差別と歴史上の人物
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~教員なんていらねえんだよ。命令ばっかりする人たちだからな~



 今となってはたくさんのことを教えていただき、彼には本当に感謝しています。しかし当時僕を含めた教員たちは苦しい立場でした。


 事実上の上司である木村さん(仮名)から突きつけられたこの一言はきつかったです。偏見と職業差別です。


 僕は長い教員生活の中で、3年間だけ行政職として遺跡の発掘調査員をやったことがあります。


 この時に突きつけられた言葉です。一緒に飲んだ時とはいえ、どうしてこのような差別的な言葉が飛び出してきたのでしょうか。


 平成初期。当時の新潟県の遺跡発掘調査は、学術発掘を除いて教育委員会の仕事として行政職が5人前後のグループを組んで行っていました。


 各遺跡の発掘担当者は、大学在学中に考古学を専攻したプロパーと呼ばれる人たちです。10数人いました。彼らは県内のそれぞれの遺跡に一人ずつ行って事実上の責任者になっています。


 そして5人前後の調査員を指導・指示しながら調査を進めていくわけです。調査員はほとんどが小中高の教員と臨時職員です。


 学生時代に考古学を専攻したり、発掘調査の経験を持つ人は皆無に近い状態でした。つまり、少数のプロパー以外は素人の集まりでした。


 各遺跡の発掘担当者は、一から十まで何もかも教えなければ仕事になりません。僕が行った遺跡も5人のグループでしたが一人のプロパーを除いてあとはみんな素人でした。


 彼はイライラしていたことでしょう。さらに、勤務は1週間単位の出張。毎週月曜日に自宅を出て金曜日の夜まで帰れない、長い不便な旅館住まいでした。


 三度の食事もすべて同じメンバーで。夜は一緒にビールや日本酒を飲むことも多くありました。彼の言葉は本音でしょう。悔しいけれど、誰も言い返すことができませんでした。


 何度も痛い目にあいましたが、教員以外のこの仕事と苦労。今では貴重な体験になっています。


 世界史上には、この職業差別を乗り越えて志を全うしたと考えられる女性がイギリスにいます。看護で有名なフローレンス・ナイチンゲールです。


 「クリミアの天使」「ランプをもった貴婦人」などと呼ばれ、戦争で敵味方関係なく看護にあたった行動は世界中で知られています。


 「看護師にとって負傷した兵隊さんは敵も味方もありません」・・・敵を助けるなと言われたときに言い返したこの言葉には、人間の命を大切にする生き方が鮮明に凝縮されています。


 1853年のクリミア戦争での出来事です。トルコのスクタリ野戦病院では、10人に4人の割合で死亡者が出ていましたが、100人に2人に激減しました。


 戦後には看護学校を設立したり、150点もの著作活動も行いました。後には彼女の精神を理想として1864年、アンリ・デュナンが「赤十字社」を設立して現在に至っています。


 しかし、意外とあまり知られていないのは、ナイチンゲールが職業差別と闘っていたことです。しかも相手は家族です。24歳のときです。


 看護師を志すことを知ったとたん、家族は猛反対しました。当時のイギリスでは看護師の社会的地位がとても低く、大酒飲みの女が売春と兼業していることも少なくありませんでした。


 上流階級の子女にしてみれば、口に出すのもはばかれる職業だったのです。家族は腰を抜かさんばかりに仰天。母親は卒倒し、気付け薬の世話になりました。


 姉は一週間も寝込んでしまうし、父親はショックで家に帰ってこなくなったそうです。これは職業差別であり、差別はする側が不幸になるという典型的な例に当たります。


 ナイチンゲールはこの強烈な職業差別を乗り越えて、自らの決意と志を全うしたのです。どんなに反対されても、一途に看護の勉強と訓練を重ねました。


 33歳、見事に努力が認められました。差別意識から解放された看護師、フローレンス・ナイチンゲールの誕生です。
~先生、お母さんがA高校を受けさせてくれない~



 12月だったでしょうか。夜電話がかかってきて、泣きながらいきなり冒頭の言葉がとびだしてきました。相手は僕が学級担任をしていたC中学校の3年生女子生徒、花子さん(仮名)。


 彼女はA高校を受験したいのですが、母親はB高校を受験しろと言って譲りません。親子ゲンカになってしまったのですね。


 思いあまった花子さんは、担任の自宅にSOSの電話をかけてきたのです。親子で進路希望が一致しない例はよくありますが、この場合は強烈でした。


 互いに一歩も譲らず、すぐに結論が出ることでもありません。後日、本人と保護者、担任の三者面談で話し合うことになりました。翌日の放課後、面談は延々と続きました。


 ここでもなかなか結論が出ません。また後日、2回目の三者面談をすることになりました。両者ともそれぞれ高校を受験する理由を述べるのですが、二人とも曖昧なところがありました。


 当時の本人はA高校、B高校のどちらも合格できそうな学力を持っていたと考えられます。 一般的に見て、合格の難易度は母親が推しているB高校の方が高かったです。


 ここでピンとくる方もいらっしゃるでしょう。母親の本音はここですね。でも、娘さんは相変わらず頑強に引き下がりません。A高、B高ともに試験日が同日です。


 2回目の三者面談も物別れに終わりました。ついに3回目。担任としての僕も悩みました。親子どちらの意見も無視できないからです。あの電話から半月以上もたっているでしょうか。


 期限も迫ってきました。「お母さん、高校に行くのは花子さんですよね」・・・「わかりました」この一言で決まりました。花子さんはA高校を受験し、合格。進学していきました。


 それにしてもこの出来事は何だったのでしょうか。背景にある学歴差別との闘いだったのではないかと今では考えています。


 学歴差別と少し似ていますが、これに近い差別意識から健康を犠牲にしたと考えられる偉人がいます。レオポルト・モーツアルト。あの有名な大作曲家モーツアルトのお父さんです。


 世界の音楽に大きく貢献しました。子どもは姉のナンネルと弟のウォルフガングという二人の天才音楽家を育てあげました。しかし、レオポルトの寿命はわずか35歳。


 子どもは7人いましたが、成人したのは上記の二人だけ。妻のアンナはレオポルトより先に病死しています。この短命な家族にいったい何があったのでしょうか。


 レオポルトは作曲家、ヴァイオリニスト、音楽理論家として活躍しています。音楽教育を目的とした、通称「ナンネルの楽譜帳」は、世界中で高く評価されています。


 彼の夢は、大都市の宮廷楽長になることでした。当時の音楽家では、最高の栄誉であり最高の地位だったのです。


 しかし、1763年に副楽長にまではなることができましたが、その後終生楽長になることはできませんでした。


 このストレスは、幼い子どもたち2人を次々に演奏旅行に連れていき、ハードな旅行に明け暮れる原因の一つにもなったのです。


 ウィーン、ミュンヘン、パリ、ロンドン、オランダ、イタリアなど、過酷な日程でした。途中でレオポルトは病で倒れ、ナンネルもウォルフガングも倒れています。


 パリでは、妻アンナが病死してしまいました。それでも演奏旅行はやめません。さらにウォルフガングの結婚にも反対しています。「天才の息子には名家の嫁を」という考えからです。


 ウォルフガングは父親の強烈な反対にも屈せず、この結婚は結局成立しました。レオポルトは、地位と名誉を徹底して重んじる生き方で健康を犠牲にしました。


 背景にある差別意識からもう少し解放されていれば、もっと豊かな人生になっていたのではないでしょうか。
~「まだ早い、集落のことについてはオレの方が先生だ」~



 年配の田辺さん(仮名)から見下されて、いきなり突きつけられた言葉です。歓迎されると思っていたのに、これには少しショックでした。


 僕が居住している集落は、わずか30数軒という小規模で閉鎖的なところもあります。集落全体を対象とした自治会は存在しますが、そのほか任意入会の有志の団体がいくつか存在します。


 僕が入会した田辺会(仮名)はその中の一つでした。お祭りでお神輿を出したり、草刈作業をしたり集落にある程度貢献しています。会員は20名前後。多いときは30名に近いときもありました。


 集落の規模から見れば入会しているのが当然と受け取られる団体です。20歳~60歳くらいまでの男性たちの親睦団体です。職業は様々。兼業農家が多かったです。


 教員という職業は僕一人でした。今の住居に引っ越してきたときに近所の方から誘われ、他の皆さんとも仲良くしたかったので入会しました。多くの会員は歓迎してくれました。


 でも、当時会長だった田辺さんの発言が冒頭の一言です。社会的身分差別ですね。新入会員に対してこの一言です。幸い入会はできましたが、もっと別の言い方があったのではないでしょうか。


 彼はこの会の創始者で初代会長。確かに集落の歴史に詳しく、誇りを持っていました。僕も勉強になりましたが、彼を中心にして囲む一種の派閥に近い状態でした。


 ところが彼が引退した途端、会員は誰も相手にしなくなりました。人望がなかったのですね。彼が提案した、集落の歴史についての講義の実施も却下されました。


 楽しいことが半分、苦しいことも半分。毎月のように集落の公会堂で楽しく飲みました。旅行にも行きました。その反面いやな仕事を押し付けられ、僕を含め若い会員がいじめられたことも何回かありました。


 問題もありましたが、総合的には良いことのほうが多かったです。日本史上の人物で、この差別をする側とされる側の両方に立つことになったと考えられる有名人がいます。


 自由民権運動で知られる板垣退助です。その昔、百円札の肖像にもなっていました。彼が主張した征韓論は、朝鮮を武力で従わせようとするものです。


 隣国の人々を上から目線で見下し、差別をする側に立っています。さすがに過激な主張で、当時の明治政府でも受け入れられませんでした。結局彼は参議をやめて土佐に下野することになりました。


 しかし、この明治政府は薩摩、長州出身者を中心とする一部の人たちによる藩閥政治をしていました。憲法もなく専制政治だと批判されていたのです。


 土佐藩出身の板垣にとって、薩摩、長州出身者に強力な発言権がある政府の居心地は、はたして良かったのでしょうか。もしかしたら被差別の立場に立たされていたのかもしれません。


 であれば、本人にしかわかりませんが、参議をやめてさっさと下野したことにもつながり、説明がつくとも考えられます。


 でもこのことは、かえって板垣が冷静に考えて自由に活動できるきっかけになりました。土佐で立志社を立ち上げて自由民権運動が本格的に始まりました。


 その後、愛国社、国会期成同盟へと発展し、機関紙「自由新聞」の発行や全国遊説も行っています。1882年、遊説途中の岐阜では暴漢に襲われてしまいました。


 突然、胸と右手を7か所刺されて、無残な血まみれの姿になりました。ここでも板垣は被差別の立場に立たされていたのでしょうか。


 本人は「痛い、痛い」とうめいていましたが、マスコミが味方します。「板垣死すとも自由は死せず」という名言になって報道されました。


 痛い目にあいながらも、人間の自由と平等を国民全体とともに勝ち取ろうとした行動。彼こそ日本史上なくてはならない人物だと思います。
~教頭が部下を連れて校長宅へ初詣で~



 2回ありました。新年会という名の典型的なおべっかの会ですね。Ⅾ中学校に勤務していたときのことです。冬休み中の1月早々、教頭から声がかかりました。


 「校長の家へ行こうぜ」・・・僕を含めて5~6人の教諭が誘われました。冬休み中のお正月です。教頭には日頃からお世話になっていたので、正装してお付き合いをすることにしました。


 結構楽しく飲むことができました。でも今から思えば、あれは社会的身分差別による正月の「お仕事」だったと思います。


 僕たち一行を自宅で迎える校長の立場に立てば、部下たちに囲まれて気分が良かったのでしょう。奥さんも含めて、終始ニコニコと対応してくれました。


 これが全員対等の仲間たちであれば、本音で心から楽しめるのですが。残念ながら、このメンバーが対等でないことは一目瞭然です。


 「上から目線で見下されたな」と感じる場面もありました。新潟県では、このようなメンバーで行われる「新年会」が結構あちらこちらの学校で行われています。後から分かったことがあります。


 この会に参加したメンバーは、数年後に教頭は校長に、教諭たちは教頭になりました。さらにその数年後には校長になっています。ならなかったのは僕だけです。


 つまり、こういうことです。○○会という研修団体という名の「派閥」の出世ルートになっていたのですね。幸運なことにこの2回以後、このような「新年会」に参加する機会はありませんでした。


 本音で語り合える対等の人間関係のほうが、もっと楽しいからです。日本でいう飛鳥時代の中国には、この社会的身分差別と闘って、堂々と乗り越えた人物がいます。


 唐の玄奘(げんじょう)です。孫悟空で有名な「西遊記」に登場する三蔵法師のモデルになった人ですね。


 彼は少年時代から、一度講義を受けるとたちまちその内容を理解したといわれるほどの天才児でした。


 しかし修行を続けていくうちに、中国語に訳されていた仏教の経典が正確ではないということに気がつきました。仏教の原典に接することが必要です。


 これを実行するためには天竺(てんじく)つまり現在のインドに行くしかありません。気の遠くなるような熱い砂漠や、凍るような寒くて険しい山脈が待っています。


 命がけの旅となるでしょう。玄奘は死を覚悟して、仏教の正しい経典を持ち帰るために皇帝にこの旅を申し出ました。当時の皇帝は唐の2代目、太宗・李世民(たいそう・りせいみん)です。


 彼は若い僧である玄奘を見下します。国禁ということで、玄奘の願いを認めませんでした。それでもあきらめずに突っ張ります。


 「町や制度や軍隊を形だけ整えてもだめです。人々の心に正しい仏教の教えを広めてこそ、国はゆるがなくなります」


 「正しい仏教を知れば皇帝陛下(李世民)のお心も静まり、それを受けて国も平和になるでしょう」


 頑強に粘りましたが、皇帝は何を言われても社会的身分差別による権力で玄奘をねじ伏せ、旅を許可しませんでした。何よりも皇帝の権威の方が優先だったと考えられます。


 最後の手段は「密出国」です。629年、唐の追手からのがれながら、ひそかに旅立ちました。途中での散々な困難を乗り越えて、17年後に帰国することができたのです。


 さすがの太宗も感動し、国禁を破った玄奘をあたたかく迎えました。そして「私と唐の国を救ってくれ」という意外な言葉を投げかけています。太宗にも罪の意識があったのでしょう。


 実は、彼は兄と弟の二人を殺害して皇帝の地位に就いていたのです。自分自身の差別心に気づいていたのかもしれません。


 心の解放です。玄奘の発言には説得力があり、強く響いていたことでしょう。