私のいろいろ音楽遍歴
久しぶりにブログを書こうと思った。人の音楽遍歴を聞いているうちに、自分も整理したくなった。覚えていないところもあるけれど、書いてみる。
とりあえず演奏として音楽に初めて触れたのは4歳のときで、私はヤマハの音楽教室に通っていたらしい。ピアノを習っていた。エレクトーンをやった記憶もうっすらある。後に分かるけど、その影響で絶対音楽があった。(普通消失することはないと思うんだけど、その後難聴にかかったことで、なぜか狂ってしまったので今は相対音感だけある)ドライヤーの音はB♭だ~とか、シーソーシーソーシーソー!と救急車の音を音名で言ってたみたいだし、生活音さえ音楽だった。話が脱線したけれど、最初に触れたのは主にヤマハの音楽ということになる。
その後引っ越しなどのきっかけで個人レッスンを受ける。元々ヤマハの先生だった人に教わる。ハノンではなかったけれど指の練習曲(名前は忘れた)とブルグミュラーやソナチネ、ツェルニー、ギロックを経て、聴いたことのあるクラシックの曲を高校3年辺りまで弾いていた。完全に趣味としての音楽。その中で上達に苦しんで演奏で食べていくのは厳しいなと思うようになっていた。いわゆるコンクールに出るとかそういった経験はなかった。比較的楽しく音楽とは付き合っていた。ただ、発表会なるものはヤマハ時代からあったので、うろ覚えだけど大きなステージで弾いて、最後に記念撮影するときに疲れて号泣した記憶がある。小学生以降も発表の時に失敗して一旦弾きやめて、再度弾けるところから弾くみたいなことをした記憶もある。
高校生になって、ポピュラー音楽も少しやった。そして、ピアノ以外にもオカリナも習った。オカリナは、当時のピアノの先生が吹いていたので同じ先生から教わった。オカリナはおそらく5年くらい習っていた。ピアノは計算すると大体15年ほどになる。
楽典的なことはヤマハ時代から少しだけやっていたけど、真面目に習っていたのは高校生になってからだった。正直もっと早くやった方が良かったなと思う。その方が曲の理解が深まるからだ。演奏関係はざっとこんな感じ。
作曲自体は習ったことはないし、どちらかというとアレンジが多い。小学生時代に伴奏のないメロディだけの曲に伴奏をつけたり、リコーダーで吹きたいジブリの曲を聴いて楽譜にして、テストのときに吹いたりしていた。(耳コピは絶対音感があると比較的容易っぽい)MIDIシーケンサー自体は中学の時くらいから触れていた記憶がある。そこまで得意ではなかったし、今でもDTMは苦手。
↓ リコーダーのテストで吹いた思い出の曲。
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そういえば高校の時に一曲作ったことがあって、当時の高校の音楽の先生とすごく揉めた記憶がある。弱起だったからだ。クラシックの基本を押さえた曲をまずは作りましょうという話だったので、弱起を持ってきたのは良くなかったんだと思う。その当時思い浮かんだ曲が弱起しかなかったので、喧嘩したまま提出した。不可にならなくてよかった。
そして、音響の学べる専門学校に行きたかったのだけど、両親に反対されたので渋々大学を受験した。いわゆるクラシック音楽を学ぶところは考えていなかったので、(どう考えても準備が間に合わない)それ以外の領域が学べるところを探した。しかし、第一志望を受験することはなかった。自分を追い詰めすぎて精神を病んでしまったのだ。
結局、私立の音楽科に進んだ。楽理的なこと以外にも実験的な音楽に触れたり、実験音楽を自分で作ったり、ガムランを演奏したり、尺八に触れたり、はたまたフィールドレコーディングのようなサウンドスケープ的なことをやったり、レコーディングを学んだり、自分の想像していた以上の世界に触れた。中でも音楽美学(音楽学、音楽哲学)に興味が湧いたので、卒業後もその辺りの本をずっと読み漁っている。
自分でやる音楽はそんな感じ。次はどんな音楽を聴いてきたか書いてみる。
幼少期~小学生辺りまではヤマハ音楽だったので割愛。小学校高学年のとき、周囲の友達が流行りのJ-POPを聴いていたけど、全然馴染めなかった。ただジブリの音楽は聴いていたし、名探偵コナンのテーマソング集を聴く中で一組だけ聴ける音楽があった。いや、音楽自体は他のアーティストも聴けたのだけど、歌詞が意味不明に見えて好きじゃなかった。その一組だけ聴けるコナンの音楽は、GARNET CROWだった。曲を聴かなくても歌詞の意味が理解できた。それだけでその音楽は自分にとって価値があった。
「君と僕とは別の生き物だから 好みが違う歩く速さも思いの伝え方も」
この始めのフレーズを見て小学生だった私は「ちゃんと意味が分かるし、良い!」と感動した。今見ると何気ない歌詞かもしれないけれど、意味不明に思えるJ-POPの歌詞の中では当時は衝撃だった。
そうして、彼女らのことをもっと知るためにメンバーの好きなアーティストを全て聴いた。そこでまた衝撃が走る。Bjorkとの出会いだった。中1の時だったと思う。
↓ Bjorkの中で初めて聴いて、今でも一番好きなアルバム。
「音楽ってこんなに自由でいいんだな」と思った。掴みづらいメロディだけど、ちゃんと色彩感があって、リズムが生き生きと感じられて、音使いが面白くて最高だった。
Bjork関連で北欧系のポップスといわれるようなアーティストも聴いた。高校でポストロックやエレクトロニカにハマるきっかけはこの辺りの影響。
中学時代はとにかく洋楽とBeing(現B ZONE)関係の音楽を聴いていた。書き出そうと思ったけれど、50以上はあるのでやめておく。流行りの歌はもちろん、60年代から90年代の洋楽も満遍なく聴いていた。クラシックも好きで、ピアノ曲を中心に聴いていた気がする。
高校・大学時代はポストロック、エレクトロニカ、ノイズ、アンビエント、ミニマル、民族音楽など少し変わった音楽をメインに聴いていた。ジャズ、アニソン、ゲーム音楽もこの時期に良く聴いた。それらの音楽の中でもmumが好きだった。
しかし、大学生になり、音楽を学ぶことができるようになってから音楽が嫌いになっていた。正確にはメロディーの主張の強い音楽が受け付けなくなった。もっと正しくいうと、音楽の暴力的な側面が受け入れられなかった。どんなにこちらが拒否をしていても、聴くと否応なく心を動かされてしまうその強引さ、何も思いたくなくても頭に残って繰り返される音楽の暴力性、そういった側面が嫌になった。
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そんな中で聴けたのが先ほどあげた少し変わった音楽たちだったのだ。そして徐々に私は日常で音楽を聴かなくなっていった。それに、静寂は私にとっては一つの大事な音楽だったから、ある意味静寂を聴く時間が増えたともいえる。サウンドスケープを学んだことなども若干影響しているように思う。
「静寂を聴く」人は実は結構いて、大学の講師や教授でも「最近聴いてる音楽ですか、最近は静寂を聴いてますね」などと返答しているのを何度か見かけて、正直ちょっと嬉しかったし、普段音楽に触れている人たちだからこそ、その返答は良いと思った。
話はそれるが、無と静寂には大きな隔たりがあると思う。何も聴いていないのでなく、わずかな残響音を聴いている。すべてを拒絶するわけでなく、意図的に何か音を鳴らすのでなく、静寂を聴くとは、今ここにある自然の音を受容する行為だ。
大学を卒業後、病気の関係もあり、たくさんの音楽は聴けなくなってしまった。最近聴こうと思える音楽はクラシックのピアノ曲だった。本当にごく一部の音楽。卒業した後にクラシックの良さというか、馴染みやすさに気が付いた。というのも、クラシックは私の中で弾くものであり、聴くものではなかったのだが、幼い頃から慣れ親しんでいたこともあって、聴きやすく疲れにくいことに気づいた。ただやっぱり常に聴くわけではなく、調子が良いときに聴くだけ。生真面目にベートーベンを聴くときの態度で一時期は聴いていたけれど、聴取の態度としてはべつに不真面目でもいいじゃんと最近は思う。なぜなら、生真面目に聴くのはクラシックの一部での慣習みたいなものの影響だったからで、それに縛られる必要は全くないと気づいたから(ただそういう聴き方もあるので、聴き方の一つとして保持はしている)。
今後音楽関係でやりたいこととしては、趣味としてGARNET CROWの全曲をオルゴール化する計画があるのと、作曲はクラシック系に的を絞ってやることの大きく2つがある。演奏関係も何かやりたい気もしているし、遊びでもっとDTMっぽいこともしたいとは思ってるけど、環境が厳しいので当面無理かなと思っている。作曲に関してはしばらくは一人で勉強することにしている。和声の復習からやってみてるけど、結構忘れてるし、実践的な場面であまり生かしたことがないので生かしていきたい。時間はあまりなくても、下手でも投げ出さずに地道にやっていく。
「名刺代わりの本10選」タグの本の紹介
Twitterで#名刺代わりの本10選というタグで本を選んだので、簡単に紹介したいと思う。必ずしも好きであるとか、自分の本質的な部分と関係があるわけではないけれど、自分を説明する上で必要かなという本を選んでみた。
『はてしない物語』/ミヒャエル=エンデ
『星の王子さま』/サン=テグジュペリ
『ブラームスはお好き』/フランソワーズ・サガン
『愛人 ラマン』/マルグリット・デュラス
『黄色い目の魚』/佐藤多佳子
『セロ弾きのゴーシュ』/宮沢賢治
『山羊の歌』/中原中也
『まど・みちお全詩集』/まど・みちお
『音楽美学』/野村良雄
『楽器の音響学』/安藤由典
『はてしない物語』/ ミヒャエル=エンデ
読書を始めて間もない頃(といっても小学生だが)に出会って、初めて感動した物語がこちら。『モモ』も面白いけれど、物語として圧倒されたのは『はてしない物語』だと思う。読書にハマるきっかけもこの本であり、自分もこんな物語を書きたいと強く願うきっかけにもなった。本の詳細を書くことは別の機会にとっておきたいので内容にはあまり触れないでおく。
昔から存在は知っていたけれど読んだのはごく最近で、たしかYoutubeの本の紹介動画を見て興味を持った。読んだらすごく良かった。エンデと比較するとどことなくフランスっぽさを感じるような本で、一つ一つのモチーフの象徴性を考慮しながら読み進めていくと奥深い味わいがあった。一つの星を人の心として読むなら、薔薇やバオバブの木は、愛や二次的なネガティブな感情となり、そういったものとどう向き合うべきか考えることが可能で、弟が原語で読むほど好きなわけもなんとなく察した。
『ブラームスはお好き』/ フランソワーズ・サガン
大学生のときに久しぶりに読んだ小説がサガンだった。『悲しみよ こんにちは』を先に読んで面白かったので、次にこちらを読んでみたけれど、物語としてはこちらの方がより共感できた。今となってはあまり覚えていないのだけど、繊細な感情描写が印象に残っている。パリの雰囲気も文章から感じ取れて良かった。他人からすれば些細な出来事にすぎないことをドラマティックに描いているような小説で、すごく味気ない言い方をすると、お洒落な昼ドラだな~などと思っていたのだけど、昼ドラよりも良いので読んだことがない女の子にはおすすめしたい本。
『愛人 ラマン』/マルグリット・デュラス
こちらも大学生のときに手に取った小説だった。文体が強烈に印象に残っていて、コラージュ写真のように断片的な映像が組み合わさってできているような不思議な感覚になった。恋愛というより家族の話という記憶があるけれど、内容はあまり覚えていない。
『黄色い目の魚』/ 佐藤多佳子
「正しい日本語」のような文章しか当時読んでいなかった私にとって衝撃的だったのがこの本だった。流行りの現代の小説をそれまで読んだことがなかったので、文章なのに言葉遣いがかっちりしていないことに本当に驚いてしまった。好きとか嫌いというより、この本がきっかけで書くことについてより考えるようになった。青春小説はあまり好まないし、人に薦めようとは思わないけれど、佐藤多佳子さんの本を読むとほっとする。たまに読み返したくなる人の本。
『セロ弾きのゴーシュ』/ 宮沢賢治
こちらの文庫本を購入して児童文学として最初は読んだが、先生曰く賢治の作品は詩だと教わってから「詩とはなんだろう」と考え始めた。精読したのは「風の又三郎」だけど、音楽的なことやさまざまな「あいだ」にいる主人公に触れられた「セロ弾きのゴーシュ」の方が好みだった。詩〈ポエジー〉についてはまだ詳しく知らないし、未だに考えているけど、おそらく18世紀頃のドイツ・ロマン主義の美学と関係があるように思う。
『山羊の歌』/ 中原中也
NHKの100分de名著で知った詩集。詩も好きだけど、なぜか中也の人柄が大好きになってしまった。一通り読んでも、また読みたくなるくらい彼の詩が好きで、上手く説明できないぐらい良い(『はてしない物語』も大好きだけど良さの説明が困難)。手元に置いておきたい詩集。
『まど・みちお全詩集』/ まど・みちお
小学生の時に教科書に載っていて、もっと読みたくなったのですぐに借りてきて夢中で読んだ思い出。まど・みちおさんの生き物や自然の詩が本当に好きで、かなり影響を受けた気がする。優しい気持ちになれる。
『音楽美学』/ 野村良雄
「良い音楽ってなんだろう」「音楽とはなんだろう」という素朴すぎる問いを抱えていた頃に出会った本。本当に出会えて良かった。音楽美学について語れるほど勉強はしていないけれど、この著者の本をきっかけに私の音楽についての考えは深められる準備が整ったと思う。
『楽器の音響学』/ 安藤由典
まだ読み終わってないけれど、音響学関連で持っている本がこちらだったので選んだ。音響学もまだまだ不勉強だけど、やっていてとても面白いので自分を説明するのには必要だと判断した。音楽が好きである以前に私は楽器の音が好きなので、楽器の音について音響学的に理解することはかなり重要だと思っている。
以上選んだ10冊の本の紹介でした。5年後、10年後どんな変化があるのか今から楽しみで仕方がない。
いつか世界に溶けていく
いつか世界に溶けていくことを、私は肯定的にも否定的にも捉えたくないと直感的に思っていた。(今思えば、)なぜならそれが救いになろうと、不幸の元になろうと、人為的秩序の世界において存在するだけの人間の価値観に過ぎなかったからだ。ただ世界に溶けていくこと、それは閉じられるのでもなく、拓かれるのでもない。私の、いや人の通過点に過ぎなかった。
また、いつか世界に溶けていくことを、わたくし個人が居るべきか居ないべきかという自我(生活圏の私)の問題に直結して考えるべきことでもなかった。当然あなたが居ても居なくてもいいということでもない。どうでもいいことなんて何一つないと思っているが、「どうでもよくない」と今主張したいわけでもない。分かり得ないことは分からないと諦めに似た感情を言いたいわけでもなかった。
生活圏にいる私という存在は、私を肯定するし、他者をも肯定するが、それは暫定的にわたくし個人が決めたものだった。そういった人間的な取り決めの世界を超えた私たちは「在る」と「無い」を揺動し、蠢いているような存在だ。パラフレーズすれば、人はたとえ生きていても、絶えず世界に溶けかかったり、浮き立ったりを繰り返している。夢を見たり、意識が飛んでいたり、思考から離れていたりする時、私達は其処にいるのではなく、世界に溶けている。
物質の不確かさよりも観念の存在に取り憑かれている自覚がある。概念は物自体に即していて心の働きと関係なく他者と共通するが、観念は対象物に対して認識されたものであり、個人的なものだ。本当は言い表し得ないものを言葉で表現できてしまうことに違和感を覚えずにはいられないが、それはそれとして、人と分かち合うことができない観念は、一見存在するかどうかすら怪しいのに、はっきりと私の中に存在していると感じる。例えば美は文脈によっては概念ともなれば観念ともなり得るが、観念としての美を感じとる時、私は言いようのないものの存在を強く感じている。ところがそれを言葉にすれば、忽ち観念的な性質は失われ、認識的概念へと変貌している。そのような存在に私はひどく取り憑かれ、頭の半分はもう奪われてしまった。
世界に溶けていくと観念は消えてしまう……。私が喪失を考える時はいつもそのことを思う。廃墟には観念の顕在化しない蠢きが、そしてかつて存在したものの断片があった。その断片を徐ろに拾い上げて私がこれから何をなくすのか考えた時、それは私という存在ではなく、私の中にある人と分かち合えない何かだった。
芸術と認知のはなし
少し前に出ていたとある論文のことを思い出したので噛み砕いて話す。おそらくその人は認知(直訳では神経美学と出た)に関する研究をしている人だったと思う。「思う」というのは、フリーではアブストラクトを確認することしかできなかったのと、英文だったので重要な箇所しか私が抜き出していないからである。以下意訳。
「芸術の普遍性は科学的に見れば、我々の神経系システムが人種や時代関係なく共通することに起因するものであると考えられるが、一方で、芸術の多様性は(芸術作品が多様であるという意味合いも含むが、一つの作品から多くの解釈がなされるということについての多様性もあるかなと読み取った)これらの(おそらく知覚を含む認知機能に関する)神経系が柔軟で、一時的な文脈や目的に調和し、生涯の経験を通して変化し続けることによって生じるものであると考えられる。」
知覚のメカニズムを学んだことがある人にはピンと来る話だが、我々が物を見たり、音を聞いたりするときのメカニズム自体は人間であるからおそらく共通するが、例えば色の見え方というものは人によって差があるし、音高の知覚ではなく、音楽の認知まで広げてみると、それは人間の生得的な感覚と、後天的に経験の中で獲得してきた感覚とが融合してある認知のされ方になっているということが確認されている。単に音高を知覚するよりも、音楽を認知する場合はより高度なことをしており、鑑賞するよりも作曲することはより高度に認知活動を行っているとされていることからも分かるように、芸術鑑賞や創作は認知心理学的には非常に高度な認知活動であるといえるのだ。私には、我々の神経系が「不完全」であるからではなく(そもそも神経系の完全とは一体何を指すのか私には分からない)、非常に柔軟であり、「生涯にわたって変化し続けるものである」からということが非常に重要であるように思える。
録音技術をはじめとする音響関係の技術が発達し、我々が通常指し示す音楽は、多くの場合繰り返し聴ける劣化しない再生可能音楽を指すようになった。その音楽を聴くとき、感じ方が人によって違うのはもちろんだが、時と場合によっても変わるということに注目した人は少なくないだろう。その理由の一つとして今回の認知機能の話を挙げることができる。音楽に特化して話したが、それは絵画を鑑賞する際もそうだろう。我々が芸術を飽きることなく鑑賞できるのは、神経系が柔軟に変化し続けているからだろう。私たちの感性は変わらない部分もあるが、経験によって変わり続ける部分も大いにある。
芸術は心を豊かにするだけでなく、変わり続ける豊かな心があるから鑑賞できるのだ。芸術作品は、我々の心の反映を微細に示す鏡でもある。
参考
Neuroaesthetics and art's diversity and universality
Marcos Nadal , Anjan Chatterjee
柴崎友香『ビリジアン』を読んだ。
ツイッターで感想を書いたので。それを貼りつけ。簡単に。
記憶をランダムに綴った短篇連作だった。色彩感が豊かで情景が事細かに語られているのが印象的だった。記憶は色による印象が強いからそこに関して大変共感した。
自己の形成を時系列順に、ある一つの物語として我々は持っていることが多いけれど、これはそういった語り口ではないところが面白い。バラバラな記憶、エピソードによっても自分の成り立ちが見えてくるのでは、という推測に挑戦したような小説に思えた。
以前、人と話していて自分が病気によって何が損なわれたのか考えた時、「自己の物語」の遂行不全に陥っていることを自覚した。記憶によって自分や自分らしさを再編成するのが困難になっていると気づいたのだ。でも、『ビリジアン』を読むと、そういった物語は必ずしも必要ではないことに気づかされる。たとえ「自己の物語」が何らかの理由で途中で断絶されていても、自分を記憶によって再編成することが可能なのでは、とこの本を読みながら思った。どのようにしてそうするのかはこの小説の書き方に則れば良いのではないだろうか。断片的でもエピソードを抽出することがおそらく要となる。
地続きな記憶の上で自分が成り立っていると考えるのが普通のように私には最初思えたのだけれど、記憶は順序良く行儀良く並んでいるものではない。何かトリガーがあり、浮かんでくるものだと思う。そのエピソードを思い出す中で自分はこうだったんだと再認識すること、それが自分らしさに繋がっている。
物語が一本の線で繋がっていることに慣れているので、読み物として素直に楽しめたかというとそうではないのだけれど、良い読書経験になったなあという感想。
人生を楽しくする工夫
以前アスクで来た質問の回答です。まとまっているので載せておきます。
楽しく生きていくのに絶対必要なことって実はないんですよね。なぜなら楽しい時って、何もなくても楽しいですから。そういう理屈っぽいことじゃなくて!と言いたくなると思うので、私が考えて実行していることを例にして話を続けたいと思います。
楽しく生きていくのに必要なこととして私が最も重視しているのは、何もしてない状態でも楽しくなれる健やかな精神です。ですから、まず、健やかな肉体づくりは不可欠だと思います。そのために何が必要かご自身で考えてみましょう。例えば軽い運動として散歩やジョギングを生活に取り入れる。食事もなるべく多くの食材を使うように心がける。規則正しい生活というのも健康に必要ですから、ある程度守ると良いでしょう。
この時点で勘の良い人はお気づきでしょうけど、生活を彩るものとして活動やモノのバリエーションというものが1つの鍵になってくるのではないでしょうか。人生、時間とはすなわち生活です。「当たり前だ」と思うかもしれませんが、豊かな生活が一体何なのかを考えた時、「生活パターンを無理に固定化しない」という考え方を取り入れることが豊かな生活のひとつの形であると私は思います。もちろんそうでない豊かさも存在すると思いますが、長くなるので今回は言及しないことにします。でも、時間割のようにやるべきことややりたいことを曜日ごとに固定すると、実は精神衛生に良くないのです。健やかな精神を今回は目標にしてますから、時間割のような効率的なやり方というのは不合理であると考えます。健やかな肉体づくりのためにやることは、必要最低限にとどめて、自分の負担にならないよう上手く工夫しましょう。毎日しても良いし、ジョギングなら週2,3回でも十分だと思います。食事は1週間で見たときにさまざまな食材がとれているように調整する程度で大丈夫です。
あとは自分のやりたいことは何なのか日々考えて実行します。今私が一番やりたいことは何か、その見極めを行います。これは実は難しいことで、やらなければならないことをやりたいことにできるだけ移行したり、自分の人生において何が重要なのか考えたりすることで徐々に形になっていきます。常に意識することで、平日の帰宅後や休日の朝起きてすぐに「私が今やりたいことはこれだ」と決められるようになります。何も、絶対に何かを進めなければならないというわけではありません。「私が今一番やりたいことはだらだらしたいことだ」と思ったならそうすれば良いのです。最低限「本当はこれがしたかったのに、違うことをしてしまった」というような後悔をしないように過ごせさえすれば良いのです。やりたいことをやっていれば自然と楽しくなってきますが、私が注意しているのは特定の行為をし続けるということによって、意識まで偏るということがないようにすること。例えば毎日音楽をしている時期があっても、自分の中でその行為に対して飽きるということがないように工夫するのです。「音楽をする」といっても様々な作業がありますから、そういう意味でバリエーションを絶やさないようにしています。
そして、さまざまなものに興味や関心を向けること。これを意識するのは非常に難しいですが、まあそう気負いせず、気楽にいきましょう。例えば好きな人が文学に興味があるなら、その人の好きな本を試しに読んでみるのです。読めなかったら最後まで読む必要はないです。その人から自分が読めそうなものを紹介してもらうのも良いですね。とにかく、まず周りにいる他者を肯定するのです。そして、人の好きなものになんとなく興味を示してとりあえず調べてみる、やってみる。このフットワークの軽さが大事です。例えばTwitterをしていると様々な情報が流れてきますね。誰かが音楽を貼り付けたり、画像を貼り付けたりしていますね。その音楽を実際に聴いてみる。そんなちょっとしたことで関心は広がっていきます。やりたくない時は無理にする必要ありません。そういう時はきっと疲れていたり、余裕がなかったりするのです。その場合はしっかり眠りましょう。休養も健やかな精神を築くのに必要なことです。
最後に、これは一見あまり関係がないように思われますが、他者を肯定するのと同様に自分を肯定するということに意識を向けてみてください。自分は居ても良いんだという絶対の自信を持てるようになれば、何もしてなくても焦ることなく、その場を楽しむことができるようになります。これが実は一番難しいですが、できるようになれば人生がつまらなく感じるということはなくなります。自分という存在を肯定するのに必要なことはないです。ただ、紆余曲折を経なければそういった自己肯定感というのは持ちにくいかもしれないなと周りを見ていて思います。「根拠のない自信を持とう」という話を私は側にいる人と良くしますが、どうやってそういう自信が持てるようになったのかは実は私には分かっていません。ただ、ある時ふと、「自分は生きていても良いんだ!」と思えるようになったのは確かです。宗教を信仰することによって、あるいは哲学することによって、あるいは夢に生きることによって、それと近いことを為すことはできるかもしれません。この辺りは模索し、考えていくほかありません。
以上が私の実行している人生を楽しくする工夫です。参考になれば幸いです。
サンドイッチを作った(メモ)
「昨日のサンドイッチ美味しかったなあ、バジルが効いてて」と寝ぼけながら、食べてもいないサンドイッチの話をLINEでしたぐらいサンドイッチを作りたい欲がすごかったので、材料を揃えて作ってみた。
サンドイッチを作りたくなったのには二つあって、名探偵コナンの安室透が美味しそうなサンドイッチのレシピを披露している回を観たからである。そして、友人から「粒マスタードを使っても美味しい」という話を聞いたので早速試してみたくなった。食に関してはすぐに影響される。それが私。
というわけでメモのために今日のサンドイッチのレシピをまとめておこうと思う。
サンドイッチの作り方(マヨをパンに塗るバージョン)※いつもはバター
材料(写真は二人分用意)
8枚切り食パン(ふかふかのやつ)※蒸す場合は時間が経って水分が抜けたものを使う
ハム(脂身の少ないもの)
レタス
スライスチーズ
トマト(今回は家になかったので使わなかったが、できるだけ入れたい)
バジル
卵
パセリ
マヨネーズ
味噌
塩
ブラックペッパー
オリーブオイル
量はそれぞれ適宜適量で。(雑)
作り方
卵は沸騰後8分くらい茹でて、水で冷やしたら殻を剥き、黄身を器に入れて、白身は細かく刻む。パセリも刻んで入れ(今回乾燥気味であまり刻めなかった)、塩とブラックペッパーで軽く味をつけた後にマヨネーズを加えて和える。
レタスは氷水かぬるま湯につけてパリっとさせる。てきとうな大きさにちぎって、キッチンペーパーで水分を丁寧に拭き取る。
トマトは湯剥きして薄く輪切りにする。持ち運ぶ場合は種も取る。
ハムはオリーブオイルを薄く塗っておく。
パンに塗る用のマヨネーズは器に出して、少量の味噌と和えておく。味噌は隠し味程度で良い。
水分の抜けたパンの場合は蒸し器で蒸す。
てきとうに合わせて作る。(今回はレタスチーズハムバジルに味噌マヨ、卵サンド、レタスチーズハムに粒マスタードの3種)
ラップに包んで皿等でサンドし、半分にカットして盛り付ける。
完成。
作った感想
味噌マヨ美味しい。でもやっぱりバターが恋しい。
卵サンドはケチらず、卵2個くらい使いたかった。(今回は1個)
やっぱりバジルにはトマトがほしい。
粒マスタードはそれ単体で使用すると酸味がきついのでバター等で混ぜたものを使った方がマイルドになって良いかも。
今回は作らなかったけど、鯖缶+玉ねぎスライス+ブラックペッパー多めのサンドイッチもなかなか美味しかった。