松木幸夫的思考 2012年03月08日
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2012.03.08 (Thu)

お膳立てはすべて

 楽器を演奏するための力加減や速さなどについては、ほぼ何の準備もないままに我々の身体に備わっていると云うことは既に見た通りである。

 次の段階はそれをどうやって上手く使うか、と云うことである。

 例えば新鮮な食材や、立派な木材が手に入ったとして、何ごとにも不慣れな僕のような人間は、包丁さばきから調理の仕方から手際のすべてに至るまで悉く間違っているから折角の食材が見るも無惨な代物になってしまうし、手先が有史以来稀に見る不器用なものだから折角の木材で、人によっては立派な細工を施したり、美しい工芸品にすることができそうなものなのに、僕は精々たき火をする程度のことしかできないのである。

 つまり不慣れな人間は、勿体ない程の素材が用意されようとも出来損ないしか生むことができないという悲しい現実がある。

 それを克服するためにはひとえに練習と云う先の見えない行為を延々と続けなければならないと云うことは云うまでもない。

 この練習をするときに、折角自前で用意した力加減や俊敏さには目も呉れず、間に合わせにあつらえたような力みまくって遅く鈍い身体の動きで始める人が多いけれど、それは折角の宝をものの見事に腐らせるやり方で結局体調を崩すような方向に赴くようになるものだ。

 自前の材料と間に合わせであつらえた材料の違いは、間に合わせの材料はまずまともに動かないから必死に動かそうとする、つまり無理に動かそうとすると云うことに対して、自前の材料は動物的な俊敏さで自由奔放に動き回るので、使う人間がきちんと動きを制御しなければならないという違いがある。

 つまり自前の材料は、速すぎるから必要な程度に遅く動かすと云うことが必要で
ある。

 動かないものを動かすのと、動き過ぎるのをちょうどいい塩梅に遅くする、この
違い、身体への負担の違いは想像するまでもなく了解できるはずだろう。

 動き過ぎるものを抑制する、つまり我々の練習の目的は、暴れまくるやんちゃ坊主達をきちんと見張る役目であると云ってもあながち間違いではない。

 見張り役のことを僕は、現場監督と云ったりすることが多いのだが、監督がだらしなければ、作業員は仕事での手の抜き放題だろうし、更に現場から抜け出してパチンコ屋に出掛けたり、作業員とふざけ合うようではまるっきり仕事にならない。

 だから自分の中の現場監督をできるだけ質のいいものに替えるように仕向けるのが、練習の核心である。

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