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ウィリアム・ゴドウィン『ケイレブ・ウィリアムズ』(白水Uブックス)
ゴシック小説であり、ミステリの原点とも言われる『ケイレブ・ウィリアムズ』を読む。著者はウィリアム・ゴドウィン。
この本を初めて知ったのは確か小鷹信光の『ハードボイルド以前』だったと思う。もう何十年も前の評論書だが、アメリカにハードボイルドが誕生する以前の小説において、ヒーロー小説がどのように育ち、ハードボイルドへと繋がっていくのかを検証するような内容だったかと思うのだが、その中に紹介されていた一冊が『ケイレブ・ウィリアムズ』である(ただ、記憶が曖昧なのでもしかすると別の本で知った可能性もあるが)。
そんなわけで、当時は『ケイレブ・ウィリアムズ』をあくまでハードボイルの流れのなかで捉えていたのだが、その後、さまざまなミステリ評論に触れるうち、これはちょっと違うぞと気がついた。ハードボイルドというだけでなく、ミステリそのものの先祖であるというふうに認識が改まったのだ。
そうなると自分の中でもポジションが高くなる。要するに猛烈に読みたい欲求に駆られたわけだが、如何せんその頃はネットもない時代だし、田舎に住んでいたこともあって、本自体が入手できない。それどころか国書刊行会の邦訳もまだ出ていなかったかもしれないのだが、これもまた記憶は定かではない。
結局、それからン十年が経過して、白水Uブックスから刊行されたときにようやく買えた次第である。
まあ、いざ入手してみるとすっかり満足してしまい、何年も積ん読してしまったのは読書アルアルだが、それでもこの度、ようやく本の山から発掘して読み終えることができた。
どうでもいい前振りが終わったところで、まずストーリーから。
貧しい農民の子であるケイレブ・ウィリアムズは、両親をなくした後、地元の名士フォークランドの秘書として雇ってもらえることになった。人望の厚さで知られるフォークランドのもと、ケイレブは働きながら勉強もさせてもらい、満ち足りた生活を送っていた。
ところがケイレブはフォークランドがときおり見せる不可解な言動に興味を抱き、その秘密を突き止めようとする。その結果、明らかになったのは、隣接する領主のティレルとフォークランドの過去の確執であり、ティレルが殺害された事件であった。一時期はフォークランドが犯人ではないかと疑われたこともあったが、結局はティレルに恨みを持っていた雇用人によるものとして事件は解決したらしい。
こうしていったんは治まったかに見えたケイレブの好奇心。しかし真の犯人はフォークランドではないかという新たな疑念が生まれ、ケイレブは再びフォークランドの調査を進め、ついにフォークランド自身から真実を聞き出すことに成功する。しかし、それがケイレブの運命を大きく変えてゆくことになるのだった……。
これは凄いわ。もっと観念的な作品かと思っていたが、確かにこれはゴシック小説にしてミステリの原型である。センセーショナルな事件を通して当時の社会の問題点や、人がいかに不確実な存在なのかということを考える普通の小説として読んでも十分面白いのだが、ジャンル小説的な見方をすることで、また違った味わいでより楽しむことができる。
見るべきポイントは多いのだが、やはりケイレブの探偵的行動、ケイレブとフォークランドによる対立と追跡劇は外せない。それらがもたらす冒険要素やサスペンス、スリルこそががミステリの原型といわれる所以であり、魅力である。
物語の序盤こそティレルとフォークランドの確執、さらには二人の間に挟まれた悲劇のヒロイン的女性の運命がみっしり書き込まれるため、ページを繰る手も鈍りがちだ。フォークランドとヒロイン的女性の行動がなんだかんだと裏目に出て、それが悲劇を増幅させ、こちらの精神的ダメージも大きい。
しかしながら中盤に入り、ようやくケイレブが舞台中央に登場して、いよいよフォークランドとケイレブ、二人の争いが主軸となると、ガラリと空気が変わる。
読者としてはこれまでフォークランドに肩入れしていたのに、その彼がどうも挙動不審。ケイレブもそんな主人フォークランドを気にして、秘密を突き止めようとする。ただ、そのやり方がねちっこく、おまけに大した動機もなく、単なる好奇心から探偵的に行動するものだから、本来はケイレブが主人公のはずなのにまったく感情移入できない(笑)。
そしてケイレブはとうとうフォークランド自身から秘密を聞き出すことに成功するのだが、その結果、ケイレブは逆に監視され、自由を奪われてしまうのだ。だがケイレブも負けずに逃亡を図り、フォークランドに追われる羽目になり、捕まったと思ったらまた脱走、そしてまたも捕まり、またも酷い目に……といった二人の闘争が延々と描かれ、とにかくこれが滅法面白いのだ。
もう一つ重要なポイントを挙げるとすれば、心理小説としての側面だろう。とりわけしつこいぐらいに描かれるケイレブの心理描写は面白い。上でも触れたように、ケイレブは探偵的に行動するものの、その動機は正義でも何でもなく、ただの好奇心だ。それを頭では理解しており、これ以上は踏み込むのはやめようと考えているのに、なぜか探求する気持ちを止めることができない。主人であるフォークランドに対しては本来深く敬愛もしているのに、それでもその秘密を暴かないではいられない。それらの結果として、ケイレブは次々と悲惨な目に遭っていくのに、それでも止められないのである。
このケイレブの不可解な心理。好奇心のなせる業というのは簡単だが、もう少し勘ぐれば、これはケイレブの行動原理が真実に拠りどころを置いているからといえるだろう。ケイレブの中では、常に真実が絶対なのである。
しかし、真実が必ずしも正義や幸福に直結するわけではないことを著者は知っている。むしろ探偵としての活動、つまり人の秘密を暴くことは非常に卑しき行いであり、それを主人に対して行ったケイレブには、当然ながら罰が下されなければならなかったのだ。好奇心の強さから人生をめちゃくちゃにしてしまったケイレブ。そんな男の複雑な意識や心理を体験し、理解するための小説として本作は大変魅力的なのだ。
ちなみにそういった探偵的行為、真実の追求の正義といったものは、エドガ・アラン・ポオによる探偵小説の登場まで待たなければいけなかったわけで、それは論理や真実、科学といったものに対する人間の成熟を待った期間と言えなくもないだろう。
ちなみに本作は1794年の作品である。なかには読みにくさを懸念する人もいるだろうが、訳がいいせいもあって変な読みにくさはまったくない。とはいえ改行は少なく、版面いっぱいに活字が埋まっているので若干気圧されはするだろうが(苦笑)、それよりは描写の密度にこそ目を向けてほしい。
情報量が多いだけでなく、ストーリーや心理描写、会話が地の文で交錯し、くどいぐらいに繰り返され、重ねられていく。そこに慣れるまではちと辛いかもしれないが、先に書いたように文章自体は読みやすいので、慣れてくるとその絡み合う描写が気持ちよく、どんどん引きこまれるはずだ。
ともあれ『ケイレブ・ウィリアムズ』をようやく読めたので、これをきっかけにミステリ以前のミステリも少し開拓していきたいものだ。
この本を初めて知ったのは確か小鷹信光の『ハードボイルド以前』だったと思う。もう何十年も前の評論書だが、アメリカにハードボイルドが誕生する以前の小説において、ヒーロー小説がどのように育ち、ハードボイルドへと繋がっていくのかを検証するような内容だったかと思うのだが、その中に紹介されていた一冊が『ケイレブ・ウィリアムズ』である(ただ、記憶が曖昧なのでもしかすると別の本で知った可能性もあるが)。
そんなわけで、当時は『ケイレブ・ウィリアムズ』をあくまでハードボイルの流れのなかで捉えていたのだが、その後、さまざまなミステリ評論に触れるうち、これはちょっと違うぞと気がついた。ハードボイルドというだけでなく、ミステリそのものの先祖であるというふうに認識が改まったのだ。
そうなると自分の中でもポジションが高くなる。要するに猛烈に読みたい欲求に駆られたわけだが、如何せんその頃はネットもない時代だし、田舎に住んでいたこともあって、本自体が入手できない。それどころか国書刊行会の邦訳もまだ出ていなかったかもしれないのだが、これもまた記憶は定かではない。
結局、それからン十年が経過して、白水Uブックスから刊行されたときにようやく買えた次第である。
まあ、いざ入手してみるとすっかり満足してしまい、何年も積ん読してしまったのは読書アルアルだが、それでもこの度、ようやく本の山から発掘して読み終えることができた。
どうでもいい前振りが終わったところで、まずストーリーから。
貧しい農民の子であるケイレブ・ウィリアムズは、両親をなくした後、地元の名士フォークランドの秘書として雇ってもらえることになった。人望の厚さで知られるフォークランドのもと、ケイレブは働きながら勉強もさせてもらい、満ち足りた生活を送っていた。
ところがケイレブはフォークランドがときおり見せる不可解な言動に興味を抱き、その秘密を突き止めようとする。その結果、明らかになったのは、隣接する領主のティレルとフォークランドの過去の確執であり、ティレルが殺害された事件であった。一時期はフォークランドが犯人ではないかと疑われたこともあったが、結局はティレルに恨みを持っていた雇用人によるものとして事件は解決したらしい。
こうしていったんは治まったかに見えたケイレブの好奇心。しかし真の犯人はフォークランドではないかという新たな疑念が生まれ、ケイレブは再びフォークランドの調査を進め、ついにフォークランド自身から真実を聞き出すことに成功する。しかし、それがケイレブの運命を大きく変えてゆくことになるのだった……。
これは凄いわ。もっと観念的な作品かと思っていたが、確かにこれはゴシック小説にしてミステリの原型である。センセーショナルな事件を通して当時の社会の問題点や、人がいかに不確実な存在なのかということを考える普通の小説として読んでも十分面白いのだが、ジャンル小説的な見方をすることで、また違った味わいでより楽しむことができる。
見るべきポイントは多いのだが、やはりケイレブの探偵的行動、ケイレブとフォークランドによる対立と追跡劇は外せない。それらがもたらす冒険要素やサスペンス、スリルこそががミステリの原型といわれる所以であり、魅力である。
物語の序盤こそティレルとフォークランドの確執、さらには二人の間に挟まれた悲劇のヒロイン的女性の運命がみっしり書き込まれるため、ページを繰る手も鈍りがちだ。フォークランドとヒロイン的女性の行動がなんだかんだと裏目に出て、それが悲劇を増幅させ、こちらの精神的ダメージも大きい。
しかしながら中盤に入り、ようやくケイレブが舞台中央に登場して、いよいよフォークランドとケイレブ、二人の争いが主軸となると、ガラリと空気が変わる。
読者としてはこれまでフォークランドに肩入れしていたのに、その彼がどうも挙動不審。ケイレブもそんな主人フォークランドを気にして、秘密を突き止めようとする。ただ、そのやり方がねちっこく、おまけに大した動機もなく、単なる好奇心から探偵的に行動するものだから、本来はケイレブが主人公のはずなのにまったく感情移入できない(笑)。
そしてケイレブはとうとうフォークランド自身から秘密を聞き出すことに成功するのだが、その結果、ケイレブは逆に監視され、自由を奪われてしまうのだ。だがケイレブも負けずに逃亡を図り、フォークランドに追われる羽目になり、捕まったと思ったらまた脱走、そしてまたも捕まり、またも酷い目に……といった二人の闘争が延々と描かれ、とにかくこれが滅法面白いのだ。
もう一つ重要なポイントを挙げるとすれば、心理小説としての側面だろう。とりわけしつこいぐらいに描かれるケイレブの心理描写は面白い。上でも触れたように、ケイレブは探偵的に行動するものの、その動機は正義でも何でもなく、ただの好奇心だ。それを頭では理解しており、これ以上は踏み込むのはやめようと考えているのに、なぜか探求する気持ちを止めることができない。主人であるフォークランドに対しては本来深く敬愛もしているのに、それでもその秘密を暴かないではいられない。それらの結果として、ケイレブは次々と悲惨な目に遭っていくのに、それでも止められないのである。
このケイレブの不可解な心理。好奇心のなせる業というのは簡単だが、もう少し勘ぐれば、これはケイレブの行動原理が真実に拠りどころを置いているからといえるだろう。ケイレブの中では、常に真実が絶対なのである。
しかし、真実が必ずしも正義や幸福に直結するわけではないことを著者は知っている。むしろ探偵としての活動、つまり人の秘密を暴くことは非常に卑しき行いであり、それを主人に対して行ったケイレブには、当然ながら罰が下されなければならなかったのだ。好奇心の強さから人生をめちゃくちゃにしてしまったケイレブ。そんな男の複雑な意識や心理を体験し、理解するための小説として本作は大変魅力的なのだ。
ちなみにそういった探偵的行為、真実の追求の正義といったものは、エドガ・アラン・ポオによる探偵小説の登場まで待たなければいけなかったわけで、それは論理や真実、科学といったものに対する人間の成熟を待った期間と言えなくもないだろう。
ちなみに本作は1794年の作品である。なかには読みにくさを懸念する人もいるだろうが、訳がいいせいもあって変な読みにくさはまったくない。とはいえ改行は少なく、版面いっぱいに活字が埋まっているので若干気圧されはするだろうが(苦笑)、それよりは描写の密度にこそ目を向けてほしい。
情報量が多いだけでなく、ストーリーや心理描写、会話が地の文で交錯し、くどいぐらいに繰り返され、重ねられていく。そこに慣れるまではちと辛いかもしれないが、先に書いたように文章自体は読みやすいので、慣れてくるとその絡み合う描写が気持ちよく、どんどん引きこまれるはずだ。
ともあれ『ケイレブ・ウィリアムズ』をようやく読めたので、これをきっかけにミステリ以前のミステリも少し開拓していきたいものだ。