山田風太郎『警視庁草紙』
明治初期の東京に起きる、数々の不可解な事件。
旧幕臣の千羽兵四郎らと、警視庁大警視の川路利良らとが、事件をめぐり対決するさまを描く、伝奇ミステリー。
タイトル読みは「けいしちょうぞうし」。形式としては短編連作集。ただ、各編の独立性より相互の関連が重視され、全編で1本のストーリーを成しているため、実質的には長編小説と言えよう。
各編の内容は以下のとおり。◯はゲスト的に登場する歴史上の人物。
明治牡丹灯籠
明治6年10月28日の朝、西郷隆盛が東京を去り、川路大警視らはそれを見送る。
その前夜、警視庁の巡査・油戸杖五郎は、不可解な出来事に遭遇していた。
美女の乗る人力車が去った後、路上に大量の血が溜まっていたのだ。
轍の跡を追って発見した粗末な家では、旧旗本・羽川金三郎が変死を遂げていた。
現場近くに住む三遊亭円朝は、当夜の状況を執拗に問い質され、とばっちりを恐れる。
千羽兵四郎、神田三河町の半七、冷酒かん八の3人は、円朝を助けようと真相究明に乗り出す。
そこへ訪れた不意の来客は、かつて羽川と婚約していたお雪であった――
◯西郷隆盛/三遊亭円朝
黒暗淵(やみわだ)の警視庁
料理屋で殺人事件が起きる。土佐訛りの壮士が、他の客と揉めたあげく、相手を斬殺したのだった。
捜査を開始した油戸巡査は、高知県士族・黒岩成存を容疑者として逮捕する。
その6日後、右大臣・岩倉具視は刺客の集団に襲われ、からくも危地を脱した。
警視庁が容疑者グループの検挙に乗り出す。この襲撃事件には、お雪の夫も関わっていた。
兵四郎たちは、お雪が苦境に立たされ、ひいては自らも追及される危機を案じて、対応策を練る――
◯黒岩成存/岩倉具視
人も獣も天地の虫
警視庁が密売春の大規模な摘発を行い、多数の売女が逮捕される。
その大半は、生活に窮した家族を救うため、身を堕とした旧幕臣の子女だった。
5人の知友が捕えられてしまい、お蝶は彼女らを伝馬町の牢屋から救出するよう、兵四郎に懇願する。
窮した兵四郎は、やむなく旧旗本・青木弥太郎に相談。
弥太郎は、かつて悪逆の限りを尽くした大悪党だったが、徳川の恩顧に報いるべく協力、策略を提示する――
◯小政(清水次郎長の子分)/青木弥太郎/お竜(坂本龍馬の妻)/おうの(高杉晋作の愛人)
幻談大名小路
ある夜、かん八は、盲目の按摩・宅市を偶然に暴漢から救う。
宅市は、何者かに大名小路の屋敷へ連行され、かつて自分の視力を奪った奥戸外記と引き合わされた後、郊外に置き去りにされ、そこへやって来た別の者に襲われた、と一連の不可解な体験を語る。
一方、小松川の癲狂院を訪れた油戸巡査は、院長から不審な事件を打ち明けられた。
昨夜、院の門前で奥戸外記が自害し、彼によって入院させられていた女性が何者かに連れ去られたという。
警視庁の捜査によると、外記は大聖寺藩の国家老の子息であり、戊辰戦争では日和見して藩政を惑わせ、維新後に政府の要職を得ていた――
◯夏目漱石/樋口一葉
開化写真鬼図
兵四郎は、横浜から帰途の新橋ステーションで、女と若者の揉め事を見かけてつい仲裁に入った。
若者は肥後熊本出身の桜井直成と名乗り、兵四郎に「決闘の介添人になって欲しい」と懇願する。
桜井は横浜・岩亀楼の小浪という遊女に執着し、決闘するのは彼女のためだと語る。
一方、油戸巡査は、剣術道場で知りあった南部藩出身の青年・東条英教から、やはり決闘の介添を依頼される。
そして決闘の当日。決闘場に赴いた兵四郎は、加治木警部に怪しまれ、危機に陥る。
隅老斎は、写真師・下岡蓮杖の力を借りて兵四郎を救うべく、策をめぐらす――
◯桜井直成/唐人お吉/東条英教/下岡蓮杖/種田政明
残月剣士伝
直心影流男谷派の榊原鍵吉は、かつて講武所教授を務めた幕臣だが、維新後は禄を失い活計に窮していた。
警視庁の剣術師範に迎えたいと旧知の今井巡査らに懇請されるも、新政府に仕える気はない。
そこで、弟子の勧めによって剣術の見世物をはじめる。
この「撃剣会」興行は、予想外の大人気を集め、他流からも似たような境遇の師範たちが集まる。
一方、腕の立つ師範を求める川路大警視は、彼らが奉職を厭い「撃剣会」に集まるのを快く思わない。
その意を忖度した加治木警部の命により、元新選組の平間重助が「撃剣会」潰しを実行する。
困り果てた榊原のもとに、からす組の隊長・細谷十太夫として勇名を馳せた鴉仙和尚が訪れる――
◯榊原鍵吉/上田馬之助/天田愚庵/島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一/平間重助/細谷十太夫/永倉新八
幻燈煉瓦街
戯作者の河竹黙阿弥と、元お坊主の幸田成延を交えて、銀座の煉瓦街を訪れた隅老斎と兵四郎。
そこで、一行はのぞきからくりの興行に目を留める。
興行師が語るストーリーは、尾去沢銅山事件をめぐる政府高官の汚職を告発する内容だった。
興行がはねて人通りも絶えた夜ふけ、路地を見回っていた油戸巡査は、三味線の音に気づく。
のぞきからくりが行なわれていた建物に突入すると、中では三味線を手にした男が死んでいた。
その男は、井上馨から尾去沢銅山の払い下げを受けた岡田平蔵であった――
◯河竹黙阿弥/幸田露伴/井上馨/由利公正/からくり儀右衛門/東条英教/村井茂兵衛/江藤新平/三千歳花魁
数寄屋橋門外の変
のぞきからくり事件から1ヶ月後、かん八は人捜しのため銀座を訪れる。
事件の現場となった建物は、なんと井上馨が買い取り、貿易商社「先収会社」を置いていた。
その建物において、またも事件が起きる。
先収会社の社員18人が、変死体となって発見されたのだ。被害者の全員が、なぜか旧彦根藩士であった。
岡田平蔵の殺害に続くこの事件に、井上馨は激昂し、川路大警視に対して早期解決を強く迫る。
そして巡査・菊池剛蔵に容疑がかかる。菊池は事件当時、現場で不可解な体験をしていた――
◯井上馨/板垣征徳/米内受政/徳川昭武/井伊直憲
最後の牢奉行
旧幕時代から伝馬町にあった牢屋敷は、新政府により「囚獄署」と名を変え、引き続き利用されていた。
明治8年、囚獄署は市ヶ谷へ移転することとなる。川路大警視は、移転準備の視察に訪れる。
当時、斬首刑の廃止が議論されていたため、執行の実情を検分するという目的もあった。
ところが、当日斬刑に処される予定の罪人が、独居房で絞殺されて見つかる。
犯人として疑われたのは、牢番の石出帯刀。彼は旧幕時代には牢奉行であったが、今では冷遇されていた。
石出の子であるお香也と柳之丞の姉弟は、隅老斎に父の無実を訴え、救出を懇願する――
◯山田浅右衛門吉亮/石出帯刀(十七代)
痴女の用心棒
参議・広沢真臣が何者かに暗殺されて4年。容疑者として逮捕された愛妾おかねが、無罪放免となった。
事件は未解決であり、真犯人が唯一の目撃者おかねに接近する可能性がある。
加治木警部は、油戸巡査に彼女の身辺を見張るよう命じた。
まもなく、おかねは旧会津藩士・千馬武雄と所帯を持つ。貧しいながら、夫婦の仲は濃密に睦まじい。
油戸巡査に代わって見張りに就いた紙屋巡査は、夫婦に執拗に接近し、監視を続ける。
千馬は、監視者を真犯人と思い込み「妻が狙われている」と佐川官兵衛や隅老斎に訴える――
◯佐川官兵衛/永岡敬次郎/長連豪
春愁 雁のゆくえ
前回の事件にて殺人の疑いをかけられた兵四郎を救うため、隅老斎は警視庁に匿名で投書する。
これを怪しんだ加治木警部は、紙屋巡査に兵四郎の身元を探るよう密命を下した。
紙屋は、調査のため、柳橋の売れっ子芸者・お千に接近。
目的を忘れて彼女に迫ったあげく、情人の永岡敬次郎によって手ひどく撃退される。
これを恨んだ紙屋は、永岡が書いた密書を奪い去り、お千を脅迫する――
◯黒田清隆/大久保利通/森鴎外/賀古鶴所/永岡敬次郎/玉木真人/乃木希典/野村靖
天皇お庭番
兵四郎たちは浅草に出かけた折、手裏剣打ちの大道芸に目を留める。
飛んでくる手裏剣を避けながら舞う盲目の男は、旧幕時代に徳川のお庭番を務めた針買将馬。
彼に向けて手裏剣を打つのは、妻お志乃であった。
針買は現役時代、薩摩のお庭方によって視力を奪われていた。
手を下したお庭方の頭は今の川路大警視であり、その部下たちも警視庁の密偵となっている。
しかし、針買は過去を捨て去り、虚心坦懐の境地に生きていた。
そんな針買に、かつての徳川お庭番の同僚・杉目万之助らが接近し、報復するよう勧める――
妖恋高橋お伝
山田浅右衛門は、市ヶ谷囚獄署にて首斬り役を務めていたが、近頃は剣技が衰えたと感じる。
そんな時、たまたま出会った街娼のお伝に迷ったあげく、大金を持ち逃げされてしまう。
お伝は、近所に引っ越してきた4人の士族のうち、若く美貌の長連豪に強く惹かれていた。
経済的に逼迫している彼らを、何くれとなく面倒見るお伝。しかし、連豪の態度は冷たい。
その連豪から急に借金を頼まれて、有頂天になったお伝は、金を工面するため殺人を犯す。
ところが、連豪に金を渡した翌日、彼ら4人の姿は寓居から消えていた――
◯山田浅右衛門吉亮/高橋お伝/小川市太郎/島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一/熊坂長庵
東京神風連
明治9年の夏、兵四郎たちは、横浜の根岸競馬場で軽気球の飛行実験を見物した。
その帰途、島田一郎たちと同じ汽車に偶然乗り合わせる。
隅老斎は、彼らにも、また自分たちにも、警視庁の監視がついていると気づく。
しかし、なぜ拘引されず泳がされているのか、理由はわからない。
一方、川路大警視らの宴席に侍ったお蝶は、永岡敬次郎の同志2人が警視庁に狙われていると知る。
お蝶の懇願を受けて、兵四郎はこの2人を助けようとするも、自身が窮地に陥ってしまう――
◯からくり儀右衛門/谷干城/島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一/山県有朋/山岡鉄舟/静寛院宮/根津親徳・平山直一/前原一誠/永岡敬次郎
吉五郎流恨録
掏摸の名人・むささびの吉五郎が、兵四郎たちの協力者になる以前のこと。
安政6年、捕えられ伝馬町の牢屋敷にいた吉五郎は、三宅島への遠島に処される。
島の暮らしは非常に過酷であり、赦免される望みもほとんどない。
生きのびたのは、牢内で酔いどれ絵師から手に入れた「笑い絵」を隠し持ち、巧みに利用したためだった。
明治5年、吉五郎は赦免され本土へ戻り、すっかり変わった世の中に戸惑いつつ、吉田松陰の知る辺を捜す――
◯吉田松陰/河鍋暁斎/山城屋和助/山県有朋/野村靖
皇女の駅馬車
思案橋事件において永岡敬次郎と同志らが逮捕された後、残された家族たちは生活に窮していた。
その境遇を案じたお千の依頼を受け、兵四郎たちが消息を尋ねてまわる。
旧会津藩士の子・柴五郎が協力して、家族の子供たち30人がお千の隠棲先へ預けられた。
兵四郎は「永岡を助けて仇を討つ」というお千の願いをかなえたいが、それには多額の費用がかかる。
そこで、費用を工面するため、熊坂長庵から持ちかけられた密謀に乗ろうと思い立つ。
折しも静寛院宮が、十四代将軍家茂の木像を京都から東京へ馬車で運ばせようとしていた――
◯柴五郎/熊坂長庵/山岡鉄舟
川路大警視
前編の続き。兵四郎ら一行は「静寛院宮御用」の馬車を駆り、家茂像と秘密の荷を運んでゆく。
加治木警部の命を受けた4人の巡査が追うも、荷の中身を究明することはできない。
駿河に入ると、どこからか渡世人たちが現われ、次第に人数を増やしつつ馬車の護衛に加わって走る。
ついに安倍川のほとりで、4人の巡査は渡世人の頭目を捕えようと挑みかかった。
一方、川路大警視は、鹿児島へ密偵を送り込むべく部下たちに指示を与えていた――
◯清水の次郎長/大政/天田愚庵/山岡鉄舟
泣く子も黙る抜刀隊
明治10年2月7日、築地の海軍操練所にて、軽気球の2度目の実験が行なわれる。
兵四郎は、隅老斎に同行し見物する予定だったが、永岡敬次郎が処刑されるという知らせに市ヶ谷監獄へ向かう。
しかし、それは兵四郎を捕えようとする警視庁の罠だった。
一方の実験場では、川路大警視が隅老斎と対決した末、逮捕しようとする。
ところが、隅老斎についてきたお蝶が兵四郎の危機を知って逆上し、思わぬ行動に出た――
◯からくり儀右衛門/清水定吉
レギュラーの登場人物は、以下のとおり。
千羽兵四郎
26~27歳。旧幕時代は町奉行の同心。伊庭道場で心形刀流の免許皆伝を受けた、剣の遣い手。
幕府瓦解後、愛人お蝶のヒモ同然となって暮らしている。
新政府に対して反感を抱いているが、かといって転覆させようなどという物騒な考えはない。
不遇な者を放っておけない義侠心、警視庁を翻弄して楽しむ遊び心ゆえに、事件に関わることとなる。
隅老斎(駒井相模守信興)
旧幕時代、江戸南町奉行を務めた。
瓦解後、奉行所跡地の小さな家にひっそりと住まう。何事にも動じない、鷹揚で上品なご隠居。
推理力に長け、兵四郎に何かと知恵を貸す、頼もしいアドバイザー。新政府側の有力者にも顔が利く。
通称の「隅老斎」は、バロネス・オルツィ作「隅の老人」シリーズが由来と思われる。
冷酒かん八
30歳くらい。旧幕時代、神田三河町の半七親分の下で働いていた目明し。
冷や酒を飲みながら仕事をするので、この渾名がついた。
瓦解後、三河町で昔ながらの髪結床を営業する。近代的な床屋もザンギリ頭も大嫌い。
少々お調子者だが、面倒見が好い。兵四郎や隅老斎のため、骨身を惜しまず働く。
お蝶
柳橋の芸者。芸名は「小蝶」。御家人の娘だったが、幕府瓦解によって芸者となる。気っ風が良い。
新政府の要人や役人を嫌い、そうした客の座敷に出ても口をきかないが、その美貌ゆえに容認されている。
ヒモ同然の兵四郎を養いつつ、いつか大事を成し遂げる男と期待をかける。
同輩や似たような境遇の女たちが困っていると放っておけず、兵四郎に救援を依頼することも度々ある。
川路利良
薩摩出身、司法省警視庁の大警視。頭脳明晰で冷静沈着、時に非情な決断も辞さない。
西郷隆盛によって抜擢されたため、深く恩義を感じ、心服している。
薩摩藩士時代すでに御庭番を使いこなしていたため、警視庁でも密偵を使うのが巧み。
加治木直武
警部。川路の腹心。薩摩出身で、やはり西郷隆盛を信奉している。職務に忠実。性格はわりと直情径行。
油戸杖五郎
巡査。長身で体格が良い。生真面目で職務に忠実。優れた棒術の遣い手で、巡査の六尺棒を見事に扱う。
維新後は生活苦に追われ、ようやく警視庁に職を得たものの、旧仙台藩士の前歴ゆえに出世の見込みはない。
家庭では、しっかり者の妻おてねに頭が上がらない。
菊池剛蔵
巡査。油戸の同僚。元は水戸浪士、前名は海後嵯磯之助。
万延元年3月3日、桜田門外の変で井伊直弼を要撃したグループの一員だった。
藤田五郎
巡査。油戸の同僚。元新選組の斎藤一。
外見について「のんきそうな、平べったい容貌」と形容される。
今井信郎
巡査。油戸の同僚。元見廻組の組士。
旧幕時代の話はほとんどしない。キリスト教に傾倒している。
---
ストーリーは創作であるが、歴史上の事件を背景として歴史上の人物が多く登場する。
虚実ない交ぜの、ある種贅沢な群像劇に仕上がっている。
伏線の張りかたも面白い。登場人物をめぐる因縁が複雑で、なおかつ意外性に富む。
あまり重要でない脇役などは、てっきり架空の人物だと思ったら、モデルが実在することも多い。
人物や背景となった出来事へを調べていくと、なかなか勉強になる。
あっさり読み流しても楽しめるが、歴史好きならこだわってみるのも妙味だろう。
史実をどれだけ承知しているか、創作との境界をどこまで見極めることができるか、作家と勝負しているような気分にもなってくる。
本作を読んでみた理由のひとつは、藤田五郎が登場すること。
警視庁の巡査として度々活躍し、新選組隊士だったという前歴も語られる。
ただ、ストーリー全体から見ると、重きを成すほどの役回りではない。
永倉新八や佐川官兵衛も登場するのに、藤田との関わりはまったく描かれない。
新選組に関心を寄せる者として、この点は残念と言えば残念である。
どちらかというと新政府方の人物よりも、旧幕方の人物へのシンパシーを感じさせる描写が多い。
その一方で、ストーリー全体は川路大警視の深慮遠謀に貫かれている。
川路がこれほどに大きな敵役であればこそ、千羽兵四郎や隅老斎たちの活躍が際立つのかも。
最後に、作家らしい奇想天外なスペクタクルがある。
そのカタルシスのまま完結するかと思ったら、さらに予想外のオチがついて終わった。
千羽兵四郎と川路大警視との3~4年にわたる対決は、果たしてどちらが勝ったのだろう。
どちらとも解釈できる可能性を残して終わるところが、心憎い。
幕末から明治へと激しく時代が変わる時、人々の運命も大きく変わった。
混乱に乗じて成功を得た者もいれば、かつての地位から転落した者もいる。
ただ、その立場はいつ逆転するかもしれない危うさもはらんでいる。
そうした人々の波乱に満ちた人生を、アイロニーやペーソスを交え巧みに描き出しているところも秀逸。
---
本作は2001年、NHK金曜時代劇としてドラマ化された。
タイトルは「山田風太郎 からくり事件帖 ―警視庁草紙より―」、全9話。
本作の初出誌は、文藝春秋刊『オール讀物』。
1973年7月号から1974年12月号まで、全18回にわたり連載された。
これまでに出版された書籍は、おおよそ以下のとおり。
『警視庁草紙』上・下 文芸春秋 1975
『警視庁草紙』上・下 文春文庫 1978
『山田風太郎コレクション 警視庁草紙』上・下 河出文庫 1994
『山田風太郎明治小説全集 1 警視庁草紙』 筑摩書房 1997
『山田風太郎明治小説全集 1 警視庁草紙 上』 ちくま文庫 1997
『山田風太郎明治小説全集 2 警視庁草紙 下』 ちくま文庫 1997
『山田風太郎ベストコレクション 警視庁草紙』上・下 角川文庫 2010
電子書籍も各種出版されている。
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旧幕臣の千羽兵四郎らと、警視庁大警視の川路利良らとが、事件をめぐり対決するさまを描く、伝奇ミステリー。
タイトル読みは「けいしちょうぞうし」。形式としては短編連作集。ただ、各編の独立性より相互の関連が重視され、全編で1本のストーリーを成しているため、実質的には長編小説と言えよう。
各編の内容は以下のとおり。◯はゲスト的に登場する歴史上の人物。
明治牡丹灯籠
明治6年10月28日の朝、西郷隆盛が東京を去り、川路大警視らはそれを見送る。
その前夜、警視庁の巡査・油戸杖五郎は、不可解な出来事に遭遇していた。
美女の乗る人力車が去った後、路上に大量の血が溜まっていたのだ。
轍の跡を追って発見した粗末な家では、旧旗本・羽川金三郎が変死を遂げていた。
現場近くに住む三遊亭円朝は、当夜の状況を執拗に問い質され、とばっちりを恐れる。
千羽兵四郎、神田三河町の半七、冷酒かん八の3人は、円朝を助けようと真相究明に乗り出す。
そこへ訪れた不意の来客は、かつて羽川と婚約していたお雪であった――
◯西郷隆盛/三遊亭円朝
黒暗淵(やみわだ)の警視庁
料理屋で殺人事件が起きる。土佐訛りの壮士が、他の客と揉めたあげく、相手を斬殺したのだった。
捜査を開始した油戸巡査は、高知県士族・黒岩成存を容疑者として逮捕する。
その6日後、右大臣・岩倉具視は刺客の集団に襲われ、からくも危地を脱した。
警視庁が容疑者グループの検挙に乗り出す。この襲撃事件には、お雪の夫も関わっていた。
兵四郎たちは、お雪が苦境に立たされ、ひいては自らも追及される危機を案じて、対応策を練る――
◯黒岩成存/岩倉具視
人も獣も天地の虫
警視庁が密売春の大規模な摘発を行い、多数の売女が逮捕される。
その大半は、生活に窮した家族を救うため、身を堕とした旧幕臣の子女だった。
5人の知友が捕えられてしまい、お蝶は彼女らを伝馬町の牢屋から救出するよう、兵四郎に懇願する。
窮した兵四郎は、やむなく旧旗本・青木弥太郎に相談。
弥太郎は、かつて悪逆の限りを尽くした大悪党だったが、徳川の恩顧に報いるべく協力、策略を提示する――
◯小政(清水次郎長の子分)/青木弥太郎/お竜(坂本龍馬の妻)/おうの(高杉晋作の愛人)
幻談大名小路
ある夜、かん八は、盲目の按摩・宅市を偶然に暴漢から救う。
宅市は、何者かに大名小路の屋敷へ連行され、かつて自分の視力を奪った奥戸外記と引き合わされた後、郊外に置き去りにされ、そこへやって来た別の者に襲われた、と一連の不可解な体験を語る。
一方、小松川の癲狂院を訪れた油戸巡査は、院長から不審な事件を打ち明けられた。
昨夜、院の門前で奥戸外記が自害し、彼によって入院させられていた女性が何者かに連れ去られたという。
警視庁の捜査によると、外記は大聖寺藩の国家老の子息であり、戊辰戦争では日和見して藩政を惑わせ、維新後に政府の要職を得ていた――
◯夏目漱石/樋口一葉
開化写真鬼図
兵四郎は、横浜から帰途の新橋ステーションで、女と若者の揉め事を見かけてつい仲裁に入った。
若者は肥後熊本出身の桜井直成と名乗り、兵四郎に「決闘の介添人になって欲しい」と懇願する。
桜井は横浜・岩亀楼の小浪という遊女に執着し、決闘するのは彼女のためだと語る。
一方、油戸巡査は、剣術道場で知りあった南部藩出身の青年・東条英教から、やはり決闘の介添を依頼される。
そして決闘の当日。決闘場に赴いた兵四郎は、加治木警部に怪しまれ、危機に陥る。
隅老斎は、写真師・下岡蓮杖の力を借りて兵四郎を救うべく、策をめぐらす――
◯桜井直成/唐人お吉/東条英教/下岡蓮杖/種田政明
残月剣士伝
直心影流男谷派の榊原鍵吉は、かつて講武所教授を務めた幕臣だが、維新後は禄を失い活計に窮していた。
警視庁の剣術師範に迎えたいと旧知の今井巡査らに懇請されるも、新政府に仕える気はない。
そこで、弟子の勧めによって剣術の見世物をはじめる。
この「撃剣会」興行は、予想外の大人気を集め、他流からも似たような境遇の師範たちが集まる。
一方、腕の立つ師範を求める川路大警視は、彼らが奉職を厭い「撃剣会」に集まるのを快く思わない。
その意を忖度した加治木警部の命により、元新選組の平間重助が「撃剣会」潰しを実行する。
困り果てた榊原のもとに、からす組の隊長・細谷十太夫として勇名を馳せた鴉仙和尚が訪れる――
◯榊原鍵吉/上田馬之助/天田愚庵/島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一/平間重助/細谷十太夫/永倉新八
幻燈煉瓦街
戯作者の河竹黙阿弥と、元お坊主の幸田成延を交えて、銀座の煉瓦街を訪れた隅老斎と兵四郎。
そこで、一行はのぞきからくりの興行に目を留める。
興行師が語るストーリーは、尾去沢銅山事件をめぐる政府高官の汚職を告発する内容だった。
興行がはねて人通りも絶えた夜ふけ、路地を見回っていた油戸巡査は、三味線の音に気づく。
のぞきからくりが行なわれていた建物に突入すると、中では三味線を手にした男が死んでいた。
その男は、井上馨から尾去沢銅山の払い下げを受けた岡田平蔵であった――
◯河竹黙阿弥/幸田露伴/井上馨/由利公正/からくり儀右衛門/東条英教/村井茂兵衛/江藤新平/三千歳花魁
数寄屋橋門外の変
のぞきからくり事件から1ヶ月後、かん八は人捜しのため銀座を訪れる。
事件の現場となった建物は、なんと井上馨が買い取り、貿易商社「先収会社」を置いていた。
その建物において、またも事件が起きる。
先収会社の社員18人が、変死体となって発見されたのだ。被害者の全員が、なぜか旧彦根藩士であった。
岡田平蔵の殺害に続くこの事件に、井上馨は激昂し、川路大警視に対して早期解決を強く迫る。
そして巡査・菊池剛蔵に容疑がかかる。菊池は事件当時、現場で不可解な体験をしていた――
◯井上馨/板垣征徳/米内受政/徳川昭武/井伊直憲
最後の牢奉行
旧幕時代から伝馬町にあった牢屋敷は、新政府により「囚獄署」と名を変え、引き続き利用されていた。
明治8年、囚獄署は市ヶ谷へ移転することとなる。川路大警視は、移転準備の視察に訪れる。
当時、斬首刑の廃止が議論されていたため、執行の実情を検分するという目的もあった。
ところが、当日斬刑に処される予定の罪人が、独居房で絞殺されて見つかる。
犯人として疑われたのは、牢番の石出帯刀。彼は旧幕時代には牢奉行であったが、今では冷遇されていた。
石出の子であるお香也と柳之丞の姉弟は、隅老斎に父の無実を訴え、救出を懇願する――
◯山田浅右衛門吉亮/石出帯刀(十七代)
痴女の用心棒
参議・広沢真臣が何者かに暗殺されて4年。容疑者として逮捕された愛妾おかねが、無罪放免となった。
事件は未解決であり、真犯人が唯一の目撃者おかねに接近する可能性がある。
加治木警部は、油戸巡査に彼女の身辺を見張るよう命じた。
まもなく、おかねは旧会津藩士・千馬武雄と所帯を持つ。貧しいながら、夫婦の仲は濃密に睦まじい。
油戸巡査に代わって見張りに就いた紙屋巡査は、夫婦に執拗に接近し、監視を続ける。
千馬は、監視者を真犯人と思い込み「妻が狙われている」と佐川官兵衛や隅老斎に訴える――
◯佐川官兵衛/永岡敬次郎/長連豪
春愁 雁のゆくえ
前回の事件にて殺人の疑いをかけられた兵四郎を救うため、隅老斎は警視庁に匿名で投書する。
これを怪しんだ加治木警部は、紙屋巡査に兵四郎の身元を探るよう密命を下した。
紙屋は、調査のため、柳橋の売れっ子芸者・お千に接近。
目的を忘れて彼女に迫ったあげく、情人の永岡敬次郎によって手ひどく撃退される。
これを恨んだ紙屋は、永岡が書いた密書を奪い去り、お千を脅迫する――
◯黒田清隆/大久保利通/森鴎外/賀古鶴所/永岡敬次郎/玉木真人/乃木希典/野村靖
天皇お庭番
兵四郎たちは浅草に出かけた折、手裏剣打ちの大道芸に目を留める。
飛んでくる手裏剣を避けながら舞う盲目の男は、旧幕時代に徳川のお庭番を務めた針買将馬。
彼に向けて手裏剣を打つのは、妻お志乃であった。
針買は現役時代、薩摩のお庭方によって視力を奪われていた。
手を下したお庭方の頭は今の川路大警視であり、その部下たちも警視庁の密偵となっている。
しかし、針買は過去を捨て去り、虚心坦懐の境地に生きていた。
そんな針買に、かつての徳川お庭番の同僚・杉目万之助らが接近し、報復するよう勧める――
妖恋高橋お伝
山田浅右衛門は、市ヶ谷囚獄署にて首斬り役を務めていたが、近頃は剣技が衰えたと感じる。
そんな時、たまたま出会った街娼のお伝に迷ったあげく、大金を持ち逃げされてしまう。
お伝は、近所に引っ越してきた4人の士族のうち、若く美貌の長連豪に強く惹かれていた。
経済的に逼迫している彼らを、何くれとなく面倒見るお伝。しかし、連豪の態度は冷たい。
その連豪から急に借金を頼まれて、有頂天になったお伝は、金を工面するため殺人を犯す。
ところが、連豪に金を渡した翌日、彼ら4人の姿は寓居から消えていた――
◯山田浅右衛門吉亮/高橋お伝/小川市太郎/島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一/熊坂長庵
東京神風連
明治9年の夏、兵四郎たちは、横浜の根岸競馬場で軽気球の飛行実験を見物した。
その帰途、島田一郎たちと同じ汽車に偶然乗り合わせる。
隅老斎は、彼らにも、また自分たちにも、警視庁の監視がついていると気づく。
しかし、なぜ拘引されず泳がされているのか、理由はわからない。
一方、川路大警視らの宴席に侍ったお蝶は、永岡敬次郎の同志2人が警視庁に狙われていると知る。
お蝶の懇願を受けて、兵四郎はこの2人を助けようとするも、自身が窮地に陥ってしまう――
◯からくり儀右衛門/谷干城/島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一/山県有朋/山岡鉄舟/静寛院宮/根津親徳・平山直一/前原一誠/永岡敬次郎
吉五郎流恨録
掏摸の名人・むささびの吉五郎が、兵四郎たちの協力者になる以前のこと。
安政6年、捕えられ伝馬町の牢屋敷にいた吉五郎は、三宅島への遠島に処される。
島の暮らしは非常に過酷であり、赦免される望みもほとんどない。
生きのびたのは、牢内で酔いどれ絵師から手に入れた「笑い絵」を隠し持ち、巧みに利用したためだった。
明治5年、吉五郎は赦免され本土へ戻り、すっかり変わった世の中に戸惑いつつ、吉田松陰の知る辺を捜す――
◯吉田松陰/河鍋暁斎/山城屋和助/山県有朋/野村靖
皇女の駅馬車
思案橋事件において永岡敬次郎と同志らが逮捕された後、残された家族たちは生活に窮していた。
その境遇を案じたお千の依頼を受け、兵四郎たちが消息を尋ねてまわる。
旧会津藩士の子・柴五郎が協力して、家族の子供たち30人がお千の隠棲先へ預けられた。
兵四郎は「永岡を助けて仇を討つ」というお千の願いをかなえたいが、それには多額の費用がかかる。
そこで、費用を工面するため、熊坂長庵から持ちかけられた密謀に乗ろうと思い立つ。
折しも静寛院宮が、十四代将軍家茂の木像を京都から東京へ馬車で運ばせようとしていた――
◯柴五郎/熊坂長庵/山岡鉄舟
川路大警視
前編の続き。兵四郎ら一行は「静寛院宮御用」の馬車を駆り、家茂像と秘密の荷を運んでゆく。
加治木警部の命を受けた4人の巡査が追うも、荷の中身を究明することはできない。
駿河に入ると、どこからか渡世人たちが現われ、次第に人数を増やしつつ馬車の護衛に加わって走る。
ついに安倍川のほとりで、4人の巡査は渡世人の頭目を捕えようと挑みかかった。
一方、川路大警視は、鹿児島へ密偵を送り込むべく部下たちに指示を与えていた――
◯清水の次郎長/大政/天田愚庵/山岡鉄舟
泣く子も黙る抜刀隊
明治10年2月7日、築地の海軍操練所にて、軽気球の2度目の実験が行なわれる。
兵四郎は、隅老斎に同行し見物する予定だったが、永岡敬次郎が処刑されるという知らせに市ヶ谷監獄へ向かう。
しかし、それは兵四郎を捕えようとする警視庁の罠だった。
一方の実験場では、川路大警視が隅老斎と対決した末、逮捕しようとする。
ところが、隅老斎についてきたお蝶が兵四郎の危機を知って逆上し、思わぬ行動に出た――
◯からくり儀右衛門/清水定吉
レギュラーの登場人物は、以下のとおり。
千羽兵四郎
26~27歳。旧幕時代は町奉行の同心。伊庭道場で心形刀流の免許皆伝を受けた、剣の遣い手。
幕府瓦解後、愛人お蝶のヒモ同然となって暮らしている。
新政府に対して反感を抱いているが、かといって転覆させようなどという物騒な考えはない。
不遇な者を放っておけない義侠心、警視庁を翻弄して楽しむ遊び心ゆえに、事件に関わることとなる。
隅老斎(駒井相模守信興)
旧幕時代、江戸南町奉行を務めた。
瓦解後、奉行所跡地の小さな家にひっそりと住まう。何事にも動じない、鷹揚で上品なご隠居。
推理力に長け、兵四郎に何かと知恵を貸す、頼もしいアドバイザー。新政府側の有力者にも顔が利く。
通称の「隅老斎」は、バロネス・オルツィ作「隅の老人」シリーズが由来と思われる。
冷酒かん八
30歳くらい。旧幕時代、神田三河町の半七親分の下で働いていた目明し。
冷や酒を飲みながら仕事をするので、この渾名がついた。
瓦解後、三河町で昔ながらの髪結床を営業する。近代的な床屋もザンギリ頭も大嫌い。
少々お調子者だが、面倒見が好い。兵四郎や隅老斎のため、骨身を惜しまず働く。
お蝶
柳橋の芸者。芸名は「小蝶」。御家人の娘だったが、幕府瓦解によって芸者となる。気っ風が良い。
新政府の要人や役人を嫌い、そうした客の座敷に出ても口をきかないが、その美貌ゆえに容認されている。
ヒモ同然の兵四郎を養いつつ、いつか大事を成し遂げる男と期待をかける。
同輩や似たような境遇の女たちが困っていると放っておけず、兵四郎に救援を依頼することも度々ある。
川路利良
薩摩出身、司法省警視庁の大警視。頭脳明晰で冷静沈着、時に非情な決断も辞さない。
西郷隆盛によって抜擢されたため、深く恩義を感じ、心服している。
薩摩藩士時代すでに御庭番を使いこなしていたため、警視庁でも密偵を使うのが巧み。
加治木直武
警部。川路の腹心。薩摩出身で、やはり西郷隆盛を信奉している。職務に忠実。性格はわりと直情径行。
油戸杖五郎
巡査。長身で体格が良い。生真面目で職務に忠実。優れた棒術の遣い手で、巡査の六尺棒を見事に扱う。
維新後は生活苦に追われ、ようやく警視庁に職を得たものの、旧仙台藩士の前歴ゆえに出世の見込みはない。
家庭では、しっかり者の妻おてねに頭が上がらない。
菊池剛蔵
巡査。油戸の同僚。元は水戸浪士、前名は海後嵯磯之助。
万延元年3月3日、桜田門外の変で井伊直弼を要撃したグループの一員だった。
藤田五郎
巡査。油戸の同僚。元新選組の斎藤一。
外見について「のんきそうな、平べったい容貌」と形容される。
今井信郎
巡査。油戸の同僚。元見廻組の組士。
旧幕時代の話はほとんどしない。キリスト教に傾倒している。
---
ストーリーは創作であるが、歴史上の事件を背景として歴史上の人物が多く登場する。
虚実ない交ぜの、ある種贅沢な群像劇に仕上がっている。
伏線の張りかたも面白い。登場人物をめぐる因縁が複雑で、なおかつ意外性に富む。
あまり重要でない脇役などは、てっきり架空の人物だと思ったら、モデルが実在することも多い。
人物や背景となった出来事へを調べていくと、なかなか勉強になる。
あっさり読み流しても楽しめるが、歴史好きならこだわってみるのも妙味だろう。
史実をどれだけ承知しているか、創作との境界をどこまで見極めることができるか、作家と勝負しているような気分にもなってくる。
本作を読んでみた理由のひとつは、藤田五郎が登場すること。
警視庁の巡査として度々活躍し、新選組隊士だったという前歴も語られる。
ただ、ストーリー全体から見ると、重きを成すほどの役回りではない。
永倉新八や佐川官兵衛も登場するのに、藤田との関わりはまったく描かれない。
新選組に関心を寄せる者として、この点は残念と言えば残念である。
どちらかというと新政府方の人物よりも、旧幕方の人物へのシンパシーを感じさせる描写が多い。
その一方で、ストーリー全体は川路大警視の深慮遠謀に貫かれている。
川路がこれほどに大きな敵役であればこそ、千羽兵四郎や隅老斎たちの活躍が際立つのかも。
最後に、作家らしい奇想天外なスペクタクルがある。
そのカタルシスのまま完結するかと思ったら、さらに予想外のオチがついて終わった。
千羽兵四郎と川路大警視との3~4年にわたる対決は、果たしてどちらが勝ったのだろう。
どちらとも解釈できる可能性を残して終わるところが、心憎い。
幕末から明治へと激しく時代が変わる時、人々の運命も大きく変わった。
混乱に乗じて成功を得た者もいれば、かつての地位から転落した者もいる。
ただ、その立場はいつ逆転するかもしれない危うさもはらんでいる。
そうした人々の波乱に満ちた人生を、アイロニーやペーソスを交え巧みに描き出しているところも秀逸。
---
本作は2001年、NHK金曜時代劇としてドラマ化された。
タイトルは「山田風太郎 からくり事件帖 ―警視庁草紙より―」、全9話。
本作の初出誌は、文藝春秋刊『オール讀物』。
1973年7月号から1974年12月号まで、全18回にわたり連載された。
これまでに出版された書籍は、おおよそ以下のとおり。
『警視庁草紙』上・下 文芸春秋 1975
『警視庁草紙』上・下 文春文庫 1978
『山田風太郎コレクション 警視庁草紙』上・下 河出文庫 1994
『山田風太郎明治小説全集 1 警視庁草紙』 筑摩書房 1997
『山田風太郎明治小説全集 1 警視庁草紙 上』 ちくま文庫 1997
『山田風太郎明治小説全集 2 警視庁草紙 下』 ちくま文庫 1997
『山田風太郎ベストコレクション 警視庁草紙』上・下 角川文庫 2010
電子書籍も各種出版されている。
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根岸友山と新選組
2019年3月13日、「林修のニッポンドリル」(フジテレビ系列)を視聴した。
この日の放送は「名家に眠るお宝の値段調査」と題する内容。
後半、埼玉県熊谷市の根岸家が紹介された。およそ400年も続く名家である。
その十一代当主は、幕末から明治を生きた根岸友山。新選組といささかの縁があった人物、と承知している向きも多いであろう。
番組では、根岸家に伝わる品々を紹介。友山ゆかりの品も出てきたが、人物像には簡単に触れたのみだった。
そこで、改めて経歴などを振り返ってみる。
【根岸友山の経歴】
文化6年(1809)11月27日、武州大里郡甲山村の豪農・根岸栄次郎の長男として出生した。
母は、桶川宿本陣兼名主・府川甚右衛門の娘りさ。
幼名は房吉、実名は信輔、瓊枝。通称は伴七、仁輔。雅号を友山とする。
生家は享保以来、代々名主を務める家柄。大地主であり、農業経営のかたわら酒造業も営んでいた。
文政7年(1824)、16歳にして家督を継ぎ、根岸家十一代当主となる。
文政10年(1827)19歳の時、比企郡小川町・笠間四郎左衛門の娘さわを妻とする。
若い頃から文武に励む。
学問は、寺門静軒(水戸藩出身の儒者)、芳川波山(忍藩校学頭)に師事。
自邸内に私塾・三余堂を設け、知識人を招いて講義させ、近在郷党の学問の場とした。
剣は、比企郡志賀村の水野清吾に甲源一刀流を学び、のち千葉周作の下で北辰一刀流を修める。
さらに、自邸に剣術道場・振武所を設け、周作の門人を招いて修行を続け、地域の若者たちにも教えた。
国事に奔走する有志たちとも交際し、屋敷にはいつも10人以上を寄宿させ、援助した。
こうした交流関係から、次第に平田派国学に傾倒する。
天保4年(1833)25歳の時、大里23ヶ村の普請惣代として荒川堤防の改修工事に尽力する。
天保10年(1839)30歳の時、改修工事における不正を告発すべく、農民たちが川越城下へ押し寄せる「蓑負騒動」が勃発。友山も農民たちに協力する。
天保12年(1841)32歳の時、「蓑負騒動」で強訴の罪に問われ、居村構および江戸10里四方追放となる。追放の間、上州新田郡細谷村に仮住まいした。(厳重な監視を受けていたわけでなく、自邸や江戸にも多少の出入りはできた様子。)
安政2年(1855)46歳の時、ようやく処分を解かれる。
万延元年(1860)、長州藩の「御国塩其外産物之御用取扱」に任命され、翌年頃まで御用を務めた様子。
文久3年(1863)55歳の時、清河八郎や池田徳太郎から浪士組への参加を要請され、20余人を率いて加盟。自身は一番組小頭に任命される。そして京へ上るが、まもなく江戸へ戻ることに。
東帰後、新徴組に入り、再び一番組小頭となった。しかし同9月、病気を理由に脱退し、郷里へ帰る。
元治元年(1864)、第一次幕長戦争に際し、長州支援の挙兵を画策するも、不発に終わる。
慶応2年(1866)6月16日、武州世直し騒動の打ち壊し勢に襲撃され、武力で撃退する。
慶応3年(1867)11月、野州出流山挙兵への呼応を試みるが、幕吏に怪しまれ、これも不発に終わる。
慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見での新政府軍勝利を知り、祝宴を開く。8月、旧幕府の関東取締出役に協力した嫌疑で新政府軍に捕われるが、やがて冤罪と判明し釈放される。
明治2年(1869)、名字帯刀を許された。
まもなく政治活動から身を引き、神葬祭運動や文化財保護などに専念する。
明治23年(1890)12月3日、82歳で病没。
この経歴を見ると、友山は幕府に対して反発する気持ちが強かったようだ。
公共事業の不正を告発したのに罰せられたとあっては、無理からぬところか。世直し騒動においても、幕府には頼らず地域の力を結集し自衛した、という自負心があった様子。
人物像として、「倒幕の志士」というより「地域自治のリーダー」という側面のほうが大きく思える。例えるなら、日野の佐藤彦五郎や小野路の小島鹿之助と近いのではないか(幕府への姿勢こそ正反対だけれども)。
さて、友山が京へ上ってすぐに戻った経緯とは、どのようなものであったか。
【上京~東帰の経緯】
文久3年2月8日、浪士組は江戸を出立。同23日、京へ到着した。
着くなり、清河八郎と幹部らは「天皇のため関東で攘夷の先鋒を務めたい」と朝廷に働きかける。
そして3月3日、江戸へ下るよう関白からの命令を取りつけた。
隊士の多くはこれに従うが、中には反対する者もいた。京の治安を守り将軍家茂を警護する目的で来たのに、それを果たさず帰るのでは本旨にもとる、という考えである。
3月10日、17人が会津藩へ京都残留を願い出る。京都守護職の会津藩主・松平容保は、幕府から残留希望者を差配するよう、正式に命じられていた。
17名の内訳は、芹沢鴨ら5人(新見錦、平山五郎、野口健司、平間重助)、近藤勇ら8人(山南敬助、沖田総司、土方歳三、原田左之助、藤堂平助、井上源三郎、永倉新八)、ほかに粕谷新五郎、阿比留鋭三郞の2人、京で合流した斎藤一、佐伯又三郎の2人である。
一方、それとは別に、浪士取扱役・鵜殿鳩翁が、殿内義雄と家里次雄に残留者を募るよう命じた。
こちらには、根岸友山と、清水吾一、遠藤丈庵、神代仁之助、鈴木長蔵の5人が応じ、合計7人となる。
友山にとって、家里は以前からの知己、清水は甥である。遠藤と神代も、知人を介し面識があった様子。殿内は、上京の途次に友山の組下へ入っていた。
3月12日、近藤・芹沢ら17人は、京都守護職お預かりを許される。翌日、浪士組本隊は江戸へ出立した。
3月15日、近藤・芹沢ら17人と友山ら7人を合わせた24人が、正式に会津藩預かりとなる。
3月22日、残留の壬生浪士たちは、家茂の滞京を訴える意見書を老中・板倉勝静に提出した。18人の連名であり、友山もこれに加わっている。
3月25日、会津藩士・本多四郎が、壬生浪士たちと壬生狂言を見物する。同席者17人の中に、友山の名はない。
その夜のこと、殿内義雄が殺害された。原因は、壬生浪士の内訌であるという。
この後まもなく、友山をはじめ清水、遠藤、神代、鈴木の5人は京を去り、江戸へ戻った。そして、東帰した浪士組の後身である新徴組に、揃って入隊している。
この経緯を、友山の実子である根岸武香は「(芹沢や近藤は)大義名分を失し、正義の士を暗殺せんとするの意あり」「父友山、このことを未発に察し、同志両三輩と伊勢大廟へ詣するを名とし、京を出、東下して組を脱したり」と『根岸友山履歴言行』に記す。父から聞いたことを書き留めたものだろう。
友山自身は、「(芹沢や新見は)何事をも我儘に行ひ威を振たる也」、「(近藤は)思慮もなき痴人なり」と、『自伝草稿』にて強く批判している。芹沢・近藤らへの嫌忌は明白と言えよう。
話を戻すと、「林修のニッポンドリル」には非常に引っかかる部分があった。
根岸家を「近藤勇・土方歳三の盟友を生んだ家」、友山を「近藤勇、土方歳三とともに活躍した壬生浪士組一番隊隊長」と紹介していたのだ。
しかし、前述のとおり、友山が近藤や土方を「盟友」と思っていたはずはない。また、彼が「浪士組の一番小頭(隊長)」だったことは事実だが、「壬生浪士組の一番隊隊長」とはいかがなものか。そのような役職の存在自体が未確認であろう。
根岸家を紹介した番組としては、これより前に「所さんの学校では教えてくれないそこんトコロ」(テレビ東京系列)があった。2018年7月20日放送の「街道一のお宝を探せ!中山道(第1回)」で鴻巣~熊谷~本宿をたどり、熊谷で根岸家を訪ねている。
ここでは、友山を「新選組の前身となった浪士組の一番隊長」と説明し、強引なこじつけはされなかった。
過剰な煽り文句がなくても、番組は成立する。誤解を生むような作り話はしないでもらいたい。
ちなみに熊谷では、友山は郷土史の著名人物として紹介されている。
根岸家では、かつて振武所が置かれた長屋門に「友山・武香ミュージアム」を開設し、当家や地域の歴史に関連した展示を行なっている。
例年4月、この長屋門をメイン会場として「友山まつり」が開催される(主催:おおさとまつり実行委員会、共催:くまがや市商工会南支所)。友山の顕彰と地域の親睦を兼ねたこのイベントは、2019年で13回目を数えた。
根岸友山について、新選組の歴史から知ると「すぐ帰った人」「芹沢や近藤を貶した人」というイメージが先行しがちだ。しかし、「地域に貢献した有徳の人」という側面も知っておいてよいのではなかろうか。

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この日の放送は「名家に眠るお宝の値段調査」と題する内容。
後半、埼玉県熊谷市の根岸家が紹介された。およそ400年も続く名家である。
その十一代当主は、幕末から明治を生きた根岸友山。新選組といささかの縁があった人物、と承知している向きも多いであろう。
番組では、根岸家に伝わる品々を紹介。友山ゆかりの品も出てきたが、人物像には簡単に触れたのみだった。
そこで、改めて経歴などを振り返ってみる。
【根岸友山の経歴】
文化6年(1809)11月27日、武州大里郡甲山村の豪農・根岸栄次郎の長男として出生した。
母は、桶川宿本陣兼名主・府川甚右衛門の娘りさ。
幼名は房吉、実名は信輔、瓊枝。通称は伴七、仁輔。雅号を友山とする。
生家は享保以来、代々名主を務める家柄。大地主であり、農業経営のかたわら酒造業も営んでいた。
文政7年(1824)、16歳にして家督を継ぎ、根岸家十一代当主となる。
文政10年(1827)19歳の時、比企郡小川町・笠間四郎左衛門の娘さわを妻とする。
若い頃から文武に励む。
学問は、寺門静軒(水戸藩出身の儒者)、芳川波山(忍藩校学頭)に師事。
自邸内に私塾・三余堂を設け、知識人を招いて講義させ、近在郷党の学問の場とした。
剣は、比企郡志賀村の水野清吾に甲源一刀流を学び、のち千葉周作の下で北辰一刀流を修める。
さらに、自邸に剣術道場・振武所を設け、周作の門人を招いて修行を続け、地域の若者たちにも教えた。
国事に奔走する有志たちとも交際し、屋敷にはいつも10人以上を寄宿させ、援助した。
こうした交流関係から、次第に平田派国学に傾倒する。
天保4年(1833)25歳の時、大里23ヶ村の普請惣代として荒川堤防の改修工事に尽力する。
天保10年(1839)30歳の時、改修工事における不正を告発すべく、農民たちが川越城下へ押し寄せる「蓑負騒動」が勃発。友山も農民たちに協力する。
天保12年(1841)32歳の時、「蓑負騒動」で強訴の罪に問われ、居村構および江戸10里四方追放となる。追放の間、上州新田郡細谷村に仮住まいした。(厳重な監視を受けていたわけでなく、自邸や江戸にも多少の出入りはできた様子。)
安政2年(1855)46歳の時、ようやく処分を解かれる。
万延元年(1860)、長州藩の「御国塩其外産物之御用取扱」に任命され、翌年頃まで御用を務めた様子。
文久3年(1863)55歳の時、清河八郎や池田徳太郎から浪士組への参加を要請され、20余人を率いて加盟。自身は一番組小頭に任命される。そして京へ上るが、まもなく江戸へ戻ることに。
東帰後、新徴組に入り、再び一番組小頭となった。しかし同9月、病気を理由に脱退し、郷里へ帰る。
元治元年(1864)、第一次幕長戦争に際し、長州支援の挙兵を画策するも、不発に終わる。
慶応2年(1866)6月16日、武州世直し騒動の打ち壊し勢に襲撃され、武力で撃退する。
慶応3年(1867)11月、野州出流山挙兵への呼応を試みるが、幕吏に怪しまれ、これも不発に終わる。
慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見での新政府軍勝利を知り、祝宴を開く。8月、旧幕府の関東取締出役に協力した嫌疑で新政府軍に捕われるが、やがて冤罪と判明し釈放される。
明治2年(1869)、名字帯刀を許された。
まもなく政治活動から身を引き、神葬祭運動や文化財保護などに専念する。
明治23年(1890)12月3日、82歳で病没。
この経歴を見ると、友山は幕府に対して反発する気持ちが強かったようだ。
公共事業の不正を告発したのに罰せられたとあっては、無理からぬところか。世直し騒動においても、幕府には頼らず地域の力を結集し自衛した、という自負心があった様子。
人物像として、「倒幕の志士」というより「地域自治のリーダー」という側面のほうが大きく思える。例えるなら、日野の佐藤彦五郎や小野路の小島鹿之助と近いのではないか(幕府への姿勢こそ正反対だけれども)。
さて、友山が京へ上ってすぐに戻った経緯とは、どのようなものであったか。
【上京~東帰の経緯】
文久3年2月8日、浪士組は江戸を出立。同23日、京へ到着した。
着くなり、清河八郎と幹部らは「天皇のため関東で攘夷の先鋒を務めたい」と朝廷に働きかける。
そして3月3日、江戸へ下るよう関白からの命令を取りつけた。
隊士の多くはこれに従うが、中には反対する者もいた。京の治安を守り将軍家茂を警護する目的で来たのに、それを果たさず帰るのでは本旨にもとる、という考えである。
3月10日、17人が会津藩へ京都残留を願い出る。京都守護職の会津藩主・松平容保は、幕府から残留希望者を差配するよう、正式に命じられていた。
17名の内訳は、芹沢鴨ら5人(新見錦、平山五郎、野口健司、平間重助)、近藤勇ら8人(山南敬助、沖田総司、土方歳三、原田左之助、藤堂平助、井上源三郎、永倉新八)、ほかに粕谷新五郎、阿比留鋭三郞の2人、京で合流した斎藤一、佐伯又三郎の2人である。
一方、それとは別に、浪士取扱役・鵜殿鳩翁が、殿内義雄と家里次雄に残留者を募るよう命じた。
こちらには、根岸友山と、清水吾一、遠藤丈庵、神代仁之助、鈴木長蔵の5人が応じ、合計7人となる。
友山にとって、家里は以前からの知己、清水は甥である。遠藤と神代も、知人を介し面識があった様子。殿内は、上京の途次に友山の組下へ入っていた。
3月12日、近藤・芹沢ら17人は、京都守護職お預かりを許される。翌日、浪士組本隊は江戸へ出立した。
3月15日、近藤・芹沢ら17人と友山ら7人を合わせた24人が、正式に会津藩預かりとなる。
3月22日、残留の壬生浪士たちは、家茂の滞京を訴える意見書を老中・板倉勝静に提出した。18人の連名であり、友山もこれに加わっている。
3月25日、会津藩士・本多四郎が、壬生浪士たちと壬生狂言を見物する。同席者17人の中に、友山の名はない。
その夜のこと、殿内義雄が殺害された。原因は、壬生浪士の内訌であるという。
この後まもなく、友山をはじめ清水、遠藤、神代、鈴木の5人は京を去り、江戸へ戻った。そして、東帰した浪士組の後身である新徴組に、揃って入隊している。
この経緯を、友山の実子である根岸武香は「(芹沢や近藤は)大義名分を失し、正義の士を暗殺せんとするの意あり」「父友山、このことを未発に察し、同志両三輩と伊勢大廟へ詣するを名とし、京を出、東下して組を脱したり」と『根岸友山履歴言行』に記す。父から聞いたことを書き留めたものだろう。
友山自身は、「(芹沢や新見は)何事をも我儘に行ひ威を振たる也」、「(近藤は)思慮もなき痴人なり」と、『自伝草稿』にて強く批判している。芹沢・近藤らへの嫌忌は明白と言えよう。
話を戻すと、「林修のニッポンドリル」には非常に引っかかる部分があった。
根岸家を「近藤勇・土方歳三の盟友を生んだ家」、友山を「近藤勇、土方歳三とともに活躍した壬生浪士組一番隊隊長」と紹介していたのだ。
しかし、前述のとおり、友山が近藤や土方を「盟友」と思っていたはずはない。また、彼が「浪士組の一番小頭(隊長)」だったことは事実だが、「壬生浪士組の一番隊隊長」とはいかがなものか。そのような役職の存在自体が未確認であろう。
根岸家を紹介した番組としては、これより前に「所さんの学校では教えてくれないそこんトコロ」(テレビ東京系列)があった。2018年7月20日放送の「街道一のお宝を探せ!中山道(第1回)」で鴻巣~熊谷~本宿をたどり、熊谷で根岸家を訪ねている。
ここでは、友山を「新選組の前身となった浪士組の一番隊長」と説明し、強引なこじつけはされなかった。
過剰な煽り文句がなくても、番組は成立する。誤解を生むような作り話はしないでもらいたい。
ちなみに熊谷では、友山は郷土史の著名人物として紹介されている。
根岸家では、かつて振武所が置かれた長屋門に「友山・武香ミュージアム」を開設し、当家や地域の歴史に関連した展示を行なっている。
例年4月、この長屋門をメイン会場として「友山まつり」が開催される(主催:おおさとまつり実行委員会、共催:くまがや市商工会南支所)。友山の顕彰と地域の親睦を兼ねたこのイベントは、2019年で13回目を数えた。
根岸友山について、新選組の歴史から知ると「すぐ帰った人」「芹沢や近藤を貶した人」というイメージが先行しがちだ。しかし、「地域に貢献した有徳の人」という側面も知っておいてよいのではなかろうか。

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望月三起也『俺の新選組』
長編マンガ。土方歳三を中心に、浪士組の京都入りから近藤派が新選組を掌握するまでを描く。
人気アクションシリーズ「ワイルド7」を代表作とする望月三起也は、力強いペンタッチ、ダイナミックなアクション、大胆な構図、奇抜なアイディア、シリアスの中にもユーモアを交えたストーリーが特徴的なマンガ家。
その作者が、実力を惜しみなく発揮して描いたのが本作「俺の新選組」である。
発表直後は生憎きちんと読む機会がなく、断片的な印象にとどまったまま時が流れてしまった。
2017年8月~2018年5月、eBOOKJapan「なつかしまんが全話読破」の一環として無料配信された。この機会に読んでみて面白かったので、今回紹介する。
文久3年、中山道の本庄宿。
京を目指す浪士組一行の宿泊地となったこの夜、大事件が起きていた。
芹沢鴨が、近藤勇の宿割りの不手際に腹を立て、宿場の真ん中に大きな焚き火をはじめたのだ。
押っ取り刀で飛び出した土方歳三は、謎の刺客たちに襲撃され、行く手をはばまれてしまう。
あわや大火災か斬り合いかという危機を収拾したのは、芹沢にさりげなく焼き芋を勧めた沖田総司。
試衛館の同志たちは、沖田の不思議な人柄を、仲間ながら改めて称賛する。
一方、芹沢の暴挙を面白がって煽り立てていた新見錦は、騒ぎが鎮火してつまらないと不満がる。
芹沢ひとりが、沖田の並々ならぬ剣才を鋭く見抜いていた。
着京した浪士組は、まもなく江戸へ帰還することになる。
清河八郎と袂を分かった近藤らと芹沢らは、残留を決意。
紆余曲折の末、なんとか一隊をまとめ、会津藩お預かりという地位を獲得する。
しかし、近藤派と芹沢派との間で、隊の実権をめぐる軋轢が顕在化、次第に激しくなっていく。
基本的に、独自の設定や展開を主とする、自由な作品。
特にアクションシーンは、奇想天外なアイディアを迫真の描写で見せる。よく考えれば現実には不可能なことも、なんとなく納得して読めてしまう。時には血腥い残酷シーンもあるものの、全体としては面白い。
実在人物のキャラクター設定にもオリジナリティが加味されている。目立つ特徴としては↓
◯土方歳三がクールな主役なのに対し、原田左之助が熱血漢の主役タイプに造形された。当時は目新しい。
◯沖田総司は、目を細めた猫のような印象の若者。つねに柔和な物腰で、すべてを柳に風と受け流す。
◯藤堂平助は、力士ふうの巨漢で、坊主頭と丸メガネが特徴。島田魁か松原忠司かと思いたくなる。
◯山崎蒸は、なんと美少女。裕福な商人・山崎屋の娘で、本名お糸。会津藩の重役によって送り込まれた。
いつも振袖を優雅に着こなしているが、鉄火肌のおてんば。
潜入捜査のため男子が女に変装、という名目で入隊。屯所でなく自宅で暮らしている様子。
名前は「山崎嬢」→ヤマザキジョウ→「山崎蒸」という、近藤の勘違いから決まった。
京都の事情に不慣れな土方たちを助け、幅広い人脈を活かして活躍する。
金も身分もない近藤や土方たちが、強い信念と剣の腕をもって戦い、自らの存在意義を確立していく、というのが全体の大きな流れ。これを主軸として、様々なエピソードが展開される。主な話を挙げると↓
◆江戸にいた頃の回想。試衛館の面々が、花火見物の宴席に乗り込み、ご馳走をただ食いする顛末。
◆反徳川の暗殺集団「黒い狐」30人と、原田・沖田・永倉・藤堂・山南5人との、息詰まる戦い。
◆土方と、そうとは知らず出会った草餅売りの娘との淡い恋。しかし、新見らの陰謀によって悲劇に。
◆土方の命を狙い、江戸から派遣されてきた謎の暗殺者たちの暗躍。
◆博奕で負けて片腕を切り落とされそうになる原田と、救出しようとする仲間たちの葛藤。
◆武装蜂起を企む過激派のアジトに、弱兵ばかりを率いて討ち入る土方の激闘。その窮地に駆けつけるのは……。
◆町人の暮らしを嫌い、武士に憧れて入隊した少年、安吉と留作。しかし、苛酷な運命が待ち受けていた。
本作の土方は、芹沢派の執拗かつ巧妙な嫌がらせに、さんざん煮え湯を飲まされる。
しかし、内紛を起こせば隊の存続が危うくなるので、我慢に我慢を重ねるしかない。
仲間たちは、そんな苦衷を察して助けたり、時にはなぜ反撃しないのかと反発したり。
そうして極限まで屈辱に堪え続けた土方たちが、ここぞというとき一気に無念を晴らすことになる。
そのカタルシスが最大の見どころ。
「俺の新選組」というタイトルには、土方が新選組に賭けた思いと同時に、作者自身が造り上げようとする新選組、という意味も込められている。
---
作者の望月三起也は、もともと新選組に対して愛着が深かった様子。
幼少期にチャンバラ映画を見て、新選組はたとえ悪役扱いでもカッコイイと憧れる。
司馬遼太郎『燃えよ剣』(1964)と、それをきっかけとするブームに触れ、本格的に熱中。
子母澤寛の新選組三部作、村上元三『新選組』などの関連書に親しむ。
特に、社会的に軽んじられた者たちが屈辱をバネに意地で成り上がる、という姿に共感。
一方、プロデビューし「秘密探偵JA」(1964)などで好評を博した後、新選組を描こうと考えた。
しかし、出版社からは、前作同様の現代アクションものを要望される。
そこで、新選組に独自のアレンジを加えて「ワイルド7」(1969)を創出するに至った。
やがて、読み切り作品「ダンダラ新選組」(1973-74)を経て、「俺の新選組」(1979)連載を開始。
また、マンガを発表するほかにも、『月刊歴史読本』(新人物往来社)の新選組特集に登場、思いを語っている。
■1980年7月号 …各界著名人が寄せたエッセイ特集「新選組へのメッセージ」(各1頁)に寄稿。
■1989年2月号 …「土方歳三は「ワイルド7」ばりのハードボイルドでなければならない」
6頁にわたるイラストと文章を交えたエッセイ。
白刃をふりかざしバイクで疾駆する新選組に、“私にとって新選組は時代劇の「ワイルド7」”とキャプション。
ほかにも、宮古湾海戦や最後の戦いに臨む土方歳三の姿などが描かれている。
■1999年11月号 …各界著名人のインタビュー&エッセイ(各2頁)に「組織の崩壊と哀感」と題して参加。
---
本作「俺の新選組」全42話は、1979年7月~1980年6月『週刊少年キング』(少年画報社)にて連載された。
単行本もたびたび刊行されている。
1980年 少年画報社 ヒットコミックス 全5巻
1989年 勁文社コミックス傑作選 上・下巻
2003年 集英社 ホームコミックス 全3巻
2004年 ホーム社 SHUEISYA HOME REMIX(ムック本) 全3巻
2009年 ぶんか社コミック文庫 上・下巻
2017年 宙出版 ミッシィコミックス 上・中・下巻
2017年 eBookJapan Plus(電子書籍) 全5巻
---
本作に先駆けて発表された読み切り作品「ダンダラ新選組」については、以下のとおり。
「ダンダラ新選組」
1973年、『週刊少年ジャンプ』(集英社)に「第1回愛読者賞」エントリー作品として発表。
賄い方として入隊した主人公(架空の人物)が、生き別れの妻子を捜すという秘めた目的のため苦闘する。
「ダンダラ新選組 炎の出発(たびだち)」
1974年、『別冊少年ジャンプ』に発表。試衛館一党が京へ上る直前の物語。
天然理心流をつぶそうとする勢力の陰謀に陥った土方歳三が、仲間たちとともに戦い、危機を脱する。
単行本は、朝日ソノラマ サンコミックス(1975)、ぶんか社コミック文庫(2009)など。
また、ミッシィコミックス『俺の新選組』下巻(2017)に、2編とも収録されている。
---
作者は2016年4月3日、肺腺がんのため亡くなった。享年77。
2010年、肺がんと診断されるも、治療を受け、執筆活動や趣味のサッカーができるまでに回復していた。
2015年11月、再発。「長くて1年、短くて半年」と余命宣告された事実を公表。
当時、本作の続編として「新選組を題材とする作品を描きたい」と語った。
そもそも「俺の新選組」連載終了も、本人の意向というより、出版社の都合が優先された結果だったらしい。
続編では、箱館戦争の土方歳三を描く構想だったとか。その後、この続編執筆に全力を注いだ様子だが、惜しくも完成に至らなかった。
新選組への情熱を傾ける最中に旅立ったことは、故人にとって幸福であったなら……と祈るのみである。
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人気アクションシリーズ「ワイルド7」を代表作とする望月三起也は、力強いペンタッチ、ダイナミックなアクション、大胆な構図、奇抜なアイディア、シリアスの中にもユーモアを交えたストーリーが特徴的なマンガ家。
その作者が、実力を惜しみなく発揮して描いたのが本作「俺の新選組」である。
発表直後は生憎きちんと読む機会がなく、断片的な印象にとどまったまま時が流れてしまった。
2017年8月~2018年5月、eBOOKJapan「なつかしまんが全話読破」の一環として無料配信された。この機会に読んでみて面白かったので、今回紹介する。
文久3年、中山道の本庄宿。
京を目指す浪士組一行の宿泊地となったこの夜、大事件が起きていた。
芹沢鴨が、近藤勇の宿割りの不手際に腹を立て、宿場の真ん中に大きな焚き火をはじめたのだ。
押っ取り刀で飛び出した土方歳三は、謎の刺客たちに襲撃され、行く手をはばまれてしまう。
あわや大火災か斬り合いかという危機を収拾したのは、芹沢にさりげなく焼き芋を勧めた沖田総司。
試衛館の同志たちは、沖田の不思議な人柄を、仲間ながら改めて称賛する。
一方、芹沢の暴挙を面白がって煽り立てていた新見錦は、騒ぎが鎮火してつまらないと不満がる。
芹沢ひとりが、沖田の並々ならぬ剣才を鋭く見抜いていた。
着京した浪士組は、まもなく江戸へ帰還することになる。
清河八郎と袂を分かった近藤らと芹沢らは、残留を決意。
紆余曲折の末、なんとか一隊をまとめ、会津藩お預かりという地位を獲得する。
しかし、近藤派と芹沢派との間で、隊の実権をめぐる軋轢が顕在化、次第に激しくなっていく。
基本的に、独自の設定や展開を主とする、自由な作品。
特にアクションシーンは、奇想天外なアイディアを迫真の描写で見せる。よく考えれば現実には不可能なことも、なんとなく納得して読めてしまう。時には血腥い残酷シーンもあるものの、全体としては面白い。
実在人物のキャラクター設定にもオリジナリティが加味されている。目立つ特徴としては↓
◯土方歳三がクールな主役なのに対し、原田左之助が熱血漢の主役タイプに造形された。当時は目新しい。
◯沖田総司は、目を細めた猫のような印象の若者。つねに柔和な物腰で、すべてを柳に風と受け流す。
◯藤堂平助は、力士ふうの巨漢で、坊主頭と丸メガネが特徴。島田魁か松原忠司かと思いたくなる。
◯山崎蒸は、なんと美少女。裕福な商人・山崎屋の娘で、本名お糸。会津藩の重役によって送り込まれた。
いつも振袖を優雅に着こなしているが、鉄火肌のおてんば。
潜入捜査のため男子が女に変装、という名目で入隊。屯所でなく自宅で暮らしている様子。
名前は「山崎嬢」→ヤマザキジョウ→「山崎蒸」という、近藤の勘違いから決まった。
京都の事情に不慣れな土方たちを助け、幅広い人脈を活かして活躍する。
金も身分もない近藤や土方たちが、強い信念と剣の腕をもって戦い、自らの存在意義を確立していく、というのが全体の大きな流れ。これを主軸として、様々なエピソードが展開される。主な話を挙げると↓
◆江戸にいた頃の回想。試衛館の面々が、花火見物の宴席に乗り込み、ご馳走をただ食いする顛末。
◆反徳川の暗殺集団「黒い狐」30人と、原田・沖田・永倉・藤堂・山南5人との、息詰まる戦い。
◆土方と、そうとは知らず出会った草餅売りの娘との淡い恋。しかし、新見らの陰謀によって悲劇に。
◆土方の命を狙い、江戸から派遣されてきた謎の暗殺者たちの暗躍。
◆博奕で負けて片腕を切り落とされそうになる原田と、救出しようとする仲間たちの葛藤。
◆武装蜂起を企む過激派のアジトに、弱兵ばかりを率いて討ち入る土方の激闘。その窮地に駆けつけるのは……。
◆町人の暮らしを嫌い、武士に憧れて入隊した少年、安吉と留作。しかし、苛酷な運命が待ち受けていた。
本作の土方は、芹沢派の執拗かつ巧妙な嫌がらせに、さんざん煮え湯を飲まされる。
しかし、内紛を起こせば隊の存続が危うくなるので、我慢に我慢を重ねるしかない。
仲間たちは、そんな苦衷を察して助けたり、時にはなぜ反撃しないのかと反発したり。
そうして極限まで屈辱に堪え続けた土方たちが、ここぞというとき一気に無念を晴らすことになる。
そのカタルシスが最大の見どころ。
「俺の新選組」というタイトルには、土方が新選組に賭けた思いと同時に、作者自身が造り上げようとする新選組、という意味も込められている。
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作者の望月三起也は、もともと新選組に対して愛着が深かった様子。
幼少期にチャンバラ映画を見て、新選組はたとえ悪役扱いでもカッコイイと憧れる。
司馬遼太郎『燃えよ剣』(1964)と、それをきっかけとするブームに触れ、本格的に熱中。
子母澤寛の新選組三部作、村上元三『新選組』などの関連書に親しむ。
特に、社会的に軽んじられた者たちが屈辱をバネに意地で成り上がる、という姿に共感。
一方、プロデビューし「秘密探偵JA」(1964)などで好評を博した後、新選組を描こうと考えた。
しかし、出版社からは、前作同様の現代アクションものを要望される。
そこで、新選組に独自のアレンジを加えて「ワイルド7」(1969)を創出するに至った。
やがて、読み切り作品「ダンダラ新選組」(1973-74)を経て、「俺の新選組」(1979)連載を開始。
また、マンガを発表するほかにも、『月刊歴史読本』(新人物往来社)の新選組特集に登場、思いを語っている。
■1980年7月号 …各界著名人が寄せたエッセイ特集「新選組へのメッセージ」(各1頁)に寄稿。
■1989年2月号 …「土方歳三は「ワイルド7」ばりのハードボイルドでなければならない」
6頁にわたるイラストと文章を交えたエッセイ。
白刃をふりかざしバイクで疾駆する新選組に、“私にとって新選組は時代劇の「ワイルド7」”とキャプション。
ほかにも、宮古湾海戦や最後の戦いに臨む土方歳三の姿などが描かれている。
■1999年11月号 …各界著名人のインタビュー&エッセイ(各2頁)に「組織の崩壊と哀感」と題して参加。
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本作「俺の新選組」全42話は、1979年7月~1980年6月『週刊少年キング』(少年画報社)にて連載された。
単行本もたびたび刊行されている。
1980年 少年画報社 ヒットコミックス 全5巻
1989年 勁文社コミックス傑作選 上・下巻
2003年 集英社 ホームコミックス 全3巻
2004年 ホーム社 SHUEISYA HOME REMIX(ムック本) 全3巻
2009年 ぶんか社コミック文庫 上・下巻
2017年 宙出版 ミッシィコミックス 上・中・下巻
2017年 eBookJapan Plus(電子書籍) 全5巻
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本作に先駆けて発表された読み切り作品「ダンダラ新選組」については、以下のとおり。
「ダンダラ新選組」
1973年、『週刊少年ジャンプ』(集英社)に「第1回愛読者賞」エントリー作品として発表。
賄い方として入隊した主人公(架空の人物)が、生き別れの妻子を捜すという秘めた目的のため苦闘する。
「ダンダラ新選組 炎の出発(たびだち)」
1974年、『別冊少年ジャンプ』に発表。試衛館一党が京へ上る直前の物語。
天然理心流をつぶそうとする勢力の陰謀に陥った土方歳三が、仲間たちとともに戦い、危機を脱する。
単行本は、朝日ソノラマ サンコミックス(1975)、ぶんか社コミック文庫(2009)など。
また、ミッシィコミックス『俺の新選組』下巻(2017)に、2編とも収録されている。
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作者は2016年4月3日、肺腺がんのため亡くなった。享年77。
2010年、肺がんと診断されるも、治療を受け、執筆活動や趣味のサッカーができるまでに回復していた。
2015年11月、再発。「長くて1年、短くて半年」と余命宣告された事実を公表。
当時、本作の続編として「新選組を題材とする作品を描きたい」と語った。
そもそも「俺の新選組」連載終了も、本人の意向というより、出版社の都合が優先された結果だったらしい。
続編では、箱館戦争の土方歳三を描く構想だったとか。その後、この続編執筆に全力を注いだ様子だが、惜しくも完成に至らなかった。
新選組への情熱を傾ける最中に旅立ったことは、故人にとって幸福であったなら……と祈るのみである。
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描かれた井上源三郎
日野市立新選組のふるさと歴史館にて、企画展「没後150年 新選組 井上源三郎 ―八王子千人同心と新選組の幕末維新―」が、2017年12月12日から2018年2月18日まで開催された。
井上源三郎が、新選組草創以来の中核メンバーであり、日野出身であったことは、周知のとおりである。
この企画展は、源三郎の兄・井上松五郎も取り上げつつ、新選組と幕末動乱期を検証する内容だった。
展示構成は、以下のとおり。
1.幕末の日野宿と天然理心流
2.井上松五郎・源三郎兄弟
3.浪士組上洛
4.京都での新選組
5.鳥羽・伏見の戦い
6.八王子千人同心と井上松五郎
7.描かれた井上源三郎
全般に興味深い展示だったが、当ブログ的には最後の「描かれた井上源三郎」に着目した。
小説・映画・マンガなどフィクションにおける、源三郎の人物造形とその変遷が面白い。
要点をまとめると、次のようだった。
(1)創作に登場する新選組と井上源三郎
大正時代から昭和20年代頃のフィクションでは、新選組は「近藤勇とその他一同」扱い。
近藤の脇に土方歳三や沖田総司が配される例はあるが、源三郎を含む他の隊士はあまり重視されない。
登場したとしても、年齢や性格などは作品によってまちまちで、決まったイメージはなかった。
(2)『新選組血風録』と井上源三郎
源三郎の人物像を決定づけたのは、司馬遼太郎の小説『新選組血風録』。
作中、源三郎は「老齢凡骨」と形容され、剣才のない老人として描かれる。
史実に創作を混入しリアリティを出す司馬の絶妙なテクニックにより、これが実像と誤解されてしまった。
(3)大河ドラマと新しい井上源三郎像
平成16年のNHK大河ドラマ「新選組!」の頃、マンガやゲームなどの創作もピークに。
当時は、まだ従来作品の設定を流用したものが少なくなかった。
しかしその後、新しいイメージを打ち出す作品が増え、バリエーション豊かになっている。
源三郎についても、実際は年寄りでもなければ弱くもない、ということが知られつつある。
ただ、長年醸成されたイメージが完全に払拭されるには、未だ至っていない。
というわけで、今更ながらに司馬遼太郎の影響力の大きさを思い知った。
土方歳三も沖田総司も、今日のようなイメージが形成され人気者になった流れを遡れば、司馬作品に行き着く。
源三郎もまた同様、とは指摘されるまで意識しなかったが、別にありえない話ではなかったのだ。
ただ、源三郎の場合は土方・沖田と扱いが異なり、いささか残念な感じになってしまった。
小説など創作においては、登場人物が全員カッコよくてもつまらない。
剣客集団・新選組の中に、幹部にもかかわらず強くない人物がいる。お荷物扱いされていたのに、あるとき意外な奮闘を見せる、というエピソードがあれば面白くなる。
作家によってそういう役回りを負わされた結果であろう。
短編集『新選組血風録』のうち、源三郎を主人公とするのは「三条磧乱刃」である。
この1編だけでキャラクターイメージが出来上がってしまったというのは、やはり凄い。
読み返してみて、改めて気づいたことがいくつかある。
【源三郎の外見と年齢】
作中、源三郎は「六十くらい」に見えるが、本当の高齢者ではない。沖田は、43~44歳くらいだと言う。
実のところ、「三条磧乱刃」の慶応元年頃には、37歳である。
これは、作家が事実を知らなかったというより、身内同然の沖田にさえ実際より年嵩に見られているというユーモアなのでは?とも思える。
【源三郎の剣歴】
府中における近藤勇襲名披露の野試合では、源三郎が鉦役を務めたと説明されている。
これは佐藤彦五郎の書簡が伝える事実。ただし、「安政5年」ではなく文久元年のことだ。
また、源三郎が天然理心流の「目録止まり」とあるのは、事実でない。
実際には、嘉永元年(1848)に「切紙」「目録」を受けた後、安政2年(1855)に「中極意目録」、万延元年(1860)に「免許」を授かっている。
【同郷同流出身の絆】
源三郎と近藤・土方・沖田の強い心理的結束が、描かれている。
多摩の郷党と深く結びつき、天然理心流を修業した4人の信頼関係は、江戸以来の同志の中でも別格。
明確な根拠を挙げづらいものの、ほぼ事実ではなかろうか。
例えば、池田屋事件の時、土方が自分の手勢を分け指揮を任せたのは、源三郎である。深い信頼あってこそできたことだろう。そして源三郎の隊は、土方隊よりも早く池田屋に駆けつけ、近藤隊を支援して戦ったという。
また、慶応3年の江戸での隊士募集には、源三郎が土方に同行、補佐している。
フィクションの人物造形に利用される材料は、ほかにもいくつかあると思う。
主要なものを挙げると、こんなところだろうか↓
◆八木為三郎の証言(子母澤寛『新選組遺聞』)
(壬生寺で子供と遊んでいる沖田のところへ)井上源三郎というのがやって来ると、「井上さんまた稽古ですか」という。井上は「そう知っているなら黙っていてもやって来たらよかりそうなもんだ」と、忌(い)やな顔をしたものです。井上は、その時分もう四十位で、ひどく無口な、それで非常に人の好い人でした。
証言者は、新選組が最初に屯所を置いた壬生、八木家の子息。
『新選組遺聞』は、昭和4年に単行本が出版され、研究にもフィクションにも多くの影響を与えた。
「三条磧乱刃」にも、この証言は引用されている。
◆井上泰助の証言(井上家の伝承)
おじさん(源三郎)は、ふだんは無口でおとなしい人だったが、一度こうと思い込んだらテコでもうごかないようなところがあった。鳥羽、伏見の戦の時も、味方が不利になったので大坂へ引揚げるため、引けという命令がでたが、戦いを続けてすこしも引かず、ついに弾丸にあたってたおれてしまった。
証言者は、井上松五郎の次男、源三郎にとっては甥。12歳にして新選組に入隊、源三郎の戦死を目撃した。
井上家の伝承は、ご子孫や研究家の谷春雄によって関連出版物に発表されるなどしている。
司馬遼太郎は、取材に日野を訪れ、地元住民から聞き取りをしたことがある。
◆川村三郎の書簡
井上源三郎 同(戊辰正月)三十七、八歳。武州八王子同心ノ弟ニテ、近藤土方等ト倶ニ新撰組ヲ組織セシ人ナリ。依テ副長助勤ト名称シ局長会議ニ参与スル務ナリ。併シ乍ラ文武共劣等ノ人ナリ。
証言者は元新選組隊士、在隊時は近藤芳助と名乗る。元治元年の入隊時には22歳。
明治39年頃、高橋正意からの問い合わせに回答した。その返書が、京都府立総合資料館所蔵『新撰組往事実戦譚書』として現存する。存在が広く知られたのは、昭和47年、研究家の石田孝喜によって紹介されて以来。
司馬遼太郎が先んじて読んでいたどうか不明だが、可能性は否定できまい。
記述された年齢は、実際の40歳よりやや若い。前歴は、そこそこ正確。
しかし、「文武共劣等」のくだりは「三条磧乱刃」を裏づけるかのよう。
あんまりな評価と思うが、このように見られる場合もあった、とは言えるのかもしれない。
フィクションが史実に縛られる必要はなく、自由に創作されてよいと思う。
そしてまた、受け手は、虚実ない交ぜであることを踏まえた上で楽しめばよい。
本項で小説と史実とを対照してみたのは、単に共通点や相違点が興味深いからであって、「史実に反するフィクションは良くない」などという意図は全然ない、念のため。
それはそれとして、源三郎の従来イメージでも「温厚篤実で周囲から慕われる」という面は決して悪くない。
こういう彼を主人公に据えたフィクションもある。例えば、比較的新しい小説では、秋山香乃『新撰組捕物帖』『諜報新撰組 風の宿り』、小松エメル「信心」(『夢の燈影』所収 )など。
主役ならずとも名脇役として描かれる例は、さらに多くある。
今後、我らが愛すべき「源さん」のイメージがどのように変遷していくのか、見届けたいと思う。
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井上源三郎が、新選組草創以来の中核メンバーであり、日野出身であったことは、周知のとおりである。
この企画展は、源三郎の兄・井上松五郎も取り上げつつ、新選組と幕末動乱期を検証する内容だった。
展示構成は、以下のとおり。
1.幕末の日野宿と天然理心流
2.井上松五郎・源三郎兄弟
3.浪士組上洛
4.京都での新選組
5.鳥羽・伏見の戦い
6.八王子千人同心と井上松五郎
7.描かれた井上源三郎
全般に興味深い展示だったが、当ブログ的には最後の「描かれた井上源三郎」に着目した。
小説・映画・マンガなどフィクションにおける、源三郎の人物造形とその変遷が面白い。
要点をまとめると、次のようだった。
(1)創作に登場する新選組と井上源三郎
大正時代から昭和20年代頃のフィクションでは、新選組は「近藤勇とその他一同」扱い。
近藤の脇に土方歳三や沖田総司が配される例はあるが、源三郎を含む他の隊士はあまり重視されない。
登場したとしても、年齢や性格などは作品によってまちまちで、決まったイメージはなかった。
(2)『新選組血風録』と井上源三郎
源三郎の人物像を決定づけたのは、司馬遼太郎の小説『新選組血風録』。
作中、源三郎は「老齢凡骨」と形容され、剣才のない老人として描かれる。
史実に創作を混入しリアリティを出す司馬の絶妙なテクニックにより、これが実像と誤解されてしまった。
(3)大河ドラマと新しい井上源三郎像
平成16年のNHK大河ドラマ「新選組!」の頃、マンガやゲームなどの創作もピークに。
当時は、まだ従来作品の設定を流用したものが少なくなかった。
しかしその後、新しいイメージを打ち出す作品が増え、バリエーション豊かになっている。
源三郎についても、実際は年寄りでもなければ弱くもない、ということが知られつつある。
ただ、長年醸成されたイメージが完全に払拭されるには、未だ至っていない。
というわけで、今更ながらに司馬遼太郎の影響力の大きさを思い知った。
土方歳三も沖田総司も、今日のようなイメージが形成され人気者になった流れを遡れば、司馬作品に行き着く。
源三郎もまた同様、とは指摘されるまで意識しなかったが、別にありえない話ではなかったのだ。
ただ、源三郎の場合は土方・沖田と扱いが異なり、いささか残念な感じになってしまった。
小説など創作においては、登場人物が全員カッコよくてもつまらない。
剣客集団・新選組の中に、幹部にもかかわらず強くない人物がいる。お荷物扱いされていたのに、あるとき意外な奮闘を見せる、というエピソードがあれば面白くなる。
作家によってそういう役回りを負わされた結果であろう。
短編集『新選組血風録』のうち、源三郎を主人公とするのは「三条磧乱刃」である。
この1編だけでキャラクターイメージが出来上がってしまったというのは、やはり凄い。
読み返してみて、改めて気づいたことがいくつかある。
【源三郎の外見と年齢】
作中、源三郎は「六十くらい」に見えるが、本当の高齢者ではない。沖田は、43~44歳くらいだと言う。
実のところ、「三条磧乱刃」の慶応元年頃には、37歳である。
これは、作家が事実を知らなかったというより、身内同然の沖田にさえ実際より年嵩に見られているというユーモアなのでは?とも思える。
【源三郎の剣歴】
府中における近藤勇襲名披露の野試合では、源三郎が鉦役を務めたと説明されている。
これは佐藤彦五郎の書簡が伝える事実。ただし、「安政5年」ではなく文久元年のことだ。
また、源三郎が天然理心流の「目録止まり」とあるのは、事実でない。
実際には、嘉永元年(1848)に「切紙」「目録」を受けた後、安政2年(1855)に「中極意目録」、万延元年(1860)に「免許」を授かっている。
【同郷同流出身の絆】
源三郎と近藤・土方・沖田の強い心理的結束が、描かれている。
多摩の郷党と深く結びつき、天然理心流を修業した4人の信頼関係は、江戸以来の同志の中でも別格。
明確な根拠を挙げづらいものの、ほぼ事実ではなかろうか。
例えば、池田屋事件の時、土方が自分の手勢を分け指揮を任せたのは、源三郎である。深い信頼あってこそできたことだろう。そして源三郎の隊は、土方隊よりも早く池田屋に駆けつけ、近藤隊を支援して戦ったという。
また、慶応3年の江戸での隊士募集には、源三郎が土方に同行、補佐している。
フィクションの人物造形に利用される材料は、ほかにもいくつかあると思う。
主要なものを挙げると、こんなところだろうか↓
◆八木為三郎の証言(子母澤寛『新選組遺聞』)
(壬生寺で子供と遊んでいる沖田のところへ)井上源三郎というのがやって来ると、「井上さんまた稽古ですか」という。井上は「そう知っているなら黙っていてもやって来たらよかりそうなもんだ」と、忌(い)やな顔をしたものです。井上は、その時分もう四十位で、ひどく無口な、それで非常に人の好い人でした。
証言者は、新選組が最初に屯所を置いた壬生、八木家の子息。
『新選組遺聞』は、昭和4年に単行本が出版され、研究にもフィクションにも多くの影響を与えた。
「三条磧乱刃」にも、この証言は引用されている。
◆井上泰助の証言(井上家の伝承)
おじさん(源三郎)は、ふだんは無口でおとなしい人だったが、一度こうと思い込んだらテコでもうごかないようなところがあった。鳥羽、伏見の戦の時も、味方が不利になったので大坂へ引揚げるため、引けという命令がでたが、戦いを続けてすこしも引かず、ついに弾丸にあたってたおれてしまった。
証言者は、井上松五郎の次男、源三郎にとっては甥。12歳にして新選組に入隊、源三郎の戦死を目撃した。
井上家の伝承は、ご子孫や研究家の谷春雄によって関連出版物に発表されるなどしている。
司馬遼太郎は、取材に日野を訪れ、地元住民から聞き取りをしたことがある。
◆川村三郎の書簡
井上源三郎 同(戊辰正月)三十七、八歳。武州八王子同心ノ弟ニテ、近藤土方等ト倶ニ新撰組ヲ組織セシ人ナリ。依テ副長助勤ト名称シ局長会議ニ参与スル務ナリ。併シ乍ラ文武共劣等ノ人ナリ。
証言者は元新選組隊士、在隊時は近藤芳助と名乗る。元治元年の入隊時には22歳。
明治39年頃、高橋正意からの問い合わせに回答した。その返書が、京都府立総合資料館所蔵『新撰組往事実戦譚書』として現存する。存在が広く知られたのは、昭和47年、研究家の石田孝喜によって紹介されて以来。
司馬遼太郎が先んじて読んでいたどうか不明だが、可能性は否定できまい。
記述された年齢は、実際の40歳よりやや若い。前歴は、そこそこ正確。
しかし、「文武共劣等」のくだりは「三条磧乱刃」を裏づけるかのよう。
あんまりな評価と思うが、このように見られる場合もあった、とは言えるのかもしれない。
フィクションが史実に縛られる必要はなく、自由に創作されてよいと思う。
そしてまた、受け手は、虚実ない交ぜであることを踏まえた上で楽しめばよい。
本項で小説と史実とを対照してみたのは、単に共通点や相違点が興味深いからであって、「史実に反するフィクションは良くない」などという意図は全然ない、念のため。
それはそれとして、源三郎の従来イメージでも「温厚篤実で周囲から慕われる」という面は決して悪くない。
こういう彼を主人公に据えたフィクションもある。例えば、比較的新しい小説では、秋山香乃『新撰組捕物帖』『諜報新撰組 風の宿り』、小松エメル「信心」(『夢の燈影』所収 )など。
主役ならずとも名脇役として描かれる例は、さらに多くある。
今後、我らが愛すべき「源さん」のイメージがどのように変遷していくのか、見届けたいと思う。
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山村竜也『幕末武士の京都グルメ日記』
副題『「伊庭八郎征西日記」を読む』。
文字どおり、伊庭八郎が京坂滞在中に書いた日記の解説書。
伊庭八郎(いばはちろう)は、幕末に活躍した人物として著名だが、念のため略歴を紹介する。
弘化元年(1844)、幕臣であり心形刀流八代目である伊庭軍兵衛秀業の長男として、江戸に生まれた。
本名は秀穎(ひでさと)。実父秀業の没後、九代目を継承した秀俊の養嗣子となる。
13歳のころに剣術を始め、まもなく頭角をあらわして「伊庭の小天狗」の異名をとった。
容姿も色白の美男子と評判であったという。
元治元年(1864)、講武所剣術方として、将軍家茂の上洛に随従することとなる。
この将軍随従の半年間、八郎は日記を書いた。それが「征西日記」である。
明治35年になって、八郎と親交のあった漢学者・中根淑によって公開される。
原本は現存しないものの、昭和3年『維新日乗纂輯』に収録されるなど、活字化されたものが残っている。
本書は、その「征西日記」全文を収録、詳しく解説したもの。抜粋でなく全文、という点は貴重である。
日記は原文の引用ではなく、解説者による現代語訳を掲載。おかげでわかりやすい。
内容は、おおまかにいって以下の全5章。
第一章 将軍とともに上洛 元治元年(1864)1月~2月
第二章 天ぷら、二羽鶏、どじょう汁 元治元年(1864)3月
第三章 しるこ四杯、赤貝七個 元治元年(1864)4月
第四章 京から大坂へ 元治元年(1864)5月
第五章 お役御免 元治元年(1864)6月
それぞれの章は複数の節に分かれている。1節あたりに、日記の1日~数日分が解説される。
日記の内容は、任期中の日々の生活を記述している点で、酒井伴四郎の日記を彷彿とさせる。
本書が『幕末武士の京都グルメ日記』と題されたのも、やはり伴四郎日記からの連想で『勤番グルメ ブシメシ!』を意識したものだろう。
(※『勤番グルメ ブシメシ!』は、土山しげるによる伴四郎日記のマンガ化作品。詳しくは『幕末単身赴任 下級武士の食日記』を参照。)
本書の帯にも、土山しげるが、しるこを食べる伊庭八郎を描いている。
『幕末武士の京都グルメ日記』というタイトルだけ見ると、食べ物の話ばかりといった印象を受ける。
世評にも「美味いものを食べ物見遊山に出かけ、ずいぶん暢気な日々を過ごしている」という声は多いようだ。
しかし実際に読んでみて、それだけではないと感じた。
例えば、日々の出退勤、剣術稽古への参加、ともに任務に就いた養父秀俊や弟三郎の様子、上司・同僚・同流剣士との交際、贈答品のやりとり、来客や商人の出入り、使用人の雇い入れ、手当の支給や買い物など金銭の出入り、虫歯や消化器障害(?)など体調不良、といった事柄もなかなか多い。
八郎としては、食事と行楽だけを特に意識したつもりはなさそうである。
ただ、食事は毎日3度のことだし、初めて食べるものなど味覚とともに記憶に残りやすい。
名所見物も、移動や旅行の機会が制限された当時の人にとっては、なおさら感慨深いのでは。
そんなこんなで、自然と記述の割合が多くなったのだろう。
またあるいは、政治向きのことや勤務の詳細を個人の日記に残すと守秘義務違反になりかねないので、意図的にそれらを書かなかったのかも?などと想像した。
余談だが、草森紳一はエッセイ「朝涼や人より先へ渡りふね 伊庭八郎の『征西日記』の韜晦について」において、八郎が幕臣としての忠信や覚悟を敢えて日記に書かなかった、とユニークな解釈をしている。
詳しくは『歳三の写真』を参照されたい。
それはそれとして、日記には興味深い記述が多い。
例えば、当時の京坂における食習慣や物価が窺い知れる。
洛中では、魚と言えばウナギ・コイ・ハモ・アユなど主に川魚が食べられ、海のものは若狭から鯖街道を運ばれてくる塩サバくらいかと思ったら、実際そんなことはなく、八郎はタイを何度か食べている。人からもらうほか、自分でも購入。4月9日の場合は2尾に1分(2万5千円)支払っており、やはり高級魚らしい。
八郎の好物は、ウナギとしるこだった模様。
そのほかに鮎菓子(若鮎)、カステラ、羊羹、煮豆、天ぷら、どじょう、鳥肉、鯨肉、そば、うどん、寿司など、読んでいても美味しそうである。
八郎が食物以外に購入したものも、人柄や生活ぶりをあらわしていて、なかなか面白い。
◆刀や刀装具 …脇差、鍔、目貫、小柄
◆書物 …通観覧要(中国歴史書のダイジェスト版)、雲上明鑑(公家の人名録)、古文真宝(中国の詩文集)、墨場必携(名言名句集)、唐宋八大家文(漢文の参考書)、玉篇(部首別漢字字典)
◆日用品 …陶器(猪口など)、草鞋、菅笠、煙管、花鋏
◆衣類 …ちぢみ織りの帷子、ゆかた、袱紗、足袋、下帯
目的がよくわからない例もあるが、本人の必要ばかりでなく、土産にするものもあったのではないか。
勤務のあいま、八郎が名所見物に出かけた先は、以下のとおり。
◆京都と周辺 …島原。仁和寺、清涼寺、愛宕神社。東寺、西本願寺の飛雲閣。太秦明神(大酒神社)、嵐山の千光寺、法輪寺、渡月橋。御室八十八ヶ所巡り。上賀茂神社、補陀洛寺。西陣(織物見物)。比叡山延暦寺。
◆大坂と周辺 …心斎橋、日本橋、道頓堀、天満天神(大阪天満宮)。木津川河口。四天王寺、茶臼山。清水寺。妙法寺、真田山、堂島の米市場。高津神社。堺港。奈良の猿沢池、春日大社、東大寺、神功皇后陵。
現代の人気観光地とも通じる。
細かいことながら、当時「玉子は生でなくゆでたものが流通していた」というくだりに少々疑問を覚えた。
冷蔵庫が存在せず、生ものを保存する手段が乏しかったから、と説明されている。
しかし実際、生玉子は常温保存が可能で、むしろゆで玉子より日持ちが良い。同じ条件下なら、ゆで玉子が3日程度のところ、生玉子は2週間ほど保つ。
昭和の中頃でも、店先には、生玉子を籾殻(緩衝・保温材)に埋めた大きな箱が並んでいた。そこへ、ザルやカゴを持った客が買いにくる、という光景がまだ普通に見られた。
『守貞謾稿』にゆで玉子が20文(約300円)で販売されたとあるそうだが、それは有精卵の成長を止めるため、あるいはすぐに食べたい客への便宜を図ったためではなかろうか?
ところで、八郎は近藤勇ら一門と面識があったのかどうか。折にふれ話題とされる件である。
近藤も江戸に道場を置いているのだから、剣士として出会う可能性は考えられなくもない。
京坂でも、将軍警護の関連で、顔を合わせる機会があったかもしれない。江戸で知りあっていたのなら、八郎が非番の時に新選組の屯所へ訪ねていくことも、別に難しくはないだろう。
フィクションでは、八郎と土方歳三や沖田総司が親しい間柄、と設定した作品も多数ある。
ただ、「征西日記」には、そうした可能性を示す記述が見当たらない。
本書において、新選組と関連のある記述は、以下の2件である。
【其の壱】 第一章のうち「戸田祐之丞の不始末」の項
戸田祐之丞(とだゆうのすけ)という、八郎らと同じ将軍警護役の人物が問題を起こしている。
2月25日の夜、戸田は秀俊ら親しい同僚3人と連れ立って、祇園のあたりへ買い物に出かけた。
出先で飲酒し、解散した後、ひとりで新選組の屯所を訪ねていく。
旧知の者が新選組に入隊したと聞いていたので、会おうと思ったらしい。
ところが、知人のことは勘違いだったようで、応対した新選組隊士は「そういう者はいない」とはねつける。
さらに、酔って夜中に訪問してきた戸田の非礼ぶりを嘲った。
逆ギレした戸田が抜刀し、新選組に取り押さえられた模様。
死傷者は出なかったものの、戸田は京都西町奉行に呼び出され、取り調べを受けた後、揚屋(留置場)に入る。
直前まで戸田と一緒にいた秀俊も、謹慎処分。八郎までが連座、2日間ほど謹慎するはめになってしまった。
【其の弐】 第五章のうち「池田屋事件」の項
将軍が江戸へ帰ってゆき、お役御免となった八郎たちも帰国の途についた。
ところが6月8日、東海道の石部宿(滋賀県湖南市)にて、「京都へ引き返せ」という緊急指令が届く。
市中で大規模な捕り物があり、今なお潜伏している容疑者も多いので、講武所の人員も取り締まりに協力して欲しい、との主旨。
大規模な捕り物とは、6月5日夜に起きた池田屋事件である。新選組のほか会津藩・桑名藩・彦根藩・一橋家なども出動し、市中のあちこちが捜索され、不審者が捕われたり武器が押収されたりした。当時は、潜伏者の規模がはっきりせず、「大軍勢が反撃してくるのでは」と警戒する見方もあったらしい。
八郎らは、すぐ仕度を調え夕刻に石部宿を出発、翌日早朝に京都へ着き、町奉行の指示に従い宿所に待機した。
しかし、出動命令はなく、10日になって老中・稲葉正邦からお褒めの言葉があった。事態はすでに沈静化していた模様。14日、再び帰国の途につく。
いずれの場合も、八郎は新選組について何ら言及せず、近藤や土方らの名を挙げてもいない。
著者の指摘どおり、これ以前に知り合っていた可能性は低い、と考えざるをえない。
この「征西日記」を書いた後、江戸へ戻った八郎は、奥詰を拝命した。
さらに慶応2年(1866)、新設された遊撃隊の所属となる。
慶応4年(1868)に勃発した戊辰戦争では、鳥羽・伏見戦を戦った。
その後、人見勝太郎ら同志とともに抗戦。箱根の激戦で重傷を負い、左腕を失う。
それでも苦難の末に蝦夷地へ渡り、遊撃隊隊長として戦い続け「義勇の人」「隻腕ながら一騎当千」と謳われた。
明治2年(1869)4月、木古内戦で胸部に銃弾を受け、5月12日頃、五稜郭にて没する。享年26。
彼の日記と壮烈な戦いぶりとを比べると、いささかギャップを感じもする。
ただ、それが人々の運命を大きく変えた幕末という激動期の、ひとつの証しだとも思える。
本書は2017年、幻冬舎新書として刊行された。
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文字どおり、伊庭八郎が京坂滞在中に書いた日記の解説書。
伊庭八郎(いばはちろう)は、幕末に活躍した人物として著名だが、念のため略歴を紹介する。
弘化元年(1844)、幕臣であり心形刀流八代目である伊庭軍兵衛秀業の長男として、江戸に生まれた。
本名は秀穎(ひでさと)。実父秀業の没後、九代目を継承した秀俊の養嗣子となる。
13歳のころに剣術を始め、まもなく頭角をあらわして「伊庭の小天狗」の異名をとった。
容姿も色白の美男子と評判であったという。
元治元年(1864)、講武所剣術方として、将軍家茂の上洛に随従することとなる。
この将軍随従の半年間、八郎は日記を書いた。それが「征西日記」である。
明治35年になって、八郎と親交のあった漢学者・中根淑によって公開される。
原本は現存しないものの、昭和3年『維新日乗纂輯』に収録されるなど、活字化されたものが残っている。
本書は、その「征西日記」全文を収録、詳しく解説したもの。抜粋でなく全文、という点は貴重である。
日記は原文の引用ではなく、解説者による現代語訳を掲載。おかげでわかりやすい。
内容は、おおまかにいって以下の全5章。
第一章 将軍とともに上洛 元治元年(1864)1月~2月
第二章 天ぷら、二羽鶏、どじょう汁 元治元年(1864)3月
第三章 しるこ四杯、赤貝七個 元治元年(1864)4月
第四章 京から大坂へ 元治元年(1864)5月
第五章 お役御免 元治元年(1864)6月
それぞれの章は複数の節に分かれている。1節あたりに、日記の1日~数日分が解説される。
日記の内容は、任期中の日々の生活を記述している点で、酒井伴四郎の日記を彷彿とさせる。
本書が『幕末武士の京都グルメ日記』と題されたのも、やはり伴四郎日記からの連想で『勤番グルメ ブシメシ!』を意識したものだろう。
(※『勤番グルメ ブシメシ!』は、土山しげるによる伴四郎日記のマンガ化作品。詳しくは『幕末単身赴任 下級武士の食日記』を参照。)
本書の帯にも、土山しげるが、しるこを食べる伊庭八郎を描いている。
『幕末武士の京都グルメ日記』というタイトルだけ見ると、食べ物の話ばかりといった印象を受ける。
世評にも「美味いものを食べ物見遊山に出かけ、ずいぶん暢気な日々を過ごしている」という声は多いようだ。
しかし実際に読んでみて、それだけではないと感じた。
例えば、日々の出退勤、剣術稽古への参加、ともに任務に就いた養父秀俊や弟三郎の様子、上司・同僚・同流剣士との交際、贈答品のやりとり、来客や商人の出入り、使用人の雇い入れ、手当の支給や買い物など金銭の出入り、虫歯や消化器障害(?)など体調不良、といった事柄もなかなか多い。
八郎としては、食事と行楽だけを特に意識したつもりはなさそうである。
ただ、食事は毎日3度のことだし、初めて食べるものなど味覚とともに記憶に残りやすい。
名所見物も、移動や旅行の機会が制限された当時の人にとっては、なおさら感慨深いのでは。
そんなこんなで、自然と記述の割合が多くなったのだろう。
またあるいは、政治向きのことや勤務の詳細を個人の日記に残すと守秘義務違反になりかねないので、意図的にそれらを書かなかったのかも?などと想像した。
余談だが、草森紳一はエッセイ「朝涼や人より先へ渡りふね 伊庭八郎の『征西日記』の韜晦について」において、八郎が幕臣としての忠信や覚悟を敢えて日記に書かなかった、とユニークな解釈をしている。
詳しくは『歳三の写真』を参照されたい。
それはそれとして、日記には興味深い記述が多い。
例えば、当時の京坂における食習慣や物価が窺い知れる。
洛中では、魚と言えばウナギ・コイ・ハモ・アユなど主に川魚が食べられ、海のものは若狭から鯖街道を運ばれてくる塩サバくらいかと思ったら、実際そんなことはなく、八郎はタイを何度か食べている。人からもらうほか、自分でも購入。4月9日の場合は2尾に1分(2万5千円)支払っており、やはり高級魚らしい。
八郎の好物は、ウナギとしるこだった模様。
そのほかに鮎菓子(若鮎)、カステラ、羊羹、煮豆、天ぷら、どじょう、鳥肉、鯨肉、そば、うどん、寿司など、読んでいても美味しそうである。
八郎が食物以外に購入したものも、人柄や生活ぶりをあらわしていて、なかなか面白い。
◆刀や刀装具 …脇差、鍔、目貫、小柄
◆書物 …通観覧要(中国歴史書のダイジェスト版)、雲上明鑑(公家の人名録)、古文真宝(中国の詩文集)、墨場必携(名言名句集)、唐宋八大家文(漢文の参考書)、玉篇(部首別漢字字典)
◆日用品 …陶器(猪口など)、草鞋、菅笠、煙管、花鋏
◆衣類 …ちぢみ織りの帷子、ゆかた、袱紗、足袋、下帯
目的がよくわからない例もあるが、本人の必要ばかりでなく、土産にするものもあったのではないか。
勤務のあいま、八郎が名所見物に出かけた先は、以下のとおり。
◆京都と周辺 …島原。仁和寺、清涼寺、愛宕神社。東寺、西本願寺の飛雲閣。太秦明神(大酒神社)、嵐山の千光寺、法輪寺、渡月橋。御室八十八ヶ所巡り。上賀茂神社、補陀洛寺。西陣(織物見物)。比叡山延暦寺。
◆大坂と周辺 …心斎橋、日本橋、道頓堀、天満天神(大阪天満宮)。木津川河口。四天王寺、茶臼山。清水寺。妙法寺、真田山、堂島の米市場。高津神社。堺港。奈良の猿沢池、春日大社、東大寺、神功皇后陵。
現代の人気観光地とも通じる。
細かいことながら、当時「玉子は生でなくゆでたものが流通していた」というくだりに少々疑問を覚えた。
冷蔵庫が存在せず、生ものを保存する手段が乏しかったから、と説明されている。
しかし実際、生玉子は常温保存が可能で、むしろゆで玉子より日持ちが良い。同じ条件下なら、ゆで玉子が3日程度のところ、生玉子は2週間ほど保つ。
昭和の中頃でも、店先には、生玉子を籾殻(緩衝・保温材)に埋めた大きな箱が並んでいた。そこへ、ザルやカゴを持った客が買いにくる、という光景がまだ普通に見られた。
『守貞謾稿』にゆで玉子が20文(約300円)で販売されたとあるそうだが、それは有精卵の成長を止めるため、あるいはすぐに食べたい客への便宜を図ったためではなかろうか?
ところで、八郎は近藤勇ら一門と面識があったのかどうか。折にふれ話題とされる件である。
近藤も江戸に道場を置いているのだから、剣士として出会う可能性は考えられなくもない。
京坂でも、将軍警護の関連で、顔を合わせる機会があったかもしれない。江戸で知りあっていたのなら、八郎が非番の時に新選組の屯所へ訪ねていくことも、別に難しくはないだろう。
フィクションでは、八郎と土方歳三や沖田総司が親しい間柄、と設定した作品も多数ある。
ただ、「征西日記」には、そうした可能性を示す記述が見当たらない。
本書において、新選組と関連のある記述は、以下の2件である。
【其の壱】 第一章のうち「戸田祐之丞の不始末」の項
戸田祐之丞(とだゆうのすけ)という、八郎らと同じ将軍警護役の人物が問題を起こしている。
2月25日の夜、戸田は秀俊ら親しい同僚3人と連れ立って、祇園のあたりへ買い物に出かけた。
出先で飲酒し、解散した後、ひとりで新選組の屯所を訪ねていく。
旧知の者が新選組に入隊したと聞いていたので、会おうと思ったらしい。
ところが、知人のことは勘違いだったようで、応対した新選組隊士は「そういう者はいない」とはねつける。
さらに、酔って夜中に訪問してきた戸田の非礼ぶりを嘲った。
逆ギレした戸田が抜刀し、新選組に取り押さえられた模様。
死傷者は出なかったものの、戸田は京都西町奉行に呼び出され、取り調べを受けた後、揚屋(留置場)に入る。
直前まで戸田と一緒にいた秀俊も、謹慎処分。八郎までが連座、2日間ほど謹慎するはめになってしまった。
【其の弐】 第五章のうち「池田屋事件」の項
将軍が江戸へ帰ってゆき、お役御免となった八郎たちも帰国の途についた。
ところが6月8日、東海道の石部宿(滋賀県湖南市)にて、「京都へ引き返せ」という緊急指令が届く。
市中で大規模な捕り物があり、今なお潜伏している容疑者も多いので、講武所の人員も取り締まりに協力して欲しい、との主旨。
大規模な捕り物とは、6月5日夜に起きた池田屋事件である。新選組のほか会津藩・桑名藩・彦根藩・一橋家なども出動し、市中のあちこちが捜索され、不審者が捕われたり武器が押収されたりした。当時は、潜伏者の規模がはっきりせず、「大軍勢が反撃してくるのでは」と警戒する見方もあったらしい。
八郎らは、すぐ仕度を調え夕刻に石部宿を出発、翌日早朝に京都へ着き、町奉行の指示に従い宿所に待機した。
しかし、出動命令はなく、10日になって老中・稲葉正邦からお褒めの言葉があった。事態はすでに沈静化していた模様。14日、再び帰国の途につく。
いずれの場合も、八郎は新選組について何ら言及せず、近藤や土方らの名を挙げてもいない。
著者の指摘どおり、これ以前に知り合っていた可能性は低い、と考えざるをえない。
この「征西日記」を書いた後、江戸へ戻った八郎は、奥詰を拝命した。
さらに慶応2年(1866)、新設された遊撃隊の所属となる。
慶応4年(1868)に勃発した戊辰戦争では、鳥羽・伏見戦を戦った。
その後、人見勝太郎ら同志とともに抗戦。箱根の激戦で重傷を負い、左腕を失う。
それでも苦難の末に蝦夷地へ渡り、遊撃隊隊長として戦い続け「義勇の人」「隻腕ながら一騎当千」と謳われた。
明治2年(1869)4月、木古内戦で胸部に銃弾を受け、5月12日頃、五稜郭にて没する。享年26。
彼の日記と壮烈な戦いぶりとを比べると、いささかギャップを感じもする。
ただ、それが人々の運命を大きく変えた幕末という激動期の、ひとつの証しだとも思える。
本書は2017年、幻冬舎新書として刊行された。
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