Swimming Poolを観る。
「イノセント」を観ようと思ったら、DVDが見つからない。
きのうまでの方向だと、うちにあるDVDの中では、「イノセント」しかないのだが。
ほとんど無作為チョイス。
そこで”SwimmingPool"にした。
が、結果的に良いものを選んだといえる。
この映画はみてみると、シャーロット・ランブリングともうひとりの若い女優リュディヴィーヌ・サニエだけで実質成り立っている。ほかの役者は脇役というより、ほとんど書割くらいの役目だ。
実に心地よい映画といえる。
大層なテーマがないところが良い意味で大人でこなれた映画になっている。
映画はこうでなければ、という意味での映画であった。
シャーロット・ランブリング演じる女流作家と出版社社長の娘と本人が名乗るリュディヴィーヌ・サニエ演じるところの自由奔放な娘が何故か一緒に社長の別荘で過ごすことになれば当然こうなるだろうというような、生活を繰り広げることになる。物語はプールを中心に描かれてゆく。
太陽がさんさんと降り注ぐプールで娘は全裸で泳いだり、ほとんど裸で歩き回ったり、男を次々に連れ込んで夜中に騒いでみたり、静かな場所でゆっくり次の本を執筆したいという願いが打ち砕かれる。
空想や夢が交錯しあいつつ白昼夢のような生活が続く中、いつしか作家は娘に興味を持ち始める。
自分とは対照的なその娘の刹那的で退廃的な生き様と生命感みなぎる若い肉体の強度。
やがて作家は、娘の日記を写したり、食事に誘って娘のことについて話を聴いたりする。
これは単なる興味を覚えた相手への取材というに留まらないものだ。
これまでの自分の推理小説とは違うスタイルのものを生み出すつもりだ。
こういう流れの予測は十分につく。
しかし、作家が外食の際に知り合っていた男を娘が夜に連れ込み、深夜のプールで泳ぐ。
この際に、娘はその男と争いになり石で殺してしまう。
あくる朝、作家は異変に気づき、男の死を突き止める。
娘は錯乱しているが、殺人を認め、二人で死体の始末をする。
その共同作業を通しお互いの距離はこれまでより遥かに縮まる。
娘はすべてが収まり、別荘を出る際に作家に母親が書いていたという小説を手渡す。
作家はそれを元にした小説を書き、出版社の社長に渡す。
いつもの作風でないことに難色を示すが、すでにそれは製本されている。
驚く社長に、サインを入れてあるから娘さんにどうぞと、渡す。
彼女が社長オフィスを出るとき入れ違いに社長の娘が入ってくる。
しかしそれは同じ名前ジュリーであるが全くの別人なのだ。
そこで劇中、作家が娘の素行に怒り、何度もその父親である出版社社長に電話をかけるが、一度たりとも繋がらなかったことが思い出される。電話が繋がったかに見えたときは娘が父親に、作家にわざと聞こえるようにかけたときだけである。
この若い娘は何ものであったのか?
わざと最初からこの作家に母親の作品を手渡すつもりで計画的に別荘に乗り込んできたのか?
最後に、作家と娘が別荘の窓とプールからお互いに手を振り合っているところで終わる。
ここでポイントなのは、主人公が作家ということだ。
この別荘滞在中のことはすべて作家一人の想像だとしてもしっかり成り立つ話である。
また、これらのことは殺人も含めすべてのことが本当に起きたとしても辻褄が合う。
まさに世界の様相を示している。
世界とはもともとそういうものだ。
「世界」=「私の世界」であるから、無数にパラレルに存在し得る。
この話の時空は作家の目から捉えられており、夢や妄想などの時間のいくつもの流れがあやふやに絡まって最後まで流れており亜時間への流れがいくつもあった。
ここでのシャーロット・ランブリングの魅力はさすがであった。知的で厭世的な女流作家などあまりに合っているが、恐らく何の役であってもこのレヴェルに演じてしまうことだろう。存在感だけで誰をも説得してしまうものがある。
リュディヴィーヌ・サニエは前半の肉体美だけで押し切るだけではなく、何かを抱え持った存在であることも後半にかなり滲ませる演技が際立った。しかし、シャルロット・ゲンスブールのような女優ならどうだっただろうか、と思わせる。わたしはシャルロット・ゲンスブールがその年なら彼女のほうが適役に思えた。
リュディヴィーヌ・サニエという女優は健康的すぎる感じがした。
にほんブログ村