差別と歴史上の人物
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~賞状伝達。生徒をステージ下に降壇させてから礼~



 僕が平成初期に勤めていたⅮ中学校では、全校朝会のときに珍しい風景が見られました。


 新潟県の多くの小中高では、賞状伝達のときには礼をしながらステージ上で校長から賞状等を受け取ります。そしてその場で回れ右をして、全校生徒にも礼をして降壇します。


 ところが、回れ右をさせない校長が山田さん(仮名)でした。左向け左です。生徒たちはそのまま左から降壇して下のフロアーへ行き、前面中央に移動して礼。


 このときにやっと拍手が起こるのです。校長はステージ上の高い場所からこの様子を満足げに見下ろして眺めていました。


 新潟県は雪国で寒いので、全校朝会はほとんど学校の体育館で行われます。よく見ると、ステージに向かって右の端にも珍しい風景が見えました。


 校長講話の間じゅう、教頭が一生懸命メモを取っているのです。山田さんが校長のときは、いつもこの2つの珍しい風景が見られました。


 同じⅮ中学校でも、他の別な人たちが校長のときにはこのような風景は一切見られませんでした。この2つの事例にはある共通点が考えられます。


 わかりやすく簡単に言えば「学校で一番偉いのは校長だ」という主張が形を変えて現れた結果でしょう。受賞者がステージ上で全校生徒に礼をすれば、校長にお尻を向けることになります。


 これが失礼に当たるというのでしょうか。ちなみに教頭は、毎回全校朝会が終わると校長室に呼ばれ、山田さんが全校生徒に何を話したのか、尋問されるのだそうです。


 答えられなければ、もちろん叱られるわけですね。背景には、上から目線による社会的身分差別があると考えられます。


 教頭だけでなく、僕を含めた他の一般職員も、よく校長室に呼ばれて説教されました。ネチネチと長かったのをよく覚えています。


 「学校は校長のためにある」・・・これは山田さんの勘違いです。このため、多くの教職員が犠牲になりました。学校は生徒のためにあるのですね。


 ちなみに山田さんは、翌年別の学校に左遷されました。一件落着です。


 17世紀のオスマン帝国に、この社会的身分差別による加害と被害の両方を同時に体験した人物がいます。狂人皇帝と呼ばれたイブラヒム1世です。


 彼が25歳で即位した当初は、慈悲深く貧しい人々を助けることに努めたといわれています。


 しかし、宮殿内には皇帝殺害の陰謀がはびこっていたので不安におびえ、やがて神経衰弱で精神を病んでしまいました。兄のムラト4世からも命をねらわれたことがありました。


 スルタンの地位をめぐる争いが絶えません。


 イブラヒム1世は多くの宝石をプールに放り込んでは、ハーレムの女たちが水中で拾い合う様子を眺めて悦に入ったり、1日に24人の女性と性行為に及びました。


 また、宮殿の東屋から、外の道行く人々に矢を射かけて興じたりもしました。そして1648年、ハーレムにいた女性たち280人を袋詰めにして、ボスポラス海峡に投げ込みました。


 目を覆いたくなる恐るべき光景が浮かびます。即位後8年、最後は刑吏の一人に絹ひもで殺害されてしまいました。社会的身分差別による権力の乱用であることは明白です。


 この背景には母親の存在が考えられます。このときの実質上の権力者は、イブラヒムの母親と宰相だったのです。


 女の園であるハーレムは厳しく序列化されていて、スルタン(皇帝)の寝室へ誘われるのは、母親が選んだ娘たちだけでした。


 そしてその娘に妊娠の兆候がなければ、二度とスルタンに会うことはできませんでした。夜ごとに娘が変わればそれだけ一人の娘に思いをかけることがなくなります。


 つまり、母親の絶対的な権力が安泰になるということですね。スルタンも女性たちもこの母親の犠牲者です。二度とあってはならない人権侵害の嵐で、反面教師として学べる出来事ですね。
~誰も読まない自費出版の本を売りさばかさせる退職校長~



 「大川原さん、本1冊買ってくれんかのう?」・・・「えっ?どれですか」・・・そこには本を十数冊抱えた教頭が立っていました。


 僕が平成初期に勤めていたⅮ中学校の男子更衣室での出来事です。


 本の題名は「これからの○○教育」。教員向けのものでしょう。手に取って少しページをめくってみました。著者名を見てピンときました。僕も知っていた退職校長の名前だったからです。


 「わかりました。買います」と言って1,000円を払いました。でも僕が購入した理由は読みたいからではありません。教頭が切なそうにしていたからです。


 日頃からお世話になっている彼を、少しでも助けることができたらいいなと思ったからです。つまり、こういうことです。著者の退職校長が、自費出版で数百万円使って本を作った。


 しかし、出版社からは数百冊の自分の本を自分で買わなければなりません。経済的にも困るし、家に同じ本をそんなにたくさん持っていても仕方がありません。だから売りに出したのです。


 教頭は万単位のお金を出して、20冊前後買わされていたのでしょう。他校でも同じような目にあった教頭たちが何人もいたと想像されます。案の定、あまり面白くない本でした。


 最初の数ページだけ読み、あとはゴミにしてしまいました。その後、同じようにこの本を買わされた職員たちの間では、話題にもなりませんでした。みんなあきれていたのです。


 結論は誰も読まない自己満足の本を、半強制的に買わされてしまい、大量のゴミと化したということです。なぜ、このような「1,000円事件」が起こったのでしょうか。


 直接の原因は、研修団体という名の教員「派閥」です。著者は新潟県のA派閥の元トップでした。退職後も大きな人事権を実質上握っていました。言わば「黒幕」ですね。


 彼に頼まれれば、同じ派閥の管理職たちはいやとは言えません。自分たちの異動や出世に影響するからです。理不尽とわかっていても、協力せざるを得ません。


 背景には社会的身分差別による上から目線があることは明白です。奈良時代の日本で、この社会的身分差別を乗り越えて一般民衆とともに生きた僧侶がいます。


 行基です。この時代の多くの僧侶たちはほとんどお寺から出ず、朝廷という国家権力によって厳重に管理されていました。


 仏教そのものも学問的で、彼らは寺院の中でお経をとなえ、朝廷における自分の地位の出世のことばかり考えていました。だから一般民衆とは別世界の状態にあったといえます。


 身分差別は支配のための道具であったわけです。でも行基はちがいます。積極的に寺を出て、仏教を民衆に説いてまわりました。


 奈良時代の国民構成は、一部の豊かな人々と大多数の貧しい農民という矛盾したものになっていました。


 重税に次ぐ重税、過酷な肉体労働を強制され、過労死や流浪者、逃亡者、野たれ死にする者が後を絶ちませんでした。


 行基は寝泊り所を作ったり、川を渡るための橋、船も設置して民衆のために尽くしました。彼の説法には少ない時でも1,000人、多い時には10,000人も集まりました。


 この様子を見た藤原不比等(ふひと)を始めとする朝廷の役人たちは、危機意識を持ち、行基の布教を禁止しました。権力による弾圧です。


 「都がだめなら山の中でもムラででも布教は続けるんだ」彼は決して屈しませんでした。後にこの努力は報われます。聖武天皇が彼を認めたのです。


 有名な東大寺の大仏作りに、民衆とともに生きている行基の協力を依頼したのでした。沢山の人々と大仏づくりに熱中しましたが、彼はついに完成を見ることができませんでした。


 途中で病死してしまったからです。こみ上げるような無念を覚えるのは僕だけでしょうか。
~「第11代校長○○」・・・退職後に自分を囲む会を半強制~



 「第〇代はいらんだろう・・・」職員たちの声です。僕も違和感を覚えました。多くの学校の式典では校長挨拶があります。


 挨拶の最後のところで、普通自分の名前の前に職名はつけても「第〇代」はつけません。中山さん(仮名)はあえて意気揚々と大きな声でこれをつけたのです。


 僕が過去に勤めていたC中学校の、第何十周年か忘れましたが記念式典での出来事でした。たった一言ですが、これには何かの意識が凝縮されていたのではないでしょうか。


 僕が今までに勤めた新潟県の中学校に当然のように飾られているものがあります。校長室に額に入れた歴代校長の写真を、高々と並べてまるで賞状のように飾られているのです。


 初代○○、2代目○○・・・といった具合です。10か校近く勤めましたが、これがなかったのはE中学校ただ一つだけでした。だから、E中学校の校長室はとても新鮮に感じました。


 他の都道府県ではどうなのでしょうか。僕にはわかりませんが、可能なら事実を知りたいと思います。 中山さんは教職員のリーダーとしては優れた指導力を持っていたと思います。


 ただ、生徒指導には自信過剰なところもありました。よく問題行動を起こした生徒を校長室に呼んで説教していました。


 大きな怒鳴り声が職員室にまで響き渡り、教職員の方がビビッてしまうことが何度もありました。その腹いせでしょう。校長室に石を投げ込まれ、ガラスを割られてしまったこともありました。


 退職後には彼を「囲む会」が開催されました。これもよくあることです。しかし、半強制的に幹事にさせられた教員のボヤキが聞こえてきました。


 「あの人、自分のことよっぽど大物だと思っているんだね」・・・社会的身分差別の意識がなせる技なのでしょう。


 僕も恩があったので参加しましたが、形はあっても中身が乏しいなと感じてしまいました。


 この形と中身でピンとくる人物が日本の安土桃山時代にいます。室町幕府の第15代将軍足利義昭です。将軍にはなったけれど、その中身はどうだったでしょうか。


 織田信長の天下布武に利用され、権力争いに明け暮れしていたのではないでしょうか。社会的身分差別の意識から将軍ほど偉いものはないと考えていたようです。


 上から目線で、信長に副将軍か管領になれと誘っています。別な言い方をすれば自分の正式な部下になれということですね。信長がノーの返事をしたことは言うまでもありません。


 後に義昭と信長は敵対し、結局室町幕府は滅ぼされてしまいました。京都を追放されましたが、それでも将軍をやめようとはしません。


 「将軍の方が上だ」「将軍に従え」という意識がなかなかぬけなかったのです。中国地方の大大名、毛利を頼って逃げ延びました。謀略を尽くして、足利再興をねらったのです。


 あちらこちらの大名にもたくさんの手紙を書いていて 「お手紙将軍」とも呼ばれていました。本能寺の変で信長が倒れたのはこのころです。


 広く知られている通り、信長の部下だった豊臣秀吉が天下人になります。秀吉は、義昭を山城の国の槇島というところに一万石の大名に取り立てました。


 しかし、これは秀吉の作戦でしょう。結局、朝鮮侵略として有名な文禄の役に出陣させられました。将軍になる前は僧だったのですが、その後再び出家してあっけなく病死しました。


 信長に続いて、またしても利用されたのですね。信長の部下だった男に仕えるということも、義昭にとっては大きな心労で、プライドが許さないといったところでしょうか。


 実力が伴わず、社会的地位という身分にこだわったために飾り物されてしまいました。この事例も、「差別はする側が不幸になる」という出来事の一つと考えられるのではないでしょうか。
~教育集会所での研修後・・・「そんなこと言ったって・・・」~



 教育集会所というのは、僕が勤めていたC中学校の学区内にあります。被差別部落の人々が、集会所として使用していた公会堂の名称です。


 同和教育の職員研修として被差別部落に足を運びました。当事者の方々から、直接部落問題を差別の現実から学ぼうとしたのです。フィールドワークもやって、驚くことばかりでした。


 差別は今でも厳然として存在することにやっと気づいたのです。文部省の指定研究もあったので、みんな熱心に研修に参加していました。


 ところが研修後、神山さん(仮名)という年配の職員が発した言葉が、上記の「そんなこと言ったって・・・」でした。どういう意味でしょうか。簡単に言うと次のようになります。


 「被差別部落には問題がある。だから差別されるのだ。こんな研修はしたって無駄だ。ねえ大川原さん、そうだろう?」・・・予期もしない突然の同意を求める発言に少し驚きました。


 正直言って、当時の僕もまだ疑問がいくつかあり、心が揺れている部分があったことも事実です。普段の神山さんは、生徒に対する指導がいつも適格で、しっかりした教員だと思っていました。


 マナーも礼儀正しく、職務を丁寧にこなす紳士的な人でもありました。僕のような未熟者は足元にも及ばない方でした。ある意味では尊敬に値する人物です。


 でもこの瞬間に、見方を変えざるを得なくなりました。同和教育研修を頭から否定するガチガチの差別者であることが判明したからです。僕は戸惑いながらも笑ってごまかし、相手にしませんでした。


 そういえば彼はよく雑談の中で、家柄の話をすることが多々あったことを覚えています。その後の彼は思ったほど長生きせず、数年後に病気で亡くなりました。


 その事実を偶然知った僕の感想は、残念ながら以下の通りです。・・・「ああ、これで差別者が一人減った」


 世界史上には部落差別と少し似た、出身や社会的地位による差別をしていたと考えられる人物がたくさんいます。


 オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の母親であるゾフィー大公妃はその一人と考えられます。


 まず、息子フランツの結婚相手は自分の出身地バイエルン王国の実家から長女ヘレーネを嫁がせようとして引き合わせました。


 ところがフランツは彼女に興味を示さず、意外にも一緒に来ていた妹に夢中になってしまいました。ゾフィーは猛反対しました。それまで一度も母親に逆らったことがなかった息子が従いませんでした。


 「自分の結婚相手は自分で決める」・・・皇妃エリザベートの誕生です。その美貌と自由な行動で世界的に有名ですね。オーストリア皇帝は名門ハプスブルク家。


 ゾフィーは言葉遣いや歩き方、お辞儀の仕方、箸の上げ下ろしまで、日常生活の細部に干渉して、少しでも違反すれば厳しく叱責しました。


 あげくの果てに、エリザベートから生まれた赤ん坊まで取り上げて、勝手に自分と同じ名前「ゾフィー」 と名付けたのです。やがて、エリザベートはウイーンの宮廷を去ることになりました。


 次男のマクシミリアンは、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟です。フランスのナポレオン3世に誘われて、メキシコの皇帝になろうとしました。母親であるゾフィーはまたしても猛反対。


 しかし、反対を押し切ってメキシコの皇帝になりました。しかし間もなく、不幸にもメキシコ国民から銃殺されてしまいました。


 その後、ゾフィーは人が変わったように陰鬱になり、わずか2年後に愛息の後を追うようになくなりました。名門ハプスブルク家の皇帝の母親なのに残念な晩年ですね。


 彼女が差別意識から解放されていたならば、もっと豊かな人生を送ることができたと考えるのは僕だけでしょうか。