ecipslla’s diary

2024/11/02(ルヴァン杯決勝)

からっと透き通った青空の下、等々力で観た準決勝2ndレグは一生忘れないだろうと思った。その日を経て、初めて観た決勝戦は、どんなものとも比べることのできない、苛烈な感情と記憶を植えつけられた試合だった。この先何があっても忘れるものか。

 

声というものはものすごい質量をもってまっすぐ前に進み、そして屋根に反響して、地面の下からも湧き上がるようなエネルギーに変わることを知った。試合前の独特の緊張をたたえた静寂のあと、雨の降りしきる中、数分にわたって鳴り響いた曲を忘れない。開始数分の翻るようなパスワークも、気迫のこもったスライディングも、見ている動きひとつひとつが身体に刻みつけられるようだった。あの日そこにいた3万人以上の人々が同じものを見て、ひとつひとつのプレーにこもった意味を理解していたし、あまりにも同じ気持ちだったから。自分の視覚情報がスタジアムの中で何倍も増幅されて身体の中にぶちこまれるような感覚があった。2つのゴールを叩き込まれても、それでも無我夢中で残りの45分に賭けたくて、他の可能性なんか要らなかった。

いつものようにぬるぬるした変則的なリズムで右サイドを駆け抜けてクロスを上げる人、ヘディングでゴールに叩き込む人のことが誇らしかった。人の声がどこまでも膨らんで、スタジアムが割れるんじゃないかと思った。91分に倒されて、VARチェックを待つ間は、本当に時間が止まったような、というか、少しだけ巻き戻して少しだけ進むのを繰り返すような、デジタル時計がつくる機械的な時間の中に全員閉じ込められたようだった。彼がプロ入りしてから初めてのPKが、よりによってこの決勝戦の舞台で、帰国を前にして花を背負わされるようなゴールキーパー相手に披露されるなんて。半泣きで見守ったPKがゴールを揺らし、はり裂けるような轟音の中で、前にいた人がふりむいた。定年を迎えたころの優しそうな男性だった。同行者はいなかった。この人はこれまでどんな時間を過ごして、どんな思い出があるのだろう。どんな思いで今日を迎えたのだろうか。

延長戦はもうなりふり構っていられなかった。また失点して、そして最後に追いついた。ふわっとしたスルーパスを受けて、ゴールキーパーと対峙して、シュートを打つ、ゴールネットが揺れるというひとつひとつの出来事が、それまでの時間からくっきり切り出されたように見えた。

チーム全員が円陣を組んだときはきっとスタンドの全員がその円陣に加わっているような気持ちだったと思う。いつもはじっと黙って観ている父が、立ち上がって大きな声で「頑張れ」と叫んでいた。この人もこんなふうに叫ぶのかと思った。

5本のPKは祈りでしかなかった。そのあと自分じゃ立てないくらいに泣き崩れて、表彰台の上でも目を覆って泣きじゃくっていた人の姿も忘れない。スタンドから全力の拍手が送られたことも。優勝した相手を見る人たちの背中を見ていたら、涙が止まらなかった。彼らを勝たせてあげたかったと思った。誇らしくて、応援していてよかったと思った。

 

この決勝の舞台でありとあらゆる感情を味わったし、書けていない瞬間や記憶からこぼれおちたものもあることがとても歯がゆい。そして、この日を過ごす前にはきっと戻れない。

 

本当はこんなに好きになるつもりじゃなかった。でも、好きにならずにいられない。

 

youtu.be

2024/10/21

モーリス・ドニを観に行った昨日。夕映えの中のマルトの前で立ち尽くした。彼女は、親密な関係の中で許される疲労と憂いを帯びた表情で佇んでいる。ブラウスの柄や花瓶に生けられた生花、額縁に至るまで、薄い夕焼けを丹念にまとっている。夕焼けに包まれた事物の輪郭がぼかされて、それらを薄緑の絵の具で縁取ったようなその絵は、何かを抱きしめたいような、丹念に撫でたいような、あたたかい布にふれたような気持ちにさせる。

ドニの絵は、世界を洗いざらして、午後の光に透過させて、目を細めたらうっすら見えるくらいに透明にして、それから生きている新しい色をつけたように見える。

 

一面に咲いたコスモスが軒並み同じ方向を向いて風に揺られていた。弾き語りをする人の声が、高音が上がりきらなくて、中途半端に叫んでいるようで、10年前に聴いていた曲を思い出す。

 

***

 

5年前に見逃した映画を観た今日。

不完全で秩序が欠落した日本の映画が好きだ。

 

 

サッカーを観ている90分間と、映画を観ている90分間はまったく別の時間が流れている。

等々力のスタジアムで、胃液まで全部吐き切った身体が、音と動きに集中するのを感じていた。繋がった鋭いパスや、すんでのところでのクリア、回転がかかったシュートが不思議な軌道を描きながらゴールラインを割る、残り何分かを祈るように見守る、そういった瞬間を、あまりにも大勢が息を詰めて過ごす時間を思い出す。

対して今日は、手足が冷え切るのを感じながら、毛布をかぶって、MacBookの画面をじっと見つめて、梟の顔や得体の知れない着ぐるみ、輪になってフォークダンスを踊る男女の姿がぱっぱと脳裏に焼き付いていく。自己をめぐる問いが提起される。

自分の中で色々な時間が始まって、いずれもまだ見ない場所へ繋がっていくような気がする。

 

***

 

今までの自分が取ってきたであろう言動を、半ば慣性でとってから、今思っていることとは若干の相違があることに気づく。今ここで思っていることを表現する術がまだない。動揺と思索が始まる。まだしばらくは、今起こり続けていることに身を投じたい。雪が降るまで、もう少しだけ。

2024/10/17

低いところでたなびいている雲がぼやぼやと月を隠していた。しばらく見ていると雲の一連はどんどん遠のいていって、月が本当に明るかった。まっすぐ見ていられないくらい眩しい夜。

 

随分長い時間をかけて自分の振れ幅を見ている。傾いたりあらぬ方向を向いたりするけれど、そのうちしっくりくる場所に落ち着くだろうと思う。迂闊に誰かに話したりはしない。過程としての移動や読書。服や靴を選ぶこと。水を飲むような秋。

 

目が乾いている。

2024/10/15

中島らもの墓を訪ねる。彼は死んでいたけれど死んでいなかった。下の方の、不思議なところから声が聞こえていた。とにかく行かなければいけない、今すぐ出発しなければいけない、という思いに駆られて旅に出ることに決めた。黙って側にいてくれて、一緒に来てくれる人がいた。そういう夢を見た。

 

「うるさい」

おれはキーボードをてのひらで何度か叩きつけた。画面の上の文字が消えた。

誰かが、頭の中に、かすれた声で話しかけた。

 

「さあ。もういいでしょう。始めてください」

 

おれは頷いて、またキーボードに向かって打ち始めた。

 

中島らも『永遠も半ばを過ぎて』

2024/10/10

知らない土地に来て、初めている場所で酔い始めている。色々な風景を見た。日常の延長のような移動。初めて降りる駅前の街並みを歩いて思うことや、盗み聞きをして思うことなど。できるだけ色々なことを、率直に書いておきたい。それが自分を引き受けることだと思うから。鴻巣友季子訳『灯台へ』を読みながら。今日のことはきっとまた思い出しながら書く。

2024/10/09

iPhoneを縦向きにしたまま、小さい画面でゴールシーンのハイライトを見る。ペナルティエリアの外からミドルシュートを打つ人に見とれる。腕を使ってバランスを取り、右脚を振るモーション。身体全体がしなやかな道具のように見えた。

 

裸足で床を歩くと冷たい。

昼間は墓地の横を歩いた。

秋に咲く朝顔はしんなりとして美しい。

2024/10/08

時代は裏切りも悲しみもすべてを僕にくれる。

素敵なものが欲しいけどあんまり売ってないから好きな歌を歌う。

 

 

冬みたいに寒かった日。

4年前につくった俳句を見つけた。

 

・・・

おしなべて光る葉牡丹夕まぐれ

 

よつゆびの生き物昏き台東区

 

川沿いに空箱湿り白椿