20年前。
当時、18歳の私が体験した遠洋漁業の話。
大企業である大陽漁業(仮)所有の漁船、太陽丸(仮)は、時化の中を航行していた。
時化は3日間続いた。
ようやく海面が収まってきた時、ファーストオフィサーが交代に来た。
「キャプテンも褒めてたぞ」
ファーストオフィサーが、マグカップを差し出す。
大きめのマグカップに入ったコーヒーは、甲板員食堂で飲めるインスタントではなく、ちゃんと豆から煎れたものだった。
「お前はまた、下での作業だな」
小さめのコーヒーカップを啜りながら、ファーストオフィサーが溜息をついた。
操業ワッチに入るので、下に降りた。
船室から甲板に向かう階段の下で、1人の甲板員とすれ違う。
「このコウモリ野郎が」
男が皮肉たっぷりにつぶやいた。
短い白髪頭で額が狭く、切れ長の目。
身長の割に肩幅が広く、分厚い胸板をしていた。
アニマル浜口のような男。
芳賀だった。
芳賀はボースンの腰巾着のような男だった。
甲板員にしてはよく喋り、噂話が好きだった。
時にはその喋りで、ボースンを操っているようにさえ見えた。
コウモリ野郎。
鳥のように振る舞い、空を飛んでみせるが、寝床は暗い穴の中。
鳥でも獣でもなく、どちらにも取り入ろうとする中途半端な存在。
あの時の私は、甲板員たちからそう見えたのだろう。
私の操舵の話は、通信長が触れ回ったらしい。
私が得意げに語っていたと、話の形も変えられていた。
幽閉された船上で最も辛いものは、船酔いでも重労働でもなく、人間関係だった。
一度向いた嫌悪のベクトルは、その方向をなかなか変えない。
ジャッジを下す者も無く、一度諍いが起これば、その争いに終わりは無い。
集団の意識が、個々の感情を煽り、嫌悪の連鎖に拍車を掛ける。
今まで、キャビンの人間に向けられていた甲板員の敵対心は、容赦なく私に降りかかった。
妬み、嫉み。
それなりに学問を修め、英語を話す。
帰る場所がある上に、ファーストオフィサーのひいき。
何より、私には未来があった。
全てを諦めてきた甲板員たちとは、あまりにも違いすぎた。
それからは地獄だった。
目が合えば殴られ、屈めば蹴飛ばされた。
「作業が遅い」と手袋を禁じられ、凍傷の一歩手前なのか、指が曲がらなくなった。
顔にも体にも無数の痣ができた。
苦痛に歪む表情を笑い、甲板員同士で暴力を競い合う。
感情の捌け口だった暴力は、互いに見せ合う為のそれに変化していく。
全員が同じように、卑下の眼差しを私に向けた。
狂気の集団。
洋上には逃げ場も無い。
この甲板には、ファーストオフィサーの言葉も届かない。
武藤の手も、このワッチには届かない。
1人きりになれる冷蔵室で、何度も涙し、叫んだ。
眠る時でさえ、芳賀のニヤついた顔が浮かぶ。
たまに甲板の縁に立つと、どす黒い重油のような海面が私を誘った。
「ちょっと来い」
操業が1ヶ月も過ぎた頃、網を入れて待ちの時間に、珍しく田中が話しかけてきた。
田中は暴力の輪には、加わっていなかった。
田中の後を付いて、甲板に向かった。
「そこで見てろ」
田中がデッキブラシを持ち、甲板の縁に立つ。
両手で握ったデッキブラシを振りかぶる。
船尾から船首に向けて、甲板スレスレをカモメが掠める。
瞬間、田中がデッキブラシを振り下ろす。
「ポクッ」という音とともに、カモメが海面へ落ちる。
海面のカモメは船尾に流されていく。
「気絶してるだけだ」
田中がこちらを見た。
「やってみろ」
デッキブラシを差し出された。
同じようにやってみた。
鈍い手ごたえとともに、カモメが落ちる。
討ち落とされたカモメは、船尾に向かってどす黒い海面を流れていく。
思えば、ボースンたちより十くらい若い田中。
田中がこの船に来た時も、私と同じ経験をしたのだろうか。
この男とこんなに話をしたのは、後にも先にもこの時だけだった。
「俺は今度のハリファックスで帰る」
今度の入港で、田中は日本に帰るらしい。
甲板員は10ヶ月働いて、2ヶ月休む。
日本に帰れるその2ヶ月間が休みなのだ。
だから、船上では一日も休みが無い。
「2ヶ月経ったら戻ってくる」
言いながら田中がタバコに火をつけた。
それから田中はカモメのことを話しはじめた。
カモメは船に付いて移動する。
船からでる残飯や、漁課にならずに捨てられた魚などを食べて生きている。
この船で羽を休め、甲板で眠る。
田中は糞で甲板を汚すカモメを、一匹残らず討ったことがあるらしい。
カモメは気絶して流されても、意識が戻るとこの船に飛んで戻ってくる。
カモメもまた、この船無しには生きられない。
「どうだ?あん人たちに似てねか?」
カモメと同じように、この船が無ければ生きられない甲板員たち。
田中はまったく表情を変えずに、淡々と話を続ける。
「この船でおめより下はカモメしかいねぇ。だから、辛いときゃカモメ討て」
話を聞きながら、なぜだか涙が止まらなかった。
航海士に虐げられた甲板員が、新米を虐げる。
その新米がカモメを討つ。
嫌悪の連鎖が行き着いた先が、一羽のカモメだった。
「おめは考えすぎる。ここじゃ考えちゃいけね」
田中がタバコを海面に投げた。
「気持ちを殺せ」
どす黒い重油のような海面を見つめながら、田中が言った。
もしかすると、この船に来る前は、田中にも表情があったのかも知れない。
感情を殺す。
腐の連鎖が続くこの船で、田中が生き延びる唯一の方法だったのかも知れない。
続きはまた書きます
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