不注意な異邦人 平成天皇皇后のトロンハイム訪問

    平成天皇皇后のトロンハイム訪問

    2005年に当時の天皇・皇后(昭仁・美智子)夫妻がノルウェーを訪れた。首都オスロの他にもう一箇所行きたいが、できればまだ訪れたことのない土地ということで、第三の都市トロンハイムが選ばれた。第二の都市ベルゲンにはすでに行っていたからだ。

    皇族の外国訪問の折には大使館員を含む外務省スタッフが皇族の滞在中とその前後に現地ホテルに陣を張るのだが、地元の地理に通じ人脈があり現地語に不自由のない人員というと現地調達しかない。

    当時トロンハイムに住む日本人は少なかったので、オスロの大使館から私に現地手伝いの依頼が来た。べつに特に旧くから居るとか人望がどうのとかではなく、たまたま大学で教えていたので見つけやすかったのだろう。要はトロンハイム市側の担当者とのラポールと、日本人の要員集め、あとは陣地での雑用を仰せつかった。

    天皇皇后の通訳をする自信はなかったので、私なんかより在住歴が長く社会的にまともな他の日本人を紹介した。市の広報課の顔見知りと徹夜でマスコミ用トロンハイム宣伝キットを作ったり、市長主催の昼餐会で天皇の目の前に座らされてビビったりトンデモ話をしたり、いろいろあったのだが、いちばん印象に残ったのは舞台裏でのドタバタだった。

    <その壱: 森前首相>
    これは知られている話だが、外務省の人たちは実話だと断言。クリントン来日の直前、森さんは一夜漬けの英会話講習を受けた。講師は、ともかく"How are you?" と訊け、と教えたらしい。そう言えば"I'm fine, and you?"と返ってくるので "Me too."と答えれば間違いない、と。さて当日。クリントンを目の前にして森さんはハウアーユーと言ったつもりがフーアーユーになってしまった。米国大統領に「あんた誰」とは只者じゃない。クリントンは機転を利かせ、"I'm Hillary's husband."と返した。そこで森さんは嬉々として"ミーツー!"‥‥(僕もヒラリーの夫だ)と言ったのだそうだ。

    天皇皇后はできれば通訳を介せず地元の人々と触れ合いたいという希望で、街歩きの時などは一行にべったり通訳はつけるなとのお達しが宮内庁からあった。お年寄りや子供など、英語の通じない相手に限って現地日本人通訳がサポートしろ、と。しかしこの命令に、外務省は全力で反抗した。誰がなんと言おうとも、森にだけは四六時中通訳をつけろ! と、血相を変えて叫んでいたのを覚えている。

    <その弐: 皇后付き女官のお卵とおチーズ>
    美智子皇后陛下の侍女さまは毎朝、産みたての有精卵を召し上がるのだそうだ。なのでそういう卵を調達せよとお達しがあった。そういう卵、食文化後進国ノルウェーの、さらにど田舎のトロンハイムに、あると思う? 私は外務省の指示に従い、近所のスーパーでなるべく賞味期限の遠い卵を買い、藁を敷いた籠に入れて献上した。‥‥お腹を壊したとかいう話は、聞いていない。

    この侍女か別の侍女かは知らないが、ノルウェー名産のブラウンチーズを土産にご所望で、それが普通に売られている500gパックではなくばら撒き用に小さいのじゃないと駄目だという。当時在ノルウェー日本大使だった齋賀冨美子さん直々の命令だった。外務省職員が「そういうのは、かなり探さないとならないので難しい」と言うと、大使の怒号が鳴り響いた。「お前ら給料もらってんじゃねーのか! くそチーズだか何だか、とにかく手に入れろ!」。‥‥そこで私は、御用達の黒いハイヤーで街いちばんの高級スーパーに乗りつけたのである。行先を告げた時の運転手の顔。スーパーの前で待ってもらった車に戻り、何買ってきたのと訊かれて答えた時の運転手の顔。どうやって忘れろと?

    <その参> 
    皇太子(現天皇)の人柄や、雅子さまを巡る外務省vs宮内庁の対立関係など、外務省の人たちが問わず語りに教えてくれた様々なこと。

    なんで今頃になってこんな思い出話をするのか。それは、あの3日間に間近で接した平成の皇室というものと、今になって晒されつつある美智子さんの実像に、なるほどと腑に落ちる接点がある気がするからだ。

    大学でノルウェー人学生と懇談していた時、次の予定が押して時間を気にする側近に、美智子さんは「ちょっと待っててくださいね」と言った。あの柔かな凄みを、何も知らなかった私は皇后の威厳とはかくありきとかお花畑な解釈をしたのだが、もしかして、そんなものじゃなかったのかもしれない。

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    シカ

    Author:シカ
    夫のカエルとともにヨーロッパに住むシカです。シカは日本生まれですが、ここ30数年イギリス、フィンランド、ノルウェー、スペイン、ドイツ、振り出しに戻る(イギリス)と流れてきました。カエルはフランス生まれです。詳しくは自己紹介ページへ。

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