『火口のふたり』 破れかぶれのふたりだったのに
『この国の空』などの荒井晴彦の監督作。
原作は『一瞬の光』『ほかならぬ人へ』などの白石一文。
原作者の白石一文の本は多分10冊くらいは読んでいるのだが、その感想ということになると複雑なものがある。この作者に対する評価としては「生きることに対する真摯な姿勢が感じられる」などという言い方がされたりする。確かに日常的なアレコレを描いているようでいて、それだけではない何かを探求しているようにも感じられる。その何かは安易に宗教的なものに流れたりはせずに時によって様々だが、「こんなアホみたいな日常だけがすべてなんてやってられないだろう」という感覚には共感できるものがある。ただ一方でとても青臭く感じる部分もあって――それはもしかすると私自身が青臭いからかもしれないとも思うのだが――だからこそ反感を覚える部分もある。
『火口のふたり』は東日本大震災の後に書かれた作品で、どことなく終末的なものを感じさせるものがある。主人公の賢治は会社の社長だが、その会社は倒産しかけている。つまりは破滅しかけていて自分を見つめ直す休暇中という設定なのだ。そして、もうひとりの主人公である直子はすでに結婚が決まっていて、独身最後に元恋人だった賢治と一夜だけ昔のような肉欲に溺れたいと願う。片や破滅寸前の男と、片や独身最後で羽目を外したい女。どちらにしても破れかぶれのふたりの話ということになる。
そして、現在公開中の映画版だが、原作では40代くらいの設定なのだが、映画版では30代程度という設定。賢治を演じるのは柄本佑で、直子役は瀧内公美だ。ふたりは久しぶりに再会し結婚式までの短い休暇を誰にも邪魔されずに堪能することになる。何をするのかと言えば当然セックス三昧ということになり、セックスの合間に食事をして疲れたら眠り、起きてはまたセックスを繰り返すという怠惰な時間を過ごすことになる。
本作では賢治と直子以外の登場人物はおらず、背景程度の人物しか登場しない。それだけにふたりの絡みが中心となってくる。中盤以降はほとんど裸ばかりという作品で、役者陣の頑張りは十二分に感じられるのだが、延々とその行為を見せられるだけだとちょっと退屈だというのは、『ニンフォマニアック』などと同じという感じもする。
荒井晴彦が雑誌のインタビューで答えていて「なるほど」と思ったのは、ロマンポルノでは女優さんの裸は2人以上という決まりがあったのだそうだ。観客となる男性の好みのタイプが様々ということが一番の理由なのだと思うのだが、同時に本作のようにあまりに閉じた関係だと物語に広がりがなくなるので、それを防いでいたのかもしれないとも思えた。
映画版と原作とで異なるのは映画では舞台が秋田となっているところと、賢治のキャラがただのフリーターという能天気な男になっているところ。秋田が舞台となっているのは、東日本大震災で被害が大きかった東北を取り上げるということと、秋田の亡者踊りを登場させたかったということがあるようだ。亡者踊りは生者と死者が一緒に踊るという設定で、その祭りは「生と死のあわい」を垣間見させてくれるようなものらしい。
そして、賢治がただのフリーターになってしまっているという変更もあって、原作が意図していたような破れかぶれの感覚はあまりない。破れかぶれのふたりの間で最後に残ったものがセックスだったというのではなくて、単に官能に溺れているだけのようにも感じられた。
また映画版のラストでは賢治が子供をつくることを同意したとも思えるような台詞もあり、賢治と直子がその後に正式に結婚したりするんじゃないかとも見えなくもない。いろいろあったけれど最後は日常に回帰してめでたしめでたしという終わりとも思えなくもなかったのだ。
個人的には原作者の白石はそんなふうに日常的なところへ着地させようという意図はなかったんじゃないかと思っているのだがどうなのだろうか。「子供ができてもいい」という感覚は破れかぶれになっているというよりも、生というものの継続を意識させているように感じられたのだが、荒井晴彦はどういうつもりだったんだろうか。
原作は『一瞬の光』『ほかならぬ人へ』などの白石一文。
原作者の白石一文の本は多分10冊くらいは読んでいるのだが、その感想ということになると複雑なものがある。この作者に対する評価としては「生きることに対する真摯な姿勢が感じられる」などという言い方がされたりする。確かに日常的なアレコレを描いているようでいて、それだけではない何かを探求しているようにも感じられる。その何かは安易に宗教的なものに流れたりはせずに時によって様々だが、「こんなアホみたいな日常だけがすべてなんてやってられないだろう」という感覚には共感できるものがある。ただ一方でとても青臭く感じる部分もあって――それはもしかすると私自身が青臭いからかもしれないとも思うのだが――だからこそ反感を覚える部分もある。
『火口のふたり』は東日本大震災の後に書かれた作品で、どことなく終末的なものを感じさせるものがある。主人公の賢治は会社の社長だが、その会社は倒産しかけている。つまりは破滅しかけていて自分を見つめ直す休暇中という設定なのだ。そして、もうひとりの主人公である直子はすでに結婚が決まっていて、独身最後に元恋人だった賢治と一夜だけ昔のような肉欲に溺れたいと願う。片や破滅寸前の男と、片や独身最後で羽目を外したい女。どちらにしても破れかぶれのふたりの話ということになる。
そして、現在公開中の映画版だが、原作では40代くらいの設定なのだが、映画版では30代程度という設定。賢治を演じるのは柄本佑で、直子役は瀧内公美だ。ふたりは久しぶりに再会し結婚式までの短い休暇を誰にも邪魔されずに堪能することになる。何をするのかと言えば当然セックス三昧ということになり、セックスの合間に食事をして疲れたら眠り、起きてはまたセックスを繰り返すという怠惰な時間を過ごすことになる。
本作では賢治と直子以外の登場人物はおらず、背景程度の人物しか登場しない。それだけにふたりの絡みが中心となってくる。中盤以降はほとんど裸ばかりという作品で、役者陣の頑張りは十二分に感じられるのだが、延々とその行為を見せられるだけだとちょっと退屈だというのは、『ニンフォマニアック』などと同じという感じもする。
荒井晴彦が雑誌のインタビューで答えていて「なるほど」と思ったのは、ロマンポルノでは女優さんの裸は2人以上という決まりがあったのだそうだ。観客となる男性の好みのタイプが様々ということが一番の理由なのだと思うのだが、同時に本作のようにあまりに閉じた関係だと物語に広がりがなくなるので、それを防いでいたのかもしれないとも思えた。
映画版と原作とで異なるのは映画では舞台が秋田となっているところと、賢治のキャラがただのフリーターという能天気な男になっているところ。秋田が舞台となっているのは、東日本大震災で被害が大きかった東北を取り上げるということと、秋田の亡者踊りを登場させたかったということがあるようだ。亡者踊りは生者と死者が一緒に踊るという設定で、その祭りは「生と死のあわい」を垣間見させてくれるようなものらしい。
そして、賢治がただのフリーターになってしまっているという変更もあって、原作が意図していたような破れかぶれの感覚はあまりない。破れかぶれのふたりの間で最後に残ったものがセックスだったというのではなくて、単に官能に溺れているだけのようにも感じられた。
また映画版のラストでは賢治が子供をつくることを同意したとも思えるような台詞もあり、賢治と直子がその後に正式に結婚したりするんじゃないかとも見えなくもない。いろいろあったけれど最後は日常に回帰してめでたしめでたしという終わりとも思えなくもなかったのだ。
個人的には原作者の白石はそんなふうに日常的なところへ着地させようという意図はなかったんじゃないかと思っているのだがどうなのだろうか。「子供ができてもいい」という感覚は破れかぶれになっているというよりも、生というものの継続を意識させているように感じられたのだが、荒井晴彦はどういうつもりだったんだろうか。
『全裸監督』 退屈しなそうな半生
8月8日から全世界で公開されているNetflixオリジナルシリーズ(全8話)。
1980年代にはテレビの深夜番組などにも登場していたAV監督・村西とおるの半生。
原作は本橋信宏の小説『全裸監督 村西とおる伝』。
総監督は『百円の恋』の武正晴。監督としては河合勇人と内田英治の名前も挙がっている。
実際にそのAV作品は見たことがないのだが、監督本人はその当時結構有名だったので覚えている。英語交じりの妙に丁寧なしゃべりが「おもしろキャラ」となっていたというイメージなのだが、本シリーズを見るとかなり破天荒な人生を送ってきた人物らしい。
本シリーズは村西とおる(山田孝之)を中心にAV業界の表と裏や、監督と一緒にテレビでも人気だったAV女優・黒木香(森田望智)も登場する。黒木香のあのしゃべりは、今見るとデヴィ夫人のパロディみたいにも思えるのだが、テレビカメラが回ると丁寧なしゃべり方になるというのは村西とおるの癖がうつったもののようだ。
元々は英語教材のセールスマンだったという村西は、結婚して子供もいたのだが夫婦仲はイマイチ。奥さんは旦那とのセックスに満足がいかなかったらしく別の男と浮気をしていたのだ。のちに監督でありながらAV男優まで同時にこなす人物とは思えないようなエピソードだ。女房に逃げられ失意の村西はバーで知り合ったトシ(満島真之介)から、裏本業界へと誘われ、営業のセンスもあってか地元で勢力を拡大していき、その後にはアダルトビデオ業界へと突き進んでいく。
テレビで気軽に見られるわけでもなければ、映画館でかかるわけでもないというNetflixオリジナル作品。わざわざNetflixに登録して料金を払わなければ見られないという手続きを踏んでいるからか、かなり際どい作品となっている。AV業界を描くということもあってヌードはもちろん、絡みのシーンもふんだんに盛り込まれているからだ。予算も結構かかってそうで、ハワイロケもしているし、歌舞伎町の事務所は巨大なセットを組んで撮影している。
白いブリーフ一丁で村西とおるを演じる山田孝之をはじめ出演陣も豪華。村西の参謀役で次第にヤクザの世界に顔を突っ込んでいくことになるトシ演じるのは満島真之介。プロデューサーの川田には玉山鉄二。紅一点のメイクの小瀬田順子には、『獣道』『寝ても覚めても』などの注目株の伊藤沙莉が扮している。それから撮影時期がいつだったのかはわからないのだが、ピエール瀧も普通に顔を出しているのもNetflixだからだろうか。
村西とおるが有名となったのはアダルトビデオ業界だが、その業界への進出は結構遅かったようだ。というのも村西は裏本稼業で警察にご厄介になっていたからで、ようやく娑婆に出てきたときにはすでに裏本は廃れ、アダルトビデオが席巻している状態だった。
そんな業界を牛耳っているのが石橋凌演じる池沢なのだが、池沢はビデオ倫理委員会などをつくり業界の秩序を維持しているように振舞っている。しかし裏ではヤクザともつながりがあり、表で流しているビデオの無修正版でも稼いでいる。池沢にとっては村西はかなり邪魔な存在。村西はAV業界の破壊者でありながら、新たな秩序の創設者でもあったようだ。その後のアダルトビデオ業界は村西が切り開いた部分が大きかったものと見えるからだ。池沢は何度も村西を潰そうとするのだが、失敗して村西に飲み込まれる形になってしまうのも、村西がそれだけのエネルギーがあるからだろうか。
村西は前科7犯で、逮捕されそうになっても往生際悪く逃げ出したりもする。ハワイで撮影したときは難癖をつけられて懲役370年という信じがたい宣告をされるものの、仲間たちの頑張りもあって復活することになる。山田孝之演じる村西とおるは、時に目がイっちゃっていて何を考えているのだがわからない雰囲気がある。それでも彼を助けようという人が周囲にたくさんいたのは、この人のそばにいると退屈しないということがあったからだろうか。すでに次のシリーズの製作も決まっているとのことで、村西という男がさらにどんなことをしでかすのか楽しみだ。
1980年代にはテレビの深夜番組などにも登場していたAV監督・村西とおるの半生。
原作は本橋信宏の小説『全裸監督 村西とおる伝』。
総監督は『百円の恋』の武正晴。監督としては河合勇人と内田英治の名前も挙がっている。
実際にそのAV作品は見たことがないのだが、監督本人はその当時結構有名だったので覚えている。英語交じりの妙に丁寧なしゃべりが「おもしろキャラ」となっていたというイメージなのだが、本シリーズを見るとかなり破天荒な人生を送ってきた人物らしい。
本シリーズは村西とおる(山田孝之)を中心にAV業界の表と裏や、監督と一緒にテレビでも人気だったAV女優・黒木香(森田望智)も登場する。黒木香のあのしゃべりは、今見るとデヴィ夫人のパロディみたいにも思えるのだが、テレビカメラが回ると丁寧なしゃべり方になるというのは村西とおるの癖がうつったもののようだ。
元々は英語教材のセールスマンだったという村西は、結婚して子供もいたのだが夫婦仲はイマイチ。奥さんは旦那とのセックスに満足がいかなかったらしく別の男と浮気をしていたのだ。のちに監督でありながらAV男優まで同時にこなす人物とは思えないようなエピソードだ。女房に逃げられ失意の村西はバーで知り合ったトシ(満島真之介)から、裏本業界へと誘われ、営業のセンスもあってか地元で勢力を拡大していき、その後にはアダルトビデオ業界へと突き進んでいく。
テレビで気軽に見られるわけでもなければ、映画館でかかるわけでもないというNetflixオリジナル作品。わざわざNetflixに登録して料金を払わなければ見られないという手続きを踏んでいるからか、かなり際どい作品となっている。AV業界を描くということもあってヌードはもちろん、絡みのシーンもふんだんに盛り込まれているからだ。予算も結構かかってそうで、ハワイロケもしているし、歌舞伎町の事務所は巨大なセットを組んで撮影している。
白いブリーフ一丁で村西とおるを演じる山田孝之をはじめ出演陣も豪華。村西の参謀役で次第にヤクザの世界に顔を突っ込んでいくことになるトシ演じるのは満島真之介。プロデューサーの川田には玉山鉄二。紅一点のメイクの小瀬田順子には、『獣道』『寝ても覚めても』などの注目株の伊藤沙莉が扮している。それから撮影時期がいつだったのかはわからないのだが、ピエール瀧も普通に顔を出しているのもNetflixだからだろうか。
村西とおるが有名となったのはアダルトビデオ業界だが、その業界への進出は結構遅かったようだ。というのも村西は裏本稼業で警察にご厄介になっていたからで、ようやく娑婆に出てきたときにはすでに裏本は廃れ、アダルトビデオが席巻している状態だった。
そんな業界を牛耳っているのが石橋凌演じる池沢なのだが、池沢はビデオ倫理委員会などをつくり業界の秩序を維持しているように振舞っている。しかし裏ではヤクザともつながりがあり、表で流しているビデオの無修正版でも稼いでいる。池沢にとっては村西はかなり邪魔な存在。村西はAV業界の破壊者でありながら、新たな秩序の創設者でもあったようだ。その後のアダルトビデオ業界は村西が切り開いた部分が大きかったものと見えるからだ。池沢は何度も村西を潰そうとするのだが、失敗して村西に飲み込まれる形になってしまうのも、村西がそれだけのエネルギーがあるからだろうか。
村西は前科7犯で、逮捕されそうになっても往生際悪く逃げ出したりもする。ハワイで撮影したときは難癖をつけられて懲役370年という信じがたい宣告をされるものの、仲間たちの頑張りもあって復活することになる。山田孝之演じる村西とおるは、時に目がイっちゃっていて何を考えているのだがわからない雰囲気がある。それでも彼を助けようという人が周囲にたくさんいたのは、この人のそばにいると退屈しないということがあったからだろうか。すでに次のシリーズの製作も決まっているとのことで、村西という男がさらにどんなことをしでかすのか楽しみだ。
『(秘)色情めす市場』 望みがないからこそ、そこに居られる
田中登監督の1974年の日活ロマンポルノ。
一度は新しいブログのほうに載せたのだが、ロマンポルノということだからかアフィリエイト的には問題だったらしい。せっかくなので旧ブログのほうに載せることにした。別に使い分けるつもりはなかったのだけれど……。
◆物語
「なんか、うち逆らいたいんや」。そんなふうにつぶやいて店を辞めてフリーになったトメ(芹明香)は、ドヤ街で客をつかまえる街娼だ。後ろ盾もなくドヤ街で客をつかまえているトメは、ヤクザまがいの男にちょっかいを出される。「俺の女になれ」と無理強いするのに対し威勢のいい啖呵を切ったものの、男に空き地に連れて行かれてボコボコにされる。それでもトメは男の言うことを無視し、生きるために街で男をつかまえに行く。
◆ドヤ街のエネルギー
本作の舞台は大阪の通天閣が見える地域。かつて釜ケ崎と呼ばれていた(今ではあいりん地区)場所で、日雇い労働者が多く住むところだ。お世辞にもガラのいい場所とは言えないところで、そんな場所でカメラを回したりしていたらトラブルになる。日雇い労働者たちが仕事を求めて集まるシーンなどは、車のなかから隠れて撮影したものと思われる。
私もかつて学生時代にサークルで8ミリカメラなどを回していたら、「何で撮ってるんだ」といちゃもんをつけられたことがあった。東京の下町の、それほどディープな場所でもないところでもそういうことがあった。『(秘)色情めす市場』にも借金をして逃げてきたカップル(宮下順子と萩原朔美)が登場するのだが、ドヤ街という場所は、ほかの場所で生きられなくなった人が逃れてくる場所らしく、後暗いところのある人も多いからか、そういうトラブルになるらしい。
本作はそういう危なっかしい場所でゲリラ的に撮影したらしく、わけのわからない人物も映っていたりして猥雑な雰囲気を伝えている。劇中では電車が走っているにも関わらず、線路のすぐ近くで爆破シーンを撮っていて、明らかに許可は取っていないと思われ、この土地の猥雑なエネルギーと一緒で撮影陣のエネルギーも感じさせるものとなっていたと思う。
◆主人公トメの境遇
主人公となるトメは最初から醒めていてけだるそうな雰囲気。指名手配の写真を見て「眠そうでしらけとる。(中略)生きてるのか死んでるのかわからへん。」などと語っているのだが、それはトメ自身も同じだからだろう。
セックスも投げやりで、行為が終わったら「重いからどいて」と知らんぷりで、客に対する愛想もない。たとえば「退廃的」などと形容してみればトメの雰囲気は伝わるのかもしれないのだが、この言葉は堕ちていくイメージもあるのでちょっと的外れかもしれない。トメは生まれてこの方ずっとこの状態にいるわけで、堕ちてきたわけではないからだ。
トメの母親・よね(花柳幻舟)も売春婦で、15歳でトメを生み、未だに客をとっている。しかし年増のよねは客にダメ出しされ、そのピンチヒッターでトメが相手をしたりもする。母娘で客を取り合って壮絶なケンカを繰り返す日々だ。
母親には容赦ないトメでも知的障害者の弟・実夫 (夢村四郎)にはとてもやさしい。実夫はトメが客をとる姿を間近に見ていて、トメはその性欲の処理に手を貸してやったりもするのだ。
◆みんな、望み捨ててるんや
本作でトメが体験することは絶望的な出来事と言えるかもしれない。母親よねは40過ぎて子供を孕み、堕胎の費用を捻出するために客の金にまで手を出してトラブルになる。そんな母親から産まれた自分の空虚さを感じたトメが弟の実夫と一線を越えると、実夫はなぜか首を吊って死んでしまう。これ以上ないというくらいの絶望的な状況だが、最後にトメは「よその土地に行こう」という男の誘いを断ることになる。
トメはだからこそ「ここに残る」のだという。望みがないからこそ、そこに居られるというのは、絶望を突き抜けた先にあるものを描いているようで、かえって清々しい気持ちにさえなる作品だった。トメはラストシーンで通天閣の見える空き地で楽しそうにくるくると回っているのだが、この空き地は前半でトメがボコボコにされた場所でもあるのだ。ロマンポルノという枠を超えて傑作というに相応しい作品だったと思う。
ダッチワイフを抱きかかえた男が街を歩いていく場面に重なるギターの音もカッコいい(樋口康雄という人の曲らしい)のだが、実夫が通天閣に登っていく場面の村田英雄の「王将」もはまっていて、このあたりのセンスも絶妙だ。
それから本作は一部カラー作品となっているのだが、それは絡みのシーンではなくて通天閣に実夫が登っていくところ。ここはトメが見た夢がカラーで描かれているように見えなくもない。トメと実夫が初めて交わったその夜が次第に明るくなっていき、突如として真っ赤な太陽が昇り、鶏のトサカの赤が映し出されるという演出も鮮烈なものがあった。
ロマンポルノだからと避けていたわけではなく、観る機会がなかった作品。『岬の兄妹』を観たときに、この作品の影響があると聞いていたのだが、今回U-NEXTで観ることができた。U-NEXTは意外とレンタル屋にはない古い作品も配信しているようだ(本ページの情報は2019.08.17現在のもの。最新の配信状況はU-NEXTサイトにてご確認ください。)昔は名画座でロマンポルノの3本立てとかにも通ったりもしたのだが、そのなかでも『(秘)色情めす市場』は感覚的にしっくりとくるものがあった。食わず嫌いでやり過ごすのはもったいない作品だと思う。
一度は新しいブログのほうに載せたのだが、ロマンポルノということだからかアフィリエイト的には問題だったらしい。せっかくなので旧ブログのほうに載せることにした。別に使い分けるつもりはなかったのだけれど……。
◆物語
「なんか、うち逆らいたいんや」。そんなふうにつぶやいて店を辞めてフリーになったトメ(芹明香)は、ドヤ街で客をつかまえる街娼だ。後ろ盾もなくドヤ街で客をつかまえているトメは、ヤクザまがいの男にちょっかいを出される。「俺の女になれ」と無理強いするのに対し威勢のいい啖呵を切ったものの、男に空き地に連れて行かれてボコボコにされる。それでもトメは男の言うことを無視し、生きるために街で男をつかまえに行く。
◆ドヤ街のエネルギー
本作の舞台は大阪の通天閣が見える地域。かつて釜ケ崎と呼ばれていた(今ではあいりん地区)場所で、日雇い労働者が多く住むところだ。お世辞にもガラのいい場所とは言えないところで、そんな場所でカメラを回したりしていたらトラブルになる。日雇い労働者たちが仕事を求めて集まるシーンなどは、車のなかから隠れて撮影したものと思われる。
私もかつて学生時代にサークルで8ミリカメラなどを回していたら、「何で撮ってるんだ」といちゃもんをつけられたことがあった。東京の下町の、それほどディープな場所でもないところでもそういうことがあった。『(秘)色情めす市場』にも借金をして逃げてきたカップル(宮下順子と萩原朔美)が登場するのだが、ドヤ街という場所は、ほかの場所で生きられなくなった人が逃れてくる場所らしく、後暗いところのある人も多いからか、そういうトラブルになるらしい。
本作はそういう危なっかしい場所でゲリラ的に撮影したらしく、わけのわからない人物も映っていたりして猥雑な雰囲気を伝えている。劇中では電車が走っているにも関わらず、線路のすぐ近くで爆破シーンを撮っていて、明らかに許可は取っていないと思われ、この土地の猥雑なエネルギーと一緒で撮影陣のエネルギーも感じさせるものとなっていたと思う。
◆主人公トメの境遇
主人公となるトメは最初から醒めていてけだるそうな雰囲気。指名手配の写真を見て「眠そうでしらけとる。(中略)生きてるのか死んでるのかわからへん。」などと語っているのだが、それはトメ自身も同じだからだろう。
セックスも投げやりで、行為が終わったら「重いからどいて」と知らんぷりで、客に対する愛想もない。たとえば「退廃的」などと形容してみればトメの雰囲気は伝わるのかもしれないのだが、この言葉は堕ちていくイメージもあるのでちょっと的外れかもしれない。トメは生まれてこの方ずっとこの状態にいるわけで、堕ちてきたわけではないからだ。
トメの母親・よね(花柳幻舟)も売春婦で、15歳でトメを生み、未だに客をとっている。しかし年増のよねは客にダメ出しされ、そのピンチヒッターでトメが相手をしたりもする。母娘で客を取り合って壮絶なケンカを繰り返す日々だ。
母親には容赦ないトメでも知的障害者の弟・
◆みんな、望み捨ててるんや
本作でトメが体験することは絶望的な出来事と言えるかもしれない。母親よねは40過ぎて子供を孕み、堕胎の費用を捻出するために客の金にまで手を出してトラブルになる。そんな母親から産まれた自分の空虚さを感じたトメが弟の実夫と一線を越えると、実夫はなぜか首を吊って死んでしまう。これ以上ないというくらいの絶望的な状況だが、最後にトメは「よその土地に行こう」という男の誘いを断ることになる。
この街な、みんな根無し草や、みんな、望み捨ててるんや。
トメはだからこそ「ここに残る」のだという。望みがないからこそ、そこに居られるというのは、絶望を突き抜けた先にあるものを描いているようで、かえって清々しい気持ちにさえなる作品だった。トメはラストシーンで通天閣の見える空き地で楽しそうにくるくると回っているのだが、この空き地は前半でトメがボコボコにされた場所でもあるのだ。ロマンポルノという枠を超えて傑作というに相応しい作品だったと思う。
ダッチワイフを抱きかかえた男が街を歩いていく場面に重なるギターの音もカッコいい(樋口康雄という人の曲らしい)のだが、実夫が通天閣に登っていく場面の村田英雄の「王将」もはまっていて、このあたりのセンスも絶妙だ。
それから本作は一部カラー作品となっているのだが、それは絡みのシーンではなくて通天閣に実夫が登っていくところ。ここはトメが見た夢がカラーで描かれているように見えなくもない。トメと実夫が初めて交わったその夜が次第に明るくなっていき、突如として真っ赤な太陽が昇り、鶏のトサカの赤が映し出されるという演出も鮮烈なものがあった。
ロマンポルノだからと避けていたわけではなく、観る機会がなかった作品。『岬の兄妹』を観たときに、この作品の影響があると聞いていたのだが、今回U-NEXTで観ることができた。U-NEXTは意外とレンタル屋にはない古い作品も配信しているようだ(本ページの情報は2019.08.17現在のもの。最新の配信状況はU-NEXTサイトにてご確認ください。)昔は名画座でロマンポルノの3本立てとかにも通ったりもしたのだが、そのなかでも『(秘)色情めす市場』は感覚的にしっくりとくるものがあった。食わず嫌いでやり過ごすのはもったいない作品だと思う。
『ホットギミック ガールミーツボーイ』 ライバルは多いほうがいい?
『溺れるナイフ』などの山戸結希監督の最新作。
原作は相原実貴の漫画『ホットギミック』。
主役を演じるのが乃木坂46の堀未央奈で、女子高校生の主人公が3人の男子に言い寄られる話と聞くと、よくある“キラキラ映画”なのかと思うのかもしれない。しかし冒頭すぐにそれは間違いだったと気づくことになる。
主人公の初 が妹・茜(桜田ひより)に渡すのは、妊娠検査薬とコンドームであったりするところからして“キラキラ映画”とは言い難い。さらにその妊娠検査薬を亮輝(清水尋也)という元いじめっ子に取られてしまい、弱みを握られることになった初は、亮輝の奴隷として過ごすはめになる。
亮輝のちょっかいに困っている初を助ける王子様キャラとして登場するのがモデルの梓(板垣瑞生)だが、観客のほうが気恥ずかしくなるほどのうぬぼれ度合いで、初に対して「かわいい」を連発して迫ることになる。そして、それらを見守る形で兄の凌(間宮祥太朗)がいるのだが、凌は初に近親相姦的感情を抱いているらしい。
◆違和感?
とにかく前半部分の違和感が著しい。原作漫画をちょっとだけ読んでみると、映画版とほぼ同様のストーリーなのだが、漫画のほうにはそれほど違和感はない。というのも亮輝に奴隷扱いされる初は、漫画では心のなかでこっそりとツッコミを入れている分、不快な印象がやわらぐのだ。それに対して映画版では、ほとんど一方的に亮輝に小突き回されているように感じられてしまう。しかも映画版ではこうした残酷な場面に、なぜかカノンという心洗われるような旋律を重ねることで、さらに違和感を強調しているようなのだ。
前半部分に感じた違和感は、観ている側が勝手に予想していた女子高校生の青春模様とはまったく相容れないものだったからなのだろうと思う。ポスターなんかのビジュアルから想像するジャンルからすると予想もしない展開だからこそ、観客として居心地が悪く不快なものを感じるのだろう。
ちなみに『ハウス・ジャック・ビルト』というシリアル・キラーものを撮ったラース・フォン・トリアーも、観客の期待とは違ったもの作ることを狙っていたようだ。そうして出来た作品はやはり不快なものとなっていたわけで、その部分では似ているところがあるのかもしれない。
ただ、本作は途中でそうした違和感はなくなっていくようにも感じられた。というのは梓というキャラの本来の目的が判明することで、女の子が恋に悩むとかの青春を描くつもりはないということが理解できるようになるからだ。
◆「ボーイ・ミーツ・ガール」ではなく……
山戸監督の作品『おとぎ話みたい』や『5つ数えれば君の夢』ではそれなりにキラキラした女の子の世界が描かれていたように思えるが、『溺れるナイフ』では主人公の女の子は男の子との関わりで葛藤しつつも、それを乗り越えていったとも言える。
今回の『ホットギミック ガールミーツボーイ』では、初は初恋の人である梓でもなく、いつも初のことを肯定してくれる凌でもなく、初のことをバカ扱いする亮輝を選ぶことになる。そんな亮輝というキャラは、ツンデレを極端に誇張したような人物でなかなか屈折している。
亮輝は初に「おれの言うことが正しいから従え」と言いつつも、もっと自立することを求めるし、奴隷にすると言いつつも彼女にしてやってもいいと譲歩したりもする。自信過剰な亮輝からすれば、求められたからと言って梓に裸を見せてしまうような優柔不断で確固たる自分を持っていない初は、自分と一緒にいれば多少はバカじゃなくなって、自立することを学び、最終的には多くの男のなかでおれ様のことを選ぶことになるということなのだろう。つまり、亮輝は「ボーイ・ミーツ・ガール」のような通常の恋愛ものの図式を否定していて、タイトルにも「ガール・ミーツ・ボーイ」とあるように、初の自立を促しつつ、もっと主体的であることを求めているのだろう。
山戸監督の『おとぎ話みたい』や『5つ数えれば君の夢』における女の子の自己完結的なモノローグならば、その意識の流れを把握することはそれほど骨は折れないのだが、頭脳明晰な亮輝の突飛とも言える論理展開についていくのは、初ではなくともなかなか大変だったという気もする。
◆山戸結希が次世代を担う?
先日、テレビのドキュメンタリー番組『7RULES』で山戸結希監督が出演している回を観たのだが、そのちょっとうつむき加減で話す印象とは違い、今回の作品でも果敢にさまざまなことを試している。
前作では長回しが印象的だったが、本作ではかなり細かいカットをつなげていく。初などの主人公たちの姿はあくまで美しく撮りつつも、周囲で悪評を流す女の子の描写では、瞳は血走りし悪口をもらす口元を極端なアップで異様なものとして映し出していく。予想されたジャンルとはズレていくように感じるのも、積極的な攻めの姿勢なのだろう。
先のドキュメンタリー番組では、山戸監督は後輩となる女性監督への支援について語っていた。『21世紀の女の子』というオムニバス作品では、山戸監督がプロデュースを買って出てまで後進の女性監督の育成に努めているとのこと。「ライバルが多いほうがもっと遠くに行けるはず」という言葉もあり、その静かな言葉とは裏腹に山戸監督自身の映画に対する意欲を感じさせる番組だった。本作の初が主体的に生き方を選んでいくというのも、女性監督としてのメッセージが込められているようでもあり、今後もやはり注目しておいたほうがいい監督だと思えた。
原作は相原実貴の漫画『ホットギミック』。
主役を演じるのが乃木坂46の堀未央奈で、女子高校生の主人公が3人の男子に言い寄られる話と聞くと、よくある“キラキラ映画”なのかと思うのかもしれない。しかし冒頭すぐにそれは間違いだったと気づくことになる。
主人公の
亮輝のちょっかいに困っている初を助ける王子様キャラとして登場するのがモデルの梓(板垣瑞生)だが、観客のほうが気恥ずかしくなるほどのうぬぼれ度合いで、初に対して「かわいい」を連発して迫ることになる。そして、それらを見守る形で兄の凌(間宮祥太朗)がいるのだが、凌は初に近親相姦的感情を抱いているらしい。
◆違和感?
とにかく前半部分の違和感が著しい。原作漫画をちょっとだけ読んでみると、映画版とほぼ同様のストーリーなのだが、漫画のほうにはそれほど違和感はない。というのも亮輝に奴隷扱いされる初は、漫画では心のなかでこっそりとツッコミを入れている分、不快な印象がやわらぐのだ。それに対して映画版では、ほとんど一方的に亮輝に小突き回されているように感じられてしまう。しかも映画版ではこうした残酷な場面に、なぜかカノンという心洗われるような旋律を重ねることで、さらに違和感を強調しているようなのだ。
前半部分に感じた違和感は、観ている側が勝手に予想していた女子高校生の青春模様とはまったく相容れないものだったからなのだろうと思う。ポスターなんかのビジュアルから想像するジャンルからすると予想もしない展開だからこそ、観客として居心地が悪く不快なものを感じるのだろう。
ちなみに『ハウス・ジャック・ビルト』というシリアル・キラーものを撮ったラース・フォン・トリアーも、観客の期待とは違ったもの作ることを狙っていたようだ。そうして出来た作品はやはり不快なものとなっていたわけで、その部分では似ているところがあるのかもしれない。
ただ、本作は途中でそうした違和感はなくなっていくようにも感じられた。というのは梓というキャラの本来の目的が判明することで、女の子が恋に悩むとかの青春を描くつもりはないということが理解できるようになるからだ。
◆「ボーイ・ミーツ・ガール」ではなく……
山戸監督の作品『おとぎ話みたい』や『5つ数えれば君の夢』ではそれなりにキラキラした女の子の世界が描かれていたように思えるが、『溺れるナイフ』では主人公の女の子は男の子との関わりで葛藤しつつも、それを乗り越えていったとも言える。
今回の『ホットギミック ガールミーツボーイ』では、初は初恋の人である梓でもなく、いつも初のことを肯定してくれる凌でもなく、初のことをバカ扱いする亮輝を選ぶことになる。そんな亮輝というキャラは、ツンデレを極端に誇張したような人物でなかなか屈折している。
亮輝は初に「おれの言うことが正しいから従え」と言いつつも、もっと自立することを求めるし、奴隷にすると言いつつも彼女にしてやってもいいと譲歩したりもする。自信過剰な亮輝からすれば、求められたからと言って梓に裸を見せてしまうような優柔不断で確固たる自分を持っていない初は、自分と一緒にいれば多少はバカじゃなくなって、自立することを学び、最終的には多くの男のなかでおれ様のことを選ぶことになるということなのだろう。つまり、亮輝は「ボーイ・ミーツ・ガール」のような通常の恋愛ものの図式を否定していて、タイトルにも「ガール・ミーツ・ボーイ」とあるように、初の自立を促しつつ、もっと主体的であることを求めているのだろう。
山戸監督の『おとぎ話みたい』や『5つ数えれば君の夢』における女の子の自己完結的なモノローグならば、その意識の流れを把握することはそれほど骨は折れないのだが、頭脳明晰な亮輝の突飛とも言える論理展開についていくのは、初ではなくともなかなか大変だったという気もする。
◆山戸結希が次世代を担う?
先日、テレビのドキュメンタリー番組『7RULES』で山戸結希監督が出演している回を観たのだが、そのちょっとうつむき加減で話す印象とは違い、今回の作品でも果敢にさまざまなことを試している。
前作では長回しが印象的だったが、本作ではかなり細かいカットをつなげていく。初などの主人公たちの姿はあくまで美しく撮りつつも、周囲で悪評を流す女の子の描写では、瞳は血走りし悪口をもらす口元を極端なアップで異様なものとして映し出していく。予想されたジャンルとはズレていくように感じるのも、積極的な攻めの姿勢なのだろう。
先のドキュメンタリー番組では、山戸監督は後輩となる女性監督への支援について語っていた。『21世紀の女の子』というオムニバス作品では、山戸監督がプロデュースを買って出てまで後進の女性監督の育成に努めているとのこと。「ライバルが多いほうがもっと遠くに行けるはず」という言葉もあり、その静かな言葉とは裏腹に山戸監督自身の映画に対する意欲を感じさせる番組だった。本作の初が主体的に生き方を選んでいくというのも、女性監督としてのメッセージが込められているようでもあり、今後もやはり注目しておいたほうがいい監督だと思えた。
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