下落合を描いた落四小の生徒たち。(1)

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 1936年(昭和11)3月から5年間にわたり、下落合1丁目291~292番地の相馬坂に面した落合第四尋常小学校では、生徒の図画や書き方、作文などを集めて収録した児童作品集『おとめ岡』を年度ごとに1冊刊行している。1940年(昭和15)3月の第5号で刊行が打ち切られたのは、物資統制で印刷用紙が高騰して入手がきびしくなったのと、より軍国主義の徹底により翌年から「国民学校」への、教育再編が予定されていたからだろう。
 『おとめ岡』の「おとめ」は、もちろん落四小が建っていた御留山のことで、創刊号では同年に校長だった原田森吉が「創刊の辞」を書いているが、前半は生徒たちを「大日本帝国を背負つて立たねばならぬ国家の至宝」と位置づけ、「日本精神は皇室尊崇と感謝奉仕」で天皇の「忠良な日本臣民」である赤子(せきし)として「仕上げ度いと云ふ親の心は寝ても覚めても片時も忘れられない」など当時の軍国主義あるいは全体主義的な文章をつづり、深川で生まれ育った川田順造の母親やうちの父方の祖母あたりが聞けば、すぐさま「うちじゃ、そんなこと教えていないよ!」と激昂し、きびしい叱責がすかさず飛んできそうな内容となっている。
 その部分はカットすることにして、原田校長の「創刊の辞」の後半部分を引用してみよう。
  
 今度後援会の方々のお骨折りで皆様方の平生勉強されてゐる中から書方、綴方、図画などの一部分を小冊子にまとめて文集を発刊する事になりました。紙の紙合で沢山のせられなかつたことを残念に思ひますが次号からは紙数も増してなるべき(ママ)多く出して上げたいと思ひます。皆様は今からウントよく勉強しておいて立派な成績をドツサリ出して下さい。
  
 「紙の紙合」などという言葉は初めて耳にするが、「紙の丁合」のことだろうか。なんだか、日本語的におかしな文章に感じるが、文中の「後援会」とは落合第四尋常小学校児童後援会のことで、今日でいう父母が集うPTAのような存在の組織だ。
 当時の児童後援会の会長は、下落合2丁目595番地に住んでいた田中浪江で、現在の下落合公園の敷地全体が田中邸だった。会長の田中浪江は、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)にも掲載されており、「落合第四小学校後援会長」とともに「前会計検査院部長」と紹介されている。落合第四尋常小学校に児童後援会ができたのは、まさに1932年(昭和7)なので、このときは会長を5年にわたりつとめていたことになる。田中会長もまた、『おとめ岡』創刊号では「創刊を祝す」という序文を寄せている。
 ところが、田中会長の文章は原田校長とは正反対に、個々人の自立や独立の精神こそが最重要な課題であり、文中にはいっさい「国家」や「大日本帝国」、「御国」「皇室」「臣民」「報国」「奉仕」などといった言葉は登場しない。以下、国家主義でも集団主義でも儒教的な家族主義でもない、旧来の体制や仕組みにとらわず人間の自主独立心や主体性を鼓舞する、あたかも封建主義を打破する資本主義革命(フランス革命)思想の「アンデパンダン」的な文章の結び部分を引用してみよう。
  
 皆さん方はだんだん大きくなり学校がすんで世の中へ出るやうになると、独立の精神といふものが最も大切であります。それは自分の為すべきことは自分みづからが為し、人に代つてもらはぬこと、人をたよりにしないことであります。この独立の精神は今から段々養成してゆかなければなりません。ちようど文集の発行はよいをりでありますから、これを手始めとして自分のことは自分でするといふ習慣をつくつてゆかれる様にねがひたいものであります。
  
 おそらく、原田校長と田中会長は思想面ではまったく相いれなかったのではないか。学校当局と後援会とは、少なからずギクシャクしていたのでは?……と考えるのはうがちすぎだろうか。
弁天池1936.jpg
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 さて、『おとめ岡』創刊号には生徒たちが描いた図画が、小さいながらも数多く収録されている。今井美恵子という4年3組の生徒が描いた風景画は、相馬孟胤邸の谷戸に形成された湧水池のほとりに建つ四阿(あずまや)を描いたものだろう。弁天池の周辺は、昭和期に入ると郊外遊園地のように(おそらく相馬家の好意で)整備され、東の近衛町側からは誰でも入れる坂道や広場が整備されていた。光のあたり具合から、北側から南を向いて描いたように見える。
 どこの家だろうか、大きめな屋敷を描いた6年1組の中原康彦という生徒の作品は、玄関前に植えられた棕櫚の車廻しが印象的な画面だ。高い塀はコンクリート製のようで、近衛町に建っていた邸の1軒だろうか。あるいは、中原邸すなわち自分の家を門前から写生したものだろうか。和館でありながら、どこからかピアノの音色が聴こえてきそうな風情をしている。
 5年1組の武笠邦夫という生徒も、門前からおそらく家の敷地内を画面に描いているようだが、表札がふたつ架かる門の正面は竹垣になっており、丁字路になった左右の道をたどると、それぞれの家へたどり着ける配置だったものだろうか。門柱の表札は読みにくいが、左側の表札にはどうやら「武笠」と書いてあるようだ。また、門の前は道路ではなく右手には家が建っており、この門自体が袋小路の突きあたりにあったようで、武笠家の敷地は旗竿地だったものだろうか。手前の電柱が大きく描かれており、奥にも背の低い電柱が見えるが、竹垣の内側に建物の影は見えないので、広い敷地に建つ自宅だったのかもしれない。
 同様に、電柱が印象的なのは4年1組の高地守という生徒が描いた風景画も、連なる屋根から飛びでた電柱を大きくフューチャーしている。同作は、斜めフカンから住宅街を見下ろして描いたもので、電柱が建つ道筋に建っていた家々や土蔵を描いたものだろう。どこか下落合の東部に通う目白崖線の坂道か、あるいは斜面の空き地にのぼって描いたとみられ、坂下に通っていると思われる電柱の道筋はおそらく雑司ヶ谷道(新井薬師道)だろう。2階家の屋根を見下ろすほどの高度なので、当時の落合第四尋常小学校の校庭南端の崖地など、かなり高い位置からの写生だ。
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 その坂道や斜面で、降雪後にスキーやソリ遊びをする子どもたちを描いた作品もある。3年1組の岩崎磨夫という生徒の作品で、昭和初期は東京にも雪が多かったせいか、坂道や斜面では盛んに雪遊びが流行っていたようだ。1926年(大正15)の冬、佐伯祐三が描いた『雪景色』も、文化村でソリやスキーを楽しむ子どもや大人たちを描いているが、斜面や坂道の多い落合地域では楽しみな冬の娯楽だったのだろう。いまでも、たまに雪が降ると坂道でソリ遊びをしている子どもたちがいるが、ソリの代用品は段ボール箱をつぶしたものだ。
 そのほか、まるで岸田劉生のような花瓶とリンゴをモチーフに静物画を描いた4年2組の古澤正雄という生徒や、おそらく洋画の画塾へ通っていたのではないかとみられる、裁縫箱を写生した5年2組の斎藤スワという女生徒の作品は、掲載されている図画の中では飛びぬけて秀逸だ。デッサンの勉強中だったように思われる、白いポットとティーカップを描いた6年2組の忍洋子という生徒の画面も、ふだんから絵を描きなれていたのではないだろうか。おしなべて、男子生徒は風景画が多く、女子生徒には静物画が多い傾向があったようだ。
 また、『おとめ岡』に掲載されている文集も、たいへん興味深い。下落合(現・中落合/中井含む)の東部で起きたことが、子どもたちの目を通して活きいきと描かれている。戦前は、両親や兄弟姉妹など肉親の死が、すぐ隣りあわせで存在していた様子がわかる。いつか、小泉八雲が序文を書いて紹介した『ある女の日記』は、明治期のとある女性が身のまわりや世相を写した記録だが、昭和初期でもそれほど社会環境は変わっていなかったのがわかる。また、山手らしくピアノもときどき登場するが、昭和初期はペットブームだったせいかイヌやネコ、各種鳥類などが家庭で飼われており、子どもたちは進んで作文のテーマに取りあげている。
 中でも、4年3組の河野邊節子という生徒が書いた作文は秀逸で、そのリリカルな情景描写に思わずウ~ンとうなってしまった。茶の間に集う、夜の家族たちの姿を写した「冬の夜」という詩情あふれるエッセイは、まるで児童文学のプロ作家が書いた文章はだしで舌を巻いてしまった。1936年(昭和11)に小学4年生ということは、敗戦時には18歳か19歳ということになる。なんとか戦争を生きのび、敗戦後は文筆に関連する仕事に就けていればと願うばかりだ。機会があれば、図画だけでなく生徒たちが書いた作文についても、いつか記事にしてみたい。
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 5年間にわたる『おとめ岡』に掲載された数多くの図画は、昭和初期の下落合の風景が、あるいは当時の暮らしがどのようなものであったのかを、飾らず率直に表現してくれている。プロの画家がとらえる、表現や思想を意識した演繹的な眼差しや構図、構成、デフォルマシオンなどが皆無なぶん、ストレートに当時のありのままの情景を切りとって、90年後のわたしたちに見せてくれている。そんな素直な「下落合風景」を、これからも連載形式でご紹介していけたらと思う。

◆写真上:おそらく、1935年(昭和10)に描かれた4年3組の今井美恵子『風景』
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる遊園地化された御留山の弁天池と四阿。は、6年1組の中原康彦『風景』は、5年1組の武笠邦夫『風景』
◆写真中下は、崖線から見下ろした4年1組の高地守『風景』は、冬の遊びを描く3年1組の岩崎磨夫『雪景色』は、劉生ばりな4年2組の古澤正雄『静物』
◆写真下は、掲載の図画の中ではピカイチで秀逸な5年2組の斎藤スワ『裁縫箱』は、デッサンを勉強中らしい6年2組の忍洋子『ポットとティーカップ』は、1936年(昭和11)3月に落合第四尋常小学校で創刊された児童作品集『おとめ岡』第1号の表紙()と奥付()。
おまけ
 1936年(昭和11)に撮影された東京市立落合第四尋常小学校の校舎と校庭(と校旗)。空中写真は、同年に撮影された落四小学校。『おとめ岡』の表紙は図画教師だった島田クニの作品だが、下落合の風景ではない。「往々図画の時間と言へば緊張味に欠ける」と、彼女は同文集でこぼしている。
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