先日、同じ市内に住む親戚が亡くなって、市内の斎場で荼毘に付されたのですが、
我が家の親戚は、ほとんどが都内か山梨の住人ということで、
地元なのに、その斎場へ行ったのは、今回が初めてだったんですよね。
いかにもバブル期に建てられたものらしい、ポストモダンな意匠にあふれたその斎場、
大きさもかなりのものですが、日曜なのに、ガラガラでした。
これまで、火葬場が空かなくて葬式が延ばされたという話を散々聞いてきましたが、
自治体によって、ずいぶんと差があるものです。
何にしても、私もいずれは、こちらのお世話になるということで。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
では、大河ドラマ『光る君へ』の感想です。
第45話「はばたき」を簡単に。
引き続き、1018年(寛仁2年)10月。
昨晩、道長が詠んだ「望月の歌」の解釈について、四納言が語り合う場面。
「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
この歌は、道長の「御堂関白記」には記載がなく、実資の「小右記」に記されたことで、
今日まで伝わっているわけですが、そも、耳で聞いた音を書き留めているので、
「わが世」なのか「わが夜」なのかも判然とせず、歌の解釈については、諸説あります。

「栄華を極めた今を歌い上げておられるのでありましょう。何もかも思いのままであると」
と言うからには、源俊賢は「わが世」派ですね。
これに対して、「今宵は誠によい夜であるなあ、くらいの軽い気持ちではないのか」
と異論を唱えた公任は、「わが夜」派ですね。
道長は、皆の前でおごった歌を披露するような人ではない、という公任に、行成も同意。
公任によると、月は后を表すので、「3人の后が望月のように欠けていない、良い夜だ」、
という意味に取れるとのことですが、斉信は「そうかなぁ」と納得が行かない様子。
この場面、まひろが、彰子が後一条天皇を出産した際に詠んだ歌
「めずらしき 光さしそふ さかづきは もちながらこそ 千代をめぐらめ」
を、斉信が知っていたことにして、言及してくれれば最高だったのに、惜しい。
同じ頃、土御門邸。
敦康親王が、太皇太后彰子や頼通と、親しく歓談する場面。
一昨年に、嫄子内親王が誕生し、幸せそうな様子の敦康親王でしたが、
にわかに発病し、12月に薨去してしまいます。享年21歳。
天皇と皇后の間に生まれた第一皇子が、東宮となれなかったのは、異例のこと。
まさにナレーション通り、道長によって奪い尽くされた生涯でした。
養子として育てきた敦康親王に先立たれ、彰子も辛そうです。
尚、残された親王妃は出家。嫄子女王は頼通・隆姫女王(親王妃の姉)夫婦に引き取られ、
後に後朱雀天皇に入内することになります。

まひろの『源氏物語』は、いよいよ最終章。
第54帖「夢浮橋」の最後の場面を記す様子が、ナレーションと共に描かれます。
小君がいつ戻るのかと、お待ちなされていたのですが、
このように、訳の分からまま帰ってきましたので、がっかりした薫君は、
かえってやらない方が良かった、などと様々思い、
誰かに隠し置かれているのではないだろうかと、思い込んでしまわれたのは、
自ら浮舟を捨て置いたことがおありになったから、とか、
もとの本には書いてあったのです。
入水しようとして横川の僧都に助けられ、僧都のもとで出家した浮舟は、
消息を知った薫が、自分のところに戻るよう促した手紙も読まず、頑として拒絶する・・・・
長い長い物語を書き終えたまひろは、筆を置いて立ち上がり、月を眺めるのでした。
年が明けて、1019年(寛仁3年)正月。
叙位の儀に、左大臣・顕光と右大臣・公季が出席せず、儀式が執り行えない事態に。
若くして摂政となった頼通(内大臣、当時28歳)を軽んじた、左右の大臣の嫌がらせでした。
頼通は、このことを父道長に相談しますが、狼狽えるなと、一喝されてしまいます。

一方、まひろの娘・賢子は、宮仕えをしたいとの相談を、母親にもちかけます。
夫を持ちたいと思わないし、21歳にもなって母親頼りに生きていくのが、情けなくなったと。
賢子が家を支えてくれるならばと、まひろは念願だった、旅に出ることにします。
『源氏物語』の舞台となった、須磨、明石ばかりでなく、夫・宣孝の任地だった太宰府や、
親友のさわが亡くなった肥前の松浦にも行ってみたいと言うと、
3年前に出家した為時ジジは、そんなに遠くまでと心配しますが、乙丸が付き従うことに。
土御門邸では、彰子付の女房として宮仕えすることになった賢子が、
まひろに付き添われ、太皇太后彰子、次いで、道長夫妻に挨拶して回ります。
その後、まひろは賢子に、完成した『源氏物語』の原稿を託しますが、
そうこうしているところへ、道長が現れて、行かないでくれと、まひろに懇願します。
しかし、まひろは「これ以上、手に入らぬお方の側にいる意味は、何なのでございましょう」と、
道長を突き放すと、賢子の父親が道長であることを、遂に打ち明けます。

茫然とする道長――つまり、彼は知らなかったわけですが、となると、以前、
『源氏物語』に描かれた不義の子について、まひろが「我が身に起きたこと」と言った時、
道長はいったい、まひろが、自分以外の誰と不義密通したと思っていたのでしょうか。
ともあれ、道長の、まひろへの執着は止まりません。
ガッと手を握り、「お前とはもう会えぬのか」と必死に訴えかけますが、
まひろはその手を押し戻すと、「これで終わりでございます」と、別れを告げるのでした。
ほんの2、3ヶ月前、「望月の歌」を詠んだ時は、アイコンタクトしていた2人なのに、
『源氏物語』が完成し、賢子が自立し、彰子が立派な国母になった途端、突然お別れとか、
道長にしてみれば、自分が、浮舟に捨てられた薫になったような気分でしょう。
さて、まひろが都を出発した頃、土御門邸では、倫子が赤染衛門にある依頼をします。
枕草子のように、道長の素晴らしさを、輝かしい物語として描いて欲しい、というのです。
倫子はかつて、同じことをまひろに頼みましたが、
まひろは、自分は心の闇に惹かれる性分なので、難しいと断っていました。
赤染衛門は、恐縮しながらも引き受け、かくして『栄華物語』誕生の運びとなります。

初出仕した賢子は、越後弁という、宮中での呼び名を与えられます。
為時ジジが越後守、その前は左小弁だったことから、付けられた名前でした。
宣孝は18年も前に亡くなっているので、父を飛び越えて祖父、ということなのでしょう。
そんな賢子を、柱の陰からそっと見る道長は、何とも言えない表情を浮かべていますが、
どうやら、体調がすぐれず、胸部に痛みがある様子。
直後、道長は、健康状態や、頼通を一人立ちさせることを理由に、出家を決意しますが、
事前に相談されなかった倫子には、まひろが去ったことが理由だとの、疑念が残ります。
3月、道長は、倫子や頼通、娘たちが見守る中、剃髪して出家します。
戒師は、一条上皇、三条上皇が出家する際も戒師を務めた、天台座主の院源。
この場面、道長役の柄本佑さんは、実際に頭を剃っているのだそう。
行成は、道長の剃髪した姿に、感極まって涙しますが、
未だ肝が据わっていない頼通の力になって欲しい――そう側近たちに依頼する道長には、
まだまだ政治の世界から離れる気配はありません。
実際、頼通から、失態続きの左大臣・顕光を辞めさせたいとの相談を受けた際は、
失態のたび、皆の前で左大臣を厳しく叱責せよと、容赦のない対処方法を授けています。

乙丸を伴って旅に出たまひろは、道中、須磨の浜辺を裸足で駆けたりしましたが、
この頃、ようやく太宰府に到着します。
都から見れば西の果てに、このような賑やかな町があることに、驚く乙丸。
宋人も多く、市場では珍しい品物が売られていましたが、そんな薬種を扱う店の前で、
まひろは、越前で親しくしていた、宋の見習い医師・周明と再開します・・・・
というところで、To Be Continued。
我が家の親戚は、ほとんどが都内か山梨の住人ということで、
地元なのに、その斎場へ行ったのは、今回が初めてだったんですよね。
いかにもバブル期に建てられたものらしい、ポストモダンな意匠にあふれたその斎場、
大きさもかなりのものですが、日曜なのに、ガラガラでした。
これまで、火葬場が空かなくて葬式が延ばされたという話を散々聞いてきましたが、
自治体によって、ずいぶんと差があるものです。
何にしても、私もいずれは、こちらのお世話になるということで。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
では、大河ドラマ『光る君へ』の感想です。
第45話「はばたき」を簡単に。
引き続き、1018年(寛仁2年)10月。
昨晩、道長が詠んだ「望月の歌」の解釈について、四納言が語り合う場面。
「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
この歌は、道長の「御堂関白記」には記載がなく、実資の「小右記」に記されたことで、
今日まで伝わっているわけですが、そも、耳で聞いた音を書き留めているので、
「わが世」なのか「わが夜」なのかも判然とせず、歌の解釈については、諸説あります。

「栄華を極めた今を歌い上げておられるのでありましょう。何もかも思いのままであると」
と言うからには、源俊賢は「わが世」派ですね。
これに対して、「今宵は誠によい夜であるなあ、くらいの軽い気持ちではないのか」
と異論を唱えた公任は、「わが夜」派ですね。
道長は、皆の前でおごった歌を披露するような人ではない、という公任に、行成も同意。
公任によると、月は后を表すので、「3人の后が望月のように欠けていない、良い夜だ」、
という意味に取れるとのことですが、斉信は「そうかなぁ」と納得が行かない様子。
この場面、まひろが、彰子が後一条天皇を出産した際に詠んだ歌
「めずらしき 光さしそふ さかづきは もちながらこそ 千代をめぐらめ」
を、斉信が知っていたことにして、言及してくれれば最高だったのに、惜しい。
同じ頃、土御門邸。
敦康親王が、太皇太后彰子や頼通と、親しく歓談する場面。
一昨年に、嫄子内親王が誕生し、幸せそうな様子の敦康親王でしたが、
にわかに発病し、12月に薨去してしまいます。享年21歳。
天皇と皇后の間に生まれた第一皇子が、東宮となれなかったのは、異例のこと。
まさにナレーション通り、道長によって奪い尽くされた生涯でした。
養子として育てきた敦康親王に先立たれ、彰子も辛そうです。
尚、残された親王妃は出家。嫄子女王は頼通・隆姫女王(親王妃の姉)夫婦に引き取られ、
後に後朱雀天皇に入内することになります。

まひろの『源氏物語』は、いよいよ最終章。
第54帖「夢浮橋」の最後の場面を記す様子が、ナレーションと共に描かれます。
小君がいつ戻るのかと、お待ちなされていたのですが、
このように、訳の分からまま帰ってきましたので、がっかりした薫君は、
かえってやらない方が良かった、などと様々思い、
誰かに隠し置かれているのではないだろうかと、思い込んでしまわれたのは、
自ら浮舟を捨て置いたことがおありになったから、とか、
もとの本には書いてあったのです。
入水しようとして横川の僧都に助けられ、僧都のもとで出家した浮舟は、
消息を知った薫が、自分のところに戻るよう促した手紙も読まず、頑として拒絶する・・・・
長い長い物語を書き終えたまひろは、筆を置いて立ち上がり、月を眺めるのでした。
年が明けて、1019年(寛仁3年)正月。
叙位の儀に、左大臣・顕光と右大臣・公季が出席せず、儀式が執り行えない事態に。
若くして摂政となった頼通(内大臣、当時28歳)を軽んじた、左右の大臣の嫌がらせでした。
頼通は、このことを父道長に相談しますが、狼狽えるなと、一喝されてしまいます。

一方、まひろの娘・賢子は、宮仕えをしたいとの相談を、母親にもちかけます。
夫を持ちたいと思わないし、21歳にもなって母親頼りに生きていくのが、情けなくなったと。
賢子が家を支えてくれるならばと、まひろは念願だった、旅に出ることにします。
『源氏物語』の舞台となった、須磨、明石ばかりでなく、夫・宣孝の任地だった太宰府や、
親友のさわが亡くなった肥前の松浦にも行ってみたいと言うと、
3年前に出家した為時ジジは、そんなに遠くまでと心配しますが、乙丸が付き従うことに。
土御門邸では、彰子付の女房として宮仕えすることになった賢子が、
まひろに付き添われ、太皇太后彰子、次いで、道長夫妻に挨拶して回ります。
その後、まひろは賢子に、完成した『源氏物語』の原稿を託しますが、
そうこうしているところへ、道長が現れて、行かないでくれと、まひろに懇願します。
しかし、まひろは「これ以上、手に入らぬお方の側にいる意味は、何なのでございましょう」と、
道長を突き放すと、賢子の父親が道長であることを、遂に打ち明けます。

茫然とする道長――つまり、彼は知らなかったわけですが、となると、以前、
『源氏物語』に描かれた不義の子について、まひろが「我が身に起きたこと」と言った時、
道長はいったい、まひろが、自分以外の誰と不義密通したと思っていたのでしょうか。
ともあれ、道長の、まひろへの執着は止まりません。
ガッと手を握り、「お前とはもう会えぬのか」と必死に訴えかけますが、
まひろはその手を押し戻すと、「これで終わりでございます」と、別れを告げるのでした。
ほんの2、3ヶ月前、「望月の歌」を詠んだ時は、アイコンタクトしていた2人なのに、
『源氏物語』が完成し、賢子が自立し、彰子が立派な国母になった途端、突然お別れとか、
道長にしてみれば、自分が、浮舟に捨てられた薫になったような気分でしょう。
さて、まひろが都を出発した頃、土御門邸では、倫子が赤染衛門にある依頼をします。
枕草子のように、道長の素晴らしさを、輝かしい物語として描いて欲しい、というのです。
倫子はかつて、同じことをまひろに頼みましたが、
まひろは、自分は心の闇に惹かれる性分なので、難しいと断っていました。
赤染衛門は、恐縮しながらも引き受け、かくして『栄華物語』誕生の運びとなります。

初出仕した賢子は、越後弁という、宮中での呼び名を与えられます。
為時ジジが越後守、その前は左小弁だったことから、付けられた名前でした。
宣孝は18年も前に亡くなっているので、父を飛び越えて祖父、ということなのでしょう。
そんな賢子を、柱の陰からそっと見る道長は、何とも言えない表情を浮かべていますが、
どうやら、体調がすぐれず、胸部に痛みがある様子。
直後、道長は、健康状態や、頼通を一人立ちさせることを理由に、出家を決意しますが、
事前に相談されなかった倫子には、まひろが去ったことが理由だとの、疑念が残ります。
3月、道長は、倫子や頼通、娘たちが見守る中、剃髪して出家します。
戒師は、一条上皇、三条上皇が出家する際も戒師を務めた、天台座主の院源。
この場面、道長役の柄本佑さんは、実際に頭を剃っているのだそう。
行成は、道長の剃髪した姿に、感極まって涙しますが、
未だ肝が据わっていない頼通の力になって欲しい――そう側近たちに依頼する道長には、
まだまだ政治の世界から離れる気配はありません。
実際、頼通から、失態続きの左大臣・顕光を辞めさせたいとの相談を受けた際は、
失態のたび、皆の前で左大臣を厳しく叱責せよと、容赦のない対処方法を授けています。

乙丸を伴って旅に出たまひろは、道中、須磨の浜辺を裸足で駆けたりしましたが、
この頃、ようやく太宰府に到着します。
都から見れば西の果てに、このような賑やかな町があることに、驚く乙丸。
宋人も多く、市場では珍しい品物が売られていましたが、そんな薬種を扱う店の前で、
まひろは、越前で親しくしていた、宋の見習い医師・周明と再開します・・・・
というところで、To Be Continued。