『ニンフォマニアックVol. 1』 ラース・フォン・トリアーの悪い冗談?
ラース・フォン・トリアー監督の最新作。今回公開となったVol. 1に引き続き、来月にはVol. 2が控えている。全8章の物語で、Vol. 1は第5章まで。「ニンフォマニアック」とは“色情狂”のこと。
出演はシャルロット・ゲンズブール、ステラン・スカルスガルド、ステイシー・マーティン、シャイア・ラブーフなど。
物語の語り手であるジョー(シャルロット・ゲンスブール)は、ある夜、狭い街路で倒れているところをセリグマン(ステラン・スカルスガルド)という初老の男に助けられる。セリグマンはジョーを介抱し、ようやく話をできる程度に回復したジョーは、自身のこれまでについて語り始める。
ジョーは性的なものに囚われている女性だ。幼いころにそれに気づき、女友達と一緒に快楽なのかよくわからない性的遍歴を重ねていく。性的遍歴と記したが、第1章から第5章までのVol. 1では、第2章「ジェローム」では愛について語られたり、第4章「せん妄」では父親の死が描かれたりもする。そして、第3章「H夫人」では、H氏とその夫人(ユマ・サーマン)と別のセックスフレンドまで交えた修羅場が、喜劇として描かれる。そんな意味でこの映画はジョーの半生そのものを辿っている。
性的遍歴という言葉が一番適しているのは、第1章「釣魚大全」である。幼いころの他愛ない性的な遊びから始まり、ジェローム(シャイア・ラブーフ)との素っ気ない処女喪失を経て、旅客車での男漁りの旅が描かれる。(*1)そうした遍歴を「釣魚大全」と名づけるのは聞き手のセリグマンである。プレイボーイのことを漁色家などと言うように、ジョーがやっていることは多くの魚(=男)を獲得することだからだ。聞き手のセリグマンはこんなふうに博識でもってジョーの体験を解釈していく。
聞き手であるセリグマンは神を信じないユダヤ人である。道端に倒れているジョーを助け、話を聞いてやる親切な人物ではあるが、その告白が彼女にとっては罪の告白と同じであるにも関わらず、「罪の意識なんて共感できないものをなぜ持ち出すのか?」といった具合で、教会での懺悔とはちょっと異なる。そんなのは文学の世界にはありふれていると挑発するようでもある。
実はセリグマンはおもしろがっているのだ。語り手のジョーは聞き手が眉をひそめ説教をしてくれることを期待していたわけで、調子が狂ったかもしれない。もしかすると処女喪失と、愛について語るときと、最後に不感症に陥るとき、その相手が偶然に導かれるようにジェロームという男になっているのは、セリグマンの挑発に乗ったジョーの脚色なのかもしれない。
そんなわけでセリグマンはジョーの告白を比喩として置き換えていく。旅客車での男漁りは「釣魚大全」、初体験時のピストン運動の回数は「フィボナッチ数」、性的遍歴のなかの特徴的な3人の男はオルガンの和音(第5章「リトル・オルガン・スクール」)に喩えられる。全篇、比喩に満ちているのだ。ポスターにデザインされた題名「NYMPH()MANIAC」の真ん中にある穴は女性器をイメージしているのだろうし、冒頭で暗闇のなかに響く水の音も性的なものを感じさせる。
たとえば壇蜜主演・石井隆監督『甘い鞭』では、女子高校生が監禁された部屋のひび割れた壁から水が染み出ていた。この『ニンフォマニアックVol. 1』では、壁の割れ目から水が音を立てて漏れ出している(父親の死の際もそうだった)。これはジョーが告白に入る前であり、本番前の前戯みたいな場面だが、その段階ですでにビショビショに濡れているということなのだろう。言うまでもなくこれは悪い冗談だ。
観客を鬱々とさせずにはおかないラース・フォン・トリアーにおいてはめずらしいことだが、この映画は喜劇的な要素が多い。ただそうした比喩が単に聞き手がおもしろがっているだけで冗長な部分があることは否めないのだけれど、Vol. 2もあることだし、そちらを楽しみに待ちたいと思う。
Vol. 1では、ジョーの不感症という苦難を提示したところで終わるわけで、多分これからが本番というところではないだろうか。まだウィレム・デフォーもウド・キアも顔を見せていないわけだし、語り手のジョーを演じたシャルロット・ゲンスブールも顔に青あざを作ったままでいいところがなかったわけだから……。
(*1) ちなみに若いジョーはステイシー・マーティンが演じており、語り手のシャルロット・ゲンスブールの濡れ場はVol. 2らしい。その意味でVol. 1の主役はステイシー・マーティンである。それにしてもボカシはなんとかならなかったのだろうかと思う。ジョーが体験する白いモノ、黄色いモノ、黒いモノ、割礼したモノ。そうしたイチモツがもやの向こうにあっては、冗談も台無しである。
ラース・フォン・トリアーの作品
出演はシャルロット・ゲンズブール、ステラン・スカルスガルド、ステイシー・マーティン、シャイア・ラブーフなど。
物語の語り手であるジョー(シャルロット・ゲンスブール)は、ある夜、狭い街路で倒れているところをセリグマン(ステラン・スカルスガルド)という初老の男に助けられる。セリグマンはジョーを介抱し、ようやく話をできる程度に回復したジョーは、自身のこれまでについて語り始める。
ジョーは性的なものに囚われている女性だ。幼いころにそれに気づき、女友達と一緒に快楽なのかよくわからない性的遍歴を重ねていく。性的遍歴と記したが、第1章から第5章までのVol. 1では、第2章「ジェローム」では愛について語られたり、第4章「せん妄」では父親の死が描かれたりもする。そして、第3章「H夫人」では、H氏とその夫人(ユマ・サーマン)と別のセックスフレンドまで交えた修羅場が、喜劇として描かれる。そんな意味でこの映画はジョーの半生そのものを辿っている。
性的遍歴という言葉が一番適しているのは、第1章「釣魚大全」である。幼いころの他愛ない性的な遊びから始まり、ジェローム(シャイア・ラブーフ)との素っ気ない処女喪失を経て、旅客車での男漁りの旅が描かれる。(*1)そうした遍歴を「釣魚大全」と名づけるのは聞き手のセリグマンである。プレイボーイのことを漁色家などと言うように、ジョーがやっていることは多くの魚(=男)を獲得することだからだ。聞き手のセリグマンはこんなふうに博識でもってジョーの体験を解釈していく。
聞き手であるセリグマンは神を信じないユダヤ人である。道端に倒れているジョーを助け、話を聞いてやる親切な人物ではあるが、その告白が彼女にとっては罪の告白と同じであるにも関わらず、「罪の意識なんて共感できないものをなぜ持ち出すのか?」といった具合で、教会での懺悔とはちょっと異なる。そんなのは文学の世界にはありふれていると挑発するようでもある。
実はセリグマンはおもしろがっているのだ。語り手のジョーは聞き手が眉をひそめ説教をしてくれることを期待していたわけで、調子が狂ったかもしれない。もしかすると処女喪失と、愛について語るときと、最後に不感症に陥るとき、その相手が偶然に導かれるようにジェロームという男になっているのは、セリグマンの挑発に乗ったジョーの脚色なのかもしれない。
そんなわけでセリグマンはジョーの告白を比喩として置き換えていく。旅客車での男漁りは「釣魚大全」、初体験時のピストン運動の回数は「フィボナッチ数」、性的遍歴のなかの特徴的な3人の男はオルガンの和音(第5章「リトル・オルガン・スクール」)に喩えられる。全篇、比喩に満ちているのだ。ポスターにデザインされた題名「NYMPH()MANIAC」の真ん中にある穴は女性器をイメージしているのだろうし、冒頭で暗闇のなかに響く水の音も性的なものを感じさせる。
たとえば壇蜜主演・石井隆監督『甘い鞭』では、女子高校生が監禁された部屋のひび割れた壁から水が染み出ていた。この『ニンフォマニアックVol. 1』では、壁の割れ目から水が音を立てて漏れ出している(父親の死の際もそうだった)。これはジョーが告白に入る前であり、本番前の前戯みたいな場面だが、その段階ですでにビショビショに濡れているということなのだろう。言うまでもなくこれは悪い冗談だ。
観客を鬱々とさせずにはおかないラース・フォン・トリアーにおいてはめずらしいことだが、この映画は喜劇的な要素が多い。ただそうした比喩が単に聞き手がおもしろがっているだけで冗長な部分があることは否めないのだけれど、Vol. 2もあることだし、そちらを楽しみに待ちたいと思う。
Vol. 1では、ジョーの不感症という苦難を提示したところで終わるわけで、多分これからが本番というところではないだろうか。まだウィレム・デフォーもウド・キアも顔を見せていないわけだし、語り手のジョーを演じたシャルロット・ゲンスブールも顔に青あざを作ったままでいいところがなかったわけだから……。
(*1) ちなみに若いジョーはステイシー・マーティンが演じており、語り手のシャルロット・ゲンスブールの濡れ場はVol. 2らしい。その意味でVol. 1の主役はステイシー・マーティンである。それにしてもボカシはなんとかならなかったのだろうかと思う。ジョーが体験する白いモノ、黄色いモノ、黒いモノ、割礼したモノ。そうしたイチモツがもやの向こうにあっては、冗談も台無しである。
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