キリンプラザ大阪
昨日のお散歩BGM
長篇歌謡浪曲全曲集
三波春夫の歌謡浪曲。もともと三波春夫は浪曲師から歌手に転向した人で、村田英雄もそうだった。紅白で「俵星玄蕃」をはじめて聞いたとき、頭をぶん殴られるような衝撃と感動を覚えた。朗々として底抜けに明るい声、魅力的な節回し、コミカルな語り。こういうのを本物の芸人と言うのだ。電車の中で聞くのはとっても危険。絶対口ずさむので。特に「雪を蹴立ててサク、サク、サクサクサクサク…先生!おぉ、蕎麦屋かぁ!」の箇所とか。
ちなみに、自分の中で崇拝対象になっている「芸人として歌手」は、三波春夫と中島みゆきと美輪明宏と都はるみです。村田英雄は、もうちょっと浪曲師としての素養を出してくれていたらなあ、と思う。上野文庫の中川さんに聴かせてもらった、浪曲師のころの村田英雄は素晴らしかった。
私憤と公憤
しかして腹の中では「実際そんな女はイヤ」と感じている「自分」が居るのに、それが最終的に「そうならない範囲でだったら何やったっていいんじゃないの?」に置き換わる、その途中のブラックボックスの仕組みが私的には謎だが、そういう風な置換、というか、フィーリングと論理の分離した在り方もあり得るんだろう。
http://d.hatena.ne.jp/flakesnow/20050528/1117212149
なんかとってもタイミングの悪い横レスで失礼しますが…
女性にしろ男性にしろ、
最後には、本人しか決断できないし、本人しか本人の人生は生きられない
というのはまったくそのとおりだと思う。ここ同意。そして、その決断の源泉になるのは個人の感情でしかない。まったき私的感情であり、客観が介在する種類のものではない。これは自分の経験上もそう。
ただ、その感情を表出したり、自分の感情や決断を行動に結びつける時のやり方が、私のあまり多くは無い人間関係からの経験では、男女で違うように思う。
ここからの話は、引用元で男女を一般化して話を進めていて、そこで問題定義をおこなっているのでそこに乗っかって話をする。全てを男女で一般化できるとは思っていないし、引用もとの人も簡単に一般化できると思っているとは思っていない*1
女性の場合、自分の感情をそのまま表出して、それを自分の行動に結び付けるんですよ、と周囲に表明することを厭わないように思う。正直であると思う。しかし一方で、男性は自分の私的感情をそのまま表出することに躊躇を覚える。でも感情は感情。ではどうするか?私憤を公憤に無理矢理置き換えるのである。
自分が感情的に考えたことに、客観的な理屈・論理を援用して、いかにもそれが「客観的に正しい」「社会の大勢は自分の味方だ」と主張しようとする。そして、それを自分の糧にして行動する。自分の感情だけで行動したら相手を説得できないと考えるし、また自分も感情を主張しつづけることはできない。
自分の客観的正しさを担保出来そうに無い時はどうするか。一旦、相手を「客観的に正しい」と見とめた上で、でも俺は…という態度を示す。相手の感情を感情のママ受け入れたわけじゃないんだよ、と言うわけだ。感情が介在して物事が決定したんじゃないんだ、と言い訳をする。
この場合の「正しい」は絶対的真理として受け入れる、ということではなくて、今日の社会的な文脈からすると「正しい」んだろうねということで、俺は俺なりの感情を持っているけど、社会の規範とかそういうものを知らないんじゃないよ、俺はわかった上で自覚的に行動しているんだよ、と言い訳をするわけ。
女性同士の諍いに対する反応というのは、常に自分はそのような客観的態度を(仮想的にも)とろうとしているのに、突然感情対感情の剥き出しの衝突や協力を見てしまって、どう対処したら良いか解らなくてオロオロしているわけです。ちょっとまて、と。そこに俺が客観的な説明をつけるための時間を与えろ、と。
個人の行動を決めるのは個人の感情と決断でしかない。それはそう。本当のところ、男もそれはわかっている。けれども、そのまま感情が行動に結びついた、と言えるほど、自分に自身を持てない。他人に通じるとは思えない。
なぜそうなのか、なぜ男女間で違っているのか、を、社会と関わる機会の多少とかと絡めて話そうとするとヤヤコシイ領域になるのでここではやめておく。ただ言えることは、個人関係に限って言えば、男性の「私憤を公憤に置き換える、もしくは私憤を公憤と切り離す」行為は言い訳や逃げ道の確保に過ぎないと思う。
じゃあ男性も女性みたいにすればいいじゃん、と言われるとね、こればっかりは「そうしたい個人的感情」だから、もうどうしようも無いんだと思います。というか、元来弱いので、自分に全幅の信頼を寄せることが出来ないから、そうでもしないと生きられないのです。
*1:ややこしいな。こういう回りくどさが問題なんだろうな
雑誌を整理
朝から家にいた。久しぶりに本腰を入れて部屋を片付ける。私にとって「部屋を片付ける」とは、イコール「本を整理する」なわけだが。いらない雑誌とか縛って出す。週刊新潮と週刊文春は、よほどのことが無い限り毎週買っているのでよくたまる。SPA!もいい加減買うの辞めようとは思うのだが、火曜日になると、坪内祐三と福田和也のぐだぐだ対談目当てでつい購入してしまう。あとは日経ビジネスとかダイヤンモンドとか、興味のある記事があると買っている。
東京人は最近は毎月買っていて、これは保存。「住宅情報別冊 都心に住む」も今のところ保存しているけど、将来的にどうするかは考え中。いや、こんな都心のマンションなんか到底変えないけど、読み物として面白いのでつい毎号買ってしまう。
コミケで買ったいろいろを整理していたら、下のほうから「メメントモリビル」の切り抜きが出てくる。おお、嬉や。都築響一と辛酸なめ子が森美術館のオープン記念に依頼されて作った写真漫画なのだが、「ネガティブすぎる」とボツにされてお蔵入りした作品。SPA!に四回に分けて掲載されたので、切り抜いて取っておいたのだった。
六本木ヒルズのわかりやすい成金趣味を皮肉った作品で、非常に面白いのだ。また、六本木ヒルズを肯定する立場とまったく矛盾するものではないと思うが。まあ、もしも自分が発注者で、これを持ってこられたら「えー、ちょっとこれは…」と思うだろうけど。六本木ヒルズの魅力って、そういうわかりやすい成金趣味をお文化で包み込もうとする強引な姿勢そのものと、そこの弱みに付け込もうとする美術方面との鬩ぎ合いにあると思うから。
しかし、「ボツにした」ということすらメディアで明らかになって、どういう文脈で世間に理解されるか(世間って言ったって、一部アンテナを張っている方面だけだろうけど)は森ビルの中の人もわかっているはずだから、作らせたこと自体に意味があったのかもしれない。
どの後、雑誌アイデアの304号に完全収録されたらしい。辛酸なめ子の「ぬめり草」にも収録されたが、こちらは白黒だそうな。
アイデア No.304 | Fujisan.co.jpの雑誌・定期購読

- 作者: 辛酸なめ子
- 出版社/メーカー: ぶんか社
- 発売日: 2004/11
- メディア: コミック
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