「わたしのJPO時代」第12弾は、現在UNDPアジア太平洋地域事務所で、HIV/保健関連の政策スペシャリストとして働いている宇治和幸さんの話をお届けします。「何をしたいのか」を明確にすること、またどんな仕事にも「もうひと手間」かけることで、着実にステップ・アップしていった宇治さん。JPO制度は専門分野での実務経験がない人にとって、国連職員になるための恵まれた「入り口」であると語っています。
国連開発計画(UNDP)アジア太平洋地域事務所政策スペシャリスト 宇治和幸さん
~希望のキャリアへの「入口」、実務経験を積んだJPO時代~
ミャンマーの仕事仲間とともに(筆者は右端)
UNDPアジア太平洋地域事務所(タイ)・政策スペシャリスト。イェール大学公衆衛生大学院卒。日本の民間企業、東京医科歯科大学大学院勤務などを経て、2003年に外務省からJPO(ジュニア・プロフェッショナル・オフィサー)としてUNDPに派遣される。インド、スリランカでのUNDP勤務を経て、現職。
JPOの魅力とは何でしょうか?
経験がなくとも、数年に渡り国連の一員として一から実務経験を積めることです。更に、私が応募した当時、 JPOの窓口となる外務省国際機関人事センターは、派遣機関、職種そして地域までも希望を最大限に考慮して下さり、正規ポストへ挑戦する際には様々な配慮や助言もくださいました。
私は2003年から約2年半、インドとスリランカのUNDP地域事務所でJPOとして勤務し、それから正規の国連職員になりました。現在はUNDPアジア太平洋地域事務所で、HIV/保健関連の政策スペシャリストとして働いています。自分もそうであったように、JPOは国際開発分野での実務経験がない人が国連職員を目指すにあたり、非常に恵まれた「入口」となります。JPO制度ほど手厚い支援は他に類を見ないのではないでしょうか。
私はJPOへの応募や国連での職務遂行に際し、心がけてきたことが2つあります。
1つ目は「何をしたいのか」を明確にすることです。
大学で開発について学んだ後 、日本の企業で3年間、医療機器の海外販売に従事しました 。中国やタイなどアジアの開発途上国を営業で回る中、多くの貧しい人が予防や治療が可能な病気で命を落とす現実を目の当たりにしました。また、国連が開発途上国の政府から信頼されるパートナーとして、国づくり支援の中心的役割を担っていることも知りました。
そこで、「開発途上国の保健問題」を「人間開発の視点」から取り組みたいとの思いが募り、国連職員を志しました。この思いは20数年経った今でも変わりません。
国連勤務を視野に入れ、次のステップとして米国の大学院で国際保健を学びました。修了後、開発分野での経験などが全くない当時の私にとって、JPOは 想定できる国連への唯一の登竜門でした。
やりたいことが明確であった反面、JPO派遣先機関や職種の選択肢は非常に限られました。案の定、JPO試験合格者のその年の派遣締め切りが目前に迫りながらも、希望通りのポストは見つからず、妥協すべきか悩みました。そんな不安の中、ついに希望に合ったUNDPのHIV/エイズプロジェクトのプログラムオフィサーのポストに巡り会えたのでした。
初めて訪れるインドでJPOとしての最初の仕事は、激しい偏見や差別、人権侵害に苦しむHIV陽性者への支援でした。アジア太平洋13か国の 当事者団体支援とHIV陽性者の人権擁護対策を国と地域レベルで推進するために、HIV陽性者自身による組織運営、問題提起や解決策の提言、実行まで支援し、彼らが国の政策議論に持続的に参加できるよう橋渡しの業務を担いました。
HIV/エイズのプロジェクトを通じて、当事者コミュニティが問題に主体的に取り組むようになる。彼、彼女らの成長していく姿に筆者は大きな感銘を受け、やりがいを感じた(筆者は写真左奥)
UNDPでは感染率などの数字のみではなく、HIV陽性者、性的マイノリティ、性産業従事者など社会的弱者を中心に据え、貧困、社会保障、人権や法整備などの人間開発の観点から多角的にHIV/エイズ問題を捉えるアプローチを学びました。そして、社会的弱者の声なき声を多分野に渡る政策に反映する大切さ、難しさも痛感しました。
2030年までのグローバルな目標「持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals: SDGs)」の実施が本年から始まりましたが、 その基本理念である「誰も置き去りにしない (Leaving no one behind)」を実践的に学ぶ 貴重な経験でした。
JPOの1年目は プロジェクト・マネジャーの補佐が主な業務でした。議事録作成から国際会議の準備などを通じ、国連組織の仕組みや関連業務の基礎を学ぶ絶好の機会でした。2年目にはマネージャーが転勤したため、私がプロジェクト全般を任されることになりました 。
地域事務所の所長は、明確なプランと 情熱があれば多少のリスクが伴ってもどんどん新しい挑戦をさせてくれて、仮にうまくいかない時は飛んで駆けつけるというスタンスの方でした。その点でも大変恵まれ、学ぶことが多くありました。ここでも「何をしたいのかを明確にする」という心がけは大いに役立ちました。
HIV陽性者の声を伝えるため、JPO時代にUNDP駐日代表事務所と共同で出版した写真集(2004年、ポット出版)
2つ目の心がけは「仕事+α(プラス・アルファ)」です。
人気を呼んだテレビドラマ『半沢直樹』の「倍返しだ!」とまではいきませんが、どんな仕事でも求められていることに「+α (プラス・アルファ)」、つまり自分なりの付加価値を付けるという意識です。例えば報告書や政策の計画案の査読を頼まれれば、単に感想を述べるだけでなく、出来る限りの調査や分析をして、データに基づいた新たな可能性の示唆や提言をするように心がけました。
振り返ってみると、この「もうひと手間」の過程で多くの発見や学習をしました。これは今も出来るだけ心がけており、JPOから13年たっても、私が国連職員として希望の仕事を続けられていることにもつながっているのかも知れません。
様々な実践経験を積ませていただいたJPO期間を通じ、私自身の中で「何をしたいのか」がより明確となり、それを可能にしてくれるUNDPでもっと働きたいと強く思うようになりました。人脈づくりが得意ではない私にとって、明確な動機と目標を持つことは正規の国連職員ポストに応募する際にも大いに役立ちました。
私のキャリアを支えてくださった日本政府、そしてUNDPの同僚、家族への感謝の気持ちを忘れず、これからも開発途上国の国づくりの裏方としての自分の立ち位置を更に明確にし、付加価値を高める努力を続けていきたいと思っています。