工場長の考えてること

工場長の考えてること

工場長の考えてることを脳みそ直だしです。

タモリ倶楽部が終わる

タモリ倶楽部が終わるそうだ。四十年続いたらしい。 残念だとは思うが潮時では有ると思う。沢山のタレント。芸能人という意味ではなくて、安齋肇みうらじゅんらの有名どころではなくても、一般のマニアだったり専門家だったり、市井の人々をメインのゲストに迎えた番組だった。 番組にこれと言った特徴があるかと言えばない。 だいたいがロケか簡素なセットと「予算はないが興味はある」的なネタで勝負していた。 四十年というと80年代に始まった訳で当時のノリが残っている番組だったのかもしれない。 しいて言えばモデルだとかミュージシャンだとか「何故ここにいる?!」的なゲストが頻繁に、脈絡なく特集の趣旨とも関係なく居て、まぁそこは変だった。もっと大きな番組にはむしろ出ないような人々なのでね。 「タモリ倶楽部なら良い。ゆるいし」そんな雰囲気は確かにあった。

タモリこと森田一義氏。を初期を除いて私は面白いと思ったことがない。 いや正確には『今夜は最高』と言う音楽バラエティは好きだった。大人の悪ふざけで。構成が高平哲郎氏だったことも大きかったろう。

タモリは基本的に非常に真面目な仕事人。で、本人が面白いというより(特にごく初期を除いては)面白がる人だと思う。かと言って持ち上げすぎる訳でもつまらなさそうな反応をし過ぎる訳でもなく態度において中庸を心がけた人ではないかと思う。 でなければ真昼間のテレビ番組『笑っていいとも!』を何十年も続けられたりはしまい。 この番組ではテレホンショッキングと言う芸能人が芸能人に電話をかけて明日のゲストを決めると言う名物コーナーがあった。かつて私の知人でアレを本当に仕込ではないと信じてる人がいた。 まあ素朴な子どもだったがひねた私は「そんなもんスケジュール押さえてあるに決まってんじゃん」と冷めた目で見ていた。 まぁあのお約束を(流石に後半は半ばバレ気味だったらしいがよく知らない)何十年もやり続ける演技は凄いものがある。

タモリが何をする人か。確かに司会者で、ミュージシャンで、お笑い芸人だ。 で、あるけれども良い意味でどれが取り立てて秀でているとも思えず、むしろ押し出しが強すぎない所がテレビ的に丁度良かったのではないかと思う。 サングラスは彼のトレードマークだが目が露出しないと言うのは(もちろん、彼の片眼の問題があったからではある)タレントとしてはハンデでもあった筈だ。なのだが彼は大物になり、お茶の間の人気者になった。 何故かは何十年経とうとも私には分からない。丁度良かったからとしか理由は思いつかない。

タモリが出演した映画を2本観たことがある。かなり昔のものだ。 そこでは単なる冴えない男性が映し出されていて、森田一義自身はこういう人なのか、と理解した。もちろん演技なんだけど。

80年代から続く番組が終わる。そのサブカルチャーっぽさをひきづったまま。サブカルチャー=雑誌、テレビ、ビデオ、音楽、ファッション、映画が始まった70年代から勃興した80年代。日本の景気があやしくなった90年代には悪趣味になり、2000年代には衰退やら分散やらを繰り返してきた訳だ。鬼籍に入った人も少なくない。 そんなサブカルを最も汎用で中庸で人気モノとして芸能界の絶頂に経験し、にも関わらず師を持たず、弟子も取らなかった森田一義が最後までやり続けたのは、悪ふざけの時代の終わりとしてきっと相応しい。 足掛けほぼ半世紀。長い長い日本の悪ふざけの時代の終わり。 世界を見渡しても、もうサタデーナイトライブぐらいしか残っていない。 お尻フリフリのオープニングが見られるのもあと数回。 サブカル。無論長過ぎた祭りではあった。ただ無用のモノが世の中から無くなるのは、少しだけさみしい。

言葉の変換機能がバグる問題とワカモノの早送り

英語ニュースをよくライブで見ている。英語は集中すれば聴き取れなくはないが、ながらなので、多くは同時通訳さんのお世話になるのである。

省略はもちろんあるが、時々笑っちゃう日本語も出る(とは言えもちろん通訳さんのスゲェ能力に感嘆してるけど)。

ある俳優さんの話で「Netflixの人気番組『性教育』で有名になりました」との通訳さん。

え!性教育!?あぁ、『セックスエデュケーション』のことかー。

この番組は性知識だけ知ってるオクテの高校生の男の子と性に関心マンマンだが知識のない女の子が主役の、いわばラブコメだ。が「性教育」と翻訳されると本来のラブコメっぽさはなくなるなー、とは思いながら間違ってない。間違ってはないんだけどー。とツッコむ自分がいた。

 

こう言うのは翻訳だけじゃなくて言葉って文脈やら固有名詞だけど一般名詞でもあるとかで適時アタマの中で変換してるんだがバグる。

短縮語はまじラビリンスガチ迷宮。

CSっていう時にカスタマーサポートなのかカスタマーサティスファクション(顧客満足度)なのかコンピュータサイエンスなのか、個人としてバグる。

SNSやタイトルは文字数制限もあってバグ率誤読率マシマシ。

わたしはお笑いに弱いので、彼ら彼女らの名前がぜんぜん分からない。変換できないので何の話なのか変換エンジンが機能するまでしばらく文字を追わないといけない。

 

言葉は生き物なので変化するのは当たり前なんだがネットやSNSでもう変化のスピードが凄くて付いてけない。いやいや仕事や関心の範疇なら何となく言葉のストックがあって変換できるんだけど、ある程度のでっかい辞書を持ってる方でも万能むり。むりが可視化されただけじゃなくてSNSで流通、融通が加速化してると感じる。

 

ある時まではオタクって言葉は趣味の共通言語を持っている意味だったとも思うのね。

なんだけどネットでつながって加速化して、しっちゃかめっちゃかさを感じるわけである。

(しっちゃかめっちゃかの元ネタをわたしは知らないが使えるのは既知のバグ)

 

んで、同時通訳さんがNetflix のドラマ名をご存じなくて当たり前だし、それを共通言語とはできないなと思う訳ですよ。

 

それでまぁ「若者は映像コンテンツを早送りで見る」という新書が出てて読んだし、話題なんだけど、仕方ない気がしたんすよ。

ネットの海は膨大でサブスクは無限。外部記憶装置がどんなにでかくても検索ワードを覚えてない限り無理なのよ。少佐!(攻殻機動隊草薙素子

 

なのだが時間は有限。ある程度歳とってたら観念も有るけどワカモノがキャッチアップしていく切ない努力が早送りなのだと個人的には合点した。

 

そんなこんなで、ことばの変換バグはネット接続以降の「人類のバグ」だし、若者の早送りはこのネット社会への適応努力の結果。

という暫定結論に至った。

 

人間の脳や認知が根本的に仕様変更でもされない限り、ことばの変換バグは治らないだろう。日本語変換エンジンが如何に優秀になってもスペルチェック、補完機能もムリだ(断言)。

 

私ごとで。。。もう自分ダメ。といちばん思うポイントは言葉ですらない。絵文字の意味がわからない^ ^いや絵文字自体は分かっても使いどころの意味がわかんない。堪忍してくれその絵文字は何の意味で使ってるんですか教えてください。教えなくてもいい前提の絵文字じゃないの。どうなの。自己の教育完全敗北。かと言って学び直しもできないだろう。わたし。

 

おじさん構文すら使えないおっさん。

わたしの脳は絶賛退化している。

 

 

 

 

 

シン・ウルトラマン ネタバレなしレビュー(追記あり)

 

 


樋口真嗣 監督

庵野秀明 企画・脚本

2022 東宝円谷プロ・カラー作品

 


出演 斎藤工

長澤まさみ 

有岡大樹

早見あかり

西島秀俊 他

 


2022年5月13日、シン・ウルトラマンが公開された。複数回観てきたのでネタバレなしのレビューをしたいと思います。

 


□この映画は何?

シン・ゴジラ(2016)と同じチームによる特撮映画。2019年に製作が発表されたがコロナ禍のため延期。ようやく今回の公開となった。

ウルトラマンは現在も続くSFシリーズで、本作は66年前の初代ウルトラマンの強い影響下で製作された。

シン・ゴジラ同様、世界的に有名なキャラクター「ウルトラマンがもし現代に現れたら?」というコンセプト。リブート作品ではなくリイマジネーシヨン作品と言える。ウルトラマンシリーズとの直接の継続性はない。監督や製作陣により異なった作風になるのはDCコミックスの『バットマン』各映画化に近い。

 


□前知識は不要

わたしは幸か不幸か特撮作品に詳しくない。本作は音楽を含め沢山のオマージュから出来ている(らしい)がそんなもの一切知らなくても本作は楽しい。シン・ゴジラほどの速度ではないがテンポ良くスムーズに話は展開し、ダレる部分がない。ウルトマンは宇宙人。変身する。ぐらい知ってれば充分だ。

21世紀の日本に次々と禍威獣(かいじゅう)が現れ、ウルトラマンが闘う。巨大な宇宙人が現れ、それを小さな人間は見上げる。そんなわきゃないんだけど、そこを日本が誇る役者がまじめにやり切る。

かいじゅうと戦う。ピンチが訪れる。サスペンス展開もある。シンプルに楽しい。

もちろん色々と理屈をこねても良いけれどマーベル作品やバットマンのガジェットにツッコむのは意味がないのと同じでセンスオブワンダーを楽しむべし。 

タイトルにも「空想特撮映画」と書いてあるしね。

 


□コンパクトさと日常に突然現れる「特撮」の魅力

とは言ってもハリウッドの大作のようなビッグバジェット作ではない。世界が滅ぶとか都市ものすごく破壊されるとかのレベルのアクション描写はない。

本作も多くのシーンがCG作られているが山で禍威獣とウルトラマンが戦う、都市に突然宇宙人が現れる。ミニチュアっぽい破壊シーン。ウルトラマンの中には(かつては)人間が入って演技してたんだ、の再現。どれもハリウッドよりスケールは小さいけれど身近さにドキドキする。ハラハラする。

元々、特撮は知恵と工夫で観客を驚かせることを得意にしてきた。アイデアで喜ばせてきた。そんな雰囲気をシン・ウルトラマンは余すとこなく21世紀版にした。

ハリウッド大作と真正面で戦うのではなくて、違うものとしてドキドキワクワクを作り出している。

 


□禍特対は「いい大人たち」

シン・ウルトラマンの世界では禍威獣が定期的に日本に現れ災害を起こす。禍特対(かとくたい)はそれに対応するスペシャリスト組織。彼らは軍人でもないし、警察でも消防でもないし、ましてや政治家なんかではない。

本作では政治家や異星人がガチャガチャと陰謀めいた動きをするのだけれど、禍特対のメンバーは真っ直ぐものごとに向き合うし、まじめゆえに絶望もする。

田中哲司さん演じる室長は組織をかばい、有岡大貴さん演じる南は苦悩する。

西島秀俊さん演じる班長がある作戦に「ダメだ」と即断する場面がある。この人たちは人間的な判断ができる「いい大人」なのだ。明らかにこの人たちが性善説で動いていることを良く現したシーンだった。

有岡さん、西島さんらのファンの方々は充分楽しめるだろう。可愛いし、シブい。現代のヒーロー作品では苦悩したり、ややこしい現実に対することが増えた。社会がそれだけ複雑化したからであるが、こういう「いい人」たちがストレートに登場するのはとても珍しいと思う。この信頼できるウルトラマンの仲間たちがこの作品に不思議な明るさをもたらしている。この仲間たちが「いい人間」なのでウルトラマンもまたこのチームを信頼するのだ。

 


□みんなが色々言いたい映画はだいたい良作

特撮はマニアも多い。ウルトラマンには思い入れが多い人もいる。かく言うわたしも映画ファンではあるし、庵野秀明ファンでもある。

現在はサブスク含め、細分化された好みに映像メディアは応えている。

一家言ある人は多かろうし、言いたい意味はわかる。そしてそれが部分としては的確だとも思う。

本作の禍特対の「科学を信じる態度」はコロナ禍での「科学を信じよう」という姿勢に(たまたまではあるが)通じるものを感じる。

56年前、子どもたちはテレビの中の特撮に夢中になった。怪獣たちに夢を見た。そして現代の禍特対もまた56年前の科学特捜隊と同じく、「いい人間」たちだ。(違いがあるとすれば西島秀俊さんがアメリアカデミー賞の受賞作の主演というところか。しかしその名優が特撮映画に出演する意味は大きい)

本作はオトナの眼にも耐え、子どもたちも観れる「空想特撮映画」として完成されている。

言いたいことが多い映画はだいたい良作なのだ。万人に完璧な映画などない。

出来るなら次世代の子どもたちや若い方が本作を観てほしい、と願う。巨大スクリーンに映し出されるウソ。それこそが特撮、映画の本質だと思うからだ。

その点でシン・ウルトラマンはキチンと成立している。誰にでも開かれたセンスオブワンダー映画である。

 

■個人的追記(ネタバレなし)

庵野秀明作品では上司はクソ(碇ゲンドウ葛城ミサトなどなど)なのに今作は田中哲司さん、西島秀俊さん共にまとも

・ショットは正確、的確。広角は押井守のレイアウトシステムかよ。と思った。実相寺よりも。17台も同撮してたのは面白い。なんだか普通のシーンなのに「ヘン」

・なんだか突然下町の居酒屋が出てくるのは庵野秀明作品、突然の演歌とか。

・封筒やUSBメモリーが誤配されない。開封されたり、見てくれる信頼感合わせいいね。

・エピソードの繋がりなど問題を感じないわけじゃないが、ほんま人によるんだと思う。

エヴァンゲリオンが「甲冑を着たウルトラマン」と説明をされていたらしいが、ウルトラマン成田亨さんの本来の姿なのね

・最後のスタッフ、キャストがネタバレ

・ラストショット。めっちゃ映画。

 

 

#シン・ウルトラマン

#庵野秀明

 

 

 

ウクライナ侵略の気づき

ロシアがウクライナに侵攻した。明らかな侵略行為であって何がどうあろうとも肯定できない。戦争反対の声を上げていきたい。

わずかな寄附をした。

 

今、40年ぶりの緊急国連総会を観ながらこれを書いている。国際社会の結束を願うがそんなウクライナの戦禍の中で、いくつか気づきがあったので自戒を込めて書き残す。

 

・やはり専門家の意見は頼りになる (が戦争中は色んな専門家も湧いてでる)

この戦争がはじまると意識させれたのは小泉悠(東京大学専任講師)の発言「ロシアの軍事を15年眺めてきたがこのような事態はなかった。動向はプーチン次第」というものからだった。

小泉氏だけに依拠するものではないが、他の専門家も含め兵の配置から「何もしないということはないだろう」というのは分かった。

今、侵攻がはじまって1週間、数多くの論考が出ているがやはり長年の研究者の言葉は理解を助けてくれる。

その一方でバックグラウンドが経済だったり社会だったり、最悪、欧州に詳しいなどで解説している人々が湧いて出てるのだが‥‥‥希望的願望や「過去そうだったから」と言う論拠だけだと腑に落ちないものも散見する。

情報戦という言葉は当事国同士によるものだけではない。「戦争」という非常事態には平時の合理的判断や基準では理解できないことも多い。究極的にプーチン氏のアタマの中は全くわからない。正直言えば考えてもどうしようもない、今知る手段がないことは戦争ではものすごくあるのだろう。日本での情報の混乱もまた自分自身の知性を守るために自衛しなくちゃ、と。自戒を込めて思う。

知ることが出来るのは(もしそれが正しければだけど)軍事的、被害、などの事実で数であって他のことは本当に分からない。戦争が終わったらようやくゆっくりとわかるだけだろう。

 

・CNNやBBCはすごい

数日内に首都キエフが陥落するのではないか、と米国、英国の軍事機関が伝える中、防弾チョッキやヘルメットで現地に特派員が留まり続けている。

ポーランド国境に近いウクライナ国内にCNNはエースキャスターを派遣して報道している。そしてウクライナ国内6ヵ所で取材している。

もちろん現地にいさえすれば事実が分かるわけではないが、空襲警報や爆発音をライブで聞かされればは戦争の悲惨さは伝ってくるものだ。ポーランドへ逃れようとする難民の生の声は痛ましい。

このような報道は反戦の世論を形成する。制裁による自分達の痛みを甘受させる。何より戦争の被害を我がごとのように想像させる。

この場所にジャーナリストがいることは充分、意味がある。全くジャーナリズムの意味が我が国とは違う。ただただ敬服する。

 

・認知や倫理がバグらないようにしたい

ここからが本題の自戒である。戦時だからといって自身が持っている「戦争反対」「戦争は不幸なもの」という倫理がおかしくならないようにしたい。そしてまた国際法が有効であること。自分の国も国際社会の一員であることを忘れてはならない。

世界が戦時という異常事態になるとそれだけでパニックになってしまう人々をSNSなどで見る。異常事態なので見たいものを見たい、や事実から目を背ける。あまつさえ虚言を信じる。ということも横行する。流れるあまりに多くの情報を処理できないと認知はバグる。極端な意見がまかり通ったりする。

だがあまりに沢山の情報を処理する必要はないし、むしろ害悪ですら有ると思う。メンタルヘルス的にも日常生活的にも。どのみちわれわれには(当然ながら専門家もその場にいるジャーナリストも)すべてを解ることなんて不可能なのだ。

ただバグっちゃダメだが、戦争に反対するさまざまなアクションを起こすことはできるし、募金先はある。さまざな制裁措置を支持することはできる。

各国の国連大使の戦争への抗議を聴くことはできるし、信頼にたる報道を見ることは出来る。もちろん我が国は自由な国だ。情報をシャットダウンすることもアリだ。

 

もちろん私は、この異常な事態にあたって自分の認知や倫理感に絶対の自信はない。

が、私は戦争に反対し続けるために。。。

用法容量をコントロールしながらこの不条理な事態の情報を取り続ける。出来るアクションを取り続ける。無力感にさいなまれる必要もないし、あきらめもしない。先の大戦の反省はここにこそ活かされるはずだと思うのだ。

最期のエヴァ

庵野秀明は誰に愛されるか

 


この文章はシンエヴァ鑑賞前に書いているのでネタバレはない。

 


シン・ゴジラ以降、庵野秀明監督は大人になったと個人的に評価していた。

個人的な作品ではなく、プログラムピクチャー『ゴジラ』の総監督として評価を受け、売り上げを果たし、賞を受賞した。

 


いまや彼の経営するカラーは名だたるアニメーターの会社だ。その経営者として庵野氏は仕事をし、特撮、アニメの資料保存を働きかける社会的に真っ当な人物だ。

 


ある時期、20世紀末から21世紀初頭にかけて庵野氏に自らを重ねる、いやエヴァか、

多くの若者がいた。庵野監督自らメンタルに不調をきたしたとも聞くことに、作品とと時代と、作家とそのファンが奇妙な一致を見せていた。庵野氏はそれをどう考えていたかは知らない。

 


2006年のエヴァリブート時、庵野監督はエヴァを明るく子供達へ希望を提示するものとして制作表明をしていた。

しかし震災後の三作目Qで全く当初の構想は潰えたようにも見えた。

 


庵野秀明氏は社会現象を巻き起こす作品の主人として、かつてはファンに投影される人物だったかもしれないが、今や「大御所」である。念願の『シン・ウルトラマン』の公開も控えている。

言ってしまえば今更に悩まなくても良い地位を獲得したのかも。。。と思わないでもない。

彼はいま、ある程度、好きなことが出来る地位にいる。

それでもファンは彼に期待する。何かとてつもないものを。

しかしみな等しく年齢を重ねる。勝手に成熟したことにされるし、勝手に周りの評価も変わる。

 


庵野氏は愛されたかったのだと思う。重ね合わされるのではなく、愛憎でもなく、作品に投影された自分でもなく、才能とその能力を認められたかった、かつてはそうであったと思う。

 


しかし庵野監督にいつも求められているのは作品的過剰さとファンが自身の何かを投影できる何物かの作品の要素であった。

 


本日、西暦2021年3月8日。シン・エヴァンゲリオン、完結と銘打たれた作品が公開される。

 


全てのファンの期待に応える作品などない。

全ての時間を贖う作品などない。

 


今日、庵野秀明監督が祝福される作品になっていることを願う。

 

感情と科学を管理した政治

政権が8年近く続いた理由をボンヤリと考えていた。

 

すごく冷徹に経済だけで見れば国力は落ちていったとしても、株高、円安、失業率の解消。新卒の求人倍率がある程度あったなど、穏やかな時代であったと見る人がいてもおかしくない。そしてそれが主因かも知れない。

見えない格差や問題を除いて、世の中は平和だったのだ。

 

わたしは今、感情史を集中的に勉強していて、しかしながら、一見無関係なこの長期政権の理由と符号するものを感じた。

 

まずは感情の管理だ。

 

もしかすると、ネットの過激な保守の言説を思いつくかも知れないがそうではない。

 

むしろ「がんばる人を冷笑する」「得ではない」という、感情の管理だ。

政権が意図して行ったかはわからない。が、一方で右派が一方で左派が過激な言説を使いすぎるにあたってすっぽりと収入や生活は置いておいて、政治的には何も発言しない「中道」が生まれた。そしてこれは上手くいっていたのではないかと思う。政治に触れるとまずい、あるいは政治への無関心は政権の安定の基礎となる。そしてそれは経済の(表面的な)穏やかさと同時に効果を発揮したのではないか?誰しも社会的に損はしたくない。

 

そして、科学の管理だった。正確に言うと学術分野において役所がかなり管理権限を持ったと言うことである。人文社会科学は無駄で、サイエンスの基礎研究も無駄で、出来るだけ成果の見えやすいものに投資というか予算配分をした。

結果として、人文科学の批評研究能力は目に見えて落ちたし、目先のサイエンスが流行した。それによって、国力が落ちるかも知れないと言う長期視点は文部科学省の行政からは抜け落ちたろう。学問は多様性の担保でもあるわけだが、それは失われた。

 

それらが政権がグランドデザインとして考えたものなのか、それとも結果的にそうなったのか、検証はしたいと思っている。noteになるか、何か分からないが結構前から資料は集めだしている。

 

宮台真司氏の言うように「感情の劣化」だけでは説明できていないと思う。そこはおそらく、ミシェルフーコーの「健康な管理社会」に通じる、「感情や科学ロジックの管理社会」というものが見えてくるのではないかと構想している。

 

そして、それが最善の形で実現できているのは中国政府だろう。今のところではあるが。

そこそこの生活とそこそこの自由で、多くの人民の感情をコントロールし、それが統治に活かされているのではないか。

自由や可能性より、ある程度の不自由を享受する世界。

COVID-19の下で見えて来た「帝国」は私にとってはだが、嫌な意味で「最大多数の最大幸福」を自由も、貧困も、格差も、なかったことにして実現されるのかも知れない。

 

 

 

焼き鳥の価値

家から5分ぐらいのところに焼き鳥屋がある。

もう、若くはないご主人とおかみさんで回している東京の下町にあるような店だ。

 

高級店ほど、ものすごく美味しいわけでもないが、良心的な価格。個人店なのでそれほど焼き鳥の種類があるわけでもない。良くて10ぐらい。串打ちをして、毎日仕込みをしていると思う。中でも新鮮度が勝負のレバーは上手い。また焼き加減がいのちの皮や手羽串もうまい。

炭火で焼き立てはことのほかうまい。

 

焼き鳥といえば、最近コンビニやチェーンのどんぶりやなどでも焼き鳥を売るようになった。基本的にはセントラルキッチンで焼きまでしたものを温めているものだろうが、費用対効果で言えば家でつまむなら充分かもしれない。

で、あるけれども。わたしにはパリッとか新鮮とかは感じない。もちろん前住の通り「焼き鳥をとりあえず食べたい」には必要十分なのだけれど。

 

ラーメンがそうだった。専門店はスタンダードなうまさより、高価格帯の「特色あるラーメン」に走っていった。その結果、多くの「普通のラーメン」東京だ言えば中華屋のシンプルな醤油、博多なら屋台のもの、は観測範囲では結構失われていった。

ラーメンで今スタンダードといえば、少し濃い目のものかもしれない。

高級ならシンプルもある。もはや食材にこだわりすぎて和食だが。

弁当屋のイートインで食べるインスタントに近いシンプルなラーメンの方が、ざっかけでかつての「東京ラーメン」に近く感じる。

 

食のスタンダードが時代によって変わってしまうのは仕方ないことだ。

ただ、その要因が単に経済的な理由だけだったら、悲しい。

少し先、多くの人々にとって「焼き鳥の味と価値」は変わるのかもしれない。工場生産焼き上げの少し時間が経って萎びたそれが「普通」になるのかも知らない。

 

それを仕方ないと思いつつ、出来るだけ職人が毎日、肉を串打ちして炭火で焼き上げる焼き鳥を寂寥感を感じづつ価値あるものとして、だけど日常のものとして、串から肉を外しもせず食べたいと思う。

 

まるで「もうすぐなくなるという紙の書物について」をまねて

「もうすぐなくなりつつある普通の焼き鳥屋というもの」を味わうのだった。