20年前、当時18歳の私が体験した遠洋漁業の話。
大企業である大陽漁業(仮)所有の漁船、太陽丸(仮)は、グリーンランドを目指していた。
キャプテンが船内放送で、航行ワッチへの変更を告げた。
航行ワッチに入るので、私に操舵室へ来るようにと放送が付け加えられた。
声の主は明らかにファーストオフィサーだった。
放送はちょうど私たち甲板員が、詰め所でロープを編んでいる時だった。
ボースンの鋭い視線が、私に向けられた。
この男と目が合うと、足が竦む。
ボースンは苦々しい表情のまま、顎で「行け」と合図した。
この時、解った。
操舵補助の甲板員は、今までボースンが決めていたのだ。
それを上から指名されるのが、気に入らなかったようだ。
操舵室では重いヤッケやゴム長も要らない。
魚とペンキの匂いからも開放された。
何より網を揚げると、船酔いが楽になった。
ファーストオフィサーは舵を握る私に、下で起こった事を根掘り葉掘り聞いてきた。
辛いが、我慢できないほどではないと答えておいた。
ファーストオフィサーが前方を指刺した。
彼方に浮かぶ巨大な氷山。
そう見えたのが、グリーンランドだった。
昔、ヨーロッパでは、島や大陸が発見されるたびに入植者を募った。
隣の島、アイスランドが発見された時、アイスランドという見たままのネーミングが原因で、入植希望者が少なかったらしい。
なので、次に発見されたこの氷の島をグリーンランドと名づけたらしい。
エスキモーは差別用語だから、彼らをそう呼んではいけないらしい。
彼らのことは、イヌイットと呼ぶ。
彼らは穀物の育たないこの土地で、アザラシや鯨の生肉だけを食って生きている。
イヌイットには貞操観念がなく「嫁を貸すから嫁を貸せ」という習慣がある。
全部、ファーストオフィサーが教えてくれた。
氷山のように見えたこの島も、近づけばあちこちに岩が露出していて、それが島であることがわかった。
港の少し沖で待機する。
タグボートが迎えに来た。
無線でやり取りをするのだが、ファーストオフィサーの英語が伝わらない。
専門用語を聞きながら、私が変わりに無線のマイクを握った。
この時から、英語での無線のやり取りは、私の仕事になった。
太陽丸はタグボートに曳航され、ゆっくり岸壁に付けられた。
岸壁には、荷台に女をたくさん乗せたトラックが一台と、物珍しそうにこちらを見ている青年が一人待っていた。
荷台の女たちは、こちらに向かって手を振った。
タラップを下ろすと荷台の女たちが、我が物顔で乗り込んでくる。
娼婦だった。
みなイヌイットなのだろう。
顔立ちは日本人に似ているが、化粧っけがなくべチャべチャと喋り、品がなかった。
全員、40才は超えているだろう。
後に知るのだが、娼婦たちはみな夫も子供もいて、その家族を養う為に、船員相手に身を売っていた。
あのトラックの運転手も、この中の誰かの旦那らしい。
通信長に呼ばれ、船員手帳を受け取った。
船員手帳があれば、パスポートなしで上陸できる。
入港する時は前もって5万円分、現地の貨幣で支給された。
通信長に申し込んでおけば、タバコや酒も個人単位で船に届けられた。
通信長はそのことで甲板員に感謝されていると思っていたが、実際にはただの御用聞きのように扱われていた。
他に通信長から配られた物は、日本製のコンドームだった。
入港している間は、朝9時から夕方の6時まで働く。
6時以降は自由な時間だった。
入港時の甲板員食堂は、場末のキャバレーのようになった。
酒に酔った甲板員たちが、女を口説く。
口説くといっても、値切り交渉なのだが。
心の箍が外れた男たちは、しばしば殴り合いの喧嘩も起こした。
限られた人間で生活しているところに、違う人間を混ぜると諍いの元になる。
それが異性であれば、尚更だった。
酒が進むと、男たちは管を巻き、悪態をついた。
愚痴はエスカレートして、矛先はファーストオフィサーやキャプテンの事にまで及んだ。
その醜態がたまらなく嫌だった。
ファーストオフィサーを悪く言われるのがとても心外だった。
甲板員はよほどのことがない限り、上陸しない。
酒もタバコも、女も全て船内で事足りる。
娼婦のいないハリファックスは人気のない港で、ここヌークは、まあそれなりだった。
港の人気は娼婦で決まる。
一番人気はドッグがある、スペイン領カナリア諸島のラスパルマス。
甲板員たちはラスパルマスのことを、天国だと言っていた。
そして、港の娼婦のために、こぞってスペイン語を覚えようとした。
食堂を出て風呂に行くと、娼婦たちが湯船に浸かっていた。
船の風呂は銭湯のようなつくりだった。
ただ、湯船のお湯は、温めた海水。
真水が出るのはシャワーだけ。
娼婦たちを尻目にシャワーだけ浴びた。
丘に上がってみようとタラップを降りた。
一月ぶりの地面なのだが、揺れている。
これが丘酔い。
太陽丸を見上げていると、さっきの青年が声を掛けてきた。
彼もイヌイットなのだろう。
日本人というよりは、ネイティブアメリカンの顔立ちに近い。
鼻梁が高く、彫が深い。
その中に、どこか幼さの残る顔立ちだった。
彼はたどたどしい英語で「仕事はないか」と聞いてきた。
「無い」と答えた。
あったとしても、私にそんな権限はない。
彼はアポロと名乗った。
私はジェームスと名乗った。
日本語の名前など覚えにくいだろうと、そんな名前を騙った。
アポロは「仕事が無いか明日も来てみる」と言って、去っていった。
船室に戻ると、同室の男が窓の下の丸椅子に座っていた。
この男と話をするのは、この時が初めてだった。
ワッチが違うので、今まで顔を合わすことが無かった。
私が休んでいる間に働き、私が働いている時に休んでいる男。
武藤というこの男、甲板員にしては小柄だった。
頭はM字に禿げ上がり、短く刈り込んでいた。
顔をあわせることは無かったが、その暮らしぶりから、几帳面で清潔好きであることは解っていた。
武藤は酔っているのか、饒舌だった。
そして、甲板員にしては珍しく、私のことを知りたがった。
高校を出ていったん就職し、ここに来たことを簡単に話した。
私が話し終わると、武藤は目を閉じて自分のことを語り始めた。
武藤の話は、私の想像を遥かに超えていた。
続きはまた書きます。
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