方がずっとらしさがある。
白の女王は今回はコミカルさも少なく、いまひとつ生彩がない(白塗りなのでいまひとつやる気のなさも分からぬが)。
わざわざアン・ハサウェイを使うまでもないように思うが、前作の続きでもあるし、というところ。
アン・ハサウェイはこの役では、もったいなさすぎる)。
前作ほど、周りのキャラに役回りも動きも見られず、彼らを使いきれていない。
タイムにえらい迷惑をかけても親友の為だからと平気な顔をして好き勝手に暴れるアリスにもいまひとつ感心できない。(最後に彼に対し父の形見の懐中時計をプレゼントするが)。

強いて言えば赤の女王の面白いだけではない魅力の発見か。
赤の女王の頭は今回も凄いもので存在感はピカイチであった。
白の女王との確執の訳も分かる。
誰からも愛されないという彼女の、なかなか可愛らしさも出ていた。
白の女王がかつてついた嘘(頭が膨れるきっかけとなった)を初めて今回謝ることで、確執が解ける。
マッドハッターと父との確執もアリスの時間の遡行によって父の気持ちが解ることで和解に至る。
二つの和解の物語でもある。いや、アリスと母との和解(というか理解か)もある。
だが、それで特に感動できるものでもない。
この物語で感情移入出来るような余地はほとんど、ころがってはいないのだ。

ただ、認識的には「過去は変えられない」ことを知る時間の旅であった。これは彼女にとって収穫だ。
(過去の自分と出逢う事で世界が崩壊するところも説得力はある)。



アリスは母と意気投合し貿易会社を作り、手放さなかったワンダー号に颯爽と乗り込んでゆく。
(時への向かい方の変化も感じさせはするが)。
あの船長の姿ならまた観てもよい。


1作目の方が面白かった。
ミア・ワシコウスカは、冒頭の部分だけであった。
彼女の魅力は”イノセント・ガーデン”にこそ発揮されていたと思う。
ジョニー・デップのマッドハッターも一度見ればもう充分。しかも今回の立場では魅力が発揮できない。

続編は作るべきではなかった。


西部戦線異状なし

All Quiet on the Western Front

All Quiet on the Western Front
1930年
アメリカ

エーリヒ・マリア・レマルク『西部戦線異状なし』原作

ルイス・マイルストン監督

舞台劇を想わせる展開で進んでゆく。(本当に舞台のように見える)。

リュー・エアーズ、、、ポール・バウマー
ウィリアム・ベイクウェル、、、アルバート・クロップ
ラッセル・グリーソン、、、ムラー
ルイス・ウォルハイム、、、カチンスキー
ジョン・レイ、、、ヒンメルストス
アーノルド・ルーシー、、、カントレック
ベン・アレクサンダー、、、フランツ・ケメリック
スコット・コルク、、、レエル
ウォルター・ブラウン・ロジャース、、、ベーム

みんな英語で喋っているが、全員ドイツ人でありドイツ軍兵士の胸を締め付ける赤裸々な苦悩が描かれていく。
ドイツ兵が主役のアメリカ映画である。しかし原作者はドイツ人である。

しかもティーンエイジの志願兵たちの物語である。

第一次世界大戦
何の授業か知らぬが、戦意高揚と愛国心を煽る老教師の言葉にすっかり感化(洗脳)された生徒たちが我先にと入隊を志願してゆく。
級長のポールはその先頭を切って意気揚々と教室を出て行った。



塹壕戦の砲弾に怯え震え上がる。
狂ったようにヒステリックにドブねずみを追い立て叩く。
砲弾の爆音の響くたびに大きく揺れて土が崩れ落ちる。
恐怖と不安による気持ちの昂ぶり具合が伝わる。
銃撃戦もかなり長い尺で大変リアルである。
これまで見た戦場シーンのなかでも最も生々しいものであった。
また、兵士の怯え方も尋常ではない。
堪らず外に飛び出し撃たれて死ぬ仲間、、、。

共に志願した若い仲間はその後も次々に死んでゆく。
最後に志願に加わったベームは目をやられて死ぬ。
他にも何人も死んでゆく。

ケメリックは負傷し野戦病院に運ばれ片足を失い、死ぬ。
彼の高級な革製の長靴をみんなが欲しがる。
最初に貰ったムラーは、これなら思う存分戦えると喜ぶが、直ぐに戦死して次の者が引き継ぐが、彼もまた程なく戦死する。
そうやって高級靴だけが、人から人へと渡り歩く。
死んだ友を身近に見て彼が感じたのは、生きることの価値であった。
長靴を胸に抱え生きていることを実感しながら彼は息が出来ないほど突っ走った。

また、初めてフランス兵を刺殺したとき、激しく動揺する。
「ただ生きたかっただけだ。大変なことをしてしまった。殺すつもりはなかった。彼の為ならなんでもしよう」と。
「制服と銃がなければ兄弟にもなれた、、、。」
戦争なんだから仕方ないとカチンスキーから優しく慰められ漸く落ち着く。

塹壕で、何故戦争が起きるのかという議論が彼らのなかから巻き起こる。
そこで、卓見だと思った見解が、「だれも戦争なんぞ望んじゃいない。熱病みたいなもんさ」である。
時折、どうしてもせざる負えないものということか、、、。
やはり生命の属性であるのか。


ポールも負傷したが病院から奇跡的に生還し、休暇をもらって帰郷するが、、、。
飛んでもない違和感に、彼はそこは「もう故郷じゃない」と悟った。
外野は好き勝手な事を言い合って熱狂している。
彼の実情などにお構いなく。
父親でさえも。
勲章や武勲のことや勝手な戦術で競い合ったり。
本当の戦況など知ろうともせず「パリに進め!」で盛り上がる。
彼は予定を繰り上げ戦地に戻る。居場所が何処にもないのだ。
恐らく母親や妹などの肉親にさえも異化作用を見ているのだ、、、。
(現実感の喪失、、、真摯な戦争映画には、この感覚が描き込まれている)。

帰りがけに母校に立ち寄ると、例の老教師があいも変わらず若者に祖国に殉じろと扇動していた。
その教師に英雄と紹介され生徒の前で戦場での活躍振りを披露することを促されたが、、、。
「何も話せない」と断る。
「何も話すことはない。殺されないよう努めるが、ときに殺される。それだけだ」と突き放す。
そして改めて「初めての砲弾で目が覚めた。祖国に殉じることが美しいと思っていたが、戦死は汚くて苦しい。国のためになど死んではいけない」と諭す。
生徒たちはそれでは納得がいかない。彼のことを卑怯者呼ばわりするものまで出る。「帰るんではなかった、、、。」
彼は変わらない祖国~故郷いや人々に愛想を尽かす。

戦地に戻ると部隊には、気心の知れた食料調達係のカチンスキーが残っていた。
彼はやっとほっとする。
「ここには嘘がない」と彼に再開したことを歓ぶポールであったが、突然の敵機の銃撃により負傷して彼に担がれたままカチンスキーは死んでしまう。

ポールの姿には今や深い諦観が染み込んでいる。
塹壕にいると、何処からかハーモニカの音が聞こえてきた。
そして外には綺麗な蝶ちょがすぐ手を伸ばした先にとまっているのだった。
束の間の安らぎがこころに訪れた。
(彼は元々詩人を志していた)。
そして蝶を見ようと塹壕から身を乗り出した時に、無情な銃弾が彼を捉える。


最後の彼らが後ろを振り向きながら行進する姿が遠い思い出のように流されエンドロールへ、、、。


1930年にこれだけの映画が発表されたにも関わらず、第二次大戦が勃発する。


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戦場にかける橋

The Bridge on The River Kwai

The Bridge on The River Kwai
1957年
イギリス、アメリカ
原作ピエール・ブール『戦場にかける橋』(1952年)、、、かなり内容やキャラクターを変えているらしい。

デヴィッド・リーン監督
ブログで取り上げている彼の映画では、この映画~「アラビアのロレンス」~先日の「ドクトル・ジバゴ」となる。
何れも圧倒的な大作である。
「アラビアのロレンス」のファイサル国王、(「ドクトル・ジバゴ」でもジバゴの兄・エフグラフをクールに演じていた)アレック・ギネスが渾身の演技。
これだけでもう100点満点の映画だ。

マルコム・アーノルド音楽
主題歌『クワイ河マーチ』

運動会によくかかっていたが、最近は新しい曲ばかりが掛かるようになった。ちょっと寂しい。
今ならかえってこの曲をかける方が新鮮である。
この曲はマルコム・アーノルドが、『ボギー大佐』を映画『戦場にかける橋』のテーマ音楽として編作曲した行進曲である。


アレック・ギネス、、、ニコルソン大佐
ウィリアム・ホールデン、、、シアーズ(アメリカ海軍二等兵だが中佐を名乗る)
早川雪洲、、、斎藤大佐
ジェームズ・ドナルド、、、クリプトン軍医
ジャック・ホーキンス、、、ウォーデン少佐
ジェフリー・ホーン、、、ジョイス

最期のニコルソン大佐の呟き”What have I done?”
~これに尽きる。
余りに重い。



「戦場にかける橋」とは、タイ王国のクウェー川に架かるクウェー川鉄橋を指す。
(この映画の影響で、観光客は絶えないという)。
史実では、橋は破壊されず、木橋と鉄橋の2本が作られ、鉄橋は今も使われている。
また、ニコルソン大佐のモデルとなった大佐は、出来る限りサボタージュさせる方に注力した人らしい。
実際の橋の建造は、日本軍の設計で英国捕虜は指示に従い単純労働を行っただけだという。
日本のインフラ工事の技術は当時から世界一であった。今は重機(コマツ)の性能も含め圧倒的であるが。


タイとビルマの国境付近にある第十六捕虜収容所が舞台
イギリス軍兵士と日本人大佐との確執と交流を描く
彼らを強制的に泰緬鉄道建設に動員しようとする


クリプトン軍医の視座がどうやら映画を観る側にとても近く感じられる。
事の成り行きや全体を客観的に冷静に観ている。
ニコルソン大佐も斎藤大佐もおかしいと分析している。ほぼこちらの目線だ。

ニコルソン大佐の矛盾を生きる生き様はあそこまで徹底すると爽やかだ。
懲罰房(オーブン)に入れられても自分の主張(軍人としての教義)を曲げないで、オーブンから出されても、衰弱してふらつきながらも背筋を伸ばして歩く。
英国軍人としての矜持を忘れないあの歩き方が彼の人格を充分に表す説得力を持っていた。

斎藤大佐も芸術家になるため英国留学したが、結局エンジニアの道を選び軍に入ったという。(ちょっとヒトラーにダブる)。
ニコルソン大佐がジュネーブ協定に反するものを一切拒否するため、鋭く対立するが働き手の捕虜が動かず完成が覚束無い。
妥協案も受け付けないため、橋の建造が絶望的な事態にまでなり、ついに日露戦争に勝利した記念日の恩赦(でっち上げに近い)として彼の要求を全て受け入れることにする。
この譲歩で彼のプライドはずたずたとなる。(部屋で一人泣き崩れる)。
橋の設計にも致命的なミスがあり、作業人員配置も不適切であった為、英国捕虜軍主導の計画で一から作り直されて、見事完成をみる。この頃にはもう威張り散らしていた頃の威厳など微塵もなく、自決をいつするか考えているだけのようである。

シアーズは、およそ軍人らしさのない何よりも身の安全を考え、明るく楽しく生きることをモットーとしたアメリカ男。
彼の脱獄後のいっときのシーンときたら、ラブコメディかと思うくらいであった。
まさかこのコンテクストでロマンスはなかろうと思っていたため少し戸惑ったものだ。
パラシュート降下を訓練なしでぶっつけ本番で行うこととなった時の彼の反応は確かに笑えた。
運の良さでやって来た感じの色男であったが、最後はその運も尽きたというところか、、、。

前半はニコルソン大佐と斎藤大佐の意地の張り合い。
(ある意味、ふたりは似た者同士でもある)。
それを距離を持って見守るクリプトン軍医の実にまっとうな姿勢~見解が窺える。
後半は脱走したのに甘い餌に釣られて戻ることにしたシアーズとウォーデン少佐に若手のジョイスで、山場の橋の爆破に関わってゆくスペクタクルだ。
特に終盤の張り詰めた緊張は、それまでの全てがここ~列車の通過を待つ橋のかかる渓谷に収斂する。
ニコルソン大佐と斎藤大佐が異変に気づきふたりでその導線の先を手繰り寄せてゆく。
そして、一気に余りにも酷く儚い全的崩壊となる。

実際に橋を爆破しているシーンは、ちょっとCGでは味わえない、リアリティと本物の迫力を感じる。
それにしてもあれだけ苦労して作った橋である。
ニコルソン大佐としても爆破しようとする相手がイギリス人であっても(いやあるからこそ)呆然としたことであろう。
彼は純粋に大佐として、兵士の弛みを橋の建造という目的によって正し、英国の誇る技術を見せつけ、後の人々にも捕虜となっても奴隷には身を落とさなかった自分たちの生き様を残したかったのだ。
これは半ば、28年に渡る彼自らの軍人として、何をなしたかの証明~形が欲しかったのではないか。
立派な橋を造るということにシフトしたところで、例の楡の木の話題(600年の耐久性)が出てしまい、彼はもうジュネーブ協定などどこへか飛んでしまい、持てるリソース全てを動員した傑作を作り上げた。
ある意味、彼の人生の全てが流れ込んだ結晶とも謂えよう。
しかし、客観的に見れば、これは反逆罪に当たろうか?


クリプトン軍医のやり場のない絶望の叫びが、心に残る。

ニコルソン大佐の矛盾を孕んだプライドと生真面目な情熱にとても惹きつけられた。
やはりアレック・ギネスに尽きる、、、。



ベン・ハー

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Ben-Hur
1959年
アメリカ

ルー・ウォーレス『ベン・ハー』原作

ウィリアム・ワイラー監督

チャールトン・ヘストン、、、ベン・ハー(イスラエル王族、アリウスの養子)
スティーヴン・ボイド、、、メッサラ(元親友、ローマ帝国司令官)
ジャック・ホーキンス、、、クインタス・アリウス(ローマ帝国総司令官)
ハイヤ・ハラリート、、、エスター(家臣の娘)
サム・ジャッフェ、、、サイモニデス(家臣)
ヒュー・グリフィス、、、イルデリム(族長)
マーサ・スコット、、、ミリアム(母)
キャシー・オドネル、、、ティルザ(妹)

紀元26年のエルサレムの地から始まる。
「キリストの物語」という副題である。

これがもし、ベン・ハーがメッサラに数々の苦難を経た末、家族の仇を討つというものだけのドラマであれば、やはりスケールはそれなりのものとなっていたはずである。
単なる壮大なスペクタクルに終わらないものになっている。

ベン・ハーの屋敷の瓦が崩落してエルサレムにやって来た新総督が重傷を負ったことから、一家は総督暗殺未遂の嫌疑をかけられ、母 と妹は投獄されて家族は離散、ベン・ハーは奴隷に身を窶し、漕手刑(ガレー船の漕ぎ手)となる。
これはメッサラのユダヤを裏切りローマの配下に降れという誘いを断ったための制裁であった。

奴隷として繋がれ、干からびながらナザレに通りかかった時、彼はキリストに水をもらい、生気を取り戻す。
ここで、水を奴隷にやった事に怒るローマ兵が、イエスに対し威圧されたじろぐ姿は印象的であった。
やはり誰の目にも、分かるひとなのだ。

ガレー船の漕ぎ手として3年を送るが、海戦において沈没した戦艦から総司令官であるアリウスを救出するという殊勲により、漕手刑を赦免され、認められてアリウスの養子にまでなる。
このガレー船内部のダイナミックで悲惨な漕手の様子も実に生々しいものであった。
見事なセットと言うべきである。
その後、彼はローマの市民権を得て二輪戦車競走の騎手として連勝を重ね一躍注目される。

ローマの市民権を得ても、母と妹のことが気に掛かりローマに安住できず、養父の下を去りエルサレムに戻る。
アリウスの息子として、メッサラに直談判したため、5年間地下牢に放置された母親と妹の現状が調べられる。
彼女らは辛うじて生きてはいたが、ライ病に犯されていた。
屋敷はエスターと彼女の父が守っていた。
しかし、彼女はベン・ハーに母親と妹は死んだと伝える。(母たちから懇願されたのだ)。
エスターは秘密裏に彼女たちの食料などの世話を続けていた。
ベン・ハーのメッサラへの復讐心は頂点に達する。
族長イルデリムと知り合い、彼の寵愛する白い馬を借り、二輪戦車競走でメッサラとの因縁の戦いに決着をつける。

このセットを見て、製作費54億円というのも頷ける。
この規模のセットとエキストラは、今では到底有り得ないことだろう。
ほとんどの部分はCGで制作で済ませてしまうはずである。
この二輪戦車競走の場面は現在のVFXを駆使した映画と比べても勝るとも劣らない出来具合である。
(いや寧ろ、生の迫力がある)。

破れたメッサラの今際のことばで、母と妹がライ病に侵されながらも生きている事実を知らされる。
彼女らは一般民衆から隔離された「死の谷」で身を潜めて生きているのだった。
エスターの後をつけて行き、その有様を知り悶え苦しむベン・ハー。
彼は家族や同胞に酷い仕打ちをしたローマを憎み許せず、ローマの市民権も放棄してしまう。
エスターはベン・ハーに救世主と崇められるイエスの話を聞くように説得するが、聞く耳を持たない。
しかし、藁をも掴む気持ちで母と瀕死の状態の妹を連れてゴルゴダへ向かうと、すでにイエスは磔の刑に処せられるために十字架を背負わされ階段を登ってゆくのだった。
ベン・ハーはかつてナザレで死にそうになった自分に水を与えてくれたのが彼であったことを思い出す。

十字架に磔られたイエスの死後、俄かに天に雷鳴が轟き大雨が降り注ぎ、彼の血が大地を流れてゆく、、、。

ベン・ハーは、エスターや母たちの待つ屋敷に戻り、イエスの最期のことばを伝える。
「父よ彼らを許したまえ、彼らは何も知らないのだ」と。
「わたしは全ての憎しみを忘れた」とエスターに伝える。
すると、彼の前には、すっかり病から癒えた母と妹の姿があった。


アメリカらしい宗教劇であった。
まずヨーロッパからこのような映画は出てこない。
何でも15,000,000ドルの制作費に対し興行収入が74,000,000ドルだそうだ。
これ一本で、倒産間際にいたMGMがしっかり立て直しが図れたという。
アカデミー賞11部門受賞の最高受賞記録は未だに破られていない。

後にキリスト教はローマ帝国の国教となり、世界に広がり権威として猛威を振るうことになる。

ドクトル・ジバゴ

Doctor Zhivago

Doctor Zhivago
1965年
アメリカ・イタリア

ボリス・パステルナーク原作
デヴィッド・リーン監督

オマー・シャリフ、、、ユーリー・ジバゴ
ジュリー・クリスティ、、、ラーラ(ユーリー・ジバゴの愛人)
ジェラルディン・チャップリン、、、トーニャ(ユーリー・ジバゴの妻)
トム・コートネイ、、、パーシャ(ストレハニコフ、)

「アラビアのロレンス」1962年のオマー・シャリフが詩情豊かな魅力あふれる男を演じていた。
片や砂漠、片や雪原、、、過酷!
ロシア革命、革命後の厳しい現実が荘厳な大自然のもと、稠密に描かれている。



暫く見てつくづく感じたのは、ドクトル・ジバゴは優れた人格であるが、それを支えるふたりの女性の何と素晴らしいことか。
それは、終わってからまた最初にDVDが戻った時に気づいた。
ラーラの娘の名がトーニャなのである。
これは何を意味するのかと思うと、、、このふたりの女性の品格の高さに感動してしまった。

確かに、ジバゴを巡って、どちらの女性も相手の存在を充分認識していたにも関わらず矜持をもち、お互いに尊重し合い、深い敬意を抱いていた。でなければ、ラーラが彼の正妻の名前を自分の娘に付けるはずはない。当然トーニャがそうされるに相応しい高潔な女性であったからでもある。

詩人として個人的な世界に傾倒し過ぎると批評されたジバゴであったが、芸術が個の場所に徹底的に拘らずに普遍性に抜けられるはずはない。これは断言する!
その個人性がブルジョア的としか理解できないなんて、、、何という情けなさ。
そもそも最初から個はない、等といっている知性のない輩に、ファシズム以外に走る道はない。
白軍も赤軍もあったもんじゃない。同じ穴の狢だ。
またこういった輩は額面しか問題にせず、本にしても文字や文面のみにしか目がいかない類の低脳ぞろいである。
(そういった目線で検閲や改竄などを偉そうに行う)。
これは、所謂、社会的良識派とか評される連中に言えることだ。
ファシズムはこの辺の連中の心性にこそ確かに巣食っている。
(今現在の話である。ジバゴの頃の話ではない)。
単に知の堕落である。


結局、ユーリー・ジバゴが残したものは、ラーラに対する深い愛を綴った詩だけかも知れぬが、それが普遍性を持ち得たことは、彼の葬儀に現れた参列者からも窺えるものだ。
この時期だからこそ、政治を振りかざさない知性に好感が持てる。


ダムの建築現場で今や将軍職にあるジバゴの義兄がラーラとジバゴの孤児トーニャと出逢う。
彼は彼女に力になりたいと告げる。
最後に彼女がバラライカの名手であることが分かり、それを背負って歩いている姿を映してエンドロールとなる。
祖父からの隔世遺伝~血筋を確かに示していることをその義兄は確認して微笑む。


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予報通りの雪

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雪がまた降った。
Time Machineに乗ると、、、?
今年の1月にも降っている。
その時の想いも蘇ってくる。

その時の自分がどうであったか、、、

雪を其の儘放っておいてくれと言っている。
確かに、雪は直ぐにどけられてしまう。
そのままにしておくと、恐らく下になにがあったか、あったことすら忘れてしまうからである。

今はどうにもこんなふうに書けない。
最近、動いていないせいか、文が硬い。
元来スポーツはことばを軽やかに放つ為にあるという。
考えないと、、、昔の物を見直す意味はそんなところにある。


もう少し遡り、2014/10までゆくと九品仏に纏わる想い出を綴ったものに出くわす。
九品仏は、静寂の時がいつも支配していた。
そして浄真寺をはじめ、その地はわたしにとってはめくるめく雪の光景として上書きされていた。
ウェルバンで最高のフルーツティーを飲みながら窓辺から雪をうち眺める。
その喫茶店の古い蓄音機は音が鳴ったことがなかったから、雪の日は更に無音状態に凍結していた。
本当に真っ白い雪の日は一際、何もない。
雪が音の波と粒子を黙々と吸い取りつつ全ての物を覆ってしまうのだ。
記憶も断絶し、ここがどこであったか思い出す気力も失せてゆく、、、。

もう少し遡ると2014/2/10には、積雪でかまくらを作っていた
雪で気持ちも舞い上がっていたらしい(爆。
元気なものだ。
もうかまくらは作る気はしない。
寒さが急に身に染みるようになったのだ、、、(寒。

2013/5までゆくと、わたしのブログの開闢期に当たる。原始時代まで来た、、、。
「ゆきんこ」を題材に公立小学校の音楽教科書の「絵をみて作曲しよう」というページの絵を描いていた。
先方の依頼に出来る限り応えて描くもので、自分の作風は控えて描く、、、。(作風をわざと作る気はしないのだが)。
随分昔のことだ。
懐かしいことこの上ない。
暫くの間、教科書会社から原画のキャンバスはそのまま保管しておくように言われていたので、そうしていたが、今は何処に片ついているか、、、探してみたくなった。(会社に買い取られた物だから捨ててはいない)。
この絵たちには思い入れがある。
4連作の1枚だけ、ゆきんこが川に溶けて流れてゆくシーンで、プレラファエル派のジョン・エヴァレット・ミレイへのオマージュ的な構図の絵を描いたら、見事描き直しとなった。会議で「死を連想するものは好ましくない」と判断されたということであった。
その絵がわたしの一番の力作ではあったのだが。

”Ophelia”は小学生には、早いのか、、、。(うちの娘はそういうの大好きであるが)。
仕事に忠実なわたしはすぐさま描き直した。仕事は仕事である。それが教科書には載った。もっとも詰まらない絵だが。
しかし描き直しは1回、1枚限りで済んだ。後で編集主任に聞いたら、7,8回描き直しをくらう絵かきはザラらしい。
芸術家というものは、融通が効かないのだ。
こうしてくれと具体的に丁寧に説明して分かった顔をしていても、また何度も同じことを繰り返すらしい(爆。
彼は非常に困惑した顔で言っていた。(同情したい。わたしが大分以前、大田区在住の画家100人による新大田百景で蒲田駅西口の絵を依頼されたときも、きっちり具象でお願いしますと最初に指示されていたにも関わらず抽象画を描いて担当者を大いに困らせていた大先生が数人いた。どうしても譲れないなら最初に仕事自体を断るべきである。わたしはこの時は、スーパーリアリズム派でいった。要するに作風~拘りがないので楽なのだ、、、(笑)。(勿論、自分の身体性にこびり付いた癖はある。実はそこが小さくないのだが、、、)。
教育課程もどんどん変わってゆき、教科書の内容も4年に一回の改訂で、かなり変わる。
絵を見て作曲の単元も、その後なくなっていた。

今の新改訂教科書のひとつ前の中学1,2,3、器楽、の音楽教科書の表紙も描いていた。
これは面白かった。
うんとラフに描くように言われ、一筆書き風にちょいとコミカルに描いてみたが、楽しいだけの仕事となった。
一昔前に流行ったヘタウマ風に仕上がってしまったが、それでよいのかさすがに戸惑ったものだ。
この絵は、切羽詰った段階で来た仕事であったためか、ほとんど打ち合わせなしで、描いた物をそのまま持って行ってもらったようなもので、こちらの方が不安になった。
しかし出来上がったものを見てみると、印刷技術の高さを思い知ったものだ。
この鮮明さは何なんだ、、、という感じである。
全体の80パーセントに切り取られていたが、それはそれで良い感じだった。
(この絵のコピーは念の為まだ、こういう場には載せないことにする。全国のおよそ半分には無償配布されているが。教育出版)。


雪そのものから逸れたが、ポール・ギャリコの「雪のひとひら」から始まった話である。
雪はどうやら昔話を誘うものかも知れない、、、。
真っ白いキャンバスにコンテクストから解かれた記憶~想念が鮮やかに解き放たれる。
元々われわれの想念はそれが鮮明な程、時系列の属性は失せて彷徨い出して来るものだ。


雪をこうして眺め続けていくと、、、どうなるのか。
キリマンジャロの雪山を只管登り続けた豹の心境とはどんなものだったのだろうか、、、。
(ヘミングウェイ) 


他の時間流に逃げ込んでみたい誘惑に駆られてしまう、、、。
(かまくらの中に入るのも、その疑似体験なのかも知れない。娘にせがまれたら、また作るかも(笑)。



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ソフィーの選択

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Sophie's Choice
1982年
アメリカ

ウィリアム・スタイロン原作
アラン・J・パクラ監督・脚本・製作
マーヴィン・ハムリッシュ音楽


メリル・ストリープ、、、ソフィー
ケヴィン・クライン、、、ネイサン
ピーター・マクニコル、、、スティンゴ

「わたしには選べません」
だが、選ばざる負えなかった、、、。


究極の状況に置かれるとは、不可能な選択を強いられることだと知った。
日常生活とは、選択を意識しない生活を意味する。
ほとんど身体の自動ルーチンにより無意識的に一日は終わってゆく。
(時に、主体的に選択したと想える場面も単なる流れの総合的な作用のうちにそうなっただけだと知ることもある)。
するとわれわれにとって現実とは何か、、、
自分の生を生きている実感があるか、、、?
ぼやけてくる、、、これを取り敢えず、実存と呼んでいる節もある。

別の見方をすれば、こんな非常な選択は日常の暗部においてもあるのではないか、、、。
選択せざる負えずに選択してしまっている。
諦観に近い形で。半ば無意識に、無気力に、節操をもって。
つまりダダやシュルレアリストが批判した日常性である。


ソフィーは、その人生において、不可能な選択を常に強いられてきた。
自らの意思に反しての選択である。
何れも過酷極まりない選択であった。
ここに主体性~人権などなく、自分の生を全く生きることができない。
特にそれを意識しだしたのは、父の公演の原稿をタイプした時からであった。
そこから過酷な選択が続く。
幼い息子とまだ赤ん坊に近い娘のどちらかを選ばざる負えない、、、などという残酷な選択は有り得ない。
だがそれが現実であるのだ。
重要なのは、この「選択=現実」なのである。
現実からの逃げ場はない。
ひとつの存在は、ひとつの場所しかもち得ない。
空想~白日夢に逃げ込むことができたらどれほど楽か、、、。
ただ凄まじい重力で現実が伸し掛る。

こんな選択を強いるのが、戦争である、と言うより人間であると言うべきである。
戦争が、ナチのホロコーストが、、、と言う前に「人間が」である。
人間がやったのだ。
これを断じて忘れてはならない!
ただ、戦争という究極状況において、人の本質が発動されたに過ぎない。
(この小規模な発動は、平時より身の回りでも度々見られる。勿論、軒並み潰してゆかねばならない)。

この絶対的選択はソフィーの精神に決定的な外傷を与える、いや崩壊させる。
罪悪感と言うより生々しい原罪の獲得であった。
解放された後、教会で十字架を前に手首を切る。
だが身体において死に切れない。
しかしもうすでに彼女に生きる意志はない。
その後どうにか生き存えてこれたのは、知力の高い妄想性分裂病のネイサンと偶然出逢ったことが大きい。
彼の不安定で非日常的で絶えず大きな振幅を見せる破滅的な感情に身を任せたのだ。
両者はある意味、呼応する精神性をもっている。
死への誘惑に晒されながら(死を常にひりひりと感じながら)、カーニバル的に生きる。
その常に死に滑り落ちる不安な場所にあって、辛うじてふたりは生を繋いでいる。
それは罪~自意識に苛まれゆるやかに自壊してゆく過程でもあった。

その行き着く先は決定されており、選択の余地はない。
ただ行くべきところに逝っただけの話である。


メリル・ストリープの演技は、説得力があった。
あの痩せ方も、尋常ではない。


マシュー・フィッシャーに捧ぐ Ⅱ

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11/20の「マシュー・フィッシャーに捧ぐ」
に対して頂いた「返歌」の最後の一部をここに転載したい。
エストリルのクリスマスローズ様から

少し疲れたこころに
そっと寄り添ってくれる
そんな
不思議な包容力があるみたい

小さな痛みは
いつのまにか
彼のサウンドに溶けて

優しく照らす
月光の下に
消えていくよう…。



これはことばでまさに彼の音楽を表している。
こんなことばがライナーノーツに書いてあれば、わたしも読む。
より曲がピュアになる。
より心が聴こえてくる。

わたしは、レコードについてくるライナーノーツは、9割がた読んだことがない。
勿論、マシュー・フィッシャーのものは、100パーセント読んでいない。
余計なものが被さって、音を聴くための障害になるのが嫌なのだ。
蘊蓄や楽理的な分析や果てはどうでもよいエピソードなど、、、邪魔である。
(というわたしもついついその手のものを書きそうになるのだが、、、すでに少し書いてるか?)

この方のブログにいつも驚く事は、膨大な造詣よりも、文体~ことばの美しさである。
その散文詩的な律動がまず、琴線に触れてくるのだ。
心地よいそよ風の如くに、、、。

では、そのことばは何処から来るかというと、恐らく稠密に畳み込まれた智の地層からおいしい水のように溢れてくるのだ。
それが無味乾燥な論文調にならず、詩情溢れるものとして結晶するのは、ご本人の芸術的資質によるところがおおきいはず。
特に音楽性が深く響いていると感じられる。

わたしは、単なる論文を読みたい気分でなく、かと言って認識のキラメキのないものに関わりたくない時、この方の記事が実に心地よい。まさに真善美を満たす清らかな楽曲である。

やはり芸術性に裏打ちされた智~哲学こそが、身体的なレベルからの覚醒を呼ぶものであると想う。

この方と音楽を語りたいものだ。
いや語るべきものでもないか。絵も語るものではないことを、先だっての某ギャラリートークで嫌というほど悟った。
しかし、それを知った上で、何かが語れるはずである。




グランドホテル

Grand Hotel

Grand Hotel
1932年
アメリカ

ヴィッキイ・バウム原作「ホテルの人びと」を舞台劇にしたものを元にする
エドマンド・グールディング監督

ひとつの舞台に様々な人のドラマが組み込まれ展開してゆく。
それぞれの人間模様も興味深いが、その構成と流れが巧みだ。
このストーリー展開が「グランドホテル」形式と呼ばれるようになる。
所謂、群像劇である。(この作品、丁度良い人数に想える)。
しかしである。
当時、グレタ・ガルボとそのライバル、ジョーン・クロフォードが同じ場面に出てこない。共演はしていないことに驚く。
どちらも主役的立場の重要な役回りで、しかも出番も多いのに関わらず、、、。
脚本・演出が練られている。
とは言え何故、ふたりが同じホテル内で一度も出逢わないのか、、、。
ふたりともガイゲルン男爵にゾッコンであるし、偶然に出逢う(交錯する)可能性は高いはず。

グレタ・ガルボ、、、グルシンスカヤ(プリマドンナ)
ジョン・バリモア、、、、ガイゲルン(男爵)
ジョーン・クロフォード、、、フレムヒェン(速記者)
ライオネル・バリモア、、、クリンゲライン(余命幾許も無いプライジングの社員)
ルイス・ストーン、、、オッテルンシュラーク(医師)
ウォーレス・ビアリー、、、プライジング(モップ会社の社長)


第一次対戦後のベルリンの超一流ホテル「グランドホテル」が舞台。
ヒトラー台頭前夜という感じの束の間の平和を享受する人びとの姿が活き活きと描写されている。
元が舞台劇である為か、それぞれの人物のドラマの絡ませ方は絶妙である。
その展開に惹きつけられ最後まで一気に観てしまう。
これは見事という他ない。

グレタ・ガルボとジョーン・クロフォードを映画ではじめて観た。
ガイゲルン男爵が謎だ。
クリンゲラインになりたい!
蛇足で、プライジングのようなタヌキオヤジはどこにでもいる。

豪華なホテルの極限られた空間のなかだけで進行するが、面白かったのは、電話交換の女性たちの働く情景が俯瞰的にかなり克明に映される。その今は見れない前近代的な操作の所作に興味深く見入ってしまった。(これはフレムヒェンのタイプライターにも言えるが)。
この映画のドラマも全て情報のやりとりが鍵を握っており、実際彼らは電話をかけまくるし電報も重要な役を果たしている。
しかし、彼らのいる場はグランドホテルである。

当初、ガイゲルン男爵は複雑で謎めいた役柄のようで、グルシンスカヤの真珠のネックレスを狙っているところから、ルパン三世、、、ではなく007的なタフガイでもあるイメージをもっていた。
しかし、そうでもなく、ばか正直のピュアな性格であり思いやりに篤く、アクションもしそうでしない紳士なのだ。
部屋に真珠を盗みに入ったはよいが、そこで思い悩み死を覚悟するグルシンスカヤを最早ほっとけない(笑。
盗みそっちのけで彼女を気遣い、全てを打ち明けたうえで真実の恋に落ちてしまうのだった。
彼女もそんな彼に夢中になる。
男爵は純愛に身を捧げるタイプのひとで、暴力は好まず主役なのに余りに呆気なくプライジングに鈍器で殴り殺されてしまう。
えっこんなところで、こんなキャラに、、、?
わたしが映画の中で珍しく尊敬してしまった男クリンゲラインもこれに同意見である。
「よりによってプライジングごときに殺されるなんて、、、」無念に顔を歪めて独白していた。

主役がこれ程呆気なく殺される映画は、今観ても斬新で肩透かしをくった。
また、ホテルの誰もがグルシンスカヤにこのことを知らせず、次のバレエ公演に急ぐ車に乗せてしまうところも実に心憎い。

ほんの一時の滞在であるが、二人の魅力溢れる女性も恋によって大きく変化する。
グルシンスカヤはバレエに再度意欲が戻り公演を成功に導く。
フレムヒェンも金を最優先していたが、それを超える生きがいに賭ける。
ただグルシンスカヤの周囲との絡みがかなり限定的である分、やや彼女の内面の動きの描写が単純化され過ぎている気がした。
片やフレムヒェンは、男爵とプライジング、クリンゲラインと絡む。
その結果、かなり奥行のある人格に描かれている。

そしてわたしが誰よりも、感銘を受けたのは、クリンゲラインである。
およそこのホテルに宿泊するには身分不相応な労働者階級である。(その為安い部屋を宛てがわれ、部屋の交換を訴え最高級部屋に移る)。
病で余命幾許も無いと診断され、残された貴重な時間をグランドホテルでゆったり楽しく過ごそうとしてやって来たのだ。
他人事でない思いがして直ぐにわたしはこの人物に寄り添う。(わたしはホテルで寛げる身分では到底ない)。
だが、ホテルでガイゲルン男爵に良くされ、彼と懇意となり一緒にカジノではバカ勝ちし、フレムヒェンにはダンスを教えて貰う。初めて尽くめの体験にこれまでの自らの殻が打ち破られてゆく。
そうこうするうちにホテルの人々とも打ち解け、人生を堪能する歓びを知る。
そして、ガイゲルン男爵がカネに困って盗みを働きプライジングに殺されたことで、クリンゲラインはそれまで男爵の庇護下で従属的にやってこれたのだが、男爵もまた暗部を胸に抱えて生きてきたことを認識し、真に主体的に自立的に生きる意欲に目覚める。

彼がフレムヒェンを誘い、一緒にパリに向け出発する姿は、すでに誰よりも生命力に溢れているではないか。
見事に、グランドホテルで息を吹き返したと言えよう。
頼りがいのある男に再生している!
ガイゲルン男爵のお陰でもある。
(多分、病も治ってしまっているに違いない。彼が男爵の生命を引き継いだ形だ)。
この際、奥さんはどうする、などという野暮なことは考えまい。何せ死出の旅としてグランドホテルに向かったのだから、、、
帰らなくて自然である。


「グランドホテル。いつも同じだ。人々が訪れては去る。何事もなかったかのように」
と、Dr.オッテルンシュラークが騙る。
プロコルハルムの「グランドホテル」もそんな無情観に充ちている。

何よりクリンゲラインみたいに、自らの生を思いっきり生きたい。
あらゆる障害を完膚なきまでに叩き潰して!
気持ち良いだろうな(爆。

サンダーボルト

thunderbolt 001

Thunderbolt and Lightfoot
1974年
アメリカ

マイケル・チミノ監督・脚本
ポール・ウィリアムズ主題曲 "Where Do I Go from Here"

クリント・イーストウッド、、、サンダーボルト
ジェフ・ブリッジス、、、ライトフット
ジョージ・ケネディ、、、レッド
ジェフリー・ルイス、、、エディ


はみ出しもの同士の非常に素敵な出逢いと別れとが描かれている。
何とはない湖畔の情景に溶け込むような互いの自然な気持ちの触れ合いから、深い友情が芽生えてゆく。
この映画は、恐らくそんな微細な機微、雰囲気の生成に力点を置いていることが分かる。
ここにはリリカルな詩情が基調としてある。
その上を様々な猥雑で暴力的な出来事が続いてゆく。


物語は長閑に広がる黄金色の畑と青空のコントラストも美しいアイダホの田舎に連射する銃声が響き渡り唐突に始まる。
そこにまた忽然と侵入してきたライトフットの車が運命的な走破を見せる。
(ここで後に彼らと運命を共にするギャングのひとりダンロップはひき殺される)。
銃弾に追われ逃げてきたジョンとライトフットとの邂逅の接点であった。
(なかなか異色な朝鮮戦争の元兵士とベトナム戦争世代の若者との出逢いである)。
それから二人してジョンに引き寄せられてくるギャング(元仕事仲間)からの逃走。
そして彼らとの合流と、またもやライトフットによる金を巡る計略に他の3人が合意することで協力関係へと発展する。
物語を動かす起点は常にライトフットにある。
彼の笑顔がとても愛くるしい。それに返すジョンの渋い微笑みも暖かい。
ちなみにライトフットの希みは、「白いゴージャスなキャデラックを現ナマで買ってみてえ」である。

ここでも例のごとく、強奪した車が次々に乗り継がれて只管逃走してゆく。
パトカーとのカーチェイスもお約束。
車というものは、ことごとく車体を軋ませながらフルスピードで逃走してゆくものだ。
そして夜の市街に横転したり仰向けになってスクラップになる。

所謂、ステレオタイプのピンナップガールたちがアメリカらしさ、その殺伐とした風景を効果的に演出していた。

綿密に立てられた銀行の金庫襲撃計画。
まずは、襲撃資金を集めるため4人とも堅気の仕事について懸命に働く。
ユーモラスなところであるが、そのまま地道に働いて金を貯めようという方向転換はまず生まれない。
今回もジョンがサンダーボルトと異名をもつ所以である20ミリ機関砲で金庫に風穴を開ける。
実は、以前同じ銀行から50万ドル強奪してほとぼりを覚ましていたのだが、、、金を隠した場所が既になくなっていたのだ。
同様に手はずは上々に進み、銀行強盗が成功したかに見えたが、運の悪い方向に転がっていってしまう。
ライトフットの女装の甲斐もなく、、、。

仲間が一人死に、二人死んでゆき、ついには金を独り占めにしようとしたレッドの暴行を受けライトフットも、、、。
レッドは彼にはずっと害意を抱きつ続けており、伏線が最後に収斂し爆発する。
この映画、悲劇の一歩手前に、飛んでもない幸運が挟まれる。
以前強奪した金隠し場所であった小学校の校舎が歴史的文化記念物として州によってそのまま移転して展示されていたのだ。
そしてクラスの黒板の裏には、手付かずの金が当時のままに眠っていたのだった。
その金は警察が捜査を諦め、メンツのため見つかったと公表してしまった金なのである。
当然、彼らは白いキャデラックを買い、意気揚々と繰り出すはずであった、、、。
が、ライトフットの体調がひどく悪いのだ、、、。
助手席シートに突然崩れ落ち、彼は事切れる。
呆然としてことばを失うサンダーボルト。

「真夜中のカーボーイ」に通じる幕引きとなる。
ハイウェイに余韻を残し、ふたりを乗せた白いキャデラックが静かに消えてゆく。


道が分かれば 帰りたい
でも村が変わりすぎて 迷子になった
名前も顔も今はもう おぼろげ
焼け落ちた橋の向こうは 見知らぬ国
どこへ行けばいいのか 教えてほしい
昔話は誰も聞いてくれない
失われた物をどこへ 探しに行けばいい

最後のシーンに流れる曲である。
いみじくもクリント・イーストウッドが身を隠す為に教会の牧師になっていたのだが、この時期アメリカの信仰の喪失による迷い、それに替わる新たな秩序の見出されない状況の寄る辺なさが滲み出ている、、、。



マシュー・フィッシャーに捧ぐ

Matthew Fisher

ナイーブでセンチメンタルで夢見がち、、、彼は少年時代あの「ネモ船長」に憧れていたらしい。
やはりマシューも海賊の一員であることは確かだ。
トワイライトゾーンに浸りメランコリックな気分に酔ってみたくなったら、、、
マシュー・フィッシャーをターンテーブルに乗せたい。
(CDではない、、、と謂いたいところだが、パソコンに取り込んだ音でもなんでも、、、)。
確かにヒットする曲はない。
そういう曲ではない。
太陽と青空ではない。ギラギラしたアーティフィシャルな照明も似合わない。
月明りの下にチェアを出して聴きたい。(特に5枚目)。

マシュー・フィッシャーのアルバムは、調べた範囲では現在、「旅の終わり」(ジャニーズエンド)も品切れ絶版状態のよう。
2枚目~4枚目も全く店舗にもWeb上にも見ない。流通網からは姿を消した。
1枚目の”ジャニーズエンド”と2枚目の”アイルビーぜア”を一種に詰め込んだCDアルバムは見かけたことはある。ディスクユニオンで。しかし、もう在庫があるかどうか。事実上絶版状態ではないかと思われる。
同じく、3枚目”マシュー・フィッシャー”と4枚目”ストレンジ・デイズ”をひとつにしたCDは、まだ買えるところはあるようだ。新品は期待出来ないが。
また、5枚目の異色アルバムはわたしもCDだけで持っている。
このアルバムは輸入盤を扱っているところなら在庫はあるのでは、、、。本来の?マシューとは異質感があるのだが。
彼のLP版は、今や我が家の宝である。
(こういう燻し銀系アーティストは買えるときに買っておかないと一生手に入らない危険性はある)。

やはりファーストが良い。ジャケットも趣深い。
ここでの極めつけは、Separationである。
マシューの音楽の魅力がこの1曲に凝縮されていると言っても過言ではない。
そしてHard to be Sureのフラジャイルなガラスのような余りに純粋な曲。
ここが、彼のヒットとかセールス度外視の部分がよく表れている。
気取りやケレン味が全くないのだが、プロのミュージシャンとして余りにそれがなさすぎ心配になる彼らしい曲。
最後のJourney's Endはもうプロコルハルムのマシューだ。彼のロマンが溢れ昂まり充満してゆく。
(ソロになってつくづく思ったのだが、彼はやはりビートルズのホワイトアルバム以降のジョージ・ハリソンみたいに、グループ内でアルバムの2,3曲際立つ傑作を作るポジションがとても合っているのではないだろうか)。

セカンドは、ナイーブで繊細な歌を切々と聴かせるアルバムである。
Not Her Faultは、そのなかでも一際切なくリリカルな名曲である。
恐らくこの曲は彼でないと作れないHard to be Sureの線を行く無防備過ぎる曲だ。
しかし、こころにひりつく類まれな名曲に違いない。
Do You Still Think about Meは取り分け淡々とした内省的な彼のボーカルが染み込む。
I'll Be Thereでドラマチックに幕を落とす。

サードは、よく出来た曲で埋められている。
だが、ここで彼のアルバム(曲)がセールスに結びつかないことも何となく理解する。
これまでもNot Her FaultやHard to be Sureなどはプロデュースやプレイヤーによっては、スマッシュヒットに持っていけるポテンシャルは充分に感じた曲なのだが、どうもこのアルバムも同様の原因で残念なものを感じ、インパクトが弱い。
Only a Gameなどヒットしてもおかしく無いポップチューンだ。
Why'd I Have to Fall in Love with Youはマシュー全曲中最もポップ性が高いかも。
そう、聴いてみるとどれも相当レベルの高い曲ばかりである。
ただ、演奏の質が、、、特にドラムに問題がある。
マシューのハモンドオルガンと彼のボーカル以外に、後は取るところがない。
問題が露呈したアルバムというか、漸くわたしも気づいた課題というところ、、、。

4作目は2曲を除いてC.T.White(元ゾンビーズのベーシスト)との共作。
共作によって新しい血による化学変化は得られたのでは、と期待する。
Something I Should Have Knownでいきなりそれを感じたが、美しくマシュー独自のリリカルさの極まったSomething I Should Have Knownで、これはと想う。
その後にはハイテンポのポップなナンバーが続く。アルバムの流れがこれまでより自覚的に工夫されていることが分かる。
マシュー節は健在なまま、少しばかりコンテンポラリーな位置に近づきブラッシュアップした気はする。
だが、何というか危なっかしいまでの瑞々しさは、いまひとつ影を潜める。
Desperate Measuresは、共作ではないが、これまでの殻を破ろうとかなりハードに無理をしている印象を受けた。
Can't Stop Loving You Nowも彼だけの曲だが、リリカルで素人臭い彼のバラッドではなく、やけに拵えたムーディーさなのだ。
高音の伸びる艶やかな綺麗なボーカルでオルガン(ここでは然程弾いていない)も良いのに、やはり微妙だ、、、。
コンポーズも決して悪いわけではない。
演奏の面からいっても、この人はプロコルハルムにいた方が曲の質自体が二段階は高まると凄く思う。
(プロコルハルムの演奏レベルは高い。特にこれまでのドラムは格別)。
ソロになると、その辺、不自由するんだろうか、、、。
Strange Days、、、新しいマシューの素敵な曲ではある。

5作目は、何と自宅で打ち込みレコーディング。最初聞いたときは、こんな曲想で~と示す為のデモテープ版かと思った。
それは、アルバムジャケットが余りの情けなさで(正直、何だこりゃのレベルで)、そこからくる先入観にもよるものであった。
しかも、のっけからこれまでのマシューから考えられないサウンドであったから、、、。
とは言え、聴いてみると実によくできたものなのだ。(頭からあのジャケットを振り祓って、、、)。
こういうマシューのサウンドもあるんだと、、、ちょっと唖然とした。きっとかなり思い切ったのだ。
暫く放置した後で改めて聴いて気づいた。(兎も角、ジャケットデザインが凄まじく悪かったせいだ)。
かつて、フォーカスとムーディーブルースがデモ作りの途中といった感じの曲を未発表曲集アルバムとかで出されてしまい、彼らの輝かしいキャリアに泥を塗ることになってしまったが、一瞬そんな類のものかと想像してしまったのだが、、、。
しかも、ハモンドオルガンかピアノ以外弾いてこなかった(公には)はずの彼が、ギターを弾きまくっているではないか。
勿論、専門外の楽器でも自宅で趣味で演奏するような事はいくらでもあろうが、アコースティックについては、かなり様になっている。エレキギターについても危なげはない。少なくともブライアン・イーノやピーター・ハミルより上手い。その点では安心して聴ける。
できれば、盟友ロビン・トロワーにエレキだけは任せるとかした方が、サウンドの奥行はずっと出たかも知れないが。
彼はブルースギターの天才であるが、どんな曲想にも合わせてくれるはずである。
まあそれを言ったら、マシューのソロアルバム全てに言えることだが、ドラムが酷い。5作目の打ち込みドラムの方がスッキリしていた。
プロコル・ハルムが何故あれほどの奇跡とも言える大傑作アルバムを出し続けて来れたかといえば、その大きな要因のひとつが、バリー・J・ウィルソンの卓越したドラミングによることは間違いない。
ドラムがダメだと曲が成り立たないことは、色々なアーティストのアルバムを通じてずっと感じてきた。
低予算で制作したためか、、、しかしマシューには重厚なリソースがある。それを使わない手があるか?
何故、ロック界一の天才ドラマー、バリー・J・ウィルソンに頼まないのか、と思ったことは確か。
惜しくも彼は1990年に交通事故で亡くなってしまったのだが、4枚目のアルバムまでは付き合って貰えたのでは、、、。
現に、ゲーリー・ブルッカーのソロアルバムでは、いつものテクニックを披露している。(彼の最期の仕事となった)。
(バリー・J・ウィルソン死後、またブルッカーとマシューはよく一緒に仕事をしている。ブルッカーのソロでも、作曲がブルッカー=フィッシャー=リードなのだ。おまけにプロデュースも担当している。彼らは1991年にグループ再結成もしている。”The Prodigal Stranger”はゲーリー・ブルッカー=マシュー・フィッシャー=ロビン・トロワーに詩人のキース・リードの最強メンバーである。バリー・J・ウィルソンがいないのが凄く寂しいが)。

Separation
Why'd I Have to Fall in Love with You
Do You Still Think about Me
Hard to be Sure
Only a Game
Not Her Fault
I'll Be There
Journey's End
Without You
Something I Should Have Known
Strange Days

更にこれに加え異質に聴こえた5枚目、、、。よく聴いてみると彼の最高傑作かも知れなかった。
打ち込みのプライベート風作品で、もう閉まった後の月の光で煌く遊園地みたいな曲集である。
Nutrocker、、、吹っ切れたマシューの存在を感じる。
Dance Band On The Titanicは、はっきり言って前4作のどの1曲目より惹きつけ、これからに期待を抱かせる名曲である。
それに続く2曲目タイトルのSalty Dog Returnsも素晴らしい。(何故最初に気付かなかったのか、、、それはこの頃流行っていたヒーリングミュージックにサウンド的に妙にダブってしまった為もある、が明らかに異なる)。Strange Conversation Continuesが異質に感じたアルバムの代表的な曲であるが、その電子音(テクノ)サウンドはジュール・ヴェルヌのSF小説に近い疑似(魔術的)科学のイメージに充ちている。あのノーチラス号のときめくメカニック。であれば、やはり原点回帰なのだ。まさにSalty Dog Returnsである。Linda's Tuneでその確信を得た。
最終曲Downliners Sect Manifestoはコミカルで硬質で、もの寂しい郷愁のうちに終わる。
これまでのロマンチックで厳かなフィナーレとは明らかに違う。
スケールを絞って、逆に遊星的な孤独と郷愁を描いている、、、。
おっと忘れるところだったが、ボーカルは一切ない。やはり新境地だ。


、、、いつ聴いてもとても孤独で寂しく、心地良い。とても心地よい。


コンテンポラリーな要素というよりメランコリックなロマンがしっとり息づいている。
車に乗って爽快に飛ばしながら聴くヒットチューンはないが、月夜の静かなひとときに植物と一緒に聴きたくなる、、、。

やはり、わたしはマシュー・フィッシャーが大好きだ。
改めて聴いてその意を深くした。
わたしは、マシュー・フィッシャーが大好きだ。

Nemo.jpg
オルガンを弾くネモ船長


大脱走

THE GREAT ESCAPE

THE GREAT ESCAPE
1963年
アメリカ

エルマー・バーンスタイン音楽
ジョン・スタージェス監督・製作

スティーブ マックィーン、、、バージル・ヒルツ(アメリカ陸軍航空隊大尉、独房王、化学工学専攻、バイクが得意)
ジェームズ コバーン、、、セジウィック(オーストラリア軍中尉、製造係)
チャールズ ブロンソン、、、ダニー(ポーランド軍大尉、トンネル掘削係)
ジェームズ ガーナー、、、ヘンドリー(英空軍義勇飛行隊大尉でアメリカ人、物資調達係)
リチャード アッテンボロー、、、バートレット(英国空軍少佐、脱走計画首謀者)
ドナルド・プレザンス、、、コリン(英国空軍大尉、書類偽造係)
ゴードン・ジャクソン、、、マック(英国空軍大尉、情報係、語学堪能)
デヴィッド・マッカラム、、、アシュレー=ピット(英国海軍航空隊少佐)
ハンネス・メッセマー、、、フォン・ルーゲル(ドイツ空軍大佐、捕虜収容所所長、反ゲシュタポ)

国もばらばら所謂、連合国の兵士たちであり、特にここは脱走を懲りずに試みる厄介者ばかりを集めた収容所。

あまり俳優を知らないわたしでもかなり、、、知っている、、、このキャストは有名人ばかりではないか。
凄くキャストに金を叩いた感がある。

この運動会の行進曲みたいに馴染んでいるこの曲、この映画のテーマ曲なんだ、、、。
”The Great Escape March”『大脱走マーチ』成る程、、、まさに。
明るく健康的で楽しすぎる。
それと、、、みんな若い!
実は、これが一番印象に残ったこと。
ともかく、若い、、、チャールズ ブロンソンの若さには思わず笑ってしまった。

その頃の映画なのだ。随分古い。
しかし、面白い。
戦争映画のなかでも、最もエンターテイメントに徹したものではないか。
みんな恐らく、野球やアメフトやサッカーの試合の試合を見るのと同じ感覚で楽しんだはず。
戦闘シーンは全くない。
逃げるメンドくさい奴を追いかけて捕まえて連れ戻すだけ。
(ゲシュタポに銃殺された人はかなりいるが、、、)

ドイツ兵もゲシュタポ以外は実に人間的だ。(特に捕虜収容所長は板挟みで気の毒)。
ドイツ兵側に同情したくなる程、捕虜がやんちゃで、でかい顔して17回脱走しても、ちゃんと連れ戻され命が保証されている。
それに甘えゲーム(鬼ごっこ)感覚で?脱走を繰り返す。ドイツ軍の後方攪乱の使命に燃えて、、、。
特に250人からの集団脱走計画とは、とんでもなく骨の折れるゲームのはじまりである。
偽装を凝らした穴掘り、その土の処分、兵隊の見回りには即時現状復帰、チーム連携のサインの送り合い、覚られないように畑仕事に精を出す。
収容所兵士との駆け引きで、確かに昼間の敷地内には緊張が走っている。
だが、夜などの監視は緩やかで、密談で集まっていてもほとんど気づかれない体制であった。
手間の掛かる神経をつかう仕事だが、スリルでワクワクと捉えている節もある。
共犯関係かと想えるような感じも受けた。

だがこれはホントにあった噺の再現である、というナレーションに始まる物語だ。
ホントとはとても思えないトンネル掘りなのだが、、、。
果たして監視の目を欺きつつ、あんな長いトンネルを素手に道具くらいの体制で掘り進めるものなのか?
もっと、信じられないのは、脱走者分のスーツ、ネクタイ、コート、カバン、帽子をよく調達出来たという事。
仕立て作業をどんな場所で、いつやったのか、余りに物品が整い過ぎていることに信憑性を疑うところだ。
捕虜収容所とは、こんなにも欲しいモノが容易く手に入るところなのか。
しかも思いっきり態度もでかい。
これくらい自由なら、戦争が終わるまで待って、国に帰ってもよかろうに、と思った。

まあ、人間一所に押し込められていては、どんな所だろうと鬱積するのは仕方ない。
しかし、それは普通に暮らしていても、真に解放的な生活など送れるものでもなかろう。
ここを見た範囲では、戦場にいるより安全で食うに困ることもない。
軍人としてのプライドの問題はあるのかも知れないが、、、。それとももっと高尚な理念による意志からか。

確かに脱走後、駅で怪しまれたバートレットとマックを逃がすためにアシュレー=ピットが身を挺して彼らの犠牲となる。
こんなところは、連合国側の正義と軍人としての使命に対し微塵も疑いのないことが窺える。
つまり、彼らは真面目なのだ。軍を信じ国を信じている。
また友情にも篤い。(ずっと収容所で一緒なら親友も出来るだろう)。
失明が近づくコリンを守りながら脱走するヘンドリーなどその一例である。
(ベトナム戦争のような戦争そのもの国そのものへの疑問や不信は見られない)。

見ていて思うのがやはり壮大なスポーツの祭典である。
ただし銃が控えているので、とびきり危ないスポーツではあるが、、、。
そしてここではゲシュタポという悪玉審判がルールを侵犯するが。
さしずめプロレスのヒール役か。

バージル・ヒルツのドイツ兵士とのかなり長いバイクチェイスはスリリングで観ごたえ充分であった。
まさにカッコイイとしか言えないスティーブ マックィーンの勇姿である。


ヒロイックな役者が一杯出ている「実に楽しい戦争映画」であった!
尺が長いことに見終わってから気づいた。
そのくらい面白い(実話らしい)。



怒りの葡萄

The Grapes of Wrath

The Grapes of Wrath
1940年
アメリカ
ジョン・スタインベック『怒りの葡萄』原作

ジョン・フォード監督

ヘンリー・フォンダ、、、トム・ジョード
ジェーン・ダーウェル、、、トムの母
ジョン・キャラダイン、、、ケーシー


『怒りの葡萄』である。そのまま。

トム・ジョードは、どのような認識をもって帰ってくるのだろう、、、。
また、家族の元に戻って来るのだろうか?

夜、家族を残して立ち去る前に、彼の母親に語る最後の言葉が、胸に迫った。
こんな言葉の放てる人だったのか、、、彼は。
最後に見直した。
「出てゆくのは分かった。でもお前の消息をわたしはどうしたら知ることが出来るの?」
「ケーシーは人の魂はひとつの大きな魂の一部に過ぎないと言っていた。」
「ぼくは、母さんの見えるところ何処にでもいるよ。」
「飢えで闘う人がいればその中にいる。」
「警官が人を殴っていればその中にいる。」
「怒り叫ぶ人々の中にも。」
「食事にありついて喜ぶ子供たちの中にもいる。」
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
「ぼくは、暗闇の何処にでもいるよ。」
トムは完全にケーシーの後継者であり、彼の意思を継いでいる。
彼の友ケーシーは、民衆を搾取する権力に殺害された。
所謂、赤狩りである。
トムも初めはケーシーの語ることに深く耳を傾けず目先の利益にばかり拘っていた。
(ケーシーは牧師を捨てた今や何でもない抽象的な存在であったことから世界を俯瞰的に観る視座を持ち得た)。
トムについては無理もないことである。
飢えて死ぬかどうかの瀬戸際の毎日をただの労働者として送っているのだ。
日常の労苦に浸り込んでいる為、構造に関する洞察をする余裕がないのは仕方ない。
その構造を分析している人間の言葉がスっと入ってくるとは考えにくい。
しかし、現実はケーシーが考えていた通りとなった。
トムは「彼がぼくを導くランプの輝きだった」ことを悟る。
資本家が労働者を搾取する構造である。
上(その元)を探ってゆくと、結局だれもその大元の存在など知らないのだ。
だからその人間をやっつければ何とかなるものではないことにトムは気づく。
そして「あちこちを渡り歩いて答えを探したい」と。
ずっと不条理に思ってきたことが、はっきり対象化され彼の言葉に結実しはじめた。
このまま政治思想の闘争(階級闘争)に入ってゆくのかどうか、、、。


経済恐慌(農業の大規模資本化)と砂嵐(ダストボール)のお陰で故郷を捨てなければならなかったことは、その家族にとっては過酷で悲惨な運命である。
故郷のオクラホマを断腸の思いで捨て、カリフォルニアに新天地を求めポンコツトラックに家財と家族全てを乗せ、大変な苦労の末、たどり着く。それまでに祖父と祖母がその地を見ることもなく他界する。
壮大なロードムーヴィーである。
主人公の認識と内面が様々な試練のもとで変化してゆくありさまが描かれている。
彼の母にしても「土地があったから家族の結束があった。でももうばらばら、、、」と嘆いていたものだが、「男は不器用でいちいち立ち止まる。人の生死に動揺し土地を失って落ち込み、女は川の流れのように常に流れている。途中に渦や滝があっても決して留まらない。それが女というもんさ」という強靭な精神を獲得している。
父親が気弱に「それにしてもいつもひどい目に合うもんだな」と吐けば、「だから強いのさ。庶民は雑草のように強い。だからわたしたちは決して絶えることなく永遠に続くのさ」である。もう無敵だ。
これでアカデミー賞もらえないはずがない。

トム・ジョードは、どうなったのか?
どんな風に帰って来たのか?


オクラホマだって映画のなかでも言っているが、たかだか70年前に住み着いた土地だ。
先住民を追いやって、アイルランドまたはイングランドから侵入して好き勝手に土地を略奪して繁栄してきたのがアメリカの歴史である。ある意味個々の家族にフォーカスすれば、彼らは国家政策の犠牲者であり、まるで難民であるが。
もはやその次元にいるわけではあるまい。

今度は、メキシコとの国境に高い壁を設ける等という事を平気で最高指導者が言っている(単なる選挙戦での扇動だとしても)。
アメリカである。


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突破口

Charley Varrick

Charley Varrick
1973年
アメリカ

ドン・シーゲル監督

ウォルター・マッソー、、、チャーリー・ヴァリック (元曲乗り飛行士の強盗)
ジョー・ドン・ベイカー、、、モリー(マフィアの殺し屋)
アンディ・ロビンソン、、、ハーマン(チャーリーの若き相棒)

”Charley Varrick”まんまである。
「突破口」、、、イメージ的にわかるようで、いまひとつな感じ。


チャーリー・ヴァリック のここまで緻密な計画を立てられるか、、、とただ唖然として観てゆく映画であった。
先の読めない、実に巧みな作りの映画だ。
そう!巧みに作りこまれた映画を堪能した。
銀行強盗で1,2万ドル稼ごうと地方銀行支店を襲ってみたら、何とマフィアの隠し金75万ドルというその銀行にそぐわない大金を掴んでしまったところから話は俄然スリリングになってゆく。(マフィアの金庫は別口であったのにそちらも開けさせてしまったのだ)。
だがチャーリーの、感情を外に見せない何と冷静沈着で計算ずくの行動か、、、。

特に、花束を買って何に使うのか、と思ったらああいった形で相手を特定するためであったか、、、銀行家を空き地に呼び出す時、モリーが潜んでいることを端から想定した上での彼(すでにマフィアから疑われている)へのあの振る舞い(芝居)、、、観ているこちらが思わずニンマリしてしまうところが幾つもある。
待てよ。すると高飛びの旅券を二枚用意したのも、敵をおびき寄せる(モリーを引き寄せる)ために作ったものか。
ならば、かなり早い段階で相棒の生贄は決定していたようだ。
マフィア相手に完全に一枚上手である。
警察やFBIなどは、ほとんど問題外ではないか。
(警察が余りに軽い感じは否めないのだが)。

複葉機対車のチェイスはヒヤヒヤもので、また意外な決闘である。
飛行機なのに空を飛ばずにモリーの車に対抗。
しかも決着には驚いた。
飛行機の曲芸操縦が得意だとしてもあそこまで出来るものか、、、?
地上でのでんぐり返しとは、思いもよらなかった。
その後の奇策、手際の良さと仕掛け(罠)にも唸る。
火薬を買っていたので、使うことは分かっていたが。
最後に、札を一掴み撒き散らし自分の操縦服を燃え上がる車に放り込むなど事後処理にも抜かりがない。


ウォルター・マッソーという俳優、何があっても動じない役にピッタリであった。
そういう、すわった顔をしている。
淡々とした妻の遺体処理、足がつかないように彼女の歯型のデータをすぐに盗みとり、ついでに自分とハーマンのデータを入れ替えるなどの抜け目のなさ、その相棒がモリーに殺されても「自業自得だ」の一言。彼を生贄にしての結果であるにも関わらず。
マフィアの金は返したほうがいい、などとハーマンに言っていた割には、周到に金を自分のものにする計画を練っていた実にしたたかで頭のまわるオヤジである。
この人はマッチョなアクションではなく、頭脳戦で相手の上をゆく。
動きはその分、もさっとしているが、そこに独特の味わいがある。

この映画全体では権謀術数が何処においても渦巻いている。
銀行家と支店長の間にもそれが生々しくあった。
結局真面目な支店長は彼にマフィアの残虐な報復を吹き込まれ脅されたことで自殺にまで追い込まれる。
それによって銀行家自身は支店長に疑いを向けさせ、助かったと思っていただろうが、、、。

他にも脇を固める人々は皆かなりの曲者ぞろいである。
トレーラーハウスの隣人の老婦人、怪しい拳銃を売る老人、ぼったくり偽造パスポート屋(写真家)の女など、、、
老婦人は兎も角、客への裏切りなどなどお構いなしのその道の商売人たちである。
そしてマフィアの殺し屋モリーときたらチャーリーとおっつかっつのハードボイルドな輩である。
モリーが誰からも一目おかれていることも、行く先々でVIP扱いされていることでよく分かる。
泣く子も黙るといったタイプでもないが、誰もが恐れていることは確か。
彼は鋭く緒を掴み、チャーリーにひたひたと確実に迫ってくる。
かなりにやけている分、その冷酷無比振りも際立つ。

しかし、チャーリー・ヴァリックが上手であった。
彼はすでに死んだことになっていて安全である。
全てを始末した今、さっさとボロ車に札束積んで新天地メキシコに向かえばよい、、、。
飄々とした一匹狼のカッコ良さが実によく描かれている。


よく出来た話だ。
細やかな伏線も実に効いている。
特に自分の腕時計をハーマンの腕に付け替えていたところなど、銀行家を呼び出した電話の後、わざわざ自分の腕を彼が確かめるシーンで気がついた。

最後に、上手い!と思わず膝を打った(笑。


レインマン

Rain Man

Rain Man
1988年
アメリカ

バリー・レヴィンソン監督

ハンス・ジマー音楽
落ち着いて抑制の効いた効果的な音であった。

ダスティン・ホフマン、、、レイモンド・バビット(高級車のディーラー)
トム・クルーズ、、、チャーリー・バビット(サヴァン症候群の兄)
ヴァレリア・ゴリノ、、、スザンナ(レイモンドの彼女)


サヴァン症候群である。
ここでの突出した能力は、数に関するものだ。
計算や物の個数を一瞬に数える、数の暗記、、、などである。
特異な能力と呼ばれているものだが、、、。

数というものが特別な(fetishな)存在なのだろう。
数学者のなかには、「数」は、実在しているという人もいる。彼にとっての「数」も、そんな存在なのだ、きっと。
しかし、彼にとってそれが何かであることはない。
それを元に導かれる認識や発見には全く繋がらない。
喜びー感情に繋がらない。ここが肝心なところだ。
自分の秀でた能力を統御する主体ー自意識の有無である。
ここが、数学者と障害者の差なのだ。
彼自身にとってその能力が、何の支えにもなっていない。
ある意味、無用の長物として彼に付随している。
天才との紙一重に留まり続ける。

しかし、反面われわれは、彼が解放しているその機能を発動ー開花させていない。
今一般的に論じられる自意識は、何らかの原機能をOFFにすることで、成り立つとも謂われる。
ここは、興味深いところだ。
原機能をONにしたまま自意識をもつ。
天才に所謂変人が少なくないところも、頷けるところか、、、。
何れにせよ、われわれは、機能のかなりの部分を遮断することで、初めて人間として成立している。
このことに少し想いを馳せてみたい、、、。

兎も角、この映画をハリウッド文法に従い見てゆくには、取り上げられた題材が興味を惹きすぎる。
そちらに思考がいやでも向いてしまう。
この映画がSF的な方向性をもっていれば、アルタード・ステイツの描写に入り込んでもよかった。
つまり、在り来りな知覚、感覚そして記憶を超えた何かの存在への接近である。
何というか、われわれはナニモノかとの接続が足りないのかも知れない、、、。

少し拘り過ぎた。
この件は語りだすとキリがなくなる。


ダスティン・ホフマンの演技はここでも凄い。
これを見ると、つい「海洋天堂」の大福も思い浮かべてしまうが、、、タイプは違うが、双方とも鬼気迫る演技であった。

ただ、昨日まで観てきたアメリカン・ニューシネマ系と異なり、如何にもハリウッドという作品であった。
映画に疎いわたしでも、その作りの差はよく分かる。
こちらは構造と流れがはっきりしているのだ。
はっきり行くべきところが見通せる。

チャーリーとスザンナのレイモンドへの対応が観る側の琴線にちょうど程よく触れるように計算されている。
一種の強迫意識をもって、われわれも彼らと共にレイモンドに関わってゆく。


ここで上手いと思ったのは、最後医師との話し合いの場で、レイモンドが出来る範囲でチャーリーを庇っているところである。
このシーンで、チャーリーはレイモンドと分かり合えたことを確認している。
そう言いたくなるのは分かる。
しかし実際、自閉症と分かり合えるなど軽々しく言えるものではない。
(斯く言うわたしも関わった経験がある)。
9年間面倒を見てきたが、明日私がいなくなっても彼は気づかない、という看護師の例こそ真実味がある。

結局、チャーリーはレイモンドを医者に託す。
自分は、定期的に病院を訪問することにする。
見る人も納得する、取り敢えずの解決が示される。
誰もがスッキリする。
ハリウッドである。

日常性への着地である。
ここで変わったのは、チャーリーである。
その他の人物は取り分け何が変わったというものではない。



娘の音楽発表会

music001.jpg

小2の娘の音楽発表会に行った。
長女が音楽祭実行委員をしている。
発表時舞台に、実行委員で最前列に並び、順番にマイクを回し演目の紹介をしてゆく。
長女は列の真ん中で、オリジナル曲をみんなで協力して作ったという部分をアナウンスした。

びっくりした。
日頃、うちでムニュムニュ喋っている時と全く違い、とてもクリアにしっかり聴き取れる発声だった。
ホントにうちの子か?と思って観たが、そうだった。
クラスでピアノを弾いて、実行委員に選ばれたと聞いたときには、そうかと信じたが。
こんなに喋るのかと、目の前(先)で観ても、にわかに信じられなかった。

日頃、忘れ物はするし、宿題嫌だと一度はごねるし、訳の分からぬ話はするし、変わった感性を持ってることは知ってはいた。
熱中して物を作るのが何より好きで、絵を描いてもかなり長時間集中しており、外部にはほとんど無関心でひたすら自分の世界の仕事をするタイプだと思っていたが、、、。

そう言えば、曲を作るために集まったとか、休み時間とかに実行委員の仕事をしたとか言っていた。
そんな風に集団で何かをやることに、馴染んでくれたらとても嬉しいことだ。
わたしが、そういうのが大の苦手だからだ。

やはり、委員を体験すること自体が齎すものは、大きいと思われる。
選んでもらったことには感謝したい。
娘の可能性が広がった気がした。

肝心のオリジナル曲の合唱であるが、思った以上に凝った曲であった。
手でリズムをとったり、後半からはメロディオンも入り曲に厚みと変化が加えられてゆく。
小さい子特有のがなり声ではなく、綺麗に大きくはっきり発声しようという意識がみられ、立派に歌となっていた。
途中で、隣同士向き合ったり、場所を移動して遊ぶ様子を演劇的に見せたりと、とても工夫が見られた。
このまま進めば、ミュージカルにも発展しそうなものであった。

最後に、実行委員がまた前に集まってきた。
長女は今度は、手に先ほど演奏していたメロディオンを下げていた。

終わったという安堵の表情が遠くでも窺えた気がした。
何にしても達成感が大事である。
これがないと進まない。

終始、長女を片目で見ながら、次女を探し続けたが、とうとう何処にいるか分からず仕舞いであった。
わたしの視力も低下しているが、今朝着ていった服も知っており、それを頼りにも必死で探してはみたが見つからなかった。
前列か雛壇に乗った中列あたりならよく見えるが、その間に入り込むとどうにも見えなくなってしまう。
これでは、業者のビデオでも写真でも撮れていない可能性は高い。
(昨年がそうであった)。


彼女らが帰ってきてからは、2人にご苦労様と言うと、うん頑張ったし、明日ピアノ上がったらラーメン連れて行って、とせがまれた。
勿論、いいよと答えた。
ご褒美が美味しいラーメン屋さんのラーメンでよいのか、、、。
(まだ幼い)。
内心、安上がりで助かった、、、と安堵するわたしであった(笑。


ブルーレイも写真も買うかどうか迷っていたが、買うことにした。


真夜中のカーボーイ

Midnight Cowboy

Midnight Cowboy
1969年
キング・クリムゾンがデビューした年だ。(69年は衝撃作が多い)。

ジョン・シュレシンジャー監督
イギリス人の監督である。アメリカを対象化して観る位置にいる、、、。

ジョン・バリー、、、音楽
ニルソン、、、「うわさの男」主題曲
今でも時折、ひょんな時に耳にする。

ダスティン・ホフマン、、、ラッツォ(片足の不自由なコソ泥)
ジョン・ヴォイト、、、ジョー(テキサス出のカウボーイ)

アンジェリーナ・ジョリーのお父さんである、ジョン・ヴォイトと、、、
ダスティン・ホフマンは言うまでもなく、、、大したものだ。


「カウボーイー」ではなく「カーボーイー」なのだ!邦題はいつも奥が深い、、、。


「うわさの男」
Everybody's talking at me
I don't hear a word they're saying
Only the echoes of my mind

何度か読むうちに、これは尋常でない歌だと想える。
”Only the echoes of my mind”
おれには分かっちまう、ところが厳しい。

ジョーがカウボーイスタイルを決め(田舎者丸出しで)ニューヨークに意気揚々と着いた時、ラッツォ(ネズ公)はその地で、うらぶれて夢の終焉を迎えていた。
そんな時に、2人は出逢う。始まってから25分が経過した頃だ。
ラッツォは皆に嫌われるコソ泥で詐欺師でもある。足も不自由で自分でも気にしている。
ジョーが金を騙し取られついにホテルを追い出されて、ラッツォの解体寸前の無人ビルのねぐらに招待される。
奇妙な2人の同居生活が始まる。
文字通り最底辺の生活だ。(電気もない)。
しけたタバコを2人してしきりに吸い合う。

ジョーの気の良い田舎者振りがたっぷり描かれる。
そもそもハスラー(ジゴロか?)になって金儲けしようなどという、突拍子もない事を考えてニューヨークに来ているのだ。
(何処にでもアメリカンドリームが転がっているわけではない。余りに考えが甘すぎる)。
この時点で、完全に浮き足たっており、端から挫折が約束されている。
出会う人間みんなに騙されるか相手にされずに放り出されてゆく。
うまくチャンスをものに出来そうな時も、2人してまんまとそれを逃がす。

流れの途中で何度もフラッシュバックとして挿入されるジョーのトラウマのイメージがいまひとつどんなものなのかは分かり兼ねるが、過酷な思いの総体であるテキサスにオサラバして、憧れの東部ー幻想のパラダイスを求めたのだった。
(人間は本質的に他の場所に憧れる。今は、他の天体への憧れがかつてないほど燃え上がっている、、、基本そんなものだ)。
ジョーが取り敢えずまともに20ドル稼げたパーティのサイケデリックな空間は、彼の知っている世界からかけ離れたこの時代のもうひとつの若者の世界であり、物珍しそうな彼の表情が充分に面白かった。
画面のイメージが音楽とともに忽然と変わり、彼らと一緒に観ているこちらまで戸惑うところだ。
ここで、これまでとは違う女性(顧客)が出来たはずなのに、ジョーはラッツォの体調が気になって仕方がない。


ぶつかり合ったり、口論したりしながらも友情を深めてゆく2人。
そんななか、ラッツォの胸の病は確実に進行してゆく。
ジョーは稼いだ金で、彼のために薬を買ってくる。
彼らは、互を気遣い合うようになる。
自分に必要なものではなく、相手に渡す物(戦利品)をねぐらに持ち帰る。
ラッツォには薬よりも、ちゃんとした治療こそ必要な状況になってゆく。
ジョーがいよいよ医者を呼ぼうとすると、彼は医者とお巡りは大嫌いだ、それよりマイアミ行きのバスに乗せろという。
ラッツォは気候の暖かいマイアミで贅沢三昧の生活を送る白日夢をしょっちゅう見ていた。
日に日にラッツォの病は重くなり、ついに自分では歩けなくなる。
しかし、ジョーはすでに彼に愛想を尽かす気など微塵もなかった。ニューヨークへの拘りもハスラーになることも捨て。
彼は少し乱暴な手を使い金をせしめて、長距離バスで2人して、マイアミへの旅に出た。
場所の移動にはいちいちラッツォを抱き抱えて、それがとても自然な優しい雰囲気として流れてゆく、、、。

ジョーはカウボーイースタイルをサッパリと脱ぎ捨て、軽やかに生まれ変わったかのようなマイアミスタイルに決める。
ラッツォがお漏らしをしてしまい子供のように泣きじゃくるところなど、何とやるせない場面か、、、。
新調したヤシの木柄のシャツからズボンまで着せ替えてもらい、顔の汗を素っ気なく拭ってくれたジョーに、一言「ありがとう」と、返し、、、ラッツォが目は半開きのまま、、、
息を引き取ったことに気づかず、ジョーは彼にこれからのことや、自分は外で地道に仕事をするつもりだ、など色々と想いを伝えてゆく、、、。

それに気づいてからのジョーの顔は観るに見れない、、、。

バスの窓から見えるカラッと明るいマイアミが余りに哀しい。
こっちも、もう涙が止まらない。


このコンビは何なんだ、、、!

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俺たちに明日はない

Bonnie and Clyde

Bonnie and Clyde
1967年
アメリカ

アーサー・ペン監督
ウォーレン・ベイティ製作
恐慌時代に実際にいた銀行強盗”Bonnie and Clyde”をモデルに描く。
かなり伝説化されているらしい。


ウォーレン・ベイティ、、、クライド・バロウ(銀行強盗)
フェイ・ダナウェイ、、、ボニー・パーカー(ウェイトレス~強盗)
マイケル・J・ポラード、、、C・W・モス(不良青年~銀行強盗)
ジーン・ハックマン、、、バック・バロウ(クライドの兄~銀行強盗)
エステル・パーソンズ、、、ブランチ・バロウ(バックの妻)

これもまんまの原題であるが、そのままでも良かったと思う。
”シド&ナンシー”みたいに。
「俺たちに明日はない」もその通りだが、、、。


スタイリッシュでファッショナブルな映画であった。
ユーモアとバイオレンスの融合したオシャレな作品である。
(まだ、かの「ワイルド・バンチ」が出る前である)。
アメリカ産の「フランス映画」という感じがした。(実際、フランスでバカウケだったそうだ。分かる。ゴダールの映画に近い感覚がある)。
やたらと車を盗みまくる為、様々なクラシックカーが登場するが、古さはなど全く感じさせない映画である。
爆走するクラシックカーが、コーナーに引っ張られる(膨らむ)あたりは、ルパン三世の映画にも見られる。
あのフィアット500は、この映画へのオマージュのひとつか。
この車たちで、オフロードに走りこんだり、カーチェイスまであるではないか。

自然光を多用した郊外や野原での光景は美しい。
天候の移り変わりもコンテクストに見事に溶け込ませている。

ボニー(フェイ・ダナウェイ)のファッションがまた決まっている。
ベレー帽にエレガントでシックな衣装。
当時、街にはうようよ、Bonnie and Clydeのファッションに身を包んだカップルが跋扈していたという。
ふたりは一気に時代の寵児になっていた。
確かに「ライフスタイル」の映画でもある。
時代を背景に生まれたアンチヒーロー像にもみんなが共感したのだ。
この時期のアメリカ庶民の権力への不満は大きい。

また話の流れもハイテンポのカントリーミュージックにコミカルにマッチして小気味よいものであった。
常に死と隣り合わせの物語にしては、暗さや重みを感じさせない演出が目立った。
警察に追い詰められ、「逃げるしかない」のに、銀行を次々と襲ってしまう。
車に詳しい不良少年をスカウトし兄夫婦を巻き込み、ただ突っ走るしかなくなってゆく。
どうしょもない経済状況と閉塞感、さらに銀行・警察などの権力への復讐の感情が元にあったとしても、幾らなんでも短絡的・刹那的である。
だが、考えてみればボニーも不良も兄夫婦にしても、そのまままっとうに暮らしている方が寧ろ自然であった。
ホントにちょっとしたタイミングで(隙を突かれ)、クラウドに乗ってしまったと言える。
彼は停滞した日常を活性化するーその幻想を抱かせるトリックスター的存在であろう。
(彼とつるめば、何かでかい夢が掴めるのでは、、、である)。

盗んだ車の持ち主(カップル)を加え、6人で車に乗ってゆく場面は、可笑しかった。
彼らが名うての強盗団だと知ると、話を合わせやたらとお愛想笑いをするところなど傑作であった。
(こういうところは、以後のギャング映画にもよく見られる。グッドフェローズも一例)。
ここをはじめ、演技派の役者たちのアンサンブルの妙は流石である。

ボニーは、無理やり乗せたカップルの男が葬儀屋だと知り、彼らを車から追い出す。(彼らの車だが)。
彼女の死への予感が強く現実に迫り、不吉な感情が襲った為であろうか。
自らの死を悟ったボニーは、車を脱走し草叢の中を逃げ、母のもとに帰ろうとする。
この行動は充分に分かるものだ。
クライドは彼女を母に遭わせる。
そこで母とボニー、クラウドが語り合うが、母はもう無表情で達観している。
2人はもう逃げることしか道はないが、それも長くは続かない、「もう会えないわね」と突き放して母は去っていってしまう。
この場面は、単なる外光の下ではなく、霊界での光景を感じさせる。
明らかにレンズにフィルターが掛かっている幻想的な空間となっていた。

「最初は最高だったけど、もう逃げるだけ。もう終わり。」
というボニーの身体感覚の通りに、彼らは死に向かって加速して転げ落ちてゆく。
襲撃を受けバックが殺され、ブランチが目をやられ、誘導尋問によって隠れ家も知られ、CWモスの父親と警官との取引が行われ彼らは罠にハメられる。
CWモスのオヤジは、かなりのタヌキだ。
このときCWモスは、果たしてどう思っていたのかが、いまひとつ判らないのだが。
彼は強盗団のなかで唯一無傷で生き残る。


やはりこの映画、最後のシーンであろうが、不思議に叙情的でもあった。
これを真似した映画がたくさん出たし、残酷シーンなど、どんどんエスカレートしていったが、このご本家を見ると、それらにない叙情性を感じる。
彼女の書いたふたりの死に様の物語は、感慨深いものがあり、クラウドの気持ちに共感してしまった。


フェイ・ダナウェイの魅力がこの映画を支えていたことは、間違いない。







ベッドを買いに

bed.jpg

カラッと晴れた日だ。
気持ち良い。
今日は、子供の二段ベッドを買いに行った。
今まで和室で布団に寝るか、わたしのベッドに入り込んで寝ていたが、1人で自分のベッドで寝れそうになってきた。
下が簀子で本棚付きの物にした。
通気性とお化けの本が寝る前に読める事、ここがポイントである。
ベッド下の引き出しは無論。
親と彼女らの意見を総合して決めた。

マットレスは天然椰子の実繊維の物にした。
匂いも問題なさそうだ。
通気性の点でも店員から推された為である。
長女が自分たちだけの空間に一番乗り気であった。
彼女は帰ってすぐにそこで寝るつもりであった。

しかし届くのが何と10日後である。
長女の落胆ぶり、、、。

すると何だかやたらと鼻が出る。
次女は大変長引いた風邪がぶり返しそうである。
ふたりとも、鼻をかみっぱなし。
困った。
また、添い寝しながら介抱せねば、、、。
だが、今度来るベッドではそれも出来ない。

体調管理がふたりとも、もっとしっかり出来るようにならないと、個別に寝るのは厳しいものか?
まあ何であろうと、一晩中見守るのは、こちらも体力的にもう出来なくなってきている、、、。


彼女らがただのベッドではなく殊更二段ベッドを欲しがったのは、上と下でお化けの話が出来ることがひとつ。
隣に寝て面と向かってするのとは、やはり雰囲気が異なり怪しさは、きっと倍増する。
少し公園のジャングルジムではないが、遊具的な佇まいも感じるところ。
更に、以前食べ物まで運び込んで遊んでいた室内テントの『森の小人の家』の続き(又はその郷愁から)。
トヨタやデパートの子供服売り場などに行くと必ずそこに入り込んで遊ぶキッズスペースのような聖域として。
二段ベッドのあの形体は、その身体性にフィットする隠れ家的空間に成りうると思われる。
(少なくとも長女は、そう想っている)。

自分(たち)専用の空間が欲しいというのは、分かる。
親のわたしでさえそうなのだから。
子供も大人も関係なく、ひりつく身体性を心地よく包み込み、その恢復を促すようなある種の身体の拡張空間は、必要なのだ。
つまり、自分の身体の現状を素直に察知し、リラックスしてあるべき状態にもって行ける場所の確保である。
それは、やはり部屋の中の小部屋のような物に当たるかも知れない。
風邪をひくのは仕方ないとしても、余りに長引くのは、ストレスによるホルモン分泌異常の影響もある(副腎からのコルチゾール)。
自律神経失調症とも呼ばれる症状になると、実際風邪もなかなか治りにくい。
現状をみると、そんな感じである。


これまでの彼女らのデスクが妙に広い部屋に二つ向かいに並んでいて、ふたりの居心地がいまひとつだったように想える。
ノートパソコンもそれぞれ置いていたのだが、最初の頃こそ自分の机上のパソコンで遊んでいたのだが、少し経つと片方のパソコンを2人で使ってお絵かきや、ネットや音楽再生をして遊ぶようになった。
空間の片方に寄り、狭いところで仲がそれほど良い訳でもないのにくっついて何かをやっている。
やがて、モノの多いバーバの部屋にiPadを持って立て篭るようになっていた。
バーバは良い迷惑だ(笑。自分の仕事(主に手紙書きとミシンがけだが)がやりにくい。


単に寝るためではなく、小さな空間の確保として二段ベッドがあってよいはず。
健康に寝る為にも、必要に思われる。(寝ている時に風邪は引き易い)。
わたしも一時期、子供時代に使っていたことはあるが、特に何とも思わなかった、、、。
が、取り敢えず試してみたい。




明日に向かって撃て

BUTCH CASSIDY AND THE SUNDANCE KID

BUTCH CASSIDY AND THE SUNDANCE KID
1969年
アメリカ

ジョージ・ロイ・ヒル監督
バート・バカラック音楽

B・J・トーマス、、、主題曲「雨にぬれても」


ポール・ニューマン、、、ブッチ・キャシディ(強盗)
ロバート・レッドフォード、、、サンダンス・キッド(強盗)
キャサリン・ロス、、、エッタ・プレイス(学校の先生)

原題がそのまんまなのに対して邦題が派手だ。
しかし、カッコ良い。確かに最期、「あすに向かって撃て」であった。
この邦題の方が気が利いている。


耳触り良い音楽を聴いていて、不覚にも?途中で寝てしまった。
バート・バカラックはホントにイージーリスニングで、疲れた時にこの上ない快眠をくれる。
そういえば、オースチン・パワーズでも名曲披露していた。(良い曲の多い人である)。
どこで寝たかも定かでない。
(連日の子供との添い寝で疲れた)。
だれる映画では全くない(寧ろ惹きつけられる魅力に溢れた映画)のだが、くつろいで観てしまううち睡魔に襲われる。

基本、おバカな二人組の逃避行の物語であり、(これはコメディなのか?)余り緊張感はない。
結構激しい撃ち合いがあっても、スパイス効きまくったサム・ペキンパーの西部劇とは訳が違う。
どこか、のほほんとユーモラスでふざけている。
「雨にぬれても」でブッチとエッタが自転車で遊ぶシーンは長閑で素敵で頬が自然に緩むところだ。
こんな牧歌的なシーンのまま行ってもらってもよかったのだが、、、。


常に楽観的で、何とかなるという勢いに任せ、銀行や列車強盗を繰り返す。
状況判断も甘いが、変なところで知恵が回る。
堅気の商売はどう見ても出来ない人たちに違いない。
口のうまい面白い男と早撃ちの男のコンビも強盗でやっていける歳と時代ではなくなってきた。
その焦りも窺えるなかで、いつまでも足を洗えず、ズルズル惰性で続けてゆく男二人組の(ちょっととぼけた)哀愁。

逃避行となってからの延々と続く馬の乗りこなし(途中スタントも入るのか?)二人揃って崖から河に飛び込むところなどは、アドベンチャー映画と比べても全く引けを取らない。
落ちた後もボブスレーかと思うようなスピードで流されてゆき、泳げないキッドも無事に岸に上がる。
この辺はハラハラ感もあるが、気持ちよさの方が大きいエンターテイメントなところ。


後で知ったが、この二人19Cにモデルが本当にいて、それを元に作った映画らしい。
自転車(馬に代わる新時代の発明品)にもっと拘るタイプであれば、生き方も時代に順応できたと思うのだが。
ある意味、自転車に愛想尽かした時点で、転げ落ちが始まったとも想える。
ブッチに倒された自転車のスポークの接写が象徴的であった。

大金で雇われ彼らを執拗に追い回す超人的な追手が、終始影のような形でしか描かれないのは、何か象徴的に思えた。
ある意味、この影はふたりの精神に次第に濃く広がり、二人を内面から追い詰めてゆく。
腕利き保安官レフォーズをリーダーとするこの精鋭チームは、いつしかふたりの内面の葛藤の象徴になっていたはずだ。

そして何も追手をかわす為とはいえ、ボリビアにまで行くとは、、、。
異文化(外国)であり言葉が通じないが、取り敢えず追手を振り切る(自分たちがそのままでいられる)場所ともなった。
しかし、彼らが同じことを延々と繰り返していれば、体制は異なる追手を幾らでも用意できる。

彼らは死ぬか違う者になることを強いられる。これはエッタからも要請される。
しかしそれを今更変われないと二人が拒んだ為、彼女はひとりで帰ってしまう。
ここで、運命はもう決定的になったと言えよう。

面白い三角関係?である。
エッタが、学校の先生なのに、二人に強盗をやるためのスペイン語教室をしているところは和む。
三人はアウトローで繋がっているわけだ。微妙な関係ではある。
それと対極の現金輸送列車に毎回乗り合わせ顔馴染みの、職務に忠実な社員もまた滑稽な味を出している。
どちらに付いていても、滑稽でありキッド(未成熟)には違いない。
彼らはどちらの側も辟易していた。ただ、何処か遠くに行きたい(事態を先延ばしにしたい)、といったところだろうか?


ストップモーションのラストは、確かにキマッタ。
悲壮感ゼロだが哀愁のある彼らのmonumentalな最期である。
どこか、ギャグマンガ的なシーンだ。
普通、多少なりとも賢いギャングであれば、オーストラリア行きの相談している時に、この世での別れを告げ合って玉砕と出るであろうに。
「レフォーズがいなかったか?」「いや見ていない。」「気が楽になったぜ。」
確かにレフォーズという内省を呼ぶ(自身に直面する)存在が最も彼らにとって回避したいものであったに違いない。
「やつらなら大したことはない。」
と、夥しい人数に増員された ボリビア奇兵隊の前に突撃してゆく二人。
(状況確認し忘れた)。
しかし彼ららしい。
闇雲に「明日に向かって撃って」出た、、、。

実際に、こんな最期を遂げていたのなら、そりゃ映画にも残るわ、、、と思った。

戦争のはらわた~ドナルド・トランプ

Cross of Iron

Cross of Iron
イギリス・西ドイツ
1977年

サム・ペキンパー監督

「鉄十字勲章」である。
邦題でそのままだと、やや言いにくいし、やけに堅苦しい。
いっそ、”クロス・オブ・アイアン”そのままにしたらカッコ良い。
「戦争のはらわた」、、、お馬鹿で、オドロオドロシイ邦題だ。監督が聞いたら怒り狂うだろう。

ジェームズ・コバーン、、、シュタイナー曹長
マクシミリアン・シェル、、、シュトランスキー大尉
ジェームズ・メイソン、、、ブラント大佐


2次対戦独ソの東部戦線において敗戦色の強くなったドイツ軍側からの描写であるが。
サム・ペキンパーとしては、「戦争」を描く(対象化する)に当たって、自分の国ではなくドイツから見た形で描く必要性があったのだと思われる。
ちょうどアメリカはベトナム戦争(ベトナム側からすれば「対米抗戦」)が1975年にサイゴン陥落で終戦を迎えた、その直後の作品である。
ヒロイズムやペシミズムや反戦イデオロギーの観点から描いた戦争娯楽映画とは、完全に一線を画する「戦争」を描いたものとなっている。(勿論、これも映画である以上、エンターテイメントに他ならないのだが)。
アメリカ人(ドイツ・イギリス合作ではあるが、監督はアメリカ人)にとっても、「戦争」とは何かが自ずと顕になってきた時期であろう。
わたしは、戦争が何であるか、全く実感ー身体性としては持ち得ない。
この映画は、戦争に対する如何なるイデオロギーにも組みしていない分、あっけらかんとした戦場の光景が開ける。
よく戦争娯楽映画に見られる芝居がかったオーバーな(ワザとらしい)演出は一切なく、その分サラッとした残酷な描写が多い。
恐らく実際の戦場では、敵味方の識別などかなり難しいもうもうとした煙の中の混沌とした状況なのだと分かる。
その分、リアルに感じるのだ。
だから「戦争のはらわた」だなんて言わせない。
趣味が悪すぎる。これはホラーか!


日本でも童謡で親しまれている「ちょうちょ」がバックにかかる。
相変わらず極めてテンポよく埋め込まれたスローモーションと短いカットで畳み掛けてくる。
実際の戦争のフィルムも効果的に配されてゆく。
臨場感タップリの演出である。
カメラワークも申し分ない。
特にソ連軍の戦車相手の死闘には、たまげた。
戦車が無敵の怪物の如く何処までも襲い掛かって来る迫力には恐れ入った。
(まさに怪物だ!)
わたしとしては、ここのシーンが一番印象に残る。
極めて即物的で無慈悲で圧倒的な暴力の象徴であろう。
ここに立ち向かえるヒーローなどいない。
戦争に参加するとは、まさにこんな場所に身を置くということだということを、極めて淡々とドライに描写している。

自分を常に忘れない矜持をもつシュタイナー曹長と名誉目当てのプロイセン貴族のシュトランスキー大尉との軋轢。
所詮規律の厳格な軍隊とは言え、考え方や性格や趣味や教養も異なる人の集まりである。
国が仕組んで命令に従って動くといえども、個人が戦争に求めるものも異なって当然だ。
ただ、このような集団にとって、上に立つ人間の考えは、その隊全体の運命を決する極めて重大なものであることは間違いない。
ここにシュトランスキーのような戦争を自分の名誉を得る手段としか考えない者が居座れば、その配下の者は悲惨である。
これほどの無駄死にを出すこともなかったかも知れない。
(基本戦争の悲惨さを増すのは、ここでのように命令系統を握る人間と前線に立つ人間が分断したところに生じると思われる)。

そして何よりも、負傷を負って治りきっていなくても戦争に自ら進んで飛び込んでゆくシュタイナー曹長の精神性である。
野戦病院で恋人もでき、わたしの家に帰りましょうとまで誘われたにも関わらず、無言で振り切って戦場に向かってしまう。
まるで、水を求める魚状態である。
普通の生活では、感覚認知に異常をきたす身体性とは何なのか、、、。
戦地でないと、まっとうでノーマルな自分でいられないのか。
実は、この映画のここの部分が一番重い。
病院で長閑な生活をしていると、幻覚や強烈なフラッシュバックが立て続けに起こり、耐え難くなるのだ。
恐らく監督は、ベトナム帰還兵の心身状態も意識していたのだろう。
シュタイナー曹長は単に、叩き上げの意志の強い勇敢な兵士という単純な存在ではないのだ。
すでに戦火のなかでしか生きることが出来ない。(ベトナム帰還兵がまた地獄のような戦場に自ら戻ってゆくのにも似た)。

善対悪などという構図はどこにもない。(これまでにもあった試しはない)。
皆、深く病んでいる。
その病気の種類が様々なだけだ。

終盤、シュタイナー曹長が 自分の都合から部下を皆殺しにさせたシュトランスキー大尉に落とし前をつけに行った挙句、よりによって彼を部隊の一員とし2人で絶望的な戦場に飛び込んでゆくところが圧巻である。
大尉は何と銃弾の装填の仕方も分からず、シュタイナー曹長の後をついて来たのだ。

その様子を見たシュタイナー曹長の哄笑。
高笑いの幕引きがこの映画を忘れがたいものとしている。
この笑いは、ドイツ祖国にも、いや「戦争」そのものにも向けられている。


最後に、 “諸君、あの男の敗北を喜ぶな。世界は立ち上がり奴を阻止した。だが奴を生んだメス犬がまた発情している!”というブレヒトのことばが表示されるが、今まさにそのメス犬が産んだ子供が台頭してきたではないか!
飛んでもないことが、起きる兆しである。


水の中のナイフ

Nóż w wodzie

Nóż w wodzie
1962年
ポーランド

ロマン・ポランスキー監督・脚本

レオン・ニェムチック、、、アンジェ(スポーツ記者)
ヨランタ・ウメッカ、、、クリスチーネ(アンジェの妻)
ジグムント・マラノウッツ、、、学生(ヒッチハイクの青年)

アメリカに行ってからの「ローズマリーの赤ちゃん」「袋小路」もかなり見応えがあったが、このポーランド時代の作品の純度は高い。


登場人物が3人。
倦怠感漂う夫婦と出遭ったばかりの青年。
海のなかに漂う小さなヨットという閉鎖空間。

ここで当然、虚栄心、自己顕示欲からの権力関係ができ、夫婦間の現状が鮮明になり浮気心も芽生え、反発と不信と憧れの綯交ぜになった感情が沸き起こる。

非常に単純に起こるべきことは起こるが、青年がオヤジの嫌がらせに近い指図や命令に、不平は漏らすがかなり素直に従ってしまっており、権力関係はほとんど安定してしまっている。あまり波風が吹かない。実際の天気に似て。
題名からは、怒りから青年がナイフでオヤジを刺し殺して、若妻と素知らぬ顔で逃避行なんていうシーンを想像してしまったのだが、基本的には何も起こらず終わってしまう。
勿論、心理描写は細やかだ。
それらを凪や座礁そしてメガネやナイフの水没、エンジンを吹かしたまま止まる車等々、、、で表す演出も素晴らしい。
とは言えこの映画、何が起こるというものではなく、エントロピーが増大して相転換する手前までの冗長性が描かれてゆく。
そんな感じの映画だ。

そして、その方がリアルである。

子バカにされいい様にあしらわれたとしても、それがすぐに殺意に結びつくものでもないのが普通である。
大事にしているナイフをオヤジに海に落とされた瞬間は、さすがに見ているこちらも身構えたが(笑。
第三項排除などを持ち出さなくとも、当然ひとりが貶められものだが、ここではオヤジが適宜、虐げるばかりでなくアニキ的な抱擁力も発揮している。人生訓やヨットの操り方を教えたりなどで、、ほとんどが取るに足らない噺ではあるが。
また、若妻も適当なタイミングでオヤジの権力~暴力を解消する助け舟を出している。
さらに身体性からいってもこの女性が、直接的な暴力のぶつかり合いの発動を抑える存在として機能してゆく。

しかし終盤、夫が青年を探しに海に泳ぎ出して見えなくなってから、異常に程落ち着きはらい何と青年と浮気をしてしまう妻が、ある意味この映画では一番怖いものであった。
青年が溺れてもう絶望的と思った時、彼女は混乱して夫に当たり散らし罵倒して、夫が海に飛び込んで探しに行かざる負えないように仕向けている。
そして、すすり泣いていた。
これはある意味、自分はもう終わりかも、という悲嘆でもあろうが、青年を失ったショックによるところが大きいはず。

ナイフの落下が、思わぬ波紋を広げてゆく。

青年としては、ナイフの件での怒りからブイの下に身を隠し、ちょっとした復讐をした訳だが。
取り敢えず、青年がヨットに生還した直後、妻は遠くの夫に戻るように声を何度かかけてみる。
思わぬ事態に気まずくなったか、青年も律儀に一緒に声をかけているところは笑える。
(彼にヨットから海に落とされたにも関わらず)。
「海にあっては、ナイフなど何の役にも立たない」と嘯いていた夫だが、、、。
水の中のナイフは彼にかなり深く刺さってくる。
夫婦の関係~解体が顕になってゆく。


カメラワークがお洒落で、どこを切り取ってもポストカードになる絵であった。
セリフ音を落としてバックグランドヴィデオで部屋の一角に流してもよいかも知れない。
ジャズがまたカッコ良い。
とびきりのミュージックビデオとして鑑賞できる部分もある。


青年は途中で岸に降ろし、桟橋には泳ぎ切った夫が待っていた。
当然彼は、青年が溺死したと信じている。
若妻が、青年は泳いで船に戻ったと説明しても彼は気休めを言うなと耳を貸さない。
彼はわたしを抱いたのよと告白すると、何でそこまで見え透いた嘘をつく、と取り合わない。
そして、妻もあっさり前言を撤回する。
(つまり、話を終わらせるということは、夫を殺人で警察に行かせてしまうことにしたのか?)

やがて、2人の車はポリスステーションのある分かれ路まで差し掛かる。
車はエンジンをかけたまま、方向を決められず、そこに留まる。



この後、2人はどうするのか、、、何やら青年の不在を巡る共犯関係―秘密の共有によって仲が戻るようにも想われるところであるが。
もはや肝の座っている妻に対し、夫はこれまた詰まらない、はぐらかす様な噺をしつつ、、、。
妻の尖った三角メガネが強烈な印象を残す。
(何れにせよこの先の運命は、妻次第であることは確か)。


分かれ道に止まる車が余韻たっぷりに映されて、フェイドアウト、、、。




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駅馬車

Stagecoach.jpg

Stagecoach
1939年
アメリカ

ジョン・フォード監督

クレア・トレヴァー、、、ダラス(娼婦)
ジョン・ウェイン、、、リンゴ・キッド(脱獄囚)
トーマス・ミッチェル、、、ブーン医師
ジョージ・バンクロフト、、、カーリー保安官
アンディ・ディバイン、、、バック(御者)
ルイーズ・プラット、、、ルーシー・マロリー(貴婦人)
ジョン・キャラダイン、、、ハットフィールド(賭博師)
ドナルド・ミーク、、、ピーコック(酒商人)

そのまま「駅馬車」である。


クレジットの先頭はクレア・トレヴァーである。
彼女が主役なのか、、、。
アリゾナ州トントからニューメキシコ州ローズバーグに危険を冒して向かう駅馬車でのドラマである。

カメラワークが実によく、馬の疾走感が半端ではなかった。
馬車から先頭馬まで飛び移ってゆくキッドの姿にもビクッとしたが、アパッチとの銃撃戦、闇夜の決闘までのタメには、かなりの緊張を強いられるものであった。
ひとつ、、、銃撃戦で、銃弾が馬に全く当たらなかったのは、インディアンとはそういう人たちなのか、、、?

3対1の決闘でリンゴが前に倒れこみながら銃声だけが轟く。
そして、後二発が闇夜に轟く。
ダラスが不安に戦く。
この辺の演出は見事であると同時に、この映画はダラスの波乱の人生の物語であったことを知る。

この映画、肝心な部分を見せずに想像させる演出が特徴である。
前半にたっぷりジェロニモ率いるアパッチの恐ろしさとその襲撃を予感させておいて、後半駅馬車の客たちが安堵の様子を見せたところに突然の襲撃。
噂話や音や狼煙でまずその存在を告知しておく。
そしてにわかにそれが迫る。
更に、同時性。(予定調和ではない)。
駅馬車のキッドたちとアパッチとの攻防の末、駅馬車側の弾が尽きた絶体絶命の時に奇兵隊の突撃ラッパが鳴り響くところなど、ホントに気持ちが良い。その音を真っ先に聞取ったのがダラスであった。
ご都合主義の対極にある恩寵の場面である。
日常生活においても、希だがこんな瞬間はある。(あったのに気づかなかったりする、それが人生でもある、、、(悲哀)。
このへんの流れは、まずもって気持ち良い。

駅馬車に乗り合わせた客で、悪者は金を横領して逃げる銀行家くらいだ。
この威張り腐った銀行家、吐く理屈からして明らかに現代の(悪徳)資本家の原型だ。
後は、周囲の無理解に苦渋を舐めていたダラスとブーンDr.も献身的な働きとやるときには命を張ってやる姿に信頼を得てゆく。
特にダラスに対し軽蔑の眼差しを向けていた貴婦人ルーシーも、自分の産んだ赤ん坊を寝ずに世話をしてくれた彼女に感謝の念を抱く。
リンゴの活躍なしに、駅馬車の客は生き残れなかったことは誰もが認める事実である。
リンゴを逮捕する目的で駅馬車に乗り込んだ保安官も、彼に友情を深く感じてゆく。(医者のブーンもそうだ)。
ルーシーに何かと気を寄せていたハットフィールドも見知らぬ女性の遺体に自分の外套をかけてやるなどの紳士的な振る舞いはあっぱれなものであった。
やはり南部の貴族の出(グリーンフィールド家)であることが分かる。彼一人アパッチの銃弾に命を落とすが、馬車に乗り込んで終始紳士を全うしたことは確かだ。
酒商人のピーコックも最初は小心者に見えて、次第に良識と良心をしっかり備えたところを示し存在感を増してゆく。
バックも如何にも小市民的な発想でこぢんまりしていたが、人の良いところが充分窺える男だ。
ネイティブの描き方が余りに素っ気なく乱暴であるが、世界大戦におけるアメリカ映画のドイツ兵の描き方とほとんど変わりない。
局面を限定して単純化して描いている分、そこは然程気にならない。

何をおいても、愛情表現とその行為の機微の描き方が絶妙である。
リンゴから愛を打ち明けられたダラスの素直に受け止めきれない(恐らく怖さからか)複雑な心境やアパッチに対抗する銃弾が無くなった時に、ハットフィールドが最後の一発で好意を寄せるルーシーをせめて自分の手で殺してしまおうかと逡巡するところなど、実に説得力のある共感できる場面だ。
そして最後が実に粋である。
保安官と酔いどれ医者が結託して、リンゴとダラスを「文明の外」に逃がしてやるところ、、、。
なかなかありそうで、ないシーンである。
爽やかに解き放たれたふたりが眩しい。
逃がしてやった男ふたりの笑顔も素敵だ。


後味の良いところもこの名作映画の魅力のひとつか。



デイヴィッド・ホックニー版画展

David Hockney

町田市立国際版画美術館にて。11/23(水)まで。
ローカルなため最短コースをやや詳しく、、、。JR町田駅のターミナル口(多くの人が向かう出口方向と反対に向かえば間違いない)を出て、そのまま前方を目指して陸橋を降り、その勢いで道を一直線に歩けば5分程でたどり着く。(途中から道が急に細くなりそこで運悪くスレスレに走る車に轢かれなければ、嫌でも到着してしまう)。
オブジェなどを見ながらダラダラ長々と歩く通常コースもあるが、それについては美術館HPなどを参照。

隣の公園で遊べたりする。
ダイナミックな水の表情を楽める巨大な回転する彫刻(可動彫刻)がデンと据えられている広場である。
この美術館には「森羅万象を描く デューラーから柄澤齊へ」を5/21に観に来ている。
これは、顧みても奇跡的に充実した展示会であったと思う。
惜しかったのは独りか、美術愛好家(美術の好きな人)と一緒に行くべきであった。
そうしないと、落ち着いてじっくり集中して観ることが出来ない。


今回はこれまでさほど興味をもっていなかったポップアートなデイヴィッド・ホックニーである。
プールの版画(リトグラフ)でその作風に妙に強烈な印象をもっていたが、他に関してはほとんど知らない。
そんなところで、観てみた。
写真によるコラージュやコピー機を使った作品があったが、意外な感じはせずこういうのも流れから充分納得できるものであった。
また、男性モデルが多いな、と思ってきたのだが、実際男性モデルが多かった。
(別に詮索する気はない。キース・ヘリングをはじめ、ポップな人には多いケースだ)。
ビリー・ワイルダーの肖像がわたしにとってはとても印象的で、何か良いオマケに当たった気分であった。
ホックニー氏、写真によっては、顔がアンディ・ウォーホルにかなり似ている。

さて、作品展の内容であるが、、、リトグラフとエッチングが多く、アクアチントによる濃淡の表現も目に付いた。
それから写真コラージュやコピー機を印刷手段として利用したもので構成されていた。
有名な男性ヌードのあるプールの作品などは来ていなかった。
面白かったのは「スウィミング・プールに流れ込む水」という水自体に拘り、その多様な流動体の様式化を図ったと思われるリトグラフである。更に「リトグラフの水」というリトグラフの制作過程を一つずつ示したかのような意表を突いた連作もあった。
「スプリンクラー」という珍しく(どうなのか知らぬが)カンヴァスにアクリルで描かれた、彼らしい平面的で単純明快な絵もあった。(版画美術館であるが例外として展示か?)この奥行きのない具象空間というのは、絵画で観ても凄いものだ。

ちなみに、リトグラフではどうやら浮世絵の影響を受けている「太陽」など、デザイン調に可視化された「光線」とそれを受けている植物の葉の面―様子とも相まって大変明快で背景との対比も美しい作品である。
「雪」などに至ってはあからさまに浮世絵を取り込んだ日本情緒が窺える。これらはウェザーシリーズという位置づけらしい。
成る程、浮世絵から気象・空気の表現を抽出したか、、、。

ピカソに傾倒していただけのことはあり、遠近法の解体~ムーヴィング・フォーカスと、キアロスクーロ(明暗法)の単純化というか装飾化がはっきりと窺える。1点の視座から視界を物理的に統御せず、通常の立体・写実には関与しない明暗の付け方である。
極めて明るく鮮明で単純な平面的なフォルムが広がる。
これは、全体の版画作品に共通していた。
ムーヴィング・フォーカスとしてはっきり作品化されているのは、視点を僅かにずらして撮られた写真の細かい切り貼りで作られた作品である。
この技法の着想はとても面白い。
こういうことを初めてやったのがホックニーであったことを知った。
(一度考案するとすぐに真似されるのがこの業界である。この真似はかなり簡単でもある。広告でも見たことがある)。
この技法はまさにアイデア勝負というところか。
コピー機による印刷手法も彼の作品を見れば、すぐにやってみようという人は幾らでも出てきたはず。
トナーを一色ずつ使い刷ったようだ。
ただし、こちらの方は、あくまでもコピー機を使用した彼独自の版画であり、作画の点でホックニーはホックニーである。

単純で平面的で明快な色調を観ていくうちに、酔うように快感を覚える。
なかでも特にわたしが一番気に入ったのは「ホテル・アカトラン」シリーズであった。
ホテルの中庭であろうか。きっと色彩もこのように魅惑的なものであったことが、想像できる。
このホテル・アカトランの中庭をホックニー自身もいたく気に入り、シリーズものに仕上げたのだと想われた。
ムーヴィング・フォーカスがリトグラフとして美しく結実したものと取れる。
構図上の歪みなどが全く気にならないというより、それによって中庭の快感が(魚眼レンズ風に)圧縮され遺憾無くひとつの画面に描き込まれている。
また何よりも色調が素晴らしい。
全面が光に満ち満ちており、床(廊下)が真っ赤。黄色の柱(影の部分は青)。黄緑と黄色に輝く庭。
この作品を観るだけでも来た甲斐がある。


初期作品や童話の挿絵(「自分を二つに裂く」には、さすがに驚いたが)を観ているうちは、ふーんという感じで観て回っていたが、ピカソが題材として現れた「画家とモデル」あたりから俄然面白くなった。ピカソへのオマージュもあからさまに窺え、その影響力の大きさもよく伝わってくる。



女流画家協会展70回記念-Ⅱ

Sayaka Kodama001

昨日観た「女流画家協会展70回記念」であるが、駅に隣接する会場であるため、今日も用事(医者の予約関係)で出かけた帰りに(短時間であるが)立ち寄ってみた。


今日改めて観ても、入り口付近の「罪を編む」はやはり繊細で厳かな印象深い「襞」であった。
暫し立ち止まって観てから、他の作品も確認したが、昨日受けた印象に変わらず、見事なものであった。

更に加えて、「水のかたち」(100S)、、、吉川和美氏
「透き間」(佐藤みちる氏)のliquidとは異なるaquaの放逸な魅力と威力が描き尽くされていると思われる。
水の様々な表情が拾い出されていて、魅入ってしまう。
日常、つい見かける水にも常に何らかの表情があり、そこにまた潜在する細やかな漣があり、時を忘れて佇んでしまうことがある。
水は実際、様々な面からわれわれを惹きつけてやまない。
科学者のライアル・ワトソンが「水」をテーマに極めて詩的で刺激的な論考を発表していたが、音楽でもラヴェルの「水の戯れ」の微分的な美しさは、そのイメージと思考の源泉である「水」というものの神秘そのものから来ているはずだ。
水は生命の源であり、われわれ自体がひとつの水のかたちであろうか。
(最近、水への関心・注目度はいや増しに増している状況である。エンケラドス~エウロパ~タイタン、、、)。

そして、昨日も気になっていた「侵食―再編2016―4」(130F)、、、粱田みい子氏である。
フラジャイルな薄い地層の重なり合いが造る立体的な襞が何やら心地よさも感じさせる。
何かの底―内奥からの侵食であろうか。
そこに潜む爬虫類、またはそれに見せ掛けた何者かの音連れだろうか。
複雑でありながら過剰な奥行をもたせず、統一したトーンを破れ目なくまとめあげている。
気品のある作品だ。

もうひとつ、「眠る人形」(130F)、、、畠山恭子氏
日本画的な装飾性と独自の様式美において際立っていた。
しかし、日本人形を主題にもってくると何故かある種の禍々しさが漂ってくるものだ。(コード的に)。
呪術的な世界の創出を狙っているのは分かるし、それを現出する技量の高さは充分窺えるが、既視感は否めない。
人形を扱うことの難しさを考えさせられた。
(起きたり眠ったりする人形は、うちの娘の喜ぶお化けの世界の住人にどうしても据えられてゆく。ハンス・ベルメールの即物的形体でしかない人形とは、明らかに次元が異なる)。
逆にこれまでに纏わり付いたイメージを打ち破る「人形」が現れたら面白いと思うのだが。
そんなことを想わせる人形画であった。


まだ他にも気になる作品は、沢山あったが、今日も急き立てられて帰ることになり、、、今回はこれで見納めとなりそうだ。
ここで知った作家の作品は、また何処かで機会があれば、是非観てみたい。
そいう気持ちにさせられる作品ばかりであった。

やはり、わたしのブログで何度も特集をさせてもらった児玉沙矢華氏の少女はこれまでの作品と同様(いや更に)魅力的であった。
今後の作品も期待したい。
フラジャイルな表象は鏡(ガラス)以外にも展出してゆくのだろうか?
それらにも興味がある。

それから佐々木里加氏の他の作品も観てみたいものだ。
やはりこのような透過するイメージを描いているのだろうか?

長瀬いずみ氏はきっと「羽」だろう。
「羽」の造形―フィギュアを極めてゆくと、どういう羽となるのか、これも興味深い。

當間菜奈子氏の他の作品にも非常に興味が沸く。
最初に書いた理由による。
是非、またの機会に観てみたいものだ。







女流画家協会展70回記念

Sayaka Kodama001
相模原市民ギャラリー 11/4(金~11/15(火 (駅ビル:セレオ相模原4F)、、、、ローカルなため少し詳しく

鬼気迫る息苦しさを感じる作品群に圧倒された。
どれも真摯に突き詰められたモノばかりである。
芸術家というより、、、女性の意地か?
作品同士で火花が散っていた(気がした)。
一人一作品で57作である。
このひとりで一作品であることから、選りすぐりの逸品が出展されていると思われた。
と同時に作る事の快感と陶酔も感じられるものであった。


娘二人を連れて鑑賞したが、彼女らもかなりよく見ていた。
うちの娘たちの特性として、初めて遭ったヒトともずっと懇意の間柄のように普通にお喋りしてしまうのだが。
(そのコミュニケーションの余りの抵抗のなさは、わたしにとって謎である)。
今回も会場に、娘さんの作品を観に来られたご年配のお母さんと、何故か次女がその絵の前で随分長く話し込んでいるのだ。
この御婦人が絵から離れる際に、「じゃあ娘にそう電話しておきますね」などと謂われていた。
、、、一体何を話していたのか?!
まだ、次女には何も聞いていないが、明日になったら恐らくこの事はきっと忘れていることだろう。
いつも、そうなのだ。


カタログを観ると、並んだ最後列にポツポツと若い女性も見られるが、ほとんどがかなりのご高齢であることは、見てとれる。
しかし大変元気に協会を支えられているという感じだ。
女性作家のパワーが窺える。


以前、記事に載せた児玉沙矢華氏の作品も1点「空想に架ける」(120F)があった。
やはり危うい鏡―ガラスの上に横たわり物想う少女がいた。
児玉氏の絵に出てくる少女はいつも魅惑的だ。
TV画面では見られないし、現実にも何処にでもいそうで、滅多にいない「普通の少女。」
今後の作品もずっと注目し続けたい作家だ。勿論、すでにファンである。

他にも気になった作品を幾つか、、、。
「罪を編む」(100S)、、、當間菜奈子氏
苦悶する人の表情にも受け取れる布の襞が細やかに克明に非常にドラマチックに描き込まれている。
会場に入って、いきなりこちらの精神を鷲掴みにされた。
光と影のコントラストも見事な演出を与えている。
他にどんな絵を描く人だろうか。興味がある。「襞」に拘る作家なら大いに期待したい。

"Angel Brain Cybernetics"(130F)、、、佐々木里加氏
天使の脳ミソと羽を透過して見える圧縮された構築物が何であろうか、、、。この克明に描かれた背景に惹きつけられた。
ダブルイメージでもない、とても気になる作品だった。
この作家の他の作品も是非、観てみたい。

「透き間」(100S)、、、佐藤みちる氏
メタリックなリキッド感が光の効果もあり、かなり心地よい刺激であった。
「エイリアン」(リドリースコット~H・R・ギーガー)にも通じる感性。
画材を確認する暇がなかったのだが、アクリル系か?
この質感の絵には、郷愁を感じる。
以前この雰囲気(質感)の絵をかなり観た事があったからか、、、既視感か?
しかし、複雑な構成や光の使い方も含めそれらより、ずっと深い世界観が窺える。

「円・2016(屈折)」(130変形)、、、菅原智恵子氏
メタリックな素材の大胆でソリッドな使い方-ミクスドメディアに目を奪われた。
長女が工作みたい、と感想を述べていた。
確かにそれの高度に洗練された形であろう。
CDやDVD(ブルーレイ)を毎日手にしている身体性に何か引っかかってくる質感である。

「生まれ、出づる」(130変形)、、、長瀬いずみ氏
もはやオブジェだ。半立体である。
天使か、新たな何者かの「羽そのもの」である。
厚みのある物質感が実在感を高めている。

’16-Work(130F)、、、八木芳子氏
絵の具ではない素材を巧みに使った反復連続模様が、絶妙で見飽きない。
スチール製の網がマットな青と茶に塗られ固有の光の効果を生んでいる。
言い換えれば、ミクスドメディアを使いこなした果ての光の表現と謂うべきであろうか。
距離による印象も異なる。

「トリゴヤ」(130変形)、、、上条千恵子氏
この絵を観たのは、初めてではない。
以前観て、実験性の高さが気になっていた。
大小様々な矩形の黒枠に入った歪んだ白いフィギュアが印象に残る。
(白黒の作品である。しかも白いトリ?は切り抜かれた紙であったりする)。
フランシス・ベーコンを想わせるフィギュアで、見慣れてしまうことを拒否し続ける作品だ。

「幾つものハート」(100S)、、、中元宣子氏
うちの長女が好きだという絵。
工作や折り紙が大好きな彼女が、絵でもこんな工作みたいな凄いもの作れるの?
と、目を丸くして言っていた。見る事の快楽を感じる。

"Domani'16-3°"(130F)、、、照山ひさ子氏
次女が気に入ったという作品。
アクリル系の絵の具であろうか、、、かなり分厚くテクスチュア作りがなされている。
木片も貼り付いていた。
扉のようでいて単なる壁にも見える。
赤茶けた凹凸のある面が、何かを閉ざし続ける時間性を強く感じさせた。


他にも気になる絵はかなりあった、、、。
遠藤彰子氏の作品は出ていなかったと思う、、、(余り鑑賞時間が取れなかったのだが、、、あれば真っ先に分かるはず)。



11/06のツイートまとめ

simiruhitokoto

情報リテラシー  ~華氏911 ~不都合な真実https://t.co/QomK1392he
11-06 23:04

UFOがよくTVに映る年でしたhttps://t.co/RPtCpjpJh2
11-06 22:03

UFO 断片補遺https://t.co/zybnxKL0YP
11-06 21:05

プリズム~UFOhttps://t.co/TezzivwI5a
11-06 20:10

スヌーズレン004https://t.co/wRqatU0Kac
11-06 19:08

スヌーズレン003https://t.co/0ydfg5c2Dp
11-06 18:38

スヌーズレン002https://t.co/mKb4BXQnZs
11-06 18:07

スヌーズレン001https://t.co/l4DUBVmOHP
11-06 17:31

すでに世界は終わっていたのか ~ ヒエロニムス・ボスその1https://t.co/CJGSjToMCY
11-06 16:00

カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ ~ 氷の海 ~https://t.co/IBxDduIgiF
11-06 15:01

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ゴーギャンとゴッホ展

syuukaku001.jpg収穫(ゴッホ)

東京都美術館
に昨日行った。

ゴーギャンとゴッホ、、、
もうかなり見慣れたビックネームであるが、会場で観ればまた味わいも違う。
しかし、混んでいた。何もここまで混まなくても、、、と思った。(やはり知名度の高さとそのドラマチックな物語からか)。
土曜日に行ったわたしが悪いのか?
クラーナハは然程混んではいなかったのだが、、、。

ゴーギャンとゴッホ展。余り点数はなかったが、両者の魅力と個性を際立たせる作品は集められていた。
特に「ゴーギャンの椅子」(ゴッホ)と「肘掛け椅子のひまわり」(ゴーギャン)
「収穫」(ゴッホ)と「ブドウの収穫 人間の悲惨」(ゴーギャン)であろう。
ふたりの人間のやりとりのドラマを見るより、こちらの作品をじっくり見比べて静かに鑑賞したいものだ。
極めつけの傑作である。
これらも時間が許されれば、いつまでも見入ってしまう絵である。

更に印象に残ったのは、ゴッホでは「玉ねぎの皿のある静物」である。
この作品、ここまで際立って明るく鮮やかな(明度と彩度の高い)絵であったか、、、
実際に観るとまた作品の印象も異なる(深まる)ものだ。
観てみることで非常に好きになった作品である。

しかし、この展示会で最もわたしが惹きつけられたのは、ゴーギャンの「色彩」の妙であろう。
どちらの常設展であったかもうごちゃごちゃだが、そこのクールベのマチエールにもつくづく魅了されたのだが、それとほぼ同等の静かな衝撃をここにも感じた。
タヒチで開花したゴーギャンの独創は他の追従を許さぬ個性として確立されたかも知れぬが、わたしはその直前の作品に深く魅せられる。その繊細で緻密極まりない輪郭と色彩の震えを感じ取れる作品群だ。なかでも特に「マルティニク島の風景」などのタヒチのゴーギャンとして完成されてしまう少し手前の作品には、いつまでもその前から離れ難い。
ナビ派や象徴主義という「形」となってしまう以前の何者でもない、、、精妙な震えが堪らない。
「マルティニク島の風景」も実際に観てみて、大変な魅力を覚えた絵だ。
この絵はどうしてもまたじっくり見直したい。

これだけでも、わざわざ上野まで来た価値はある。

展覧会の副題が”Reality and Imagination”であったが、確かにゴッホはあくまでも目の前の対象に拘りぬくことからあのような表象を得るところまでに至り、ゴーギャンは対象をひとつの契機として永遠・普遍を要請するイメージをあのように構成した。
ゴーギャンには詩的で哲学的な意味での理想や探求が絵画世界を作っているところが大きいが、ゴッホには即物的でそのまま突き詰めたら行くところにしか行かない切羽詰まったものを改めて感じる。
ふたりのそれぞれの「自画像」の描き方の違いが余りに雄弁に、それを示していると思われるのだ。

モネ、ミレー、ピサロのこれまた優れた絵も観ることができ、得した気分になったのだが、ふたりの絵が明らかに印象派の次の次元に突入したものであることは、これらの作家の作品と比較して鮮明に分かった。(美術史から言えば、取り敢えず後期印象派か)。

ただし、ゴッホの場合、新しい領域が狂気と綯交ぜとなった危険極まりないゾーンであった。
ここでは、その警報とでも云える代表作「オリーブ園」があった。
実際にそれをじっくり観ると、やはり背筋がゾクゾクする。
このような絵は自分の部屋には飾りたくない。青で落ち着くなどという次元のモノでは明らかに、ない。


結局、ゴーギャンとゴッホ。全く合わないと言うより(それは確かに全く合わないのは絵を見れば一目瞭然だが)、そもそもゴッホという人が、誰かと共同生活を送ることのできるタイプの人ではなかった気がする。その上、ゴーギャンが全く遠慮のないヒトだ。(互いに才能は認め合っていたにしても)。
距離をおいて芸術に関して文通する友人としてなら、長続きしたように思われるのだが。
どちらも手紙を書くのがべらぼうに好きな人であるし。
(これだけでも非常に有益なやりとりになったはず)。

syuukaku002.jpgブドウの収穫 人間の悲惨(ゴーギャン)


”Bon voyage.”

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