日本の生真面目な音楽教育
ご主人が高名な音楽家でご自身も音大出身の日本人女性が、ノルウェーの教会で私の後に奏楽を引き受けてくださった。あれからもう12年になる。最近、その教会がコロナの影響でオンライン礼拝を配信しはじめ、何度か彼女のオルガン演奏を耳にした。
さすがはプロ、手鍵盤はしっかりと確実に弾いている(私と違って、間違えない!)。 ピアノが専門なのでペダルには挑戦していないようだ。ただ生真面目というか、テンポが遅く、どの曲も同じように重たい。躍動感がない。
そういえば私が日本の教会で奏楽した時、派手すぎ、ヨーロッパの匂いがプンプンする、と言われた。
日本では奏楽者は控えめに、抑えめに、地味に、裏方に徹して‥みたいな風潮がある。音楽教育そのものがそういう路線なのかもしれない。私は正規の音楽教育を受けていないおかげで、破廉恥に、はみ出し放題に弾けてしまった。
でもせっかくのパイプオルガン。オルガンにもうちょっと歌わせてやらないと、もったいなくね?
O Mensch, bewein' dein' Sünde Groß(人よ汝が身の罪の大いなるを嘆け)
中古のエレクトーンをほとんどタダで買ってきた。ペダルがまともに動かないのであまり使い物にならないが、物置の奥から手鍵盤だけで弾けるオルガン曲集を引っ張り出してきて、忘れていた弾き方をボチボチ思い出している。
表題のコラールは、バッハのオルガン小曲集の編曲(BWV622)が好きで、受難節になるといつも弾いていた。バッハといえば壮麗な音色を思い浮かべる人が多いだろう。でも実は、この曲のように静謐で深い想いに人を誘う作品もとても多い。
命の儚さ、人の愚かさ、世界の美しさ、その先にあるかもしれない(ないかもしれない)もの‥‥。そんな響きがする。バッハがまさかそんなことをいちいち考えて曲を書いていたとは思わないけど。
私も50代後半になり知人や友人の訃報に接することが増えてきた。5月にはノルウェーの恩人、先週にはスペインの友人が亡くなった。その都度、ああ行っちゃったのかと茫然とする。何日間か何年間か、その人のことを思う。
でもそれで何かが変わるかというと、そうでもない。テロだ天災だ疫病だと激震のさなかに、何事もなかったかのような日常が続く。自分が死ぬまでは。そして他の人たちにとって私が死んでも日常は続き、日本が壊滅しても世界は続き、地球が滅んでも宇宙は続く。
自己保存だけを希求する無意味な細胞が、未来永劫に再生を繰り返していく。嘆かわしいとは思わないが、汝が身の罪の大きさと言われれば、そうかもしれない。