インタプリタかなくぎ流

インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

自分が死ぬときには

母親が亡くなったので、実家のある北九州市に数日間行ってきました。母は長い間難病を患っていたので心の準備はできていましたから、訃報を聞いたときも「そうか……よくがんばったね」と静かに受け止めましたし、葬儀に関するあれこれもとても淡々としたペースで進みました。

というか、実家から遠く離れた東京に長く住んでいる私は、実際のところ実家とはかなり疎遠な親戚みたいな感じになっています。それで、葬儀については実家の父親と、実家近くに住んでいる妹の二人が万端整えてくれていて、私たち夫婦はただ寄り添うことくらいしかできないのでした。

父親は、自分と母親の葬儀のために葬祭会社による互助会のようなものに入っていて、毎月お金を積み立てていました。それが満期になっていたので、葬儀の費用はそこから捻出できることになっています。とはいえ、葬祭というものにはさまざまなオプションの選択肢があり、その選択次第では費用もかなり違ってきます。私はそれを、かつて義父の葬儀の際にいろいろと経験しました。

葬祭会社はもちろんお仕事ですから、きわめてていねいな口調ではありながらこちらの懐を探ってこられます。ただでさえ親族が亡くなって茫然としているところに、あれこれの選択が迫られ、そこにスタッフさんの「通常みなさま◯◯をお選びになります」的な営業トークが重なると、ついつい出費がかさむ方向に導かれてしまうのです。

そんなときはむしろ私のような「疎遠な親戚」的立場にある者のほうが冷静になれるのかもしれません。父親や妹が「だったら、このクラスでお願いしようか」的な判断をしそうになるたび私が「いやいや、もう少し考えてみたら」と袖を引っ張りました。そうやって、祭壇も棺桶も霊柩車も一般的でリーズナブルなところに抑える一方で、お花などはあまりケチらないという方向で落ち着きました。

それでも(これが葬祭会社の上手なところなのですが)互助会の満期になっていた会費を差し引いても、結局は葬儀の会場や司会やお坊さんの手配や火葬に必要なあれこれや、つまりは出費を抑えることができないたぐいの固定的な費用がどうしてもかかるようになっています。結果、私個人の金銭感覚からすればかなりの出費になっていました。もちろん父親も妹もその他の親族も納得のうえですから、何の問題もないとはいえ。

ともあれ、葬儀から火葬までを無事にすませ、私は東京に戻ってきたわけですが、その一連の流れに身を置きながら、やはり自分が死ぬときにはこういった一切とは無縁でいられたらいいなと思っていました。葬儀も、戒名も、墓所も、その後の供養も一切。火葬だけはしてもらわなきゃならないですけど、骨は拾わなくていいし、もちろん骨壺も仏壇も位牌もいらないし、骨はその場で火葬場に「処理」してもらって、埋葬も散骨もしなくていいです。

とはいえ、いくら自分がそう望んでも、家族はそういうわけにはいかないでしょう。というか、葬儀や供養にまつわるあれこれは、そもそも死んだ本人のためのものというよりは、残された人たちにおける心の安定のためのものなのです。そう考えればどうせもう自分は死んでいるんですから、その後に家族がどういう葬儀や供養をしようと知ったこっちゃない(死んでるんだから知りようがない)ということになるんですけど。

ちなみに妻は私と真逆で、盛大に葬儀と供養をしてほしいんだそうです。会葬者もできるだけ多く呼んでほしいし、一大イベントとして盛り上げてほしいって。はいはい、あなたが先に死んだら、そのとおりにして差し上げますよ。

自分の時間を取り戻す努力

先日書店に行ったら、ジェニー・オデル氏の『何もしない』が文庫で再版されて平積みになっていました。私はハードカバー版を以前に読みましたが、正直に申し上げて、とっつきやすいタイプの本ではありません。それでもこうやって文庫化されるということは、それだけ多くの読者を得ており、またアテンション・エコノミー(注意経済)の弊害と不毛さがより多くの人々に理解され始めたということなのかもしれません。


何もしない

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この本や、カル・ニューポート氏の『デジタル・ミニマリスト: 本当に大切なことに集中する』(これも文庫化されました)を読んだあたりから、私はつとめて自分の時間を取り戻す努力をするようになりました。スマートフォンやパソコンと、そこに表示される「こちらの注意を引き、時間を奪っていくもの」からできるだけ距離をとり、あるいはそこから「降りる」ことを心がけてきたのです。

具体的には、SNSをやめ、ニュースサイトを見ないようにし、それらのアプリのアイコンを画面から削除し、アプリからの通知を切り、なるべく紙媒体のコンテンツを優先するようにする……などなどです。特にリンクが張り巡らされ、すぐに検索ができてしまう電子デバイスから遠ざかることは、すでにしてじゅうぶんに中毒になっている自分からすれば、かなりきついことでした。というか、いまでもまだ脱しきれていないと思います。

それでもここのところようやく、始終電子デバイスの画面に向かわなくても落ち着いていられるようになってきました。もう私は年齢も年齢ですし、かつてのように人に先んじてなにか新しいことにコミットしなければとキリキリ神経をとがらせる必要はないのです。FOMO(fear of missing out:取り残されることへの恐れ)に苛まされる必要もない。そういうのは疲れちゃうし、楽しくもないし。

私はデジタルネイティブ世代ではないけれど、しかし逆にデジタルデバイスがまったくない時代からひとつひとつそうしたデバイスとソフトウェアの恩恵にあずかりつつ、かつ心躍らせつつ、「こんなことまでできるようになった!」を何度も感じながらここまでやってきた世代です。ある意味、デジタルネイティブよりもさらにパソコンやスマートフォンやインターネットへの「帰依度(?)」みたいなものは強いのです。

そんな自分ですから、おそらくこのさき仕事から完全に引退したとしても、そうしたものたちとまったく縁が途切れてしまうことはないでしょう。これからも深いおつきあいを続けていくことは間違いありません。でもそこにはきわめて強い抑制を効かせておく必要があります。自分の残り時間をこれ以上アテンション・エコノミーに絡め取られてしまわないように*1

……などと言いながら、この「はてなブログ」をパソコンで書いていること自体が矛盾してますけど。でもまあこれは頭の健康のための基礎トレなので、自分で自分を許すことにしています。書いたらさっさとパソコンを閉じて、紙の本の読書に戻ります。

*1:……しかし、そういう自分が、自分のブログにAmazonアフィリエイトプログラムを導入しているのも、欺瞞と言えば欺瞞です。これもやめることにしましょう。

京都念慈菴蜜煉枇杷膏

風邪をひいて喉を痛めてしまい、授業でも話し辛そうにしていたからか、シンガポールの留学生が「センセ、これどうぞ」と京都念慈菴の蜜煉枇杷膏(はちみつ枇杷シロップ)をくれました。やさしい〜。先日は香港の留学生からも同じシロップをいただきました。そう、これ、中国語圏ではとてもポピュラーなのど薬なんですよね。

スティック状のパックは手でも開けやすいよう端にステッチが入っていて、このまま舐めてもいいですし、お湯や水に溶いて飲んでもいいのです。さっそく服用しました。いつものことですが、この枇杷シロップをちびちび舐めていると、すぐ脳内に「♪ちゅ〜るちゅ〜るCIAOちゅ~る」のあの曲が流れます。


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観客のゲラがないとおもしろくない

『映像研には手を出すな!』の作者・大童澄瞳(おおわらすみと)氏が「ライブ配信で笑い屋が欲しいと思うことがある」とおっしゃっていました。YouTubeの「積読チャンネル」にゲスト出演された際の発言です。


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リアルタイムで笑ってくれる誰かがいると、めちゃくちゃ話しやすいっていう。いくら自分がおもしろい話をしてても、フィードバックがないとっていう、そういうのがあるんですよね。だから深夜ラジオとか聞いていると、構成作家がちゃんと合いの手を入れたり笑ったりとかしてくれているのが、本当に大事なんだと思って。

ああ、心から同感です。コロナ禍でオンライン授業を余儀なくされた時に、私もそれを痛感しました。こちらが話しているときに、笑ってくれたり、あいづちを打ってくれたり、なんなら画面の向こうでうなずいてくれるだけでも、ずいぶん話しやすくなります。そういったものが一切なく、相手が全員ミュートの状態、かつ無反応の状態でえんえん話し続けるというのは、確実に精神を蝕みます。

私はいまもオンライン授業を受け持つことがありますが、生徒さんのなかにはフィードバックどころか、画面に顔が半分しか写っていないとか、画面の奥の方にちっちゃく写っているとか、あるいは逆光でよく見えないとか、マスクで表情がほとんどわからないとか、さらには音声のみならず映像まで切って参加する方がいることもあって、そんな環境で話をするのはとてもつらいです。

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大童氏も「コロナ禍のときのお笑いライブや、レコードで落語が流通し始めた初期の頃に収録で観客を入れずにただ淡々と話しているものなど、ネタはおなじなのに全然おもしろくない」とおっしゃっています。ゲラ、つまりよく笑ってくれる(よき反応をしてくれる)「質の高い観客」が必要なのだと。いやこれ、オンラインの場だけではないですね。実際に対面しての授業や会議などでも、まったく反応のない状態で話すのはしんどいです。それだけ自分の話がおもしろくない、ということなのかもしれませんが。

かつて通訳者の柴原智幸先生の授業に出た時、私たち生徒の反応がないことに対して柴原先生は「こちらがなにか問いかけたら、『はい』でも『うん』でも『わかりません』でも、なにか反応を返すべきです。コミュニケーションの仲立ちをする通訳者を目指すみなさんが、そこまでコミュニケーションに非積極的であってはいけません」とおっしゃっていました。以来私は、自分が聞く立場にあるときは、できるだけ反応するように心がけています。「うんうん」ってうなずくだけでも、話し手にとってはありがたいんですよね。

またこの動画の後半では、「作者の気持ちを考える」ことについて、こんなことも語られていました。

「作者の気持ちなんか分かるワケないじゃん」ってまあ、それは正しいんだけど、それを言ってていいのは小学生までで。小学生が「作者の気持ちなんか分かるワケないじゃん」って言ってたら、まあ、あ、ちょっとおもしろい子かなコイツはって思えるんだけど、大人になってまでそれ言ってる人がいたとすれば、それは物語を読んで理解できない人だっていうことなんで、ダメじゃんみたいなことを思うんですけど。批評ができない人かなと。

この「批評」が大切だというの、これも同感です。いまSNSを始めとするネット空間には罵詈雑言や不毛なマウント合戦などがあふれかえっています。ほとんど「通り魔」的とさえ思えるようなコメントやリプライが多すぎるのに疲れて私はSNSから降りてしまいましたが、あれも要は「作者の気持ちなんか分かるワケないじゃん→だからオレはオレの気の赴くままに言わせてもらうぜ」というような思考の放棄、ないしは批評の不在なんですよね。つまり、オンラインのコミュニケーションでフィードバックがないことも、「作者の気持ちなんか分かるワケないじゃん」も、いずれも発信者に対する敬意の欠如なのです。

ただそうは言っても、どうせほとんどは罵詈雑言やマウント取りや通り魔的コメントでしょとSNSを一様に見限ってしまうのも、そこで行われている多種多様なコミュニケーションに対する敬意の欠如なのかもしれません。なかには批評精神にあふれたやりとりだってあるはずなんですから。でも私にはもう、あの殺伐とした短文の行き交う空間、なかんずく「通り魔」的に言葉を投げつけては消えていく(それも匿名で)人が多すぎる空間に戻る気力はないです。

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それにしても大童澄瞳氏の語り口はとても魅力的です。ほとんど冗語をさしはさまず、でも堅苦しくなく、それでいて言葉はきちんと選びながら話されていると思いました。頭の回転が速いんだなあと。『映像研には手を出すな!』はアニメで見たことがありますが、マンガの原作は読んだことがありませんでした。それでつい、既刊の1〜9巻をまとめて大人買いしてしまいました。

映像研には手を出すな! コミック1-9巻セット

カズオ・イシグロとイングランド

職場の学校では毎年この時期、同時通訳の実習が行われます。二年間通訳や翻訳を学んできた留学生が、その総仕上げとして日本語の講演会を英語と中国語に同時通訳するというものです。会場は同時通訳ブースつきの大きな会議室。講演会の講師は外部からお呼びすることもあるのですが、今年は僭越ながら私が講師役を仰せつかりました。英語も中国語もわからない日本人が話すという設定で、講演後の質疑応答まで含めて留学生のみなさんが訳してくれます。

講演のテーマは「カズオ・イシグロイングランド」にしました。私は英国の作家カズオ・イシグロ氏の小説『日の名残り』が好きで、昨年の夏にその小説の舞台となっている南西イングランドを「聖地巡礼」してきたので、その時のことをイシグロ作品の解題とともに語ってみようと。


以前このブログにも書いたことがありますが、英国のとあるお屋敷付き執事である主人公のスティーブンスによる、年老いた現在と若かりし過去のストーリーが輻輳しながら進むこの作品。タイトルの『日の名残り(The Remains of the Day)』に込められた人生の黄昏、そこにオーバーラップする英国貴族と「大英帝国」の凋落、その先にそれでも見出すことのできる穏やかな未来……スティーブンスと同年代に至った私にとってはいろいろと考えさせられる作品なのです。

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通訳業務は「予習が九割」なので、170ページあまりにおよぶ大量のスライド資料を作って事前に配りました。そうした大量の予習資料をいかに効率よく捌いて「本番」に備えるかも実習の教案に盛り込まれています。お若い留学生のみなさんがこのテーマにどれだけ興味を持ってくれるか不安でしたが、みなさんとてもよく予習に力を入れて、当日は素晴らしい通訳をしてくれました。それは講演後の質疑応答時に時間が足りなくなるほど会場から手が上がったことからも分かります。みなさん、本当におつかれさまでした。

思い返せば、初めて人前で講演らしきものをしたのは、熊本県水俣市水俣病関係のNPOに勤めていたころ、ユージン・スミスの写真集『MINAMATA』について、学校教員のセミナーみたいな催しで説明したときでした。何日も前からとても緊張していて、当時のパートナーを前に何度もリハーサルをしたことを覚えています。


MINAMATA

その時は、講演の後から聴衆のお一人に「若いあなたが一所懸命に話しているというそれだけでも伝わってくるものがあった」と言われました。講演としてはあまりにも拙かったということだと思います。

それから幾星霜、ひょんなことから通訳者になり、さらには教師と呼ばれる立場になって、言ってみれば人前で話すことが生業のようになりました。一時間なら一時間、二時間なら二時間で話をまとめることができるようになりましたし、講演原稿は作らずに簡単な箇条書きや時間配分のメモ程度で話すことができるようにもなりました。とはいえ、もともと「コミュ障かつ出不精」な人間なので、いまでも授業などで話し始める前は緊張しています。

それが今回の講演では、話し始めるときも話しているときも、まったく緊張しませんでした。たぶんここまで緊張しなかったのは初めてだと思います。最初に人前で話す経験をしてから三十数年を経て、ようやく落ち着いて話すことができるようになった。これは新しい気づきでした。『日の名残り』でも語られているように、人生は「夕方が一日でいちばんいい時間」なのかもしれません。


ちょっと贅沢な珈琲店

味の素AGFに「ちょっと贅沢な珈琲店」というシリーズがあります。

agf.ajinomoto.co.jp

そのシリーズのうち、レギュラー・コーヒーのドリップパック(カップの縁に掛けてお湯を注ぐやつ)をよく買うのですが、最近、そのパックにそれぞれ異なるメッセージみたいなものが書かれていることに気づきました。


いつものコーヒーをどうぞ
今日もいい日になりそうですね
疲れたなら一休み
気を張りすぎてはいませんか?
気長にいきましょう
自分勝手もいいじゃないですか
もう一杯いかがですか?

こんな感じ。こうやって並べてみると、なんだか詩みたいですね。仕事の合間にコーヒーを飲もうとしてこのメッセージを読むたび、なんとなく癒やされているような気分になる自分に気づきました。次はどんなメッセージが現れるかなと期待してたりして……そうとう疲れているんだなと思います。

一生かかってもここにある本をすべて読めない

図書館とは「そこを訪れた人たちの無知を可視化する装置である」と、内田樹氏が書いておられました。氏の著作を韓国語に訳されている朴東燮氏が、韓国語版オリジナルとして企画された一冊『図書館には人がいないほうがいい』の日本語訳ーーじゃないですね、もともと日本語で書かれた文章ですから、この場合は日本語版ですかーーに出てくる一節です。

どこまでも続く書棚のほとんどすべての書物を僕はまだ読んだことがない。そして、自分に残された時間の間に読むこともできない。この世界の存在する書物の99.99999……パーセントを僕はまだ読んだことがないし、ついに読まずに終わる。その事実の前に僕はほとんど呆然自失してしまうのです。(23ページ)


図書館には人がいないほうがいい

この「呆然自失」という感覚、とてもよくわかります。図書館もそうですが、私は比較的規模の大きな書店に行くときにも、よくそういう感慨にとらわれます。でも、大きな書店ではあっても蔦屋書店とかジュンク堂とかブックファーストだとあまりそういう感慨にとらわれることが少ないのは、あれはなぜなのかしら。

それはさておき、自分にとって忘れがたいのは、いまはもうなくなってしまった渋谷の大盛堂書店です。たしか「本のデパート」というキャッチフレーズを掲げていたような。スクランブル交差点にはいまも小さな大盛堂書店がありますが、あれとは別店舗で、渋谷駅から公園通りに沿ってすぐのところ、西武百貨店のお向かいぐらい、たぶんいまZARAがある辺りじゃなかったかな。

間口は狭かったものの上の階までぎっしり売り場があって、奥のほうはけっこう複雑な構造だった記憶があります。あまりポピュラーではなさそうな専門書なども多く揃っていて、あの売り場で「ああ、一生かかってもここにある本をすべて読めないんだなあ」といった焦燥感みたいなものに駆られるのがつねでした。

最近、津野海太郎氏の『生きるための読書』を書店で偶然「本に呼ばれて」読んだのを皮切りに、氏の『最後の読書*1、『百歳までの読書術』、『かれが最後に書いた本』など片っ端から読んでいます。さらにその合間に小田嶋隆氏の『諦念後』や藤原智美氏の『スマホ断食』なども読むにつれ、あらためて、ああ、じぶんが生きているうちに読める本はもうそんなに多くない、SNSやネットニュースや動画サイトやゲーム(これはもとから縁がないけど)にうつつを抜かしている場合ではない、とつよくつよく思うのです。


生きるための読書

もとより私は、マンガを除いては電子書籍が読めない(読んだ気がしない・記憶に残らない)体質であることは実証ずみですので、ネットやスマートフォンからはこれまで以上にできるだけ遠ざかって、そのぶん紙の本を読もうと思います。ただでさえ呆然自失とするくらい死ぬまでに読めない本がほとんどだというのに、それがさらに減るのはカンベンしてほしいです。

これも最近、『東京わざわざ行きたい街の本屋さん』の改訂新版が出まして、それほど規模は大きくないものの心ときめく個性的な本屋さんがあまた紹介されています。これからは仕事のない週末に「街の本屋さん」巡りをして、少しでも多く「本に呼ばれる」体験をしよう、Amazonのリコメンドにたよるのではなくてーーそれをこれからの趣味にしようと思い立ちました。


改訂新版 東京 わざわざ行きたい 街の本屋さん

*1:しかも恐ろしいことに、ほんの2年半ほど前にもこの本を読み、このブログにもそのことを書いておきながら、あらためて読んでみたらほとんど内容を覚えていませんでした。若い頃にはまずなかったこうした現象が、ここ数年たびたび起こっているのです。リアルな「老い」を感じます。

Tpongさんのこと

今朝、はてなブログの「購読リスト」を見に行った際、Tpongさんの訃報に接しました。

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Tpongさんとは「はてなダイアリー」の頃にオンラインでつながりができ、何度かオフ会でお目にかかったことがあります。自分のブログを検索してみたら、「お話を聞くのが楽しい」とか「時間があっという間に過ぎた」とか、現在の「出不精でコミュ障」な自分からは想像もできないくらい楽しい飲み会だったみたい。

鳥類の写真撮影をライフワークとされていたTpongさん。北京で仕事をしていた時に、大学のキャンパスでよく見かける鳥のことをブログに書いたら、すぐにコメントで「喜鵲(カササギ)ですね」と教えてくださったことを思い出します。

qianchong.hatenablog.com

ネット上でのコメントと、数回のオフ会でつながりがあっただけで、しかもその後は自分の仕事や暮らしの変化もあってほとんど接点はありませんでしたが、こうして存じ上げていた方の訃報に接すると、やはりいろいろと胸に去来するものがあります。私自身もこの歳になって、知人や私淑していた同年代の方々に「さよなら」を言う機会が増えました。

Tpongさん、楽しい思い出をありがとうございました。どうぞ安らかに。

オススメ本とAIによる校正

勤め先の学校には比較的大きな図書館があって、書籍を貸し出す際には、一番最後のページに貼ってある紙に返却期限の日付がスタンプされます。まだ一度も貸し出されたことがない本にはこの紙が貼られていないので、司書さんが紙を貼ったうえで日付を捺します。ときには何十年も前に購入され、現在は閉架になっている本を取り寄せてみたら、私が最初の貸出者だったということもあります。

その図書館が発行しているニュースレターに、「座右の書」を推薦する文章を寄稿してほしいと言われました。学生さんがその本を読むことで、何がしかの気づきを得てくださったらという趣旨だそうです。私は若いころ、ロシア語通訳者・米原万里氏の『不実な美女か貞淑な醜女か』を読んで通訳者を志したので、この本をオススメする文章を書きました。


不実な美女か貞淑な醜女か

文章を書いてから、ふと思いついてAIに校正してもらいました。日本語として不自然な部分や文意がロジカルでない部分を指摘してもらい、それを参考に書き直すためです。私の文章の大意としては、米原万里さんの本をオススメしたうえで、今後生成AIがどんなに進歩したとしても、人間が外語(外国語)を学ぶ意義はなくならないのではないか、というものでした。

そうしたら、Claudeさんからは「全体として、筆者の外国語学習に対する情熱と意義は伝わってきますが、いくつかの論理的飛躍や表現の不正確さが見られます」と言われました。またChatGPTさんからは「文全体として、主張には熱意があり、読み手に共感を与える力はあります。ただし、いくつかの部分で事例や理論の補足が弱く、説得力をもう少し強化する余地があります」とのこと。

そのうえで「『意義はなくならない』と述べていますが、文章全体として、なぜ『意義がなくならない』と言い切れるのかがやや曖昧です。『生成AIの限界』や『人間にしかできない具体的な要素』をもう少し論理的に補強する必要があります」とか、「『世界の切り分け方は言語によって異なる』という主張は言語相対論(サピア・ウォーフの仮説)を基にした考え方として正しい方向ですが、これに異論がある点も触れると説得力が増します(例:人間は言語に依存しない共通の認知基盤を持つという説もある)」とか、「最終段落の『人類は退化していく』という主張は、言語学習の意義を強調するための誇張と見なせます」など、細かい指摘が入りました。キビシイです……。

先日、高橋秀実氏の『ことばの番人』を読みました。よき文章と出版物にはよき校正者と編集者が必要であり、文章は出版物はひとり筆者のみでは成立しないということがよく分かりました。素人の私にはそんな校正者や編集者はいませんから、それをAIにやってもらったわけです。


ことばの番人

なかには明らかに的外れだと思う指摘もありますが、客観的な視点で厳しく突っ込んでくれるのはありがたかったです。ただ、こうやってAIを使って「壁打ち」のように何度もやり取りをしながら自分で自分の文章を校正するのはいいなと思う一方で、あまりやりすぎると自分が自分でなくなってしまうような不安も感じました。

なんというのか、AIに引っ張られすぎると「漂白」されてしまう気がするのです。文章に多少の瑕疵はあっても、その瑕疵がまさにいまの自分のありようなのですから。自分の「不完全さ」を引き受ける勇気みたいなものも大切なんじゃないかと思いました。

AIの指摘をもとに自分で何度も書き直して、原稿を図書館に送りました。実はこの米原万里さんの本、以前に図書館から「学生さんに読んでもらいたい本」を推薦してほしいという要請があってオススメし、購入していただいていました。それで今回の原稿を書いたあとに図書館で『不実な美女か貞淑な醜女か』を探してみました。書棚にそれはあり、裏表紙をめくってみたら、まだスタンプ用の紙は貼られていませんでした。そっと裏表紙を閉じて、書架に戻しました。

ゲーテはすべてを言った

鈴木結生氏の『ゲーテはすべてを言った』を読みました。新聞の書評欄で「文芸ミステリー仕立てながら」、「無限の知の世界を逍遥する楽しさを示してくれる」と絶賛されていたので興味を持って、仕事帰りに寄った書店で買い求め、一気に読了してしまいました(以下、おそらくネタバレになるかもしれない記述があります)。


ゲーテはすべてを言った

ゲーテの名言「とされる」言葉をめぐって、アカデミズムの世界に生きる人々の生態(?)がちょっと衒学的にすぎるんじゃないのくらいの勢いで描かれます。でも決して高慢でもなく鼻につく感じでもなく、博覧強記な作者が次から次へと投げ込んでくる知識やエピソード*1に「へええ」、「ほおお」などと好奇心を刺激されつつ、最後はある種の爽やかさまで感じる……そんな読了感でした。

ドイツ語、英語、ヘブライ語に中国語まで登場するので、語学好きな人間にはことに興味をひかれる一冊です。さらに「済補(スマホ)」とか「文字文字(もじもじ)する」という日本語も新奇だけれどやけに説得力がありますし、登場人物の名前が「博把統一(ひろばとういち)」とか「芸亭學(うんていまなぶ)」とか、いかにも意味ありげなのがまた楽しい*2。そういえば統一の娘の名前「徳歌(のりか)」はひっくり返すと中国語の“歌德(gēdé:ゲーテ)”ですね。

この小説は「名言」をめぐるお話ですが、その名言や格言なるものにまつわる一種の危うさや「いかがわしさ」についても踏み込んでいて、それもまた個人的にはツボでした。先般、アン・モロー・リンドバーグの名言とされる「人生を見つけるためには、人生を浪費しなければならない」の出典が見つからない件について、このブログで追いかけてみたところでしたから。

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作者の鈴木結生氏ご自身はアカデミズムの世界に身を置いておられる方のようですが、その氏がアカデミックなものに対するある種の偏愛ぶりと同時に、どこか冷めた視線をお持ちなのもいいなあと思いました。

*1:思想書や文学書はもちろん、映画から音楽からマンガまでものすごく幅が広いです。

*2:芸亭」は日本最古の図書館とされている施設で、そこで学ぶと読んでもいいですし、「芸亭」を「げいてい」と読めばまんま「ゲーテを学ぶ」という感じで言葉遊びが楽しいです。「藝」が「芸」になったいきさつも中国語学習者ならおなじみの「うんちく」も加味されて「分かる人には分かる」楽しさが追求されています。

冷凍餃子

「夜ご飯しんどくて」冷凍餃子を調理して出したら、子どもは「美味しい!」と喜んだものの夫が「手抜きだよ」と言い放った……という「冷凍餃子手抜き論争」がネット上をにぎわせたことがありました。この話の前段には、スーパーの惣菜売場で高齢男性が「母親ならポテトサラダくらい作ったらどうだ」と言い放って立ち去ったという、いわゆる「ポテサラおじさん論争」もありました。

いずれも「炎上」しやすいことこの上ない話題です。私もふだん炊事を担当しているので、かつてSNSを使い倒していた頃だったら、論争に真正面から突っ込み、憤慨と興奮とSNSでの反応のチェックに心穏やかではいられず、結果、数日は仕事がほとんど手につかない状態に陥ったでしょう。いまさらながら、心惑わすSNSから降りてしまって本当によかったと思います。

ただ「冷凍餃子手抜き論争」に対しては、「味の素冷凍食品」の公式アカウントが「冷凍餃子を使うことは『手抜き』ではなく『手“間”抜き』です」と投稿して喝采を浴び、冷凍餃子のイメージアップにもつながったという展開がありました。もう誰も覚えていないかもしれませんが、中国製の冷凍餃子に高濃度の農薬成分が混入していた事案で大騒ぎになったころ(15年くらい前でしたか)からすれば、隔世の感があります。

かく言う私は餃子を皮から作るのも好きですが、よく冷凍餃子のお世話にもなっています。それこそ「夜ご飯しんどい」ときには重宝するんです。しかもきょうびの冷凍餃子は商品開発の工夫が半端ではなく、油も水もフライパンの予熱なども一切不要で、ただ冷たいフライパンに餃子を並べて蓋をしてから、弱火で5分から7分ほど焼くだけできれいな羽根つき餃子ができてしまうという「進化」っぷりです。

私は冷凍ではない、いわゆるチルドの餃子や生の餃子を買って帰って焼くこともあるものの、昨今の冷凍餃子はそれらに勝るとも劣らないものがあります。味の素には「米粉でつくったギョーザ」というのがあって、これは中高年にもうれしい「さっぱりめ」の味で、スーパーで見つけたら買っています。けっこうレアな商品みたいで、うちの近所のスーパーではたまにしか入荷しないんです。

さらに先日、おなじ味の素の「海老大餃子」というのがスーパーで売られていました。こちらはか・な・り・おいしかったです。bibigoの「王マンドゥ」も春雨が入っていたりして好きなのですが、それをはるかに越えて、もはや「お店屋さん」の餃子みたい。価格は「米粉でつくったギョーザ」の3〜4倍くらいしますけど、これも見つけたら即買いです。

東急ストア三軒茶屋店

私は東急世田谷線の沿線に住んでいて、いつも利用しているスーパーマーケットは松原と上町の「オオゼキ」、それに三軒茶屋の「東急ストア」です。その三軒茶屋の東急ストアがしばらく休業していたと思ったら、昨年末にリニューアルオープンしました。これまではどちらかというと庶民的な雰囲気だった店内が、すこし高級スーパー寄りに変身していたので驚きました。

同社のプレスリリースによると、「三軒茶屋は単身や2人世帯が多いエリア」だとして、その客層に向けた商品のラインナップを意識したようです。確かに、オープンキッチン方式の鮮魚売場や惣菜売場ができ、オーガニック食材や高級食材の冷凍食品スペースがぐんと増え、ワインやクラフトビール、それに合わせたチーズやハムなどおつまみ系の品揃えが充実。ペット用の冷凍食品まで専用の冷凍庫ができていたのは驚きました。

なんというか、かつての西友とかマルエツとかサミット的な雰囲気だったところから、ビオセボンとピカール成城石井に寄せた雰囲気になっていたのです。う〜ん、余計なお世話かもしれませんが、三軒茶屋ってそこまでセレブリティな街ではないんじゃないかと、私などは思うのですが。同僚には「お世田谷にお住まいで」などと冷やかされますが、ほかのエリアはいざ知らず、世田谷線沿線はけっこうひなびた*1庶民的な街だと、じっさいに住んでる自分は思います。350mlの1缶が600円も700円もするクラフトビールがこの街でそんなに売れるかなあ……。

個人的には見ていて楽しい品揃え(あまり手は出せないので申し訳ないけれど)なので、このリニューアルが成功してほしいと思います。それに以前はなかったセルフレジが大量に導入されていて、これも「コミュ障」気味の自分にはとてもありがたいですし。

ちなみに同時期にオオゼキ三軒茶屋店がオープンしたので、こちらもかなり期待して出かけてきたのですが、スペースが狭いせいかオオゼキにしてはちょっと平凡な品揃えになっていて残念でした。オオゼキは店舗によって鮮魚とか野菜とか精肉とか、何かしら個性があって私はいちばん好きなスーパーなんですけど。

*1:都内でも屈指の空き家率の高さだそうです。

東京サラダボウル

コミュニケーションにおいてはいわば「黒子」であるはずの通訳者、それも中国語の通訳者が主人公という珍しいドラマが始まるということで、とっても期待して見たNHKドラマ10の『東京サラダボウル』。原作は黒丸氏のマンガとのことで、こちらも電子書籍版を購入し、並行して読み始めました。

www.nhk.jp


東京サラダボウル ー国際捜査事件簿ー

ドラマは全9回のうちまだ2回目までしか放映されていませんが、いまのところおおむねマンガのプロットに沿った作りになっているみたいです。となれば、やはりこれは、近年「『人種のるつぼ』ではなく『人種のサラダボウル』」論で語られるようになったアメリカ社会を念頭に置きつつ、さまざまな人種や言語や文化、そしてセクシュアリティが混在している現代の東京を描き出していくというストーリーになるのでしょう。

仕事柄とても興味をそそる内容ですし、第2回目で主人公の有木野了(松田龍平氏が演じています)が中国人の沈一諾という人物に通訳の種類(逐次通訳や同時通訳など)についてレクチャーするところなんかは、「まるでうちの学校でやってる授業みたい!」と同僚と一緒に盛り上がりました。中国語のスラング“打臉”をキーワードにした誤訳騒動も、すごく興味深い(というか身につまされます)。

ただ、松田龍平氏はとても頑張ってらっしゃる*1ので、こんなことを言うのは無粋なのですが、やはりセリフの中国語じたいはとても拙く、聞きづらくて、私自身はどうしてもドラマに入り込めませんでした。このドラマを見るのは主として中国語を解さない日本語母語話者の方々なのですから、そのへんのリアリティなど最初から追求していないことは分かっているとはいえ。

あと、無粋ついでに申し上げれば、ほかの出演者の演技もかなり表層的というか「つくりもの感」が否めません。どうして日本のドラマはこうなっちゃうのかな。中国語圏にもいわゆるアイドルドラマみたいなのはあって、お世辞にも質が高いとはいいがたい作品もあります。でもその一方で、俳優の演技に知性と技術の深みに加えて人間の深さをも十二分に感じる、こちらが襟を正されるようなドラマも多い。

かつて私は、自分が日本語母語話者だから日本人俳優の演技やセリフに対して不当に点が辛くなるのだと思っていました。逆に中国語圏や英語圏のドラマに優れたものを感じるのは、畢竟それらの言語が母語ではないからなのだと。でもここ数年、職場で接する多くの外国人留学生が異口同音に「どうして日本のドラマは演技のヘタなアイドルが主役をやるんですか」と言うのを聞いて、やはり現代日本の(かつてはいざしらず)ドラマの質は諸外国に比べて相対的に低くなっていることを認めざるを得なくなりました。

実際、私はもう長い間、朝ドラも大河もその他のドラマも、日本のものはほとんど見なくなりました。といってもテレビじたいをほとんど見なくなっているので、私が言ってもあまり説得力はありませんが。


井上純一『がんばってるのになぜ僕らは豊かになれないのか』p.5

かつて劇作家・演出家の平田オリザ氏が、諸外国では演劇専門の高等教育機関があるのに日本にはそれがないと指摘されていました。その後平田氏らが旗振り役となって兵庫県豊岡市の芸術文化観光専門職大学が開校したりしていますが、これとてまだ緒についたばかり。中国の「中央戯劇学院」、「上海戯劇学院」、「中国戯曲学院」や台湾の「国立台北芸術大学演劇学院」みたいな国立の学府はいまだありません。東京藝術大学にも演劇学科はないものね。

日本のドラマや映画をすべて見ているわけでもないくせに、ちょっと大風呂敷を広げすぎました。でも今回久しぶりに日本のドラマを見て、これは作り手の問題とともに受け手の問題でもあるのではないかと思ったので、こんな一文を書いてみた次第です。受け手がもっと厳しい意見(悪口ではなく批判)を持たなければ、日本のドラマや映画の凋落はもっとひどくなるのではないかと思うから。

*1:「中国語を話す役は初めてで、先生にマンツーマンで丁寧に教えてもらいました」とインタビューで語っておられます。

翻訳をジェンダーする

職場の専門学校では、外国人留学生が通訳訓練の一環として日本語の演劇に取り組んでいます。脚本は私が書いているのですが、一昨年に上演した、擬人化されたさまざまな料理たちが「世界三大料理」の座を争うというコメディ『世界三大料理〜帝国の逆襲〜』には、こんなセリフがあります。

アメリカ料理:Make America great again and again and again! 茶番は終わりよ!
フランス料理:ちょっとあんた、まだ性懲りもなく表舞台に登場するつもり?
アメリカ料理:なんだかんだ言っても、やっぱりアタシが出張らないと、世界の秩序は保てないの。実力と人気を兼ね備えた存在って、ある意味、罪よね。
中華料理:ふざけないで! 独りよがりな価値観を押しつけられちゃ迷惑なのよ。世界はもうとっくに多極化してるんだから。
ロシア料理:いかにも。たかだか二百数十年しか歴史のないアメリカ料理が料理界の秩序うんぬんだなんて、片腹痛いでアナスタシア。
中華料理:いいこと言うじゃない。
ロシア料理:これはどうも、痛み入りマトリョーシカ
中華料理:どう? ここはひとつ、アタシと組まない?
フランス料理:あんた、だんだん節操がなくなってきたわね。

脚本を書く際、私は自分が担当している外国人留学生のうち、特定の誰かを想定してセリフを作っていません。同じ配役の学生がお互いに学び合うという学習効果も期待してダブルキャストやトリプルキャストにするので、なるべく誰が演じてもよいようにしているつもりです。でも上掲のセリフの日本語からは、ひとつだけ比較的はっきりと読み取れる属性があります。それは性差です。

「終わりよ」、「アタシ」、「罪よね」、「迷惑なのよ」、「なくなってきたわね」……これらの語尾(文末詞)から受ける印象は、人によって多少の意見の相違はあるでしょうけど、おおむね「女性らしい」感じではないでしょうか。いわゆる「役割語」というやつです。「そうじゃ、拙者が存じておる」と言えば時代劇に出てきそうな武士で、「そうや、わてが知っとるでえ」と言えば関西のお笑い芸人さん……みたいな*1

こうした役割語のうち、特に「女性らしい」文末詞について分析した、古川弘子氏の『翻訳をジェンダーする』を読みました。この本では、小説作品における女性の登場人物の話し方について、上述したような「女性らしい」文末詞がどれくらい使われているのかを、翻訳作品・日本人作家による日本語作品・児童文学作品などで比較し、さらに翻訳者の性別や年令によって差があるのかについても調べています。


翻訳をジェンダーする

またそうした作品における「女性らしい」文末詞が、実際の女性の会話ではそれほど使われていないことも示されています。つまり、ここには女性に対するステロタイプな見方が存在するとして、古川氏はそれを「保守的」と呼んでいます。氏の分析によれば「女性らしい」文末詞の使用頻度、つまり「保守的」な度合いは、実際の女性<日本人作家による日本語作品の中の女性<翻訳作品の中の女性と強まり、また同じ翻訳作品でも大人向けの文学作品<児童文学作品と強まり、さらに女性翻訳者<男性翻訳者と強まるのだそう。

つまり「保守的」であればあるほど、ステロタイプの度合いが強い、つまりは「よ」、「よね」、「わね」、「なのよ」などを多用するというわけです。実際の女性はそこまで多用していないにも関わらず。なるほど、私が上掲のお芝居のセリフで多用している「女性らしい」文末詞の数々も、そうしたステロタイプな見方の産物とも言えそうです。

ただ、うちの学校の外国人留学生に限って言えば、私がほぼ無意識のうちに女言葉や男言葉を用いてセリフを書いた台本を読んで、当の留学生諸君は各自のジェンダーにかかわらず、言葉の性差にあまりこだわることなく役柄を選び、そのまま女言葉や男言葉を用いて演じています。なんというか、かなりユニセックスな感じが自然に醸し出されてくるのです。

もしこれを日本語母語話者の学生さんたちが演じるとしたら、役柄の選択から演技まで、かなりジェンダーのバイアスがかかるのではないかと想像します。男性が女言葉を喋るのは恥ずかしいとか、女性が男性言葉を喋るのは不自然だとか……してみると、留学生のみなさんにユニセックスな雰囲気が備わるのは、日本語を母語としていないために、かえって日本語の女言葉や男言葉に先入観や抵抗がないからではないかと思いました。

外語でも、例えば英語の“He/She”とか中国語の“他/她(発音は同じ)”とか、この本でも取り上げられている言葉の性差はあり、またそれらを超克するための三人称単数としての“They”やスウェーデン語の性を限定しない代名詞として定着しつつあるという“hen*2”などもこの本で紹介されています。それでも日本語における男言葉/女言葉のボリュームに比べれば、少なくとも英語や中国語ではそうした性差はかなり少ないです。

こうした文末詞などに無意識のうちに織り込まれている「女らしさ」や「男らしさ」をどう乗り越えていけばよいのかという本書の提起には考えさせられるものがたくさんありました。とはいえ、では実際に上掲のような台本のセリフをいわゆる役割語を極力排して書こうとすると、これがなかなか難しいのです。なんというか、とてもフラットではあるけれど、お芝居のセリフとしては活き活きとした感じが欠けてしまうというか。

この点で私は、この本で主張されている「女らしさ」や「男らしさ」へのステロタイプな(保守的な)スタンスへの批判に共感しながらも、文学作品や、私が書いたような台本の言葉遣いと、現実の言葉遣いに差異があることを、フィクションとしてある程度受け入れる余地は本当にないのだろうかと考えました。それらを完全に取り払ってフラットにするのが本当にいいのかどうかについては、私自身まだ答えが出せないでいます。

外国人留学生が操るユニセックスな感じの日本語の台詞を聞いていて、もしかしたらこういうふうに女言葉/男言葉を凌駕して自由に話すことができるようになることこそ、ひとつの止揚になるのかもしれない……そんなことを夢想しました。

*1:金水敏『バーチャル日本語 役割語の謎』岩波書店

*2:この本によれば、もとより性差のない三人称代名詞として存在していたフィンランド語の“hän”を参考にしたのだそうです。

かしわうどん

よんどころない事情があって、年末と年始にそれぞれ一度ずつ、東京と実家がある北九州市を往復しました。ハイシーズンで航空券の価格がとんでもないことになっているので、いつも利用する羽田・北九州間のスターフライヤーを断念して新幹線を利用しましたが、思いのほか快適でした。いまの「のぞみ」は品川・小倉間で4時間半ほどなんです。空港へのアクセスや待ち時間などを考えたら所要時間は変わりませんし、それなら都心に直結している新幹線を利用したほうがはるかに便利だと思いました。

北九州市内の移動にローカル線も使いました。それで思い出したのが、駅のホームにある「立ち食いうどん」屋さんです。もう思い出せないくらい昔に一度食べたことがあるだけの「かしわうどん」を食べてみようと思って。関西では鶏肉のことを「かしわ」と呼びますが、この「かしわうどん」は鶏肉を甘く煮付けたのが薄味だしのうどんの上にのっているのです。

「ぶらっとぴっと」という人を食った名前のこのお店、うえやまとち氏の『クッキングパパ』にも登場したことで有名です。金丸産業の新入社員・江口くんが社長や荒岩主任などを連れてわざわざ博多から食べに来たのがこのホームにある立ち食いの「かしわうどん」。社長が言うように「細かくスライスされた甘辛いかしわとあっさりしたスープがよくあって実にうまい」のです。寒空のもとで食べていると、関西弁の「しゅんでる」という言葉が脳内に浮かびます。


『クッキングパパ』第59巻

江口くんは必ず小倉駅の7・8番ホームにある「ぶらっとぴっと」で食べるそうですが、実は1・2番ホームにも同じお店があって、こちらのほうがよりローカルな路線なので空いています。新幹線で東京に戻る際、駅の売店にこの甘辛く煮込んだ「かしわ」だけパックされたのが売られていたので、お土産に買い求めました。

そういえば小倉駅の名物駅弁といえば、この「かしわ」と錦糸卵と海苔がのった「かしわめし」で、こちらも帰りの新幹線の車内で食べたいなと思っていたら、現在は入荷が止まっているとのことでした。残念ですが、またの機会に。