Posted in 05 2015
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サッパー『恐怖の島』(論創海外ミステリ)
今さら論創社が何を出しても驚かないのだが、それでもこれには驚いた。本日の読了本はサッパーの『恐怖の島』。
サッパーは1910年代から1930年代にかけて活躍した作家で、もともと軍人あがり。後方部隊で待機中があまりに暇だったからという理由で小説を書き始め、その後、作家に専念したという変わり種である。主に通俗的なスリラーを書き、当時はかなりの人気を集めていたようで、我が国でも『新青年』に短編が掲載されたり、単行本もいくつか出版されている。
だが悲しいかな、当時のこういう作風の書き手、サッパーをはじめJ・S・フレッチャーとかエドガー・ウォーレスとかは、今ではほとんど読まれることがない。二つの大戦に絡んだ時期ということも影響しているのか、内容は一時の暇つぶしというか軽い娯楽に徹したものばかりだから、あえて今読む必要性は確かに低い。せいぜいが歴史的な価値ぐらいで、根本的に需要がないことは容易に想像できる。
ただ、当時の空気感とか国内外の情勢とかが盛り込まれたこれらの作品に、なかなか捨てがたい味があるのも事実。クラシックブームに乗っかって代表作ぐらいは紹介が進めば嬉しいかぎりである。まあ、代表作だけで十分な気はするけれど(笑)。
ではストーリーからいってみよう。
主人公は世界中を冒険して巡り、その名を広く知られる冒険家ジム・メイトランド。久々に帰国したのはいいが、従兄弟につかまり若者の集まるパーティーに出席する羽目になった。おまけにそこで紹介されたジュディという女性に、南米にいる弟のことで相談を受けてしまう。しかもその内容が宝島を見つけるということで、話半分に聞いてしまうジムである。
ところがその帰り道。一発の銃声を聞きつけたジムは、好奇心を抑えきれずその現場と覚しき館へ潜入する。そこで見つけたのはジュディとそっくりの男性の死体だった。果たして彼こそジュディの言っていた弟なのか……。
序盤はご覧のような巻き込まれ型サスペンスで幕を開ける。巻き込まれ型というよりは自分で飛び込んでいったような感じではあるが、掴みとしてはベタだけれども悪くない。
物語はここからある島に隠された財宝をめぐり、敵と味方の宝の地図争奪戦となり、徐々にテンポ&スケールアップ。最終的には宝島へ上陸するが、そこには人知を越えた怪物がいてさあ大変……という一席。
印象としてはサスペンス→スリラー→秘境伝奇小説という流れであり、シリアスからホラ話へと物語が膨れあがっていくのが楽しくもあり馬鹿馬鹿しくもありといった感じ。ネット上の感想を見る限りではあまり評価が高くないようだが、それもむべなるかな、といったところだろう。
だが管理人のようなモンスター&秘境伝奇小説好きにとってはこういう展開は望むところであり、思ったよりは全然楽しめた。
ほどよいテンポで繰り出される謎とアクションとロマンスはやや盛り沢山すぎるが、読者を楽しませることをまず第一に置いたサービス精神は立派。英国冒険小説の伝統を感じさせるスマートな語り口もよい。
財宝発見の件や怪物との戦いなど、ツボもまずまず押さえているし、とりわけ怪物の出し惜しみっぷりが意外に巧くて、サスペンスをうまく盛り上げている。
繰り返しになるけれど、もっとひどいレベルを想像していただけに、これぐらいやってくれれば十分。この水準ならサッパーの代表シリーズ、ブルドッグ・ドラモンドものも一度は読んでおきたいので、論創社さま、よろしくお願いいたします。
サッパーは1910年代から1930年代にかけて活躍した作家で、もともと軍人あがり。後方部隊で待機中があまりに暇だったからという理由で小説を書き始め、その後、作家に専念したという変わり種である。主に通俗的なスリラーを書き、当時はかなりの人気を集めていたようで、我が国でも『新青年』に短編が掲載されたり、単行本もいくつか出版されている。
だが悲しいかな、当時のこういう作風の書き手、サッパーをはじめJ・S・フレッチャーとかエドガー・ウォーレスとかは、今ではほとんど読まれることがない。二つの大戦に絡んだ時期ということも影響しているのか、内容は一時の暇つぶしというか軽い娯楽に徹したものばかりだから、あえて今読む必要性は確かに低い。せいぜいが歴史的な価値ぐらいで、根本的に需要がないことは容易に想像できる。
ただ、当時の空気感とか国内外の情勢とかが盛り込まれたこれらの作品に、なかなか捨てがたい味があるのも事実。クラシックブームに乗っかって代表作ぐらいは紹介が進めば嬉しいかぎりである。まあ、代表作だけで十分な気はするけれど(笑)。
ではストーリーからいってみよう。
主人公は世界中を冒険して巡り、その名を広く知られる冒険家ジム・メイトランド。久々に帰国したのはいいが、従兄弟につかまり若者の集まるパーティーに出席する羽目になった。おまけにそこで紹介されたジュディという女性に、南米にいる弟のことで相談を受けてしまう。しかもその内容が宝島を見つけるということで、話半分に聞いてしまうジムである。
ところがその帰り道。一発の銃声を聞きつけたジムは、好奇心を抑えきれずその現場と覚しき館へ潜入する。そこで見つけたのはジュディとそっくりの男性の死体だった。果たして彼こそジュディの言っていた弟なのか……。
序盤はご覧のような巻き込まれ型サスペンスで幕を開ける。巻き込まれ型というよりは自分で飛び込んでいったような感じではあるが、掴みとしてはベタだけれども悪くない。
物語はここからある島に隠された財宝をめぐり、敵と味方の宝の地図争奪戦となり、徐々にテンポ&スケールアップ。最終的には宝島へ上陸するが、そこには人知を越えた怪物がいてさあ大変……という一席。
印象としてはサスペンス→スリラー→秘境伝奇小説という流れであり、シリアスからホラ話へと物語が膨れあがっていくのが楽しくもあり馬鹿馬鹿しくもありといった感じ。ネット上の感想を見る限りではあまり評価が高くないようだが、それもむべなるかな、といったところだろう。
だが管理人のようなモンスター&秘境伝奇小説好きにとってはこういう展開は望むところであり、思ったよりは全然楽しめた。
ほどよいテンポで繰り出される謎とアクションとロマンスはやや盛り沢山すぎるが、読者を楽しませることをまず第一に置いたサービス精神は立派。英国冒険小説の伝統を感じさせるスマートな語り口もよい。
財宝発見の件や怪物との戦いなど、ツボもまずまず押さえているし、とりわけ怪物の出し惜しみっぷりが意外に巧くて、サスペンスをうまく盛り上げている。
繰り返しになるけれど、もっとひどいレベルを想像していただけに、これぐらいやってくれれば十分。この水準ならサッパーの代表シリーズ、ブルドッグ・ドラモンドものも一度は読んでおきたいので、論創社さま、よろしくお願いいたします。
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ジョージェット・ヘイヤー『紳士と月夜の晒し台』(創元推理文庫)
ジョージェット・ヘイヤーの『紳士と月夜の晒し台』を読む。あまり馴染みのない名前だけれど、森氏の『世界ミステリ作家事典 本格派篇』にもちゃんと載っている、歴とした黄金期のミステリ作家。四年ほど前に創元から二冊刊行されたものの、なんとなく食指が動かなくてしばらく積んでいたのだが、今年に入って論創海外ミステリからも刊行されたため、そろそろ潮時と思って読み始める。
ロンドンから程近くにある小さな村アシュリー・グリーン。深夜、その村の広場にある晒し台で、両足を突っ込んだまま死んでいる男が発見された。被害者はロンドンで会社を経営するアーノルド。地元警察は被害者が地元民ではないと知るや、早々にスコットランドヤードに応援を頼み、ロンドンからハナサイド警視がやってくる。
捜査は意外に難航した。アーノルドは日頃の言動から敵が多く、容疑者だらけだったのだ。アーノルドの腹違いの弟ケネスに妹アントニア、その婚約者メジャラー、さらには死んだと思われていたアーノルドの兄ロジャー。しかし動機は山ほどあるが決定的な証拠はない。おまけに彼らの誰もが変人だらけで……。
上で著者に馴染みがないとは書いたが、実はジョージェット・ヘイヤー、歴史ロマンスの世界ではなかなかの大家らしく、なんとミステリ以外での邦訳作品が既にいくつかあるとのこと。ううむ、まだまだ知らないことは多いのう。
それはともかく。ロマンスの書き手らしく、ストーリーは登場人物たちの恋愛模様も巧く織り交ぜつつ、関係者の推理合戦的様相で読ませるという、なかなかの芸達者振りを披露している。正直、推理合戦というより半分は無駄口、おふざけといったもので、とにかくそのやりとりが非常に面白いというか神経に障るというか(苦笑)。大した展開があるわけではないけれど、ページターナーであることは間違いないだろう。
一方でミステリ的興味で読ませるかとなると、こちらはやや苦しいところだ。本格としてのフォーマットはまずまず、伏線なども一応はあるけれど、肝心の決め手になる部分の出し方は上手とはいえないし、表題にもなっている晒し台のネタは腰砕け。もうひとつ肝を外している感じは否めない。
邦訳はまだ二作残っているから性急な結論は避けたいが、このレベルが続くようなら辛いかな。
ロンドンから程近くにある小さな村アシュリー・グリーン。深夜、その村の広場にある晒し台で、両足を突っ込んだまま死んでいる男が発見された。被害者はロンドンで会社を経営するアーノルド。地元警察は被害者が地元民ではないと知るや、早々にスコットランドヤードに応援を頼み、ロンドンからハナサイド警視がやってくる。
捜査は意外に難航した。アーノルドは日頃の言動から敵が多く、容疑者だらけだったのだ。アーノルドの腹違いの弟ケネスに妹アントニア、その婚約者メジャラー、さらには死んだと思われていたアーノルドの兄ロジャー。しかし動機は山ほどあるが決定的な証拠はない。おまけに彼らの誰もが変人だらけで……。
上で著者に馴染みがないとは書いたが、実はジョージェット・ヘイヤー、歴史ロマンスの世界ではなかなかの大家らしく、なんとミステリ以外での邦訳作品が既にいくつかあるとのこと。ううむ、まだまだ知らないことは多いのう。
それはともかく。ロマンスの書き手らしく、ストーリーは登場人物たちの恋愛模様も巧く織り交ぜつつ、関係者の推理合戦的様相で読ませるという、なかなかの芸達者振りを披露している。正直、推理合戦というより半分は無駄口、おふざけといったもので、とにかくそのやりとりが非常に面白いというか神経に障るというか(苦笑)。大した展開があるわけではないけれど、ページターナーであることは間違いないだろう。
一方でミステリ的興味で読ませるかとなると、こちらはやや苦しいところだ。本格としてのフォーマットはまずまず、伏線なども一応はあるけれど、肝心の決め手になる部分の出し方は上手とはいえないし、表題にもなっている晒し台のネタは腰砕け。もうひとつ肝を外している感じは否めない。
邦訳はまだ二作残っているから性急な結論は避けたいが、このレベルが続くようなら辛いかな。
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太宰治『文豪怪談傑作選 太宰治集 哀蚊』(ちくま文庫)
『文豪怪談傑作選 太宰治集 哀蚊』を読む。太宰治については以前、河出文庫の『文豪ミステリ傑作選 太宰治集』を取り上げたことがあるのだが、あちらはけっこう強引にミステリで括った感じが強くて、質はともかくテーマ的には看板に偽りあり感が強かった(苦笑)。さて本書はどうか?
「怪談」
「哀蚊」
「尼 「陰火」より」
「玩具」
「魚服記」
「清貧譚」
「竹青 新曲聊斎志異」
「人魚の海 「新釈諸国噺」より」
「舌切雀 「お伽草紙」より」
「浦島さん 「お伽草紙」より」
「創世記(抄)」
「断崖の錯覚」
「雌に就いて」
「女人訓戒」
「待つ」
「皮膚と心」
「葉桜と魔笛」
「フォスフォレッスセンス」
「メリイクリスマス」
「トカトントン」
「魚服記に就いて」 「古典竜頭蛇尾」
「音に就いて」
「ア、秋」
「むかしの亡者」
「五所川原」
「革財布」
「一つの約束」
うむ、意外に既読作品が多かったが、さすがに納得の一冊である。退廃的私小説の書き手であり、デカダンなイメージの太宰治だが、実際には幅広い内容の作品を残しており、本書でもそのテクニシャンぶりを再認識できる。怪談というアプローチで太宰治がどういう作品を残したのか、ファンならずとも興味深い一冊といえるだろう。
ただ正直いうと、一般的な"怪談"を期待して本書を読むと、拍子抜けする可能性は高い。
確かに奇妙な現象や理屈で説明できない事象などを素材として扱ってはいる。幼少の頃から怪談に影響を受け、素材としては好きだったのだろう。だからといって太宰がストレートに"恐怖"を描きたかったのかというと、おそらくそんなことはないはず。
作品の底に共通して流れるのはやはり生きることの意味、生に対する不安や苦悩、喜びであり、描きたかったのもそういうことだ。怪談という形式は目的ではなく、あくまで手段という印象である。
以下、印象に残った作品について少し。
トップバッターの「怪談」は、太宰の体験談というスタイルで怪談を紹介するものだが、内容自体は他愛ない。 太宰の怪談に対する思いを述べた巻頭言みたいな作品と思うべきか。
表題作の「哀蚊」は本書のイチ押し。秋まで生き残されている蚊を哀蚊といい、本作の主人公たる独り身の老嬢の晩年に重ね合わせている。怪談として落ち る最後のシーンはとてつもなく印象的でどうしようもなく切ない。ちなみに本書の表紙絵は本作のイメージなのだが、これがまた実にいい雰囲気を出していてお気に入りである。
「尼」は枕元に突然現れた尼さんの物語。怪談といってもいいが、むしろそのシュールな雰囲気と展開が面白い。
「魚服記」と「清貧譚」は民話をベースにしており、怪談というよりは幻想小説の趣。「魚服記」は切々と伝わってくるもの悲しさ、「清貧譚」はしみじみとした温もりと、味わいは異なれどどちらもなかなか。
「竹青―新曲聊斎志異―」はサブタイトルにもあるとおり『聊斎志異』から題材をとったもの。説教臭さはあるけれど、お伽話的で嫌いではない。
「舌切雀」、「浦島さん」は太宰流のお伽草子。「浦島さん」のほうが出来はいいが、この手のアレンジは正直食傷気味でそれほど感心できなかった。
怪談というよりはサスペンス小説としても読めるのが 「断崖の錯覚」。構図としてはよくできているけれど、結局私小説風の描写が全体を覆いすぎていて、読んでいてイライラする(笑)。
感想に困るのが「雌に就いて」。二人の男が理想の女性について会話するだけの物語で、最後にオチをつけてはいるが、これで怪談と言われても。まあ、女性を語るふりをして、実は太宰治がいかにして小説を書いているかというふうにも読め、その点では面白い。
「皮膚と心」は病気をきっかけに女性の鬱屈した心理を生々しく描写しており、その限りでは巧い作品なのだが、本書に収録された理由がピンとこなかった。
「葉桜と魔笛」は戦前の変格探偵小説っぽい話で、横溝正史もこういうのを書いていたような気が。イメージが儚く美しいうえに、ラストのオチが効いており、以前から好きな作品である。
「怪談」
「哀蚊」
「尼 「陰火」より」
「玩具」
「魚服記」
「清貧譚」
「竹青 新曲聊斎志異」
「人魚の海 「新釈諸国噺」より」
「舌切雀 「お伽草紙」より」
「浦島さん 「お伽草紙」より」
「創世記(抄)」
「断崖の錯覚」
「雌に就いて」
「女人訓戒」
「待つ」
「皮膚と心」
「葉桜と魔笛」
「フォスフォレッスセンス」
「メリイクリスマス」
「トカトントン」
「魚服記に就いて」 「古典竜頭蛇尾」
「音に就いて」
「ア、秋」
「むかしの亡者」
「五所川原」
「革財布」
「一つの約束」
うむ、意外に既読作品が多かったが、さすがに納得の一冊である。退廃的私小説の書き手であり、デカダンなイメージの太宰治だが、実際には幅広い内容の作品を残しており、本書でもそのテクニシャンぶりを再認識できる。怪談というアプローチで太宰治がどういう作品を残したのか、ファンならずとも興味深い一冊といえるだろう。
ただ正直いうと、一般的な"怪談"を期待して本書を読むと、拍子抜けする可能性は高い。
確かに奇妙な現象や理屈で説明できない事象などを素材として扱ってはいる。幼少の頃から怪談に影響を受け、素材としては好きだったのだろう。だからといって太宰がストレートに"恐怖"を描きたかったのかというと、おそらくそんなことはないはず。
作品の底に共通して流れるのはやはり生きることの意味、生に対する不安や苦悩、喜びであり、描きたかったのもそういうことだ。怪談という形式は目的ではなく、あくまで手段という印象である。
以下、印象に残った作品について少し。
トップバッターの「怪談」は、太宰の体験談というスタイルで怪談を紹介するものだが、内容自体は他愛ない。 太宰の怪談に対する思いを述べた巻頭言みたいな作品と思うべきか。
表題作の「哀蚊」は本書のイチ押し。秋まで生き残されている蚊を哀蚊といい、本作の主人公たる独り身の老嬢の晩年に重ね合わせている。怪談として落ち る最後のシーンはとてつもなく印象的でどうしようもなく切ない。ちなみに本書の表紙絵は本作のイメージなのだが、これがまた実にいい雰囲気を出していてお気に入りである。
「尼」は枕元に突然現れた尼さんの物語。怪談といってもいいが、むしろそのシュールな雰囲気と展開が面白い。
「魚服記」と「清貧譚」は民話をベースにしており、怪談というよりは幻想小説の趣。「魚服記」は切々と伝わってくるもの悲しさ、「清貧譚」はしみじみとした温もりと、味わいは異なれどどちらもなかなか。
「竹青―新曲聊斎志異―」はサブタイトルにもあるとおり『聊斎志異』から題材をとったもの。説教臭さはあるけれど、お伽話的で嫌いではない。
「舌切雀」、「浦島さん」は太宰流のお伽草子。「浦島さん」のほうが出来はいいが、この手のアレンジは正直食傷気味でそれほど感心できなかった。
怪談というよりはサスペンス小説としても読めるのが 「断崖の錯覚」。構図としてはよくできているけれど、結局私小説風の描写が全体を覆いすぎていて、読んでいてイライラする(笑)。
感想に困るのが「雌に就いて」。二人の男が理想の女性について会話するだけの物語で、最後にオチをつけてはいるが、これで怪談と言われても。まあ、女性を語るふりをして、実は太宰治がいかにして小説を書いているかというふうにも読め、その点では面白い。
「皮膚と心」は病気をきっかけに女性の鬱屈した心理を生々しく描写しており、その限りでは巧い作品なのだが、本書に収録された理由がピンとこなかった。
「葉桜と魔笛」は戦前の変格探偵小説っぽい話で、横溝正史もこういうのを書いていたような気が。イメージが儚く美しいうえに、ラストのオチが効いており、以前から好きな作品である。
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橘外男『私は呪われている』(戎光祥出版)
先日読んだ『死の谷を越えて―イキトスの怪塔―』は読めただけでもありがたいし、見るべきところも多々ある作品だが、いろいろと欠陥も多い作品だったから、消化不良感がないといえば嘘になる。ならばというわけで、もう一冊続けて橘外男を読むことにした。ミステリ珍本全集の第6巻として刊行された『私は呪われている』である。
橘外男というだけでも十分お腹いっぱいになるところへ、ミステリ珍本全集(日下氏編集)というフィルターが入るわけだから、これは相当期待してよいはずである。かの時代の探偵小説に過大な期待は禁物なのだが、いや、これは期待するなという方が無理でしょ。
「私は呪われている」
「双面の舞姫」
「人を呼ぶ湖」
「ムズターグ山(ムズターグアタ)」
「魔人ウニ・ウスの夜襲」
「雨傘の女」
収録作は以上。「私は呪われている」は戦後に書かれた長編。「双面の舞姫」と「人を呼ぶ湖」はジュヴナイルの長編、中編。残りの三作は短編で、これまで単行本に未収録だった作品である。
ミステリ珍本全集に採られるぐらいだからどれもレアどころだし、これまで復刊や書籍化されてこなかった原因や理由はもちろんあるのだが、読み物としてはどれも予想を上回る面白さである。
まず表題作の「私は呪われている」。これは伝奇小説あるいはホラー小説の類であり、より具体的に言うなら化け猫小説である。
発端は山陰地方にやってきたある学生が目撃したという化け猫の事件。地元警察の多田署長は馬鹿らしいと思いながらもひととおりの調査を行うが、それらしい事実は認められなかった。だがその学生が帰省後に不審な死を遂げてしまう。時を同じくして水戸では若きエリート警察署長が妹殺害事件を引き起こす。二つの事件に共通する老坂村の存在が気になった多田署長は、自らその村を訪ねるが、そこで事件につながる過去の因縁話を老僧から聞かされることになる……。
この老僧の話、すなわち幕末を舞台にした時代もののパートがいわば本編となる。ざくっとまとめると、元城主の父の悪行によって逆恨みされた若殿が、その汚名をすすぐべく奮闘するも報われず、逆にだまし討ちにあって命を落とす。その仇を討つは若殿を慕う大猫であった、という一席。
橘外男の過剰なまでのテンションは伝奇小説にこそよくマッチする。しかも外国を舞台にした物語より、こういう日本を舞台にしたおどろどろしい雰囲気にこそ最適なのかもしれない。時代がかった大仰な語り口が時代物に合うというのもあるし、読み手に見せ場やクライマックスをきちんと予測させ、カタルシスを与えるよう書けるのはさすがの技術である。
本作でも時代もののパートでは救われない感じを受ける人もあるだろうが、凄惨な内容とユーモラスな味付けがバランス良く配合されていて、リーダビリティはすこぶる高い。特に大猫が活躍する場面は圧巻で、いまの特撮技術で映画化してもらいたいぐらいの気持ちである。
残念なのは前後を挟んだ現代のパートがあまりうまく消化されていないことだ。正直、時代物のパートだけで完結させてよかったのではないかと思うぐらいで、橘外男の構成力があまりあてにならないことは最近よくわかってきたのだが(笑)、こういう長めの話になってくるとよりその弱点が顕著になってくる。猫の怨念が現代に蘇ったのか、あるいは連綿と祟りが続いていたのか、この辺りはもう少し親切にやってほしかったところ。
それでも表題作として十分務めは果たしており、個人的にもお気に入りの一作である。
表題作以上にインパクトがあったのは 「双面の舞姫」。
物語は大富豪の老紳士が警視庁を訪れる場面から幕を開ける。老紳士の娘は十五年前に旅行先で行方不明になっており、手がかりすら掴むことはできなかった。 その行方不明の娘が、大晦日の夜、突然、家へ戻ってきたという。しかし、その姿は黒い布ですべて覆われ、体からは異臭が発せられていた。やがて娘は失踪当時の状況やこれまでの経緯を説明するが、それは恐るべき内容であり、老紳士はその出来事を報告しにきたのだった。
ううむ、これはやばい。ジュヴナイルといえば、それこそ盛林堂さんの『死の谷を越えて―イキトスの怪塔―』を読んだばかりだが、あちらはテンションをキープしつつもさすがに諸々はジュヴナイル仕様ではあった。ところが本作は根本的にものが違う。
もともとは海外を舞台にした大人向けの作品「青白き裸女群像」であり、それを日本を舞台にした児童向けに改作したのが本作。根っこにはある病気を扱っているのだが、当時の理解不足やそこからくる差別問題等の絡みで非常に問題の多い内容になってしまっている。しかもヒロインを襲う悲劇とか悪の組織の設定とかが強烈すぎて、いや当時(1953年)はともかく、よくこれがいま出版できたものだ。
そういった内容は置いておいて、小説の技術的なところに目をやると、これも構成的にはやや強引。エピソーごとのインパクトはあるが、全体を通しての盛り上げはぎこちなく、風呂敷をたたむのはやはり苦手という印象だった。
「人を呼ぶ湖」も児童向けである。 「双面の舞姫」の後ではさすがに分が悪いが、水死体のイメージに関する描写は上手い。
短編 「ムズターグ山(ムズターグアタ)」と「魔人ウニ・ウスの夜襲」はほぼ同じ設定の物語で、橘外男の改稿癖を知るための作品としては面白い。
というわけで非常に充実の一冊であった。ちなみにミステリ珍本全集は本書をもって第一期終了らしいが、ご存知のようにすでに第二期が大河内常平『九十九本の妖刀』でスタートしている。これも大変楽しみな一冊であり、こちらの感想もそのうちに。
橘外男というだけでも十分お腹いっぱいになるところへ、ミステリ珍本全集(日下氏編集)というフィルターが入るわけだから、これは相当期待してよいはずである。かの時代の探偵小説に過大な期待は禁物なのだが、いや、これは期待するなという方が無理でしょ。
「私は呪われている」
「双面の舞姫」
「人を呼ぶ湖」
「ムズターグ山(ムズターグアタ)」
「魔人ウニ・ウスの夜襲」
「雨傘の女」
収録作は以上。「私は呪われている」は戦後に書かれた長編。「双面の舞姫」と「人を呼ぶ湖」はジュヴナイルの長編、中編。残りの三作は短編で、これまで単行本に未収録だった作品である。
ミステリ珍本全集に採られるぐらいだからどれもレアどころだし、これまで復刊や書籍化されてこなかった原因や理由はもちろんあるのだが、読み物としてはどれも予想を上回る面白さである。
まず表題作の「私は呪われている」。これは伝奇小説あるいはホラー小説の類であり、より具体的に言うなら化け猫小説である。
発端は山陰地方にやってきたある学生が目撃したという化け猫の事件。地元警察の多田署長は馬鹿らしいと思いながらもひととおりの調査を行うが、それらしい事実は認められなかった。だがその学生が帰省後に不審な死を遂げてしまう。時を同じくして水戸では若きエリート警察署長が妹殺害事件を引き起こす。二つの事件に共通する老坂村の存在が気になった多田署長は、自らその村を訪ねるが、そこで事件につながる過去の因縁話を老僧から聞かされることになる……。
この老僧の話、すなわち幕末を舞台にした時代もののパートがいわば本編となる。ざくっとまとめると、元城主の父の悪行によって逆恨みされた若殿が、その汚名をすすぐべく奮闘するも報われず、逆にだまし討ちにあって命を落とす。その仇を討つは若殿を慕う大猫であった、という一席。
橘外男の過剰なまでのテンションは伝奇小説にこそよくマッチする。しかも外国を舞台にした物語より、こういう日本を舞台にしたおどろどろしい雰囲気にこそ最適なのかもしれない。時代がかった大仰な語り口が時代物に合うというのもあるし、読み手に見せ場やクライマックスをきちんと予測させ、カタルシスを与えるよう書けるのはさすがの技術である。
本作でも時代もののパートでは救われない感じを受ける人もあるだろうが、凄惨な内容とユーモラスな味付けがバランス良く配合されていて、リーダビリティはすこぶる高い。特に大猫が活躍する場面は圧巻で、いまの特撮技術で映画化してもらいたいぐらいの気持ちである。
残念なのは前後を挟んだ現代のパートがあまりうまく消化されていないことだ。正直、時代物のパートだけで完結させてよかったのではないかと思うぐらいで、橘外男の構成力があまりあてにならないことは最近よくわかってきたのだが(笑)、こういう長めの話になってくるとよりその弱点が顕著になってくる。猫の怨念が現代に蘇ったのか、あるいは連綿と祟りが続いていたのか、この辺りはもう少し親切にやってほしかったところ。
それでも表題作として十分務めは果たしており、個人的にもお気に入りの一作である。
表題作以上にインパクトがあったのは 「双面の舞姫」。
物語は大富豪の老紳士が警視庁を訪れる場面から幕を開ける。老紳士の娘は十五年前に旅行先で行方不明になっており、手がかりすら掴むことはできなかった。 その行方不明の娘が、大晦日の夜、突然、家へ戻ってきたという。しかし、その姿は黒い布ですべて覆われ、体からは異臭が発せられていた。やがて娘は失踪当時の状況やこれまでの経緯を説明するが、それは恐るべき内容であり、老紳士はその出来事を報告しにきたのだった。
ううむ、これはやばい。ジュヴナイルといえば、それこそ盛林堂さんの『死の谷を越えて―イキトスの怪塔―』を読んだばかりだが、あちらはテンションをキープしつつもさすがに諸々はジュヴナイル仕様ではあった。ところが本作は根本的にものが違う。
もともとは海外を舞台にした大人向けの作品「青白き裸女群像」であり、それを日本を舞台にした児童向けに改作したのが本作。根っこにはある病気を扱っているのだが、当時の理解不足やそこからくる差別問題等の絡みで非常に問題の多い内容になってしまっている。しかもヒロインを襲う悲劇とか悪の組織の設定とかが強烈すぎて、いや当時(1953年)はともかく、よくこれがいま出版できたものだ。
そういった内容は置いておいて、小説の技術的なところに目をやると、これも構成的にはやや強引。エピソーごとのインパクトはあるが、全体を通しての盛り上げはぎこちなく、風呂敷をたたむのはやはり苦手という印象だった。
「人を呼ぶ湖」も児童向けである。 「双面の舞姫」の後ではさすがに分が悪いが、水死体のイメージに関する描写は上手い。
短編 「ムズターグ山(ムズターグアタ)」と「魔人ウニ・ウスの夜襲」はほぼ同じ設定の物語で、橘外男の改稿癖を知るための作品としては面白い。
というわけで非常に充実の一冊であった。ちなみにミステリ珍本全集は本書をもって第一期終了らしいが、ご存知のようにすでに第二期が大河内常平『九十九本の妖刀』でスタートしている。これも大変楽しみな一冊であり、こちらの感想もそのうちに。
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野村芳太郎『配達されない三通の手紙』
1979年に公開された野村芳太郎監督によるミステリ映画『配達されない三通の手紙』をDVDで視聴。
原作はあのエラリイ・クイーン中期の傑作にしてライツヴィルものの第一作、『災厄の町』である。名匠、野村芳太郎がエラリイ・クイーンの傑作を映画化するということで、当時はそこそこ話題になったものだが、いかんせん今ではミステリファンでも知っている人は少ないかも。
映画史においてもミステリ史においてもすっかり影が薄くなった『配達されない三通の手紙』だが、久々に観直しての感想となる。
まずはストーリー。
山口県萩市で名家として知られる唐沢家。銀行を経営する光政を筆頭に、妻のすみ江、次女の紀子、三女の恵子とともに暮らしていた。そこへ日本文化を学ぶため、アメリカへから親戚のロバートという青年がやってきた。歓迎する一家だが、次女の紀子だけは気分がすぐれない様子。彼女は三年前に婚約相手だった藤村敏行が突如失踪して以来、自宅に引きこもる毎日だったのだ。
そんなある日、藤村が突然、萩に帰ってきた。光政は娘に与えた悲しみと家の面子を傷つけられたことから、藤村を許すつもりはなかったが、紀子可愛さから二人の結婚を認めることにする。
だがその幸福も束の間の出来事だった。結婚翌日から現れた藤村の妹、智子、そして紀子が見つけた三通の手紙の存在が、再び唐沢家に悲劇を招くことになる……。
ううむ、大筋では確かに『災厄の町』だが、やはり日本に舞台を置き換えたことでいろいろと無理が目立つし、演出にも疑問が残る(むしろこちらが問題なのだが)。
いいところで言うと、やはり俳優陣の熱演に尽きる。とりわけ紀子役の栗原小巻、智子役の松坂慶子は絶品。義理の姉妹という表面的な関係に隠された因縁の凄まじさを、天下の美女が熱演している。長女麗子役の小川眞由美も出番は少ないながら存在感はさすがだ。
エラリー・クイーン役の蟇目良はずいぶん脇役的になってしまっているが、傍観者としての立ち振る舞いがいい距離感で思ったほど悪いイメージではなかった。
まずいところは先に書いたとおりなのだが、一番の問題はドラマ性を強調するのか本格ミステリとしていくのか、あるいは(ハードルが高いけれども)それを両立させるのかがはっきりしていないことだろう。それらが中途半端なせいかアラばかりが目立ち、結果的に豪華な二時間サスペンスドラマのような効果しか生んでいないのである。
具体例を挙げていくときりがないのだが、ミステリとしては、妹の存在を結婚相手に教えないとか、警察がヒ素の入手経路を調べないとか、被害者の身元も調べないとか、基本的なことを疎かにしているのはお粗末。また、推理の道筋をきちんと説明する場面が意外にさらっと流されているのは残念。探偵役が原作ほどには固定されていないこともあるのか、特にラストの事件を総括するシーンは物足りない。
ドラマとしても恵子のロバートの関係性をまったく無視していることとか、智子の存在についての説明不足とか、後半に登場する記者の意義についての説明不足とかが非常に残念。原作『災厄の町』についてはかなり忘れたところも多いのであまり断言できないのだが、人間心理や宗教、共同体と個の関係などといったところが重点的に描写されていたはずで、だからこそ傑作たり得たはず。これをほぼ三人の愛憎の問題だけに絞ったところが、本作最大のマイナス要因となるのだろう。二時間サスペンスドラマと呼ばれるのもむべなるかな。
クイーン原作とか野村芳太郎のミステリ映画とかの先入観なしに、できれば過度な期待を抱かず観れば、それなりには楽しめる一作である。
原作はあのエラリイ・クイーン中期の傑作にしてライツヴィルものの第一作、『災厄の町』である。名匠、野村芳太郎がエラリイ・クイーンの傑作を映画化するということで、当時はそこそこ話題になったものだが、いかんせん今ではミステリファンでも知っている人は少ないかも。
映画史においてもミステリ史においてもすっかり影が薄くなった『配達されない三通の手紙』だが、久々に観直しての感想となる。
まずはストーリー。
山口県萩市で名家として知られる唐沢家。銀行を経営する光政を筆頭に、妻のすみ江、次女の紀子、三女の恵子とともに暮らしていた。そこへ日本文化を学ぶため、アメリカへから親戚のロバートという青年がやってきた。歓迎する一家だが、次女の紀子だけは気分がすぐれない様子。彼女は三年前に婚約相手だった藤村敏行が突如失踪して以来、自宅に引きこもる毎日だったのだ。
そんなある日、藤村が突然、萩に帰ってきた。光政は娘に与えた悲しみと家の面子を傷つけられたことから、藤村を許すつもりはなかったが、紀子可愛さから二人の結婚を認めることにする。
だがその幸福も束の間の出来事だった。結婚翌日から現れた藤村の妹、智子、そして紀子が見つけた三通の手紙の存在が、再び唐沢家に悲劇を招くことになる……。
ううむ、大筋では確かに『災厄の町』だが、やはり日本に舞台を置き換えたことでいろいろと無理が目立つし、演出にも疑問が残る(むしろこちらが問題なのだが)。
いいところで言うと、やはり俳優陣の熱演に尽きる。とりわけ紀子役の栗原小巻、智子役の松坂慶子は絶品。義理の姉妹という表面的な関係に隠された因縁の凄まじさを、天下の美女が熱演している。長女麗子役の小川眞由美も出番は少ないながら存在感はさすがだ。
エラリー・クイーン役の蟇目良はずいぶん脇役的になってしまっているが、傍観者としての立ち振る舞いがいい距離感で思ったほど悪いイメージではなかった。
まずいところは先に書いたとおりなのだが、一番の問題はドラマ性を強調するのか本格ミステリとしていくのか、あるいは(ハードルが高いけれども)それを両立させるのかがはっきりしていないことだろう。それらが中途半端なせいかアラばかりが目立ち、結果的に豪華な二時間サスペンスドラマのような効果しか生んでいないのである。
具体例を挙げていくときりがないのだが、ミステリとしては、妹の存在を結婚相手に教えないとか、警察がヒ素の入手経路を調べないとか、被害者の身元も調べないとか、基本的なことを疎かにしているのはお粗末。また、推理の道筋をきちんと説明する場面が意外にさらっと流されているのは残念。探偵役が原作ほどには固定されていないこともあるのか、特にラストの事件を総括するシーンは物足りない。
ドラマとしても恵子のロバートの関係性をまったく無視していることとか、智子の存在についての説明不足とか、後半に登場する記者の意義についての説明不足とかが非常に残念。原作『災厄の町』についてはかなり忘れたところも多いのであまり断言できないのだが、人間心理や宗教、共同体と個の関係などといったところが重点的に描写されていたはずで、だからこそ傑作たり得たはず。これをほぼ三人の愛憎の問題だけに絞ったところが、本作最大のマイナス要因となるのだろう。二時間サスペンスドラマと呼ばれるのもむべなるかな。
クイーン原作とか野村芳太郎のミステリ映画とかの先入観なしに、できれば過度な期待を抱かず観れば、それなりには楽しめる一作である。
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橘外男『死の谷を越えて—イキトスの怪塔—』(盛林堂ミステリアス文庫)
橘外男の『死の谷を越えて—イキトスの怪塔—』を読む。版元は盛林堂ミステリアス文庫。
以前にも書いたが、盛林堂ミステリアス文庫は西荻窪の古書店、盛林堂さんが発行している叢書で、商業出版ではとても成り立たない企画をやってくれるのがありがたい。
『死の谷を越えて —イキトスの怪塔—』も、橘外男という程度ならまだ商業出版の可能性はあるのだが、これが戦後間もない頃のジュヴナイル、しかも内容が想像以上にアレだったから(笑)、いや、戎光祥出版のミステリ珍本全集あたりならともかく、これは普通の出版社だと絶対に出せないだろうな。ぜひ今後も大手がなかなか参入できないあたりをチクチク狙っていってもらいたいものである。
さて『死の谷を越えて—イキトスの怪塔—』だが、まずはストーリー。
インドの北端、高峰連なる一帯に小さな村があった。英国領事マアロウ一行は旅の途中に束の間の休息をとっていたが、そこに半人半獣の怪物、身の丈は2.3メートル、頭髪も鼻もないまるで海坊主のような異形な者が出現したという知らせが舞い込んだ。村人の頼みもあり、マアロウたちは気軽に視察へ赴いたが、一行はそこでまさしく半人半獣の怪物に襲われ、かろうじてマアロウだけが命を取り止める。帰国したマアロウの話に科学者たちはどよめき、最新の研究を重ね合わせた結果、怪物の正体は実に意外なものであった……。
ところかわってブラジル。アマゾンの奥地に開ける都市ネマルドナードに住む勝彦という日本人少年がいた。ブラジルで事業に成功した両親らと幸せに暮らしていたある日のこと、勝彦は立入を禁止されている河に入り込み、不思議な箱を入手るが……。
本作は昭和二十五年から二十六年にわたって雑誌『中学生の友』に連載された作品で、初の単行本化である。橘外男といえばテンション高めのエログロ秘境小説というイメージが最初にくるが、こうした児童向けの小説でもガッツリそのテイストを維持して書いているのが素晴らしい。
特に前半のインドを舞台にしたパートでは、ジュヴナイルなのに子供はまったく登場せず、怪物によって人々が殺害されたり女性がさらわれていく描写など、大人向けのものと遜色はない。ジュヴナイルゆえ「ですます」体の文章を用いているが、むしろその丁寧さが逆に効果を盛り上げているところもある。
もちろんエロ描写は控えているし、大人向けなら人獣婚交について示唆するところも省略されている。もっと奔放に書きたかったところもあるのだろうが、なかなか健闘しているといえるだろう。
ただ、後半になるとその勢いが失速していくのは残念。おそらく子供を主人公にという編集部側からの要請もあったのだろう。ここにきて勝彦少年が主人公となり、ようやくジュヴナイルらしくなってくるのだが、まあ、それはいい。
問題は、前半のインド編が後半のブラジル編とほとんど何のつながりもないことである。しかも明らかに連載終了に間に合わなかったためだろう、最後はやっつけといってよい展開。勝彦をはじめとする少年たちの活躍があらすじのように語られてお終いである。題名にある「死の谷を越えて」や「イキトスの怪塔」というキーワードもこのあらすじもどきで初登場する始末だ。
ただ、作者の構想は理解できる。本来は勝彦少年の活躍によって怪物を退治するという展開をみっちりとやり、そのなかでインド編の伏線も回収する予定だったのだろう。橘外男の発想は子供雑誌の連載ではとても収まりきらなかったということか(笑)。
まあ完成度ではグダグダの一冊だが、橘外男のパッションは十分伝わってきたし、極めてレアな作品がこうして読めたことに満足である。
以前にも書いたが、盛林堂ミステリアス文庫は西荻窪の古書店、盛林堂さんが発行している叢書で、商業出版ではとても成り立たない企画をやってくれるのがありがたい。
『死の谷を越えて —イキトスの怪塔—』も、橘外男という程度ならまだ商業出版の可能性はあるのだが、これが戦後間もない頃のジュヴナイル、しかも内容が想像以上にアレだったから(笑)、いや、戎光祥出版のミステリ珍本全集あたりならともかく、これは普通の出版社だと絶対に出せないだろうな。ぜひ今後も大手がなかなか参入できないあたりをチクチク狙っていってもらいたいものである。
さて『死の谷を越えて—イキトスの怪塔—』だが、まずはストーリー。
インドの北端、高峰連なる一帯に小さな村があった。英国領事マアロウ一行は旅の途中に束の間の休息をとっていたが、そこに半人半獣の怪物、身の丈は2.3メートル、頭髪も鼻もないまるで海坊主のような異形な者が出現したという知らせが舞い込んだ。村人の頼みもあり、マアロウたちは気軽に視察へ赴いたが、一行はそこでまさしく半人半獣の怪物に襲われ、かろうじてマアロウだけが命を取り止める。帰国したマアロウの話に科学者たちはどよめき、最新の研究を重ね合わせた結果、怪物の正体は実に意外なものであった……。
ところかわってブラジル。アマゾンの奥地に開ける都市ネマルドナードに住む勝彦という日本人少年がいた。ブラジルで事業に成功した両親らと幸せに暮らしていたある日のこと、勝彦は立入を禁止されている河に入り込み、不思議な箱を入手るが……。
本作は昭和二十五年から二十六年にわたって雑誌『中学生の友』に連載された作品で、初の単行本化である。橘外男といえばテンション高めのエログロ秘境小説というイメージが最初にくるが、こうした児童向けの小説でもガッツリそのテイストを維持して書いているのが素晴らしい。
特に前半のインドを舞台にしたパートでは、ジュヴナイルなのに子供はまったく登場せず、怪物によって人々が殺害されたり女性がさらわれていく描写など、大人向けのものと遜色はない。ジュヴナイルゆえ「ですます」体の文章を用いているが、むしろその丁寧さが逆に効果を盛り上げているところもある。
もちろんエロ描写は控えているし、大人向けなら人獣婚交について示唆するところも省略されている。もっと奔放に書きたかったところもあるのだろうが、なかなか健闘しているといえるだろう。
ただ、後半になるとその勢いが失速していくのは残念。おそらく子供を主人公にという編集部側からの要請もあったのだろう。ここにきて勝彦少年が主人公となり、ようやくジュヴナイルらしくなってくるのだが、まあ、それはいい。
問題は、前半のインド編が後半のブラジル編とほとんど何のつながりもないことである。しかも明らかに連載終了に間に合わなかったためだろう、最後はやっつけといってよい展開。勝彦をはじめとする少年たちの活躍があらすじのように語られてお終いである。題名にある「死の谷を越えて」や「イキトスの怪塔」というキーワードもこのあらすじもどきで初登場する始末だ。
ただ、作者の構想は理解できる。本来は勝彦少年の活躍によって怪物を退治するという展開をみっちりとやり、そのなかでインド編の伏線も回収する予定だったのだろう。橘外男の発想は子供雑誌の連載ではとても収まりきらなかったということか(笑)。
まあ完成度ではグダグダの一冊だが、橘外男のパッションは十分伝わってきたし、極めてレアな作品がこうして読めたことに満足である。
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D・M・ディヴァイン『そして医師も死す』(創元推理文庫)
D・M・ディヴァインの『そして医師も死す』を読む。いまや英国の良質本格ミステリをおすすめするなら、まず外せない存在になった感もあるディヴァイン、その最新刊である。
まずはストーリー。
主人公は診療所を共同経営する医師アラン・ターナー。だがもう一人の共同経営者ヘンダーソンは不慮の死を遂げており、その死には殺人の疑いがあった。ハケット市長からそう告げられたアランは、事故の状況を洗い直そうとするが、その夜、ヘンダースンの妻エリザベスから何者かに命を狙われていると打ち明けられ……。
本作は長編第二作ということだが、プロットや伏線の張り方の技術はすでに完成されているという印象。主人公アランの一人称というスタイルをとり、アランの見たもの聞いたものはすべて手がかりとして機能するのだが、これが曲者というか、まあ相変わらず見事である。
とにかく出てくる関係者出てくる関係者が軒並み胡散臭い。彼らにいったいどのような秘密や人間関係が隠されているのか、不審な行動の理由は何なのか。彼らに振り回される主人公だが、逆に自らはやや優柔不断なところもあり、読者は常に煙に巻かれている状態となる。サスペンスとはちょっと違うけれど、登場人物のやりとりによる変な緊張感があり、それで引っ張られる感じ。
要は人物描写が上手いってことなんだろうが、そんな人間関係あたりに気をとられていると、ラストできれいに作者に騙されてしまうから楽しい。
ただ、全体的に悪くはないんだが、いつものディヴァインよりはやや落ちるだろう。
あまりに語り口が巧いので、ディヴァインの場合ストーリーの弱さはそれほど気にならないことが多いのだが、本作はとりわけ起伏に乏しいのがマイナス点。どうせなら多少長くなってもよいから、せめてヘンダースンが死ぬ少し前ぐらいから物語を始めてもよかったのではないだろうか。
なお、本筋ではないが、主人公の最後の選択については、説得力が欠ける気がして納得できなかった。これも微妙にマイナス点である(笑)。
まずはストーリー。
主人公は診療所を共同経営する医師アラン・ターナー。だがもう一人の共同経営者ヘンダーソンは不慮の死を遂げており、その死には殺人の疑いがあった。ハケット市長からそう告げられたアランは、事故の状況を洗い直そうとするが、その夜、ヘンダースンの妻エリザベスから何者かに命を狙われていると打ち明けられ……。
本作は長編第二作ということだが、プロットや伏線の張り方の技術はすでに完成されているという印象。主人公アランの一人称というスタイルをとり、アランの見たもの聞いたものはすべて手がかりとして機能するのだが、これが曲者というか、まあ相変わらず見事である。
とにかく出てくる関係者出てくる関係者が軒並み胡散臭い。彼らにいったいどのような秘密や人間関係が隠されているのか、不審な行動の理由は何なのか。彼らに振り回される主人公だが、逆に自らはやや優柔不断なところもあり、読者は常に煙に巻かれている状態となる。サスペンスとはちょっと違うけれど、登場人物のやりとりによる変な緊張感があり、それで引っ張られる感じ。
要は人物描写が上手いってことなんだろうが、そんな人間関係あたりに気をとられていると、ラストできれいに作者に騙されてしまうから楽しい。
ただ、全体的に悪くはないんだが、いつものディヴァインよりはやや落ちるだろう。
あまりに語り口が巧いので、ディヴァインの場合ストーリーの弱さはそれほど気にならないことが多いのだが、本作はとりわけ起伏に乏しいのがマイナス点。どうせなら多少長くなってもよいから、せめてヘンダースンが死ぬ少し前ぐらいから物語を始めてもよかったのではないだろうか。
なお、本筋ではないが、主人公の最後の選択については、説得力が欠ける気がして納得できなかった。これも微妙にマイナス点である(笑)。
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国立新美術館「マグリット展」
国立新美術館で開催されている「マグリット展」へ足を運ぶ。
GW中は待ち時間が恐ろしいことになるのではと思い、あらかじめネットで当日券を事前購入し(現地で買うと「ルーヴル美術館展」と売り場が共通のため、ますます待ち時間がとんでもないことに)、さらには開館の20分前には現地入りする。すると10時開館のはずがすでに入場を開始しており、待ち時間なしであっさり入場できてしまう。まあ、ちょっと拍子抜けの感はあるが、備えあれば憂いなしということで(ちなみにルーヴル美術館展の方は開館前にすでに百人ほどの行列がありました)。
さて、今回のマグリット展は彼の業績を万遍なく集めた集大成的なものであり、個人的にもシュールなものや幻想的な作品が好きなこともあって、前々から楽しみにしていた展示会である。比較的ゆっくり見ることもできたし、質的にも量的にも期待を裏切らない展示会であった。
「光の帝国II」や「白紙委任状」「陵辱」「ゴルコンダ」「空の鳥」等々の有名作品が多く見られるのはもちろん嬉しいのだが、初期の作品には初めて見るものも多く、そちらも興味深かった。正直、後期ほど作風が確立されていないというか、何だかんだと人の影響を受けたような作品もちらほらあるのが何とも。やっぱり名作は簡単にポンと生まれたのではなく、こういう過程を経ての結果なのか。
マグリットがつける題名も人を食っていて楽しい。彼は絵の力以上に言葉の力を信じているところもあって、テーマを決めてもそこから思考を積み重ねひねくり回し、それをキャンバスに落とし込んでいる感じである。
だから絵の題名(テーマ)と実際に描かれたものの間にはえらく開きがあるわけで、それをつなぐものが何なのか考えるのが、鑑賞する側の務めでもあり楽しさでもある。
ちなみに主要作品の幾つかにはマグリット自身によるコメントも付されていたが、ぶっちゃけ何を言っているのかわからないものが多かったのは秘密(笑)。もう少し親切な解説をつけてくれてもよかったんではないか。
お土産は図録にマグネット式の栞を購入。ちなみに図録が2,800円という価格であの作りというのは驚異的お買い得である。いったいどれだけ刷っているんだろう?
GW中は待ち時間が恐ろしいことになるのではと思い、あらかじめネットで当日券を事前購入し(現地で買うと「ルーヴル美術館展」と売り場が共通のため、ますます待ち時間がとんでもないことに)、さらには開館の20分前には現地入りする。すると10時開館のはずがすでに入場を開始しており、待ち時間なしであっさり入場できてしまう。まあ、ちょっと拍子抜けの感はあるが、備えあれば憂いなしということで(ちなみにルーヴル美術館展の方は開館前にすでに百人ほどの行列がありました)。
さて、今回のマグリット展は彼の業績を万遍なく集めた集大成的なものであり、個人的にもシュールなものや幻想的な作品が好きなこともあって、前々から楽しみにしていた展示会である。比較的ゆっくり見ることもできたし、質的にも量的にも期待を裏切らない展示会であった。
「光の帝国II」や「白紙委任状」「陵辱」「ゴルコンダ」「空の鳥」等々の有名作品が多く見られるのはもちろん嬉しいのだが、初期の作品には初めて見るものも多く、そちらも興味深かった。正直、後期ほど作風が確立されていないというか、何だかんだと人の影響を受けたような作品もちらほらあるのが何とも。やっぱり名作は簡単にポンと生まれたのではなく、こういう過程を経ての結果なのか。
マグリットがつける題名も人を食っていて楽しい。彼は絵の力以上に言葉の力を信じているところもあって、テーマを決めてもそこから思考を積み重ねひねくり回し、それをキャンバスに落とし込んでいる感じである。
だから絵の題名(テーマ)と実際に描かれたものの間にはえらく開きがあるわけで、それをつなぐものが何なのか考えるのが、鑑賞する側の務めでもあり楽しさでもある。
ちなみに主要作品の幾つかにはマグリット自身によるコメントも付されていたが、ぶっちゃけ何を言っているのかわからないものが多かったのは秘密(笑)。もう少し親切な解説をつけてくれてもよかったんではないか。
お土産は図録にマグネット式の栞を購入。ちなみに図録が2,800円という価格であの作りというのは驚異的お買い得である。いったいどれだけ刷っているんだろう?
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ジョン・グレン『007 消されたライセンス』
GWは特に遠出の予定もなく、近辺をうろうろするのがせいぜいなのだが、それでも土曜は秩父は羊山公園の芝桜まつり、日曜は書店&古書店巡り、月曜の本日は立川の昭和記念公園のフラワーフェスティバルなどに出かけている。管理人はミステリが第一の趣味ではあるのだが、実はこう見えても各種フラワー関係のイベントにもドライブがてらこまめに出かけており、つい先週も塩船観音つつじ祭りに行ってきたばかり。命の洗濯というほど大げさなものではないが、仕事を少し忘れていられるのはやはり精神衛生上よいものである。
こちらも命の洗濯になるのだろうか。DVDで『007 消されたライセンス』を視聴。
『リビング・デイライツ』で新ボンドにキャスティングされたティモシー・ダルトンの二作目で、トータルでは十六作目。監督はおなじみジョン・グレン、公開は1989年である。
親友でもあるCIAのフェリックス・ライターの結婚式に出かけるボンド。だが、その途中で麻薬取締局が長年追っているサンチェスが現れたとの連絡が入る。ボンドとライターはサンチェスの乗るセスナ機をヘリコプターで釣り上げるという荒技で、ついにサンチェスを捕らえた。
しかしサンチェスは刑事を買収して再び逃亡に成功。しかもあろうことか新婚初夜のライター夫妻を襲い、新婦を殺害、ライターを拉致してサメに左足を食いちぎらせてしまう。
帰国途中のボンドはサンチェス逃亡の方を聞きつけ、ライターの元へ急ぐが、そこで見たものは夫妻の変わり果てた姿だった。復讐を誓うボンドに危惧を抱いたMは別の任務を指示するが、ボンドはその場で諜報部を辞めると宣言した……。
『リビング・デイライツ』で若返りを図り、路線もシリアス方向へ大きく舵をきったわけだが、007映画の歴史は結局、この繰り返しの歴史でもあるような気がする。そしてその軸がぶれている作品、つまりシリアス路線なのかがっつりエンタメ路線なのか、このあたりが中途半端になってしまったものは出来も落ちるのではないか。
そういう意味でいうと、『007 消されたライセンス』は復讐に燃えるボンドという、いつになくシビアなボンド像というものを提示しており、一応はシリアス路線。だが『リビング・デイライツ』でいろいろと修正が入ってしまったらしく(おそらく興行上の理由で)、結局は従来の路線に一部戻しているのがなんとももどかしい。
例えば香港の麻薬取締局が繰り出す忍者部隊、元空軍パイロットとのお手軽なラブロマンス、Qの馬鹿げた秘密兵器、ちょっとしたボヤだけで簡単に燃えてなくなる大工場などなど。これらはわかりやすい部類だが、ストーリーの核心を突く部分でも問題点は多い。友人のためとはいえボンドはなぜここまで復讐にかけるのか、また、ボンドは殺しのライセンスを何故こうも簡単に放棄してしまったのか。表面的な理由はもちろん立っているけれども、そこに至るまでの説得力の弱さが致命的である。
ティモシー・ダルトン・ボンドの良さを再認識できたのは収穫だし、ムーア時代の凡作よりは全然上だとは思うが、それだけにこのバランスの悪さがなんとも残念な一作だった。
こちらも命の洗濯になるのだろうか。DVDで『007 消されたライセンス』を視聴。
『リビング・デイライツ』で新ボンドにキャスティングされたティモシー・ダルトンの二作目で、トータルでは十六作目。監督はおなじみジョン・グレン、公開は1989年である。
親友でもあるCIAのフェリックス・ライターの結婚式に出かけるボンド。だが、その途中で麻薬取締局が長年追っているサンチェスが現れたとの連絡が入る。ボンドとライターはサンチェスの乗るセスナ機をヘリコプターで釣り上げるという荒技で、ついにサンチェスを捕らえた。
しかしサンチェスは刑事を買収して再び逃亡に成功。しかもあろうことか新婚初夜のライター夫妻を襲い、新婦を殺害、ライターを拉致してサメに左足を食いちぎらせてしまう。
帰国途中のボンドはサンチェス逃亡の方を聞きつけ、ライターの元へ急ぐが、そこで見たものは夫妻の変わり果てた姿だった。復讐を誓うボンドに危惧を抱いたMは別の任務を指示するが、ボンドはその場で諜報部を辞めると宣言した……。
『リビング・デイライツ』で若返りを図り、路線もシリアス方向へ大きく舵をきったわけだが、007映画の歴史は結局、この繰り返しの歴史でもあるような気がする。そしてその軸がぶれている作品、つまりシリアス路線なのかがっつりエンタメ路線なのか、このあたりが中途半端になってしまったものは出来も落ちるのではないか。
そういう意味でいうと、『007 消されたライセンス』は復讐に燃えるボンドという、いつになくシビアなボンド像というものを提示しており、一応はシリアス路線。だが『リビング・デイライツ』でいろいろと修正が入ってしまったらしく(おそらく興行上の理由で)、結局は従来の路線に一部戻しているのがなんとももどかしい。
例えば香港の麻薬取締局が繰り出す忍者部隊、元空軍パイロットとのお手軽なラブロマンス、Qの馬鹿げた秘密兵器、ちょっとしたボヤだけで簡単に燃えてなくなる大工場などなど。これらはわかりやすい部類だが、ストーリーの核心を突く部分でも問題点は多い。友人のためとはいえボンドはなぜここまで復讐にかけるのか、また、ボンドは殺しのライセンスを何故こうも簡単に放棄してしまったのか。表面的な理由はもちろん立っているけれども、そこに至るまでの説得力の弱さが致命的である。
ティモシー・ダルトン・ボンドの良さを再認識できたのは収穫だし、ムーア時代の凡作よりは全然上だとは思うが、それだけにこのバランスの悪さがなんとも残念な一作だった。
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霜井蒼『アガサ・クリスティー完全攻略』(講談社)
霜井蒼の『アガサ・クリスティー完全攻略』を読む。クリスティーの全著作について解説した評論集で、もとになったのはインターネットのサイト「翻訳ミステリー大賞シンジケート」での連載である。リアルタイムでもちょくちょく読んでおり、当時から面白い企画だとは思っていたが、こうして一冊にまとまると本ならではの手軽さや利便性も増してさらに好印象。
本書の魅力はいくつかあるのだが、まずはクリスティーの全著作を残らず解説しているところだろう。
そんなの当たり前だろうと言うなかれ。すべての著作を解説するといっても、クリスティーとなると百冊あまりの作品があるわけで、そうそう話は簡単ではない。つまらない作品を取り上げても仕方ないとか、全作品を取り上げる意義などの面もあるだろうし、商業的な意味合いもあるだろう。ハードルは意外に高いのだ。
だが作家についてのガイドブックを作るなら、全作を紹介するのは本来最低限の役目である。それをきちんと実践したクリスティーの評論が出た。その意義はとてつもなく大きいと思う。
著者がこの企画を思い立った動機が「はじめに」で語られている。
ミステリ評論家でありながら著名な七冊ぐらいしかクリスティーを読んでいなかった著者は、世間でクリスティーは面白いと言われながら、その魅力について語られるとき、紹介される作品はほとんどが決まっていることに疑問を抱いたという。百冊あまりの著作はどんなタイプのミステリなのか、どういうふうに面白いのか、傑作はどの程度あるのか等々。それを明快に教えてくれる本はなかった。そこで自らクリスティーの魅力を解明すべく取りかかったという。
書評家ならではの使命感といってもいいのだが、まあ、ビジネスとして需要があるかどうかが肝心で、これもネットありきで進んだ企画だから良かったのだろう。
本書の魅力についてもうひとつ。上に書いたとおり元がインターネットでの連載なのだが、本書での収録順もこの連載時のままにしてあるということ。
これはどういうことかというと、本作が作品ごとの評論として読めるのは当然として、著者自身がクリスティーに対する理解を深めていく過程を読み取れるということでもある。いわゆる”気づき”が一冊の中に反映される評論、これは素敵ではないですか。
結論。個々の作品ごとでは意見の分かれるところもあるのだけれど、トータルでは文句をつけるのが申し訳ないくらいの良書である。管理人もクリスティーは半分ぐらいしか読んでないので、これを機にあらためて最初から読み直したい気分である。
本書の魅力はいくつかあるのだが、まずはクリスティーの全著作を残らず解説しているところだろう。
そんなの当たり前だろうと言うなかれ。すべての著作を解説するといっても、クリスティーとなると百冊あまりの作品があるわけで、そうそう話は簡単ではない。つまらない作品を取り上げても仕方ないとか、全作品を取り上げる意義などの面もあるだろうし、商業的な意味合いもあるだろう。ハードルは意外に高いのだ。
だが作家についてのガイドブックを作るなら、全作を紹介するのは本来最低限の役目である。それをきちんと実践したクリスティーの評論が出た。その意義はとてつもなく大きいと思う。
著者がこの企画を思い立った動機が「はじめに」で語られている。
ミステリ評論家でありながら著名な七冊ぐらいしかクリスティーを読んでいなかった著者は、世間でクリスティーは面白いと言われながら、その魅力について語られるとき、紹介される作品はほとんどが決まっていることに疑問を抱いたという。百冊あまりの著作はどんなタイプのミステリなのか、どういうふうに面白いのか、傑作はどの程度あるのか等々。それを明快に教えてくれる本はなかった。そこで自らクリスティーの魅力を解明すべく取りかかったという。
書評家ならではの使命感といってもいいのだが、まあ、ビジネスとして需要があるかどうかが肝心で、これもネットありきで進んだ企画だから良かったのだろう。
本書の魅力についてもうひとつ。上に書いたとおり元がインターネットでの連載なのだが、本書での収録順もこの連載時のままにしてあるということ。
これはどういうことかというと、本作が作品ごとの評論として読めるのは当然として、著者自身がクリスティーに対する理解を深めていく過程を読み取れるということでもある。いわゆる”気づき”が一冊の中に反映される評論、これは素敵ではないですか。
結論。個々の作品ごとでは意見の分かれるところもあるのだけれど、トータルでは文句をつけるのが申し訳ないくらいの良書である。管理人もクリスティーは半分ぐらいしか読んでないので、これを機にあらためて最初から読み直したい気分である。
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マイクル・Z・リューイン『神さまがぼやく夜』(ヴィレッジブックス)
先日プロンジーニを読んだからというわけでもないのだが、今度はマイクル・Z・リューインの新刊『神さまがぼやく夜』を読んでみた。
リューインはプロンジーニと同様、ネオ・ハードボイルド系の作家である。私立探偵アルバート・サムスンやパウダー警部補、探偵家族ルンギ一家のシリーズなどが知られていて、どれもオススメなのだが、代表シリーズをひとつ挙げろと言われればやはりサムスンものを推したい。
サムスンものに関していえば、どの作品も事件自体はいたって地味なものだ。そこにハードボイルドの探偵にしては極めて常識人的なサムスンが関わっていくうち、アメリカの抱える社会問題が炙り出しのように、じわーっと浮かび上がってくるという寸法。
語り口も心地よく、シリアスな中にも程良いユーモアを漂わせる。惜しむらくはコレという絶対的な代表作がないことだが、裏返せばこれは出来にムラがないということでもある。水準はどれも一定のレベルを満たしているので、ハードボイルド云々にこだわることなく、幅広い層にオススメできるシリーズでもあるのだ。
前振りが長くなってしまったが、本作はそんな手練れのリューインが書いた数少ないノンシリーズ作品。しかも主人公がなんと神さまだというのだから、これは気にするなというほうが無理。
このところ新たな宇宙創造に集中するあまり、久しく人間界の様子に疎くなっていた天地創造の主、神さま。 久々に降り立った下界では、人間の進化が神の想像を遥かに超えてしまっていた。おまけにかつて自分に似せて創ったはずなのに、彼らのやることなすことがまったく理解できない。
その上、仕事にこもってばかりいたせいで欲求不満気味でもあった神さま。人間の女性との自由意志による肉体関係にも意識が向いてしまう。そこでリサーチとばかり夜ごと酒場を巡り歩くが……。
面白い。
要は現状に悶々としている神さまが、たまにはいい女といい関係になりたいぞという物語である。しかし酒場で女性に声をかけるところまではよいが、そのあとが続かない。
なんせこれまで自分の意志を一方的に行使するだけでよかった立場である。そもそもコミュニケーションなど取る必要がないので、コミュニケーション技術など無いに等しい。毎度のように女性の逆鱗をかい、平手打ちを食っては反省する日々だ。そんな神さまが少しずつ場数を踏み、ときには悪魔の知恵も借りながら、成功をめざす。
まあ、言ってみればそれだけのストーリーなのだが、この神さまの失敗談が大変面白く、そして多くの失敗から神さまも少しずつ教訓を得て、人間的に(?) 成長してゆく様が憎らしいほど巧い。ユーモアいっぱいなのだが、徐々にウルッと来るエピソードも差し込んでくるなど、この匙加減の絶妙さはさすがリューイ ン。大学での教授とのやりとり、小児病棟での子供とのやりとり、鯨とのやりとりなどは独立した短編でもいいぐらいの鮮やかさだ。
結局、本書でリューインが謳っているのは宗教論でもなく恋愛論でもなく、人間賛歌だ。
現代アメリカの抱える様々な問題のなかで、辛いことはいろいろあるけれど、それでも前を向いて歩こうよというリューイン流のメッセージなのである。ページの端々、エピソードのあちらこちらから、リューインのそんな気持ちがひしひしと伝わってくる。
殺伐としたミステリばかり読んでいる身としては、非常に気持ちよく楽しめた一冊であった。
リューインはプロンジーニと同様、ネオ・ハードボイルド系の作家である。私立探偵アルバート・サムスンやパウダー警部補、探偵家族ルンギ一家のシリーズなどが知られていて、どれもオススメなのだが、代表シリーズをひとつ挙げろと言われればやはりサムスンものを推したい。
サムスンものに関していえば、どの作品も事件自体はいたって地味なものだ。そこにハードボイルドの探偵にしては極めて常識人的なサムスンが関わっていくうち、アメリカの抱える社会問題が炙り出しのように、じわーっと浮かび上がってくるという寸法。
語り口も心地よく、シリアスな中にも程良いユーモアを漂わせる。惜しむらくはコレという絶対的な代表作がないことだが、裏返せばこれは出来にムラがないということでもある。水準はどれも一定のレベルを満たしているので、ハードボイルド云々にこだわることなく、幅広い層にオススメできるシリーズでもあるのだ。
前振りが長くなってしまったが、本作はそんな手練れのリューインが書いた数少ないノンシリーズ作品。しかも主人公がなんと神さまだというのだから、これは気にするなというほうが無理。
このところ新たな宇宙創造に集中するあまり、久しく人間界の様子に疎くなっていた天地創造の主、神さま。 久々に降り立った下界では、人間の進化が神の想像を遥かに超えてしまっていた。おまけにかつて自分に似せて創ったはずなのに、彼らのやることなすことがまったく理解できない。
その上、仕事にこもってばかりいたせいで欲求不満気味でもあった神さま。人間の女性との自由意志による肉体関係にも意識が向いてしまう。そこでリサーチとばかり夜ごと酒場を巡り歩くが……。
面白い。
要は現状に悶々としている神さまが、たまにはいい女といい関係になりたいぞという物語である。しかし酒場で女性に声をかけるところまではよいが、そのあとが続かない。
なんせこれまで自分の意志を一方的に行使するだけでよかった立場である。そもそもコミュニケーションなど取る必要がないので、コミュニケーション技術など無いに等しい。毎度のように女性の逆鱗をかい、平手打ちを食っては反省する日々だ。そんな神さまが少しずつ場数を踏み、ときには悪魔の知恵も借りながら、成功をめざす。
まあ、言ってみればそれだけのストーリーなのだが、この神さまの失敗談が大変面白く、そして多くの失敗から神さまも少しずつ教訓を得て、人間的に(?) 成長してゆく様が憎らしいほど巧い。ユーモアいっぱいなのだが、徐々にウルッと来るエピソードも差し込んでくるなど、この匙加減の絶妙さはさすがリューイ ン。大学での教授とのやりとり、小児病棟での子供とのやりとり、鯨とのやりとりなどは独立した短編でもいいぐらいの鮮やかさだ。
結局、本書でリューインが謳っているのは宗教論でもなく恋愛論でもなく、人間賛歌だ。
現代アメリカの抱える様々な問題のなかで、辛いことはいろいろあるけれど、それでも前を向いて歩こうよというリューイン流のメッセージなのである。ページの端々、エピソードのあちらこちらから、リューインのそんな気持ちがひしひしと伝わってくる。
殺伐としたミステリばかり読んでいる身としては、非常に気持ちよく楽しめた一冊であった。