『溺れるナイフ』 「遠くへ行きたい」という願いを叶えてくれる人
『おとぎ話みたい』『5つ数えれば君の夢』などの山戸結希監督の最新作。
原作はジョージ朝倉の同名マンガ。
東京でモデルの仕事をしていた望月夏芽(小松菜奈)は、親の都合で田舎の家に引っ越すことになる。夏芽たちを歓迎する集まりの退屈さに家を出た夏芽は、立入禁止の海に入り込んでいくと、そこで長谷川航一朗(菅田将暉)と出会う。
観てきた人の感想を見ると、この作品はあまり評判がよくない。というのは人気マンガの原作の映画化ということで原作ファンから嫌われてしまったということもあるのだろうし、登場人物の見た目のイメージが10代の青春ラブストーリーなのに、中身はそれとはかけ離れていたからかもしれない。
私自身は原作マンガを読んでいないので原作との違いはわからないけれど、映画を観る限りこの作品の主人公・航一朗のキャラクターは明らかに『火まつり』(柳町光男監督)で北大路欣也が演じた達男の造形を受け継いでいる。どちらの作品も火祭りが重要なモチーフになっていることも共通しているし、『火まつり』の達男が神様のことを親しみを込め“神さん”と呼ぶように、『溺れるナイフ』の航一朗も“神さん”と呼ぶ。達男が神様にかわいがられタブーを恐れることがないように、航一朗も「この町のモンは、全部俺の好きにしてええんじゃ」と豪語し傍若無人に振舞う。
それから『溺れるナイフ』の登場人物の「広能」とか「大友」のように『仁義なき戦い』シリーズから採られたかのような名前だし、その方言は広島弁っぽい。『火まつり』とか『仁義なき戦い』あたりに影響を受けた原作者が書いた物語だとすれば、そんな甘ったるいラブストーリーになるはずもないのかもしれない。
夏芽は航一朗に出会った途端に彼に惹かれることになるわけだけれど、そこに介在しているのは恋愛の要素ばかりではない。のちに夏芽は航一朗の気を惹くために写真集や映画の仕事をしてみたりもすることになるけれど、夏芽の心の奥底には広能晶吾(志磨遼平)という写真家が指摘するような「遠くへ行きたい」という願いがある。夏芽が航一朗に惹かれるのも、夏芽にとって彼は最も遠くへ連れてってくれることを感じさせる存在だったからだろう。
立入禁止の海で初めて航一朗と出会った場面(ここではほかの場面の青い海と違って、限りなく真っ黒な海が広がっているのが印象に残る)。夏芽は鳥居を潜って神様の住む聖域へと入り込んでいく。鳥居の先は異界である。この世ならぬ場所で、この世ならぬ存在(航一朗)に出会ったからこそ、夏芽は「遠くへ行きたい」という願いを叶えてくれる何かを航一朗に感じて一瞬で恋に落ちる。
夏芽にとってそれは恋であると同時に戦いでもある。航一朗に負けるようでは遠くには行けないだろうし、航一朗と一緒にさらに「遠くへ行きたい」という気持ちも感じている。そんなアンビバレントな感情なのであって、よくあるラブストーリーとはちょっと毛色が違う作品なのだと思う。
山戸結希監督の作品は『おとぎ話みたい』の自意識過剰なモノローグとか『5つ数えれば君の夢』の10代の女の子が絶対に言いそうにない小難しい台詞が印象的だった。この作品では山戸監督独自の饒舌な台詞はタイトルバックくらいで抑えられ、長回しで役者を追い続け1回限りでやり直しのきかない青春の瞬間を捉えることを狙っている。だから役者のアドリブのたどたどしい感じが伝わってくるし、台詞をとちってもそれがそのまま使われている。大友(重岡大毅)が体調を崩した夏芽を見舞ったときのやりとりなどはどこまで決められていたものなのかはわからないけれど、やっているうちに意図せざるものが撮れてしまったみたいに思わせる一瞬のキスなどちょっとドキッとする。
ラストの二度目の火祭りのエピソードは、現実ではなくて夏芽の出演した映画のもの。そんなふうに原作を読んでいない者としては解釈した。ある出来事で全能感を失うこととなったふたりだが、夏芽は自分の過去をモデルにした映画に出演することで、過去の呪縛から逃れることになる。航一朗は航一朗で神様への舞を一心不乱に踊ることで吹っ切れていたようにも思える。
原作マンガでは二度目のことも現実として描かれているようで、このあたりは原作を圧縮しすぎている感じがしないでもないし、劇中音楽の選曲には首をかしげる部分があるのだけれど、それでも原作ファン以外なら楽しめる部分は多いと思う。
原作はジョージ朝倉の同名マンガ。
東京でモデルの仕事をしていた望月夏芽(小松菜奈)は、親の都合で田舎の家に引っ越すことになる。夏芽たちを歓迎する集まりの退屈さに家を出た夏芽は、立入禁止の海に入り込んでいくと、そこで長谷川航一朗(菅田将暉)と出会う。
観てきた人の感想を見ると、この作品はあまり評判がよくない。というのは人気マンガの原作の映画化ということで原作ファンから嫌われてしまったということもあるのだろうし、登場人物の見た目のイメージが10代の青春ラブストーリーなのに、中身はそれとはかけ離れていたからかもしれない。
私自身は原作マンガを読んでいないので原作との違いはわからないけれど、映画を観る限りこの作品の主人公・航一朗のキャラクターは明らかに『火まつり』(柳町光男監督)で北大路欣也が演じた達男の造形を受け継いでいる。どちらの作品も火祭りが重要なモチーフになっていることも共通しているし、『火まつり』の達男が神様のことを親しみを込め“神さん”と呼ぶように、『溺れるナイフ』の航一朗も“神さん”と呼ぶ。達男が神様にかわいがられタブーを恐れることがないように、航一朗も「この町のモンは、全部俺の好きにしてええんじゃ」と豪語し傍若無人に振舞う。
それから『溺れるナイフ』の登場人物の「広能」とか「大友」のように『仁義なき戦い』シリーズから採られたかのような名前だし、その方言は広島弁っぽい。『火まつり』とか『仁義なき戦い』あたりに影響を受けた原作者が書いた物語だとすれば、そんな甘ったるいラブストーリーになるはずもないのかもしれない。
夏芽は航一朗に出会った途端に彼に惹かれることになるわけだけれど、そこに介在しているのは恋愛の要素ばかりではない。のちに夏芽は航一朗の気を惹くために写真集や映画の仕事をしてみたりもすることになるけれど、夏芽の心の奥底には広能晶吾(志磨遼平)という写真家が指摘するような「遠くへ行きたい」という願いがある。夏芽が航一朗に惹かれるのも、夏芽にとって彼は最も遠くへ連れてってくれることを感じさせる存在だったからだろう。
立入禁止の海で初めて航一朗と出会った場面(ここではほかの場面の青い海と違って、限りなく真っ黒な海が広がっているのが印象に残る)。夏芽は鳥居を潜って神様の住む聖域へと入り込んでいく。鳥居の先は異界である。この世ならぬ場所で、この世ならぬ存在(航一朗)に出会ったからこそ、夏芽は「遠くへ行きたい」という願いを叶えてくれる何かを航一朗に感じて一瞬で恋に落ちる。
夏芽にとってそれは恋であると同時に戦いでもある。航一朗に負けるようでは遠くには行けないだろうし、航一朗と一緒にさらに「遠くへ行きたい」という気持ちも感じている。そんなアンビバレントな感情なのであって、よくあるラブストーリーとはちょっと毛色が違う作品なのだと思う。
山戸結希監督の作品は『おとぎ話みたい』の自意識過剰なモノローグとか『5つ数えれば君の夢』の10代の女の子が絶対に言いそうにない小難しい台詞が印象的だった。この作品では山戸監督独自の饒舌な台詞はタイトルバックくらいで抑えられ、長回しで役者を追い続け1回限りでやり直しのきかない青春の瞬間を捉えることを狙っている。だから役者のアドリブのたどたどしい感じが伝わってくるし、台詞をとちってもそれがそのまま使われている。大友(重岡大毅)が体調を崩した夏芽を見舞ったときのやりとりなどはどこまで決められていたものなのかはわからないけれど、やっているうちに意図せざるものが撮れてしまったみたいに思わせる一瞬のキスなどちょっとドキッとする。
ラストの二度目の火祭りのエピソードは、現実ではなくて夏芽の出演した映画のもの。そんなふうに原作を読んでいない者としては解釈した。ある出来事で全能感を失うこととなったふたりだが、夏芽は自分の過去をモデルにした映画に出演することで、過去の呪縛から逃れることになる。航一朗は航一朗で神様への舞を一心不乱に踊ることで吹っ切れていたようにも思える。
原作マンガでは二度目のことも現実として描かれているようで、このあたりは原作を圧縮しすぎている感じがしないでもないし、劇中音楽の選曲には首をかしげる部分があるのだけれど、それでも原作ファン以外なら楽しめる部分は多いと思う。
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