というような論文がないかと探したけれど、能力不足のせいか見つけられなかった。もちろん、「お局」(Otsubone)の存在は多くの文献で報告されている。けれど、そのほとんどはビジネス関連の軽い本であったり、あるいは小説のような文学作品であったりする。私はむしろ社会学的にとても面白いネタだと思うのだけれど、そんなふうにこの素材を扱ったものを、そういえば読んだ記憶がない*1。「お局制度による日本企業ガバナンスの研究」は、いまだに見つからない。
なんでそんなことを思ったか(そしてGoogle Scholarで検索をかけたか)というと、今日、ひさしぶりに会ってお茶をしたひとが、会社を辞めた話をしていたからだ。正式にはまだ辞めてないのかな。11月末日までの給料は支払われるという話だから。ともかくも、その話を聞いていて、「ああ、これは社会学が扱うべきトピックスだよなあ」と感じた。きっと多くの知見が積み重なっているだろうと。けれど、Webを検索して出てくる文献には見当たらなかった。まあ、文系の論文の多くは紙の書籍になるので、PDFで転がっていないことが多い。なので、図書館とか行けば見つかるのかもしれない。
その「会社を辞めた話」の要約は、こんな具合だ。
派遣で1年すこし前から勤めるようになったその事務所には「お局」的な先輩がいる。彼女の指示にしたがって定型的な作業(リストのラベル用紙への印刷とその貼付)を定期的にやるのだけれど、一連の手順が非効率的なのに常々疑問を感じていた。具体的には、データと出力の手作業での突き合わせのような、本来では不要な作業が発生している。ただ、派遣の身ではあるし、当初は言われたことを言われたとおりにやるようにしていた。
それがすこし前、「慣れてきたようだからこの仕事を任せる」と、指示があった。そこで、この機会に非合理的なデータを作り直し、業務のフローがうまくいくように改変することを提案した。ところが、「これは前任者が苦労してつくりあげたデータだからいじらないでくれ」と、オフィス内で激詰めされた。
あまりのパワハラに耐えられず、「このような対応に自分は納得できないから、来月末日をもって事務所を辞める」という内容のメールを所長を含む事務所内の全員に流した。すると翌営業日、所長との面談があり、「ああいうメールを全員に送った以上、残りの期間を顔を合わせて仕事するのは双方に耐えられないだろうから、11月いっぱいの給与は支払うので、もう今日で終わりにしてかまわない」と言われた。
なお、事務所の仕事は社労士。
以上が、私の理解した概要だ。たぶん聞き漏らしたところもあるし、誤解しているところもあると思う。だからほんとうの事実関係はもう少し違うはずだけれど、そこを正確にしようとは思わない。というのもこれは学術論文ではないし、ネットに流す風説にはフェイクを入れるのが一般的だから、私の理解の足りないところはちょうどいいフェイクになるだろう、と考えられるからだ。
「今日から来るに及ばない」は、多くの場合、それ自体がパワハラになる。けれど、これを話してくれた人は、その措置に感謝していた。「あんな仕事、行かずに給料もらえるならそれはそれでありがたい話やし」というわけだ。実際、ふだんの仕事の現場でも、この所長の従業員に対する接し方は問題なかったとのことだ。「社労士で、いろんなとこの就業規定とか書く立場だから、パワハラとかにはやっぱりそれなりに意識があったんちゃうかな」とのこと。
問題は、「お局」の行動がパワハラにあたるのかどうか、ということだ。労働法関係の業界でどういう定義になってるのかは知らないけれど、言葉の成り立ちから考えると、これはちょっと無理筋に見える。というのは、powerは権力だから、パワハラが成り立つためには権力関係の上下がなければならない。ところが、外形的には、「お局」に権力はない。なぜなら、彼女は単に古くからその職場にいるというだけで、地位としては同じ「派遣」の身でしかないからだ。なので、これをパワハラ案件とするのは、外形上は無理になる。
ここでちょっと横道に逸れるが、なぜ、この当事者がこの件を「パワハラだ」と感じたのかを分析すると、興味深いことが見えてくる。もちろん、「従前通りにやってほしい」と先方が伝えたときの口調であるとか身体言語などが「ハラスメント」に相当するほど強烈なものであったことは想像に難くない。ただ、おそらくそれだけでは「パワハラ」とは感じなかったのではなかろうか。「ハラスメント」は、それ以前からの「およそ無意味な行為を継続的に強制される」ことに根本があったように見える。つまり、私にこの件を語ってくれた人には、「より合理的に、よりよい方法で仕事を処理することが自分にはできるし、そのための道筋も見えている。けれど、それを頭ごなしに否定された。その理由は実につまらない〈前からやってるから〉でしかない。そんな根拠もない理由を持ち出すのは、単純にこの〈お局〉が、新参者によりよい方法を示されることで自分のメンツを潰されるのが嫌だという低レベルの心理にもとづいているにちがいない。そんなことのために延々と手作業で紙データとPC上のデータの照合をやらされるのはハラスメントだ」という感覚があったのだろう。なぜなら、部外者の私にはあまりよくわからない業務のフローについて、ずいぶん熱心に説明していたからだ。この人にとっては、お局の態度とか性格以上に、業務のフローが「昭和的」であることが最も許せないことだったような印象を受けた。
さらに横道に逸れると、似たような話を別の友人から割と最近に聞いた。そこはインボイスの話だったのだが(ちなみに私はインボイス制度にも不案内なので話の要点はついにわからなかった)、会社が本来制度に合わせて記帳を改めなければならないのに、必要な対応をしていないというのが、どうもその内容であるようだった。それはよくないことだとわかっているので、上司に「どんなふうにして改めていくべきか」を提案したところ、上司の機嫌が悪くなった、というものだった。これも私の理解が不足しているせいでだいぶ事実から離れているが、上記のとおり、そのままにしておく。
どちらの事例も、時代の変化による仕事観の変化がトラブルの背景にあるように感じられる。言葉を借りると「昭和」の時代には、上司に言われたとおりにやっていれば、それでよかった。創意工夫は言われた範囲内のことを処理する上で発揮すればいいのであって、上司の意向に対してあれこれと口を挟むのは越権行為でしかなかった。けれど、21世紀には、各職種に専門性が求められている。専門性は、特定の分野においてその分野の一般的なオペレーションに通じていてそれを遵守することにあらわれる。したがって、たとえば経理の専門職であれば、優先すべきは税法上の要請であり、上司の命令はあくまでその要請の範囲内で出されることが前提になっている。事務職の専門性は事務を効率的かつ正確に処理するスキルにあらわれるのであって、それに反することを命じられるのは専門性をおびやかすことになる。そういった感覚が、現代の仕事の場には存在するように感じられる。
話題を「お局のパワハラ」に戻そう。同じ「派遣」同士のトラブルは、外形的には(少なくとも語義的には)パワハラを構成しない。しかし、当事者の立場から実際に起こったことを見れば、それは「不必要な業務を強制された」のであり、さらに「真っ当な提案を正当な根拠もなく否定された」のであって、まさに何らかの権力によってハラスメントがおこなわれた状態になっている。すなわち、確かに何らかの権力は働いているわけだ。
では、この権力はどこからきているのか。それは、「お局」がオフィス内で激詰めをした際に、実はこの社労士事務所の所長もオフィス内にいた、という事実を見れば明らかだ。所長は、「お局」が権力を行使するのを制止しなかった。話の内容から問題の所在は明らかだったはずであり、所長にそこを裁決する権力は存在したはずだ。けれど所長はそれをせず傍観するだけで、結局は「お局」が権力を行使するのを認めることになった。すなわち、外形的には「お局」にはなんの権力もないけれど、事務所内の最高権力者である所長が黙認することにより、実質的に権力を行使した。
ここで所長の立場から物事を見てみよう。雇用者として、最も重要なことは業務が効率的かつ正確に処理されることだ。そういう意味からいえば、所長は「お局」の暴走を制止して、新参者の派遣の提案であっても専門性にもとづいた合理化案を受け入れるか、少なくとも検討するべきであっただろう。しかし、経営者としては、業務が安定して継続性をもって遂行されることも劣らず重要だ。そうなると、ベテランの「お局」にへそを曲げられては困る。どちらを優先するかとなれば、影響のできるだけ小さな方を選びたい。結果として、自ら裁量を行って業務フローの合理化を検討するよりは、「とりあえずぜんぶ彼女に任せておけば間違いない」という方を選ぶことになる。そして「お局」がプチ・ハラスメントを行うのを見てみないふりをする。
これが、本来はパワハラの発生する要件を満たさない場でパワハラが発生したメカニズムだろう。そして、社労士である所長は、おそらくそこはちゃんと意識している。だから権力者である自分自身は、その権力によるハラスメント行為が起こらないように細心の注意を払う。実際、事件の処理にあたっては「仕事をしなくても1ヶ月の給料を払ってやる」という太っ腹な対応をして、当事者から感謝までされている。そして、見えない形、非公式な形で権力を移譲して、ハラスメント行為が必要になればそこに汚れ仕事を任せる。ただしこの権力の移譲は外見上は存在しないから、そのハラスメント行為は「なかったこと」にできる。それは単純に従業員間のトラブルに過ぎない。そりゃ、社労士事務所でパワハラがあったらシャレにならんわな。
そういうふうに見てくると、なぜ日本の多くの企業に「お局」が存在するのかが理解できてくる。集団を統率していく方法として、手っ取り早いのは権力構造をつくることだ。ただ、権力の表立った行使は、トラブルにつながることが多い。特に労使関係では争議に発展することもあり得るし、その場合は法制度は権力のない労働者側に味方するようにできている。さらに、あからさまな権力統治は反発をかいやすく、結果として企業の生産効率を下げることにもつながるだろう。しかし、ここで外形上は権力のない「古参従業員」に、暗黙の権力を与え、その権力を必要に応じて行使させれば、これらの問題は発生しない。問題がこじれたらそれは「従業員間のトラブル」として処理できる。そして「お局」に支配された従業員のあいだからは、正しい意味での権力闘争は起こり得ない。なぜなら明示的な権力はそこにはないからだ。ただ、プレッシャーとストレスだけがそこに発生する。そしてそれは、集団の統率の上でプラスに働くだろう。少なくともそれを良しとするような経営体制のもとでは、役に立つはずだ。
社会学は、人間の集団に固有に見られる現象の法則性に着目する。これは、個人に着目したのでは見えてこないものだ。個人レベルでは、「お局」は、「なんか知らんけどイヤなヤツ」であったり、あるいは「表立っては目立たないけれど実は仕事ができるスーパーウーマン」であったりと、さまざまな評価を受けるだろう。そしてその一人ひとりの個性はそれぞれにちがっているし、その位置づけも企業ごとにちがっている。だから、個人レベルで「お局とはなんぞや」みたいなことを考えても、雲をつかむような話になる。けれど、社会学はあくまで集団を扱う。日本の企業の多くに「お局」と呼ばれる(あるいはそう呼ばれなくともそれに相当するような立場の)人が存在するという共通性が見られるとき、それは社会学の研究対象となるはずだ。そして、私の仮説は、「お局は権力支配を見えないものにし、実際の権力者を守るための構造ではないか」というものだ。もちろんこれは、個別の「お局」を糾弾するものではない。そうではなく、当の「お局」さえ、ときには社会構造の被害者になり得ることを示すものだ。
ま、私は学者ではないし、こんなことは戯言にすぎないのかもしれない。少なくとも上記の言説は、何ら実証的なものではない。たったひとつの事例にもとづいて(それも曖昧な理解で)空想したものだ。けれど、だからこそ思う。「お局制度による日本企業ガバナンスの研究」、ぜひ読みたいと。そこで実証的に明かされる社会の仕組みを知りたいと。なぜなら、どういうわけだか私の周りにはあまりにも多いのだ。まともに仕事をしたいだけのに、何かがそれを阻んで、やがてそこにいられなくなると訴える人々が。そういうのはほんとうにおかしいと思う。
まあ、私自身がそういう問題に遭遇しないのは、単純に「まともに仕事をしたい」という欲求があんまりないからなのかもしれないな。仕事、できればあんまりしたくないよなあ…