萌えアニメの嚆矢:日常系に至る4つのライン(改訂)
少年マンガにおける手塚治虫、石森章太郎、赤塚不二夫、藤子不二雄とその〈ときわ荘〉勢の影響化にある永井豪、吾妻ひでお……彼らにはあらゆる要素が内包されていたと思うんだ。シリアス、ギャグ、エロ、ホラー、SF……。
彼らマンガのフロンティアたちが持っていた要素が、分裂/融合/増幅/希釈……サンプリングされカットアップされリミックスされて、現在の萌え的日常的空気的4コママンガ/アニメが存在する……のではないかな、という考察なんだけど。
それでね、今の萌えアニメには4つのラインがあることに気づいたの。
70年代後半に少年マンガに少女マンガ的要素が浸透していったというのが、まず前提としてあって。
少女マンガ的要素って言うのは、キャラクター造形(目が大きく、過剰に可愛くて、ファッショナブルな女の子)と物語構造(少女マンガから生まれたラブコメというジャンル)のことだね。
永井豪『あばしり一家』『ハレンチ学園』や吾妻ひでお『ふたりと5人』『やけくそ天使』のエロとコメディ(ギャグ)の要素に少女マンガ的要素が融合し(ここでは永井と吾妻の持っていたSF的要素は希釈される)『翔んだカップル』『きまぐれオレンジ☆ロード』『ストップ!!ひばりくん』『電影少女』といった作品が生まれる。
そして、それらの作品のアニメ化を経由して、京都アニメーションの『ハルヒ』『らき☆すた』、Key/ビジュアルアーツのアニメ『Clannad』『Angel Beats』、さらには日常系百合とでもいうべき『ゆるゆり』『Aチャンネル』に接続していく……というのが、1つのラインとしてあると思うのね。
強い少女の誕生=美少女とSFメカとの融合
SF性とパロディ性の増幅と融合……というのがもう1つのライン。
手塚治虫、石森章太郎、赤塚不二夫、藤子不二雄の〈ときわ荘〉勢とその後継の永井豪、吾妻ひでおの持つSF性とパロディ性を増幅し、そこに少女マンガ的要素が融合することによって『マカロニほうれん荘』『うる星やつら』が誕生する。
うる星やつらのアニメ化とマクロスの大ヒットにより、「メカ+美少女」という傾向が、以降のSFマンガ/アニメの主流となっていく。
強い少女=戦闘美少女の誕生だ。
「メカ+美少女」路線は『トップをねらえ!』『エヴァンゲリオン』『エウレカセブン』『攻殻機動隊』(攻殻はちょっと違うか?)といった「メカに乗り込み操作する」作品を生み、『ストライクウィッチーズ』『IS:インフィニット・ストラトス』などの「美少女とメカが不可分となったデザイン」を有する作品にシフトする……戦闘美少女と呼ぶにふさわしいフォルムを獲得していく訳だね。
ニューウェーブ=カテゴライズが不可能なマンガ群の台頭
70年代後半に出現したジャンル分け不可能な新しいマンガ=当時、ニューウェーブと呼ばれた作家たちの作品……大友克洋、ひさうちみちお、宮西計三、高野文子、さべあのま、奥平イラ、岡崎京子……少女マンガでも少年マンガでも劇画でもエロでもない、カテゴライズ不能のマンガ群……。
これらのマンガは、SF専門誌「奇想天外」を母体とする「マンガ奇想天外」や、SFとマンガとサブカルチャーをフィールドとする亀和田武が編集長をした「劇画アリス」といったすこぶるマイナーな雑誌に掲載されていたのね。
ニューウェーブと言われる所以は、今までの漫画表現とは異なる描線/構図とストーリー展開にあるんだ。
大友克洋の天才的なデッサン力とアメリカン・ニューシネマを思わせる乾いた描線とストーリー。ひさうちみちおのロットリングを駆使した緻密で均一な描線と円城塔を思わせるロジカルなストーリー展開。宮西計三の艶かしい描線とシュールレアリスティックな構図。奥平イラの平面的でポスターデザインのようなタッチ……
マンガのニューウェーブ的表現は、押井守、今敏、新房昭之、幾原邦彦、神山健治らの諸作品に確実に影響を与えているね。
従来、劇画調で成熟した女性のみを扱って来た官能劇画雑誌に、突然登場した未成熟な少女たちの裸体……「ロリコン」とジャンル分けされる作品をレモンピープル、漫画ブリッコなどの雑誌に掲載していたのが、吾妻ひでおや内山亜紀といった作家たちだったんだね。
彼らが表現した少女たち(少女マンガ的アニメ的なタッチでデフォルメされた少女もしくは幼女)の痴態はユーザーに衝撃を与え、ロリコン・ブームを巻き起こす。特に内山亜紀の出現はエポックメイキングな出来事で、その絵柄の可愛らしさ、描線の緻密さが人気を博して、数々のエピゴーネンを生むことになるのね。
(個人的な話だけどね。初めて内山亜紀の作品をエロマンガ誌で「発見」したときは、本当にビックリしたよ。当時は萌えって言葉はなかったけど、エロマンガにアニメ絵がきた!アニメ絵でエロを表現する奴が現れた!ってね。衝撃的な出来事だったんだ)
このブーム以後、デフォルメされた少女のフォルムは、少女性愛というポルノグラフィカルな要素を限りなく希釈させて、あらゆるメディアに拡散していくのね。吾妻ひでおと内山亜紀の絵柄が「デフォルト」になっていくんだ。
同じ「ロリコン」とカテゴライズされていても、吾妻ひでおと内山亜紀では、その表現はまったく異なっていて。例えば……吾妻ひでおが対象としているのは高校生(もしくは中学生)で、内山亜紀は小学生以下。描線も、吾妻は手塚治虫的な太くて柔らかい線だし、内山は少女マンガ的アニメ絵的な(マクロスの美樹本晴彦のような?)細くてやや硬質な線だったりするのね。そういった違いはあるけれども、彼らの「あくまでも可愛い女の子の絵」と作品と方法論は、後の作家(後の世にと言っていいだろうね)に、ロリコンというジャンルにおさまらない影響を与えていったんだね。
現在のマンガ/アニメに表現されている「少女」の姿が、海外では児童ポルノまがいの猥褻な表現として捉えられているのもむべなるかな……。
4つのラインに共通する作家:萌えアニメの嚆矢
萌えアニメに至る4つのライン。
もう一度整理すると……
1.ラブコメ
2.戦闘美少女
3.ニューウェーブ
4.ロリコン
その中心にいたもの。その4つのラインの潮流全てに接続する作家。そんな作家が存在するんだよ。
『ふたりと5人』『やさぐれ天使』『ななこSOS』『オリンポスのポロン』『不条理日記』『メチル・メタフィジーク』『陽射し』『海から来た機械』……
それが吾妻ひでお。
けいおん、らき☆すた、Air、CLANNAD、Angel Beat、Aチャンネル、ゆるゆり……など、その源流には吾妻ひでおが位置する。すなわち、現在の萌えアニメの潮流の原初たる存在、嚆矢となるべく存在は、吾妻ひでおだ、ということなんだよ。
吾妻ひでおが唾棄すべき対象として忌み嫌っている「日常系」の元祖。それが他ならぬ吾妻ひでお自身だった、というのは何と言う皮肉だろうね……。
セカイ系から日常系:さらにその先へ【歴史編その1】
マカロニほうれん荘:70年代後半に出現したミュータント
赤塚不二夫や山上たつひこが築き上げた破壊的、破滅的で自己言及的なギャグ。その要素に「オタク趣味」を加えて出来上がったのが、鴨川つばめの『マカロニほうれん荘』だ。
オタク趣味とは、アイドル、ミリタリー、特撮、ロックなどなど……。
Queen/KISS/Deep Purple/Led Zeppelin/ゴジラ/アンギラス/キングギドラ/M1号/バルタン星人/ナチスドイツ軍/帝国陸軍/帝国海軍/戦車/戦闘機……これらの要素がウルトラハイスピードで変形し、増殖し、分裂し、融合し、歌い、暴れ回るのだ。
脱色された物語。意味の剥奪。行動の反復……それはシミュレーショニズム:サンプリング/カットアップ/リミックスの発露と言っていい。70年代後半にこの作品が登場したというのは特筆に値する。このような表現を行ったものは、当時、誰もいなかった。
あまりにも斬新すぎる表現は、作者自身を追い込み、連載は僅か2年で終了する。ギャグマンガの過酷さを物語る好例だろう……。
もうひとつ。『マカロニほうれん荘』のユニークな点は、登場人物である膝方歳三、通称トシちゃんに対して猛烈にアプローチする女子大生トリオの1人「ルミちゃん(斎藤ルミ子)」の存在だろう。
奇人であり変人であるトシちゃんは、ルミちゃんの気持ちを知ってか知らずか、ルミちゃんのアプローチを受け流していく……トシちゃんの心象を推し量ることは不可能だ。あらゆるアプローチは「トシちゃんカンゲキー!」の一言で無効化されてしまうのだから。
「オタク趣味のリミックス」と「女子からの強力なアプローチに対するつれない男子の反応」……このフォーマットは『うる星やつら』に引き継がれていく。
うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー:80年代のSF的狂躁
『マカロニほうれん荘』の終焉と入れ替わるように出現した80年代を代表するマンガ/アニメである『うる星やつら』。
オタク趣味のリミックスという点では『マカロニほうれん荘』に比べると、遥かにおとなしい。表層的には「オタクガジェットのパロディ」の域にとどまっているように見える。
「オタクガジェットのパロディ」としての傾向は、映画『うる星やつら2ビューティフル・ドリーマー』に顕著だ。
映画冒頭の友引高校学園祭(文化祭)準備の様子。そこに描かれた東宝特撮のキャラクターたち…X星人、モスラの幼虫、海底軍艦、それに巻き付くマンダ、モゲラ、メガロ…それらに混ざってウルトラマン、カネゴン、ガラモン(もしくはピグモン)、バルタン星人など円谷プロの怪獣たちが闊歩し、さらには純喫茶「第三帝国」の描写…制服や旗や戦車レオパルド…この描写にオタクたちは歓喜する訳で(笑)
以上の描写はあくまでも「描写」の域を出ない。物語にとっては全く関係のない「ただの背景」でしかないのだ。その点では『マカロニほうれん荘』から遥かに後退していると言っていいだろう。
しかし『うる星やつら』の魅力は多彩なキャラクターにある。そのキャラクターたちが「オタクガジェットのパロディ」の分散化された表現であると言えるだろう。
例えば、藤波竜之介とその父の関係に巨人の星を、錯乱坊にスターウォーズのヨーダを連想するのは容易い。それらキャラクターがおりなすハイテンション・ギャグであるという点では、マカロニほうれん荘に勝るとも劣らない。
さらに注目すべき点は『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』に「日常系」の萌芽を見て取れるということだ。
学園祭(文化祭)前日が延々とループしている……ラムの夢を具現化したループ世界……それは当然のことながら涼宮ハルヒの『エンドレスエイト』の原型である。大きな事件も起こらず、人間関係すら破綻しない、おもしろおかしい日常を永遠に繰り返す……すなわち「終わりなき日常の固定化」に他ならない。永遠のループ世界で遊ぶラムの笑顔は美しい……。
そしてもうひとつ。セカイ系に接続する要素があるということ。
『マカロニほうれん荘』によってギャグと融合したオタク趣味は、美少女、SFメカ/ガジェット、ミリタリーという形に分離して『うる星やつら』に溶け込んでいった。その表現はシミュレーショニズムの狂躁からはほど遠いが、緩やかなパロディとしてラムに収斂していく。
ラム……グラマラスなボディを惜しげもなくさらし、空を飛び、電撃を発し、ひとりの男性を一途に愛し続ける……このラムの造形に当時のオタクは熱狂した。それは男性に取ってあまりにも都合の良い存在だったと言えよう。
男性に取って都合の良いラムの造形は、のちに戦闘美少女として顕現し、セカイ系へと受け継がれていく。
『うる星やつら』で提示された3つの要素。
1.恋愛:女子から男性への猛烈なアプローチ
2.ビューティフル・ドリーマーにみられる日常系の萌芽
3.戦闘美少女の原型としてのラムの造形
『うる星やつら』には既に「セカイ系」と「日常系」の要素が包含されていることが分かるだろう。
次回は「もうひとつの系譜:70年代後半から90年代前半の不条理ギャグマンガ」からスタートする。ちょいと力つきました(笑)
セカイ系から日常系:さらにその先へ【定義編】
“ All those moments will be lost in time, like tears in rain.” Blade Runner
アニメ、マンガ、ラノベなどのサブカルチャーの歴史から演繹するなり、帰納するなりして「さらにその先」が提示できればいいな、と……。
セカイ系から日常系を経由して、さらにその向こう側へと至る道の通奏低音にはふたつあって。ひとつは「ギャグ」であり、もうひとつは「恋愛」なんだ。ギャグの背景には「シミュレーショニズム」があって、「恋愛」がそれを駆動させる燃料であり、エンジンになっている……それは一体どういうことなのか? 言葉の定義とか歴史とかなんやかや……という観点からみていこうと思う。
まずは言葉の定義から始めようかな。
これはWikipediaに詳しいので、それを読んでもらえればOKだね。
この記事はとても良く纏まっているので、是非読んで欲しい。
(日本のWikipediaはサブカルに強いからね)
ちょいと引用してみると……
“主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(きみとぼく)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと”
以上が定義。
もう少し詳しく引用すると……
“「世界の危機」とは全世界あるいは宇宙規模の最終戦争や、異星人による地球侵攻などを指し、「具体的な中間項を挟むことなく」とは国家や国際機関、社会やそれに関わる人々がほとんど描写されることなく、主人公たちの行為や危機感がそのまま「世界の危機」にシンクロして描かれることを指す”
要するに……
“セカイ系とは「自意識過剰な主人公が、世界や社会のイメージをもてないまま思弁的かつ直感的に〈世界の果て〉とつながってしまうような想像力」で成立している作品である”
自意識が世界に直結している物語と言えるんじゃないかな。
日常系
Wikipediaでは「空気系」と記載されていたね。
またもや引用してみると……
“美少女キャラクターのたわいもない会話や日常生活を延々と描くことを主眼とした作品群”
これ以上の説明はいらないほど簡潔な描写が素晴らしい。
作品としては言わずもがなの『けいおん!』だよね。女子高生がただひたすらキャッキャウフフしている姿をみて和むという、視聴者の好々爺的状況がある訳で(笑)
その他には『僕は友達が少ない』や今度アニメ化される『お兄ちゃんだけど愛さえあれば関係ないよねっ』とか。『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』もかな?
登場人物たちがたわいもない会話を延々し続けていく。そこには登場人物間の関係性が破綻することもなければ、「世界の危機」的状況も訪れない。終わりなき日常の固定化……。
(『電波女と青春男』は違うね。この作品は日常系みたいなんだけど、実は違ったんだ。このことについては別に論じたいと思う)
シミュレーショニズム:サンプリング/カットアップ/リミックス
さて。セカイ系から日常系へと至る歴史を考えてみようと思うのだけれど……その前に、重要な概念を提示したい。
「シミュレーショニズム」だ。
以下、椹木野衣『増補シミュレーショニズム』より「引用」するね。
サンプリング:
“サンプリングは、既製品としてのディスク・ミュージックの一部を略奪的に流用し、それを新たなコンテキストの中に接合することによって原意味を脱構築する”
“たとえば「引用」が、結局は他者をいかにして自己に調和させるか、ひと綴りの自己表現の小宇宙に首尾よく配置させるか、という問題だったようにしては「サンプリング」は引用しない”
“それはあくまで略奪的な戦略なのであり、「引用」がそれをなす当事者の表現的自我を不可避的に肥大させるのに対して、サンプリングを敢行した当事者の自我は抹消され、無名性の中に霧散する”
“さらにいえば、引用する者が富めるものから「収奪」するものを、サンプリングする者は「没収」しているのである”
カットアップ:
“サンプリングが引用でないと同様に、カットアップはコラージュではない”
“コラージュがいかに異質な要素を同一平面上に共存させようとしているにしても、結局のところそれは、箱庭的な予定調和を目指す表現者の趣味性を具体化する一方法といった感は免れない”
“これに対してカットアップは、むしろ当の表現者を裏切るべくして機能する。そこには切り刻むことによる偶然性が乱暴に導入され、この偶然性が選択者の意志の必然に従った配列とあいまみえて進行してゆく”
“(略)ジャパニーズ・シュルレアリズムのごとき、空想を具体化する一手法としてのコラージュなどではなく、むしろそうした無意識的な空想の凡庸さを破壊し、そのような虚構の弱き「超現実」を、より強度を有した理不尽なる現実にさらすことにある”
リミックス:
“リミックスは、サンプリングされ、カットアップされた分裂症空間を、微小な差異を連鎖的に形成する反復へとさらすことによって欲望の無限連続体を導き出す”
“この意味においてリミックスは、サンプリングが引用と、カットアップがコラージュと分離されたように、その原型に対する距離の特殊な形成において、パロディと厳密に峻別されるべきものである”
“パロディとは、要約によってなされる、当の対象の本質直観に基づいている”
“しかし、リミックスは決して要約しない。それはひたすら反復する。レヴェル・ダウンしようがレヴェル・アップしようがかまいはしない。そこで行われるのは盲目的なまでのひたすらの反復である”
“(略)ベスト・テイクが原理的に存在しない以上、それを巡ってその周囲に同心円状に配置される「パロディ」もまた存在しない。リミックスにおいては、全ては等価である”
引用がかなり長くなっちゃったけどね。
事物を略奪し、事物が持っていた意味を抹消し、ひたすら反復して変形しながら増殖する……これはギャグマンガの基本にリンクしていることに気がついたの。
物語を希薄にして、登場人物の行動や思考から意味を剥奪し、その奇矯な行動をひたすら反復する……赤塚不二夫の『天才バカボン』や『レッツラゴン』あるいは山上たつひこの『がきデカ』『イボグリくん』にみられる破壊的破滅的ギャグの系譜。
(イボグリくんはギャグマンガの極北だ!シミュレーショニズムの果てのポストモダン・ギャグマンガと言っていいと思う。マジで凄いよ!)
その破壊的破滅的ギャグに「オタク趣味」が加わって誕生したのが鴨川つばめ『マカロニほうれん荘』なんだ。
次回は『マカロニほうれん荘』から始まるサブカルの歴史についてお話しできればいいな……と思ってます。
『氷菓』の映像表現
また、アニメの話で恐縮だけど(笑)
第5話で「氷菓事件」は決着した、と。
古典部シリーズ1巻目のアニメ化だったんだね。
僕は原作を読んでないのでアニメを見た感想を少々。
折木奉太郎は第1話から「推論」しかしてない。
他の登場人物も、その「推論」だけで良しとしていて。
「推論」した結果をもって「答え」としてる。
その「答え」が「真実」であるかどうかは問わない。
これってミステリとしては新しいんじゃないかな、って思っていたの。推理合戦をして、それが全て推論で、真実に到達しない……こりゃあアンチミステリだよなぁって。
ところが……5話を見てビックリ。その推論は不完全で、推論をやり直して真実に到達するという……これじゃ普通のミステリじゃん(笑)都合が良すぎるほどの。
個人的には、それと気づくことがないライトなアンチミステリってのを期待してたんだけど……そうではなかったね(笑)その辺が不満だった(笑)
以上、枕でした(笑)
氷菓独特の映像表現
アニメ表現としては凄まじい領域に到達していて。
(あ、猛烈にネタバレしてます)
例えば、5話冒頭のシーン。
雨が止んでから雲間から光が射すところ。
これには度肝を抜かれた。
これだけのクオリティの映像をTV放映ベースで見せられるとはね…。
『氷菓』の映像表現は、別にアニメじゃなくてもいい訳で。
どちらかというと実写向きだと思う。
推理/推論部分は光学合成やCGを使えばいいし。
過去の出来事は再現フィルム調でもいい。
でも……これは僕の推測でしかないけど……。
おそらく氷菓のスタッフは「アニメでなければならない意味」と「アニメでなければできない表現」を志向したんじゃないかな。アニメで表現する意義ってものを相当考えたのだと思う。
そうでなければ
1話の「古典部部室のえるの立体的表現」
3話の「時計のハート型の振り子」
そして
5話の冒頭
といった表現をしないだろうね。
アニメならではの表現と演出……現実とは異なるアニメだけが持つ現実感……それを実現するだけの高い作画レベル……そういったものを追求しようとしたのではないか、と思うんだ。
その「アニメならではの表現と演出」とは、氷菓独特の映像表現とは、何か。それは、情景と登場人物の心理のシンクロ:登場人物の心理心情を情景で説明する、ということにある。
(推理/推論シーンの会話を補完するための映像:例えば2話の図書館から本を借りる時のCGとか、4話の生徒と学校間の争いの描写とか:というのは、別に問題にしない。漫画でよく見る表現だから、特に珍しくもない)
1話の「古典部部室のえるの立体的表現」
折木奉太郎が古典部部室に初めて入室するシーン。誰もいないはずの部室に千反田えるがいた……その窓際にいる千反田えるにズームしていく……奉太郎の視点で……。この描写が3DCGで表現されているのには驚いた。
これは二人の出会いを劇的にする意図と奉太郎の驚きを表現している(と思う)。いないはずの教室に思わず見蕩れてしまうほどの美貌の女の子がいた……という、ね。
3話の「時計のハート型の振り子」
これは面白い。映像ならではの表現だね。
千反田えるに喫茶店に呼び出された奉太郎。えるがなかなか用件を話さないので「告白でもするのか?」と聞いたら「そうかもしれません」「え?」……というわけで男子高校生らしく奉太郎がドキドキしちゃうのね。マジで告白するの?なんて奉太郎のモノローグは一切ない。その心情を「ハート型の振り子」という映像のみで表現してる。もちろん喫茶店の時計は普通の丸い振り子なんだけど。この表現はうまいなぁと感心した。
5話の冒頭
驚愕のアニメ表現。まさに極北。そのクオリティには顎が外れた(笑)
雨の中、話ながら歩いている福部里志と奉太郎。
以下長くなるけど再現してみる。
「奉太郎の推理通りなら、僕たちのカンヤ祭は少なくともひとりの高校生活の代償に成り立っていることになるね……でも、驚いたよ」
「何がだ」
「奉太郎が謎解きをしようとしたこと自体にさ」
「俺も……驚いた……」
「神高入学以来、奉太郎はいくつか謎解きをしてきたよね。なんでそんな面倒なことをやった理由は分かってる。千反田さんのためだろ?」
「千反田のせいだ」
「それでもいい。だけど今日は違った。ひくこともできたはずなんだ、奉太郎は。今日、謎を解く責任は、僕らのあいだで4等分されていた。分からないと言って逃げても、誰も何も言わなかったと思うんだよ。なのに、なんでトイレに籠ってまで回答を見つけようとしたんだい? あれも千反田さんのためだったの?」
ここで雨が止み、雲間から光が覗く。
「……いいかげん灰色にも飽きたからな。千反田ときたら、エネルギー効率が悪いことこの上ない。部長職、文集作り、試験そして過去の謎解き。よく疲れないもんだ。お前も伊原もな。無駄の多いやり方してるよ、お前らは」
「ま、そうかもね」
「でもなぁ……隣の芝生は青く見えるもんだ。お前らを見てるとたまに落ち着かなくなる。俺は落ち着きたい。……だが……それでも俺は何も面白いとは思えない」
ここで、烏が飛び立つ。
田園の全景。太陽からの光が放射状に筋になって。
奉太郎にスポットライトが当たったように。里志は影になっている。
この対比に注意。
「……その……なんだ……推理でもして一枚噛みたかったのさ。お前らのやり方にな……何か言えよ」
「奉太郎は……奉太郎は薔薇色が羨ましかったのかい?」
「かもな」
走り出す二人。太陽は二人を照らしている。
つまり奉太郎はここで初めて本音を語ったわけで。
告白と言ってもいいかもしれない。
自分の内なる気持ちを語ったことがおそらくなかったであろう奉太郎……その気持ちにシンクロするように雨が上がり、太陽の光が雲間から覗くのだ。天候が回復するとともに、奉太郎の心も晴れ上がったことだろう。
この情景と心情のシンクロナイズは、わずか3分程度のシーンなんだけど、アニメならではの表現だと思うね。しかし、これを表現するためには猛烈な時間と手間と作画レベルと色彩設計を必要とする。TVの放映を前提であるアニメ番組が行うような表現ではない。しかし、それを京アニは実現してしまった訳だ。本当に凄い。
おそらく、この『氷菓』で実現しているアニメ技術と表現方法は、TVの『涼宮ハルヒの憂鬱:エンドレスエイト』と映画『涼宮ハルヒの消失』を経て完成されたものだと思う。推測に過ぎないけどね。
この劇場用作品並み、いやそれ以上のクオリティをどこまで継続できるのか。『氷菓』は全24話だと聞いている。最後までこのクオリティを保つことができれば、アニメは新しい次元に突入する……かもしれない。僕は楽しみでならないよ。
補足:5話冒頭のシーンはCGを使えば、実写でも表現できると思う。通常のドラマでは、こういった表現はしないだろうね。時間も予算もないし、視聴者にとっては分かりにくい表現になるかもしれないし。労多くして功少なし、ってことになるはず。だから監督はやりたがるかもしれないけど、プロデューサーはOKしないと思うな。映画ではできるね。予算が潤沢なら。TVアニメでやるのは、マジで凄いよ。
「あの夏で待ってる」に関する断片的な思慮
『あの夏で待ってる』ってアニメのこと。
これは『おねがいティーチャー』のリメイクだったんだなぁ、と。
でも僕は『おねがいティーチャー』を見ていないので、その作品のことを除外して、いろいろ思ったことを書いていく。
物語の構造
1話のモノローグが最終話にリンクすること。主人公の相手役が主人公の元を離れて、再び戻ってくること。主人公たちの存在が彼らの母校の伝説となること(あの夏ではそれが映画という作品になっていたが)そういう構造がとらドラに似ていると感じた。
物語構造が一度ループして上昇するよう(円環というよりは螺旋)になっているのは、おそらく制作者が「時間」と「記憶」を意識しているからだと思う。すなわち「あの夏」を体験した記憶と関係性の永続をこの物語に与えたかったのではないか。
時間と記憶
時間と記憶の永続性というのは、この物語の支柱になっていることに気がついた。自らの体験を残しておくため、伝えるために、そのイメージを子々孫々に遺伝させる…このイメージに従いヒロインは地球を訪れ、主人公に出会う…これもまたループしている訳で。
ヒロインの祖先が残した地球のイメージ…それは地球人が星間航法を実現させて銀河連盟に所属し たときに、ヒロインの種族(の子孫)がそのイメージに気づく…我が祖先は遥か古代に地球人と接 触していたのだ…という壮大な計画だったのかも知れない。
記憶…わたしの存在、わたしの体験、わたしと仲間たちの関係…それらを永続的に保管し、次代に受け継ぐこと。それが、このアニメのキャッチコピー「その夏の思い出が、僕達の永遠になる」の意味だろう。
記憶の永続性
記憶の永続性もしくは忘却との徹底交戦:これが長井龍雪と田中将賀のコンビの作品のテーマではないか。…とらドラもあの花もあの夏も…「忘れるな。思い出せ」と。
とらドラ:1話と最終話のループ…円環を超えた螺旋構造は、周回しながらも前進している未来へのベクトルを想起させる。伝説…卒業後も後輩達に語り継がれる…体験の永続的な共有は、その体験を時間から切り離し永遠の存在となる。これらは「あの夏」も同様の構造を有している。
あの花:亡くなったヒロインの出現…忘却していた/しようとしていた記憶の想起とバラバラになっていた関係の修復。彼らの記憶と関係は、より強固に定着する。
記憶の補完/郷愁の連鎖
失われゆく記憶をテクノロジーで補完する…8㎜カメラという失われた技術での撮影…音声もなく不鮮明な映像…それは現在のHD画質のビデオの高画質からは得られない「郷愁の連鎖」を高い頻度で惹起する。
郷愁の連鎖…失われつつある記憶をノスタルジックに補強する…記憶の連続的な再生…画質でも音質でもなく、不鮮明さ、すなわちノイズがトリガーとなる訳だ。そのノイズは自らの記憶の「不鮮明さ」とリンクする。
メッセージ
実はこの作品のメッセージは最初と最後のモノローグに現れている。
人が死んだら、天国にいけるという。
でも僕はそうは思わない。
死んだ人間はきっと誰かの心へ旅たつのだ。
思い出となって生き続けるのだ。
父と母がそうだったように僕らの心に宿るのだ。
けれど、それもやがて消えていく。
だから人は何かを残したいと願うのだ。
忘れてしまわないように。忘れないように。
僕はカメラを回し続ける。
フィルムに焼き付けたあの夏を。
その続きを。
すなわち「記憶の永続性への指向」と「忘却への徹底抗戦」だ。
体験すること。
体験したことを記憶しておくこと。
記憶したことを忘却しないこと。
『あの夏を待ってる』という作品は、そういった人の願いを具現化しようとしていたのかもしれない。