tikani_nemuru_M’s blog

社会常識としての日経「たわわ」問題(追記済

承前
 
国連女性機関(以降UN)と日経の件について、あまりにひどいことになっているので簡単にまとめておく。
 
 
UNは「アンステレオタイプアライアンス」という運動を行なっている。
これは男らしさ・女らしさなどの性別役割・性別イメージのステレオタイプ(型通りのきまりきった表現)を広告で使うのはもうやめよう、という趣旨の運動で国連機関の主導で行われている。
概要は以下の通り。
 
2017年にカンヌライオンズ 国際クリエイティビティ・フェスティバルにて発足したUnstereotype Alliance(アンステレオタイプアライアンス)は、UN Women(国連女性機関)が主導する、メディアと広告によってジェンダー平等を推進し有害なステレオタイプ固定観念)を撤廃するための世界的な取り組みです。アンステレオタイプアライアンス日本支部は、2020年5月に設立されました。
企業の広告活動がポジティブな変革を起こす力となり、社会から有害な(原文ではnegative 引用者注)ステレオタイプを撤廃することを目的とし、持続可能な開発目標(SDGs)、特にジェンダー平等と女性・女児のエンパワーメント(SDGs 5)の達成を目指します。
 
 
 
リンク先を見れば一目瞭然であるが、UNが行なっている「アンステレオタイプアライアンス」という運動において、日経は日本で唯一のfounding menber、つまり日本で唯一の創立メンバーである。
したがって、日経は「メディアと広告によってジェンダー平等を推進し有害なステレオタイプ固定観念)を撤廃する」運動において、非常に大きな役割と責任を果たすことをUNから期待されているといえる。逆に言えば日経側にとっては国連機関からSDGs推進に熱心な企業というお墨付きをもらうことにもなり、巨大なメリットのある話といえよう。
そして国連機関と日本を代表する新聞社の正式な提携であるから、当事者同士の約定や覚書も当然にあるだろう。
以上が前提である。
 

4月15日のハフィントンポストで、UN日本事務所長が日経に対し、「アンステレオタイプアライアンス」の「覚書」に違反していることを抗議しているという報道があった。
 
UN Women 本部は4月11日、日経新聞側に宛てた文書の中で、同社がUN Women とこれまでに交わした覚書などへの違反を指摘し、『月曜日のたわわ』の全面広告を「容認できない」として抗議した。
 
 
石川所長は、同社がUN Women と交わした覚書などに反したことを問題視。あくまでも、こうした規約違反への異議申し立てであり、「国連機関が一般の全ての民間企業の言動を監視し、制限するわけではありません」
 
 
学校制服を来た未成年の女性を過度に性的に描いた漫画の広告は「女子高生はこうあるべき」というステレオタイプの強化につながるとともに、あたかも男性が未成年の女性を性的に搾取することを奨励するかのような危険もはらみます。UN Women は、このような広告を掲載することに反対です。同社がUN Women と交わしてきた覚書などにも反しています。
 
 
 
記事内から「覚書」と関連する3箇所を引用した。
UNから日経への抗議は、日経とUNがこれまでに交わした覚書に違反しているから行われており、国際機関が全ての民間企業の言動を監視し制限するわけではない、つまり検閲ではないことが明言されている。当事者同士の約定の話なので、外圧でもない。
つまりUNの抗議は、日経側の約定違反に対してなされたものである。
 
 
ところが、冒頭にリンクしたはてブ欄であるが、4/16 23時ごろのトップブコメに上記のことを理解したものが、ただの1つもない。スクショを貼る。
 

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当事者同士の約定違反の話であるから、検閲でも外圧でもないのだが、検閲というのがトップブコメ、外圧が2番め。その他の☆上位ブコメも、当事者同士の約定違反という基本認識がされているとは思えないものばかりだ。
びっくりしている。
 
 
記事中には「覚書に違反」という表現が3度もでてきているのだが、まともに読んだとはとても思えないブコメに大量の☆がついている。自分と意見や立場の異なる見解に対して、理解することを完全に拒絶しているものが圧倒的な多数なのだ。
無論、ブコメ一覧を確認すると、UNと日経の約定の問題だという認識を示したブコメもいくつかあるし、それなりの☆もついているのだが、圧倒的多数はそうした冷静な事実認識を頭から拒絶しているのである。
くりかえしていうが、びっくりしている。
 
 

さて、UNに対して否定的な見解のなかに、この約定の問題を考慮しているものがある。これを検討する。
 
「誤解を招かないように申し上げますと、アンステレオタイプアライアンスは炎上する広告を作らないためのネガティブチェックをしているわけではありません。ポジティブで深みのある広告を検討するための視点として、3つのPを示しているのです。」
 
 
 
ネガティブチェックというのは「やってはいけないことの一覧」からのチェック、ポジティブチェックというのは「やることを推奨されることの一覧」からのチェックのことである。
ここでの石川氏の発言については、
このあたりが根拠と思われる。ジェンダーの多様性に配慮した広告のほうが効果が高いですよ、という調査結果があるようだ。(ちなみに、アンステレオアライアンスがネガティブチェックをしない、という旨の発言については、僕が確認した限りでは日本語圏ではここだけ、本部の英語ページでは確認できなかった。もちろん、僕の調査能力は貧弱なものなので、見つけた方は指摘していただけると幸甚です。)
 
さて、この部分(とリンク先の英文資料)を読んで理解できるのは
・アンステレオタイプアライアンスは広告に対して駄目なところをチェックをするのではなく、こうすると素敵だし効果的だよという提案をする
ということである。
 
 
ところがこの部分をこう読む人たちがいる。
 
 
ポジティブチェック(当てはまっていれば加点)のための指標として設定していたものを急にネガティブチェック(当てはまっていなければ減点)の指標として使いだすの、不適切だと思います。
 
 
 
これに現時点で☆70ついており、また、同様な主張もいくつか見かけた。支持されているようである。
これも驚きだ。
 
 
なぜなら、「ポジティブで深みのある広告を検討するための視点」の提示であってネガティブチェックではない、という石川氏の発言は広告に対する評価基準であって、加盟企業に対する評価基準ではないからだ。
 
そう断言できる理由はある。
 
以下に、アンステレオタイプアライアンスへの入会申込のページのスクショをはる。

f:id:tikani_nemuru_M:20220417031002p:plain

 
 
見ての通り、典型的なやったら駄目なことのリスト、つまりネガティブリストだ。
企業の行動に関して、ネガティブリストでチェックがあることは一目瞭然である。
 
 
つまりこういうことだ。
前提にネガティブリストがある。そしてそのネガティブリストをパスした企業が会員になる。そうした企業の広告に対しては、ネガティブチェックを行わず、ポジティブな提案をする、ということだ。
言い方を変えよう。
ネガティブチェックはすでに終わっている(はず)なので、あとはポジティブな提案でいいですよね、という話なのである。「私たちのところは性差別なんてやらないと宣誓した立派な企業の集まりですから、ネガティブチェックなんていりません」という話なのだ。
 
 
しかも、アンステレオタイプアライアンスにおいて、日経は日本で唯一の創立メンバーである。ただの参加企業とはわけが違う。それを指摘しているのが「覚書」という語なのである。石川氏のインタビューで、規約と覚書の使い分けがされているのに、注意深い読者は気づいているだろう。
一般参加企業よりもはるかに厳しい「ネガティブリスト」が日経に課されていると考えるのが当然である。
会員規約あるいは覚書というネガティブリストに基づき、UNは日経に約束違反だと抗議しているのだ。
 
 
よって、「ポジティブチェック(当てはまっていれば加点)のための指標として設定していたものを急にネガティブチェック(当てはまっていなければ減点)の指標として使いだすの、不適切だと思います」という発言、こうした考え方がまるで的はずれなものであると明白になった。
この部分についてはhepta-lambdaさんの発言に一定の正当性があると考え直した。
詳しくはコメント欄やりとり(hepta-lambdaさんのブログ記事リンクを含む)を参照。
以上、再追記 4/17 14:25ごろ)
 
UNを批判するトンデモ意見の主要なものを批判した。いずれもまるで論理の体をなしていない。
というか
僕がここで書いたことは、企業間(どころか個人間でも)の取り決めについての基本もいいところであろう。当事者間の約定の話を表現の自由の話にしちゃうのはなんなのだろう? 
 
メディアと広告によってジェンダー平等を推進し有害なステレオタイプ固定観念)を撤廃する」
と他でもない日経が自分でそう宣言した。ジェンダー平等のための立派な広告をやりますと誰に強制されたわけでもなく宣言したんだよ。
「おまえメディアと広告によってジェンダー平等を推進し有害なステレオタイプ固定観念)を撤廃するって自分から約束したよね。なに約束破ってるの?」と文句いったら表現の自由の侵害か?
 
 
ネガティブチェックがどうこうってのも、ほんとに社会常識がない。そもそもネガティブリストのない会員規約・加盟規約なんてもんがあるわけねえだろ? なんでそんなことがわかんないの? 石川氏はインタビューで何度も規約や覚書に言及してるんだよ?
 
 
この問題は、表現の自由の問題なんかじゃない。徹底して社会常識の問題である。
もっといえば、表現の自由の問題が背後にあると、いきなりバグって社会常識を完全に失ってしまう人たちがこんなにも多いのだ、という問題なのである。
 
 

以下追記

非常にカロリーの高い批判的ブコメにいくつかに応答しておこう。
 
「社会常識」とは素晴らしく保守的な発想ですね

 

これが 4/17 13時頃の時点で☆119
他にも「社会常識」に噛み付いているブコメが複数見られる。この文で僕が「社会常識」といっているのは以下のようなものである。
・批判するまえに相手の主張を理解する
・約束を守るのは当然(なのでこの問題は表現の自由ではない)
・当事者間の約束に関するやりとりは外圧ではない
・会員規約の類に「〜してはいけない、という約束(=ネガティブリストによるチェック)」は必ず含まれる
 
見ての通り、ここで僕が「社会常識」といっているのは、義務教育終了したなら身につけてなくてはならない程度の知識や読解力、さらには他者を批判する場合に何が必要なのかの理解のことだ。なのでそう読み替えてほしい。
その上でマジレスしておくと、
「批判する前に相手の主張を理解するとか約束を守るのは当然とかいうのは、保守ではなくて社会人なら誰でも守るべき最低限のことですよ。」
となる。
 
この文章に対する
「社会常識がなんだっていうんだ」というたぐいの批判は
「批判する前に相手の主張を理解しろとか、約束を守るのは当然とか、そんなことがなんだっていうんだ」
と読み替えていただきたい。実に味わいが深い。
 
 
「(ネガティヴチェックであることは)一目瞭然」ではないですね/「私が、私の中の社会常識に照らして一目瞭然だと思った」なら合っている/「あいつらは常識がない、私たちはある」は言説の正しさを保障しません

これが 4/17 13時頃の時点で☆108

 
「ネガティブチェック」の意味を理解していない。
たぶん、「ネガティブチェック」の意味がわからない人がいるだろうから、文中でも何度か説明をしているのだが、それでもやっぱりわかっていない。ネガティブチェックというのは「やってはいけないこと、これをやっていたら除外・排除される事項をチェックすること」という形式の問題で、中身の問題ではまったくない。「言説の正しさ」の問題ではそもそもない。
 
この手の批判にもなっていないものにうれしがって☆をつけているお歴々についても、読みも理解もせずに相手の主張を頭から否定しているのはやばい、という僕の主張が裏付けられたものと思う。
こちらが頼みもしないのに僕の主張を裏付けにきてくれてありがとう>トンデモブコメをつけた人とそれに☆をつけた人たち
 
 
以下に、特にひどくはないが、批判的ないしは疑問を呈した上位ブコメに応答する
 
契約の話であればハフィントンポストが報じてるのがおかしいんじゃないのって思うんだよね。UNWomenと日経の話のはずなのになんで主体がハフィントンポスト(日本)なんだよって。正直燃やしたいだけにしか見えない。
報道すると主体になってしまう、という論理が僕にはわからない。
また「〜したいだけにしか見えない」といわれても、他者の意図の問題は論証が不可能か非常に困難なので言及するつもりはない。
 
外部にはわからない二者間の取り決めで揉めている最中ならその規約、覚書違反の具体的な内容を示さずに抗議している事だけを公表し報道してしまうのは色々と問題がないかな。

覚書のなかに守秘義務がどう書かれているか次第。もし守秘義務が書かれていたら、日経はその旨の反論をすると思う。

 
『制服女子を性的に描いた漫画の広告は「女子高生はこうあるべき」という固定観念つながり、男性が女子を性的に搾取することを奨励するかのような危険をはらむ』 つながりません それだけの話
当事者間の意見相違の話において、第三者がどう思うかはここでは意味がない。それだけの話。
 
SDGsが現状ポジティブチェックなのは間違いないわけで、その理念を土台に設立された団体は当然ポジティブチェックで運営されるべき。校則/団体規約がより上位の法律を上回ることはないのと同じ。著者の論理は無理筋
現にネガティブリストにおけるふるい分けがなされている。
また、「〜してはならない」というチェック抜きに会員規約や加盟規約は成立しないと本文にも書いた。どのような社会や団体も、その運営にあたりネガティブリストによるチェックは必須である。例えば、刑法は典型的なネガティブリストだといえよう。
また
「校則/団体規約がより上位の法律を上回ることはない」は団体規約と法の関係を誤解している(たぶん、上位法優先の原則を誤解している)。これは就業規則労働基準法との関係が典型である。就業規則労働基準法の基準を「下回ってはならない」のであって、上回る分にはなんの問題もない。「法は最低の倫理」とよくいわれるわけで、多くの団体規約は法よりも高度な要求をするのが一般的である。

いつから「表現の自由」の問題と思っていた?

千葉県警が児童向けの交通啓発PR動画を作成し、抗議を受けて削除した問題。
表現の自由の侵害だ、などと言われているようである。しかしこの問題にはそもそも「表現の自由」などは関係ない。
その理由を説明する。
 
 

表現の自由とは国家に対する個人、公権力に対する私人の自由である。これは表現の自由における基本のキの字といえる。
 
 
発注者の千葉県警は公権力サイドそのものであり、私人の自由である表現の自由があるはずもない。今回は警察という公権力の典型であるからわかりやすいが、基本的に公的機関には表現の自由はないといえる。なぜなら公的機関とは法によってその存在根拠が示された機関であり、日本国憲法や国際条約に反する思想を持つことは許されない。法人には内心の自由もない。思想の自由も内心の自由もないから、それらを担保する表現の自由もない。
 
 
もちろん、発注者に表現の自由がないのだから発注者の代理である製作者にもない。
 
 

表現の分類の仕方はいくつかあるが、代表的なもののひとつに
 
■表現そのものを目的とした表現→美術、マンガ、文学などいわゆる広義のアート
■なにか別の目的のための手段としての表現→広告、啓発などいわゆるデザイン
 
という区分がある。

 

表現必然性を求めること自体がヤバくね?

 
 
中略
 
 
必然性ないだろ」が表現をやめさせる理由になると思ってる人は
 
全く根本的に、完璧に、箸にも棒にも引っ掛からない、超ド級の、馬鹿です。
 
 

 

 

増田のこの議論は、「表現そのものを目的とした表現」にはあてはまるかもしれない(芸術における表現論としても幼稚だと思うが、そこを突っ込むと話が拡散するので避けておく)。
しかし
広告表現においてはこの議論は問題外で、まさに「全く根本的に、完璧に、箸にも棒にも引っ掛からない、超ド級の、馬鹿」としかいいようがない。商業広告であれば商品の売上を伸ばす、企業のイメージ広告であればイメージをよくする、公共機関の啓発広告であれば啓発内容を訴求対象に的確に伝えるための「必然性」が求められる。
 
 
アタリマエのことだ。それが広告というものの存在理由なのだ。
 
 
シナリオが、構図が、キャラクターが、演出が、音楽が、その他いっさいの表現形式がその「必然性」に奉仕するのが広告なのである。広告案のプレゼンをするものは、その案のあらゆる要素に対してその「必然性」を説明できなくてはならない。
 
 
そこには、増田や彼に賛同するお歴々のいっている意味での表現の自由、いわば「自己表現としての表現の自由」なんて最初から関係ない。
 

以上、
1では、国家に対する個人の自由である表現の自由は警察などの公的機関にはなく、その代理人である製作者にもないこと
2では、そもそも広告表現には「自己表現としての表現の自由」など存在しないことの2点を簡単に説明した。
 
 
公的機関の広告に関して、表現の自由を持ち出すことは二重に間違っている。
 
 
ここで注意すべきことがある。
これまで何度か「表現規制問題」と捉えられて炎上してきた問題の多くが、実は公的機関か公的機関に準ずる組織の行った公共広告に関することであった。
つまり、本質的に表現の自由に関係のないことを、表現の自由の問題だと思い違いをしてきたのではなかろうか?
 
 
 
論点をだいぶしぼったので、とりこぼしている論点がいくつかある。
気が向いたらそのあたりを書くかもしれない。

宇崎ちゃん献血ポスターは失敗。しかし撤去してはならない。

タイトルを少し変えたが、前回記事の後編である。
 
前回記事の反応をみて、血液という公共財の特殊性から丁寧に説明する必要を感じた。長くなるが、まず血液という財の特殊性から説明し、このような特殊なものを取り扱う広告で何が求められ何をしてはならないかを論じることにする。それによって「宇崎ちゃんは遊びたい」献血ポスターの失敗を明らかにする。
 

そもそも
血液の供給を増やしたければどんなキャンペーンより確実な方法がある。それは血液の売買を認めることである。売血を認めれば、間違いなく血液の供給が増えることは、誰しも直感的に理解できるだろう。だがWHOによっても採択された国際輸血学会の倫理綱領(PDF注意)にもあるとおり、売血が不適切であることは国際的に合意されているといって良い。なぜだろうか?
 
血液という公共財産の特徴を列挙してその理由を考えてみよう。
1,血液は輸血用製剤として、あるいは血液を原料とする様々な薬剤の原料として医療に不可欠
2,血液は人工的に合成することができず、人体より供給されるしかない
3,血液は保存期間が短く、安定して長期にわたり常に供給され続けなければならない
4,血液を提供する際には、痛みや不快感など(個人によって感じ方の程度は様々だが)をともなう
 
ここまではだいたいみんなわかっている話だ。
そして、ここまでで話が終わるのなら、血液の売買で解決できるのである。
まあ、売血を採用する場合は、貧しいもののみが血を売るという意味で倫理的な問題はあり、それはそれで重要なのだが、それだけで売血がダメとされているのではない。
ではさらに血液という公共財の特徴を述べていこう。
 
5,輸血あるいは血液を原料とした薬剤の使用によって、さまざまな感染症のリスクがある
6,血液の検査あるいは処理により、ある程度は感染症の病原体を取り除くことはできるが、その全てに対応することは現実的に不可能
7,したがって、血液の提供者は十分に健康でなければならない。また、病歴・渡航歴・性体験の状況・服薬状況・現在の体調などなどを問診時に正直に申告してもらう必要がある
8,血液を原料にした薬剤(血漿分画製剤)は多数の提供者の血液を混ぜて作るので、ひとつでも問題のある血液が混じると数千数万人分の薬剤が「汚染」される
 
つまり、生体由来の資源である血液には利用にあたってのリスクがともなうということである。いわば血液には「質」があり、血液の「質」の管理が極めて重要なのだ。
 

売血がダメとされている理由はこの、血液には質が大切だという点にある。
 
血を売って利益を得たい人は、問診を誤魔化すことが利益になるのだ。金が欲しいのだから、嘘をつくことにメリットがあるということになる。結果的に、血液が汚染される可能性が高まる。つまり血液の「質」が下がることになる。
また、そもそも貧困者は健康状態が良好でない者が多く、感染症罹患率も高いということも常識の範囲だろう。相対的に血液の質が悪く、しかも問診で嘘をつくことにメリットが大きい集団から集中的に血液を集めるのが売血という仕組みなのだ。
 
そして、万が一汚染された血液が混ざった薬剤が作られた場合、その被害は甚大なものとなる。まず思い出されるのは薬害エイズ事件である。あの事件はアメリカ(売血が認められている)から輸入された血液をもとに作られた薬剤が原因である。また、2019年においても、現状では売血が認められている中国(献血のみに切り替えることを決めているが、簡単ではないだろう)で1万2千本の血液製剤がHIVウィルスに汚染されたという報道もなされている。
 
つまり、血液事業においては、血液の「量」だけでなく、「質」の確保も患者の生命と健康を守るためには必須だということとなる。量と質の両者を同時に満足させることは困難である。困難ではあるが、それが赤十字のミッションといえる。
 
「量」を重視するなら売血、「質」を確保するなら献血がよい方法だ。
ただ、薬害エイズ問題に見られるように、血液製剤の汚染による事故は事件そのものが重大な人権侵害というだけでなく、深刻な医療不審、行政不審につながって社会のダメージが非常に大きいこと。また、先ほども触れたが、売血の場合は血液の供給を貧困層に依存するという社会倫理の問題も大きく、売血という方法を採用するわけにはいかないのであろう。売血の問題点や血液事業の沿革について興味のある方には、大阪府赤十字血液センターの記事をおすすめしておく。
 

金銭的インセンティブの導入は血の「質」を劣化させるものであることは、理論上も経験上も明らかである。ところが、問題は金銭的インセンティブだけではない。
献血時にHIVウィルスの検査結果を献血者に告知する制度を導入後、エイズ抗体陽性の献血者が4倍以上に増えたというデータがある。自分がエイズに感染したと疑う者が検査目的で献血したことは明らかだろう。明らかに血液の「質」が低下したのである。
 
経済学者ケネス・アローは、血液という財の特殊性を「情報の非対称性」という経済学理論によって説明している。情報の非対称性とは、提供される財やサービスの財の品質について提供する側とされる側に情報量の違いがあり、情報を多く持っている側は情報弱者をだまくらかすことが簡単にできるということである。
情報の非対称性を持つ財は珍しくはない。財としては中古車、サービスとしては医療あたりが典型だろう。個人は問題のある中古車(事故車とか)をつかまされやすいし、ニセ医療にひっかかりやすい。情報を多く持っている騙す側は業者や専門家であることが多く、騙されるのは個人なのだ。
 
ところが、こと血液に関しては情報を握っていて簡単に騙す側にたてる情報強者は血を提供する個人で、騙される情弱は専門家や組織なのだ。情報の非対称性において優位なのが個々人であり、しかも社会的に必要不可欠という財は他にないのではなかろうか?
 
情報の非対称性の解消はもともと困難なうえに、優位な方は個々人であるのだからもう手のつけようがない。提供される血液の質について、嘘とごまかしがまかり通ることになる。献血時の問診において、嘘をつくことにメリットがあれば嘘がまかりとおるのだ。
だから、ほとんどありとあらゆるインセンティブの導入が、血液の「質」の低下につながってしまう。血液は非常に特殊で厄介な財なのだ。
 
グッズ頼みの献血コラボキャンペーンにも当然に同種の問題がある。例えばコミケ会場での献血は参加者割合も実に大きく、血液が多量に必要な年末などで血液の供給源として大きな貢献をしている。実にありがたいことである。
しかし、限定グッズをインセンティブとした、しかも祝祭的な空間における献血に問題がないわけではない。お祭り空間で限定グッズとなると、多少の体調の悪さには目をつぶり、あるいは高揚感で体調の悪さなど吹き飛んでしまい、体調が十分でないまま献血をするケースが多発すると思われるからだ。これは血液の質を下げるだけでなく、献血者にとっても危険な行為といえる。
また、グッズの換金性も問題。メルカリやヤフオクで検索すれば、献血グッズが取引されているのを見ることができる。
 
血液の供給を考えれば、グッズ頼みの献血コラボキャンペーンを一切やめろというつもりはないし、コラボされる作品によっては啓蒙教育活動にもつながる。もちろん献血者ひとりひとりに対しては感謝なのであるが、こうしたキャンペーンを手放しで賞賛もできないのである。献血者が増えれば成功、という単純な話ではない。
 

ここで、血液という公共の資源のもっとも大きな特徴がはっきりとする。
その特徴とは、さきほども述べたとおり、ほとんどありとあらゆるインセンティブの導入が、問診で嘘をつくことにメリットを生じさせてしまい、結果として血液の質を下げる方向に働くということだ。
しかし、血液の質を下げないインセンティブが実はたったひとつ存在すると経済学者ケネス・アローは言っているようだ。それは何か?
 
・なんの見返りも求めない利他的行動によって得られる心理的満足感
 
なんとこれなんですよ!
苦しんでいる他者を助けることで満足したいというのが動機なのだから、問診で嘘ついて血液の質を下げることにメリットがないわけ。
 
いやね、これってすごいことだと思いませんか? ご同輩の皆さま。
血液というものは、現代社会において必要不可欠な資源でありながら、その質を保つためには純粋な利他心をただひとつのインセンティブとすることがベストな資源なんだということが、その特殊な性質から導かれるわけです。
社会を成り立たせる基盤にある特定の資源の質を保つために「利他心に頼るしかない」とか言われたら、これは普通はただの馬鹿だと思うでしょ? 高品質の資源を獲得するためには社会の仕組みを整えてインセンティブで誘導するのが当たり前です、普通は。
ところが血液についてはインセンティブ導入がのきなみ質の劣化に向かっちゃう。市場メカニズムでは必然的に劣化しちゃう。見返りを求めない利他心に頼るしかない。見返りを求めない利他心って、純粋な善意であり、公徳心であり、ノブレスオブリージュであり、もっといえばモースのいう純粋贈与であり、孔子がのたまわるところの仁であり、ゴータマの説く慈悲であり、ナザレのイエスが諭す愛なわけ。
利他心だの公徳心だの慈悲だの愛だのといった類いの価値に、実のところ現代社会は大きく依存しているということをロジックとして示しちゃっている「物質」が血液というわけで、もう個人的には面白くて面白くて踊っちゃうくらいです。
 
利他心がどうこうと字面を見るだけでしらける人たちも一定数いると思うけれど、それは中二病というものだ。個体識別できる程度の知能をもち、ある程度固定された集団で暮らす動物には互恵的利他性が発達することは進化心理学において常識とされる話であり、人間を含む多くの動物に生得的に利他的行動をする性向がそなわっていることは理論上も実験観察上も科学的に確かめられている。
そして、見返りのない献血という行為で、現実に血液事業が運営されているのだ。献血をしたことのある人なら、あの独特な気分の良さというのはわかるでしょう。あれは気分がいいです。「今日は俺、ウナギ食ってもいいんじゃないの?」と思っちゃうくらい気分がいい。利他心は現実に機能しているのだ。
ただ、現代社会という巨大で複雑な機構においては、利他心というのをシステムのベースに組み込むことは難しい。むしろ利己心をベースにしてインセンティブ誘導によって資源の適切な配分を行う市場システムのほうがよいことが多い。僕も市場は高く評価してます。好きと言っていい。だからこそ、非市場的どころか反市場的とさえいえる献血というシステムが、現代社会の基盤のひとつであることに興奮が隠せません。
 

さて、ここでやっと折り返し点。
血液という財は非常に特殊で、社会が存続する限り長期にわたって常に供給されなければならず、誰にとっても潜在的に必要だが特に健康に問題のある人の生命に直結し、提供者には健康と誠実さが要求され、市場による(=インセンティブ導入による)調達では質が劣化して大惨事につながりかねず、質を保つためには純然たる利他心に頼らざるを得ない。
 
この極めて特殊で公共的な財を独占的に取り扱うことを国家によって認められているのが日本赤十字だ。日赤の広告が気に食わないからといって、献血者は他の献血先をもつことができない。ほかの選択肢がないのだ。
 
血液と赤十字のこの特殊性が広告戦略に反映されるべきなのはアタリマエである。
 
以下に、血液事業において求められる広告のあり方と、やってはいけないことを考えていこう。
 

まず、日赤は血液事業を独占しているということがなにより重要だ。
献血者にとって他の選択肢がない以上、献血の意思と能力のある人すべてを公平に取り扱わなくてはならない。「私たちもがんばって広告を作ってるんです。気に食わないなら来なくていいですよ」ということは許されない。
 

そして、利他性を尊重する必要がある。血液の質を保つというミッションがあるから売血でなく献血を採用しなければならない。ならば利他性を頼らなければならない。利他性の発露を何よりも必要とする事業が利他性を尊重するのは当然のことだ。
では、利他性を尊重するために必要とされるのは何か? 公平と中立という前記事でも触れた赤十字の原則は、利他性の尊重と促進のためには実際に必要なものだ。ただの建前などではない。
 
そもそも国籍や所属を問わずに戦場での負傷者の手当てを行う赤十字のミッションを遂行するためには、中立で公平であることが絶対的に求められる。例えば、目の前に苦しんでいる負傷者が多数いて、一方の側の軍が医療資源の提供の見返りに軍事行動への協力を要請したとしよう。ここで浅はかなリアリズムをきどって片方の軍に肩入れなどを行ったら、以降は医療と人道を隠蓑にした軍事行動をあらゆる軍から疑われ、攻撃の対象にすらなりえる。目の前の負傷者を助ける代償が、赤十字の機能崩壊であり、将来的に助けた数の何千何万倍以上の者が苦しんで死ぬことになろう。
中立・公平の原則を道徳的なタテマエと軽視しリアリストを気取る者こそが、どうしようもない近視眼的なお花畑であり、ぶっちゃけ人殺しなのだ。赤十字は公平で中立であることしか許されていない。一切の党派性をもちこむことは許されない。それこそがリアリズムなのだ。
 
話を献血事業にもどす。
血液事業においても、中立と公平が重要である。けっしてやってはならないことは、献血という行為に分断と争いを持ち込むことだ。分断と争いが持ち込まれたところで、人が利他的であることは難しい。
 
すべての人のためになり、利他心に頼らざるを得ない献血という行為に分断と争いを持ち込んだのが宇崎ちゃんポスターであることに反論できる者はいないだろう。この問題を論じたあらゆる記事につけられたコメント欄で、対立と分断の大火災だ。
 
人が対立することは避けられない。価値観が多様である以上、それは仕方がない。しかし、対立が持ち込まれてはならないモノってのはあるんだよ。議論のアリーナで手斧なげあってヒートアップしても、ネットから離れたら献血に行って人の役にたって気分よくなろうよ。
でもいま、対立する双方が気分よく献血できる状況になっているかい?
 
女性の身体の性的な記号化というのは、現代社会においてもっとも政治的な対立の激しいトピックのひとつである。広告のプロがこれを知らないことはありえないし許されない。そして赤十字は自らの使命を果たすために、中立・公平でなければならず、利他心を尊重しなければならない。献血は誰を排除してもならないし、誰のものであってもならない。
 
あのポスターが掲示されている限り、あれに不快感を感じる人は、献血という利他的行動に不快感をともなうか、利他的行動そのものをあきらめるかである。利他心を尊重しなければならない赤十字が、利他行動に不快感を与えたり、利他行動をあきらめさせるようなことをしてよいのだろうか?
しかも赤十字献血事業を独占している。赤十字が嫌だからといって他の組織を選ぶことはできない。政治的に対立が明らかな地雷が持ち込まれて、「我慢しろ」と利他行動と不快感をパックにされたり、「嫌ならくるな」と利他行動をあきらめることの二択が強いられる。なんでこんな目に合わなければならない?
 

仮に宇崎ちゃんポスターが撤去されたとしよう。
今度はあのポスターを擁護していた側が収まりがつかないだろう。一度与えられ、そして奪われるのは激しい怒りを呼ぶ、人を本当に傷つける。「献血からオタクが排除されている」と感じても仕方がない。献血などにもう協力するものか、と思って当然だ。
だから僕はあのポスターを撤去することやキャンペーンの中止には反対する。
 
献血に敵味方はない。オタクもとても大事だ。オタクも気分よく献血できるべきだ。他のことで対立していても、献血についてはお互いの気持ちを尊重し、互いに感謝すべきだ。
他人のために血を流すということはとても象徴的で、強い大きい意味がある。他人のために血を流す人というのは、もっとも尊敬され信頼される人である。だから、意見の相違があり、悪口をいいあったとしても、「彼らも私たちも献血をした。彼らと私たちは確かに対立しているが、彼らも私たちと同じように、見も知らぬ他人のために自分の血を提供できる、他人のために血を流すことのできる人たちなのだ」と思えれば、分断も対立も乗り越えられる可能性がある。対立する双方に利他心があることが可視化される献血は、社会の統合にも役に立つかもしれない。
そのような広告を心から望んでいる。
 
宇崎ちゃんポスターを掲示し続けても、撤去しても、どちらでも献血が特定の誰かのものになってしまう。この犯罪的に愚かなコラボで持ち込まれた分断と対立の傷は癒されない。詰んでいるのだ。献血はすべての人のために、すべての健康な人が贈る贈り物、という利他的な理念が深く傷つけられてしまった。献血の啓蒙活動において絶対になされてはいけないことが起きてしまったのである。
 
以上が、「宇崎ちゃんは遊びたい」ポスターが失敗であると考える理由の最大のものである。
だがこれだけではない。まだいくつかある。
 

献血者が減っているのは、若年層の減少によるところが大きい。健康状態のよいものしか献血できないのだから、それも当然である。したがって、少子高齢化がすすむほど血液が不足していくと見込まれる。
だから、将来的に献血をする者の割合が増えてもらわないと困ったことになる。赤十字もそれは理解していて、子供向けの献血教育を行ったり、献血ルームにキッズスペースを作って若い親子の勧誘に努めている。いまは元気な人たちが歳をとって健康状態が悪化したときに血液を提供してくれるのは、いまの子供やこれから生まれる赤ん坊たちだ。若い親子はとっても大事。小さな子供を連れた家族が献血に来て、快適な献血ルームでお父さんお母さんが献血を行い、その意義を子供に説いてくれるほど心強いことはない。いいことだから子供に刷り込むんだ!
 
でもさー、そこに若いお母さんから「子供には見せられない」と評されるポスターって貼っちゃってええの? 子供に影響力あるのはお母さんだよ。いあ、お父さんにしてもだ、自分は楽しんでいても子供には見せたくないコンテンツっていくらでもあるわけです。自分で楽しんでいるエロ漫画も、ちっちゃい子供には見せられないよな。
その意味でも、献血ルームには性的と捉えうるような掲示物なんかはできるだけ避けるべきだといえる。そこは敏感でないといけない。
 
明らかに献血教育の足を引っ張っているわけで、この意味でもこのキャンペーンは失敗です。
 

10

グッズというインセンティブ頼みのキャンペーンに僕は批判的だけれども、漫画やアニメとのコラボそのものは条件次第でとても有益だと考えている。ここ最近は献血キャンペーンにアニメや漫画がコラボされていることが多いわけだが、コラボされた作品そのものが献血事業と関係があるものであれば、その作品を通じて献血への理解も深まるだろう。
体の仕組みとか血液の価値とか、そういうものを表現している作品、医療系の作品や、吸血鬼がでてくる作品なんかはコラボの効果が高いと思う。先程述べた子供への献血教育という意味でも望ましいくらいで、こういう場合はグッズを分けてもいいのではないか?
 
だけど「宇崎ちゃん〜」ってなんの関係もないでしょ? 関連がないから教育効果もなく、ただグッズを分けるだけのキャンペーン、つまり一時的に供給量は増やすかもしれないけれど、血液の質を下げる方向性のキャンペーン、ようするにマイルドな売血ですね。これ、胸を張って成功といえるようなものですか?
 

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センパイ!まだ献血未経験なんスか?ひょっとして……注射が怖いんスか?
宇崎ちゃんポスターのセリフがこれである。これもいろいろひどい。
注射はセックスの比喩としてエロ小説やシモネタでよく使われることはみなさまご存知であろう。つまりこのセリフは性交未経験であることへのからかいであり、童貞いじりである。赤十字献血促進キャンペーンで童貞いじりしていいんかよ、ということや、このセリフを見て「子供には見せられない」という若い親の判断が確固としたものになるとか、そのあたりももちろんある。
 
しかし、献血未経験者、あるいは献血できない人に対するからかいってのはもっとまずいだろう。
私事であるが、10年近くまえ、近場の献血ルームにいって献血しようとした際、血液検査の結果から断られたことがある。肝臓系の数値がおかしい場合は肝炎の疑いがあるので献血ができない。当時はいまよりだいぶ太っていたので、たぶん脂肪肝だったのだろうと思う。多少落胆した。
運動習慣をつけたことで献血ができる身体になり、利他行動の喜びを享受できるようになったいまの僕であるが、当時「注射怖いんか?」とかいうポスターが掲示されていたら、「なんで善意で血を提供にきて、検査のすえに断られてこんなこと言われにゃならんのだ!」ブチ切れたかもしれないし、いま献血しているかどうかわからぬ。
 
献血は利他行動であると同時に、運のよい健康強者の特権であるともいえる。身体が十分に健康で、渡航歴や性体験などが特定の条件にあてはまった者のみに可能な行為だ。こうした行為の価値を高く評価するのなら、やりたくてもできない人をからかうのはダメだってわかるでしょ? 状況と健康に恵まれた人たちから、すべての人たち、特に健康状態の悪い人たちへの贈り物が献血であるのに、たまたま献血できない人を馬鹿にしてどうすんだよ。注射が怖い、血を抜かれるのが怖い、だって立派な理由だよ。怖いとか嫌だということの感じ方の差って、本当に人それぞれだ。
この意味からも、このポスターはあかんわ。
 

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というわけで
政治的分断を絶対に持ち込んではならない献血に分断と対立を持ち込み、赤十字に必要不可欠な中立と公平という価値をないがしろにし、将来のための献血教育を促進するどころか足をひっぱり、一時的に献血を増やしたとしても血液の質を落とす方向性のあるマイルドな売血であり、献血未経験者・献血ができない人へのからかいまでやらかしたこのキャンペーンは、やってはいけないことをコトコト煮詰めてできた安易で無神経で身勝手などうしようもない失敗の見本であり、ポスター撤去・キャンペーン中止すらかえって献血の価値につけられた傷を深くするという、クソの中のウンコとでもいうべき犯罪的な愚行です。
徹底的に批判しなきゃいかんです。こんなの通すなんて、赤十字は脳が煮崩れてるんと違うか?
 

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そしてお願いがある。
僕自身はフェミに近い立場なので、自分の立場に近いフェミニストやあのポスターを不快と思う人達にお願いする。
ポスター撤去、キャンペーン中止は、フェミニズムの党派的な勝利ではあっても、あのポスターによって献血に持ち込まれた対立を固定してしまうものであり、それは献血の理念の敗北である。つまりは利他性の敗北である。僕はあなたたちが正しいと確信しているが、だからこそ撤去は求めないでほしい。献血において、すべての人の気持が尊重されなければならず、僕たちはオタクの気持ちを尊重しなければならない。いったん与えられたものを取り上げようとしないでほしい。
しかし、不快なものは不快だと、失敗は失敗であると声をあげることはなんの問題もない。献血事業を大切に思うのなら、厳しく赤十字を批判すべきだ。こんな愚かなことは、二度とやらせてはダメだ。
 
反フェミの人たちがどうすべきかについては、まあ自分たちで考えてくれ。献血はオタクを排除してはならないが、オタクだけのものであってもならないことだけは理解しておいてくれ。
 
最後にすべての献血できるひと、献血に興味をもったひとへ
行ける人は献血行こうな! 特に年末は貢献度がでかいぞ。気分いいぞ。

宇崎ちゃん献血ポスターはなぜ「失敗」なのか(前

「宇崎ちゃんは遊びたい」献血ポスターは表現の自由の観点から論じられるべきではない。公共広告として成功なのか失敗なのかの観点で考えられるべきである。そして、この観点からはこのポスターは完全に失敗である。
以下に、なぜこの問題が表現の自由の観点から論じられるべきではないのかを今回、なぜ公共広告として失敗なのかを次回に述べる。
 
 

リンク先は丁寧な論考であり、ブクマも多く、おおむね好意的に評価されているようである。僕も全体的な論旨に賛成する。良い論考であるので、紙屋の助けを借りながらすすめよう。
 
 
 
「公の場の表現だからいけない」という意見について。
 市民の批判を受けて、大勢の人がよく見るような表現(駅のポスターなど)を撤去することはある。しかし、それはあくまで作家や民間団体の自主的な判断に過ぎない。作家や民間団体は表現の自由を行使して、表現を公表し続ける権利はある。表現の自由はそれくらい重いものだ。政治的な不公正があったからという程度の理由で当然に撤去されるべきものだと批判する側が考えるのは、根拠がない。
 
 ちなみに、公的団体のポスターについてはどうか。
 
 赤十字は「日本赤十字社は国の関連機関ではなく、あくまでも独立した民間の団体」である。なので、当然それは表現の自由の行使の主体となる(出版社や政治団体表現の自由の保護を受けるのは当たり前であるように)。
 
 

 

非常に丁寧な紙屋の論考の中で、この部分は粗雑である。
赤十字は確かに国の関連機関ではない。だが単純な民間団体であるともいえない。公権力と民間とは白か黒か、0か1かの1ビットで切り分けられるものではない。例えば自治体が運営していた水道事業を民営化したとして、その水道事業はただちに公共性を失うものであろうか? そんなはずはない。無論、水道事業が民営化されたことで、ある程度はその事業運営に独立性はでてくるだろうから、完全に公的のみの存在ともいえない。しかし、色濃く公共性は残していなければならないのもまた確かなことである。公共インフラにかかわる事業には、公共性が求められ続けるのである。
公共性とは白か黒か、0か1ではない。公と私の間にはグラデーションがあるのだ。公共性とは程度であり濃度をもつものなのである。
 
紙屋がリンクした日本赤十字社「よくある質問」にあるように、確かに日本赤十字社は民間団体ではあるものの、「日本赤十字社法(昭和27年8月14日法律第305号)という法律に基づいて設置された認可法人」「赤十字事業の公共性と国際性とに鑑み制定されたものであり、日本赤十字社が世界各国の赤十字社と協力して、世界の平和と人類の福祉に貢献できるよう努めなければならないと規定」「災害救助法の定めるところにより、行政が行う非常災害時の救護業務に従事するなど国、地方公共団体に協力して、その補完的役割を果たすべき分野を幅広くもっている団体」「日本赤十字社の業務が地方公共団体の行政目的、すなわち住民及び滞在者の安全と健康及び福祉の保持、あるいは防災、罹災者の救護等の面で密接な関係にある」
法に規定され、安全・健康・公衆衛生・福祉の保持・防災・罹災者の救護を目的とした組織を単純に民間のカテゴリーにいれて、一般的な意味での「表現の自由」を認めてよいものであろうか?
 
赤十字は戦時における負傷者の手当などをするために組織されたというのがその起源だ。国際条約においても赤十字を攻撃することは禁じられている。特定の国家に属してしまうと、国籍や所属に関係なく負傷者を救済するという赤十字の活動に支障をきたすことになる。赤十字が民間団体であるというのはそういう理由があってのことであり、その公的な性格は考えようによっては国家以上のものである。国家という枠組みが邪魔になるくらい公的な使命をもった機関なのである。
 
1のまとめ
・民間に属していても、公的な性格を持つ組織はありえる。公共インフラを担う組織は公的な性格が強い。赤十字社は、考えようによっては国家以上に公的な組織である。
 
 

紙屋はその論考で、憲法学者志田陽子の以下の記述を引用している。
 
 
 この「表現の自由」は、一般人に保障される自由である。「公」はこれを保障するための仕事をする側に立っている。……その一環として、自治体が「自然豊かな郷土」とか「非核都市宣言」とか「ヘイトスピーチは許さない」など、その自治体の価値観や政策方針を打ち出し、これを告知するための表現活動をおこなうこともできる。これを広めるために自治体の長がみずから発言することもできる。これは行政サービスの一環としておこなわれることであって、一般人と同じ「表現の自由」によるものではない。
 憲法の言葉で言えば、「公」は憲法尊重擁護義務のもとに、「自由」ではなく職務を進めるための「責任」として、さまざまな説明や啓発をおこなっている。公人が公人の立場において発言をするときには、この仕事の一環として発言をしていることになる。
 とくに公人が、正当な権利を行使している人を指してその行為の価値を貶める発言をしたり、排斥的な発言をすることは、人権擁護のための責任(憲法尊重擁護義務)を負う公職として、慎むべき事柄である。
 
 
(志田「芸術の自由と行政の中立」

 

 
なるほど赤十字憲法には直接には拘束されないだろう(日本赤十字社法は日本国の法律であるから、憲法の理念に反することは許されないとはいえる)。しかし、赤十字にも憲法と言えるものはある。赤十字基本7原則である。
志田の言を使わせてもらうと、以下のようになろう。
 
赤十字赤十字基本7原則を尊重する義務のもとに、「自由」ではなく職務を進めるための「責任」として、さまざまな説明や啓発をおこなっている。」「赤十字はその価値観や政策方針を打ち出し、これを告知するための表現活動をおこなうこともできるが、これは赤十字の使命を果たすために行われることであって、一般人と同じ「表現の自由」によるものではない。」
 
 
ではその赤十字基本7原則とは何か? 詳しくはリンク先を確認してもらうとして、単語のみをあげておくと、
人道・公平・中立・独立・奉仕・単一・世界性 の7つである。
赤十字の「表現活動」はこれらの価値に抵触するものであってはならない。これらの価値に抵触する表現をする「自由」は赤十字にはないのだ。
 
 
引用された志田の記述の中にある「この「表現の自由」は、一般人に保障される自由である」とはどういうことなのか?
それは、一般人はいかなる価値にも拘束されないということだ。僕もあなたも、憲法個人主義の理念や赤十字基本7原則の人道公平中立を強制されるいわれなどない。他者に危害を加えない限りにおいて、どんなに愚かで下卑たことを考えてもいいし(=内心の自由)、それを外部に表現してもいい(=表現の自由)、ということだ。私的な自由や権利は愚行権を含むといえる。馬鹿でもお下劣でも仕方ないよ、にんげんだもの
しかし
赤十字は「人道・公平・中立・・・」に反してはならない。日本赤十字社には価値観の自由とその表現という意味での「表現の自由」など最初からありはしない。
 
 
2のまとめ
赤十字には一般人に保障される意味での「表現の自由」はなく、「人道・公平・中立・独立・奉仕・単一・世界性」という原則を守って説明や啓発をしなくてはならない。
 
 

以上、紙屋の論考の助けをかりて、「宇崎ちゃんは遊びたい」献血ポスターを論じるにあたって、表現の自由という論点を持ち出すことが無意味であることを論証した。そしてまた、紙屋の論考を好意的に読んだ諸賢には、このポスターが「赤十字の説明や啓発として」問題があると理解されたと思う。
なぜなら、紙屋の論考においては、このポスターは「政治的公正に欠ける」と認識されているからだ。つまり、政治的公正に欠ける表現は、赤十字基本7原則のうち「人道・公平・中立」に反してしまうのである。赤十字の「説明や啓発」としては明らかに失敗なのだ。
 
この件に限ったことではない。公的機関あるいは公的性格の強い組織が、志田のいう「職務を進めるための「責任」として、さまざまな説明や啓発」を行う場合、それを「表現の自由」を論点にして批判したり擁護したりすることは的外れなのである。
論ずるべきは、その「説明や啓発」が「職務」遂行のためになるかどうかなのである。
 
 
しかし、政治的公正、ポリティカル・コレクトそのものに懐疑的な人々にはこれでもまだ届かないだろう。
次回はポリコレに懐疑的な人々にも、このポスターが失敗であることがわかるような説明を試みつつ、さらに、赤十字の広告としてだけでなく公共広告としてこのポスターが失敗であることを論証する予定だ。一週間以内にあげる。

労働者が与党をあてにできないリアリズム

前回記事(なぜ労組は政治活動をしなくてはならないのか(追記アリ - tikani_nemuru_M’s blog)の追記のとおり、ブクマコメなどに応答する。なんか長くなりそうなので数回にわけることになる。
「なぜ労組は護憲だの平和だのをやるのか」について前回の説明は確かに少々不親切なものであったのでそのあたりを掘り下げたいのだが、今回はその前提となるところを述べることになる。
 
 

前回記事への反応でもっとも多かったのは、
 
基本的本質的な部分はわかってるので「何故優先順位や力をかける熱量が我々の求めるものと違うのか」このあたりで労働者たちの信用を得られていないことが今の労組の問題点じゃないのかな?

 

 
に代表される「労組に政治活動が必要なのはわかってるんだよ。ただ、リソース配分がおかしいだろ」というものであった。
これは当然の反応だ。僕も前回結論部で書いたとおり、僕自身も平和活動や護憲運動については必要性は認めているが、冷淡に接している。なんでこういうリソース配分になっちゃっているのか、という話をこれから数回かけて考えていくつもり。
 
 
ただ、「基本的本質的な部分はわかってる」というのは道理のわかる人にとってはその通りではあろう。しかし労組の政治活動について頭ごなしに否定するブクマもいくつか見られたのも確かだ。労組の政治活動の必要性を説明することに明らかに重点をおいた前回記事に対して、すり替えだのごまかしだのとわめきちらすだけのブクマも一定数見られた。無論、労組の政治活動の重要性を否定するなんらの具体的な論拠をともなったものは700を超えるブクマのなかにただのひとつもなかった(あるわけないのだが)。
「労組の政治活動の必要性自体を否定するものはいない」というブコメもちらほらあるが、現にそれがどうしてもわからない、あるいはわかりたくない馬鹿はブクマで可視化されているし、決して例外の存在ではない。基本的な道理を前提を確認する必要があったことをまず再確認しておく。労組の政治活動は必須だ。
 
 
また、現状の労組に大いに問題があることと、政治活動が絶対的に必要であることはもちろん両立する。ここがわかってなさそうなブコメもちらほらあった。
 
 

で、ここでまず応答するのは
 
他の人も書いてるけどまじで政治活動が必要だっていうならもっと与党と丹念に調整をして実利を引っ張ってこいよ。政治とは利害調整だぞ。反与党で吹き上がるだけの政治活動なんてむしろ労働者の足引っ張ってるだろ。
 
労働法改正が狙いなら与党にロビイングしたほうが効率良くない?

 

 
あたりに代表される意見だ。前回記事へのブログへのコメントにも同趣旨のものがあった。
 
 
こうした意見は政治的なリアリズムをもとにしたもののように一見思えるのだが、実際はその逆であることを説明しよう。ほぼ3ステップで事足りる話である。
 
 
1)政党政治における政党というのは、ぶっちゃけ支持基盤の利益代表である
2)自民党は基本的に資本家(財界や自営業者など)の利益を代表する政党である 
3)資本主義社会において、資本家(経営側)と労働者は構造的に利害が対立する
 
 
いいですかい?
自民党には財界という昔からなかよくツーカーで仲良しこよしの関係をきずいてきた、しかもふっとーいパトロンがいるんですよ。
もちろん、政治家や政党なんてものは貪欲なものだから、援助してくれるなら拒まないし美味しい汁は吸いたいだろう。
しかしね、財界と労働者ってのは構造的に利益が対立しているわけで、労働者のいうことを本気で聞いたらぶっといパトロンの財界側を怒らせることになるなんて当たり前もいいところ。自民党が労働者の利益のために本気で動くなんて妄想は、お花畑の極限超えですよ。
それとも労働界と財界で与党に貢ぎ合戦をするの? 資金力だけで考えても勝ち目がないうえ、自民のセンセイがたの多くは労働運動なんて生理的に好かないお歴々ですよ。
 
 
もちろん、資本家といっても様々でその権益構造も複雑であり一枚岩ではない。それに、労働者には消費者の一面もあってあまりにも搾り取るのも資本家にとってあまり都合がよくないわけで、資本家側が十分に儲けたあとの残りをお情けで労働者側に放り投げて与えてくれることはあるだろう。
まあ、現状の与党主導の賃上げはこれでしょう。
 
 
現時点で労組が野党を見限って与党にすり寄るとする。これはいわば身売りなわけだけど、現状の与党一強状態で高く売れるわけがない。身売りとか裏切りってのは、その行為が勝敗に決定的な影響を与えるときに大きな意味があるわけで、そのときなら高く売れるわけです。
現時点で労組が与党に身売りすると、野党はもうさらに壊滅的な打撃を受けることになり、与党の基盤はますます盤石になる。するとかえって労組なんて与党にとっては不要になるわけ。もともと対立していた「敵」が、勝ち馬に乗ろうとしてすり寄ってきたら、とりあえず甘いことをいって引き入れて、あとは好きなように料理し放題ですね。貢ぐだけ貢がせて捨てるのが基本です。
これがリアリズムだよね♪
 
 

そんなわけで、資本家に構造的に利害が対立する労働者が自分たちの利益実現を政治の場で求めるのであれば、資本家を支持基盤とする保守政党にすり寄るのはなんの意味もないというかほとんど自殺です。コスパの問題まで考慮したとしても、野党に協力したほうがはるかにマシ。特に、労組の協力がなければ勝てない野党に労働者の利益を実現させるのがどう考えてもよいということになる。
 
 
ところで構造的に対立する間柄であれば、利害調整というのはなおさら必要だというのも道理であり、ご存じないブクマカも多かったようだが現実に労組は自民党にロビイング活動をしている(そのことを指摘したブコメもあった)。とはいえ、対立する勢力が互いに勢力が拮抗しているときこそ利害調整が本当に意味を持つわけであり、与党へのロビイングを重視する立場からいっても野党がもっと強くなければならない。
 
 
とにかくね、構造的・原理的に考えても、マキャベリズムにのっとって考えても、功利的に考えても、労働者の利益を政治の場で実現させるためには野党を強くする以外の方法なんてないわけ。野党がだらしなかろうが、労組が腐敗してようが、他の方法はないっす。少なくとも僕には思いつかないし、他の方法を考えついたら政治史に残る大発見というか革命的な出来事なんじゃなかろうか?
 
 
たぶん、このあたりの論考に対してキイキイとなんの中身もないレッテル貼の攻撃する連中がいるとは思うけど、これは与党の支持基盤は資本家であるという事実と資本家と労働者は構造的に対立するという事実に基づいて考えると自明の結論となります。歴史的に労働運動とか労働者の政党がどういうロジックで成立したかというあらっぽーい説明にもなっている。労働者側が保守政党に頼ってこなかったことにはリアルな理由があるわけです。先人は馬鹿ではない。
 
 

次に応答するのは「労組は自分の利害以外のことも強制されるからだめ」とかいう意見だ。ブコメにもいくつかあったが、この意見をこれからdisるので名指しの引用はしない。
 
 
これね、気持ちはよーくわかる。政策セットを押し付けられるのは嫌だよね。
しかし、気持ちはわかるんだけど、政治的に活動するというのはどういうことか理解ができていない。
 
 
他者と政治的に協力するということは、自分の問題を他者にも担ってもらう代わりに、自分の問題を他者に担ってもらう他人の問題を自分が担うということだ。他者の協力が欲しければ、同盟するか雇うしかない。金持ちならば傭兵をやとって、自分のしたいことだけに注力できるだろうが、持たざる者は他者と同盟をくんでお互いの問題を共有して対処するしかないわけだ。
 
 
例えば、だ。
表現の自由」なり「労働者の権利」なりのシングルイシューを唱えてある候補が選挙にとおったとしても、その意見を通すためには大抵の場合はいずれかの政党に属して自らの発言力を担保しなければならない。議員ひとりひとりに長々と発現させるような時間的なリソースの余裕はなく、無所属の一匹オオカミでは議会で発言の機会すらそうそう与えられない。
そこで政党に属したとすると、政党には党議拘束というものがあり、「表現の自由」とか「労働者の権利」とかいうシングルイシューだけで活動することは認められない。自分の問題を党にやってもらう代わりに、党の提起する他人の問題もやらなければならない。
これ、政党政治どころか、他者と協力して生きるということの根本だよね。
 
 
なんの見返りもなく言うことを聞いてくれるってのは、パパママくらいなもんです。
自分の利害や興味関心と関係ないことはいっさいやりたくない。労組や政党に関わると自分の利害や興味関心からはずれたことをしなければならないからご免だ、というのは、「労組や政党が僕のパパママじゃないから嫌だい」とガキが喚いているのに等しい。僕もガキだから気持ちはわかるけれど。
 
 

さてここで先ほどの問題にもどるのだが、他人の問題を共有するといっても、その「他人の問題」が自分の利害と相反するものであったら、さすがに協力などできない。いくら労働者が苦境を訴えていても、財界を支持基盤とする与党自民党が労働者の利益を本気で実現しようとするはずがない。
同盟とか協力というのは、利害が対立しないところではじめて成り立つものだ。本当に当たり前のことですよね。
 
 
そして、利害が対立しない限りにおいては、自分の利害ばかりを主張してはならない。協力して力を合わせなければ、自分の利益を実現するだけの力を持つことはできない。政治ってのはそういう風に成り立っているわけです。
シングルイシューではせいぜい泡沫政党にしかなれず、政治的な力を持つためには利益が相反しないひとたちを広く集める必要がでてくる。    
 
 

というわけで今回は徹頭徹尾、政治におけるリアリズムの根っこのところを焦点に据えました。徹頭徹尾、当たり前のことしか書いてません。
この辺りの、構造的な対立と同盟協力の必要性を前提として、ようやく労組が護憲だの平和だのと念仏のように唱えるわけを説明することができる。次回はこのあたりの話をします。
会社の決算で忙しいんで、ちょっと時間がかかるかもしれない。

なぜ労組は政治活動をしなくてはならないのか(追記アリ

承前
 
労働者としての権利を主張したいけど平和運動政治運動別にしたくない」って労働者の立場は?
なんで混ぜるの?
と増田はおっしゃる。
上記増田だけでなく記事へのブクマも含めて、「労組が政治活動をするのは当然であり、政治活動は労組の本分ともいえる」という道理がわからない人が大量発生しているようなので、その理由を述べてみよう。
 
 

以前にも何度かはてダのブログにも書いたが、僕は地方都市のユニオンにかかわっている。
ユニオンに労働問題を持ち込んでくる人たちは、基本的に零細企業や派遣、非正規雇用の労働者が多く、相談内容はパワハラ・セクハラ、不当解雇、有給取得などに関するものが多い。リンクした増田のいっている意味で、組合員の現実的な利益を守るための活動を行っているわけだ。
もちろん、ひどい事例が集約されて駆け込みがあるという面はあるにしても、「サビ残を拒否して反抗的だからクビ」とか「有給取得を主張したから減給」とか「暗いやつで気に食わないからいじめてやる」とかいうあまりにもムチャクチャな雇用主は零細企業にはさして珍しくもないのである。「日本では労働者の権利が強すぎる」から解雇自由にしろとかいう「識者」もいらっしゃるが、中小零細企業の実態を知れば、そんなものは笑えない戯言だね。
 
 

2

労組として雇用主と折衝する機会はよくある。いわゆる団体交渉、団交というやつ。団交の場で僕らユニオンがもっともよく使う道具は、労働法や社会保険関連法である。
「うちの就業規則では試用期間は1年だから、1年間は厚生年金も社会保険もいれなくていいんだよ」
労基法では試用期間は14日だし、そもそも試用期間中でも年金も保険もいれなくちゃいけないのです。それ真っ黒の違法ですな」
「うちの就業規則ではそれでいいんだ!」
就業規則よりも法律が優先。御社の言い分は出るとこに出たら絶対にまるで通りませんけど、裁判やります?」
などというやりとりは何度もしている。
 
 
無茶なことを言う雇用主には、「違法」という指摘はそれなりに有効だ。「労働法なにそれおいしいの?」な雇用主はやっていることが違法スパイラルであるので、あれもこれも違法とつめていくことで優位な交渉ができる。ブラック職場では労働者側が無知であったり立場が弱かったりで雇用主はやり放題なのだが、いったん腹をくくって法をもって戦う気になれば勝率は高い。
 
 
ただし
違法状態に居直るブラック雇用主というのは厄介である。
「法にはそう書いてあるけど、書いてあるだけで罰則ねーじゃん。そんなの知らねえなあ」
本当にこういうやついるんですよ。
相手がタチが悪ければ悪いだけ、こちらも有効手段が少なくなるという理不尽な話となる*1
 
 

3

法に基づいて組合員の権利を守るためには、法がもっと使い勝手のよいものになってほしい。ここで細かく書くのは面倒だからやらないが、労働法関係は罰則規定があるべきものに罰則がなく、罰則規定があってもその運用において実際に罰則が適用されることが多くない。一例だけあげると、有給取得させなくても2019年3月まで罰則がなかったし、違法な残業は懲役刑まであるけどそれで雇用主がブタ箱にぶち込まれた例ってのはほとんどない(あったら教えて)。電通の過労死事件でも罰金たったの50万だもんね。
 
 
労働者のリアルな権利をリアルな生活を守るためにもっとも有効で現実的な方法のひとつが法改正なんです。
労働者のための法律を国会で通すためにはどうすればいい?
政治活動するしかねえだろ?
労働者の権利を擁護する政党を組織的に応援する以上に現実的で有効な労組のやるべき活動ってそうそうないぞ。まさに労組の本分だね。
 
 
悪質な残業には、現行でも懲役刑もありえることになってるけど、実際には適用されない。悪質な残業はやり放題だ。法の運用を変える必要がある。しかし、法の運用を変えるためには、国会でガンガン問題にしなければならないし、また労基署の人員増なども考えなくてはならない。
それには予算をくまなくてはならない。
ええ、これももちろん政治です。政治的な影響力を持たなくてはならない。
 
 
冒頭にリンクした増田をはじめ、ブクマで「労組が政治をやる理由がわからない」とかおっしゃってくれちゃっているお歴々は、こんな簡単な道理もわからんの?
労働者の現実的な利益を守れ、みたいなことを言っているくせに、労働者の利益を現実的にどうやったら守ることができるのか考えたこともないだろ、おまえら。
 
 

4

基本的なところはもう終わってるが、いわゆる護憲活動や平和活動との関連についても述べておく。
まず護憲だが、労働者の権利と諸人権というのはもちろん切っても切れない関係だ。デモやストなんかについては、自由権とりわけ表現の自由のいち形態として捉えるという考え方が最近の憲法学でもでてきているようである。なににしても、その憲法改正案からも明らかなように、人権を制約したがっている自民党に労組が反対するなんて当たり前じゃん。
平和活動についてだけど、戦時中の日本の労働条件ってどんなもんだか知ってるか? 月月火水木金金って知ってるか? 土日なんてなく働けって政府がいってたんだぞ。で、休みなく働かせるために、工場労働者に覚せい剤配ってたの知ってるか? 軍需物資運搬のために民間船が大量に徴用され、軍需物資を運んでいるがゆえに沈められ、労働者が大量に亡くなったのを知ってるか? 慰安婦問題や徴用工問題も、あれは基本的に労働問題として考えるべきだぞ。とにかくな、労働者の現実的な待遇を考えたら、戦争ってのはもう最悪もいいところなんだよ。
 
 
そもそも戦時中に労組がどんだけ弾圧されたと思ってんだ?
特権階級の利益のための政治をする連中ってのは、例外なく労組が嫌いなんだよ。労組ってのは特権のない連中の権利を擁護するためのものだからな。侵略戦争ってのは特権階級が儲けるためにおっぱじめるものであるから、それに労組が反対するってのは当たり前もいいところだ。
 
 

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ついでに、「政治活動とか平和活動とか、余計なことをするから労組の組織率が落ちてんだよ」論にも、あくまで私見としてだが反論しておく。
 
 
労組の影響力が目に見えて落ちてくるのと非正規雇用の労働者(派遣だの契約社員だの)が増えることは連動しているとよくいわれる。日本の労組は会社別の正規雇用の集団であることが多く、うちわでの権利擁護には熱心でも非正規雇用労働者の権利擁護にはあまり熱心とはいえなかった。日本の労組が会社別であることは、日本型雇用と密接に関連した問題で、会社別労組が非正規労働者を自分の問題と考えなかったことは仕方ない一面があるとはいえ、もっとなんとかすべきだった。
いわゆる正社員と非正規社員は身分制になぞらえることがある。非正規雇用の労働者から見れば、「労働者の権利」なんてものは正社員という既得権益の保持に見られても仕方ない。企業の都合による非正規雇用の拡大、それに続く正社員の特権化を許すべきではなかったんだ。
 
 
例えば一連の派遣法の改悪。
もちろん労組は自民党の派遣法改悪に反対はしてたよ。でももっともっと政治活動をして派遣法改悪を阻止すべきだった。大企業の正規雇用が中心の労組にとって、派遣ってのは自分たちの問題ではなかった。大企業の労組は、派遣社員の待遇という他人事に政治的に関わるよりも、自分たちの利益にかまけていたんだよ。
いいか、増田やその同調者がそうするべきだといっているように、大企業の労組は自分たちの利益を優先して、派遣法の改悪という政治的な案件を本気でやらなかったんだ。それで今の有様だ。
 
 
自分たちの正当な利益を擁護するのは当然だ。しかし、自分たちの利益だけを追求していくと、特権とか既得権益保持に流されちゃうわけだ。挙句の果てに「労働貴族」ですよ。
平和運動や護憲活動が悪いんじゃない。特権化がガンだ。増田の言うとおりにした結果、特権化して非正規雇用労働者を取り込めなくなったのが今の労組だ。
 
 
 

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とまあ、こんなことを書いてきたが、僕自身は平和活動とか護憲活動の類にはほとんど顔を出していない。確かにいろいろとピントのずれているところは多々あると僕も感じる。
市議会議員でもっとも糞でほんとになんでこんなにこいつは糞なんだとおもうくらいひどい糞議員が、地元のでかい会社の労組の推薦だとかいうゲロ臭い事例も知っている。
活動している人たちのマウントのとりあいにはうんざりだ。
3.11当時の低線量被曝でデマ同然のことを言い出した人がいたことも決して忘れていない。
要するにな、僕も労組にはいいたいことが山ほどあるんだよ。
 
 
しかしね
政治活動をしているから駄目だ、みたいな言い草は問題外。
労組に政治活動は絶対的に不可欠。
労働者の現実の生活を守るためには日常的な権利取得も重要だがそれだけでは足りない。
労働者のための法を通し、労働者の生活のための予算をくまなくてはならない。
この辺の当たり前の道理はわきまえてほしいもんだ。

 

 

追記 5/9 14時ごろ

千客万来で少々おどろいている。また、応答の必要も感じている。

週末から週明けくらいまでに、ブコメ応答の記事をあげる。

「なぜ労組は瀕死のくせに護憲や平和主義にリソースぶっこむのか」

について、僕なりの解説をすることを中心としていくつか応答する予定。

 

*1:まあ、あんまりあくどい相手だと、自宅や会社近くで街宣やったりとかいろいろやり方もあるのだがw

愚昧かつ場当たりの移行

はてなダイアリーからはてなブログへの移行を完全にさぼっていたら、インポートもできなくなっていた。我ながら愚昧である。

はてな当局が旧はてダをはてなブログに自動的に強制移行することになっているようだが、自分のはてダが移行したかどうかもわからぬ。しかし、はてな当局がいうところではリダイレクトされることになっているはずの旧はてダが未だに表示されるところをみると、まだ移行がされていないのであろう。

書きたい記事もあるのでとりあえず新しい記事置き場をつくることとする。旧記事が移行したところができたら、どちらかに統一するとしよう。たぶんなんとかなるだろう。