恐山あれこれ日記

恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「『正法眼蔵』私流」第10回のお知らせ

2024年11月07日 | 日記
東京赤坂・豊川稲荷別院様での講義「『正法眼蔵』私流」第10回は、

12月は休講につき、来年1月24日午後6時より行います。

なお、別院様の開場時刻は午後5時30分です。

その他の参加要領については、2024年1月18日付けの本ブログ記事をご覧ください。

ロックな男

2024年11月01日 | 日記
 以前、あるところで講演を終えて、さあ帰ろうと会場の出口まで差しかかった時、若い男の人がニコニコしながら近づいて来て、

「いやあ、今の話はロックだなあ!!」

 と、感に堪えないという風情で言うのです。

 私は「岩」のことか思って、

「そんなに堅い話でしたかねえ・・・」

 ところが、彼の言う「ロック」は、「岩」ではなく「ロックンロール」の「ロック」だったのです。

 およそ音楽に疎い私ではありますが、「ロック」というジャンルの楽曲には、どこか反抗的というか、反体制的というか、常識外というか、その種のプロテストの気概とアウトサイダーの自意識があるように見えます。

 では、私の話にもそういうとことがあるのか? さらに、私自身には、仏教をベースに話している自覚あることからして、仏教にも「ロック」なところがあるのだろうか?

 もし「ロック」に反抗的・反体制的・常識外的要素があるとするなら、不可避的に矛盾が出てきます。

 まず、「反抗的・反体制的・常識外的要素」のインパクトを強めたければ、「反抗の対象・体制・常識」の正体を熟知すべきです。正体のわからない敵と効果的に戦うことはできませんし、そもそも戦いにならないでしょう。

 もう一つは、「反抗的・反体制的・常識外的」的でありたければ、完全に「犯行の対象・体制・常識」を破壊してはなりません。そもそも「ロック」は商品として流布したのですから、いわゆる「メジャー」になりたければ、すでに存在している市場のルールと慣習を前提にせざるを得ません。
 
 そうだとして、私の話に「ロック」的要素があるとすれば、それは、世間が「常識」としているような考えや行動、当たり前だと思っている社会思想・システムは、そのもの自体に存在根拠があるのではなく、すべて一定の条件下において暫時仮設されたものに過ぎないと考えている点でしょう。

 これは「常識」や「体制」に否定ではありません。それをいつでもどこでも「正しい」と思いこみ、反省や改良の余地を持たない態度に対する批判なのです。

 私の話が「面白い」と、笑ってくださる人がいますが、「笑い」の本質は批判です。「真面目」な物事の構造を見抜き、その組み立てを脱臼させることが、「笑い」を起こす基本的な技術でしょう。そこに「真面目さ」に対する鋭い批判精神が宿るのです。

 あえて言わせていただければ、仏教は「素晴らしい人生」をもたらす教えではありません。「死」という絶対に理解できない消失点に向かって、いかに生きるかということを学ぶためのものです。

 だとすれば、これが常識的な「素晴らしさ」の話ではないことは自明です。そして「死」から反照された「素晴らしさ」があり得ると信じることが、「ロック」な仏教の本領だと、私は思うわけです。




「『正法眼蔵』私流」第9回のお知らせ。

2024年10月20日 | 日記
東京赤坂・豊川別院様での講義「『正法眼蔵』私流」第9回は、

11月5日午後6時より行います。

なお、別院様の開場時刻は午後5時30分です。

その他の参加要領については、2024年1月18日付けの本ブログ記事をご覧ください。

三種の言葉

2024年10月01日 | 日記
「君が講演や法話をすると、聴いていた人から『大学は落研(落語研究会)だったんですか?』と言われるそうだな」

「そうなの。何度言われたかわからん。先輩に回転しない寿司屋さんに連れて行ってもらった時、カウンター越しに我々の話を聞いていた店主に、『えっ、そちらさんお坊さん?! 噺家かと思った』と言われたこともある」

「確かに、あの話しぶりと所作からすれば、そう思われたって無理はないな」

「うん。で、本と全然印象が違う、って言われる。本に書いてあることは難しいし」

「だから、本から察すると、気難しくて怖い人、のように思うわけだろ」

「そのとおり。まさに書き手の未熟なんだけどね。申し訳ない」

「どうして、あんな書き方しかできないの? 小難しく書くのが好きなの?」

「とんでもない。ただ、僕がものを書く時には、まずは自分の考えをなるべく明確に書くことに意識が集中してしまう」

「つまり、読み手に配慮するより、考えをまず言語化することに気持ちが向くわけか」

「それで、非常によくない癖なんだが、とりあえず考えが言語化できて、自分自身を説得できてしまうと、それ以上説明する元気がなくなって来るんだよ」

「だめだろ、それは! 本、買ってもらうのに」

「そう、全面的に僕が悪いんです。でも、さらに説明を足して『わかりやすく』しようと加筆すると、今度は自分の考えが曇るような感じがして、ほとんどの場合、元にもどっちゃう」

「だめだろ、それも! プロなのに」

「あの、僕、プロの物書きではないんだけど・・・」

「でも、不親切きわまりない」

「反論の余地も無い。すまん」

「じゃ、講演や法話は、どうしてそうならないんだ」

「ぼく、子供のころから、読みたくない本を読んだり、聞きたくない話を聞くのが、ものすごく苦痛なの。だから、今まで、他人の講演を聞きに行ったことがない。途中で出るのは失礼だし」

「それで?」

「だから、自分の話を聞いた人が辟易したり退屈にならないように、講演や法話のように、一方的に大勢の人に話をする時には、自分が心底そう思ったことで、自分が本当に面白いと思ったことしか言えないんだ」

「すると、ある程度説得力が出て来ると」

「そうなるといいな、と期待してるだけ」

「でも、そこそこウケたりするんだろ」

「そういうところがある。でも、問題なのは、そうすると、話が限られてくる。『心底そう思う』『面白い』話など、そうそうあるものではない」

「それは持ちネタが少ないということか?」

「と言うか、必ずしも数の問題ではなく、話の内容をいくつかのパターンに落とし込んで、数種類の『話術』にしてしまう傾向があるんだな」

「それがイヤだと」

「そういうやり方もあるし、必要だとも思うんだが、やっているうちに何かリアルでない感じがしてきて、テンションが下がるんだな」

「ほう。初めて聞いたな」

「そもそもね、僕は大勢の人に一方的に話をするのが、得意ではないの」

「そんなこと、誰も信じないぞ」

「わかってる。でも、本当だよ。僕の場合、確かにそれなりのテクニックはあるんだろうが、意識的に気分を盛り上げないと、話に勢いがつかないし、最後まで気力が持たないの」

「つまり、本人としては、かなり無理していると」

「そういう感じ」

「じゃ、無理してない話とは?」

「これははっきりしてる、対話。ぼくは、おそらく演説型ではなく、対話型。対話している時、一番思考と言葉が自由になる」

「具体的に言うと?」

「相手の思考と言葉にインスパイアされて、自分の思考と言葉が予期しない流れに展開したりする。その流れに、とても自由な感じ、快感があるんだ」

「言いたいように言えるということでもない?」

「そう。自分の思い通りに話せるということではなくて、思考と言葉そのものが自己展開するみたいな感じが、好きなんだな」

「じゃ、対談本が好きなのか?」

「いや、ちょっと違う。対談はよいが、本にするのは別の手続き」

「面倒な奴だな」

「と言うよりも、自分の言葉が面倒なの」

「君も言葉も、もうどうしようもないな」



遅くなってすみません。「『正法眼蔵』私流」第8回のお知らせ。

2024年10月01日 | 日記
東京赤坂・豊川別院様での講義「『正法眼蔵』私流」第8回は、

10月4日午後6時より行います。

なお、別院様の開場時刻は午後5時30分です。

その他の参加要領については、2024年1月18日付けの本ブログ記事をご覧ください。

決めない力

2024年09月01日 | 日記
 ちょっと仏教を勉強した人なら誰でも知っているであろう、とても有名な話に「毒矢の喩え」があります。

 ブッダの弟子で、ある疑問を持つ者がいて、師であるブッダが一向にこの疑問について答えてくれないので、修行を捨て還俗しようと考えました。

 その疑問とは「世界に終わりがあるのか、無いのか」「世界は有限なのか、無限なのか」「霊魂と身体とは同じであるか、別なのか」「如来は、死後も存在するのか、存在しないのか」、この4つでした。

 弟子がこれを最後と問うた4つの質問に、ブッダは「毒矢の喩え」を説きます。

「毒矢に射られた人が、毒矢を射ったのはどんな人か、どのような弓で射ったのか、その矢はどんな形だったのか、それがわかるまでは毒矢を抜いてはいけない、などとと言っていたらどうなるか? その人は死んでしまうだろう」

 つまり、この喩えは、弟子の言うような四つの質問に拘る者は、毒矢に射られた人と同じだと言うわけです。現に苦しみの中にある人にとって、4つの質問に出るような議論は無意味であり、まずは苦しみを脱する修行をすべきなのです。そして仏陀はこの四つの質問に答えず、自分が答えないなら、答えないことを教えとして受け取るように、弟子に説きます。この答えない態度を「無記」と言います。

 昨今、世間では「分断」ということがよく言われます。政治的あるいは社会的に意見や立場の異なる人々が、互いに自らの正当性を主張して譲らず、現に存在する深刻な問題の解決に中々結びつかない状況は、世界のいたるところで見て取れます。

 もし、互いに正当性を主張すれば、その根拠をめぐって際限ない応酬になるでしょう。まさに4つの質問をめぐる議論のようなものです。

 ならば、このような場合、世間にも「無記」という方法を使う余地があるでしょう。すなわち、正誤、善悪など、事の白黒を「決めない」のです。

 その昔、対立する政党の政権を「決められない政治」と揶揄した政治家がいましたが、「決められない」のではなく、「決めない」ことに大きな意味があると、私は思います。

 けだし、世間で闇雲に白黒をつけたがるのは、思春期レベルの幼稚な人間です。真っ当な大人なら、白黒をつけるのに血道を上げるより、目の前の問題を処理する方法を考えるべきでしょう。ならば、どうするか。

「折り合う」他、ありません。主張の違いが如何ともしがたい状況なら、互いの正当性を適当に曲げて、折り合うのです。それができないなら、次は自らの正当性を暴力で押し通すことになります。もしそうすれば、いかなる正当性も失われます。

 もし暴力に「正当性」が生じるとすれば、それは暴力そのものの中からではなく、結果的に「勝った」からです。これはもはや「正当性」ではなく、「戦利品」でしょう。

 白黒が簡単につくような物事は、所詮は些事です。国の大事を何とかしようというような場合には、時として、この決めずに折り合う技術を使うのが、大人の智慧というものでしょう。そして、民主的な社会には大人の智慧が要るのです。手間と時間をかけて苦い対話を続ける覚悟が、必要なのです。

 ということは、手間を省いて白黒をつけるのに急で、ただ効率だけを追求し続ける社会は、確実に幼く、脆く、愚かになっていくでしょう。





いわば美魔湖?

2024年08月01日 | 日記
 写真は恐山の宇曽利湖です。写真はネット上のものを拝借しました。雰囲気がよく出ていると思います(撮影者の方がわからず、恐れ入ります)。 

 宇曽利湖は火山の噴火でできたカルデラ湖で、水深の違いがある上に、そこに空の色が映って、湖面が七色に輝くと言われています。もちろん、日本にも世界にも、美しい湖は数多くあり、景勝地にもなっていますが、ただ宇曽利湖の美しさには、何か尋常ならざるものがあるような気が、私にはするのです。

 「神秘的」と形容される湖は少なくないように思うのですが、私が宇曽利湖に感じるのは、むしろ「魔術的」と言いたくなる何かです。

 宇曽利湖には「極楽浜」と呼ぶ白い砂浜がありますが、時々そこに、若い男性や女性が一人で坐りこんで、何時間も湖を見つめていることがあります(それほど多くはないが、中高年もいる)。一度、午前10時頃見かけた女の人が、夕方の4時に、同じ場所で同じ姿勢のまま、坐っていたのを見ました。

 7,8年前だったと思いますが、参拝の方が、「湖の浜に変な人がいます、ずぶ濡れで歩き回っています」と、知らせに来ました。

 急いで行ってみると、確かに若い男が全身びしょ濡れで右往左往しています。びっくりして、事情を訊くと、眼が痛くて開かないと言うのです。

「湖の水が目に入って・・・・」
 
 宇曽利湖は湖底からも火山ガスが噴き出していて、水は強酸性です。それが目に入ったら、眼科で洗い流してもらっても、一週間近くは痛みが残るほどです。入った直後は、刺すような、焼けるような激痛です。

「君、まさか泳いだの!?」

「あの・・・、ずっと湖を見ていたら、なんだか歩いて行けそうな気がして・・・」

 それで、つい足を踏み入れて行ったら、いきなり深みにはまって、溺れかけたらしいのです。運よく、やっとの思いで浜に戻れたものの、水に眼をやられて何も見えず、浜をふらふらと歩き回っていたわけです。

 思うに、いかに神秘的な湖でも、他ではこうしたことはまず起きないでしょう。しかし、それが宇曾利湖だと起きる。ここが魔術的に思えるのです。

 この、ある種異様な美しさは、何に由来するのか。

 先に宇曽利湖は強酸性だと言いました。その結果、植物を含めて、ほとんど生き物がいません。例外として有名なのはウグイで、これが唯一の生き物と言うくらいです。しかも、湖に広範囲かつ多量に生息するわけではありません。

 この動植物がほとんど生きられない環境が、湖水を非常に澄んだ清浄な状態にしているのです。それは言わば、死を湛えた美しさと言えるのではないでしょうか。この美しさが、我々の内側にある死を触発するように、私には思えてなりません。

 死は、自分の外側ではなく、内側にあります。死は、我々に外から近づいてくるものでも、我々が近づいていくものでもありません。死は、我々が生きていると、その内部に育ってくるのです。

 我々が「生きる」という言葉に実感を持ち、「生きる意味」「命の重さ」などという言葉が理解できるのは、死ぬからです。

 生にかかる死の重力を、宇曽利湖は感じさせてくれる、そんな気がするのです。

 
 

  

作法とマニュアル

2024年07月01日 | 日記
 修行道場に入門すると、日々の物事の進め方には厳格な手順が定められていて、それに従うことが必須とされます。いわゆる「作法」です。

 私が修行した道場は、それがひと際厳格で、とりわけ食事作法はなどは、最初の頃は作法どおり食べることで精一杯で、味などまるでわかりませんでした。お腹が空き切っているのに、食べ物が喉を通らない思いをしたのは、後にも先にも、あの時だけです。

 どうしてこれほど厳格に作法の遵守が求められるのか、入門後しばらくは訳がわかりませんでしたが、しばらく四苦八苦しているうちに、作法がそれなりに身についてくると、なるほどと思うようになります。

 まず、何かを行う時に手順や方法が決まっていると、間違いが少ないのです。特に集団で作業する時などは、ミスでお互いを妨げることがありません。それは同時に、効率の良さにつながります。作法に馴れると、度々考える必要が無く、ほとんど流れ作業のように物事が進むのです。

 この「作法」の正確さと効率の良さは、他の分野や業務では、「マニュアル」と呼ばれて重宝されます。一度物事が「マニュアル」化されると、正確さと効率性のみならず、業務の引継ぎにも便利ですから、次第に仕事の「マニュアル」依存が起きたりしがちです。

 とはいえ、これが経済活動の分野になると、状況の変化にすばやく対応しなければなりませんから、「マニュアル」の見直しや調整、あるいは改変などが必要で、同じ「マニュアル」が長く利用されることは稀でしょう。ですが、修行道場の場合だと、別に競争相手がいるわけでもなく、日々の修行生活に大きな変動はありませんから、長きにわたって同じ「作法」が引き継がれるわけです。

 さらに言うと、この「マニュアル」と「作法」には、決定的な違いがあります。それは「敬意」の有無です。

 「マニュアル」を正当化し、その正当性の根拠となるのは、一にかかって物事を進める上での正確さと効率性です。それに対して、「作法」は、正確さと効率性の他に、さらに重要な、自分が関わる人や物への敬意があるのです。それの無い「作法」は、ただの「マニュアル」に過ぎません。

 修行僧が食事の時に、あれほど厳格な作法を実施するのは、この食事に至るすべての人と食べ物の縁に、感謝と敬意を表するためです。それがあるから、「作法」はそれを見る者に美しさを感じさせるのです。正確さと効率だけでは美的にはなり得ません。

 けだし、業務の「マニュアル」と修行の「作法」の中間に位置するのが、「職人仕事」とか「職人芸」と呼ばれる行為でしょう。

 これは確かに業務ですから、正確さと効率は必要でしょうが、職人の仕事には、まず自らの仕事に対するプライドと、仕事の対象への明らかな敬意があります。だからこそ、彼らの振る舞いには、我々が「見ていて飽きない」美的な要素が、多く存在するのです。

「マニュアル」が文化になりにくく、「作法」と「職人仕事」は明らかに文化の範疇に入るのは、その根底に敬意があるかどうかです。

 

番外:『正法眼蔵』私流・第7回のお知らせ

2024年06月25日 | 日記
東京赤坂・豊川別院様での講義「『正法眼蔵』私流」第7回は、

 7月・8月は休講とし、9月13日午後6時より行います。

なお、誠に恐縮ですが、この回より、別院様の開場時刻を午後5時30分にさせていただきます。

その他の参加要領については、2024年1月18日付けの本ブログ記事をご覧ください。

止め時の難しさ

2024年06月01日 | 日記
 以前、知り合いのタクシードライバーと元警官が同じことを言っていました。

「人が運転を続けていれば、いつか高齢になり、その結果必ず事故を起こす。起こす前に自分で止めるか、人に言われて止められれば、それは立派だが、ほとんどそうはならない。何らかの事故を起こしてから止める。物損の事故ならまだしも、人身事故なら後悔しても追いつかない」

 つまり、多くの人は、軽重はともかく、何らかの事故を起こすまで、車の運転を止めないということです。私の知る限り、80過ぎても運転を続けていた人の多くは、事故を起こしてから、家族に反論の余地なく叱られて、運転を止めています。

 老朽原発の使用を延長するらしいですが、このまま使い続けていたら、いつか必ず事故が起きます(延長が60年で終わる保証はない)。政府と運営会社が自分で止めるか、世間に言われて止められれば、それは立派ですが、おそらくそうならないでしょう。つまり、何らかの事故を起こしてから、運転を止めるでしょう。

 しかし、その事故が、軽微で終わる保証はありません。もし、かの福島原発レベルの事故が起こったら、その責任は誰がとるのでしょうか。

 かつて私が修行した永平寺は、原発が集中立地する福井県にあります。いま私がいる恐山もまた、原子力施設が集まる青森県にあります。もし大規模な事故が起これば、800年近い歴史を持つ修行道場も、1200年続く霊場も、その姿が変わらぬまま、立ち枯れるがごとく滅亡することになります。これを許容することは、私にはできません。

 もう一度申し上げます。どのような機械も装置も、使い続けている限り、いつか必ず壊れ、事故を起こすのです。それは、人が老い、病み、死ぬのとまったく同じことです。