りんおじいのぶらり旅
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寺社めぐり 27 武蔵御嶽神社

 東大和市に在住して40年。老齢のため鎌倉市への引っ越しを余儀なくされたため、地元での最後の寺社めぐりに、愛着のある奥多摩を選んだ。3月末の月曜日、我が家からバスと電車を乗り継いで、JR御嶽駅に着くと、駅前に待機しているバスに乗車して、御嶽神社に向かった。

1 武蔵御嶽神社

バスの終点から急勾配の車道を上る。つま先上がりの道路を上るのが意外に苦しく、息切れする自分の加齢具合を十分に納得したものである。 ケーブルカーには久しぶりに乗車し、10時過ぎに山頂駅に到着。御嶽神社に向って歩き始める。朱塗りの一の鳥居から、御岳山と御嶽神社の宿坊が一望できる(写真)。

御嶽一鳥居

今回が5度目くらいとなる懐かしい山郷の風景を楽しむ。参道の両側の宿坊や店を眺めながら進むと、突然つま先上がりの急坂となり、再び加齢の苦しみを味わう。最後に、参道の両側の売店を通り抜けて、大鳥居(写真)から「武蔵御嶽神社」の境内に入って行く。

御嶽二鳥居

大鳥居の石段の上に建つのが、朱塗りの「随身門」(写真)で、神域に邪悪のものが入り来るのを防ぐ御門の神を祀る門である。

御嶽随神門

ここから石段は左折し、石段の途中に三の鳥居(写真)が立っている。石段の両側には「〇〇御嶽講」と刻まれた石碑が立ち並び、この武蔵御嶽神社が関東一円の信仰の中心であったことが偲ばれる。
御嶽三鳥居

石段を右折した急勾配の石段の上に「武蔵御嶽神社」の五間社入母屋造の朱塗りの拝殿(写真)が建っている。 拝殿の後方に、明治10年に造営された本殿(写真)が建ち、屋根の上の千木や鰹木が御嶽神社本殿を神聖化しているように思われる。

御嶽拝殿2

拝殿横の案内板の「武蔵御嶽神社由緒」には「社伝によれば、創建は第十代崇神天皇七年と伝えられ、第十二代景行天皇の御代日本武尊御東征のみぎり、難を白狼先導によって逃れられたといわれ、古くより関東の霊山として信仰されて参りました。平安時代の延喜式神名帳には、大麻止乃豆天神社として記されています。  
山岳信仰の興隆とともに、中世関東の修験の中心として、鎌倉の有力な武将たちの信仰を集め、御嶽権現の名で厄除・延命・長寿・子孫繁栄を願う多くの人達の参拝によって栄えました。 天正十八年徳川家康公が関東に封ぜられますと、朱印地三十石を寄進され、慶長十一年大久保石見守長安を普請奉行として社殿を改築、南面だった社殿を東面に改めました。 明治維新により、御嶽神社の社名となり、更に昭和二十七年武蔵御嶽神社と改めました。
   御祭神  櫛真智命 大己貴命 少彦名命  
           奥宮:日本武尊命  御眷族:大口真神     」

 武蔵御嶽神社には何度も参拝していたが、神社の内容をこれほど理解したのは初めて。特に本殿の背後に広がる境内社から学ぶことが多かった。 境内社の中心に位置する「常盤堅磐社」(写真)は、永正八年(1511)以前に造営された御嶽神社の旧本殿である。その祭神が崇神天皇・景行天皇・安閑天皇・清和天皇と狭依比売神ほか96柱とあるが、それが全て諸国一宮の祭神とは豪華な布陣。諸国の一宮の祭神を勝手に祀ることは出来ないとすれば、当時の常盤堅磐社の社人が諸国の一宮を訪れて、各社の祭神を勧請したとなると、これは大変な激務であったに違いない。
御嶽常盤社

 境内社の「大口真神社」(写真)は、眷族である狼を祀った社として有名。我が家の周辺の神社内の祠の中に「大口真神」と記された狼の絵入りの護符をよく見かける。拝殿横の社務所でその護符(写真)を入手できたので、疑問であった護符の謎が本日解明できたのが嬉しい。

御嶽大口真神

大口真神

 武蔵御嶽神社の祭神である櫛真智命については由緒がよく知られていないが、大和国の天香久山神社の祭神と同じと考えられている。 その他の祭神では大己貴命は大国主命の別名であり、少彦名命は大国主命の国造りを助けた出雲の神様。この二人の神様が何故櫛真智命と並んで、武蔵御嶽神社の祭神とされているのかもよく分らない。

 武蔵御嶽神社の参拝を終えて石段を下りていると、随身門の近くに「疱瘡社」(写真)という祠を見つける。案内版に「疱瘡社 祭神・山末大主神 神域である御嶽山内に疫病や穢れが入らないように祀られている」と記されている。狭山丘陵でもよく見かけた「疱瘡社」の謎がとけたのは喜ばしい。 
御嶽疱瘡社

 参道の急坂の斜面に「神代ケヤキ」(写真)を見つける。これは樹齢1000年とも言われるケヤキの老木で、国の天然記念物に指定されている。 この神社の創建からの歴史を見守ってきた名木なのである。
神代スギ


 




狭山丘陵寺社めぐり 110 八雲神社  (所沢市山口)

狭山丘陵寺社めぐり 110 八雲神社

 前報の「来迎寺」を出て、県道55号線を所沢市内に進むと「さくら通り」という西武池袋線小手指駅に向かう道路がある。さくら通りを椿峰丘陵に向けて上る坂道の途中に、枯れた杉の巨木が目立つ「八雲神社」(写真)が建っている。

八雲神社全景

 さくら通りに面した神社の入口に、笠木の両端が反り上がった明神系の一の鳥居(写真)が立っている。
八雲神社一鳥居

 狭い境内の石段の上には、白い二の鳥居(写真)が立っていて、鳥居の後方に小さな社殿(写真)が建っている。
八雲神社二鳥居

八雲神社社殿

 案内板には「美園上八雲神社由緒  当社は鎌倉時代に山口城第十二代城主山口平内左衛門尉高治の嫡子高忠が、山口城の規模を拡大し、六ッ家川の流れを外堀として堀之内に庭園を設けたのを、里人は此の辺りを美園上と稱するようになった。 城主が素戔嗚尊を奉祀し八雲神社(通稱天王様)と尊稱して、城の鬼門守護の社とした。此の後、天正年間山口城は小田原北条の攻める所となり落城した。その後八雲神社を守護する者なく、荒廃の一途をたどった。 その後武蔵郷拾数箇村の総代名主、小峰善右衛門が当社を再興した」と記されている。
 この寺社めぐりの祭神として13度目の素盞鳴命の登場である。狭山丘陵で素盞鳴命の人気が高いのは、ブロ友様の「素盞鳴命を祭神とした武蔵一の宮である氷川神社信仰の狭山丘陵への普及説」が有力と考えられる。 出雲の神である素盞鳴命が武蔵国に祀られた歴史は、史書「国造本紀」に「日本武尊の兄、景行天皇の勅命で、出雲国造の一族である兄多毛比命が武蔵国造として氷川神社に遣わされた」と書かれていることによる。「氷川」は出雲を流れる「簸川(現在名は斐伊川)」に由来するという。 出雲から来た兄多毛比命が武蔵国で善政を敷いたので、氷川神社信仰が関東、特に武蔵に広まっていったとされる。島根県出身の私には、とても誇らしい話である。

 狭い境内の一画に「庭津火神」という小社(写真)があり、社内に丸い石(写真)が祀られている。

八雲神社境内社1

八雲神社境内社2

 案内板には「山口中学校の裏庭の大木の根元に、山の火難除けの神として庭津火神が祀られていたが、学校の用地拡張のためここに移設した」と記されている。 庭津火とは地面に籠る霊魂という意味。兵庫県の西宮神社の境内にある庭津火神社は本殿がなく、塚の形をした土壇がご神体であるというから、ここの社内の丸い石もご神体とみなしてよいと思う。

 八雲神社の500 m南の柳瀬川畔に「桜淵延命地蔵」なる祠(写真)があり、祠内に赤い布をまとった地蔵像(写真)が安置されている。

八雲神社桜淵

八雲神社地蔵

 この辺りの民話に「夜泣きする赤ん坊が、子守りしていた娘から突然いなくなり、翌朝桜淵に水死体となって見つかった。それを苦にして、子守りの娘も桜淵に身投げして死ぬ。それを期に家が傾いた主人が、この延命地蔵を建立し、地蔵堂を生涯守った」という暗い伝説が残っている。 延命の大切さを説いたお地蔵様なのであろう。

寺社めぐり 26 縁切寺満徳寺  (群馬県太田市)

寺社めぐり 26 縁切寺満徳寺  (群馬県太田市)

 前報、歓喜院を見学する前に、群馬県太田市徳川町に建つ「満徳寺」を訪れた。入口の風変わりな山門が「駆込門」とも呼ばれる「山門」(写真)である。江戸時代、夫の不法に泣く女が、この門をくぐると、夫との離婚が達成できたのである。鎌倉の東慶寺とともに、日本に二つしかない縁切寺である。
満徳寺駆込門

 中門(写真)をくぐると、満徳寺の「本堂」(写真)に出る。 本堂は20年前に門と共に再建されたもので、新しい。
満徳寺中門

満徳寺本藤

 満徳寺は山号を徳川山という時宗の寺院である。江戸幕府を開いた徳川氏の祖とされる世良田義季により創建されたと伝えられる。そのことから徳川氏の帰依を得、2代将軍・徳川秀忠の娘・千姫が豊臣秀頼と別れた後、縁切りのためこの寺に入り、その後本多忠刻に再嫁したという。 江戸時代には江戸幕府の支援を得ていたが、幕府瓦解により明治五年に廃寺4となった。しかし地域住民が本尊や資料を守ってきたので、平成四年縁切寺満徳寺資料館が開館し、平成六年に本堂・門などが復元された。

 縁切寺資料館(写真)には、江戸時代の縁切りの事情を詳しく伝えている。縁切門の直前で、追ってくる夫を振り切ろうとする女の絵(写真)が迫力十分。二階では縁の切れた女たちが、優雅に暮らしているという絵。 当時の女性たちの苦難はよく分るが、現在縁切寺があれば、男性の駆け込みが多いであろうと思われる。

満徳寺資料館

満徳寺絵

 道路に「徳川氏発祥の地」の幟(写真)が見える。徳川家康は、元は松平家康であった。家康の親戚や部下に松平姓が多く、彼らよりは一頭地抜けた存在を示すために家系を調べ、昔この地で徳川氏を名乗っていたことが分ると、以後家康の直系のみに徳川を名乗らせたと伝えられている。従って大田市徳川町は、徳川氏発祥の地と名乗っているのである。
 
満徳寺徳川

 満徳寺と道路を挟んで建つのが「永徳寺」(写真)。 案内板には「医王寺和光院永徳寺 天台宗 本尊薬師如来  寺伝によると、天台宗の開祖・伝教大師最澄の弟子有海上人によって大明元年(806)に創立され、関東最初の天台三道場の一つだったという。 建久三年(1192)に徳川氏の祖、徳川(新田)義季が徳川郷に居館を構えると、薬師如来を深く信仰し、当寺を祈願所とした」と記されている。
満徳寺永徳寺

 徳川の郷のように記されているが、「徳川家康の改姓の基となった郷」と考えた方がよさそうである。

寺社めぐり 25 歓喜院聖天堂  (埼玉県熊谷市)

寺社めぐり 25 歓喜院聖天堂  (埼玉県熊谷市)

 公民館サークル活動のマイクロバスで、熊谷市の「妻沼・聖天山(登録名称:歓喜院聖天堂)を訪れた。
 バスを降りると、歓喜院聖天堂の「総門」となる、二階造りの「貴惣門」(国指定重要文化財、写真)が建っている。江戸時代末期の嘉永四年(1851)に竣工した豪快な門である。

歓喜院貴惣門

 総門から参道を進むと、右に「斎藤別当実盛公」の銅像(写真)がある。実盛公が当地の荘司として、祖先伝来のご本尊聖天さまを治承三年(1179)にお祀りしたが聖天堂の始まり。 実盛公は平家物語、保元物語などに武勇に勝れ、義理人情に厚い人柄が称えられている。次いで実盛公の次男斎藤六実長が出家して阿請房良応となり、建久八年(1197)に本坊の歓喜院を開創した。

歓喜院齋籐像

 参道を進むと「四脚門(中門)」が現れ、右に「国宝聖天山本殿」の掲示がある。平成24年7月に「本殿」が国宝に指定されている。これから見学する本殿のみが国宝なのである。 この四脚門は聖天山の中では最古の建物で、里人は「甚五郎門」と称している。

歓喜院中門

 次に現れた大きな門が明治27年に再建された「仁王門」(写真)であり、門内に恐ろしい形相の「仁王さま」(写真)が、境内に悪者が入らないように睨みをきかせている。

歓喜院仁王門

歓喜院に汪像

 境内の最奥に見えてきたのが、国宝「本殿」正面、即ち拝殿(写真)である。廟型式権現造りの拝殿はとても重厚であるが、美しさには欠ける。 この本殿は妻沼の大火で焼失したが、享保から宝暦年間(1750頃)にかけて再建されたものである。

歓喜院御本殿

 驚いたのは大きな拝殿の後方に続く「奥殿」(写真)で、三方の壁面を全て彫刻で装飾し、華麗な色彩が施されている。まさに日光の東照宮の輝きであり、この彫刻は左甚五郎が彫ったと知り、納得。
歓喜院奥殿

 奥殿の彫刻を観賞しながら一周。美しい彫刻の中から三点(写真)を紹介する。

歓喜院彫刻1

歓喜院彫刻2

歓喜院彫刻3

 最初の彫刻が「鷲と猿」で、木登り上手な猿はその上手さにうぬぼれて、手を滑らせて木から落ちて水におぼれる直前、危機一髪のところを鷲に助けられている彫刻。猿はわたしたち人間。鷲は聖天様を象徴している。 次の彫刻は、真ん中が囲碁を楽しんでいるので、聖人たちか人々の日常生活と推定される。 その次の彫刻も同様であるが、雲がたなびいているので、聖人・仏の世界であるように思われる。
 この彫刻は左甚五郎作と言われている。日光・東照宮の有名な眠り猫も左甚五郎作とされているが、歓喜院・奥殿は東照宮より百年後に造られている。従って奥院の彫刻は、初代左甚五郎ではなく、彫刻家・左甚五郎家の四世か五世が彫ったのではないかと推測されている。
  
 奥殿の後ろに境内社が7社もあり左に天満宮、真ん中に五社(諏訪、灌須、井殿、稲荷、神明大明神)神社(写真)、右に三宝大荒神社が並んでいる。境内を守護する神社か、神仏習合時代の名残の神社であるのかも知れない。
 
歓喜院境内社

 この歓喜院は、聖天山と号する高野山真言宗の準別格本山で、本尊は歓喜天御正体錫杖頭(重要文化財)。 妻沼聖天さまと呼ばれる錫杖の中央に祀られたご本尊は、弘法大師が唐より請求されたという、日本最古の聖天像として知られ、特に縁結びの霊験あらたかとされる。
 従って境内には弘法大師を祀る「大師堂」(写真)が建ち、この大祠堂が関東八十八箇所第88番結願所である。関東八十八箇所とは、関東一円に広がる真言宗の寺院を巡礼するもので、第1番発願所は高崎市の慈眼寺で、いわゆる「高崎観音」のある寺院で、最後の結願所が歓喜院大祠堂となる。
歓喜院大師堂

 境内には「平和の塔」という仏塔(写真)が建ち、歓喜院はこれから「埼玉の小日光」という観光地を目指しているようだ。

歓喜院平和塔

狭山丘陵寺社めぐり 109 来迎寺  (所沢市山口)

狭山丘陵寺社めぐり 109 来迎寺

 前報、勝光寺を出て、県道55号線を所沢市市内方面に進むと「来迎寺」の入口(写真)に着く。 入口の石柱には「三尊阿弥陀如来 大光山来迎寺」と刻まれ、長い参道の奥に山門が見える。

来迎寺入口

 参道の奥の山門(写真)は門が閉じられている。 山門前の案内板には「来迎寺と板碑  
来迎寺は大光山無量寿院といい、鎌倉時代の初期に創立されたと考えられ、本尊は阿弥陀三尊であり『車返しの弥陀』の伝説がある。 昔、奥州平泉、藤原秀衡の守護仏であった阿弥陀三尊を、源頼朝の所望により鎌倉に運ぶ途中、東京都府中市車返まで来たところ、車が急に動かなくなり、やむなく引き返してこの地まで来たが、再び車が停まったので、草堂を建てて三尊を安置したと伝えられている。  板碑 この碑は高さ155センチあり、建長八年(1256)に武蔵七党丹党の加治左衛門尉丹冶泰家が建てたものである。碑には梵字「キリク」(弥陀)のほか観無量寿経の一節「光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨」の文字が刻まれている。

来迎寺山門

 板碑とは主に供養塔として使われる石碑の一種。武蔵型板碑は秩父産の緑泥片岩を加工して造られるため、青石塔婆とも呼ばれる。埼玉県江南町の板碑が嘉禄三年(1227)で最初の板碑とされるから、来迎寺の板碑はそれから29年遅れなので、相当に古い板碑であることが推定される。 梵字とはインドで使用されたサンスクリット語の文字で、インドの仏典は玄奘三蔵などにより中国に伝わり、そこでサンスクリット語が中国の漢字に書き直されて、日本に伝来したとされる。 観無量寿経は大乗仏教の経典の一つで、日本の浄土宗(開祖法然)の根本聖典の一つである。来迎寺が無量寿院と称する背景に、板碑の経典の存在があることが分った。 最後に浄土宗の「来迎」とは、紫雲に乗った阿弥陀如来が、臨終に際した往生者を極楽浄土に迎えるために、観音菩薩と勢至菩薩を脇侍に従えてやってくることを言う。来迎寺とは、とても尊いお寺の名前である。

 閉じられた山門の横から境内に入ると「本堂」(写真)に出る。5年前に来た時、本堂は修復工事中であったので、この本堂には初めてお目にかかった。尊い寺名に比べると、やや地味な本堂である。
来迎寺本堂

 来迎寺は文治元年(1185)の創立と伝えられるが、開祖は不詳。 曹洞宗の寺院で、本寺は青梅市二俣尾の海禅寺。 同じ禅宗でも、臨済宗の寺院は大きいのに、狭山丘陵の曹洞宗の寺院は目立たない。その中では来迎寺はまずまずの大きな寺院である。
 境内に「歴代塔」(写真)があり、歴代の住職のお墓と思われる。

来迎寺歴代塔

 境内から墓所に向かう通路に、石仏が並んでいるが、その中でも目立つ二つの石仏(写真)を紹介する。左の美顔の石仏は棒のような物を持ち、これが如意宝珠であるならば虚空蔵菩薩像であるかも知れない。右の石仏は地蔵菩薩のように思われるが、数珠を持っているので違うかも知れない。石仏に関する学習不足を痛感している。

来迎寺石仏

 来迎寺を出て、県道55号線を所沢市内に向って進むと、路傍に「子育地蔵」があった。石碑には「武劦山口之郷堀之内村 子育地蔵尊 寛文十一年(1671)」(写真)と刻まれている。昔は子どもを育て上げるのは容易でなく、村人がこの地蔵像にお祈りしていた心情がよく分る。 祠の中の赤い衣をまとった地蔵像(写真)は、江戸初期からの風雨に曝されてきたのであろう。お顔が磨滅してよく分らなかったが、大切にされていることは理解した。

来迎寺地蔵碑

来迎寺子育て
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