母親が亡くなったので、実家のある北九州市に数日間行ってきました。母は長い間難病を患っていたので心の準備はできていましたから、訃報を聞いたときも「そうか……よくがんばったね」と静かに受け止めましたし、葬儀に関するあれこれもとても淡々としたペースで進みました。
というか、実家から遠く離れた東京に長く住んでいる私は、実際のところ実家とはかなり疎遠な親戚みたいな感じになっています。それで、葬儀については実家の父親と、実家近くに住んでいる妹の二人が万端整えてくれていて、私たち夫婦はただ寄り添うことくらいしかできないのでした。
父親は、自分と母親の葬儀のために葬祭会社による互助会のようなものに入っていて、毎月お金を積み立てていました。それが満期になっていたので、葬儀の費用はそこから捻出できることになっています。とはいえ、葬祭というものにはさまざまなオプションの選択肢があり、その選択次第では費用もかなり違ってきます。私はそれを、かつて義父の葬儀の際にいろいろと経験しました。
葬祭会社はもちろんお仕事ですから、きわめてていねいな口調ではありながらこちらの懐を探ってこられます。ただでさえ親族が亡くなって茫然としているところに、あれこれの選択が迫られ、そこにスタッフさんの「通常みなさま◯◯をお選びになります」的な営業トークが重なると、ついつい出費がかさむ方向に導かれてしまうのです。
そんなときはむしろ私のような「疎遠な親戚」的立場にある者のほうが冷静になれるのかもしれません。父親や妹が「だったら、このクラスでお願いしようか」的な判断をしそうになるたび私が「いやいや、もう少し考えてみたら」と袖を引っ張りました。そうやって、祭壇も棺桶も霊柩車も一般的でリーズナブルなところに抑える一方で、お花などはあまりケチらないという方向で落ち着きました。
それでも(これが葬祭会社の上手なところなのですが)互助会の満期になっていた会費を差し引いても、結局は葬儀の会場や司会やお坊さんの手配や火葬に必要なあれこれや、つまりは出費を抑えることができないたぐいの固定的な費用がどうしてもかかるようになっています。結果、私個人の金銭感覚からすればかなりの出費になっていました。もちろん父親も妹もその他の親族も納得のうえですから、何の問題もないとはいえ。
ともあれ、葬儀から火葬までを無事にすませ、私は東京に戻ってきたわけですが、その一連の流れに身を置きながら、やはり自分が死ぬときにはこういった一切とは無縁でいられたらいいなと思っていました。葬儀も、戒名も、墓所も、その後の供養も一切。火葬だけはしてもらわなきゃならないですけど、骨は拾わなくていいし、もちろん骨壺も仏壇も位牌もいらないし、骨はその場で火葬場に「処理」してもらって、埋葬も散骨もしなくていいです。
とはいえ、いくら自分がそう望んでも、家族はそういうわけにはいかないでしょう。というか、葬儀や供養にまつわるあれこれは、そもそも死んだ本人のためのものというよりは、残された人たちにおける心の安定のためのものなのです。そう考えればどうせもう自分は死んでいるんですから、その後に家族がどういう葬儀や供養をしようと知ったこっちゃない(死んでるんだから知りようがない)ということになるんですけど。
ちなみに妻は私と真逆で、盛大に葬儀と供養をしてほしいんだそうです。会葬者もできるだけ多く呼んでほしいし、一大イベントとして盛り上げてほしいって。はいはい、あなたが先に死んだら、そのとおりにして差し上げますよ。