『フルートベール駅で』 “叫ぶこと”と“悼むこと”
監督・脚本のライアン・クーグラーは、この映画がデビュー作。製作には『大統領の執事の涙』で主役を演じたフォレスト・ウィテカー。主役は『クロニクル』にも出ていたマイケル・B・ジョーダン。その他の出演はメロニー・ディアス、オクタヴィア・スペンサーなど。
何の罪もない黒人青年が白人警官に撃たれて死んだ、実際の事件をもとにした作品。町山智浩によると、同時期には黒人少年が自警団の白人に射殺される別の事件もあって、全米では大規模なデモも行われたとのこと。この映画に描かれる事件も、“黒人に対する差別”という文脈で話題になったのだと思われる。
しかし、この映画『フルートベール駅で』では、人種差別を声高に訴えることはない。問題意識を煽るというよりも、殺された青年がどこにでもいるごく“普通の若者”だということを描いていくのだ。映画の冒頭、目撃者によって実際に撮影された映像で、事件の顛末は知らされる。2009年の元旦、フルートベール駅において、主人公のオスカー青年は死ぬことになる。
映画はオスカー青年の最後の時間を淡々と追って行く。2008年の大晦日(つまり死ぬ前日)、その日はオスカーの母親の誕生日で、満ち足りた家族団欒の風景が見られ、夜が更ければ仲間とのカウントダウンのお祭り騒ぎが描かれる。年越しのイベントを別にすれば、ごく平穏な1日だったのだが、それは突然の事件で忘れがたい日になる。観客は、次の朝日を見ることなく死ぬ運命のオスカーの1日を追うわけで、哀惜の念を抱きながら見守ることになる。撃たれたときオスカーは「娘がいるのに……」と漏らす。娘を演じた子役のかわいらしさもあって、その無念さにはやはり涙を禁じえないだろう。
そもそも事件のきっかけに人種差別があることに間違いはない。マッチョな白人警官がオスカーを組み伏せたのはそういう意識からだ。ただ決定的な1発を放ったのは別の警官で、騒然とした捕り物にパニックとなって撃ってしまったようだ。実際の裁判でも過失致死となり、わずかな刑期で済んだものらしい。
また、ニューイヤーのカウントダウンに電車で行くというのは母親の助言があればこそだし、敵対するグループに見付かるのも間が悪い挨拶がきっかけだった。善意や親切が必ずしも良い結果を導くわけではないという点では皮肉だが、それはありふれたことだ。とにかくこの映画では、人種差別が引き起こした事件というよりは、悪い偶然が重なった不運として描かれているのだ。
監督・脚本のライアン・クーグラーは黒人だし、この事件が注目を浴びたのも人種差別という文脈だ。最後には、オスカーの死をメディアなどに訴えかける運動の実際の映像が使われているように、やはり人種差別に対する叫びが当然あるだろう。それは最近の『大統領の執事の涙』や『それでも夜は明ける』でも同様だ。
しかし『フルートベール駅で』は、方法論として事実に忠実に、もしくは、明確な善悪を決め付けずに描いたことで、どっちつかずな印象も強い。(*1)“人種差別の被害者としてのオスカー”と“どこにでもいる若者としてのオスカー”、そのどちらに重きがあるのか。換言すれば、人種差別を叫びたいのか、若者を悼みたいのか、そのあたりが曖昧なのだ。もちろん現実は曖昧なままなわけだけれど、監督・脚本のライアン・クーグラー自身どちらに傾くか揺れ動いているようにも思えた。『それでも夜は明ける』には、人種差別に対する主張を叫びすぎてしらけたが、こうした題材は立ち位置が難しいのかもしれない。
(*1) もし“普通の若者”の部分を際立たせるなら、遺族の悲しみや怒りを描いたあとに、遡って1日を追い、保育園で子どもと競争をする場面で終わらせてもよかったと思う。とりあえず「ありきたりな日常こそが奇跡」といった、これまたありきたりな意味合いになるかもしれないが、“普通の若者”の悲劇は強調される。
何の罪もない黒人青年が白人警官に撃たれて死んだ、実際の事件をもとにした作品。町山智浩によると、同時期には黒人少年が自警団の白人に射殺される別の事件もあって、全米では大規模なデモも行われたとのこと。この映画に描かれる事件も、“黒人に対する差別”という文脈で話題になったのだと思われる。
しかし、この映画『フルートベール駅で』では、人種差別を声高に訴えることはない。問題意識を煽るというよりも、殺された青年がどこにでもいるごく“普通の若者”だということを描いていくのだ。映画の冒頭、目撃者によって実際に撮影された映像で、事件の顛末は知らされる。2009年の元旦、フルートベール駅において、主人公のオスカー青年は死ぬことになる。
映画はオスカー青年の最後の時間を淡々と追って行く。2008年の大晦日(つまり死ぬ前日)、その日はオスカーの母親の誕生日で、満ち足りた家族団欒の風景が見られ、夜が更ければ仲間とのカウントダウンのお祭り騒ぎが描かれる。年越しのイベントを別にすれば、ごく平穏な1日だったのだが、それは突然の事件で忘れがたい日になる。観客は、次の朝日を見ることなく死ぬ運命のオスカーの1日を追うわけで、哀惜の念を抱きながら見守ることになる。撃たれたときオスカーは「娘がいるのに……」と漏らす。娘を演じた子役のかわいらしさもあって、その無念さにはやはり涙を禁じえないだろう。
そもそも事件のきっかけに人種差別があることに間違いはない。マッチョな白人警官がオスカーを組み伏せたのはそういう意識からだ。ただ決定的な1発を放ったのは別の警官で、騒然とした捕り物にパニックとなって撃ってしまったようだ。実際の裁判でも過失致死となり、わずかな刑期で済んだものらしい。
また、ニューイヤーのカウントダウンに電車で行くというのは母親の助言があればこそだし、敵対するグループに見付かるのも間が悪い挨拶がきっかけだった。善意や親切が必ずしも良い結果を導くわけではないという点では皮肉だが、それはありふれたことだ。とにかくこの映画では、人種差別が引き起こした事件というよりは、悪い偶然が重なった不運として描かれているのだ。
監督・脚本のライアン・クーグラーは黒人だし、この事件が注目を浴びたのも人種差別という文脈だ。最後には、オスカーの死をメディアなどに訴えかける運動の実際の映像が使われているように、やはり人種差別に対する叫びが当然あるだろう。それは最近の『大統領の執事の涙』や『それでも夜は明ける』でも同様だ。
しかし『フルートベール駅で』は、方法論として事実に忠実に、もしくは、明確な善悪を決め付けずに描いたことで、どっちつかずな印象も強い。(*1)“人種差別の被害者としてのオスカー”と“どこにでもいる若者としてのオスカー”、そのどちらに重きがあるのか。換言すれば、人種差別を叫びたいのか、若者を悼みたいのか、そのあたりが曖昧なのだ。もちろん現実は曖昧なままなわけだけれど、監督・脚本のライアン・クーグラー自身どちらに傾くか揺れ動いているようにも思えた。『それでも夜は明ける』には、人種差別に対する主張を叫びすぎてしらけたが、こうした題材は立ち位置が難しいのかもしれない。
(*1) もし“普通の若者”の部分を際立たせるなら、遺族の悲しみや怒りを描いたあとに、遡って1日を追い、保育園で子どもと競争をする場面で終わらせてもよかったと思う。とりあえず「ありきたりな日常こそが奇跡」といった、これまたありきたりな意味合いになるかもしれないが、“普通の若者”の悲劇は強調される。
- 関連記事
-
- ロバート・アルドリッチ『悪徳』と、その他のDVD新作について
- 『フルートベール駅で』 “叫ぶこと”と“悼むこと”
- アカデミー賞作品賞 『それでも夜は明ける』 何だか後ろめたいような……
この記事へのコメント: