群馬県にある館林は城下町です。
江戸時代、五代将軍・徳川綱吉は将軍となる前に館林城主でした。「館林宰相」と呼ばれていたようです。
ちなみに、後に幕府で絶大な権勢を振るった柳沢吉保(六義園を作った人)は当時は館林藩士で、綱吉の小姓でした。
館林の城下に小さなお寺があります。
茂林寺(もりんじ)という禅寺です。
★ Rolleiflex 2.8F/Planar 80mm F2.8/RDP III門を入ると、両側にさまざまなタヌキの像がズラリと並んでいます。
室町時代の末期、諸国行脚をしていた正通という曹洞宗のお坊さんは、館林の地にやってきました。
そこで、小さな庵を結ぶのですが、後に、地元の領主からの帰依を受け、土地を寄進され、さらに寺の建物を建立してもらいました。
それが、この茂林寺です。
★ Rolleiflex 2.8F/Planar 80mm F2.8/RDP IIIこんなのもいます(^^)
ところで、このお寺には面白い話が伝わっています。
茂林寺を開いたお坊さん・正通は、館林へ来る途中、とある老僧と出会いました。名前を守鶴といいました。
二人で、新しい寺である茂林寺を一緒に守っておりました。
守鶴は、初代の住職である正通を始め、代々の住職に仕えていました。
★ Rolleiflex 2.8F/Planar 80mm F2.8/RDP III七代目の住職の時、寺では、たくさんの村人たちを招き、お茶でもてなすことになりました。
それだけ多くの人たちへお茶を入れるため、湯を沸かす大きな茶釜が必要になりました。
守鶴は、一夜のうちにどこからか一つの茶釜を手に入れ、寺へ持ってきたのだそうです。
さて、いよいよ当日、この茶釜でお湯を沸かし、次々にお湯を汲んでお茶を入れ始めました。
ところが不思議なことに、いくらお湯を汲んでも、茶釜の中にあるお湯は一向に減りません。
そこで、この茶釜のことを「福を分け与える茶釜」だと呼びました。
それからさらに年月を経て、十代目の住職の時です。
守鶴は熟睡している間に、手足に毛が生えている様や、大きなしっぽを出しているところを、住職に見つかってしまいました。守鶴は、実はタヌキ(狢=ムジナとも)だったのです。
本当の姿を見られた以上、もうここにはいられないと、守鶴は名残を惜しみながら、寺に集まった人々へ、芸を演じて見せたそうです。人気芝居の「源平盛衰記」だったとか。
そして、みんなが惜しむ中、どこかへ去っていってしまったということです。
守鶴が、初代の住職である正通に出会って、150年以上が経っていました。
「分福茶釜」と名付けられたその茶釜は、今もお寺に残っています。
★ Rolleiflex 2.8F/Planar 80mm F2.8/RDP IIIさてさて。
みなさんは、このお話、どこかで聞いたことがありませんか?(^^)
(タヌキが老僧ではなく、茶釜そのものに化けていたというお話に変わっていますが...)
そうなんです。
ここは、「分福茶釜(ぶんぶくちゃがま)」のお寺なんです(^^)
何回かに分けて、タヌキのお寺から早春の風景をお届けします♪
おまけ。
お時間のある方はこちら↓をどうぞ(^^)
(約10分ほどあります)