不注意な異邦人 天皇ランチ

    天皇ランチ

    明仁天皇(現上皇)がノルウェーに来た時の話は以前に書いたが、余談がある。


    私はオスロの日本大使館に頼まれ、現地雑用係をしていた。一方でトロンハイム市の人々は、たまたま目につきやすい立場にいた私をなんか現地日本人の代表格みたいに勘違いして、取材やらお辞儀の仕方の事前レクチャーやら広報誌作成やら、やたら用事を頼んできた。そんなわけで、市長主催の昼餐会への招待状が来てしまったのである。むちゃくちゃ貧乏な私に。


    貧乏ゆえ昼餐会に着て行くような服やバッグなど持っていない。居候させてくれていたノルウェー人友人に借りた。服は大丈夫だけど黒いポシェットは手染めだから気をつけてねと言われた。さて、当日午前中は大使館の現地キャンプ(?)に詰めていた私。時間ギリギリに昼餐会場へ向かったのだが、あいにくの土砂降り。貧乏なのでタクシーとかそういう発想がない。ひたすら走った。会場に駆け込むや、席次表を渡された。それを右手に広間の鏡を覗き、雨で広がった髪をなんとかしようと左手で触った。おや? 左頬が真っ黒に。雨の中を走る間、左手で手染めのポシェットを握りしめていたのだ。着席時間まであと1分。どうしようもない。席次表を見る。私は、天皇の目の前に座ることになっていた。


    天皇はじめお偉いさん方が横一列に並び、それに接する縦長のテーブルが10本ぐらいある配置。私のテーブルは真ん中の天皇の前で、私はその一番前、天皇から見て左正面だった。つまり、天皇に向けているのは右頬である。


    天皇の横に座ったノルウェー王妃は失礼な婆さんで、日本から来た小男の爺さんに興味がないのを隠そうともしない。まるっきり無視であった。天皇はよほど退屈したのか、目の前の日本人を相手にすることにしたようだ。しきりと私に話しかけてきた。「ノルウェーに来てどのぐらい経ちますか」。はあ、10年ぐらいです。「どうしてノルウェーに?」。はあ、結婚で。「ご主人はノルウェーの方ですか」。いや、英国人でして。そこでビビった。当時、皇室では雅子さまが病気になって世間の風当たりが酷く、皇太子夫妻は離婚すべきなんて声さえ出ていた。離婚して間もなかった私は、ここで天皇にリコンという話題を振るのはまずいのではと思い当たった。えい。なかったことにしよう。


    夫は英国人でして。すると英国大好きな日本の皇族らしく、とたんに天皇の表情が活き活きとしてきた。こうなったらこの路線を死守するしかない。「それで、ご主人はどんなお仕事を?」に始まり、存在しない夫についての問答が20分ほど続いた。その間、普段目にすることもない高級な白ワインが注がれ、美しい前菜が供され、そのどちらも手つかずで持ち去られた。私はお腹が空いている。黙れ、天皇。フツー、天皇にホラ話するかよ? 豊穣な香りの赤ワインと鹿肉とおぼしき主菜が運ばれてくる。ようやく「それで、あなたは何かお仕事を?」と、話題が私に回ってきた。たかが日本、されど日本‥‥。


    大学で日本語を教えております。そこから天皇は日本語の変化、殊にら抜き言葉について、話しはじめた。立場上、世間の何事に対しても自分の立場が甲か乙か明言はしない。だからあくまでも言外に、そういう変化を好ましくは思っていない含みを持たせていた。もう一つ、聞き上手というか間を持たせる技術というか、「それで?」を連発するのが印象に残った。


    デザートが運ばれる頃になって突然、テーブルの他の日本人たちから「シカさんばっかり天皇陛下を独占して、ずるい!」という声があがった。はぁ? 左頬を見せないよう必死に同じ姿勢を保ち天皇の話し相手でお昼も食べられず想像上の夫の話をするのを、私が楽しんでいたとでも?


    その後の顛末は、あまりにみっともないので割愛する。要は私が席を立ち、テーブルの日本人が回転寿司状態で天皇に接見したわけだ。彼らの「一生に一度の有難い機会」を私は横取りしたらしい。そもそも天皇制を信じていない私には、天皇に畏れと憧れを抱く人たちの気持ちがまったく想像できていなかった。びっくり仰天。


    シカも歩けば天皇に当たるという話でした。

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    プロフィール

    シカ

    Author:シカ
    夫のカエルとともにヨーロッパに住むシカです。シカは日本生まれですが、ここ30数年イギリス、フィンランド、ノルウェー、スペイン、ドイツ、振り出しに戻る(イギリス)と流れてきました。カエルはフランス生まれです。詳しくは自己紹介ページへ。

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