松木幸夫的思考 2012年09月14日
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2012.09.14 (Fri)

編曲譜と原曲の関係

 ギター以外の作品をギターで弾けるように編曲する、或いはギターのための作品であるのにさらに加筆する、そんな作品を好んで弾く人がいたりする。

 そんな人は、それがいったい誰がアレンジした楽譜であるのかと云うことを殊に注目するようだ。

 AさんのアレンジよりもBさんの方が弾きやすいし効果的だ、と云うような感じで。

 またそのアレンジャーと云うか編曲者は時代によって流行り廃りがあるようで、それが一旦落ち着くと往年の編曲譜がやはり多くの人に使われるようになったりする。

 作曲家と編曲者、尤もこの場合の編曲はリズムから編成など演奏のほぼすべてに渉る音楽的内容の編曲について云うのではなく、所謂校正、加筆、省略などと云うもとの楽譜の内容をできるだけ減じることなく例えばギターで演奏できるように変形される作品についてのことだけに限定して書く訳だが、それらの関係は山と登山口との関係に似ていなくもないように思う。

 つまり山は厳然としてあるのだが、山というのはだいたいいくつかの登山口を持っていて、それらはそれらの個性を持っているけれど結局はどのルートも頂上に至ると云うような関係。

 例えば、距離が長いから勾配が緩やかだから身体的にはきつくない代わりに面白味もないとか、登りも下りもただ厳しくしかしそのくせ見晴らしは悪いから登る価値なしだろうと云うような、結局多くの人が使うルートを自分も使うようになったりする、と云うような関係。

 演奏をできるだけ易しくてしかも華やかな効果で満ち溢れさせようと云うのは、7合目まで車道を通して登山道を整備して道沿いに桜の花びらのの造花を配置してみたりと云うもう何が何だか分からない編曲もあったりするが、それはそれで楽しいのかもしれないが、あまりに装飾が過ぎればそれが羊蹄山でも富士山でも黒岳でも区別がつかなくなるだろう。

 だからそんな風な感覚でバッハを弾く人に、そんなふうに弾いたらカルリとかアグアドの練習曲弾いてるのと区別がつかなくなっちゃうんじゃないですか?と口走ってしまうのだ。

 さてリサイタルが近づくと我々の精神状態は、まじヤバくなる。

 だからそれを知る人々は、気を使ってくれて我々の傍から離れるようになって実にありがたかったりする。

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