写真 - NewOrder
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GOMA28

Author:GOMA28
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凍った湖

Der Tote am Teich001

Der Tote am Teich
オーストリア
2015

ニコラウス ライトナー 監督
スザンヌ・フロイント 脚本
マシュー・ウェーバー 音楽

ヨーゼフ ハーダー、、、セップ・アホーナー(引退した警察官)
マリア ホフシュテッター、、、グレーテ オラー(捜査官)
ミリアム フッセネッガー、、、リサ ネメス(グレーテの相棒、若い捜査官)
エルニ・マンゴールド、、、マリア・アホーナー(セップの母)
フィリップ・ホックメア、、、ヤコブ・プラントナー(リンツから来た行楽客)
トーマス・ライジンガー、、、ハーバート・メイヤー(市長)


今日は昨日よりやぶ用が多く、観る時間が取れず、サムネイルから見て暗そうで比較的短め~1時間半のものをとりあえず選んだ。
何とも言えない。
余りにも異質な異国情緒というか人々の雰囲気から、何をやっているのかがほぼ掴めぬ状況であった。
しかし寡黙で引籠った雰囲気が妙に日常的で、ドキュメンタリータッチでもある。
何やらシリーズもののテレビ映画らしい。

Der Tote am Teich005

終始、青味がかった寒々とした陰鬱な雰囲気が漂う。
オーストリアの酷い田舎町と思って観ていたら、最初に殺人犯と疑われてしょっ引かれたのが市長であった。
ここは市なのだ。
だがどう見ても閉鎖的な村に映った。
人に対する頑迷な差別意識と排他的な態度が村意識をありありと示していた。
村八分にされている元警官セップは以前、妻と子供を轢き逃げされ、その犯人がどうしても逮捕できずに終わったことで、仕事を退くことになったという。とても影のある男だ。

Der Tote am Teich002

リンツ出身のヤコブ・プラントナーという男が凍った湖で死体で発見される。発見者は元警官のアホーナー。
殺された男はリンツから訪れた行楽客であった。
彼と休暇を過ごしたゲリ・プフォーザーがセップ・アホーナーの従妹であることから彼も捜査に加わる。
すでに年金受給者なのに捜査に加わるというのもどうなのか、、、
肝っ玉母さんみたいな捜査主任のグレーテ オラーが認めているなら関係ないと謂う所か。
彼女は、ちょっとした参考人、事情を聴くレベルのひと(容疑者ではないひと)を独断で逮捕してしまう。
そんなアホーナーと言いたいところだが、この強権に対し文句を言う人はいない。
(直ぐに釈放してしまうのだが、、、何とも)。
市長、宿の主人、果てはアホーナーまで疑われるが、、、。

Der Tote am Teich004

殺された男は、カーリングのストーンで頭を殴打されたことが直接の原因であったが、その前に毒を盛られていたことが解剖で判明する。かなり複雑な背景を感じる。
この辺の人たちは、カーリングは日常の娯楽で、コミュニケーションのツールでもあるようだ。
何処にでも誰でもストーンは持ってるみたい。
しかもそれに使われたストーンは、セップの亡くなった叔父のものであった。
彼がどうしても気になり関わろうとする気持ちは分かる。
それが必然的に親戚に捜査が及んでゆくこととなろうとも、、、

Der Tote am Teich003

この事件は連続殺人とかに発展するものではなく、一件の殺人事件を丁寧に荒っぽく追うもので、大変渋く地味な展開であった。
であるから銃や暴力によるアクションもない。
とても暗く静かな情念は感じる。

ここでいつもなら、犯人と動機までこの先に、つらつらと書いてしまうのだが(わたしが映画評という認識を持たぬため)しかしやはりこれからクライムサスペンスを見ようとする人にとり、そこを書いてしまっては身も蓋もない。こうした映画では雰囲気だけを書くくらいに留めたい(そういう指摘を以前頂いていることもあり)。

ただし一言、最後に明らかにされる、所謂隠し子には財産の相続権がないという法律がかなり効いた。
特に若い捜査官リサには。


何やらむず痒い(笑。





AmazonPrimeにて






宮崎 学 アニマルアイズ

miyazaki 001

NHKの「新日美」で、写真家である宮崎学の”アニマルアイズ”を観た。
モノを作る事の意味~必然性について考えさせられるものがあった。
彼は撮る対象によって最も良い撮り方を考えた末、それに最適な機材から常に手作りして対応するようになる。
そして撮影という概念すらも変えてしまう。
無人の自動カメラの設置である。(これに対しては他の写真家からの批判もあったという。自分の指でシャッターを切らないのはどうか、とか)。
しかもどのようなレンズをどうつけるか何処に向けるか等もテーマによって根本的に最適化を図る。
人が撮らないことで見えてくる対象そして世界の即物的な美しさというか、、、。
大変ビビットな映像に魅入ってしまった。
(最近、つくづく思うのが、コンセプトの重要性である)。

他者になる為の装置。
カメラの可能性を改めて実感した。
哲学的(存在学的)であり極めて科学的な姿勢である。

miyazaki 004

道具によって見えるものが変わってくる。これを力説していた。だから彼は作る必然があるのだ。
目線の高さも大きい。
人の目線を避け、動物の目線で撮る。
しかし隠れて構えていると、動物だって身構える。撮影という行為そのものから考え直す。
そこから、全て独自開発の自動仕掛けカメラでの記録に移行した。
これで人間中心主義的な関与は限りなく後退した。

撮る場所~対象そしてテーマによりその都度スペシャル機材を開発して設置する。
(対象により一回ごと、テーマごとに新たな機材を作るのだ)。
そして動物の動きを高い精度で予測する必要があるため何度もフィールドワークを行う。
事前準備で撮影結果のほとんどが決まるためだ。
主に糞と食べ滓から生活空間と行動範囲を探る。
トイレが肝心。そこで彼らは情報交換する。お前何を食べて来たのか、、、どこにあるのか、、、。
彼が歩くと動物の気配が立ち広がるという。
動物の生活圏を見つければ、後は最も良い場所にカメラを仕掛ける。
だが、どういう向きで?

miyazaki 003

テーマによる。
動物の背中越しに遠くの地平に見える人間の営みを記録することもある。
イルミネーションで明るい夜空を眺める狐とか、、、。人間世界の変遷を動物もずっと見つめてきただろうと。
魚眼レンズを上向きに設置した、梢から夜空が覗く円形の枠内に様々な動物の横切ってゆく姿。
その順番にも意味がある。

miyazaki 002

テーマによっては、死後の腐敗してゆく死体がどういう動物にどのように喰われてゆくか、段階的に撮ってゆく。
誕生とか活き活きした姿だけでは、自然いや人間の世界も語れない。死を避けては通れない。
道路~高架下から塩化カルシウムが大量に流れ落ちたせいで、鹿が繁殖した経過も森や崖を歩きながら自ら確認してきた。
産業による自然破壊などという一括りでは語れない流れが幾つもあるのだ。
実際に、彼は足で様々な連鎖を見て来た。
自然と人間の営みの絡み合いは複雑な作用を生む。
自然に対する単純なプロパガンダでは到底把握できない状況がある。


時間を置いて、設置場所に見回りに来て、無人カメラの結果を確認する。
普段観えない、観ない世界が映っている。
これが愉しくて仕方ないのだそうだ。
ホントにリアルに感じられる。
われわれの外部の動物を観た気がする。


清々しい解放感を覚えた。



写真集、、、
『けもの道』、『鷲と鷹』、『ふくろう』、『フクロウ』、『死』、『アニマル黙示録』など多数。
第1回絵本にっぽん大賞、日本写真協会新人賞、第9回土門拳賞、日本写真協会年度賞(1995)、講談社出版文化賞受賞等受賞、、、等受賞。






























ソール・ライター

Saul Leiter001

Saul Leiter

「何を手に入れるかではなく、何を捨てるかだ」
まさに。
わたしも常にそうありたいとおもいつつ、捨てるところまでいっていない。
つまらぬものにしがみついている。
(わたしはコレクション癖が強く、モノで自分を支えている部分が大きい。支えている部分が足を引っ張るところもある)。
N-1を基本におきたい。

bunkamuraでも日曜美術館でも特集されていたが、Saul Leiterがクローズ・アップされている。
AmazonPrimeでも彼の映画があり、滅法評判が良い。

わたしがこの写真家を知ったのは、最近のことだ。
確かにインスタでも「ソール・ライター風」のスナップの流行りを見た気がする。
ちょっと雰囲気を真似しやすいか。とても洒落て見えるし、、、。
ストリート・スナップということからも、お気楽に入って行きやすいかも知れない。

Saul Leiter006

「外で働くのが好きだ」
有名ファッション誌の花形フォトグラファーであったが、室内での食事会~社交界が面倒だったのか。
やがて、背後からスポンサーたちの余計な注文が飛び交うようになり、さっさと華やかな世界から抜け出てしまった。
名声~名誉を捨てる勇気であろうか。 

しかし、偶々横切った板に遮られたモデルなど意表を突くファッション写真など、華々しい活動をしていたころも偶然を取り込んだ(チャンスオペレーションした)風通しの良い世界を沢山提供してきた作家である。
そのテクニックは、一線を退いた後もより洗練されていたようだ。

Saul Leiter003

イーストビレッジの毎日の同じ風景のなかに、異化された光景を捉える。
絵を描いて、コーヒーを啜り、散歩する道すがら、上から覗き込んだり、大きなカーテン(天蓋)の下に切り取られた明るい光景であったり、雨の降る中、雪の積もる中、雨滴に包まれた窓から見た通りであったり、、、「つまらないもの、単純なものの美」を、彼ならではの視点から切り取ることをルーチンとして暮らしていた。

わたしも写真を趣味で撮っていたころ、ガラスや水面の反映は面白くてよく撮っていた。
映り込みにも拘ったものだ。
それから雨の日の風景も好んで撮った。月時雨の光景など妖気も漂いウキウキしたものだ。葛飾北斎みたいな調子になる。
そういえばソール・ライターのカラースナップにもそんな風情を感じるところがある。
何よりも構図の妙である。
わたしも構図とフレーミングにはかなり注意を払った。

しかし彼の、「三分の一構図」のような、分割構成は考えなかった。
小さな区画に密かな謎~物語を発生させる。一つの方法論の発見か。
全体の片隅、この小さい場所に誘うことに、ウキウキする面白さがある。
フレーミングばかり気にし過ぎて、内側の構造はほったらかしていた。
その意識でファインダーを覗けば、切り取る空間は全く異なってくるはず。
やってみたい(笑。

Saul Leiter005

そして「ポイント・カラー」である。
日常の何でもない光景がひとつの色にフォーカスすることで、シンプルにビビットに再構成される。
それは激走する車のボディのレッドだったり、黄色いドットにもなり、雪の中の真っ赤な傘であったり、赤と黒にシックに構成された街角であったりする(昨日の映画もこの赤と黒の世界が際立っていた)。
ある色の強調により、シンプルにしたりぼかしたり、かなりの自在さである。

「窓の水滴の方が有名人のポートレートなどよりよっぽど面白い」
わたしの場合、その有名人が誰かにもよるが、確かに水滴の表情の作る光景の方が精神が解放される。
斬新な見方~特殊な世界を圧しつけられるのではなく、名状し難い郷愁と心地よさを感じるだけ。
自我がない。スッキリする。

Saul Leiter002

だが、繊細で知的な妹のモノクロ写真は、彼の他の写真とは異なる。
ユダヤ教の厳格な学者である父に従い聖職者としての路を歩んでいたが、大学を中退し芸術家になる決心を伝える。
すると父は、小説家か画家なら良いが、写真家だけは最低の職であり、それだけは禁じるということであった。
ユダヤ教は偶像崇拝を認めない為、他人を写真に撮ること自体がタブーなのだ。
確かにそれでは、写真家にはなれない。

最初は彼も画家を目指すが、やがて趣味でやっていた写真に傾いてゆく。
そういう時、ただ一人彼に味方し、支持してくれたのが妹のデボラであったという。
当然、彼(と妹との関係)の濃密な物語がそこに凝縮してくるだろうし、写真も軽やかなものにはなり難い。
妹は30代で精神を病み病院に収容されて戻らなかったそうだ。
妹のポートレートだけは異質で感情的な響きがある。

Saul Leiter007

彼は富みや名誉とは全く関係しない場所で撮り続けた写真家であると言える。
見るからに、とても良い顔をした人だとつくづく思う。

彼の作風を真似する人が増えているようだ。
真似をすることで、彼の思想~方法論が身体化するだろうか。
そういった、形から入る方向性もあるかとは思う、、、。





永遠のソール・ライター




All about Saul Leiter ソール・ライターのすべて





映画(Amazonprime)








キャビン

The Cabin in the Woods001


The Cabin in the Woods
2012年
アメリカ

ドリュー・ゴダード監督・脚本
ジョス・ウィードン脚本


クリステン・コノリー、、、デイナ(大学生)
クリス・ヘムズワース、、、カート(大学生)
アンナ・ハッチソン、、、ジュールス(大学生)
フラン・クランツ、、、マーティ(大学生)
ジェシー・ウィリアムズ、、、ホールデン(大学生)
リチャード・ジェンキンス、、、シッターソン(管制官)
ブラッドリー・ウィットフォード、、、ハドリー(管制官)
エイミー・アッカー、、、ウェンディ・リン(管制官)
ブライアン・ホワイト、、、トルーマン(新人管制官)
ティム・デザーン、、、モーデカイ(ガソリンスタンドの店主)
シガニー・ウィーバー、、、ディレクター


既視感のある流れだと思っていたら、幾つもの有名なホラー映画のオマージュを基本に作られ、最後にとんでもない結末で締めくくる(奇想天外と呼べるコンテクストではない)、ホラー通向けの手の内を楽しむ映画であった。
こういう映画もありか。マニアの内輪受け作品。
とすると最後の小さなキャビンでの出来事が即、地球大の危機と繋がる一撃は、全国のホラーファンに向けたものに思える。
ネタのオンパレードの末に「もう、いい加減にしろ。おしまい!」というところか(笑。
ギャグ映画だったのか。
確かに、クリーチャー、妖怪が総出で暴れ狂っている終盤のお祭り騒ぎは、例えは古いがドリフのコントの締めに重なった。

この映画こそ見る人を選ぶものだ。
ただシンプルにこの世界~内容を追ってゆくと、ハイテクものなのか、オカルト、心霊ものかただの悪ふざけか何ともモヤモヤしてきて、やはり最後にキャビンを突き破って大きな手でドーン!と行きたくなるわ(爆。
つまり、そう見ても問題ないわけだ。
(結構、懐の深い映画なのか?)

The Cabin in the Woods003

そういう映画か、、、いやどういう映画なのか。
ともかく、途中までは、日本映画で言えば「人狼ゲーム」みたいに、どこかの富豪が内緒で子供(青年か)を集めて殺し合いゲームをさせて賭けに興じる類のものかと思って観ていたのだが、その客と謂われていたモノがどうやら、ヒトではないことが分かってきて、何なんだというと太古の化け物(シガニー・ウィーバー曰く)であったらしい。その姿は拝めない。だが恐れ多い存在みたいだ。これを鎮めるための儀式で生贄として5人の男女が適当に集められたとか、、、。
管制室からは、キャビンを含む森全体が監視対象にあり、様々な仕掛けが自在にコントロールできるようになっており、脱出を防ぐために目に見えぬバリアも張り巡らされている。そんなところは「ハンガーゲーム」のノリだ。
そして、5人がキャビンの地下室に降りるように誘導し、そこで何を(どのクリーチャーを)召喚するかをくじ引きみたいに決めさせる。
管制塔には、しこたまクリーチャーたちが透明の檻に入れられて管理されている。
今回は、ペイシェンス・バックナーという少女の日記をデイナが手に取り、その一家の禍々しい殺人歴を知り、最後に書かれているラテン語の呪文を読み唱えてしまう。それでスウィッチが入り、土の中からその一家のゾンビが現れ彼らが5人に襲い掛かることとなった。一人が血祭りにあげられる度に祝杯のワインが地下の客へと流されてゆく、、、。
実際のところ、この得体の知れぬお客といつ、どのように(めんどくさい)条件付き平和協定を結んだのか?

The Cabin in the Woods004

メタレベルにいるゲストが人なら、このクリーチャーはとりあえず棚上げにしておいても、この関係性の成立に特に支障は感じない。
だが、主体が得体の知れない太古の何やらなどとのたまわれて、それに対して世界中が(日本も含め)対応しているとか、、、そんな公的?地下組織などとくるともう、脱力して萎えてくるではないか、、、。
日本の取り組み状況もしっかり描かれている。何か微笑ましい。日本は妖怪が子供にやられてしまい、今回初めて失敗したようだ。
他の国の支部も悉くクリーチャー側が生贄を殺しそこね失敗をしてしまい、後がない状況に追い込まれた。
アメリカ次第となり、責任重大、失敗できない状況となる。
世界の存亡がかかって来たのだ。
すると、もうタガが外れたようにこれまでの(伝説的)映画で活躍してきたクリーチャーたちが次から次へと躍り出て誰彼構わず襲い掛かってくる。
この荒唐無稽な野放し状態が暫く続き、、、こちらとしては、どういう顔して見てればよいのよ、、、である(笑。
いろいろなものが出てきて面白いと言えばそれなりに面白いが。

The Cabin in the Woods002

大概、こういう類のものは、主演と思しき男女ペアが夕日を背に大変だったわね、という感じで生き残ってホッとしてエンディングを迎えるが、、、
これは、女子がひとり生き残り、後は皆死なないと客が怒って地球を滅ぼすという訳の分らぬお約束となっているのだ。
3人まで見事に殺害され、もう一人男が死ねば世界は助かることになっているのだが、二人が取り敢えず残って疲れて座り込んでタバコを吸い始めてしまったため、地球人全員が滅びることになったそうな。
これにすんなり納得できる人がいれば、それなりに楽しめる作品なのかも知れない。
(ホラー映画ファンでなくても)。

The Cabin in the Woods005

しちめんどくさいことするより、各国の科学力を結集して、その太古の妙なものを一気に滅ぼせばよいと思うが、どうせ地球が滅びるくらいなら人類の存亡をかけて一か八かで。なんでまた、それのご機嫌取りの演芸大会みたいなのを世界各国で手分けしてやっているのか、、、素直にみれば(みなくとも)ただ不可思議な映画である。





怖いもの見たさで一度見ても良いかも。怖くはないが(爆。



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奈良原一高

narahara.jpg

奈良原一高はもっとも好きな写真家のひとりで、すでにこのブログで1回、美術専門のブログ”Low”で4回記事にはしている。
主に「消滅した時間」について書いた「奈良原一高
敢えてまた書くのは、日美で観たから(笑。奈良原一高という人に改めて興味を持ったからか。
これまでも彼自身については書いたことはなく、久しぶりに番組を観て気づいたことや想い起したことなども含め書いておきたい(備忘録か)。

軍艦島の写真「人間の土地」でデビューした写真家である。
普通ならそこを撮るとなると、社会派的な報道写真の枠組みで構えてしまう誘惑というか使命みたいな観念に囚われると思う。
土門拳はまさにそういう使命感に燃えた写真家だ。同じ場所を「筑穂の子供たち」で世に出している。
(土門は「生活から遊離した抽象はやり切れない」と奈良原を批判した)。
だが、奈良原はすべての物事をイデオロギーを外して見ようとする。
物事はどのようにも捉え見ることが可能なのだと。
人が物事に接するとき、無意識に自分の内面~体制的先入観を投影して観てしまっていることが多い。
例えば軍艦島に隔離されて働く労働者(とその家族)は悲惨だという政治的固定観念である。
しかし実際の事物はそんな認識枠に留まらない広がりを持つ。
その広がりは宇宙大にもなる。
物事は、もっと美しくてもよいのだ。実際に美しい。そして残酷でもある。

narahara001.png   narahara004.jpg

奈良原のデビュー前の写真に廃墟の軍需工場を撮った「無国籍地」がある。
まさにこれが写真家としての原点であろう。
彼は13歳で終戦を迎え、それまで信じていた国家や親友を喪う。一夜にして日本は民主国家となり梯子を外された。
この虚無感をまさに形象化した写真であったか。
土門の嫌った抽象を強く求めた。
やがて奈良原は芸術写真家として確固たる地位を得る。

narahara002.jpg

その前に、彼は大学時代、一年下に河原温がいた。以前河原についても書いたことがあるが、突出したコンセプチュアルアーティストである。
その彼の才能にいち早く気づき、あの「浴室」を購入していたそうだ。河原温の第一コレクターみたいだ。
やはりこの感性は突き抜けている。
ファッション写真に進出しても、その芸術的意匠は更に磨きがかかり、モデルと環境(背景ではない)が等価で切り離せない関係を成立させている。全体として、ひとつの風景と化しているかのよう。
空間の美学的追求と謂うより、林忠彦の「風景的人物写真」も想い起してしまうが、その抽象化度はかなりのものだ。
そして同い年の詩人、谷川俊太郎の「20億光年の孤独」が好きだという。
とても分かる(笑。
少年時代に経験した終戦時のB29の飛んでいないポッカリ空いた明るい青空の虚無~突き抜けた時空も原体験のひとつに数えられよう。
(その後の写真集にそれが強く感じられる)。

narahara003.jpg

絵画的な構図を極めた芸術写真家として高名になるが、彼自身それに対する違和感が強く芽生えてくる。
ひとつは、美輪明宏の謂うように、帰属意識を持たない(持てない)彼はどのような形でもそれに安住することは出来ない。
常に何からも自由であろうとする。
ヨーロッパに行き、「人間が構築した世界」その連綿と繋がる歴史の重さを体験する。
自分は、終戦を持って、歴史の全てを失ってしまった。
だがそれだからこそ、宇宙的(巨視的)な視線から文明の光景を切り取る作業が出来たという。
アメリカに赴き、他の惑星を見るような視点から多くの州~場所を撮り続ける。
(写真を撮る前は、自分を常に空っぽにするという)。
そしてスペースシャトルの打ち上げに臨み、地上の諸々の事物に深い愛おしさがこみ上げてくるのだった。
それはこれまでの全ての経験からの彼自身の解放でもあった。
「静止した時間」、「消滅した時間」にそれが見事に結実している。

narahara005.jpg

番組で面白いエピソードが語られていた。
ファッション写真を撮っていたころ、森英恵に服飾から自分で全てやりたいと言い、そこまでやることはないとたしなめられたということだ。田淵行男もそういう類の人であったが、優れたクリエーターは自分の作品に関わることは徹底して自作したくなるようだ。
確かに分かる気はするが、、、。


また彼の写真をじっくり眺めたくなった。




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田淵行男

tabuchi.jpg

田淵行男という飛んでもない人を初めて知る。
共感し感動した。
これもまた、日美から(笑。
「まだ見ぬ頂を求めて」という題であったか。まさにその通りであった。
山岳写真に革命を齎した写真家だ。
1940年12月1日未明に彼が息を殺して撮った浅間山からそれは始まる。
(太平洋戦争一年前ではないか)。

tabuchi005.jpg

これまでの全貌を説明的に捉えた単なる記録写真から、部分を切り取ることでディテールからその山の本質を鷲掴みするような芸術的山岳写真を生み出した。記号的に対象を眺めて確認する類のものではなく、息を呑むような緊張感が張り詰める臨場感がそこにはある。恐らく作家がその場所を切り取る瞬間のこころのざわつきの感じられる程のものである。
この抽象画のような浅間の画像は、センセーショナルな話題を呼び多くの議論を引き起こしたという。
彼は学校の先生をしながら山で7000日を過ごしたそうだ。
一枚をものにするために多くの月日を必要としたのだろう。

更に彼は高山蝶の研究家であり、細密素描家であり、「本」の企画・立案・制作をも受け持つ所謂ディレクターか。
博物学的素養を持つ突出したクリエーターでもあった。
ともかく、「山」が好きで多面的に、とことんそれに迫った人であった。
(荒俣宏氏をつい想いうかべてしまう。向こうは魚であるが)。

これもまた、1枚限りの1本勝負である。
冬山にテントを張って待機し、早朝3時にカメラと割れたら終わりのガラス乾板を持って山道を凍えながら分け入って行く。
当時、カメラも重く、ガラス乾板による撮影でもあり、絶好の場所~光を息を殺して待ちそれを切り取るのが撮影であった。
今のように軽量高性能デジタルカメラで幾らでも撮り放題の時代ではない。
「リトレックⅠ」という日本製の寒さに強い一眼レフカメラが愛用機であった。
例の浅間も初冬の初冠雪の光景を狙ったそうだ。
彼の登場で、山の本質を芸術家の目で捉える山岳写真が生まれた。

tabuchi006.jpg

確かに違う。
そして彼自身が編集した、いやもはやディレクターとして最初から最後まで関り作り込んだ写真集は、もうそれ自体が高度なアート作品となっている。
プロの編集者でもここまで拘るのは、松岡正剛氏くらいだろう。
通常、写真家がそれを載せる本自体を自分の思いのままに作ってしまうなんてことがあろうか。
そこまでは到底手が回らないはずだ。
それぞれページ毎に異なるアートワーク、奇抜で斬新なレイアウトなど、読者への伝え方をどの次元まで突き詰めようとしたのか!
彼は写真を撮って後は編集者に丸投げする写真家と異なり、実際の読者にどこまで自分の撮った山の実質を知らせることが出来るかに極限まで拘ったのだ。

とは言え彼自身とても楽しみながら工夫を凝らしている気がする。
感性的な軽みやしなやかさを多分に感じ取れるのだ。
意匠を凝らしてはいるが、楽しく見れるものになっている。
遊び心も旺盛な人であったのではないか。

そして高山蝶の細密画。
博物学を治めた人らしい絵である。
対象に対する「愛」が半端ではない。
幼くして両親を亡くした彼の精神の拠り所でもあるのだ。
雪を纏う高山に惹かれ、寒冷地を求めそこに追いやられた蝶に自分を(運命的にも)重ねたのか、、、
これは肖像画でもあるのか。

tabuchi001.pngtabuchi002.jpgtabuchi003.jpgtabuchi004.jpg

どこまでも高みへ白く光る場所へまだ見ぬ頂へ。

tabuchi007.jpg

好きなこと、好きなもの、惹かれるものに彼は徹底して拘り続けた。
そうして出来上がったものが肌身に感じられるようなスリリングで美しいものであるのは当然だ。




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林忠彦

hayashi tadahiko

「決闘写真」と彼は自らのポートレートを呼んだ。
よく目にする文学者のポートレートは、ほとんどこの人の撮ったものであることを知った。
(画家のものもある)。
一対一の存在を賭けた真剣勝負。
撮るまで、かなり長い時間をかけるという。

晩年は風景写真に移ったそうだ。
しかしそれも尋常な風景ではない。
「風景的人物写真」という(林氏の定義)。
わたしにとって新たな観念だ。
結構、NHKの日曜美術館とコズミックフロントネクストは、勉強になる(バラツキはあるにせよ)。
今回もそこから。


彼にとっては、ポートレートを撮ることは、被写体に決闘を挑む行為であったという。
まさにシャッターを「切る」間を巡る勝負か。
風景を薄暮の頃合いを見て撮るときも、侍みたいな掛け声をかけてシャッターを切っていた。
その絶妙な光の具合。
まさに「光画」というに相応しい。

hayashi tadahiko001

わたしにとっては何と言っても文学者のポートレートであるが、、、
作家それぞれの個性、世界観、ひととなりを見事に捉えているものばかり。
ひとつは太宰治のバーのスツールに胡坐をかき、誰かと談笑しているショットである。
栞にその写真が印刷されていたものを持っていたものだから、本を読み終わるまではそれとなく眺め続け、それを「太宰治」としていつしか馴染んでしまっていた。(それ以前は文庫本のカバーに印刷された如何にもナイーブで内向的な感じの写真であったが)。
ある時、彼は誰と話し込んでいるのかな、と本を閉じる際にふと思ったことがあった。
(その時は、話し相手は多分バーのマスターかなと感じた程度であるが)。
今回の番組で、その答えが知らされるとは夢にも思わなかった(これだけでも番組を観る価値はあった(笑)。
その話し相手とは、何と坂口安吾なのだ(彼はわたしの大好きなサティの「ソクラート」の日本語訳もしてくれている)。
そして、太宰を撮る前に、撮影したのがそのすぐ近くに座っていた織田作之助(「夫婦善哉」の作家)であった。
何というゴージャスなバーだ。この時代を代表する無頼派トリオ?が一堂に会する店とは、、、。まあそういう店だから林忠彦も網を張っていたのだろうが。
こんな機会に勝負をかけない分けにはゆくまい。

hayashi tadahiko002

もうひとつとっても気に入ったのが、その坂口安吾の自室でのポートレートである。
作家は普通、自分の書斎はなかなか見せてくれるものではないという。
余程の人間関係を結ばないとまず無理と言うものだ。
(わたしも友人の書斎はとても興味があり、家にお邪魔すれば無理を言って見せてもらうが)。
その執筆中の安吾の姿は彼の妻でも見ることの出来ないものであったそうだ。
これは快挙である。いくら見ても見飽きないそれは凄まじい混沌とした(エントロピーがピークとなった)部屋だ。
こういうところで、書いていたのだなあ、あの「堕落論」をとか、「桜の森の満開の下」とかを、、、と思うとホントに感慨深い。
実に感慨深い。

hayashi tadahiko003

他にも川端康成のポートレートを徐々に間合いを詰めながら撮って行き、ついに20年間かけて傑作をものにするなど、凄い執念である(粘着気質でもあるか)。面白いのは、谷崎潤一郎にこれで撮影を終わりますと言って、彼が気を抜き素で微笑んだところをすかさず別のカメラで表情を切り取ったという写真も趣深い。そういう騙し討ちも「決闘写真」のひとつに数えられよう。

hayashi tadahiko004

そして晩年の風景に対峙した写真であるが、、、
天候、つまり光の具合や時には雨などに強く拘って、その場を狙ったそうだ。
同じ場所に7回趣き、まさにこの光だ、というところでシャッターを切る。
人はその場にいないが、これまでにそこを通った人々の視界を追体験するような写真というか光画である。
確かにポートレートも顔だけで成り立つものだけでなく、環境ポートレートと呼んでもよい、彼の内面を饒舌に表す周囲の情報を纏ったものが多い。
そこから特定の人を抜き取った形のものが、彼にとっての風景写真=「風景的人物写真」なのだろう。
江戸時代の旅人の記憶を覘くような、、、。

hayashi tadahiko005


この写真家の作品は、これまで知らぬうちに、かなり目にしてきたことに改めて気づく。



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娘の写真の整理

CIMG0872.jpg今回、使えない写真

実は、これに2日タップリかけている。
学校の生活の授業で、これまで撮った写真から5枚くらいをチョイスして休み明けに持っていくそうだ。
やり始めたはよいが正直、これはわたしにとって、大変な作業となっている。
(ブログを書いている暇もない(笑)。
娘たちの写真は、3歳頃は特に、ほぼ毎日ペースで撮っていたことが分かった(疲。
娘たちの写真専用サーバーから一枚一枚見ていくと、面白いことこの上ないが、終わりの全く見えない作業に巻き込まれたことに気づく。

その彼女らの動きがどういう情景~要因でなされたかも収めたいため、少し引き気味の写真が多めである。
動きの顛末がしっかり捉えられたものは、それなりに楽しいものになる。
それは良いのだが時折、親戚がわたしのカメラで彼女らを撮った顔のアップを見たとき、衝撃的な印象を受けたのも事実であった。
顔だけで微細に強度に訴えかけてくる精神的な動きが、確かに見えた。
外面的~運動原理における関係性を超えた微分的表情である。
別に全体を追うことなどないのだ。(これはこれでよいのだが)。
表情一つに雄弁に語られている事柄~事情がある。

この時期は、ひとにとって何もかもが発見である。
目の輝きが違う、、、われわれ大人とは、、、。
目の輝くのは、周りの様々なものがやはりキラキラ輝いているからだ。
(輝けるものがあって、輝ける。輝けるから、輝くものがある。これは同時の関係性にある)。

本当に活き活きしている。
瑞々しい歓びが暖かい波となって伝わってくる。
スタジオアリスで撮った、着物、ドレス、縫いぐるみと一緒に撮った幼い頃のものから、最近のピアノ発表会でのもの、、ホームセンターで鯛焼を頬張るもの公園で豪快に転げ回るもの、何故か川に入ってビチョビチョのもの、顔中ソフトクリームのもの、、、まで様々だ。
普段、直ぐに喧嘩になるが、ふたりで仲良く遊んでいる場面も少なくなかった。
それだけみると、小さなふたりで果敢に旅に出ているような光景に実際、見えてくる。
物語が生成される。
写真とはそういうものだ。
尽く、あらゆる意味を取り込んで物語を生産し続ける表面である。

赤ん坊の時の写真は、また殊の他、感慨深い、、、。
今でもよく覚えているが、次女は生まれたばかりの時は老賢者の顔をしていた。
まさにそういう風格であった。
その後、三日後くらいの間に、全てを最初からやり始めるといった赤ん坊の顔に魔法のようになっていた。
今でも忘れない、とても神秘的な体験である。
ちなみに長女は低出生体重児であったためNICUに入っており、わたしだけが白衣帽子マスクを付けて面会できた。
それは実に特権的立場に思えた。
長女はとても元気に暴れてなき声を精一杯あげていた。
看護師との日記で毎日のやり取りができた。
昨日のことのように覚えている。
今では、長女の方が次女より大きい。

ひとつひとつ丁寧に観てゆくと、こちらもその時の情景が浮かんでくるものが多い。
圧倒的に楽しいことが思い浮かび、吹き出すことも少なくなかったが、妙な事態についても思い出した。
お祭りで、うち(わたしは関与してない)が役員をしているとき、子供神輿をはじめて担ぐ娘たちの勇姿をここぞとばかりに写真に収めようとしていた際、背後で何やら声がする。動いている大事な被写体を追って集中しているさなかの事である。
それどころではない。わたしはやるべきことに集中した。子供神輿の移動距離などほんの僅かなものだ。
今回写真を確認してみると結構良く撮れている。これについては、満足だ。
後で思い返すと、わたしに何者かがしきりに呼びかけているみたいであった。
普通、まさに今真剣にピアノを弾いているひとに向かって話しかけたりするか、、、?
何か用があるなら、こちらの仕事がキッチリ終わってからにしてもらおう。
異常な経験であったが、撮り終えた時には何も見当たらなかった。
下手をすると振り向いているうちに大事なシャッターチャンスを逸するところであるが、わたしはそんなヘマはしない。
(きっとタヌキか何か物怪の間の抜けた仕業であろう)。

写真は音楽と同じように、時間の芸術である。
まさにそう思う。
同じ光景と思っていても、一秒のズレでどれだけ変化したか分からない。
まだ「場」について本質的には解明されていないことが多すぎる。


写真というものは、きっと場とのせめぎあいに、身を置くことなのだ、、、。



昭和記念公園に行く

syouwa001.jpg
娘ふたりが歌を唱っていたら横にやって来たので長女が撮る。通り過ぎた後、グエグエ鳴いていた。音痴だから笑われたんだ、と言うとふたりとも真に受けていた。

セグウェイにトロトロ乗って移動している人が楽しそうであった。
自転車で敢えてここを走るのは何とも言えない。
娘たちとしょっ中、自主的に自転車教室をやっている。
似たようなコースだ。
銀杏並樹は色が黄金色にキラキラしていた。
その先には噴水もあり、そこそこ和めそうだ。

バスと電車でわざわざ来た。(最近わたしの事情で遠出は公共交通機関を使用する)。
殿様仕事の神奈中は、今日も25分予定時間を遅れた。
もはや日本とも思えないが、走らせたい時に自由に走らせているとも聞く。
それくらいのリズムで生きましょう、というキャンペーンなのかも知れないが、真意は掴めていない、、、。


大きな広場に売店、沢山の子供がまとまって遊べる大きな遊具。
確かにいつも行く公園より規模が大きい。
しかし、それくらいなら入場料払って入る程でもない。
やはり、ここはボートだ。
いつも行く公園にボートの池までは無い。
綺麗な池ではないし、広い訳でもないが、ボートに乗ること自体が日常的ではないのだ。
そこに意味が有る。

思いっきり漕いでボートを走らせた。
かなり風が強かった為、流されないよう気をつけて下さいね、と言われワクワクするものがあった。
陸と違って、ハンドルの反応が少し遅れる。
特性は次第に掴めてくるが、まず、漕がなければならない。少し嫌になる。
時折、わたしが疲れた頃を見計らって、最近走るのが速くなった次女が漕ぐ。
面白そうに漕ぐ。それを長女が羨ましそうに眺めている。
syouwa003.jpg
長女が来い来いと呼びかけていたら何故か一匹やってきたので、長女が撮る。

長女は、池から飛び立つ瞬間の鴨を狙って写真に撮る。これは流石に難しい。鯉が勢いよく近づいてくるところを撮る。これは彼らの表情も窺えた。
だが、本当はボート漕ぎをやりたかったらしく、しきりに次女とポジションを代わりたがってきた。
だが、こんな小舟で立ち上がったらたまらない。
もう水は随分冷たい。その前に深緑の水である。
間違っても落ちてこの水を飲む気などしない。
あちこちコーナーを回っていたが、わたしが途中でスマホをやって、自然の流れに任せていた時、岸沿いのモウモウとした枯れ草にボートが捕まってしまった。
ありゃ、動かない(爆。
必死に2人で漕いで脱出したが、ちょっときた冒険気分が味わえまずまずだった。
ハンドル操作に慣れてきたらもう30分経っている。(ちょっと残念だったが、ちょうどよい時間でもあった)。

ソフトクリームのプレミアバニラが、美味しかった。

知り合いのご夫婦とその息子4歳に出逢い、後半一緒に行動したが、その息子がやんちゃでかなりの重量級。
凄いキャラクター(体重無差別級のクレヨンしんちゃん)で、やることなすこと面白かった為、退屈はしなかった。
最後はシャボン玉を飛ばしまくってケラケラ笑いっぱなしで、おわかれした。

広い公園を歩くうちに、銀杏、紅葉、ケヤキと並ぶが、日頃馴染んでいるメタセコイヤもあった。
紅葉のグラデーションが特に見事というほどではなかったが、その先の噴水がちょうど強烈な逆光に映えてほとんど光線の束しか観えないほどのタイミングであったため、これはという瞬間に、娘たちも入れて写真に撮った。

その前に長女の撮ったもの。誰も映っていなくてよかった。
syouwa004.jpg

おやつを買い溜めておいた為、小出しに渡すとかなり喜ばれた。
やはり遠足はおやついかんだな、と思った。









写真についてーⅡ

jyosibinotonari001.jpg
このメタセコイヤたちは愛情たっぷりに撮られている、メタセコイヤの肖像写真みたいだ。
わたしの身体性に地続きの優しいフレーミングでもある。
この向こう側に、メタセコイヤの吐息が聴こえてきそうな彼らに密着したメタセコイヤの道がある。
常に木漏れ日とそよ風が絶えることのない、時折噴水の水しぶきが虹とともにかかるお気に入りの一本径が控える。
事後承諾であるが、この写真と後の写真の二枚、エストリルのクリスマスローズより、転載させて頂いた。

以前、「写真について」の記事で、写真の感情喚起する作用に少し触れた。
写真が説明的、資料的な機能を引き受けたので、絵画はその機能を放棄したという解説が一般的であるが、写真はいつも説明的、資料的以上の何かを語ってきた。
資料的役割に徹しようとしたアッジェが最もその機能を激しく逸脱しているとも言える。
アンドレブルトンもそこに注目した。(流石である)。

恐らく禁欲的な写真ほどリアルな幻想を孕むのかも知れない。
リアルなほど幻想性を増すのは、カフカの小説に如実に見ることができる。
余計な(お節介な)エフェクトがかけられている方が写真の意味が限定され、つまらないものになることは多い。
ただ、その時空を切り取っただけ、と言ってもその人の深い身体性ー現存在が如実に現れてしまうものだ。


jyosibinotonari002.jpg
ところで、自分がよく娘たちとほっつき歩いている日常的な場所が、写真によって一体ここはどこなんだという光景になっている好例である。

透徹した文学的写真である。
青空とメタセコイヤの圧倒的な重みが実に鮮やかだ。

まさか、このなかをわたしが、時折娘たちを叱りつけたりしながら歩いているとは思えない。
普段、周りは知らぬ人ばかりだという前提で歩いているのだが、もし知っている人にそこを見られたら、モグラの穴にでも入りたい気分になるはず。
この写真の部分がクローズアップされると、少しばかり人間的なドラマも見えてくるだろうか。

しかし写真は距離を切り取るものでもある。(それは同時にフレーミングを決めるもの)。
宇宙空間から観た地球にもある意味、これは似ているかもしれない。

この視点から自分の日常を見直してみなさい、と提示されているかのよう。
それは大切なことだ。

わたしにあれこれ言われながら歩く娘たちは、寧ろ微視的な視座をもっているようだ。
芝草の中の細かい虫などをよく見分ける。
その虫の顔をわたしからくすねたルーペで、しげしげ見ていたりする。
娘たちは、漠然と隣にある女子大に行くの、と言っているが、理由を聞くとこの公園で遊べるからと答える。
最初は、子供の考えていることは、、、と思ったが、満更でもない。
大学院を卒業したばかりの作家の展覧会をアートミュージアムで見たら、その人も授業中抜け出してここで虫採りをしていたそうだ。そのためたくさんの作品をものにしている。娘も見習ってもよいのかも?

わたしが一番つまらぬ距離感でものを見ている恐れもある。
写真がよく気になるのもそのためかも知れない。
多様性と言いながらも自分がどれだけ多様な時間を生きられているか、、、。

自分がそのなかを幾度となく行き来している場所の写真を見ることは、とても興味深い。
しみじみ魅入ってしまう。
自分にとっては素敵な資料である。
(地球をまるまる見てみるのもよいが、この距離感も必要である)。



写真について

Gibeon meteorite
4億5千年前に地球に落下した隕石。


片付け仕事は、とりあえず一区切りしたのだが、どうしても見つからないものがある。
古い写真が見つかったのは良いとして、それより新しい写真群が見つからない。
ちゃんとしたカメラで撮り始めた頃のものである。
それらは、敢えてアルバムに入れず、桐箱に入れて何処かに大切に保管したことまでは覚えているのだが、、、。
仕舞い場所が何処なのかが、どうにもはっきりしない。
地中に埋めてないことだけは確かなのだが(笑、一時期の写真群だけスッポリ抜けているのだ。
それが、昨日夕刻から気になり続けて、、、どうにもならない。
薬は飲んでいるため、眠ることは眠れたが、気がかりができてすっきりしない。

やはりこれは、深刻な物忘れなのだろうか。
生活を脅かし始めたら、誰が何を言おうが深刻な事態となる。
今のところ、次女の保険証を失くしたくらいであるから、楽観視はできないが、慌てる程のことでもないような気がしているが、、、。
物忘れは、バカにはできない。
重大な事をごっそり忘れていて、そのこと自体に気づかないで何の問題も感じずいることもあるかも知れない。
コンテクストの片鱗を握っているから、忘れたという意識がまだある。
気になってしょうがない、気持ちがある。
だが最初から最後まできれいに失くしていたら、無い事すら知らない。
無かったことで、良ければ良いような気もしてくるが。

そんな事も実は幾つかあったのではないか、と思う。
それで、支障なく生活できていたなら、それでよい。
家の母親を見れば、忘れることが如何に逞しく生きることに繋がるかがよく分かる。
基本、自分に都合の悪いことを全て海馬や大脳皮質から消去できれば、きっと長生きに繋がるだろう。

しかし、忘れてはいけない事がある。
今の自分を少なからず形成するに至った、暗黒期である少年時代の記憶である。
少年時代とは、ロマンチックに美化されるに値するものとは言い難く、体力、知識、経済においても圧倒的に弱く依存的で抽象的な存在の時期であり、言い換えれば奴隷の時代の記憶に他ならない。
それがよく淡い郷愁に彩られた何か帰るべき世界のように描かかれた作品などを目にすることは多いものだ。
しかし実態としては不可避の暴力に晒され続け、その認識に形を与える言葉を欠如した暗黒時代であり未開の時である。
ここに言葉をあてなおす作業は、ことに触れてしてゆく必要がある。
内省的な(反省的な)知である。
知により、光を当て直さなければならない。
解放のためであり。
反復のために。

写真は大脳に替わる記憶装置としての役目も果たす。
勿論、それは芸術にも展開する路も秘めている上、何より感情を導き出す作用がある。
感情が沸き立たなければ、初めてのことばが生成されない。
差異が生成されない。
新たな反復が望めない。
写真は、その点で優れた装置なのである。
思い出すより遥かに大きな覚醒に路を開く。
その過程で作品も生まれてゆくかも知れない。
(自分だけのものでも良い)。


それが、無性に気になり始めていたのか。



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”Bon voyage.”

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